人を呪わば穴二つ 腹立たしい。明智十兵衛光秀は実に腹立たしい奴だ。
明智というのはついこの前まで幕臣だった男。それが織田家に仕えるようになったのだが、新参者だというのに昔から織田家に仕えている者たちを差し置いて織田家家臣の筆頭のような顔をしている。けしからんことである。
その明智のせいで今日も不快な思いをした。殿からの呼び出しを受けて参上してみれば仕事の進捗についてのお叱りで、その際に「明智十兵衛を見習え」と言われてしまったのだ。あの無礼な新参者を見習うなど屈辱でしかない。実に不愉快だ。
とりあえず謝罪をした上で殿の御前を辞したものの、この腹立たしさは収まらぬ。どうにかして解消したいものだ。
そのようなことを考えながら城内を歩いていると木下藤吉郎を見つけた。丁度良い。百姓上がりの木下であれば大人しく自分の話を聞くだろう。
少しだけ気分が上向きになるのを自覚しながらひょろひょろとした男を呼び止めた。
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「ほほう、殿は明智様の名前を出してお叱りになったと。まあ、明智様のご活躍は目を瞠るものがありますからなぁ。致し方ないかと。」
相槌と共に話を聞いていた木下はそのように申して「わはは」と大きな口を開けて笑った。相変わらず品のない男だ。
しかし、木下はまるで理解しておらぬ。明智など実績の乏しい田舎侍ではないか。明智の名など奴が足利義昭に仕えるまで聞いたこともなかった。無名も無名。殿が奴を重用なさるのは正室の帰蝶様に義理立てしておられるからであろう。
苛立ちを吐き出すように申せば木下が笑いながら眉をハの字にした。
「うーむ、某が聞いたところに依りますと明智様は亡き斎藤道三様からの信用が厚かったとか。殿や帰蝶様も昔から様々なことを相談されていたそうですから、実力者であるのは間違いないかと。」
その言葉に苛立ちが増す。明智を庇うようなことを申す木下はやはり愚か者だ。この愚か者が理解できるように説明してやらねばならぬ。
明智は斎藤親子の戦の際に圧倒的に不利である道三側に付き、勝利した義龍によって城を焼かれたという。つまり状況の見極めができぬ愚か者ということだ。
そして、美濃を追われた後に身を寄せた越前では朝倉家に仕官せず浪人として過ごしたらしい。朝倉義景は「明智は使えぬ男」との判断を下したのだろう。足利義昭が奴を召し抱えたのは義昭本人が無能だからであり、殿の場合は帰蝶様の血縁ということでの温情に違いない。結果を出せたのは偶然に決まっている。そうでなければ我ら家臣団を差し置いて城持ちになるなど有り得ぬ。
そのように懇切丁寧に説明してやると木下は呆けた顔をした。こんなにもわかりやすく説明してやったというのに頭に入らなかったのだろうか?これだから百姓上がりは困る。
木下は思案するように呻りながら顎を掻き、「しかしですなぁ」と話し始める。
「殿が足利義昭を将軍に押し上げるための道筋を付けたのは明智様ですから、それだけでも十分な実績だと某は思いまする。金ヶ崎でも叡山でも大層なご活躍であったと皆様も褒めておられますし。」
明智と木下の両名で事足りたのであれば金ヶ崎の引き口など大したことではなかったのだろう。明智か木下が「大変な役目だった」と大仰に言い触らしたのではないか?
