鎌倉殿の胸の内「わしに逆らうことは何人も許さん。肝に銘じよ!」
絶対の服従を誓え。そのような意味を込めて放った己の言葉に対して返される言葉はない。
固唾を呑んでこちらを見る御家人たちの目には畏怖の色。それを生み出したのは今しがた行われた粛清だった。
一人ひとりの顔を睨むように見つめてから視線を落とせば、そこに転がるのは一人の男の骸。床を染める血の色が妙に鮮やかで目に痛い。
鮮やかすぎる紅に背を向けて部屋を後にするが、追いかけてくる者は皆無だ。謀反の処罰を一人で背負わされた男の無惨で哀れな死に様を目の当たりにしたのだから、追いかけてきて異を唱えることなどできないのだろう。或いは「頼朝に近づけば斬られるやもしれぬ」と恐れているのだろうか?
いずれにせよ、わしを侮る者はいなくなっただろう。謀反を起こす気力は叩き潰してやったのだから憂いを断つこともできた。これにより木曽義仲の討伐に専念する環境は整った。その次は、今度こそ──平家を滅ぼす。
その時不意に、ある男の声が頭の中で木霊する。
『お前さんは己の道を行けばいい。』
ひっそりと行われた酒の席での男の言葉。穏やかに酒を酌み交わす中で告げられたのは男の真心だった。
わしのことを「武衛」と親しみを滲ませながら呼び、親愛の情を真っ直ぐに向けてきた男。戦の行末を左右するほどの強大な力を持ちながらも御家人として源頼朝に従う男。そんな男をわしは葬った。愛用の刀を取り上げられ、烏帽子を落とし、背を斬られた無惨な姿で死なせたのはわしだ。
わしは己を慕う唯一の御家人──上総広常を殺した。
*****
「いずれ上総介を斬らねばならぬ」と思うようになったのはいつからだったろうか?
上総介が御家人となって時が経つうちに、あの男に薄っすらと恐れを抱くようになった。それはあの者が強大な力を持っているからではない。一心に向けられる親愛が恐ろしかった。
自分が御家人たちに慕われていないことも、何かあれば切り捨てられるのは自分だということも理解している。不意に湧いて出た源氏の棟梁に忠誠心を捧げることの方が無理なのだ。それを理解していても時折寂しさを抱くのは心の弱さのせいだ。
そうだというのに上総介はわしを慕う。言葉の端々に滲むのは敬愛であり友情といった類いのもの。それに戸惑いながらも胸の奥が温かくなったのは確かだ。
上総介は「源氏の棟梁」に仕えているのではなく「源頼朝」に仕えてくれていた。そのような御家人はあの男しかいない。
それを嬉しく思う一方で頭の芯は冷えていった。どれほど上総介が自分を慕っていようと、あの者には何よりも優先すべき所領と一族がある。己が守るべきものと源頼朝のどちらかを選ばざるを得ない状況に陥った時に切り捨てられるのはこちらだ。あの男の思いが何であれ、一族を守る立場として上総介は源頼朝を切り捨てるだろう。
上総広常は味方であれば頼もしいことこの上ないが、敵対すれば巨大な壁となる。敵対した時の厄介さを理解していても尚、あの者を傍に置き続ければ今以上に情が移るように思えてならなかった。上総介と敵対した時に自分があの男に刃を向けることを躊躇うようになるのが恐ろしかった。だから手遅れになる前にあれを斬ると決めたのだ。
そのような折に大江広元から「上総広常を今のうちに殺すべき」との忠告を受けた。あの者も上総介の持つ力を警戒しており、何かの弾みで敵対する前に始末しておく方が良いと考えていたようだ。
広元の案は「御家人たちの謀反の責任を上総介に取らせる形が良い」というものだった。上総介を間者として送り込んで他の御家人たちの手綱を握らせ、謀反を失敗させた上であの者一人を処罰するという策で進めることになった。
「酷いことをする」と我ながら思う。散々利用した上で何も知らぬ男を誅殺するのだから。
そのことに対する罪悪感が己を動かしたのだろうか。わしは「間者としての務めを果たしてくれたことを労いたい」という理由で上総介を招いてささやかな酒宴を催した。わしと小四郎と三人だけの酒宴ということが気を緩めさせたのか、上総介の纏う空気は穏やかなものだった。厳しい雰囲気が印象強い男だが、それだけでないことは承知している。
