まがい物の恋「主ってば、ほんとソハヤばっかり見てるよね」
「は?」
そう清光に言われたのは、なんてことのないいつも通りの執務中だ。基本的に男士たちには事務的な仕事はさせていないが、初期刀の加州清光は積極的に関わりを求めてくる上、一度締め切りを過ぎた書類の督促状が来たことで以降、書類整理の一角を担ってくれている。本丸内の生活は男士たち自身でほとんど回しており、食事、洗濯、掃除だけでもこの広い本丸の管理は大変なものだ。資材の管理管轄は私の仕事なので、さすがにこれ以上は男士たちに頼るのも、と気持ちばかりが焦っていた頃のことである。
確かにそういわれた時の私の視線の先にはソハヤノツルキがいた。
半年ほど前に顕現した男士で、今は手合わせの帰りなので、数人の男士たちと一緒に井戸の前でタオルを首にかけながら雑談をしている。
「いや、そんなことはないと思うけど……」
「またまた~。そんなこと言ったって俺の目は惑わされないよ」
ニヤニヤとした清光の視線がどことなく気恥ずかしい。決してそんなものではない。
ただ、彼を見ているという自覚はあった。彼がやってきたのは半年前、そして、ソハヤの兄弟であり天下五剣の大典太光世がやってきたのは約一ヶ月前。私の中では、価値観が狂わされた出来事があったから。
*
ソハヤは生真面目な男だった。
膝丸や大包平の四角四面な真面目さとは違うが、系統は似通っている。言うことが正しい。正しいことを言う。
それが少し気難しく感じたり、重たく感じることがある一方で、彼はカラカラと笑う。あの爽やかな笑顔で「まあ、写しだからな」と山姥切国広と同じようなことを言う。
最初はやはりまた中々扱いの難しい男士が来たと身構え無かったとは言えない。だが、常に大体新男士とはそういうものなので、最終的にはうちに来たらうちの刀だ。うちの刀剣男士だ。どんな事情があろうが、どんな心構えであっても、男士として顕現した以上はなんらかの戦に関わることを了承してくれているのだと理解しているので、ここでの生活にはなんとか馴染んでもらいたいし、人の身をもって経験出来ることはぜひしてほしい。
私は人間として生まれたので、刀から人間になった男士たちの気持ちは理解しえないが、男士たちが少しずつ人間のような営みに興味関心を寄せていくところを見るのは好きだった。
そこに来て、ソハヤノツルキだ。
真面目で気さくな男は、馴染むのが早かった。まるで最初からいたみたいに溶け込んだ鶴丸並みだ。私の中の最短記録はソハヤに塗り替えられた。
兄弟と一緒に顕現させてあげられればよかったのだが、うちは季節を越えて、大典太を顕現させた。大典太が顕現するまでのソハヤの言動は特筆すべきものがあった。馴染むために努力をしているのが明らかだった。朝は早く起き、本丸内を散策し、色々なところに顔を出す。とにかく顔なじみを作る。顕現当初に私が「人間としての生活もぜひ楽しんでほしい」と伝えているにしたって、普通の男士は大体そこからではどうすればいいのか、ということに頭を使う。その方法がわからなくて、部屋に閉じこもりになった山姥切国広や、「俺は一人で十分だ」と本当にほとんどを一人で過ごそうとした大倶利伽羅に見せてやりたい。長らく霊刀としてしまわれていたからか外に出ることを欲していたのかわからないが、とにかく毎日ソハヤをあちこちで誰かと一緒に見かけた。そして、その姿は大体笑顔で、楽しそうで、人間の私よりも、人間を謳歌しているようだった。
なんて、明るい刀なんだろう。
そう思った。単純に。
だが、いざ本刃と話すともうこれがしっちゃかめっちゃかだ。二言目には「俺は写しだがいいのか?」と山姥切国広と同等に写し写しと口うるさい。
こちらが「いいですよ」と毎回毎回返事をすると、毎回毎回変な顔をする。あなたが言ったんだろうが。
ケガをすればセンシティブだし、遠征に送り出しても置物を引き合いに出す。
何か教育を間違えただろうか? 真面目に悩んだ。
だが、まあ、山姥切国広もあんなもんだ。「写し」であることからは逃げられない。それがアイデンティティの一つであって、それを前提として、彼らの精神的支柱は成り立っているのだろう。そう理解して、どうにか「がんばれがんばれ」とよいしょして、何度も戦に送り出した。
どうか、無事に帰ってきて。写しであるあなたという存在ではなく、この本丸に来てくれた「ソハヤノツルキ」という刀であるあなたの帰りの無事を、待っている、祈っていると、伝えながら。
そう思っていたのに。
「兄弟!」
二人の再会は感動的というより淡泊だった。土方組の涙涙の再会を見ていたのであれに比べると、だが。まあ、あの二人に関しては清光に言わせると「あれは特別」とのことらしい。
よう! とお互い片手を上げて接触することもなく、「待ってたぜ~」「そうか」とぽつぽつと。待ち構えていた前田家に縁のある男士たちに引き連れられ、大典太が行ってしまうと、残ったのは私とソハヤだけだった。
「遅くなりましたが、ようやく兄弟そろいましたね。お待たせしました」
「なに、別に急いでいたわけでもねえ。俺は俺のやることやって待ってただけだよ。待つのは得意なほうだしな」
「そうですか」
じゃ、と言って颯爽と行ってしまった。今度こそぽつんと残されたのは私のほうだった。
次の日から、ソハヤを本丸内で見かけることが極端に減った。大体室内で読書や詰将棋などをしているらしい。外で短刀たちと遊んでるのも見るが、厚と一緒に喧々諤々戦法の話で盛り上がるのは楽しいらしい。そこから将棋にチェス、碁にオセロ、盤上競技にかなりのめり込んでいるというのは本当らしかった。
今まであんなにアグレッシブに本丸生活を堪能していたのに!?
あちこちで見ていた金髪をよく探すようになった。今日はどこにいるのかとついキョロキョロと周りを見回す。おかげで金髪を見ると視線が行くので獅子王とも話す機会が増えた。
「ソハヤ? アイツ、健気だよな~。兄弟のためにってさ」
「兄弟のため?」
「いつか、兄弟が来るからって、いろんな奴に兄弟の話してたんだぜ。まあ、堀川とか鶯丸と似たようなもんだよな」
「あ、なるほど?」
だが、堀川や鶯丸は別に兼さんや大包平が来たからといって彼ら自身の行動範囲が変わったことはない。むしろ一緒に行動して、一緒に人間の身体を楽しんでいるところがある。
一方、大典太は前田や愛染、信濃たちに連れられているところはよく見るが、そこにソハヤは一緒にいない。なぜだ? なんで? あれ? 私はなにか思い違いをしていたのでは?
