恋しい、と獣は鳴いた アルファに生まれた人間は人生における成功を約束されたようなもの。これが世間一般の認識だ。そんなものは幻想であり、所詮は育つ環境次第なのだということをダリルはうんざりするくらいに知っている。
ダリルはアルファとして生まれながら、その人生は恵まれたものではなかった。父親は子どもに暴力を振るうだけの男だった。母親は子どもの存在そのものに関心のない女だった。まともな生活ができないせいで心は荒み、きちんとした教育を受けることもできなかった。成人してからも安定した生活はできず、世の中全てに対する憤りを抱えながら生きてきた。
状況が変わったのは「死者が生きた人間を食らう怪物として蘇る」という現象が世界中で発生してからだ。文明社会は驚くほどの早さで崩壊し、世界は弱肉強食の原始的な世界へと変わった。
生きる能力のあるものが生き残り、それがないものは怪物に食われて死んでいく。それを避けるために群れる弱者をまとめ上げるのは強い者だ。それには学歴も社会的地位も関係ない。生き残る強さが全てだ。
シンプルになった世界はダリルにとって生きやすい世界だった。生存者グループの者たちからは荒くれ者として恐れられていても彼らにはダリルのようにタフな人間が必要だった。以前の世界であれば自分のような存在など視界にも入れない者たちから頼りにされることにダリルは嫌悪を抱き、兄のメルルと共に彼らとは一定の距離を置いていた。
しかし、その状況もリックという名のオメガが現れたことによって大きく変化する。
リックはオメガでありながら以前は保安官として活躍しており、彼はベータであるローリと結婚して一人息子のカールがいた。強く賢く、そして誰にでも優しい彼は瞬く間にグループのリーダーになっていた。
メルルの行方がわからなくなり、本当の意味で一人になったダリルをリックは放っておかなかった。グループの一員として扱い、他の者に対する時と同じように仲間として接してくる。役割を与えることでグループに居場所を作ってくれたのだということにもダリルは気づいていた。
そうであってもダリルは始めのうち、メルルが行方不明になる原因となったリックを憎み、差し伸べられる手を振り払ってしまいたいと思っていた。「発情するだけの役立たず」と陰口を叩かれがちなオメガである彼がアルファである自分よりも恵まれた人生を送ってきたことに対して生まれ育った環境の違いを感じ、惨めな気持ちになったこともある。
それらの気持ちはリックの人柄に触れるに従って消えていった。様々なことに悩み、苦しみ、それでも仲間たちを守り抜こうとする姿に尊敬を抱いた。一人で必死に立ち続ける彼の隣に並んで支えてやりたいと望むようになり、リックの親友であるシェーンが死んだ後は名実ともに彼の相棒になった。
ダリルの中にあるリックへの感情は友情や家族愛といったものだったが、それは時間の経過や様々な出来事に遭遇することによって形を変えていく。
焦がれる想いが恋愛感情としての愛なのだと気づいたのは安住の地であった刑務所を失い、一時的にリックと離れ離れになった時。「リックを喪ったのかもしれない」「リックには二度と会えないのかもしれない」という事実がダリルに本当の気持ちを気づかせたのだ。
運良く再会した後もリックへの想いは募っていった。他のオメガに対して抱いたことのない「一緒に生きていきたい」と望む気持ちは本能から生まれたものではなく心から生まれたもの。本能ではなく心がリックを求めている証拠だ。
ダリルはアルファとしてオメガのリックに惹かれているのではない。ダリル自身がリックという存在に惹かれているのだ。
*****
穏やかに時間が流れる夜、ダリルはリックの寝室にいた。
