道なき未知を拓く者たち⑫(最終話) ウッドベリーとの決戦を終えてから二ヶ月。新たな仲間を迎えた刑務所はようやく落ち着き始めていた。
この二ヶ月間はやるべきことが数え切れないほどにあり、とにかく慌ただしい日々が続いた。まずウッドベリーから物資や家財道具、資材などあらゆる物を刑務所へ移動させる作業に一週間を要した。運んできた荷物を仕分けて収納する作業は大勢で行っても数日掛かりだった。刑務所内の環境整備と同時にグラウンドを畑に変える作業も進行させなければならず、誰もが早朝から日没まで働き詰めだった。
救いだったのはウッドベリーから来た者たちが積極的に働いてくれたことだ。年老いていたり障害があるために体が不自由であっても自分にできる精一杯で作業を行い、年長の子どもたちは年少の子どもたちの面倒を見てくれていた。「支え合って生きていく」という思いが全員の心に宿っているおかげだろう。
そして、刑務所の基盤を整える作業期間中も仲間は少しずつ増えていった。ウッドベリーとの往復や調達に出た先で放浪中の生存者に遭遇すると質問を重ねて相手の人間性を確認し、仲間に迎え入れても問題ないと判断すれば刑務所に連れて帰った。安住の地を得られた新たな仲間も張り切って作業に加わってくれるので助かっている。
誰もが必死に働くうちに二ヶ月が経過し、一通りの作業は終了した。今は日常の作業が中心となっており、刑務所を発展させるための作業については今のところは計画を練る段階だ。人数が増えたことにより様々な知識を持つ者が集まったのは思わぬ副産物だった。
生活の基盤が整い、ある程度の余裕が出てきた今、リックは仲間たちに重大な話を持ちかける。
「俺はリーダーを降りようと思う。」
刑務所で暮らす者全員が集まる場で、リックは落ち着いた口調でそのように切り出した。リックがリーダーを辞めるということを全く考えていなかったのか、誰もが驚愕や困惑を顔に浮かべている。不安を覗かせる者もいた。
リックは「とりあえず話を聞いてくれ」と微笑む。
「ここで暮らす人数は随分と多くなった。それなら一人だけで物事を決めるべきじゃない。みんなで話し合って運営していく方が良い。委員会を組織して、その委員たちが話し合って刑務所の運営について決めていくのはどうだろう?」
リックがそのように提案するとハーシェルが意見を述べるために挙手する。
「良い案だと思うが、委員はどうやって決めるんだ?」
「選挙ができればいいんだが、空白期間が長くなるのは良くない。悪いが、リーダーとしての最後の仕事ということで今回だけ俺が指名させてもらう。」
リックはハーシェルの質問に回答してから全員の顔を見る。
「これだけの人数は俺一人だけじゃ目が行き届かない。そうなると正しい判断ができるとは思えない。誤った判断はみんなの生死を左右する。だから委員会という形を取って運営していくべきなんだ。どうか理解してほしい。」
その訴えに異論は出なかった。責任を放棄したいわけではないと伝わったようだ。
リックの考えを聞いて「なるほどな」と頷いたハーシェルは仲間たちの顔をゆっくりと見回してからこちらに顔を向けた。
「委員会での話し合いによって運営するのが良いという意見に賛成する。リック、君の提案を受け入れよう。みんなも納得したようだしな。」
そう言ってハーシェルは微笑する。そのハーシェルと同じように皆も笑みを浮かべて頷いた。リックの考えを理解して、提案を受け入れてくれたのだ。
リックは皆の笑みを見て安堵の息を吐いた。そして、緩めた表情を引き締め直すと委員に指名する者の名前を挙げ始める。
「それじゃあ、委員の候補を発表させてもらう。委員を頼みたいのはハーシェル、ニーガン、キャロル、シェーン、グレン、アンドレア、サシャの七人だ。無理にとは言わない。不都合があれば辞退してくれ。」
そのように言うと、シェーンが「俺は辞退する」と申し出た。彼はこちらを真っ直ぐに見つめながら理由を述べる。
「リックが言ったメンバーだと元ウッドベリー側の人間が少なくてバランスが悪いと思う。俺じゃなくて元々はウッドベリーにいたダリルを入れた方が良い。ああ、メルルは絶対にやめておけよ。」
シェーンは最後の一言を言う時にメルルを見てニヤリと笑った。それを受けてメルルが大げさに顔をしかめる様が妙に面白く、小さな笑い声が至るところで響く。
リックは笑みを浮かべながらダリルを見て「どうだ?」と問いかけた。ダリルは突然の指名に困惑したように眉を下げていたが、リックに視線を返して頷く。
「俺に委員なんてもんが務まるかわからねぇが、やってみる。」
「ダリルなら大丈夫だ。他に意見はないか?」
その呼びかけにアンドレアが「質問させて」と手を上げる。
「リックは委員になるつもりはないの?私はあなたにも参加してほしい。みんなも同じ気持ちだと思う。」
アンドレアの言葉に他の仲間たちも頷いた。今まで先頭に立って皆を引っ張ってきたリックにも委員会に参加してほしいと望む気持ちは当然のものだろう。それは理解できるが、リックには参加する気が全くなかった。
「気持ちは嬉しいが、俺は参加する気がない。むしろ参加しない方が良いだろう。」
「なぜ?運営について話すならリーダーの経験があるリックの意見も聞きたい。」
食い下がるアンドレアにリックは「それはだめだ」と首を横に振る。
「俺が委員会に参加したら、みんなは俺の意見に引きずられるだろう。どうしたって元リーダーという影響は残るから。それでは意味がないんだ。だから参加しない。」
拒否する理由をはっきりと述べればアンドレアが「わかった」と言って肩を小さく竦めた。
「それを言われると受け入れるしかないわね。でも、必要だと判断した時には参加してもらえない?相談役という形で関わってほしい。お願い。」
懇願するアンドレアを援護するようにグレンが「リック、頼むよ」と声を上げた。
「今までリックに頼ってきた俺たちに頼む資格はないのかもしれないけど、俺たちにはリックが必要なんだ。相談役を引き受けてくれ。頼り過ぎないように頑張るから。」
切実な響きを伴うグレンの言葉にリックの心が揺れる。頑なに拒むのが良いこととは思えない。だが、相談役を引き受けて本当に良いのだろうか?