「それでなんでソハヤは引きこもるわけ?」
「引きこもってるっていうか、あっちが本質なんじゃねーの? いや、よく知らねーけど」
そうか。私も知らん。挨拶もそこそこに獅子王との会話を終えて、とぼとぼとした足取りで執務室を目指す。
ここ最近ソハヤを見かけないので、あちこちをウロウロしていていろんな男士たちと話したけれど、これはこれでいいことだったな、なんて思いながらも、私は一人の男士の顔を思い浮かべている。
マロ眉の、つり上がった赤い瞳に、スッキリと通った鼻。意志の強そうな前髪に、兄弟と似たような髪質のツンツンした金髪。太刀の中ではがっしりした身体つきだが、兄弟と並ぶと少し大人しく見える。
あの男は、一体なんだ?
*
「ソハヤって、なにが楽しいのかな」
「え」
「アイツ、やっぱり、天下五剣の兄弟だからって、遠慮してんのかな? そういえば青江もそうだったよね~。数珠丸さんがそこらじゅうに自分が来るまでの青江の話聞き取って青江記作ろうとしたの、止めるの大変だったな~」
「いや、あれ結局作ったよ。有志で」
「え? 審神者、初耳なんですが」
「主知ったら絶対見たがるじゃん。青江が絶対やだっていうから。数珠丸が完成したのを読経上げて最終的に燃やしたから」
「なにそれ、めちゃくちゃ見たかった。なぜ作った……」
どうでもいい昔話が変なところで開花していたことを今更知る。
「ソハヤ、そんなに気になるの? まあ、あいつも真面目だよね」
「真面目っていうか、度を超えてたというか」
「え? そう? 大包平より?」
「そっちの真面目じゃない。
本人に確認してないからなんとも言えないけど、もしかして、なんとなくだけど、大典太が来たからもう自分の役割は終わりって思ってる節がある気がするんだよね」
「あ~、なんとなくわかる」
トントンと書類を整理しおえた清光がすっくと立ちあがった。
「もっと詳しく聞きたいから教えてよ、その話。お茶淹れてくる」
*
加州清光はワクワクしていた。
自分の主はとても公平で、平等で、対等で、奢ることもなく、仕事は丁寧だし、そこそこ品がある。平凡なところがかわいい。おおよそ満足していた。
少しだけ不満を挙げれば、むしろもっと「人間」らしく、なにかに執着すれいいのにと思ったくらいだった。つまりは淡泊だったのだ。
そんな主が最近ずっと一人の男士を目で追っている。
ソハヤノツルキ。
良い奴だと思う。ヤンチャそうな見た目に反し根は真面目だし、悪くない。写し写しとうるさいのは初期から一緒の山姥切国広で審神者も清光も慣れていた。
だが、一体なにが主の心を掴んだというのだろうか?
「兄弟のためにねぇ……」
兄弟刀のいない清光には多少理解はしがたいが、堀川が堀川派との縁を大事にしていたり、長曽祢虎徹もまた「虎徹」という括りにそれなりに思いを抱えているのを間近で見ている。
特に天下五剣と兄弟なんていうと、プレッシャーも大きいのだろうか。
「すごいんだよね、ソハヤ。めちゃくちゃ気が利くんだよ。ほんと気付いたらいるの。うわ、雨だっつってみんなでバタバタして取り込んでても、最初はいなかったはずなのに最後にみんなびしょびしょになってすごかったねーなんていう時には居て、しかもタオル配ってる側なの。あいつも濡れてるのに」
「うっわ、少女漫画か?」
「おやつ配ってても、時々どうしても数足りなくなるじゃん。大体は太刀とか打刀のみんなが譲ってくれるけど、そういう時ってやっぱりソハヤは食べてないんだよね」
「へー」
「あとさぁ、知ってる? 時々山姥切国広と写しの会やってるの」
「なにそれ知らない。めちゃくちゃ気になる」
それには主が噴き出す。
「食いつき良すぎじゃない?」
「いやいや、その名称気にならないわけないでしょ」
「二人とも非番の雨の夜に開くんだって。風流だよね。
二人で写しあるある話したり、写しにまつわる苦労を語るらしいよ」
「うわ~~~~同席して~~~~~。いや、嘘ついた同席はしたくないけど、話だけ聞きて~~~~~~~」
「たまたま夜に飲み物取りに母屋行ったらばったり会ってね。山姥切国広が兄弟以外と酒盛りなんて珍しいから聞いたら「写しの会だ」っていうから……。ビックリした」
「ソハヤはそれ聞いてるの?」
「どっちも話してるみたいだけど、多分ソハヤが息抜きさせてるっぽいんだよね。前に堀川にもそれ言われてソハヤになにかお礼がしたいっていうから一緒に簡単なお礼になりそうなもの探しに行ったんだけど……」
「堀川!? 待った待った待った、どこから突っ込めばいいの? もうちょっと早くに話してほしかった。いっぺんにソハヤを摂取しすぎた。はー、マジ過剰摂取」
「そう? まだあるんだけど。聞きたいって言ったの、清光じゃん」
「え、で、主はソハヤをどう思ってんの?」
キョトンとした主の顔が、少し傾く。
「いや、それを知りたいのは私のほうなんだけど……」
本当に、自覚のなさそうな主に、思いっきりため息をついた。
「それ、恋以外のなんなの、ねえ、主」
*
清光に「恋以外のなんなの?」と言われてからの記憶がない。
恋? 誰が? 誰に? は???
