響すば小ネタログ1■140字
「響也さん、くるしいですよ」「うん」「……いたいです」「……、うん」「きょうやさん」「だめだ。いまのおまえを放してやるわけにはいかない」「……なんでですか」「それは、さっきも言った。聞いてただろ?」「でも、だって、オレはべつに、無理なんか」「こんなに急がなくていいんだ。……大丈夫。大丈夫だから」「……、」「焦らずに、ひとつずつ、成長していけばいい。昴の居場所は、もうちゃんとここにある」
---
「うん、いい表情ができるようになってきたな」自主練習に勤しむ彼へ、稽古場の鏡越しに声を掛ける。「あとはもっと、仕草を丁寧に」「はい!ありがとうございますっ」弾かれるようにこちらを振り向いた彼の笑顔は先程までの厳めしさとは打って変わった幼さで、釣られて笑った。それも、いい表情だ。
(
ふたりへのお題ったー/『笑顔はもっと好きだよ』)
---
ばたばた、ばたん!浴室からリビングへ、忙しない足音が帰ってくる。「まっ、間に合いましたか!」「おかえり、ちょうど国歌斉唱が終わったところだよ。まだ全然、余裕あるだろ」「はー、よかったー!」安堵の息を吐いた彼が隣に腰を下ろす。湯を滴らせたままの髪に、苦笑とタオルをかぶせてやった。
---
少し遅く起きた朝、窓からの日差しと風があまりにもやわらかかったから、どちらともなく気まぐれを起こして庭で朝食を摂ることにした。なんとかこしらえた山盛りのタマゴサンドとジャムサンド、それからアイスティーのグラスを持ってテラスへ一歩踏み出せば、ふたりぶんの弾んだ声が青空に溶ける。
■夜桜
ぼんぼりの明かりに照らされた桜並木が、夜空を美しく彩っている。花見シーズン真っ盛り、満開の桜の下には延々と続くレジャーシートの絨毯と、酒盛りに興じる人々の喧騒があふれていた。
「あ、響也さん、鈴カステラですよ!」
「ん?ああ、懐かしいな。久しぶりに食べたいかも」
「買いましょう、向こうに唐揚げもやきそばもありますよっ」
ライトアップ会場になっている川沿いの並木道に屋台が出ている、という噂を聞きつけていてもたってもいられない様子であった昴を連れて来たのだが、案の定素直な彼の視線は花より団子に向きっぱなしだ。もちろんそれもまた彼らしさだと知ってはいるけれども、せっかくなのだから夜桜も満喫しなければもったいない。人混みから頭ひとつほど抜ける長身を活かして屋台リサーチの結果をあれこれ並べ立てている彼を、響也は微苦笑とともに呼び止めた。
「なあ、昴」
「へ?」
「買い終わったら、もう少し静かなところに行こうか」
ここからもう少し歩いていくと、小高い坂の上に公園がある。ライトアップされた桜並木と川の水面を静かに見下ろすことができる、とっておきの場所だ。彼は響也の言にパッと笑って頷いてから、ふいにひどく真面目な顔になる。
「静かなところに行くなら、りんご飴くらいにしたほうがいいですか……?」
なにかと思えば至極真剣な面持ちでそんなことを言うものだから、つい声を上げて笑ってしまった。
「あっ、響也さん、なんで笑うんですか!」
「あはは、ごめんごめん。いいよ、いつも通り好きなもの食べて!」
場所の雰囲気というものを気にするようになっただけでも進歩だろう。笑みの残滓を含んだままそう答えてやると、夜桜の下でひときわ嬉しげな笑顔が咲いた。
***
20170402Sun.