ウォーカーの群れに襲われるというアレクサンドリア最大の危機を乗り越え、全員で町の再建に奮闘する中でダリルはリックと心を通じ合わせた。生きるか死ぬかという状況を切り抜けた二人の胸に芽生えた「後悔したくない」という思いが己の心に素直になるよう促したからだ。恋人同士という新たな関係に発展した二人は甘く幸せな時間を過ごすため、リックの寝室に二人きりでいる。
ダリルはベッドに腰を下ろし、自分に背中を預けて座るリックを後ろから抱きしめた。こうして背中を預けられると信頼も預けられているように感じる。
ダリルがリックの頬に軽く口付けるとリックは嬉しそうに笑い、お返しのようにダリルの唇にキスをくれた。
「愛してるよ、ダリル。」
微笑みと共に告げられた愛の言葉にダリルは笑みを深める。
「俺もだ。どれだけ言っても足りないくらい愛してる。」
ダリルはそう言って唇を重ねた。
人を愛する幸せも、愛する人から愛される喜びも、全てリックと出会うことによって得られたものだ。そのことがとても嬉しい。
何度もキスを交わし、それが途切れた瞬間に間近で目を合わせれば愛しさが募った。その愛しさのままにダリルは胸に秘めていた思いを口にする。
「あんたと番になりたい。」
スルッと口から零れた言葉にリックが目を丸くした。ダリルは驚いたように自分を見つめるリックと目を合わせたまま更に言葉を続ける。
「番にこだわる必要なんてないのはわかってるが、やっぱりあんたとの特別な繋がりが欲しい。それに、あんたのフェロモンが俺以外には効かなくなるしな。嫌か?」
リックは「嫌じゃない」と言いつつもダリルから視線を逸らした。
何かを憂えるような表情のリックを見てダリルは言葉を重ねる。
「嫌ならいい。強制したくない。リックの気持ちを疑ってるわけでもないし、このままでもいい。あんたの嫌がることはしない。」
リックと番になりたい気持ちはあるが、リックがそれを望まないのなら仕方ない。無理やり番になることだけは絶対にしたくない。
その気持ちが嘘ではないのだと伝わるように真っ直ぐにリックを見つめていると、リックの目線がこちらに向いた。
「嫌じゃない。俺もダリルと番になりたい。だが、その前に話しておかなきゃならないことがある。」
「何だ?」
リックは一つ息を吐くと真剣な表情を浮かべる。
「番のオメガに先立たれたアルファの自殺率が高いという話を聞いたことがあるか?」
想像していたよりも不穏な内容にダリルは微かに眉根を寄せた。
「ない。詳しく聞かせろ。」
「調査した件数は百に満たないが、その中でも半分以上のアルファが自殺していたそうだ。生きていても鬱病やノイローゼを患っていたり、精神的に不安定で病院やカウンセリングに通っている人も多かったらしい。」
「番のオメガが死んだことが原因なのか?だが、何で……」
「結論が出ていたわけじゃないが、アルファは番相手に対して精神的に依存しやすいという仮説が有力だと言われていたな。アルファは番を解消できるから、それを防ぐために番のオメガに依存しやすい性質を持っているんじゃないかって。」
「とりあえず理解したが……そんな話はテレビで聞いたこともないし、雑誌や新聞でも見たことないぞ。アルファには大事なことだってのに。」
アルファが番のオメガに精神面で依存しやすいのであれば様々な対策やフォローが必要なはず。パートナーに先立たれたアルファの自殺率が高いことがわかっているのなら尚更だ。
それなのにこの話は世間一般に知られていない。番になることによるリスクの話はオメガに関するものばかりで、アルファに関しては一度も聞いたことがなかった。
不満を滲ませるダリルにリックは苦笑いを浮かべながら「気持ちはわかる」と頷く。