夕飯は食べた。風呂にも入った。ようやく落ち着いてきた。私は誰だ。ここの審神者だ。
誰かに恋? そんなバカな。相手は刀剣男士、刀である。人間ではない。人間の器を持った付喪神だ。人のようで、人ではない。
恋だなんて、おこがましい。
それに、この職に就く以上は、いつ戦死するとも限らない。審神者の死亡率は決して低くはないのだ。そんなことに現を抜かしている場合ではない。今は戦時中なのだから。
「主」
「っひゃい!」
「……入ってもいいかい?」
こちらの返事に笑いを堪えた声が緩く障子を再度ノックした。
「……どうぞ」
そういって、入口に立った。
この声はソハヤだ。
「夜遅くに悪いな」
「いえ、まだそんな……。起きてましたし」
なんとなく目を合わせづらくて服だけを見ていようと思っていたのに、いつものジャージじゃない。多くの男士たちが着用している寝間着の浴衣だ。下げた視線から見えた合わせのところから、のどぼとけまですっと視線が自然と上がった。綺麗な真っすぐとした喉が見えたから。
いつもの髪型ではなく、まだ少し湿っているらしい金の髪は暗い照明と風呂上りのせいか少し重く沈んでいる。普段より落ち着いた色合いと綺麗な頭の形に撫でつけられた髪の下の鼻筋はいつも通りスッとしており、目は暗くてもハッキリと明るい紅色が、まっすぐに私を見ていた。
人間では有りえない、赤い瞳が。
「主?」
さっきの清光が言ったことが、ようやくわかった。
これは、恋だ。
この瞳に、見られたかったのは、私のほうだ。
私ばかりが、ずっと見ていた。本丸全体を見てくれる彼を、いつからか追って、こちらと時々合う視線に戸惑いを覚えていた。
彼の兄弟が顕現してからずっとその瞳が合わなくなった。
ソハヤの代わりに、大典太があちこちにいる。いろんなところに根回ししておいたからか、大典太は想像よりも皆とうまく馴染んでいるらしい。なにより世話好きな短刀たちが傍にいるのだ。心配はあまりしていない。実力だって、天下五剣だ。いくら蔵に封印されていたとしても、腐っても天下五剣というのは、強いのだ。あっという間に錬度は上がっているし、ソハヤ相手に手合わせをしている大典太は楽しそうですらある。
では、ソハヤは?
あなたは? あなた自身は、なんになるというのだ。「坂上宝剣」の写しということと、兄弟の写しであることは全く違う。常になにかの「写し」である必要はない。
この本丸にいるソハヤノツルキはあなたしかいないというのに。
「主? 大丈夫か?」
「あ、いえ、大丈夫です」
思わず呆けていた。自覚をしてしまうといよいよ視線を合わせられない。視線を下せば、自分とは比べものにならない大きな男の手が見える。小さな切り傷擦り傷、浅い爪が、実直さを表している。
「そうか? いや、用件は大したことじゃないんだ。
明日の遠征第二部隊に入っているんだが、俺を外してほしい」
「なぜ?」
「なんとなく、わさわさした感じがあるんだ。なにか、起こる気がして……。俺か、兄弟か、この本丸か……。別に大したもんじゃねえ。
気のせいならいいんだ。だが、可能なら、外して明日ここに留め置いてほしい。これでも、主の守り刀なんでな」
う。今絶対めちゃくちゃいい笑顔だった。見たかった。だが、見ることが出来ない。まるで頭の中でなにかを思い出している振りをして、非番だった男士の名前を挙げる。
「わかりました。代わりに鯰尾に入ってもらいましょう。変更は明日、私から直接鯰尾に伝えます」
「そうかい、悪いな。ありがとう。
こんな時間に悪かったな。あんたも早く休んでくれ」
「ええ。あなたも。おやすみなさい」
「おやすみ」
そして、静かに障子が閉められた。
*
「いや、待って。ほんと無理」
「主さん、深酒はダメですって。もうすぐ日付変わるんで片付けますよ」
「ごめん、あともう一杯! もう一杯だけ! 寝れない! こんなんじゃ寝れないから!」
「清光ー。お前のせいだろ。自覚なんてさせるから」
「えー、みんな同じ意見だったじゃん! それで俺だけのせいにするの違くない!?」
「こらこら、喧嘩すんなよ」
ソハヤが去って、布団に入って寝れるわけもなく、一度消灯したのににも関わらず新選組部屋に来てしまった。
私が顔を真っ赤にしてさっきのソハヤのことを話しているにも関わらず皆しら~っとした様子にいきり立って「みんなひどい! こんなに私が驚いてるのに誰も共感してくれないなんて!」と叫ぶと、ついに兼さんが言ったのだ。
「いや、アンタとソハヤだけだと思うぞ、その好意に気付いてなかったの」
「は?」
いわく、主の視線とはみな自然と追っているらしい。言われてみれば、確かに毎日やたらと男士たちとは視線が合う。
その主が、ある刀の顕現からずっと、一人の男士を見ている。
これはいよいよ春が来たのでは? ともっぱら男士たちの中ではずっとホットな話題だったらしい。
「そんなの知らないよ! なにそれ!?」
「いや、主もよぉ、戦にばかりかまけて華がねえとは思ってたが、それを口にするのはさすがになって思ってたんだが、アイツが来てからのアンタの目はいやにキラキラしてやがるし、ああ、これは春告げ鳥だなんだと俺たちも祝杯を挙げたばかりよ」
「勝手に祝杯を挙げるな!」
「えー、でも今までどの男士にもそんな目線は投げなかったよ。本当にみんな平等。おんなじ。僕はそれでいいけどさ。
あの三日月宗近も、鶴丸でも、大包平でもなく。もちろん、和泉守でもなくってね」
「うるせえな」
「え、本当に自覚なかったんですか?」
さりげなく最後の一杯を注がずに、すっと新選組の部屋の簡易冷蔵庫に私の安酒が堀川によって仕舞われた。
「……はあ……」
「だから言ったじゃん。主は鈍いよって」
「ねえ、気になってたんだけど、まさか、私は、顕現仕立ての時から、ずっとソハヤを目で追ってたってこと?」
「そうだね」
「だなー」
「うん」
「はい」
それは、それでは、まるで
「一目ぼれじゃねーか!」
うわっ! と机に突っ伏したところで、部屋の襖がスパーン! と開いた。
「貴殿ら! 一体今何時だと思っている! とっくに消灯の時間は越えてい、え、あ、主……?」
「げ、歌仙」
「こんな遅くに母屋に来て、それも酒を飲みながらだと! 雅でない! なにかあったらどうするんだ!」
全員で歌仙の雷を受け、みんなで遠征でいない長曽祢虎徹に思いを馳せた。
*
「ソハヤ」
「ん? どうした」
朝一でソハヤと鯰尾の編成入れ替えが発表された。私用で入れ替わることもあったり、別に複雑な事情がないと部隊を変えないわけではない。鯰尾も特になんにも思わずに「了解でーす」と答えていた。
昨日の主の話からソハヤを見ていたが、確かにすこしソハヤの気配が固い。ちょうどいいと思った。
朝食のあと行われる朝礼後に、即座に掴まえて声をかけると、朗らかな様子だ。先ほどまでの固い空気はほとんど見えない。気配が見えにくい刀である。
「主から聞いたよ。念のため、今日は主の傍に控えてもらってもいいかな」
「ん? いや、別にそこまでしなくても……。畑でも手伝ってるよ」
「いや、頼みたいこと色々あるんだよね」
「俺にか?」
「そ」
近侍というのはここでは第一部隊の隊長のことだ。
通常、そのまま第一部隊が戦に出陣する。その近侍は基本的には事務をしない。審神者の補佐は清光だけが勝手に手伝っているものだった。
「俺この後遠征だからさ。この資材の管理、手伝ってほしいんだよね」
「これ、主がやってる仕事だろ? 勝手にいいのか?」
「やってほしい。あの人、結構仕事は手一杯なんだよ。俺たちに任せられないっていつも言うけど、それは俺たちへの遠慮の意味なんだよね。
俺なんかは無理矢理やってるけど、アンタ、そういうの上手く誤魔化すの得意そうだし」
「ははは、失礼だな」
そういって笑うも、全く悪意を感じない。どうやら、言いたいことはちゃんと伝わっているらしい。
「なんか昨夜も少し様子が変だったし、気になってたんだ。守り刀として、手伝えることがあるのなら歓迎するよ」
守り刀ねえ……。それがどういう意味かは、聞かないでおいた。
*
「ひえ」
「ん? なんか間違ってたか?」
「めっそうもない」
ソハヤが昼前に「ちょっといいか」と声をかけてきた。
昨日からこちらはソハヤのことで頭がいっぱいだというのに、急になんだ、圧をかけるな。室内では、非番の安定が私の本棚から勝手に本を漁っている。なんの助けにもなりゃしない。
「加州清光に言われてな。資材の在庫確認をしてきた」
「え?」
「あんた、立派なオーバーワークなんだろう。刀の数も増えたんだし、アンタじゃななきゃ出来ない手入れや鍛刀以外なら、俺たちにも任せてくれ。それくらいなら主の手を煩わせることはないさ。
一応、加州に教わった通りにやったんだが、どうだ? 確認してもらえるかい?」
そういわれたのが数分前、気付いたら、安定がいなくなっていた。私の隣にはソハヤ。え、こんなに近い必要ある? 近くない?
