ふたりでひとつの嘘を吐く
――「なあお前、どこにいんだよ今……」
荒く削り出された白い岩肌を見下ろす。
満点の星空は、まるで俺を迷わずにここへ導くかのようだった。……いや、逆か? 俺を惑わせてここまで誘い出したのかもしれない。
サシャを含む、戦没者の葬式のあと。ミカサがずっとこの場所にいたし、俺もそんな気分じゃなかったからずっと宿舎にいたが、消灯後どうしても眠れなくて……信じられなくて、俺はふらふらとこんなところに出てきたというわけだ。
荒く削り出された白い岩肌を見下ろす。
そのなかにサシャは本当に眠るのか? この手の中で息を引き取ったというのに、情けないことに俺は、未だにそれが信じられず、どこか現実味を欠くようにふわふわとしていた。
――だってさ、お前。話したじゃん。お互い三十五になるまでさ、ふらふらしてたらって。……話してたってのに……――
***
それは三年ほど前だったと思う。
人生としては先輩だが調査兵としては後輩だった、マークさんとサラさんの婚約祝賀会でのことだった。
これを機にサラさんは退役、マークさんは駐屯兵団へ異動となったため、彼らとのお別れ会的な意味も含まれたパーティだった。
俺とジャンとサシャはそこまでサラさんたちと親しくもなかったし、隅っこのテーブルで三人で固まって酒を飲んでいた。ジャンは既に酔い潰れて半ば寝ていたし、俺もサシャも顔を真っ赤にして酔っ払っていた。
そこで俺はサラさんたちを眺めながら、なんとなくサシャに尋ねてしまったのだ。深く考えてなんていなかった。本当にただなんとなく、俺は何かの話の次にそれを口にした。
「サシャお前、結婚するならどんなやつとする?」
その問いにサシャは驚いたりたじろいだりすることなく、
「え〜美味しいご飯を作れる人れすね!」
回っていない呂律でそう即答した。
恥ずかしい話だが俺はその返答を聞いて、あれ、と拍子抜けしたのを覚えている。そう、たぶん、俺は無自覚的に『あなたみたいな人』と答えてくれるだろうと期待していたのだ。
だって、俺以上にサシャを理解している人はいないと自負していたし、俺以上にサシャが話していて、こう、はまる? 感じの人はいないだろうと、勝手に決めつけていたからだ。
俺はここで意表を突かれたことで、少し頭がすっきりしたように思う。
……でも考えてみればそうか。俺はその返答はサシャらしいものだなと思い直した。
「コニーは?」
今度はご機嫌なサシャが俺に尋ねた。
え、と俺は驚いたし、たじろぎもした。
すぐさま脳裏にこだましたのは『サシャ?』という心の声だったが、いやいや、結婚とかそんな、とまた別の声が重なる。
へらへらと笑いながらサシャが俺の返答を待っていた。
……でもやっぱ、なんか結婚と言われると違う気がした。この先、サシャと一緒にはいるのだろう。むしろそれ以外は想像もできなかったのだが……果たしてそれが結婚となると。そもそも、結婚というものが上手くイメージできず、すいすいと目線は泳ぎまくりだった。
「うーん……わっかんね」
「ええ?」
俺の結論にサシャが相槌とは少し違う、呆れ笑いのような声を挟んだ。
「だってそもそもあれだろ。俺たち調査兵だしさ、そりゃ巨人たちいなくなる前ほど死んだりしなくなったけどよ。やっぱ、いつ死ぬかわかんねえし、イメージわかねえや」
そう、きっとそうなのだろうと思った。自分でもよくわからないが、きっとそれが上手くイメージできない原因なのだと思うことにした。誰かの受け売りだったかもしれない。
サシャはくいっとジョッキを煽り満足げにそれを飲み込んだあと、「なんれすかあ、」とまた酔っ払ったゆるゆるの目元で俺を捕らえた。
「コニーってば、自分から振りよってからにぃ。れも私も、イメージなんかぜんっぜんっできちょりませんよお〜」
酔っ払ったサシャは故郷の言葉と丁寧語がごっちゃになることが多いのだが、このときがまさにそうだ。サシャが機嫌よさそうに続けるから止めなかったが、
「っく、美味しいご飯を作る人? 私が結婚? イメージれすか? あはは」