「この話が広まればオメガと番になることを拒否するアルファが出てくるだろう。アルファとオメガのカップルから生まれる子どもはアルファになる確率が高いから、優秀なアルファを増やしたい政府は困る。だから警察官や保安官、医療関係者だけに知らせて一般には伏せておいたというわけだ。世界的に見ても同じようなものらしい。」
ダリルは「そういうことか」と呟いて顔をしかめる。
パートナーを失って精神的に不安定になったアルファが騒動を起こせば警察官や保安官が出動することになり、そうでなくとも治療やカウンセリングで医療機関を利用するだろう。そういった職業に従事する者たちがこの件を知らなければ上手く対応できないので限られた職種の人間には教えたのだ。
ダリルは苦々しい思いを吐き出すように溜め息を吐く。
「国の上の方の連中ってのは腐った奴ばかりだな。」
「俺もそう思う。『口外しない』って誓約書まで書かされたのには引いたよ。」
リックは苦笑を浮かべたままダリルに同意して頷き、その顔から笑みが引くと真剣な眼差しが向けられた。
「ダリル、俺の方がお前より長生きするなんて保証はない。いつどうなるかわからない。だから番になるのはお前にとってリスクが大きいんだ。番のオメガに依存しやすいかどうかは個人差があるが……それでも俺と番になりたいか?」
ダリルはリックの目を見つめ返しながらじっくりと考える。
番を解消するアルファが皆無ではないので依存しにくい者もいるのは間違いない。ダリルもそれに該当する可能性はある。
しかし、そうではない可能性の方が高いと考えるのが妥当だろう。リックと番になり、もし彼が先に死ねばダリルは精神的に不安定な状態になるかもしれない。最悪の場合、自ら命を絶つのだ。リックはそのことを心配して番になることに慎重になっている。
リックは本当に優しい男だ、とダリルは思わず笑みを零した。
そしてダリルの答えを待つリックを抱きしめ直して腕の力を強める。温もりと柔らかさから、彼が自分の腕の中にいるのだと改めて実感する。
「リック、俺と番になってくれ。リスクがあっても俺はあんたと番になりたい。何があってもあんたは俺が守るし、もしあんたが先に死んでも番になったことを絶対に後悔しない。」
「……本当に、いいんだな?」
覗き込むようにして目を合わせてくるリックに向かってダリルは「当たり前だろ」と首を縦に振る。
「ずっと一緒に生きていくって誓いだ。」
「──ありがとう、ダリル。」
そう言って嬉しそうに笑うリックの目は微かに潤んでいる。そのことから彼も番になることを心から望んでいるのだと実感し、ダリルもリックに笑みを返した。
「なあ、ダリル。俺はダリルよりも長生きすると約束するよ。お前をきちんと看取るからな。」
「頼むぜ。それなら俺は先に逝ってあんたを待つ。」
ダリルはリックの言葉を嬉しく思うと同時に「何があっても彼を守り抜く」と自身に誓う。リックを守りたいと思う気持ちは元々強かったが、今回のことでその気持ちは更に強くなった。
自分たちは本能が求めるから番になるのではない。一緒に生きていくことを約束するために番うのだ。その思いを込めてダリルはリックにキスをする。
この夜、ダリルはリックの項に番の証を刻んだ。
*****
腕の中にあったはずの温もりが消え失せ、壁や床の冷たさにダリルは目を開ける。
壁にもたれ、俯いて座るダリルの視界に映るのは「A」と大きく書かれたスウェットと薄汚れた己の素足だ。そのことからダリルは自分がいるのは救世主と名乗る支配者たちの本拠地・サンクチュアリだと思い知る。捕虜であるため小部屋に閉じ込められているのだ。
ダリルはゆっくりと顔を上げて微かに明かりの漏れるドアを見つめながら先程まで見ていた夢を思い出す。
リックと番になった夜の夢。ダリルにとって生きてきた中で最も幸せだった日。愛しさと幸福に彩られた時間はそんなに遠いものではなかったはずなのに、途方もなく昔のことだったように思えてしまう。