「え、近くないですか?」
いかん、思わず声が出てしまった。キョトンとしたソハヤが、さっと離れた。
「あ、悪い悪い。でも、いつもアンタ、近侍とこれくらいの距離だろう?」
「へ? え? ほんと?」
「いや、だって、さっき大和守、アンタの背中に寄りかかってたぞ」
「マジか」
やばい。ソハヤだけ意識しすぎている。ソハヤは「まあ、体格が違うからな」なんてはははと笑ってくれていた。心が広い。やめてくれ。私をののしってくれ。恥ずかしさで火が出そうだ。
「なんで全然事務仕事やらせてないのに出来るの? すごくない?」
「そうか? アンタがやってるものがあるからな。見本があればこれくらい出来るだろ」
「ひえ~」
何言ってもすげえいい言葉が返ってくる。清光、早く帰ってきて……。
「あ、そろそろ昼飯の時間か。行こうぜ、主」
「え、もうそんな時間。はい、そうですね」
「ほら」
「……」
スッと、手を引かれた。自然と、立ち上がる時に、まるで、お姫様を扱うように。一人で立てるのに。
「主?」
うわ~~~~~~~~~~。見ないで~~~~~~~~。
思わず両手で顔面を抑えた。顔が熱い。え、それ普通にやる? そんなことする?
確かに今までは遠くからしか観てなかったし、視線が合うことはあっても接触なんてしたことなかったけども!
こんな仕草する男士今までいなかったけど? 光忠だってしないよ!? 嘘、貞ちゃんにはされたことあるけど、あれは貞宗だからであって、貞宗はノーカウントだ!
「行かないのか?」
「生きます!」
「ん?」
恥ずかしくてソハヤの顔を見れないまま食堂まで速足で移動した。
*
「それで、あなたはここに逃げてきたの?」
「うっうっ、だって~~」
「人間とは脆いですねえ」
「主よ、せっかく和睦の道があるのですから……」
「いや、あれは和睦なんでしょうか……江雪兄様ぁ」
「あなたの兄様ではありません」
ぴしゃりと宗三に撥ね退けられた。
小夜が淹れてくれたお茶はすでに冷めている。それにきっと気付いているだろう小夜は小さくため息をついた。
「あなたが本当に嫌なら、僕はあの人を執務室から追い出すけど」
「それはそれで本心ではないでしょう?」
「はい~」
最終的に、絶対に私の味方になるだろう小夜をこちらに引き入れようとする計画は宗三のせいで大体総崩れになる。彼は人の心の機微にうるさい。
これまで私が全部スルーしてきた人の心の機微を今更拾ってきたのを半分呆れ、半分面白そうに見ているくらいだ。きっと清光たちと色々画策していたうちの一人であるのは間違いない。
「なら、そろそろ戻ろう。僕も一緒に行くから」
「お小夜、あんまり主を甘やかさなくていいんですよ」
「やだー! 小夜と一緒に行くー!」
「お小夜を利用しないでください! この女狐!」
「主!」
宗三と小夜を取り合っていたら、鋭い声が飛び込んできた。顔中に脂汗を滲ませ、なにか得たいの知れないものを見たような顔をしたソハヤだった。
「兄弟の気配がおかしい!」
「え?」
すぐに立ち上がり、本丸のゲートに向かう。ソハヤが言っているのは、もうすぐ帰ってくる第一部隊のことだ。時間的にはもうすぐのはずだ。だが、帰ってくるより先にソハヤがそんなことを言ってくるとは。
「気配が変ってどういうこと?」
「昨日言ってた通りだ。なんだか、胸のあたりがわさわさする。気持ちが悪い」
「第一部隊が帰ったぞー!」
「主を呼べ!」「手入れ部屋を開けろ!」「手の空いてる者は手伝え!」
極も増えた我が本丸で、久しぶりの喧騒だった。
ソハヤの直感は正しかった。
部隊はほぼ刀装は失ったが軽傷が大半だった。ほとんどが極の部隊であり、唯一の錬度上げをしていた大典太のみ中傷という結果で、正直ひどい有様ではない。
だが、問題はそれではない。今まで検非違使がいなかったエリアでの出現だった。
「そうか、あそこももうそんな回数出陣していたんだね」
「これは私の不注意でした。錬度を上げていた途中の男士がいれば、当然検非違使も強くなる。もっと注意するべきだった」
「だが、大事はなかった。それほど気に病んではいけないよ、主。そのために出陣を控えることなどはあってはならないからね」
「はい。もちろんです。戦うことが貴方たちの、そして私たち審神者の使命ですから」
緊急の軍議を終え、みんなが「お疲れ様ー」と言いながら執務室を出ていく。私へのいたわりの言葉をかけながら。
「主」
「清光、小夜」
「すこし、休んで。頭を休めるのも仕事だよ」
「うん、ありがとう」
清光と小夜が、私の手を握る。ひどく冷えている。緊張の強張りがこうしていつも会議の後には強く出る。誰も審神者を責めない。それが一番響いてくる。後々まで。
審神者は知っているのだ。
自分もまた「写し」のようなものであることを。自分の代わりなどいないと、優しい自分の刀たちはいつも口酸っぱく言ってくれる。だが、本当にそうだろうか。いや、違う。
知っている。自分が死んでも、次の審神者がいる。珍しい職業であっても、あくまでも職業だ。自分にしか出来ないということではない。
私もまたただの駒でしかない。その無価値さをこうして度々突きつけられているようで、心細くなるのだ。自分の刀たちに悪いと思いながら、人間の暮らしを喜びを知ってほしいなんて言いながら、その実人間の弱さに一番辟易しているのは審神者自身だ。なんて軽い決意だろうかと自分に呆れる。
「大典太は?」
「手入れ札使ったから部屋に戻ってる。さっきソハヤが何の問題もないって報告来てくれたよ」
「気になるなら、会ってくるといい。ううん、行ったほうがいい」
あなたは、すぐに眠れなくなるから。
眠れないと湯たんぽ替わりになってくれる小夜に言われて、三池の部屋に向かった。
*
「大典太、いますか?」
「悪い。兄弟は風呂に行っちまった」
外から声をかけると、すぐに返事があってソハヤが出てきた。
「軍議はもう終わったのか」
「はい。今後の対策を話し合っただけですので。決定はまた明日朝礼後にお伝えしますね」
「ああ、了解した」
「あの、ソハヤ」
「なんだい」
「写し」であるということは、なにかの代わりであるということは、本当に良くないことなのだろうか。
「……いえ、なんでもないです。