何が面白いのか腹を抱えてげらげらと笑い始めてしまった。自分の花嫁姿でも思い浮かべたのか、完全におふざけモードだ。
「……だよなあ」
俺は何かよくわからないが、先ほどまとまらなかったイメージがそのまま変なもやもやになったみたいで、ずっと胸の辺りをぐるぐる不快感が巡っていた。だから、酔いもサシャほどもう回っていなかったと思う。
「私がかろうじてイメージできるんは、あなたやジャンが周りにいそうっちくらいですかね」
言い終えるとまたジョッキから酒を煽って、そのジョッキの中を見下ろした。
「ああーわかる。それなら俺も」
先ほど俺も、この先周りに誰かいるならサシャだなと思った。結婚と言われるともや、と変な心地になってしまったが、それはつまり、〝結婚〟というキーワードを抜けばイメージは簡単だった。
「結婚とかじゃなくてさ、なんか将来って逆に、お前と一緒にいるくらいしかイメージできねえな」
「でしょお」
俺の言葉に満足げに笑ったサシャを見て、俺もなんとなく落ち着いた。握っていたジョッキを煽り、今度は俺がしゅわしゅわと発泡する液体を喉に流し込んだ。
そうだ、こうやってさ、サシャとはいつまでも酒を飲んでいるんだろうなと、ふと思った。
「じゃあさ、サシャ〜」
ジョッキを下ろした俺は、また意味もなくにまにまと口角を緩ませているサシャに呼びかける。
「俺たち三十五になってもふらふらしてたらさ、俺たちで一緒に暮らそうぜ」
三十五なんて、一介の調査兵が生きていりゃ上出来な年齢だろうと俺は思っていた。そこまで待っても誰とも結婚しなければ、俺たちはもう〝そういう〟人種なんだと安直に考えていた。
だから俺は、そうなったときにはもう諦めて互いを受け入れたら楽で楽しいだろうなと過ったのだ。
「ああ〜いいれすね」
だらしなく突っ伏していた腕を立てて、サシャもその身を乗り出した。
「結婚とかよくわかんねえし、私とコニーとジャン、三人で〝暮らす〟のなら、なんかわかりますう」
このとき俺は、ん、とデコピンを食らったように錯覚した。
――あ、そうか、そうだな。もしそうなったら、ジャンも入れて三人か。
サシャがジャンの名前を口にするまですっかり忘れていたが、〝三人だろう〟と意識に持ち上がった途端、また先ほどのもやもやが胸の中に侵入してきた。……なんだろう、この、違和感のようなおかしなもやは。俺は自分の胸の内を探ろうとした。
けれど目前のサシャは名案だ、と楽しげに身体を揺らしているものだから、俺はそれを損ないたくもなかったのだと思う。自分でも奇妙な心持ちのまま、少し無理をして笑ってみせた。
「あはは、ジャンは間違いなく誰かさんのケツ追いかけてふらふらしてんだろうなあ。つーわけで、ジャンは確定だな」
「あはは。かわいそうなジャン。二人で慰めれあれましょうねえ〜」
酔い潰れているジャンの頭をサシャががしがしと乱暴に撫で回して、またえらく楽しげに笑い声を上げた。
するとジャンが突然、目を瞑ったまま「んだとこらあっ」とサシャの手を払い除けるものだから、
「ぶ、はは」
「今の、寝言れすかあ? はは、不思議な寝言れすねえ〜!」
俺は思わず失笑して、サシャはさらに景気よく笑い声を上げた。
俺たちも、俺たちの周りにも、そうやって景気よく笑い声がそこらじゅうで上がっているというのに、俺の胸の辺りに渦巻くもやはまだそこにあった。飲み過ぎてしまっただろうか。それほど酔っぱらってはいないと気づいていながら、吐き気と思うことにした不快感を払拭すべく、俺は席を立ち上がった。
「わり、ちょっとトイレ行ってくるわ」
「はあい」
トイレまでの間に吹き抜けになっている渡り廊下がある。そこで新鮮な空気を吸って、いらないものを出してしまえばもう少し気持ちは楽になるかと思った。
だが、俺がすべての用を済ませて祝賀会の会場に戻っても、そのもやもやは払拭されることはなく、そこに居座り続けた。まったく今日に限って悪酔いしてしまったかなと頭をかく。
「……あれ、」