すぐに答えを返せずにいるとカールから「父さん」と呼びかけられる。
「みんななら大丈夫だよ。ずっと父さんの姿を見てきたから大丈夫。しっかりやれる。だから相談役を引き受けて。それだけでみんなは安心するんだ。」
堂々と自分の意見を述べたカールにリックは目を丸くした。どこか大人びて見える我が子の成長に驚かずにいられない。
リーダーとして忙しくしていたせいで父親らしいことはなかなかしてやれなかったが、カールはリックの見ていないところで成長していたのだ。父親としては罪悪感と寂しさを感じるが、彼が様々な経験を通して成長してくれたことはとても誇らしい。
リックはカールに対して頷いてからアンドレアとグレンに視線を向ける。
「わかった。相談役を引き受ける。俺の意見が必要な時は言ってくれ。」
リックの回答にアンドレアとグレンが安堵の笑みを浮かべた。それは他の者たちも同じだ。
これで全てが決まり、委員会は動き出すことができる。それと同時にリックのリーダーとしての役目も終わる。
リックは新たな始まりを嬉しく思い、安堵と共に微笑んだ。
*****
「リーダーを降りれば時間にゆとりを持つことができる」と考えていたリックは己の考えを甘いと認めざるを得なかった。思っていたよりもやるべきことは多く、忙しい日々が待っていたのだ。
リックはハーシェルの勧めを受けて畑の運営を担当するようになり、農作業に日中の大半を費やしている。家庭菜園やガーデニングの経験が皆無のリックにはハーシェルの指導があっても農作業は大変だった。
まず、種を蒔く前の準備作業としての土作りは簡単ではない。土の種類を確認して育てる野菜を決め、肥料となるものを土に混ぜるなどの作業は素人には難しかった。一つの畑で種蒔きまでを終えても次の畑に取り掛からなければならず、予定の数を完了させるには一週間以上の日数を必要とした。
その間にも種蒔きを終えた畑の世話をしなければならない。水やりや雑草取りなどの基本的な作業に加えて野菜に合わせた手入れが欠かせないため、畑を拡大するほどに農作業に費やす時間は増えていく。
しかし、畑だけでは食料供給は安定しない。家畜を飼って安定して食料を確保することも必要だ。それにより家畜小屋の建設も行うことになったため、家畜の世話も担当することになったリックはそちらの作業も進めていかなければならなかった。
刑務所の住人が増えたとはいえ生活を維持するための仕事は多く、全ての仕事に人数が足りていない。炊事、洗濯、掃除、調達、狩り、見張り、修繕など、その他にも細々とした仕事がたくさんある。皆が掛け持ちをすることにより辛うじて回している状態だ。
そのような忙しい状況でもリックは子どもたちの世話を疎かにしたくなかった。母のいない寂しさを少しでも和らげるため、仲間たちの助けを得ながら自分にできる精一杯で我が子二人の面倒を見て愛情を注いだ。
このように仕事や子育てに追われる慌ただしい日々の中、ふとした瞬間に思い出すのはニーガンのこと。二ヶ月の間、リックはニーガンとゆっくり話をする機会を持てずにいたのだ。
委員の一人でもあるニーガンはとにかく忙しい。頼りがいのある男は新しい住人たちからも頼りにされており、皆から頼まれごとや手助けを求められて飛び回っている。調達の主力メンバーなので外に出る機会も多かった。互いに忙しければ話をする機会が激減するのは自然な流れだろう。朝または就寝の挨拶だけで終わる日が少なくない現状を寂しく感じる度に溜め息が漏れる。
話す機会が少ないことの寂しさも問題だが、リックが気がかりに思っているのはニーガンとの関係の曖昧さだ。決戦直前に想いを伝え合ったものの、それ以降は二人の関係についての話を一度もしていない。恋人という関係になったかどうか曖昧なまま来てしまった。
リック自身はニーガンを愛しているが、ニーガンの気持ちはわからない。命懸けの戦いの前ということでリックへの想いを恋愛感情だと思い込んだ可能性は否定できないだろう。
ニーガンとゆっくり話がしたい。この曖昧な関係を放置せず、はっきりさせたい。
リックが焦燥感にも似た思いに悩まされ始めた頃、ようやくニーガンと話をする機会に恵まれることとなる。
調達の人員が足りないということでリックは久しぶりに調達に出かけた。畑の方はカールや他の子どもたちがハーシェルの手伝いを申し出てくれたので問題ないだろう。ジュディスは祖父母代わりの老人たちに囲まれてご機嫌にしていた。今日一日はリックが外出しても問題ない。
そして、今日の調達の相棒はニーガンだ。二人だけで出かけるのは本当に久しぶりなので妙にソワソワしてしまう。
リックが落ち着かない気持ちを隠しながら運転していると、助手席のニーガンが「本当に久しぶりだよな」と楽しげに笑った。
「俺たち二人で調達に行くなんていつ以来だ?かなり前のことだよな。」
「確か、刑務所に着く前だろう。刑務所に物資がたくさんあったおかげで調達に出かける回数が少なくて済んだから。」
「事件続きでそれどころじゃなかったしな。本当に久しぶりだぜ。」
どこかはしゃいだ様子のニーガンにチラッと視線を向けて、リックは小さく笑みを浮かべる。
「不思議と懐かしいよ。二人で旅をしていた頃を思い出す。」
リックがそのように話すとニーガンが同意を示して頷いた。
「俺もだ。大変なことばかりだったが、お前と一緒だと楽しかった。」
「ああ。振り返ってみると楽しい時間だった。ニーガン、馬に出会ったことを覚えてるか?あの馬、どうしてると思う?」
「覚えてるに決まってるだろ。あいつは根性があるから追いかけてくるウォーカーを置き去りにして走り回ってるさ。」
「ああ、そうだといいな。」
そこで会話が途切れ、車内は静寂に包まれる。
前方を見つめながらもリックの意識はニーガンに向いていた。自分たちの関係について確認したいという気持ちが膨れ上がっていくのを感じる。
しかし、臆病な自分が「もし彼の自分への気持ちが勘違いだったら?」と囁くせいで口を開くことができない。ニーガンから「期待させて悪かった」と謝られでもしたら落ち込むのは確実だ。調達を続けられなくなる。リックは喉元まで出かかった言葉を飲み込んで運転を続けた。
話を切り出せないまま時間だけが流れ、事前に地図で位置を確認しておいたガソリンスタンドに到着した。車を停めてから外に出て辺りの様子を窺うが、今のところウォーカーの姿は見当たらない。
とりあえずの安全確認が済んだのでリックはガソリンスタンドの敷地内に建つ売店のドアを叩いてウォーカーが中にいないか確認する。その間にニーガンが給油機の中身を調べていたのだが、「やっぱり空か」とぼやくニーガンの声が聞こえてきた。
そして、売店のドアの傍で待機するリックのところへニーガンが苦笑と共に近づいてくる。
「ガソリンについては収穫なしだ。他の連中が漁った後だろ。店の方も期待できそうにないな。」
苦い顔をするニーガンにリックは苦笑を返す。
「仕方ないさ。取りこぼしが残っていることを祈ろう。……ウォーカーはいないみたいだ。入ろう。」
リックは拳銃を構えて慎重に店の中へ足を踏み入れた。静かな店内には二人分の足音だけが響く。
狭い店内に並ぶ棚には値札や空になったケースが散乱しているだけで目ぼしいものは見当たらなかった。リックはニーガンと顔を見合わせて小さく苦笑した後、店の奥の従業員控室に入る。そこも荒らされた形跡があったが、清掃道具などの備品や従業員の私物が少し残っていた。
リックは持参したリュックサックを床に下ろしてからニーガンを見る。
「俺は店内を探すから、あんたは外を頼む。よく探せば何かあるかもしれない。」
「ああ、任せとけ。」
「ここが済んだら俺も外を探索する。じゃあ、よろしく。」
ニーガンは一つ頷いて部屋を出ていった。それを見送ってから室内の物色を始める。
リックは使えそうなものを吟味してリュックサックの中に詰めながらニーガンについて考える。ニーガンとゆっくり話す時間を持つことができたのは久しぶりだが、彼の態度は以前と変わらないように思えた。まるで想いを伝え合ったことがなかったかのようなニーガンの態度に落ち込まずにいられない。
「……あの告白をなかったことにしたいのかもしれない。」
頭を過ぎる嫌な結論に溜め息が漏れた。
吊り橋効果という言葉があるように、過酷で危険な状況の中で二人旅をしたからニーガンはリックに恋をした可能性がある。それが状況の変化により熱が冷めたとしても責めることはできない。
こうして一人で考え込んでも仕方ない。本人に確かめるしかないのだ。だが、それを理解していてもニーガンの本心を確かめるのが怖い。「お前に恋愛感情を抱いていない」と言われて傷つくのが怖かった。
リックは途方に暮れて、額に掌を押し当てる。
「だめだな。恋ってものは人を臆病にさせる。」
リックが臆病な自身に対して溜め息を吐いた時、屋外から硬いものを殴るような音が聞こえてきた。ガンッという音が繰り返されることに驚き、リックは拳銃とリュックサックを掴んで慌てて外へ向かう。
「ニーガン!」
名前を呼びながら外へ飛び出したリックは目に見える範囲にニーガンの姿がないことに不安を抱く。何かあったのだろうか?