ダリルは手を握り込んでリックの体温を思い出そうとしたが、感じられるのは自分の体温だけ。リックの体温を思い出せなくなるほどの長期間、彼から引き離されている。
「……リック。」
掠れた声で愛しい者の名前を口にすれば恋しさが募った。
太陽のように眩しい笑顔も、自分を呼ぶ穏やかな声も、温かな体も、リックの全てが恋しい。名前を呼んで抱きしめて、「愛してる」と囁いてキスをしたい。目の前で幸せそうに笑う彼に会いたくて堪らない。
ダリルはのそりと動いてドアに近づくと拳を叩きつけた。
「開けろ!ここから出せ!」
声を張り上げて繰り返しドアを殴りつければ騒ぎを聞き付けた救世主が「静かにしろ」と怒鳴る。それを無視してダリルは拳をドアに叩きつけ、体当たりで押し破ろうとした。同じようなことを続けて何日目になるのかダリル自身にもわからなくなっていた。
手も体も痛い。捕虜として劣悪な環境に置かれたせいで肉体は弱り、暴れるほどに体力を消耗していく。そして騒ぎを起こせば救世主たちに暴力によって捻じ伏せられるのはわかりきったことだった。
しかし、今のダリルの頭には「リックのところへ帰る」ということしかない。番のオメガを求めるアルファの本能が思考を狭めていることにダリル自身気づくはずもなかった。
「俺はリックのところへ帰る!俺たちは一緒にいなきゃならねぇんだ!開けろ!」
全身が痛むのにも構わずダリルはドアを殴り、体当たりを続ける。
番である自分たちは離れてはならない。常に一緒にいるべきであり、離れ離れの今の状態は許されない。早く、早くリックの元へ帰らなければ。
強烈な焦燥感に全身を蝕まれたダリルはドアが開くと同時に外へ飛び出し、彼を大人しくさせるために集まった救世主たちに殴りかかった。
殴り殴られ、蹴り蹴られ、じわじわとダリルの体は動かなくなっていく。弱った肉体では複数人を相手にして敵うはずもない。
遂に床に押さえつけられると顔を思いきり殴られ、ダリルの意識はそこで途切れた。
ダリルの意識が戻ったのは暗い小部屋の中で、目が覚めると同時に痛みが押し寄せて思わず呻き声を上げる。もう暴れる余裕はなかった。
床に横たわったままリックの顔を思い浮かべるが、浮かぶのは笑顔ではなく必死に泣くのを堪える顔だ。
救世主たちを率いるニーガンという男はリックに執着を示し、言葉やプレッシャーでリックをいたぶることを好んだ。リックが感情を抑え込んで耐える姿を見て嫌らしく笑う男を見た時、ダリルは「ニーガンを殺したい」という衝動をやり過ごすのに必死だった。
ニーガンを殺したいと思う理由は憎しみだけでなく、ニーガンがアルファだということもある。アルファは基本的にオメガに惹かれるものだ。ニーガンのリックへの執着にはアルファの本能が影響している可能性が大きく、リックに性的な意味で手を出してもおかしくない。そうなる前にリックの傍からニーガンを排除したかった。
「リック……俺が、あいつの傍に、いなきゃ……」
リックを何があっても守ると誓った。それに今のリックは過酷な現実に一人で必死に耐えている。自分が支えてやらなければならない。
ダリルは拳を握り、もう一度己のオメガの名を呼ぶ。
「──リック……俺が守る。俺の、リック。」
ダリルが全身の力を振り絞って体を起こすと遠くから足音が響いてきた。重く響く足音は忌まわしい男のものだ。
その足音にダリルが顔をしかめているうちに足音は小部屋の前で止まり、鍵の開く音が落ちた後、ドアがゆっくりと開かれていった。電灯の明かりを背に受ける男の姿は巨体な壁のように見える。それでもダリルは男を睨み上げた。
「惨めな姿だな、ダリル。さっさと俺に服従すればこんなところに閉じ込められなくて済むのに。」
「お前なんかに従うわけないだろ。何の用だ、ニーガン。」