大典太に、今日はよく休むよう伝えてください。また明日お声をかけますとも」
「兄弟は気にしてないぜ。あれくらいなら大したケガでもない。そんなに気に病むな」
ぽん、と頭に暖かい掌が載せられた。
暖かい気配がじんわりと伝わってくる。これがソハヤのいう「霊力」なのだろうか。心地の良い柔らかな気配が、じんわりとした熱が、冷や水を浴びたような全身をゆっくり巡って暖かくしてくれる。さきほど、清光と小夜が温めてくれたばかりだというのに、この部屋に来るだけで冷たくなってしまった自らの弱さをまた痛感した気がした。
「大丈夫だって。霊力くらい、じゃんじゃん出して、力になってやるよ。俺も、兄弟も」
「ありがとう」
思わず、涙が出そうになって、逃げるように急いで自室に戻った。
*
あの不調は、体調の不調でもあったのだなー、と今更思う。審神者になって早数年。いや、たったの数年か。いや、だがしかし、もう数年……。一体いつになったら学習するのだろうか。
「主、飯だ、飯」
「う、ありがとう……」
「身体起こせるか? 痛み止めは?」
「もう飲みました……」
あれからソハヤが近侍のような真似事をする日が増えた。清光の差し金だということはわかっている。だが、それをハッキリ断ることも出来ず、毎日ソハヤの言動に逐一振り回されながらも、それなりに充実した気持ちが芽生えてきたのも事実だ。
だが、すぐに月の物による不調だと気付いた。先日のソハヤの「わさわさ」も、もしかして審神者の霊力の揺れを感じたのではないか? とひっそり清光や小夜とも話し合った。
女性が一定周期によって体調を崩す、ということは男士たちは理解していた。姫君たちの元にあった短刀たちが中心となり、審神者をフォローしていたが、今はそのままソハヤが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれている。好意を持っている男士相手に、情けない姿を晒すことに最初は抵抗があった。しかし、こうでもしないと素直に甘えられない。矛盾した気持ちを抱えながらも、ソハヤの熱い体温が余計に熱くていつものように言葉ですらない「ひえ」という鳴き声を上げていた。すでにソハヤはそれに慣れてスルーするくらいには。
「じゃあ、薬が効くまで横になってろ。遠征部隊の報告はこっちで聞いとく。まあ、加州が隊長だから特にやることもねえか。
なにか温かい飲み物でも用意するか? 飲む頃には冷めるだろ」
「はい……ありがとう……」
「どういたしまして」
いつも、挨拶をきちんとする男だ。そういうところが嫌いじゃない。思わずふふと笑いがこぼれた。
「どうした」
「いえ、『どういたしまして』っていつもちゃんと言うの、かわいいなぁって」
「え、かわ……?」
キョトンとした後、金髪のせいか白く見えがちな顔に、すっと朱が昇る。
「あ! ごめんなさい! 変な事言って!」
「あ、いや、別に、なんてことねえよ」
「あー、もしもーし。イチャイチャしてるところ悪いけど、報告いいですかー」
「清光! イチャイチャなんてしてません!」
「あー、はいはい。ほら、早く食べなよ。歌仙が作ったうどんだろ? 具合が悪いったって腹壊してるわけじゃないのに、毎回うどん用意してくれるよなぁ、歌仙」
よいしょ、と声を挙げながら審神者とソハヤの間に座った清光に、先ほどとは違う「かわいい」を感じてまた少し微笑んだ。
風呂上がり、火照った身体を夜風に当てているところに最近は大分慣れた気配が声をかけた。
「体調は?」
「ああ、もうほとんど大丈夫です。山場は越えたので……」
今回はひどかった。一週間事前の頭痛があってからの本番二日間、ひどい頭痛と腰痛で呻きながら過ごした。風呂でゆっくり温まったらさすがに大分よくなった。燭台切が鉄分の補給ドリンクを差し入れてくれたのを風呂上りに飲むのが最近のルーチンだ。仕事も出来ないのに男士を傍に置いておくことも出来ず、清光と小夜、身の回りの手伝いで平野に控えてもらっていたが、三人にももう解散してもらったところだ。ちょうどソハヤも風呂上りらしい。また下がった前髪から水滴が垂れた。ああ、水も滴るいい男、か。
「髪、濡れてますよ」
「部屋で乾かすからいいんだって」
そういって、審神者の手に持っていたドリンクに初めて気がついたという風にその手元を見る。手でかざしながら「鉄分を取るためのドリンクです」というと、「ふうん」という気のなさそうな返事の声と一緒にあっという間に奪われた。あ、と思う間もなく、一気に全部飲み下される。ごくりと動いた喉元に、見てはいけないものを見た気がした。
「あ、ああ~」
「……なんか変な味だな」
ペロリと舌が唇を舐めとる。ひえ、とまたいつもの声を上げると、ソハヤが笑った。
「早く寝ろよ。また明日行くから」
「ひゃい……」
今日傍に置いていなかったことを責めるような言い方だった。
*
「な~んてこともありましたな~~~!」
「落ち着いて。主、いったん落ち着こう。そのページを閉じて」
清光は、この二人はうまくいくと思っていた。
ソハヤはいい奴だ。こいつになら主を任せてもいい。変な素行はないし、時折グチグチ「写し」だなんだとうるさいが、それくらい目をつぶってやる。
主だって、意外と繊細で、そういうところはソハヤに似ている。似たモノ同士は恋人に向いているとなにかで読んだ。なにかの漫画だっただろうか。
昨日までは上手いこといっていたはずだったのだ。小夜はずっと「主の心がちゃんと自分で気が付くまで派」だったのを、「さっさと自覚させてくっつけたい派」の清光たちに押し負けて以降気を付けて主を見てくれていた。その小夜がすごい勢いで飛び込んできたのだ。「主が失恋したって騒いでる」と。
近侍を付けていなかった主に、ソハヤを近侍のような役割にして無理矢理に手伝わせ始めてから、彼の言動に逐一振り回された結果をあーだこーだと満更でもなさそうな顔で報告してくる明らかに「恋」をしている主に、清光は満足していた。前の「誰もに平等に」という態度は正しいが、今の主のほうがよっぽど人間らしく、落ち込み、悲しみ、喜び、笑う。表情が二倍も三倍も十倍もかわいくなった。
今まで短刀と清光にしか言わなかった「かわいい」という言葉をついにはソハヤに使うほど、恋にのめり込んでいるように見えた。