会場に戻りサシャたちと座っていた席を見やると、サシャと一緒に本日の主役の一人のサラさんが座っているのが見えた。……何だろう、何か楽しそうに話しているようだと思いながら歩み寄り、サシャが俺を見つけると同時に立ち上がったのが見えた。
そうだ、今度はサシャが「私もお手洗い!」と妙に慌てたように駆け出して行った。
俺はそんなサシャを目で見送りながら、元々俺がいた席に座る。
「サシャのやつ、なんか慌ててましたね」
そこに残されたサラさんにそう言葉をかけると、「ねえ。照れちゃって、かわいい」なんて返されて、何のことだ、と俺は少し困惑した。
「で、コニーくん、」
俺がジョッキを握り直すよりも先に、サラさんにぐっと腕を引っ張られて「うお」と声を漏らしてしまった。そんなことお構いなしのサラさんは俺に顔を寄せて、
「結局サシャちゃんとお付き合いしてるのはどっちなの? 私ずっと気になってたんだけどお」
「はい?」
「サシャちゃんに聞いても教えてくれないし。ねえ、どっち!? どっちがサシャちゃんの彼氏!?」
「どっちって……?」
サラさんの顔を見ると、やけに瞳を輝かせて俺を見ていた。俺はぱちぱちと瞬きをしてしまった。
……『どっち』というのは、おそらく俺とジャンの間での選択肢なのだろうと気づいて、
「いや、こいつは好きなやついますし」
何も考えずに思いついたことを言った。
するとどうだ、サラさんはすうっと大きく息を吸って、余計に強く俺の腕を引っ張った。
「え!? じゃあやっぱりコニーくんなの!?」
ガン、と殴るような声にぐらりと視界が揺れた。
いやいや、誰も付き合ってるとか一言も、と反論したくともサラさんの勢いは凄まじく、
「わあ、そうだと思ったー! 私ね、ずっとそうなんじゃないかと思ってたのよ! コニーくんとサシャちゃんお似合いよねー! あーすっきりした!」
何ともまあ、言葉通り満足げに天井を仰いだ。
もちろん俺としてはそんな変な誤解をされては困ると慌てて、「え、ちょっと、」と注意を引こうとした。なのに「あのね!」とサラさんはまたきらきらと輝く瞳をこちらに向けて、俺はまんまとそれに気圧されてしまった。
「結婚式にはぜひ二人も参列してね! さっきサシャちゃんにも言ったけど、もうお年頃なんだから、ブーケトスはサシャちゃんに拾ってもらおうと思ってるの!」
ブーケトス……? あの、花を投げるやつか?
「はあ……」
俺とサシャはそんなんじゃないと伝えたいのに伝わらなので、曖昧な返事になった。だがやはりサラさんはそんなこと気にならないらしい。
「ねえ、可愛いと思わない!? サシャちゃんの花嫁姿!」
またサラさんに詰め寄られた。俺が何かの反応を見せる前に、サラさんは「純白なドレスに、甘いヴェール! やっぱり女の子だけじゃなくて、その相手になる男の人だって憧れるわよねえ! サシャちゃんはどんな柄が似合うかしら、案外お花とかもいいわね」とずっと一人でしゃべっていた。
サラさんってこんなにしゃべる人だったのかと驚いていたが、これはもしかしたら酒のせいなのかもしれないと納得した。サラさんに酒を持たせると延々としゃべり続けてしまうのだろうと、この日以降活用する術もない情報を手に入れた。
そうしてその長い長い饒舌の終わりにサラさんが付け加えたのは、
「二人とも調査兵なんだから、さっさと結婚しちゃいなさいよ!」
そんな無責任な一言だった。
「えと、だから、」
「サラさーん!」
「あ、はーい!」
今度こそしっかり弁明しようと思ったのに、どこからともなくサラさんを呼ぶ声が聞こえて、それに反応して立ち上がった。持ってきていたらしい自分のグラスを持ち上げて、
「じゃあ、誘ったからね! 結婚式来てね!」
そして嵐のごとくすべてを荒らした痕跡だけを残してまた違う人込みに紛れていってしまった。
「……」
当然、言葉もなかった俺だ。
どうしてそんな勘違いをしてしまったのか、サラさんの中で俺とサシャは結婚目前のカップルになってしまったらしい。
――サシャと結婚……?