リックが再びニーガンの名を呼ぼうとしたところへ「リック、こっちだ」と言うニーガンの声が響いた。売店の裏側からのようだ。
急いで建物の裏へ回ると、扉の開いた自動販売機の前で得意げな笑みを浮かべるニーガンを見つけた。ニーガンはこちらに顔を向けて「大当たりだぞ」と笑顔を見せる。その様子にリックはホッと胸を撫で下ろしながら近づいていく。
「建物の裏に自販機があったのか。これは見落としがちだな。」
「だろ?中身はぎっちり詰まってるから大収穫だ。」
ニーガンは「ほら」と言って自動販売機の中を指差す。中に収められていたのは数種類の缶ジュースだ。子どもたちが喜ぶのはもちろん、今の世界では栄養を補うのに役に立つ。病人が出た時に飲ませてもいいだろう。
自動販売機を確認したリックは扉に傷が付いていることや近くに転がるバールの存在に気づく。それにより自動販売機の扉がどうやって開けられたのかを察した。
「バールを使って開けたんだな。」
リックがそのように言うとニーガンは「そうだ」と頷いた。
「殴れば出てくるかと思ったんだが、そんなに単純にはいかなかった。力づくでこじ開けたから手が痛い。」
両手を振りながら顔をしかめるニーガンを見てリックはクスッと小さく笑った。そして、自動販売機の中から缶ジュースを一本取り出してニーガンに差し出す。
「功労者を労わないとな。一本飲んでいくといい。みんなには黙っておく。」
リックの言葉にニーガンは一瞬目を丸くして、すぐに笑顔全開になった。
「そいつは光栄だな。じゃあ、遠慮なく貰うぜ。」
ニーガンはリックの手から缶を取って勢い良く飲み始めた。ゴクゴクと喉を鳴らしながら飲む姿にリックは目を細める。
「美味そうに飲むよな。」
リックが思わず感想を漏らすと、ニーガンは口から缶を離してこちらを見た。その目が何か思案するように細められたことにリックは首を傾げる。
ニーガンは特に何も言わずに再び缶を口に付けたが、先ほどまでのように一気に喉に流し込むのではなく口に含んだようだ。そして次の瞬間、ニーガンは缶を地面に落としてから腕をこちらに向かって伸ばした。缶が地面にぶつかる甲高い音が響くと同時にリックはニーガンに抱き寄せられる。
リックが突然のことに驚く暇もなく唇を重ねられた。思わず開いた口に甘いジュースが流れ込んでくる。
「──んっ……う、っ、ん……!」
ジュースが注ぎ込まれた後は生温かい舌が滑り込んできた。リックの口の中の甘さを全て拭うかのような舌の動きに翻弄されて体から力が抜ける。
息苦しさを感じるほどのキスから解放された時、リックは自分がニーガンに寄りかかっていることに気づいて恥ずかしくなった。
真っ直ぐに見下ろしてくるニーガンに耐えきれず地面に転がる缶に視線を落としたものの、ニーガンから「こら」と咎められて顎を指ですくわれる。
「目を逸らすな。」
「いや、そう言われても……。ニーガン、今のキスは……何だ?」
躊躇いながら尋ねてみれば真摯な眼差しが返ってきた。
「俺たちは今みたいなキスをしても許される関係だと思ってるんだが、違うのか?」
その言葉にリックは目を瞠る。湧き上がる期待に鼓動が速くなるのを感じた。
ニーガンは短く溜め息を吐いてから話し始める。
「最近はじっくり話す時間が持てなかったよな。そのせいで関係が曖昧なまま来ちまって……もしかしたらお前が『あの時の気持ちは勘違いだった』と思ってるんじゃないかって気が気じゃなかった。俺のことなんて頭になさそうだったしな、リック。」
その言葉から拗ねた気配を感じたリックは更に目を大きく見開く。まさかニーガンがそのように考えているとは欠片も思わなかった。
驚くリックの唇をニーガンの親指が撫でる。ニーガンはリックの唇を撫でながら「ずっと確かめたかった」と吐露した。
「お前の気持ちはどうなのか。あの時から変わってないのか。俺を今でも愛してるのか。」
ニーガンは切なげに囁きながら額を触れ合わせてきた。
「俺の気持ちは戦いの前と変わっちゃいない。リックを愛してる。誰にも渡したくない。お前はどうだ?」
真剣な眼差しと共に与えられた言葉に胸を射抜かれた気がする。胸が苦しくて息ができなくなりそうだ。だが、それは幸福から生まれた苦しみだと知っている。
リックは目が潤むのを自覚しながら微笑んだ。
「俺だって変わっていない。ニーガンを愛してる。……だから不安だった。ニーガンの俺への想いは一時的なものだったのかもしれないと思ったら怖くて、確かめたくても確かめられずにいたんだ。」
続けて「同じ気持ちで良かった」と本音を零すリックにニーガンは優しく笑いかけてくれる。
「変わるわけないだろ?……いや、変わったといえば変わったな。前よりももっと惚れてる自信がある。」
ニーガンはそう言って唇を触れ合わせてきた。これからはこの行為が二人にとって当たり前のものになるのだと思うととても嬉しい。
「ニーガン、愛してる。ずっと一緒に生きていきたい。心からそう思っている。だから、これからは恋人として傍にいてほしい。」
リックの唇はニーガンへの想いをスルスルと口にした。ずっと伝えたかった言葉なので自然に出てきたのだろう。
リックの告白にニーガンは笑顔で頷いてくれた。
「今のは俺が一番欲しかった言葉だ。嫌がったって絶対に放さないからな。お前とずっと一緒にいる。お前は俺のもので、俺もお前のものだ。」
ニーガンの声が熱を帯びていることに気づき、思わずリックは笑みを零した。寄せられる愛情も向けられる執着も、ニーガンから与えられる全てが嬉しくて愛おしい。
リックは両腕をニーガンの胴に回して彼の肩口に頬を押し付けた。じんわりと伝わってくる温もりに安心感を得る。この温もりに何度も救われてきた。
リックが引っ付いたままでいるとニーガンの手が背中を優しく撫でた。優しい手つきにリックはこの上ない幸せに包まれ、そのフワフワとした気分のままに言葉を紡ぐ。
「あんたに出会えたことは本当に幸運だった。あの病院で俺を見つけてくれたのがニーガンで良かった。俺を見つけてくれてありがとう。」
何かが違えば病院でのリックとニーガンの出会いはなかっただろう。すれ違ったまま出会わずに終わったかもしれず、あるいは敵同士として対峙する道があったかもしれない。幸運な偶然の積み重ねが二人を結びつけたのだ。
リックの心からの言葉にニーガンが「感謝してるのは俺の方さ」と笑う。それに反応して顔を上げれば、ニーガンの幸せそうな笑みが目の前にあった。
「俺にはお前が俺を待っててくれたように思える。『俺を待っててくれてありがとう』なんて言いたいくらいだ。」
「もしかしたらそうかもしれない。だから数ヶ月も眠っていたのかもな。」