それがどうしたことか、小夜の慌てぶりに、急いで執務室に飛び込むと、主は美容院を検索していた。
「なに、どうしたの、なにがあったの、主」
「放っといて! やだやだ、もう髪なんて切ってさっぱりする!」
「嘘つけ、切りたいわけでもないくせに! 主、長い髪好きじゃん! 自分には嘘つかないでよ!」
「うう……」
そういって主の両手を無理矢理掴んで、身体をこちらに向かせる。小夜が近くにいる気配がある。心配でついてきたのだろう。
「どうしたの、主」
ぐすぐすと、鼻を鳴らして泣き出す。
「ソハヤたち、朝帰りだった」
「は?」
その言葉に、ようやく室内に入ってきた小夜が、「あ」と声を出す。
「あの、陸奥守さんたちだ」
「え、ああ! あれ? ソハヤも一緒だったの!? マジで!?」
清光も知っていた。
新選組連中もそれなりに盛んな奴もいる。男士たちも肉体が男である。この審神者は普段はそういうところにはおおらかで、任務に支障がない限り夜の外出も認めている。
三池兄弟はそういう傾向が今まで見られなかった。すでに一年近く前に顕現したソハヤが夜間外出をしたとは清光は聞いたことがない。だから、大丈夫だと思ったのだ。主に対しては男士は最初から一定量の好意は確実にある。そこに欲が混ざりすぎてるのも不安だが、ソハヤにその欲はあまり見えなかったから。
「うわっちゃ~。え、マジで……ほんとに……」
「僕は知らないけど、朝、陸奥守さんたちと食事取ってたから珍しいなと思って」
「そうか~。いや、でもただ飲んできただけかもしれないじゃん! 陸奥守ってことは、肥前とか南海先生とかも一緒でしょ?」
「それだけじゃない」
びすびすと涙を流す主に、いよいよ清光は固まった。
*
夕方、陸奥守たちが外出していくところを見た。
その中に、今日の近侍の仕事を終えたソハヤがいるのも。
衝撃だった。夜間に外出する男士たちの目的は大体一つだ。例外として古備前たちが料亭のようなところに三か月に一度くらいの割合で互いに給金を溜めて食事に行っているというのを聞いた時は涙が出るほどうれしくなったが、そういう雰囲気ではない。陸奥守が楽しそうに話し、朝尊が相槌を打ち、時折肥前が陸奥守の腕や足を引っ叩いたり引っかけたりしている。そんな土佐組の空気をものともしない同田貫と一緒に談笑しながら後ろから着いて行っているのはソハヤノツルキだった。
やっぱり、自分だけだったのだ。
毎日楽しかったのは。
だから恋なんて嫌いなんだ。一方通行の思いなんて叶うはずがない。なにも告げてもいないのに、夜の街に行くのはやめてほしいなんてことは言えない。なにもかもがこちらの一方的な気持ちの押し付けでしかない。元々清光の代わりになってくれていただけだ。それもきっと彼の中では「写し」としての行為の一環だったのだろう。
「私」だからではなく、「審神者」だから仕事を手伝っていたにすぎない。当たり前の話だ。
なにを傷つくことがある。彼は立派な男だ。そういう欲や感情を持つほど、人間のようになってくれたのだと思うと、本来喜ぶべきところだ。正しい機能を持って、それを使う。それのなにがいけないのだ。
な~んて、色々考えて結局まんじりともせずに明け方を迎えた。
もしかして、そろそろ帰ってくる頃かもしれない。いや、もしかしてもう帰ってきてるかも。この時間から待っていれば、もしかして夜中に帰ってきたかどうかわかる。
朝帰ってきたら、諦めよう。
彼を、ソハヤノツルキを、人のように想うのは。
そう思って、無理くり身体を起こして、冷水で顔を洗った。
「主」
それから一時間ほどして、まるで目が早く醒めたので庭で花を見てました~という体を装って(装えているかはわからないが)じっとしていた。明け方はさすがに身体が冷える。元から冷えていたが。
上から落ちてきた声は、いつも聞きたいと思っている恋した男の声だった。
「こんなところで何やってんだ。眠れなかったのか?」
「うん、ちょっとね」
「……そうか」
ぽん、とかつてのように頭に掌が載せられた。暖かい霊力が流れてくる。さりげなく立ち上がって、その手をどかした。ソハヤがさすがに不審に思ったのか目を細めた。それを口にしない様子に、彼の機微を慮る力を思い知る。
「今帰り?」
「……ああ」
後ろで陸奥守たちが手を振っていた。時折こうして朝帰りの男士たちと鉢あってしまう時があるが、別に罪悪感を感じることはないと伝えているので、向こうの態度は朗らかだ。心中穏やかでないが意地でにこやかに手を振りかえす審神者以外は。陸奥守たちはさっさと母屋に戻ったが、ソハヤはまだ審神者を見ていた。彼も寝ていないらしく、珍しく目の下にうっすらと隈のようなものが見える。
「なあ、アンタは」
「なに?」
「ままならない思いをしたことはあるか?」
今です。
咄嗟に出るかと思った言葉を飲み込んで、情けなく笑う。
「あるよ」
「そうか」
再び言葉を少し詰まらせたかと思うと、また勢いよく口から言葉を吐き出すように話し出す。
「なあ、アンタは……恋をしたことは?」
「は?」
「恋って、どういうものなんだ?」
まさか、この男、事を成して初めてその感情の存在に気付いたというのか? あんぐりと開けた口を急いで閉じて、今度は唇が震えるのを抑えつけるのに必死になった。
「恋って、」
私は、言えるだろうか。「恋」がどんなものだったか。あなたがくれた「恋」を、言葉に。
「うれしくて、たのしくて、ワクワクして、ソワソワして……」
毎日ソハヤを探すのは楽しかった。
視界の中に金髪が映るのをワクワクして本丸の中を移動して、副産物だがたくさんの男士たちとも交流して本丸の中の空気は適度にかき混ぜられて循環が良くなった。
朝「おはよう」と声を掛け合い、夜「おやすみ」といって眠る。明日もまたソハヤに会える。そんな毎日がかけがえのないものだと知っていたはずなのに、そんな小さな幸福は長くは続かないと知っていたはずなのに。
「うん」
「でも、時々怖くて、しんどくて、もう嫌だって思って、泣きたいことがいっぱいあって、ひどく傷つけられることもある」
ソハヤがどんなつもりなのかはわからない。
いや、だが、元から好意的な言動の多い男だった。それの理由は「主」だからで全て説明がつく程度には。