■まよなかのティ・タイム
白く染まった息が、髪を揺らす夜更けの風にさらわれては消えていく。閑散とした街路を抜けて、静かに佇む急坂を登り目当てのマンションへとまっすぐに足を進める。
すでに時計の針は午前零時をしばし過ぎている。靴音に気を払いながら、並んだドアをいくつか通り過ぎたところで響也はようやく立ち止まった。軽くインターホンを押せば、扉の向こうからばたばたと急かしげな足音が近づいてくる。
「おつかれさまです、響也さん」
「悪いな、急に」
「そんな、全然大丈夫っすよ。遅くまでおつかれさまでした」
ドアが開くと同時に、普段より少々抑えた調子の中低音が響也を迎える。室内からの逆光を負った彼の明るい声の響きにゆるく肩の力を抜きながら、玄関へ一歩踏み入れた。
「いまちょうどごはんできるとこで……、あ、お風呂さきにしますか?」
「ん、そう……だな、そうするよ。ありがとう」
外まわりの仕事が思いのほか長引いてしまい、戻ってから片付ける予定だったデスクワークにまで遅れが響いた結果がこの時間である。仕事にきりをつけた響也が見たときの時計の針は終電に乗れるかどうかの瀬戸際だったがさすがに午前零時に駅までタイムトライアルをする気にもなれず、劇場から徒歩圏内に住む恋人の自宅に泊まることにしたのだった。
出先で軽食程度は馳走になったものの事務所に戻ってから摂った食事といえば冷蔵庫に作り置きされていた蒼星手製のプリンひとつと紅茶を数杯くらいのものだったから、こじんまりとしたキッチンから漂ってくる夜食の匂いが胃に染みる。自宅よりも随分と手狭な玄関で軽く靴先の向きを揃えてから顔を上げる。明順応した視界で昴を見ればまっすぐに視線がぶつかって、紅茶色の瞳が幼く綻びながら響也を呼んだ。
「へへ、おかえりなさい」
「……、ただいま、」
言ってなかった、と続いた、ただそれだけのやりとりがひどくくすぐったくて愛おしい。調理に使っていたらしいフライ返しを片手に握ったまま見覚えのあるエプロンを律儀につけて――あまり器用ではない彼はキッチンに立つたび高確率で服を汚すか濡らすかしてしまうので――笑う彼に、胃袋ではないどこかが空腹の鳴き声をあげた気がした。
「ごはんって、もしかしてオムライスか?」
「はい、玉ねぎとベーコンだけの簡単なやつですけど。……なんでわかったんですか?」
「手首のところにケチャップついてる」
「えっ」
一体どんな加減で作業をすればそこに調味料が飛んでしまうというのだろう。相変わらずの不器用ぶりに思わず肩を揺らして笑いながら手を伸ばす。横着に指先で拭おうとした彼の手首を捕まえて、口元へ引き寄せた。健康的な色の肌についた朱を舌先ですくい取ってやれば、不意をつかれて驚いたらしい長躯がぎしりと固まる。
「……き、響也さん、あの」
「うん?」
「くすぐったい、です」
「そうか?」
「そうかって、……っ!」
熱い体温の心地好さにそのまま唇を滑らせて、袖を捲くった腕の内側をやわく食む。かすかな水音の響きと感触を律儀に拾った彼が、あ、とちいさく声を上げたのが聞こえて、今度はうすく開いたそこに口付けた。
「ン、」
こんなときばかり存在を主張してくる六センチの身長差が少しだけもどかしい。ほんの数センチの差異を埋めるように厚い体を引き寄せて口腔へ滑り込む。あたたかい。さきほど舐め取ったケチャップの酸味はすぐにほどけて、どちらのものともつかない唾液に混ざり溶け落ちた。
「ッは、きょ、うやさ、……っ」
口の端からこぼれて伝った銀糸を追おうと唇を離したところで、顔を逸らして逃げられる。「駄目?」薄っすらと涙の膜の張った両目はアールグレイの水面のようで、つい覗き込みたくなる。呼吸のふれる近さで視線が重なり、数秒の間。
響也がつかまえていた、フライ返しを持っていないほうの彼の手がそっとひるがえって響也の手をつかまえる。
「……響也さんの、手が、あったまるまでなら」
明かりを透かしてほのかな熱をふくんだ紅茶色の双眸が、まっすぐに響也を映してゆらりと揺れる。指先に滲みた冬を、未だにどこかたどたどしいしぐさで絡められた五指の温度がゆるやかに溶かしていくのをたしかに感じながら、――アールグレイにくちづけた。
***
20171205Tue.