そのリックの返しを受けてニーガンの目が愛おしげに細められる。
「そうだったなら俺は運命って奴を信じるぜ。俺とリックの運命をな。」
その言葉にリックは目を瞠る。
リックとニーガンが出会ったことは運命。共に戦い、生き抜いたのも運命。惹かれ合って互いの愛を手繰り寄せたのも運命。それならば、これから先の人生を共に生きていくことも──運命だ。
リックは「俺も信じる」と答えて己の唇をニーガンのそれに近づける。
「俺たちが一緒に人生を歩んでいくことも、きっと運命だ。そうだろう、ニーガン?」
その問いに対する答えは言葉では返ってこなかった。優しく重ねられた唇がニーガンの答えだ。
──刑務所がウッドベリーの住人たちを受け入れてから四度目の春を迎えた頃。
季節が変わったばかりの畑は忙しい。収穫時期を迎えた野菜や果物を収穫して新しい苗を植え、それから種をまいて次の収穫に向けての準備を行う。やるべきことは多い。
リックはそれらの作業を朝からずっと続けていた。春の暖かな日差しの下で体を動かしていると汗ばんでくるため、額に滲む汗をシャツの袖で拭う。その時、「ゲートを開けるぞ!」という仲間の声が聞こえてきた。食料調達として狩りに出ていた仲間が戻ってきたのだろう。
ゲートの方に顔を向けるリックに「行ってきたらいい」と声をかけたのは共に畑仕事を行っているモーガンだ。
「ニーガンを迎えに行きたいんだろ?もう少しで終わるからこっちは大丈夫だ。行ってくるといい。」
そう言って穏やかに笑うモーガンにリックは「だがな……」と眉尻を下げる。
「まだ家畜の餌やりが残ってる。ニーガンには後で会えるから大丈夫だ。」
リックがそのように言えば、モーガンはゆるゆると頭を振った。
「大した作業じゃない。リックが抜けても二人でやれば早く終わるさ。なあ、デュエイン。」
モーガンは近くで雑草を抜いていた息子を振り返って声をかけた。それに応えてデュエインが頷く。
「父さんの言う通り。僕たちがやっておくからリックさんは行きなよ。ニーガンさんを出迎えに行きたくてソワソワしてるじゃないか。」
苦笑交じりに言われた内容にリックは狼狽えた。そんなにも態度に出ているのだろうか?
リックは気恥ずかしさを感じながらも二人の厚意に甘えることに決めて、作業用の手袋を外した。
「せっかくだからお言葉に甘えさせてもらうよ。二人とも、ありがとう。」
リックの言葉にモーガンとデュエインは笑顔で頷いて「早く行け」と送り出してくれた。
リックはゲートに向かって歩きながら、その途中で後方を振り返ってみる。モーガンとデュエインは何やら楽しそうに言葉を交わしながら作業を続けていた。その親子の姿に笑みを浮かべずにいられない。
モーガンたちが刑務所に来たのは一年ほど前のことだ。二人とも当てのない旅に疲れた様子ではあったが、リックとニーガンとの再会を喜んでくれた。その時の彼らの笑顔を昨日のことのように思い出せる。再会が難しい世界で再び会えたことは本当に幸運だ。
リックが仲睦まじい親子から視線を外して前方に戻すと、ゲートの辺りには仲間の帰還を聞きつけた者たちの集まる姿が見えた。刑務所の外に出ることが命懸けなのは今も変わらず、仲間の無事の帰還は何よりも喜ばしい。だから大勢が出迎えるのだ。
リックがゲートに到着した時には外から帰ってきた者たちは既に敷地内に入っており、仲間たちの出迎えを受けていた。皆から労いの言葉をかけられるのは人間だけではない。人間と荷物を運んできた馬もその対象だ。移動手段を車から馬へ徐々に切り替えてきたおかげで移動手段に不安はないと言える。
リックは仲間たちの陰りのない笑みを見て狩りに出た全員が無事に戻ってきたのだと悟り、安堵の笑みを浮かべた。そこへ「リック!」と呼ぶニーガンの大きな声が飛んできた。
「リック!ダーリン!お前のニーガンが帰ってきたぞ!」
笑顔全開のニーガンとの距離は彼が大股で歩くことにより縮まるのが早い。リックが「無事に帰ってきてくれて良かった」と言い終わる前に勢い良く抱きしめられて言葉が途切れた。
ニーガンはリックの顔にキスの雨を降らしながらマシンガンのように言葉を繰り出す。
「今日は見送りがなかったから寂しかったぜ、リック。ああ、責めてるわけじゃない。お前が忙しいのはよく知ってる。だがな、リック不足で死にかけた!補充しないと干からびちまう!もうちょっとだけお前を補充させてくれよ。」
ニーガンの勢いを止められないリックは熱烈な愛情表現を受け入れるしかなかった。周りの仲間たちが「またやってるよ」と苦笑する姿が視界の片隅に映るものの、今のリックにはどうすることもできない。
リックとニーガンが自分たちの交際を仲間たちに告げた当初は「女好きのニーガンで大丈夫か?」とほとんどの仲間から心配されたものだ。普段から異性との距離が近く、思わせぶりな言動の多いニーガンを見ていれば「誠実な人柄のリックの恋人としていかがなものか?」と皆が不安視するのは無理もないだろう。
多くの仲間が心配する中、シェーンとメルルは「ニーガンはリックにべた惚れだから心配いらない」と話していた。その言葉を他の者たちは疑っていたのだが、一ヶ月も経たないうちに二人の言葉が正しいと悟ったという。それほどにニーガンのリックに対する愛情は熱烈だった。
リックがニーガンからのキスを受け入れていると、ニーガンの肩越しに見知らぬ顔を見つけた。そこに立っていたのは年齢が三十前後の男女二人。二人はニーガンたちが狩りの最中に出会った生存者で、仲間に加えるために連れてきたのだろう。その二人の顔には驚きの色が浮かんでいる。それがニーガンのせいなのは疑いようのない事実だ。
リックは「ちょっと待て!」とニーガンの頬を両手で挟んでキスを止めた。
「キスよりも新しい仲間を紹介するのが先だろう。早く紹介してくれ。」
「キスは大事だろうが。まあ、いい。」
ニーガンは不満げに唇を尖らせたが、すぐに普段通りの笑みを浮かべて「こっちへ来い」と新顔二人を手招きした。
「ドワイトとシェリーだ。夫婦二人で旅をしてきたらしい。」
紹介された二人は無言で頷くだけだった。どちらも警戒と不安を顔に浮かべている。リックは握手を求めて二人に手を差し出した。
「俺はリックだ。よろしく。」
リックが差し出した手をドワイトが「こちらこそ」と握り返し、その次はシェリーが「よろしく」と握手をした。リックは探るように自分を見る新顔二人を見つめ返しながら言葉をかける。
「不安は多いだろうが、少しずつ慣れていけばいい。ここで暮らしているのは気の良い人たちばかりだから困っていたら誰かが助けてくれる。もちろん、俺やニーガンを頼ってくれてもいい。」