最初から私の、独り相撲だったのかもしれないのだ。
「……」
「あなたは? あなたは恋を知らなかった? そして、ままならない思いをしたことは?」
当てつけだった。全部、突き返してやろうと思って。
「恋なんて、知らなかったよ。
ままならない思いは、今している」
「知らなかった」とは、もう知ってしまったということか。
「今」ままならない思いをしているとは、ついさっきの出来事の反芻だろうか。
恋を知ってしまったのか。
「私」ではない、誰かに。
どうやって部屋に戻ったのか、覚えていない。
彼を好きになってから、そういえばずっと切っていなかった髪を切ってやろうと突然思った。
なにもかもを、忘れたくて。
*
「おいソハヤ! 髪は長いのと短いのとどっちが好き!?」
「はあ? 藪から棒になんだってんだよ」
「いいから! 長いほうが好きって言え!!」
「ええ!?」
結局泣き疲れて寝てしまった審神者を布団に戻し、ソハヤに今日の近侍は無しだと伝えに行ったはずが、清光はソハヤになんとしても長いほうが好きだと言わせようと躍起になっていた。
あの髪は主が願掛けまでいかないまでも、それなりに大事にしていたのを知っている。そんな簡単に切っていいものじゃない。今までだってそんなにバッサリ切ったことなんてなかった。清光が知る限りでは。
自分の意志で、切りたいと思っているわけじゃないのに、一時の感情に流されて大事にしていたものを手放させるなんて、させたくなかった。
自分たち男士を大事に、大切にしてくれているのを知っているからこそ、主の「大切」な思い出を不本意に捨てさせたくなかった。
「どうしたんだよ、加州……」
「あ、今日の近侍はねーから。主、体調悪いから今日部屋行くなよ」
「え、マジで。明け方会ったんだが、なんか様子がおかしかったんだよな……」
そういうお前はマジでいつもどーりじゃねーか、クソ。思わず舌打ちしそうになったのを食い止めたので誰か褒めてほしい。本当は、主にあんな泣き顔をさせたコイツを全力でブン殴ってやりたかった。俺の大事な、大切な主を泣かせることの出来るソハヤが憎たらしい。それでも、コイツが、本当に嫌な奴ならよかったのに。
「とりあえず、えっと、じゃあ、主が髪を切ろうか検討してる。俺は長いほうが似合ってると思う。
お前は主の髪は、長いの、短いのどっちがいい」
「どっちって、だって短いのなんて見たことないからわかんねーけど……」
「いいから想像で答えろ!」
「どっちでもいいよ」
は? 今度は思わず声が出た。かわいくない低い声が。
だが、ソハヤはそれはそれで真面目な顔つきだった。
「主の話なんだろ? ならどちらでもいい。
だって、見目であの人の霊力が変わるわけじゃあ、ないからな」
*
ばっさりいった。
髪の毛の話だ。結局髪を切って戻ってきたら清光が号泣した。安定と堀川に引っ立てられるように連れ戻されていたが。
小夜がお茶を淹れてくれて、歌仙が作った生菓子を頂く。私が好きな菓子だったので「わーい」と喜んだのに、すっかり首が見えるようになった襟足を摘ままれ「ひえ」と鳴き声を上げたら、気遣わし気な表情だった。
「何があったのか知らないけれど、どんな姿でも、君は素敵な僕たちの主だよ」
やめてくれ。泣くかと思った。
ちょっとしたリフレッシュです、と皆に説明して回った。
また近侍は清光と小夜、時々宗三に入ってもらうことにした。ソハヤはなにか言いたげだった。けれど、直接なにかを言いに来ることはない。
そうかー。やっぱりそんなもんなんだなー。恋は盲目とはよくいったものだ。正しい。合っている。まるでソハヤのようだ。こちらばかりが想っていて、釣り合いの取れない感情は相手にとっての負担でしかない。彼にこれ以上の重荷を背負わせるわけにはいかない。
同田貫にまで襟足を摘ままれたのは驚いた。「ずいぶん短くしたんだな」と歌仙みたいな表情だった。「まあね。首がちょっと寒い」というと「本当に寒かったら言え。これ貸してやるよ」と襟巻を指さしながら笑われた。
ああ、いい男士たちを持った。
そうだ。私はここにいる全ての男士たちの主なのだ。
誰か一人を愛してしまったのが間違いなんだ。私が全て悪いんだ。
小夜がおやつの食器を片付けに部屋を離れた瞬間から、後悔が襲ってきて、自然と涙がこぼれた。美容室では全く平気だったのに。こんなに短くしたのは初めてで、いっそ楽しくなっていたのに。
なんにもなくなってしまった。背中に当たる髪も、清光と同じ髪型にして笑ったことも、時々堀川が私の髪の手入れを兼さんのついでにしてくれたことも、全部大事なことだったのに、私は自分の過ちのせいでそれごと捨ててきてしまった。自分のせいで。
一度だけ、彼が褒めてくれたから伸ばし続けた。
夕焼けの見える畑の中で多分なんの気なしに言っただろう「綺麗な髪だ」と彼が言ったあの瞬間から。
ソハヤのことを、好きにならなければよかった。
本当にそうだ。
彼の言う通りだ。ままならない。たった一人で抱えるには「愛」とはなんて重たいのだろう。みんなどうしてこんな思いを抱えながら生きていけるんだろう。
次から次へと涙が溢れる。なんにも見えない。喉の奥に涙が、鼻水が貯まった気がして、思いっきり鼻を吸うと、吸い込みすぎてえづいた。
「無理すんなよ」
暖かい霊力が、頭に触れた。
思わず、払いのけた。つい、驚きすぎて。気配もなんにもわからなかった。いや、男士たちが本気を出したら、私なんかがわかるわけがないのだが。
涙目で滲んだ目でも、ソハヤの紅い瞳がいつものようにまっすぐ私に向いている。その視線を受けるのは、私だけがよかった。こんな浅ましい願いを、他の誰かを思う彼に、知られたくなかった。
「な、なに、び、っくりした……」
「悪い」
そういって、やっぱり襟足を摘ままれる。ソハヤの熱い掌の温度が首筋に当たった。同田貫の時も、歌仙のときもこんなに熱くなかった。いや、彼らの指は、冷たかった。
どういうことだ。
「なあ、短い髪って、誰かの好みなのか?」
「は?」
「俺は加州に言ったんだ。どっちでもいいって。アンタがアンタなら、長かろうと、短かろうと、どっちでもいいって」
「はあ……」
「でも、切っちまったんだな」
「あ、はい」
コイツハ、なにを、いってるんだ?