■青の約束
別荘の内装に合わせたクラシカルなデザインの時計の針が、こちりと動いてまたひとつ穏やかな夜を重ねる。
ローテーブルの上には、階下にあるキッチンから持ってきたティーセットと、いくらかの菓子類が広げられている。今日の稽古中に差し入れとしてもらったマドレーヌが、気に入りの銘柄の紅茶葉にとてもよく合う味だったものだから、ティーカップを傾ける響也の気分も自然と上向き加減だった。我ながら単純なものだと思いつつ、ふたつめのマドレーヌを食べ終えた響也はゆるりと口を開く。
「今日の稽古、感触はどうだった?」
思いきりよくパーティ開けにされたスナック菓子を向かいの席で嬉しげにつまんでいた昴が、問いに手を止めて響也を見る。うーん、と小さく唸って、彼は眉尻を下げた。
「やっぱり、最後の甲板のシーンが難しいです」
『Out Of The Blue』で昴が演じるウィリアムは、陽気でおおらかな海の男だ。
響也の演じるヘイミッシュとは親友かつ同期でもあるベテラン船員ながら、階級はヘイミッシュとは正反対の万年ひら水夫。今作最大のアクロバットシーンとなるエアリアルティシューパフォーマンスと、終盤にあるヘイミッシュとの別れを惜しむシーンでの、優しくおおらかで達観した演技が必要な、骨のある役どころだ。
「……ヘイミッシュが昇進して船長になるのがすっげー嬉しくて、誇らしくて、……でも、ちょっと寂しかったんじゃないかなって、思ってるんですけど」
「寂しい?」
「はい」
昴はどちらかといえば理屈よりも感覚で役を掴んでいくタイプの役者だが、常に彼らしくまっすぐに役と向き合いながら芝居に臨んでいる。彼の成長を見守るなかでそのことも十分に承知している響也は、懸命に言葉を探しながら紡がれる声を静かに待った。
「ヘイミッシュとは親友だし、大事な仲間だから、ヘイミッシュをかばって自分の昇進の道をだめにしたこともウィリアムは全然後悔してないっていうか……むしろ、かばわなかったほうが後悔してたと思います」
「うん」
「そのくらい大事な友達と会えなくなるのが寂しくないわけなくて……でも、たぶんウィリアムはそれでも泣かないヤツなんだろうなって」
ウィリアムの未来を閉ざしてしまったヘイミッシュの抱く罪悪感と、その負い目から自身と距離を置こうとするヘイミッシュにウィリアムが覚えるもどかしさ。互いを無二の友として思いあうがゆえの葛藤にいかに深みと厚みを持たせられるかが、このシーンの重点になる。
「『――船は海を往く。人もまた同じ。』……シンプルだけど、そのぶん難しい台詞だよな」
「……はい、」
このシーンにはダンスも、アクロバティックなアクションも存在しない。これまでに昴が演じてきた役柄のなかでもより純粋な演技力を要求されるキャラクターであるうえに、ヘイミッシュの親友役という点でも彼が気遅れしていることは、キャスティングが決まった時点で薄々感じている。それでも、彼女がえがいた『ウィリアム』は昴が演じるべきだと、響也の直感が告げていた。
「あの、響也さん」
「ん?」
「ヘイミッシュとウィリアムって、もう会えないんですかね」
しばらく考え込むような間のあと、ひとくち紅茶を啜った彼の口からぽつりと落ちた問いに目瞬きをひとつ。幼さを残したまるい瞳がじっと響也を見つめていた。
「……あの感じだと、滅多に会えなくなるのは間違いなさそうだよな」
「はい」
部屋の明かりを含んだ昴の両目は、ときおり夕暮れの色に透けて滲む。
無二の友との別れを告げる茜色の甲板で、彼らはなにを思うのだろう。それぞれに見えている景色は、まるきり違うものであるのだろうか。
「でも、もし俺がヘイミッシュだったとしたらさ」
「へ?」
「すぐには無理かもしれないけど、きっと会いに行くよ」
それでも、かけがえのない友であるのなら、離れて過ごした時間も距離も飛び越えてともに笑いあいたいと願うはずだ。別れの先に、いつかまた出会える日が来ることを信じて――出会うために、別れがあるのだ。
響也の応えを、幾度かの目瞬きとともに受け止めた彼が、嬉しげに背筋を伸ばす。
「……そう、ですね!」
オレも、そうだといいなって思います。
まっすぐに頷く紅茶色のひとみが湛える希望の色は、よく晴れた日の海の水面に似ている。瞬くひかりに、そっと目を細めた。
***
20180216Fri.