そのように言えばドワイトとシェリーが微かに笑みを見せた。
リックがドワイトとシェリーとの挨拶を済ませるとニーガンに肩を叩かれる。
「リック、こいつらの案内を頼めるか?俺は狩りの後片づけをしなきゃならない。」
「ああ、任せてくれ。」
「助かる。じゃあ、後でな。」
ニーガンはリックに向けて投げキスをしながら去っていった。それを見届けてから新入りの二人に向き直るとシェリーが微笑ましげに笑っていた。
「かなり熱烈ね。付き合い始めたばかり?」
新しく来た人間にニーガンとのことをそのように言われると妙に照れてしまう。リックは頬を掻きながら質問に答える。
「いや、そんなことはないんだ。付き合い始めてそれなりの長さになる。ニーガンはスキンシップが好きな奴で……」
「スキンシップは大切だから良いと思う。羨ましいくらい。」
シェリーはそう言って隣の夫にいたずらっぽく笑いかける。ドワイトは狼狽えたように「おい」と抗議の声を上げた。その様子にリックは小さく笑みを零す。
「君たちも仲が良いみたいで何よりだが、そろそろ移動しよう。新しく来た人間には委員の面接を受けてもらうことになっている。案内しよう。」
リックの説明にドワイトが「委員?」と訝しげに問いかけてきた。
「委員会という組織があって、住人の代表として七人の委員を選出しているんだ。その委員会がコミュニティの運営方針や規則を決めている。小さな政府みたいなものだと考えてくれたらいい。」
「リーダー一人で決めてるわけじゃないんだな。」
「ああ、そうだ。これだけの人数がいると一人で全体を把握するのは難しいからな。代表者たちに話し合って決めてもらう方が良いと考えたんだ。今のところは問題なく運営できているよ。」
委員会についての説明にドワイトとシェリーは納得したように頷いたが、不安が見え隠れしているように見える。恐らく面接というのが気になっているのだろう。
リックは二人に「心配しなくていい」と穏やかに声をかける。
「面接といっても採用試験じゃない。持病や障害があるかということや仕事の希望を聞かせてもらいたい。人柄についても把握したいしな。君たちをサポートする最適な方法を考えるためにも必要なことだから構えずに受けてくれ。」
リックの説明を聞き、ドワイトは表情を緩めた。シェリーも「よかった」と安堵の笑みを見せる。
二人の不安を解消できたところでリックは「さあ、行こう」と促して歩き出す。目指すは委員会の執務室だ。日中は委員が最低一人は常駐することになっているため誰かがいるだろう。
リックは執務室を目指して歩きながらも敢えて遠回りをしてドワイトとシェリーに刑務所の中を見せて回った。刑務所の設備や雰囲気を知ってもらうことは今後の生活に役立ち、一人でも多くの住人に紹介しておけば馴染みやすくなる。立ち寄った先々で出会った人々が温かく迎えてくれたので二人の緊張も少し解れたようだ。
その後、刑務所内の半分ほどを案内したところで執務室に到着した。ドアノブに下げられているプレートは「在室中」となっており、ドアをノックすると「入ってくれ」というハーシェルの声が聞こえてきた。リックはその声に従ってドアを開ける。
「ハーシェル、ニーガンたちが新しい仲間を連れてきた。面接を頼んでもいいか?」
リックがそのように尋ねるとハーシェルは「もちろんだ」と頷き、テーブルの上に広げていた地図を折りたたみ始めた。
「その地図は刑務所の周辺のものだろう?新しい農園の場所を考えていたのか?」
リックがそのように尋ねれば「そうだ」という答えが返ってくる。
「農業に適した土壌選びは重要だが、安全を最優先しなければならないから難しい。いくつか候補を考えて委員以外のみんなにも意見を聞こうと思う。全員というわけにはいかないが。」
「それなら調達と狩りの担当に聞いてみるべきだろうな。どの辺りが安全なのか理解していると思う。」
「確かにそうだな。そうしよう。」
ハーシェルとの話が終わり、リックは連れてきた二人を振り返る。
「待たせてすまない。新しい農園を作る計画を立てているんだ。それが気になって、つい話をしてしまった。」
リックの謝罪に二人は「気にしなくていい」と言ってくれた。
リックが脇へ退いてドワイトとシェリーが部屋の中に入ると、ハーシェルは二人を見て柔らかく微笑む。
「私はハーシェルだ。一応、委員なんてものをやっている。……大変な旅をしてきただろう。私も経験しているから当てのない旅の辛さは理解できる。これからはここが君たちの家だ。自分には帰ってくる場所があるのだと安心していい。」
ハーシェルの思いやりに満ちた言葉が二人の心を優しく包み、シェリーは緊張の糸が切れたかのように泣き出した。その彼女の肩を抱き寄せるドワイトの目にも光るものがあった。
ハーシェルは二人を優しく見つめながら「椅子に座りなさい」と声をかけた。
「椅子に座って、落ち着くまで泣くといい。話はそれからにしよう。」
その提案に二人は揃って頷き、椅子に腰を下ろした。座ってからもシェリーは泣き続けており、ドワイトは慰めるように彼女の手を握る。リックは椅子に座った二人の肩に手を置いて微笑みかけた。
「俺は部屋の外で待ってる。話が終わったら案内の続きをしよう。また後でな。」
そのように告げて二人から手を離し、ハーシェルに向かって頷いてから部屋を後にする。廊下に出てドアを閉めると壁に背中を預けて面接が終わるのを待つ。
新たな住人を連れてくる機会は年を追うごとに少なくなっている。時間が経てば経つほど放浪者の生存率が下がるという証拠だ。その要因として考えられることは主に二つある。
一つ目は食料の入手が難しくなっていること。崩壊前の世界の遺産である加工食品や保存食は生存者が漁り尽くしたため、今では滅多に手に入らない。定住して野菜を栽培するなどの安定的に食料を得られる手段を持たなければ飢えに悩まされる。
二つ目は肉体の衰弱だろう。旅の最中はしっかりした休息を取ることが難しい。常にウォーカーや他の生存者からの襲撃を気にしなければならないため気が休まらず、十分に眠ることができなければ慢性的な睡眠不足に陥ってもおかしくない。疲れや栄養不足から免疫力が低下して病気に罹りやすくなる者も多いはず。肉体が弱れば様々な死の要因に繋がっていく。
果たして今の世界で生き残っている者がどれだけいるのだろうか?数千人どころか数百人しかいないかもしれない。それほどに今の世界は過酷だ。そのため新たな住人は宝と言っても過言ではない。