――『可愛いと思わない!?』
サラさんの言葉と同時に、白いドレスで着飾ったサシャが俺の脳内に突沸した。花束ではなくケーキを嬉しそうに持って笑いかけるサシャが一瞬のうちに雷のように貫いて、なぜだろう、心臓が仕留められたように痛くなった。
なんだよ、これ。さっきから。
トイレに行く前に感じていたもやもやがさらにパワーアップして、俺の胸を内側から押し膨らませてきていた。それが苦しくて、気持ち悪くて、頭を振って白いサシャの姿をかき消した。
――何を考えているんだ俺は。
目の前にまだビールが残っているジョッキを見つけて、不快感を流し込むようにそれを煽った。
そもそも、結婚するにしたって、晴れ姿を母ちゃんに見せられない内はそんなことはありえない。サシャだってそう言ってくれるはずだ――……と、そこまで考えて、また我に戻った。
――いやいや、だから、何を考えてるんだ俺は。結婚? サシャと? いや、ねえだろ。サシャと俺は、そんなんではない。必死にそう自分に言い聞かせていたと思う。
――『コニー!』
またケーキを嬉しそうに抱えたサシャが振り返る映像が勝手に脳内で再生される。
いや、だから。
「コニー!」
「わ!?」
後ろから突如として降ってきた本物のサシャの声に肩を跳ね上がらせてしまった。
「サラさんどこか行きましたね」
周りをきょろきょろと見回しながら、サシャはゆっくりと元の座っていた席に腰を下ろした。
「お前まさか、逃げてたのか」
あのマイペースなサシャがあの凄まじい勢いに気圧されて逃げ出したのかと思うと少し面白くて、思わず笑みを零しながら尋ねていた。
そうしたらサシャはぐわっと目を見開いて、
「ええ、だって! コニーと結婚しろだのなんだのうるさかったんですもん!」
「はは、お前も言われたのか」
「コニーもですかあ? もうっ、人の気も知らないでねえっ」
サシャは不貞腐れたように頬杖をついてジョッキを握った。呂律や話し方から察するに、サシャも多少酔いが冷めてしまったようだとわかった。
俺はまた向こうのほうでやんやと騒いでいる人だかりを見やった。
ぐつぐつと胸の内で渦巻く変なもやは、どうしても拭えずにいて、それを持て余して気持ちを決めきれていなかった。
――『人の気も知らないで』
そう言ったサシャのことがだんだん気になって、ちらりとサシャを盗み見る。……やはりサシャとしても、『俺と結婚』と言われたら何かが違うのだろう。……いや、ほんと、俺も違うが。
「あ、コニーそっちの串肉とってもらえます?」
唐突にサシャが俺の脇に置かれていた串肉を示した。
「ん、ほい」
俺はそれの端を摘んで、そのままサシャの口元に持っていってやった。それをサシャは「うふふー!」とご満悦な笑みとともに口に含み、「おいしい」と嬉しそうに教えてながら食べた。もぐもぐと幸せそうにそれを味わうサシャを眺めて、本当にしようのないやつだなと眺めてしまった。
……って、いや、待てよ。
唐突に天啓を受けた俺だ。
――こういうことしているからサラさんみたいな人に勘違いされるんじゃないのか!?