その指摘に木下の顔から表情が消えた。そして奴の纏う気が鋭くなったように思えて心の臓が嫌な跳ね方をする。
しかし、奴はすぐに「これは手厳しい」と顔全体で笑った。
「それほどまで仰るということは明智様よりご自分の方が優れており、明智様よりも活躍できると考えていらっしゃるので?」
木下はそのように尋ねながら探るような眼差しを寄越した。この男の今のような眼差しが嫌いだ。それでも懐の深い自分は奴の問いに「無論だ」と答えてやった。
そうすると木下は満面の笑みで手を叩く。
「おお!なんと頼もしい!いやー、某も励まねばなりませんな!おっと、殿に呼ばれておるのでした。お叱りを受ける前に向かわねば。それでは失礼いたしまする。」
木下は歯を見せて笑うと足早に去っていった。
さて、一通り話したら腹立たしさも落ち着いた。帰って仕事を片付けねばならぬ。
だが、このところ機嫌の悪い妻と顔を合わせるのも嫌だ。二言目には「明智様のような良い殿方に嫁ぐことができた奥方様が羨ましい」と嫌味を申すのだから堪ったものではない。側室の一人も娶らぬ甲斐性なしのどこが良いのか。
ああ、やめた。どこかに寄り道して帰ろう──。
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なぜ。なぜ、こうなってしまったのだ。自分は何を間違えたのか。
無表情な殿を前にして冷や汗が止まらぬ己の体は凍りついたように動かない。その自分を全く気にする様子のない主君は扇子の先で地図の一点を示す。
「先日の集まりでも申したが、そろそろこの辺りの攻略に乗り出そうと思う。そなたに任せる。」
示された地図上の箇所を凝視しながら、先日の話し合いでの殿と明智の会話内容を思い出す。
『まずはここを攻めようと思うが、期間はどれくらい必要じゃ?十兵衛、そなたの考えを申せ。』
『この辺りは山に囲まれており、それなりの大きさの川もございます。地の利は相手方にあるかと。半年ほどは見るべきと存じまする。』
『ふむ……もそっと短期間では無理か?』
『通常よりも斥候の数を増やし、多くの情報を手に入れておく必要がございます。後は山間部での戦に慣れた武将や兵を集めて向かわせるのが良いでしょう。それらを踏まえても攻略に三月は必要と考えます。ただ、非常に難しいかと。』
殿の問いに答える明智の声が頭の中に響き、頬を伝う冷や汗が膝の上に置いた手に落ちる。それと同時に「そなたの軍だけで行け」という殿の声が聞こえた。
「他の者たちは己が担当する戦だけで手一杯じゃ。そなたであれば問題なかろう。」
驚くべき命令に「しかしながら!」と反論しようとした。だが、返される視線の冷たさに言葉を失う。
殿はこちらを真っ直ぐに見ながら口を開く。
「三月でやれ。三月で攻略せよ。できなければわしにも考えがある。」
短すぎる期限に反論の言葉さえ出てこない。
半年は必要だという戦をたった三月で終えるというのは無理だ。明智もそのように申していたではないか。しかも三月で攻略が終わらなければ……自分はどうなるのだろうか?
はくはくと口の開閉を繰り返した末に絞り出した言葉は「どうか、お許しを」という慈悲を乞う言葉だけだった。
しかし、殿は口の端を上げて笑うのみ。笑うといっても滲むのは怒りや侮蔑、そして殺気。優しさの欠片もない。その笑みの冷たさと恐ろしさに魂が震え上がるような心地がした。
殿は笑みを浮かべたまま「そなたであれば問題ない」と述べた。
「そなたは十兵衛よりも優れていて活躍できるのであろう?十兵衛を悪し様に申す余裕があるのだから励んでもらわねばな。期待しておるぞ。」
その瞬間に殿の目に浮かんだのは怒りの焔。殿は明智を散々に罵った自分に怒っておられるのだ。
今になって己の愚かさを呪う。妬みに心を支配されて撒き散らした呪詛は恐ろしい形で返ってきた。明智に対する嫉妬心を御さねばならなかったのに、愚かな自分はそれに振り回されたのだ。
今さら悔いたところで遅い。坂道で転がりだせば止めることはできない。そして向かう先には破滅が待つ。
ああ、自分はなんと愚かなのだろう。
──数ヶ月後、一人の武士がひっそりと表舞台から姿を消した。
終