ドワイトとシェリーには刑務所の住人たちに馴染んで穏やかに暮らしてもらいたいと心から願う。過酷な世界で生きていれば必ず心に傷を負う。それを少しずつ癒やして幸せになってほしい。リックや他の皆と同じように晴れやかに笑えるような日が、二人にもいつかきっと。
執務室から漏れ聞こえてくる声に耳を澄ましながら、リックはそんなことを思った。
日中の慌ただしさから解放される夜の時間。刑務所で暮らす皆は寝る前のひと時を自由に過ごしている。
その穏やかな時間のリックの過ごし方はジュディスが眠りにつくまでおとぎ話を語って聞かせることだ。毎日の習慣は親子の大切な交流の時間となっている。
昼間は友だちと遊び回ったり大人たちの手伝いをして過ごすジュディスが最後まで話を聞いていられたことは一度もない。リックは今夜も話の途中で寝息を立て始めた愛娘の寝顔を見下ろして穏やかに微笑む。今日も我が子が楽しい一日を過ごした事実が嬉しい。
「おやすみ。良い夢を。」
囁きながら小さな額に軽く口付け、音を立てないよう慎重にジュディスの個室となっている監房から出た。
次は隣のカールの監房を覗き込んでみる。
「……珍しいな。もう寝てる。」
思わず呟いたリックの視線の先では気持ち良さそうに眠るカールがいた。いつもは翌日の準備をしたりベッドに寝転んでリラックスしている時間帯だ。時には同じ年頃の子どもと就寝前のおしゃべりを楽しんでいることもある。そのカールがジュディスと同じ時間帯に寝ていることは珍しい。
思い返してみれば今日のカールは倉庫の整理を手伝っており、重そうな荷物を運ぶ姿を何度か見かけた。やり慣れない作業に疲れたので早々と寝ることにしたのだろう。
リックは最近では久しく見ていなかったカールの寝顔を眺めて「あどけない寝顔だな」と声を潜めて笑った。
(大人っぽくなったと思っていたが、まだまだ寝顔は幼いな。もう少しだけ今みたいな寝顔でいてほしいもんだ)
子どもの成長は素直に嬉しい。ただ、後もう少しだけ子どものままでいてほしい気もする。リックは複雑な親心を噛みしめながらカールの監房を後にした。
子どもたちの眠りを見届けたなら自分も就寝の時間──とはならない。寝る前に愛しい人との時間を持つのもリックにとっては毎日のことだ。その足はニーガンの監房へ向かう。
「ニーガン、今は大丈夫か?」
リックが声をかけながらニーガンの監房の出入り口に立つと、ベッドに寝転がっていたニーガンが勢い良く体を起こした。
「お前を待ってた。ジュディスは良い子で寝たか?」
ニーガンはベッドに座ったまま両足を床に下ろし、リックが座るための場所を空けてくれた。それに対してリックは「ありがとう」と感謝しながら恋人の隣に腰を下ろす。
「相変わらずすぐ寝るよ。今日も最後まで話を聞かせてやれなかった。」
リックがそのように答えるとニーガンは楽しげに笑った。
「そいつは残念だ!まあ、元気に活動してたって証拠だな。そいつが一番さ。」
そのように言ったニーガンにリックは腰を抱き寄せられる。それにより二人の距離が縮まった。
ニーガンは至近距離で見つめてきながら「ところで」と話し始める。
「新入り二人はどうだ?少しは落ち着いたか?あの後、あいつらと話せてなくてな。」
「まだこの場所に慣れたわけじゃないが、とりあえずは落ち着いたと思う。時間をかけて馴染んでいってくれるだろう。ああ、後はカーソン先生に健康状態を診てもらった。疲労と軽い栄養失調だから一週間ほどは静養した方がいいって。」
「そうか。じゃあ、仕事を任せるのはその後だな。」
「もう決まったのか?」
「ああ。ハーシェルと面接した時に畑仕事と外に出る仕事の両方をやりたいって言ってたらしいから、調達と畑仕事を兼務させることになった。二人ともな。」
それを聞いてリックは微笑ましい気持ちになった。仲の良さそうな夫婦だったので一緒に仕事がしたいのだろう。
「畑の方も手伝ってもらえるのは嬉しいな。拡大し続けてるから常に人手不足なんだ。」
「ハーシェルも喜んでたぞ。リックの負担が軽くなるってな。」
ニーガンはそう言ってリックの鼻先を軽く弾いた。リックの仕事量について一言あるのだろう。それを察したリックは苦笑するしかない。
「すまない。ちょっと仕事を抱えすぎていたかもしれない。」
「ちょっと、だと?まったく……お前のそういうところは少しも変わらねぇな、リック。お前は抱え込みすぎなんだ。」
ニーガンは呆れ顔と共に溜め息を吐く。
「人数が増えたんだからお前の仕事を他の奴に割り振ったって問題ない。今度……んー、明日なら大丈夫だ。時間がある。ハーシェルも交えて仕事の割り振りを見直すぞ。わかったな?」
その言葉には頷くしかない。リックが「わかった」と素直に首を縦に振ればニーガンは満足げに微笑んだ。
「リックのクソ真面目で何にでも全力疾走なところは好きだが程々にしろ。お前が倒れたら俺とカールとジュディスが泣く。お前が寝てるベッドの周りで三人揃ってギャンギャン泣いてやるから覚悟しておけよ。安眠なんて無理だぜ。」
ニーガンは口元に笑みを湛えてふざけた言い方をした。だが、その目は限りなく真剣だ。心から案じてくれる気持ちが嬉しく、愛されている実感に心が震える。
リックは微笑みながらニーガンの頬にキスをした。
「三人の泣き顔は見たくないから気をつける。ニーガンたちが笑顔でいてくれることが俺の幸せだ。」
愛する恋人と子どもたちが幸せでいてくれることが今のリックにとって何よりも大切なこと。絶対に彼らの顔を曇らせたりしない。三人の笑顔は必ず守る。
リックの言葉を聞いたニーガンは一瞬目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに目尻を下げて笑った。そして「愛してる」と囁いて額にキスをくれる。
「俺たちに笑顔でいてほしいなら健康でいろ。お前が倒れたら俺の方が病気になっちまう。」
「ああ、わかってる。……ところで、ニーガン。久しぶりにピクニックをしないか?子どもたちも一緒に。」
この刑務所で言うところのピクニックとは「農園化したグラウンドで昼食を食べること」だ。刑務所の敷地外でピクニックをするのは危険だが敷地内であれば問題ないということで、豊かに実る畑を眺めながらランチタイムを過ごすのが住人たちの楽しみの一つとなっている。
ピクニックを希望する者は当日の朝に調理担当者にピクニック用のランチを頼み、昼に受け取りに行くことになっている。そのメニューはピクニックをしない者たちと同じだが、屋外での飲食用に工夫されているのだ。