今度は俺がきょろきょろと忙しなく周りを見回してしまった。
食いしん坊のサシャのために俺が飯を構えてやることなんてよくあることだし、肩を組んで酔っ払ったり、肩を寄せ合って教科書を覗き込んだり、そういうことは特に気にせず普通にしていた。……このときもそうだ、席は少し離れていたとは言え、テーブル越しに触れ合わんとするほどの距離にいることに気づいて、唐突にサシャの唇が目に入ったのを、そりゃもう、鮮明に覚えている。
――!?
どく、と心臓が驚いて、何だ今の、と俺は頭の中で大混乱を起こした。なんで今さらサシャの唇を見て変な感じになるんだ。いやいや、俺はばかか。あ、いや、ばかなときもあるけども。
「コニー? どうしたんですか? 酔っ払ってますう?」
そう言って笑うサシャがまたいやにきらきらして見えて、なんだなんだとさらに俺の中では混乱が重なって、心臓の鼓動が加速した。なんだ、なんかよくわかんねえけど、よくわかんねえぞ。頭を抱えたくなった。
「あ、ああ、そうかも……」
俺は急いで視線を逸らした。ほんとなんだってんだ。やっぱり今日は悪酔いでもしてしまっただろうか。また必死に思い浮かべようとしたのは、そうやって自分に言い聞かせる言葉だった。
けれどそれこそ〝人の気も知らないで〟、サシャはまた景気よく酒を煽った。
「そもそも、コニーは夫って柄じゃないじゃないですかあ。どちらかというと弟ですし」
はた、と俺の注意はそちらに向く。ニヤニヤと俺を見ているものだから、これは喧嘩を煽ってやがるなとすぐに察した。てか、弟ってなんだよ。なんで俺が〝下〟なんだと考えて、む、と口元に力が入った。
「はあ!? それならお前が妹だろ! バカさで言ったらお前が妹!」
ぐわっと沸き上がった納得のいかなさのまま返した。そうしたらサシャも眉間にしわを寄せて拳を握った。
「バカさってなんですか!? そ、そんなの関係ないし! 身長で言ったら私のが姉です!」
――身長!
「は!? そ、そんなんこれから伸びんだよ!」
俺がチビなこと気にしているの知ってるくせに、と苛立ちがさらに沸いて、
「そんなことよりお前、その〝料理が上手いやつ〟見つけたときのためにちゃんと女磨いとけよな! 食ってばっかじゃ可愛げねえぞ!」
「よっ、よっ、よっ、余計なお世話ですう!」
今度は俺がサシャの痛いところを突くことに成功したのか、顔を真っ赤にして声を上げた。少し小気味いい。
このとき俺は心のどこかで、サシャの前にそんなやつが現れるわけがねえと思っていたのだと思う。女磨いたこいつなんか俺はこれっぽっちも見たいとも思わなかったし、食ってばっかのサシャは当たり前にあり続けると決めつけていた。
「コニーこそ、そんなんじゃいつまで経っても彼女なんてできませんからね!」
「は!?」
サシャの更なる反撃が始まる。
「キスのひとつや二つ、できるくらいかっこよくならないと、本当に三十五で私と暮らす羽目になりますよ!」
「はっ、はっ……!? べ、別に俺はっ、」
――『俺は』?
なぜかそこで言葉に詰まった。
俺はサシャの言ったことの何かに強く反発したが、もう何が気に食わなかったのかよくわからなかった。そんなに一度に不快感をぶつけられると、俺には上手く処理できずよくわからない。
とにかく。俺は、自分のこと既にかっこいいとは思っていないし、三十五でサシャと暮らす羽目になることは……なることは、別に。別に?
言葉に詰まった俺を見て、サシャがハッと何かに気づいたように息を吸った。それから前のめりになっていた身体を後ろへ引いて、
「……まあ、言い過ぎました。……私も女磨かないとですね……」
深く反省するように項垂れて顔を隠した。それは凹んでいるようにも見えたものだから、俺からも勢いが抜け落ちて、さらにはらはらと焦りのようなものがとってかわった。
「いや、そこまで落ち込むことじゃねえけどよ……」
「……いいえ、コニーだって、私なんかとキスしろって言われたら無理でしょう」
どきり、またはっきりとした鼓動が俺の心臓を打ちつけた。
――サシャと……キス?