酒を注いでやると上総介は恐縮した様子を見せながらも嬉しそうだった。そんな男から目が離せず、この穏やかな時間が永遠に続いてほしいという思いが過ぎった。
しかし、その思いは上総介の言葉によって一瞬にして掻き消える。
『武衛、お前は身勝手な男だ。頭の中は親父の復讐のことばかりだ。だが、それでいい。』
その言葉を言われた時、「この男を生かしておけぬ」と強く思った。わしの本心を理解してしまう存在を野放しにしてはならないからだ。
平家に父を殺され、兄弟たちとも引き離されたわしの周りは敵だらけだった。僅かでも隙を見せれば足を掬われる。常に他人を疑い、本心を徹底的に隠さなければ生き延びられない。だからわしの本心は誰にも悟られてはならない。
だが、上総介はわしの本心を見抜いてしまった。きれいに隠し通してきたものを見抜かれてしまった。あの男が誤ちを犯したのだとすれば「源頼朝の本心を見抜いたこと」以外にないだろう。わしにとって本心を知られることは弱みを握られることと同義。それゆえ上総介は死なねばならぬ。
わしがそのようなことを考えているとは知らない上総介は「これからも頼りにしている」という言葉に喜びの笑みを浮かべる。照れ臭さを滲ませる笑みは子どものように無垢だ。そんな男を殺さなければならない現実に胸がチクリと痛んだ。
上総介を誅殺する日、わしは御家人たちの集まる広間から離れた部屋で時を待っていた。あの者を殺す役目は梶原景時に任せたので失敗することはないだろう。
広間の状況を確認しに行った安達盛長から「梶原景時が上総介と双六を始めた」との報告を聞き、景時は上総介に天命があるか試そうとしているのだと察する。上総介が勝てば殺さず、上総介が負ければ暗殺を実行する。そういうことなのだ。
勝敗が決するのを待つ間の己の気持ちは複雑なものだった。上総介を生かしておいてはならないという気持ちが大半を占める心の片隅に「上総介に勝ってほしい」と望む思いがあることは否定できない。上総介が勝つということはあの男の命運は尽きていないということ。共に歩む時間を持つことが今しばらく許されるのだ。
じりじりとした思いで待っていると、再び様子を見に行った盛長が戻ってきた。
「鎌倉殿、間もなく勝負がつきます。梶原殿が優勢でございますが──いかがなさいますか?」
そう問う盛長の顔には苦悩が滲む。
景時が優勢ということは上総介の命運は尽きるということ。それを残念に思う気持ちに蓋をして「そうか」とだけ返し、広間へ向かうため部屋を出た。
普段よりもゆっくりと歩いて広間へ向かう途中、景時の口上が耳に届く。「上総介は謀反人である」と断罪する声を聞きながら、あの男が最後に自分へ向ける感情が何であるかについて考える。
怒りを抱いてくれ。
憎しみを向けてくれ。
わしを恨みながら死んでいけ。
そうでなければ、わしは──。
「武衛!武衛!」
上総介が呼んでいる。救いを求めて必死にわしを呼んでいる。
だが、わしはお前を斬る。これは絶対に変えられぬことだ。何を引き換えにしてもお前を斬ることが源頼朝の未来を切り開くのだから。
戸を開けて広間に入ると上総介が振り向いた。着物の乱れや烏帽子を落としたことも気に留めず、希望を抱いてこちらを見る男に言葉をかけることはない。今の上総介にかけてやれる言葉を持ち合わせていない。
景時を止めることなく黙って自分を見据えるわしの姿に上総介の目が驚愕に見開かれた。そして、その目が絶望に染まっていく。
その時、小四郎がこちらに向かってこようとする気配がしたので「小四郎!」と鋭く名を呼んで動きを封じた。
「来ればお前も斬る!」
一喝すれば奴はその場に留まった。
たとえ小四郎であっても邪魔は許さぬ。邪魔をすると言うならば斬り捨ててでも排除する。それほどの覚悟を持って上総介を殺すと決めたのだ。
小四郎がこれ以上動くことはないと確信したので視線を上総介に戻せば、悲しみと絶望の宿った目がこちらを見ていた。どれほど探してもそこに怒りは見当たらない。憎悪の欠片もなかった。それは上総介のわしを慕う気持ちが変わっていない証だ。