リックはこれまでにもニーガンと子どもたちと四人でのピクニックを何回も行っている。そもそもピクニックを始めたのがリックとニーガンであり、いつの間にか刑務所全体に広がっていたのだ。特に若者がデートとして行うことが多い。その理由というのが「この世界で運命的な出会いを果たして恋に落ちたリックとニーガンにあやかりたい」というものらしい。ちなみに、リックとニーガンの出会いから恋人になるまでの過程を壮大な物語として広めたのはシェーンである。本人曰く「二人の代わりに牽制しておいた」とのことだ。
「最近の俺は仕事を抱え込んでいてニーガンとの時間が少なかったと思う。そのことが気になっていたんだ。今みたいに寝る前に会うのも好きだが、もっと一緒に過ごしたい。だから久しぶりにピクニックでも……どうだ?」
リックは様子を窺うように少し上目遣いでニーガンを見た。ニーガンをピクニックやデートに誘う時は今でもドキドキしてしまう。
しかし、緊張はするだけ無駄だった。ニーガンは「もちろんイエスだ!」と破顔して強く抱きしめてきた。
「俺の休みは明後日だ!明後日にしよう!最高だな、楽しみができた!」
大喜びで抱きしめてくるニーガンにリックは苦笑を漏らしながらも、その体を優しく抱きしめ返す。
「まるでクリスマスプレゼントを貰った子どもみたいだぞ。」
「それ以上に嬉しいね。お前たちと過ごす時間は俺にとっては最高のプレゼントさ。」
「俺もだよ。」
短く答えてリックは幸せを噛みしめるように目を閉じる。
明後日は愛しい人たちとの久しぶりのピクニック。今から楽しみで仕方ない。
リックは「どうか当日の天気が良いものになりますように」と願いながら、しばらくの間ニーガンの温もりに身を預け続けた。
*****
ピクニック当日は朝から快晴だった。リックは目覚めて真っ先に外の様子を確かめると、美しい青空に笑みを零さずにいられなかった。
天気を確かめた後は服を着替えてジュディスの様子を見に行き、我が子と朝の挨拶を交わす。それが済めば畑に行くのが日課なのだが、今日はその前に厨房に立ち寄ってピクニック用のランチを注文しなければならない。
リックが厨房を覗いてみるとキャロルが他の住人たちに混じって朝食の準備のために動き回っていた。キャロルは物資調達と調理を兼務しており、どちらに置いても彼女は主力として頼りにされている。調理の方では食材と調理方法を工夫して美味しい料理を生み出す能力を買われているのだ。
リックはキャロルにピクニック用のランチを注文すると決めて厨房に足を踏み入れた。
「キャロル、おはよう。今日は調理担当なのか。」
リックが声をかけるとキャロルは「おはよう、リック」とにこやかに笑いながら近づいてきた。
「今日と明日は調理の方を担当するわ。スミスの勤務が続き過ぎているから休ませてあげたくて。」
「そうだったのか。君は大丈夫か?休みは?」
「四日後に休みを取る予定だから大丈夫。それより、あなたは何の用事?もしかしてピクニックを希望?」
その問いに「そうなんだ」と頷き、注文内容を告げる。
「ピクニック用のランチを頼みたい。──二人分。」
それを聞いたキャロルは満面の笑みで「二人分」と繰り返した。
「久しぶりのデートってところね。」
妙に楽しそうなキャロルに狼狽えながらリックは頷いた。
「子どもたちも一緒の予定だったんだが、カールに断られた。『僕たち兄妹はデートの邪魔をするほど気の利かない人間じゃない』なんて言われてしまった。」
カールに断られた時のことを思い出すと溜め息を吐きたくなる。「恋人と二人で過ごすチャンスを無駄にするな」と叱られ、「父さんはそろそろ子離れするべき」と呆れられたのだ。
カールは父を疎ましく思っているわけでも父の恋人を避けているわけでもない。二人が一緒に過ごす時間が少ないことを気にしており、せっかくのチャンスを無駄にしようとすることに呆れ果てているだけだ。
子離れできていない自身を情けなく思うリックの肩をキャロルが軽く叩く。
「親が思うよりも子どもの成長は早いもの。ソフィアもどんどん大人になるから私も驚いてばかりよ。子どもの親離れの方が早いから親は遅れを取り戻さないとね。」
実感の込められたキャロルの言葉には頷く他ない。リックは苦笑しながら「君の言う通りだな」と同意した。
「早く子離れできるように努力してみるよ。じゃあ、よろしく頼む。」
「任せておいて。」
リックはキャロルに見送られて厨房を後にした。そして畑に向かいながらカールの成長ぶりを振り返る。
カールは幼い頃は自分勝手な素振りを見せることもあったが、今では仲間を気遣うことができる人間へと成長した。状況をよく考えた上で判断し、他者に的確な指示を出す姿も見かける。指導者としての素質がある彼は二年か三年後には委員になっていても不思議ではないだろう。
カールはリックがニーガンとの交際について伝えた時も取り乱したりせずに祝福してくれた。父が母以外の誰かを愛することに複雑な思いがないわけではないはずなのに、リックやニーガンに反発したり拒絶することもない。むしろニーガンとは「歳の離れた友人」として良い関係を築いている。そのこともリックにはありがたかった。
こうして考えてみればカールが既に自分の足で立っていることがわかる。リックが抱え込んで守ってやる時期は過ぎたのだ。
「もう手を離してやらないとな。カール自身のために。」
その独り言をリックはしっかりと胸に刻む。
自分の足で立って歩いている我が子の手を親が握り続けることは子どもにとって邪魔でしかない。親にできるのは手を離して見守ってやること。それだけだ。
リックの心の子離れできない部分が寂しさを感じているが、それも時間が解決してくれるはず。数年後には「なかなか子離れできない時もあったな」と懐かしい思い出として振り返ることもあるだろう。
そんなことを考えているうちに監房棟と外を繋ぐ扉に到着したので、リックは気持ちを切り替えるように勢い良く扉を開けて外へ出た。真っ先に目に飛び込んできたのは美しい空色。
リックは足を止めて空を見上げる。
「最高のピクニック日和だ。」
そのように呟く顔には曇りのない笑みが浮かんでいる。
リックは少しの寂しさと大きな誇らしさを胸に抱きながら空に向かって微笑んだ。
午前の時間は瞬く間に過ぎていき、お待ちかねのランチタイムとなった。リックが厨房に行こうと思っていたところへ昼食を持ったニーガンが現れたので、そのままピクニックを始める。
ピクニックシートを敷いたのはグラウンド全体を見渡せる場所だ。作物の苗が茂っている畑もあれば種をまいたばかりで土の色が目立つ畑もある。畑のエリアから少し視線を動かせば、囲いの中で動物たちがのんびりと餌を食べる様子も見えた。この穏やかな光景はランチの供に最適と言える。