その問いのせいで思考は停止して、まるで考えることを拒否するように先へ進めなくなった。
急いで、急いで返事しなければいけないのに、その肝心の返答がわからない。ここで何と応えるのが〝正しい〟のか。俺の頭は未だかつてないほどに回転数を上げていた。
――いや、そんなの決まってるだろ。
「……そうだな」
そうだ、できるにせよできないにせよ、ここで『できる』と答えてしまったら、それはもう、何かがだめな気がした。
どくどくと追い詰めるような緊張感が俺の周りにだけ停滞しているような気持ちだった。
「てかお前は俺の妹なんだから、キスなんて女磨いたところで一生できねえよ」
だから、俺の中でこの一言は必要だった。自分の中で何がそんなにだめなのか理屈はわからないが、ここではっきりと拒否しておかないといけないと思った。それとは裏腹に、俺の心臓はずっと激しく鳴っていたし、俺の視線は不貞腐れて少し尖ったサシャの唇にあった。
「……はは。まあ、それもそうですね」
そこでまた、ぐっ、と、何かに殴られたような衝撃を受けた。
笑ったサシャが安心していたように見えて……俺は、俺の返答が〝正しかった〟のだと知った。――それなのに、なんだ、わからない。唐突に涙が込み上げていた。なんでこのとき、泣きそうになっていたのか自分でも理解ができなかった。ただただ、サシャが穏やかに笑っていて……俺は、……俺は?
ふ、と俺とサシャの間で突っ伏して眠っていたジャンが頭を上げた。
「お前らなあ。人の頭の上で痴話喧嘩するのやめろ」
まだ目は半分閉じたままだというのに、そう嫌味を言ってまた頭を下ろした。
「ち、痴話喧嘩あ!?」
「違いますよお!」
必死に反論するよりはジャンの頭をかき乱してやることのほうが有効だと思った俺たちは、それから二人で酔い潰れたジャンをいじめることに徹した。
――そしてこれは、海の向こうからやってきた〝美味い料理を作るやつ〟と出会う、二週間ほど前のできごとだった。
***
荒く削り出された白い岩肌を見下ろす。
その〝美味い料理を作るやつ〟――ニコロ――とサシャが最終的にどんな関係になっていたかは、特に聞かないままだった。ただ「今日はニコロさんのところに行くんです」とはしゃぐサシャはいつも、そのときだけの輝きがあって……そりゃそうだ、サシャの理想とする〝美味い飯を作る人〟だったのだから。
始めはサシャはニコロのところに行くとき、俺も誘っていた。だが、だんだんサシャを好きだとその目で語るニコロを見ていられなくなって、そのニコロの目の前で笑うサシャも……見ていられなくなって、俺は誘われても行かなくなった。そうしたらサシャも次第に俺を誘わなくなって。……はは、それは、自業自得だった。
でも、だからといって別にサシャも俺との距離を変えることはなかったし、それまで通りそばにいて……寄り添ってくれていた。企画書の理解が追いつかないときも一緒に考えたし、母ちゃんのことで落ち込んだときも、大丈夫ですよと笑ってくれた。――だから俺は、それだけでよかったんだ。
俺は目の前の、粗く削り出された白い岩肌を、未だに見下ろしていた。
――だから俺は本当に、サシャが美味いもん食って幸せなら、それでいいなと思っていた。
――あの祝賀会のあと、何度もサシャの花嫁姿というやつが頭を過ったし……どうしてニコロの前で笑うサシャを見ていられなくなっていったのか……その理由も薄々気づいていた。俺が、サシャのことをどう思っていたか。そしてそれは、今になって痛いほどのしかかってくる。
俺はいつも、母ちゃんのことと、サシャのことしか考えてなかった。壁外世界のこととか、新しい武器のこととか、そういうことは全部ジャンやアルミンが考えてくれていたから、俺は……俺には、そんな余裕がなくとも許されていたのだ。
だから俺の世界は、サシャが隣で笑ってくれているかどうかだけが、大事なことだった。
ああ、なんだろう。思考がとっ散らっかって、何も落ち着いて考えられない。