本当は目を逸らしてしまいたい。悲しみや絶望に染まる目を見ているのが辛かった。寄せられる親愛を裏切ったわしを憎んで恨んでほしかったのに、それが叶わないことが苦しかった。
しかし、上総介を殺すと決めたのは自分自身。それならば最後まで見届けるのが務めであり誠意だ。
痛くなるほどに固く拳を握りしめて上総介と視線を重ねていると、上総介の胸から刀の先が生えた。背中から貫かれ、遂に上総介の体が崩れ落ちていく。
背中から床に倒れ込む瞬間、上総介が小四郎に向かって小さく笑んだように見えた。息子のように可愛がっていた男が自分を裏切っていなかったと知り、僅かでも救われたのだろうか?そうであれば良いのに。
事切れた上総介から視線を引き剥がし、立ち尽くしたまま成り行きを見ていた御家人たちに目を向ける。息を殺してこちらを見つめる者たちの視線が全身に刺さるようだ。
指先から冷えていくような感覚を覚えた時、眼前で死んでいった男の言葉が甦る。
『また御家人どもが暴れた時は俺が何とかしてやるよ。』
頼もしい言葉だ。もし御家人たちに再び怪しい動きがあれば上総介は本当に何とかしてくれただろう。だからこそ、お前を生かし続けるのは無理だった。
上総介、わしはお前の死を利用して御家人たちの首根っこを押さえる。二度と逆らわぬよう容赦はせぬ。
お前の申す通り、わしは身勝手な男だ。それならばどれほどの誹りを受けようとも己の道を行こう。お前から贈られた言葉のままに。
*****
上総介の屋敷の明け渡しが済んだという報告が届いたのは辺りがすっかり暗くなってからだった。報告に来た盛長も小四郎も表情が硬い。その盛長が「上総介の鎧から出てきた」と言って書付を差し出してきた。
紙を受け取って開いてみる。そこに書かれていたのが子どものような字であったため読むのが難しいのだが、上総介の鎧から出てきたということはあの男が書いたものなのだろう。
「読めん。」
そう言って書付を小四郎に渡すと、目を通した小四郎が顔を強張らせた。そして顔を強張らせたまま内容を読み上げる。
「これから三年のうちにやるべきこと。明神様のための田んぼを作る。社も作る。流鏑馬を幾たびもやる。──これ全て、鎌倉殿の大願成就と東国の太平のため。」
小四郎の口から紡がれる言葉が頭に染み込むたびに胸が貫かれたように痛む。まさか、わしを思って書かれた願文だとは思いもしなかった。わしが何も言えずにいると小四郎が書付を差し出してきたので受け取り、改めて目を通してみる。
拙い字だ。武家の者とはいえ、都から遠く離れた地では教養を身につけることは難しかったのだろう。それでも必死に練習したのか、わしのために。
懸命に書いたのだとわかる文字を目で追いながら、上総介の忠誠心を思い知らされる。
あの男がわしを本気で支えようとしていることは知っていたが、わざわざ願文を書いて鎧に忍ばせておくほどの忠誠心だとは考えてもみなかった。思いがけず知った思いの強さに失った悲しみが増す。
「このようなものを遺して逝くな」と怒鳴りつけてやりたいが、あの世へ逝った者を責めることはできない。荒々しく紙を丸めるだけで精一杯だ。
遺された上総介の思いから逃げるように立ち上がり、部屋を出たところで足を止める。
「……あれは謀反人じゃ。」
誰にでもなく自分自身に言い聞かせるために放った言葉はひどく苦い。
上総介を殺したことを後悔などしたくないのに、その権利などないのに、後悔の念が溢れ出て止まらない。覚悟の上で行ったことだというのに、あの男の命がこんなにも重い。一人きりで背負うには重すぎる業であっても共に背負う者は皆無だ。
わしにとっての「己の道」は他者の血で染められた道。皆が考えるような美しいものではない。悍ましく醜い修羅の道。そのような道を歩む者が迎える最期は穏やかなものにはならないだろう。
そうであってもわしはこの道を選ぼう。厳しくとも一人きりで歩もう。最期までわしを恨むことなく逝った男の思いを道連れに進もう。
後悔するのは今宵で終いとする。明日からは「鎌倉殿」の面を被り、皆が恐れる男として君臨しよう。
だから今だけはお前の死を悼むことを許せ、我が友よ。
終