「一応、追加したんだ。加州がどっちだってうるさいから。
俺は、「長いほう」って答えた」
「へえ……」
初耳だなぁ。ソハヤは長い髪のほうが好きなんだぁ……。へえ……。
「なあ、アンタは、『誰』を思って、髪を切ったんだ?」
ぞわりとした空気が、首筋から、顎先にかかる。
座り込んだ私の前に、同じように座り込んだソハヤが、私の顔をさらに覗き込んだ。
深紅の瞳が初めて、透き通っているのに、その奥の感情を一切感じさせないものだった。作り物みたいな、綺麗な眼球に吸い込まれるようにそれだけをじっと見つめる。いや、見つめられている。
「ままならないなぁ。
ああ、ままならない。『恋』を知った時には、アンタにはもう『恋』があった。俺は恋をしているアンタを見ていたんだろうなぁ。
自覚が遅いっていうのは、いわゆる無知の罪と同じだな。みっともねぇ」
そういって自嘲して笑った顔は、見たことのないものだ。
コイツは、なにを言っているのだ?
恋をしている「私」を見ていた? ソハヤが?
「な、なに言ってんの?」
「他のどこの誰だか知らないが、アンタが恋する相手は、俺は知りたくない。
なにをしでかすかわからないからな。
アンタは言ったな。「写し」でない、ここにいる「ソハヤノツルキ」という存在の帰りの無事を、待っている、祈っていると」
そんな昔の話を、今更……。しかし瞳を逸らせない。しっかりと眼前を固定されて、ガッツリ視線が合わさっている。
顎を支える指が熱い。同じだけの視線も熱かった。
「言ったよな」
「言いました」
なぜ尋問のような口調に……。こんな至近距離でなんて見たことがない。
もうこの男のことなんて考えたくないのに、グイグイ来る。やめてくれ! 宗三、今こそ出番だ! 邪魔しに来てくれ!
「余計なことを考えるのをやめろ」
「あ、はい」
「ずっとずっと、アンタには加州清光がいると思ってた。
アンタが思う相手が誰か、俺にはわからなかった。
だが、無自覚なりに加州がくれたチャンスを物にしようとして、色々しても、アンタはいつも通りだし、変な返事ばかりで、しまいには「かわいい」なんて言い出す始末だった」
ん?
「陸奥守たちに誘われて夜の街に行ってな。女たちの話を聞いてきた。アイツは女は抱くより話すほうが楽しいらしい。肥前は酒を奢られについて来てるだけで、南海先生の介抱要員だよ。
朝方帰った俺は、ようやく自覚した。
アンタのことが、ずっと好きだったんだって。
アンタの答えを聞いて、余計にハッキリと。
うれしくて、たのしくて、ワクワクして、わさわさした。アンタといると胸がぞわぞわする。
あれは、そういうわさわさだったんだって、ようやく気付いた。アンタの霊力が不安定だと俺まで落ち着かない。
アンタの言っていた通りだよ。怖くて、辛くて、もう嫌だって、アンタが他の男と一緒にいるのを見てモヤモヤしたり、イライラしたり、みっともないくらいに不安になって、なのにアンタに頼られると弱いんだ。嬉しくてたまらなくなる。
なのに、アンタに頼られなくなったら、俺はどうすればいい? 傍に置いてもらえなくなったら?
写しでもいいって言ってくれたアンタが、写しの俺をいらなくなったら?
なあ、他の男のことなんて、知らない。俺は、アンタしか知らない。
俺にはアンタしかいないのに、アンタには、俺以外の何かがいっぱいいる。
こんな不公平、あっていいのかよ。
こんなままならない気持ちを持つことが、『人間』になることなのか?
教えてくれ、主」
泣いているところを、初めてみた。
綺麗な赤い瞳から、つうと綺麗な涙が落ちる。
苦しそうな表情で、悲しそうな瞳で、歪んだ口元が震えている。
もしかして、大典太も見たことがないだろう。私にだけ許されていると思っていいのだろうか。
私の涙はすっかり止まっていた。
ソハヤの指先から流れてくる霊力の熱さなんてもう気にならなかった。
綺麗な、ルビーからこぼれた夜の雫のような涙を、指先で掬う。
その赤い瞳に吸い込まれるように顔を近づけた。
ガブリ、と鼻に噛みつく。綺麗な鼻筋に、私の歯形が付く。
ソハヤもまた、目を見開いてポカンと口を開けた。突然幼く見える表情に、胸がキュッとなる。かわいい。
ああ、かわいい。
「バカね」
「恋は、一人じゃ、出来ないのよ」
「は、」
「貴方としか、恋してないもの」
そういって飛びつくと、すぐにソハヤの腕が私の背中に回った。
髪を切ってよかったかもしれない。絡まることなく、身体が初めて密着した。
また、髪は伸ばせばいいのだ。
ソハヤの好きな長さまで。
「俺も、アンタに、恋してるんだ」
「今、知った」