ジャンは昔……死を悟ったときに「こんなことならいっそ伝えとけば」とこぼしたことがあったっけな。そんなことがぼんやり頭に浮かんで、俺は深く内省していた。――でもやっぱり、俺はそんな風には思わない。いや、むしろ、今でもあのとき、『サシャとはキスなんてできない』と言ったことは間違いではなかったと思っている。俺とサシャが一番近い存在でいられたのは――たぶんサシャもそう思ってくれていたと思う――、あの選択があったからだと今でも本気で思っている。
……でも、だからこそ、今、こんなに深い喪失感を味わっているのだろう。サシャは俺にとって一番近い存在で……それはもう、魂の一部のような気がしていたほど近くて……だからだ、この墓標の下に魂の一部を埋め固められたみたいで、頭がぼうっとした。
――サシャじゃなくて、俺が死ねばよかったのにな。
そんなことを考えることをやめられなかった。
――サシャじゃなくて、あの銃口の前にいたのが俺だったなら――……サシャは今ごろ、ニコロの美味しい飯で腹を膨らませて、ぐうぐうと寝息を立てていただろうに。……俺は、そっちのほうがよかった。――この喪失感と対峙しなければならないくらいなら、俺が……俺が、死んだほうがよかった。
きっとこう考えることをサシャは叱るだろうが、そんなことはもうどうでもよかった。……叱れるもんなら叱ってみろってんだ。
「なあ、サシャ」
……叱って、くれよ。
膝から崩れ落ちそうになっていたが、俺は必死にそれに耐えた。
――『にく……』
サシャの最期の絵面が思い出せと促すように浮かんでくる。苦しそうに最期にそう吐いたサシャは、一体どんな〝夢(げんじつ)〟を見ていたのだろう。
サシャが最期に見えていたのが、俺じゃなくてニコロだったとしても、俺はそれでよかった。ニコロと、ニコロが作った料理に囲まれて、『お肉う!』と叫びながら齧りついている夢だったらいいな、と願う。あわよくばその食卓に俺もいたなら嬉しいが……おそらくニコロが料理をふるまってくれるときに一緒に行かなくなった俺は、そこにはいなかったのだと思う。……そんなことはどうでもいい。とにかくサシャが、少しでも幸福な気持ちの内で逝けたことを願うことしか俺にはできない。
本当は、サシャには……もっともっと、長く、幸福な日々を過ごしてほしかった。それを支えるために俺がいて、ニコロもいて、ジャンやほかのみんなもいて……みんながまだ、サシャの笑顔を……、
「――なあ、サシャ、」
荒く削り出された白い岩肌に語りかける。
「なんでお前さ、理想の人に会えたのに結婚しねえまま死ぬんだよ……。三十五になったら一緒に暮らすって話もさ……なんなんだよ……」
本当は三十五になったら、幸せに笑っているお前に――もう揺るがなくなったお前に――、『あれは嘘だった』と伝えようと思っていた。
……なのにさ。
――お前がもう、誰の隣でも笑ってないなんて、俺はこれから……どうしたら、いい……?
「――なあお前、どこにいんだよ今」
おしまい
あとがき
ぴーなっつさん、お誕生日おめでとうございます!!
そして、ご読了ありがとうございました!
コニサシャの第一人者であるぴーなっつさんのお誕生日ということで、コニサシャ……!
書かせていただきました。
いかがだったでしょうか。
ハッピーなコニサシャも書けたとは思うのですが、
私の解釈を知りたいと言っていただいたので、全力で私の解釈のお二人を書かせていただきました。
お楽しみ(?)いただけていたらいいのですが……!
コニーはサシャとソウルメイトであり続けるために、あえてロマンスの道に進まなかったのではという解釈です。
サシャもコニーも、互いが切実に身体を求め合っていれば、簡単にそういう関係に発展していたと思うんですよね。
最後の歯止めは、関係性の崩壊を恐れた二人のためらいだったのかなあと。
改めましてご読了ありがとうございました。