並んで座るリックとニーガンはピクニック用の昼食として渡されたタッパーの蓋を開けて「美味そう」と声を揃えた。タッパーの中に入っていたのは豚肉と野菜のグリルで、たっぷりとかけられたハーブソースの香りが食欲をそそる。グリル以外にはどんぐりで作られたクッキーや様々な種類のベリーがあった。キャロルが考案したどんぐりのクッキーは美味しいと評判なのだ。
労働の後で空腹なため思わずがっつきたくなるが、今日はピクニックという名のデート。会話と共に味わうべきだろう。
リックはニーガンとの会話を楽しみながら普段よりも時間をかけて食事をした。他愛のない話に笑い声を上げて、美味しそうに頬張る相手に愛しさを感じ、時に食べさせ合って微笑む。幸せな瞬間が絶え間なく続く喜びに先ほどからずっと笑顔のままだ。
こうして愛しい時間を過ごすことができる奇跡にリックは毎日感謝している。以前は当たり前だと思っていたことは当たり前などではなく奇跡だったのだと今なら理解できる。奇跡の上に日常が成り立っていたのだと理解した今、この幸福を噛みしめずにいられない。
やがて、全ての料理を食べ終えるとニーガンが横になってリックの太腿に頭を乗せた。
「食べてすぐ横になると消化に良くないぞ。」
苦笑交じりに言いながらもリックは指でニーガンの髪を梳く。彼に甘えられるのは好きだ。
ニーガンは気持ち良さそうに目を細めながら「ちょっとぐらい平気だ」と答えた。
「最高に気分が良い。昼休みが終わるまでこのままでいさせろ。」
「仕方のない奴だな。あんたが甘えるのは俺だけだから許してやる。」
リックは笑みと共にニーガンを見下ろす。
ニーガンは他者に甘えない。「誰にも頼らず甘えない」などの気負いはないようだが、甘えや弱さを見せようとしなかった。その例外がリックであり、リックには比較的甘えや弱さを見せてくれる。恋人という関係に発展してからは更に甘えてくれるようになったと感じており、それが信頼の証に思えて嬉しかった。
しかし、他の仲間に弱い自分を晒しても問題はないはず。その程度でニーガンに失望するような者はいない。
「ニーガンは周りに甘えや弱さを見せるべきだな。あんただって普通の人間なんだから頼られてばかりじゃ疲れるだろう?」
「弱い部分を見せるのは好きじゃない。昔からな。まあ、プライドの問題って奴だ。」
リックはニーガンの返事に対してすぐには言葉が出てこなかった。ニーガンが自分の弱い部分を他人に見せたがらないことは何となく察していたし、「タフで頼りがいのあるニーガン」に彼自身が誇りを持っていることも理解できる。それを捨てさせようとは思わない。
気がかりなのはニーガンが負担を一人で抱え込んでしまわないかということ。ニーガンがリックを心配して支えようとしてくれるのと同じで、リックもニーガンを心配しているのだ。
リックはニーガンの髪を梳きながら問いかける。
「なあ、ニーガン。俺は……あんたの支えになっているか?」
その問いにニーガンは一瞬だけ目を瞠り、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。そしてリックの頬に掌を這わせながら「当たり前だろ」と言葉を紡ぐ。
「お前が俺の心を救ったって話を覚えてるか?今もだぞ。俺はいつもリックに救われてる。」
そのように話すニーガンの目が愛おしげに細められた。リックはその瞬間がとても好きで、目にする度に胸が高鳴る。
「俺だけじゃない。自分では気づかないだけでお前はいろんな奴らの心を救ってる。だからもうちょっと自信を持て──と言いたいところだが、理解できなきゃ理解できなくていい。俺はお前と一緒にいられたらそれでいいんだ。」
「……ありがとう。」
リックは感謝を告げてから小さく苦笑した。甘やかすつもりが逆に甘やかされてしまったように思える。
「あんたは俺を甘やかす天才だよ、ニーガン。」
「そりゃそうさ。俺はお前のことなら何でも知ってるからな。」
「それが悔しいんだが、嬉しく思う気持ちもある。なんていうか……悔しいくらいに幸せだ。」
リックがそのように告げるとニーガンが体を起こした。そして体の正面をこちらに向けて座り直し、優しく手を握られる。
ニーガンはリックの手を握ったまま真っ直ぐに視線を寄越した。
「リック、幸せか?」
ニーガンから短く問われ、リックは頷いて返す。
「幸せだ。安全な我が家があって、畑や家畜の成長が順調で、大切な人たちが笑顔でいてくれて──ニーガンに愛されている。幸せに決まってるだろう。」
心からの思いを伝えたリックは視線を周囲に巡らせて辺りの様子をじっくりと観察する。
この刑務所に存在する全てが仲間たちとの努力の結晶。それもニーガンと出会えたから手に入れることができたものだ。全ての始まりはニーガンとの出会いなのだと思うと愛しさと幸福感が増す。
リックは視線をニーガンに戻して微笑む。
「ニーガンがいてくれるから幸せだと感じられる。だから、これからもずっと一緒にいてほしい。あんたが俺に幸せをくれるんだ。」
リックの言葉にニーガンが笑顔を見せた。それは本当に幸せそうな笑みだった。
ニーガンは「もちろんだ」と答えて顔を寄せてくる。リックも同じように顔を近づければ自然と唇が重なった。
唇を離した後、ニーガンが「なあ、リック」といたずらっぽく笑う。
「誰かが呼びに来るまでここにいようぜ。まだ離れたくない。話に夢中になってたって言えば見逃してくれるだろ。」
「何の話をするんだ?」
リックがクスッと笑って問えば、意外にも真摯な眼差しが返ってきた。
「──未来の話。この刑務所や、俺たち二人の将来をどんな風にしていきたいかって話だ。」
その言葉はリックの心にすとんと落ちて深い部分まで染み込んでいった。それほどに心惹かれる言葉だった。
ウォーカーに脅かされる世界では未来の話などできない。明日も生きていられるか定かではない世界で将来を夢見ることは絶望を大きくするだけで、誰も将来への希望について語ろうとはしない。
だが、そろそろ数年先の未来について語っても良い頃だろう。明日や明後日のことだけでなく遠い未来に思いを馳せてみたい。
リックは深く頷いて「それ、良いな」と微笑む。
「話してみたい。俺たちがどんな道を歩いていくのか。──ニーガン、俺たちの未来の話をしよう。」
変わり続ける状況の中で、思い描いた通りの未来にはならないかもしれない。想像もしていなかった苦難が待ち受けている可能性もあるだろう。
だが、ニーガンと一緒なら未来への希望を信じられる。何があっても乗り越えられる自信がある。二人で手を取り合い、歩いていく先にある幸福を掴んでみせる。
病院での出会いから始まったリックとニーガンの道は、まだまだ続く。
END