名前を呼ぶことさえ悍ましい、と思いながらダリルはニーガンに言葉を投げ返した。
ルシールという愛称のベースボールバットを手にしながらダリルを見下ろすニーガンはいつもと変わらない笑みを浮かべている。その近くには拳銃を手にしたドワイトが立っていた。
ニーガンはダリルの目の前にしゃがんでジロジロと無遠慮に視線を送ってきた。それが不快でダリルが眉間のしわを深くするとニーガンに眉間を指で突かれる。
「本当に愛想のない奴だ。お前と番になるなんてリックは物好きだな。それともリックの前では笑顔全開になるのか?見てみたい気もするが、気持ち悪そうだ。」
喋っているだけで他人を不愉快にさせる人間も珍しい、と思いながらダリルは黙って目の前の男の話を聞いていた。
ニーガンの言葉一つひとつが勘に触って苛立つ。リックの名前を口にすることも不愉快で仕方ない。それでも反応を示せば支配者を喜ばせるだけなので堪えるしかなかった。
ダリルが黙ったままでいるとニーガンは薄い笑みを浮かべて「なあ、ダリル」と話しかけてくる。
「リックに会いたくて仕方ないんだろ?今日もリックのところへ帰ろうと暴れてたらしいしな。リックのことしか考えられなくて我を忘れてみっともなく暴れる。──無様だな。」
ニーガンの目に宿るのは明らかに侮蔑だった。
ダリルは湧き上がる怒りを堪えるために掌に爪が食い込みそうなほど強く拳を握った。
「アルファはオメガと番になれば、そのオメガなしに生きられない。生死に関係なく長い時間離れることに耐えられないのさ。だから今のお前はリックに会えないストレスでおかしくなりかけてる。番になんてなるもんじゃない。」
ニーガンの話を聞いてダリルは目を瞠った。
今の話を聞く限り、ニーガンはアルファが番のオメガに依存しやすいと知っているようだ。
しかし、なぜニーガンがその話を知っているのか?以前は警察官や保安官、医療関係の仕事をしていたということだろうか?
困惑するダリルに構うことなくニーガンは勝手に話し続ける。
「俺がガキだった頃──高校生の時だ。仲間の中に俺以外にもアルファがいて、そいつは転校してきたオメガに惚れた。『恋に落ちる』って表現がピッタリだったな。一目惚れだったんだ。二人はすぐに付き合いだして、番になるのも早かった。」
ニーガンはダリルから視線を外して微かに目を細める。その当時のことを思い出しているのだろう。
ニーガンは目を細めたまま「だが問題があった」と続ける。
「アルファの方の親はどっちもアルファでオメガ差別思想の塊だった。おまけにアルファ至上主義だから最悪さ。二人の付き合いに反対して『番を解消するまで外に出さない』って自分の子どもを家に閉じ込めやがった。地元でも力のある家だったから周りも何もできなかったな。そいつは番のオメガと無理やり引き離されたってわけだ。」
「……それで、どうなった?」
ダリルの口はニーガンに話の続きを促した。
ニーガンの話など聞きたくはない。それでも話の内容への関心が嫌悪を上回る。
「家から出なくなって二ヶ月経った頃だったか?そいつは自分の親を殺して自殺した。ひどい殺し方だったらしい。まあ、その前からおかしくなってたけどな。会いに行っても番のオメガに会いたいって話しかしないし、暴れたせいで部屋はめちゃくちゃだった。」
ニーガンはそこまで話すと立ち上がって体を伸ばす。その顔には亡き友への憐憫も悲しみも見つからず、今の話はニーガンにとって世間話の一つに過ぎないように思えた。
この男のことは理解できない、とダリルは自分を見下ろす男を再び強く睨む。
ニーガンは視線をルシールに移すと「面白いこと教えてやるよ」と笑った。
「あいつは家に閉じ込められるまで情緒不安定とは無縁だった。誰かを殴ったこともなかった。おかしくなったのは番のオメガと引き離されてからさ。つまり──アルファは番のオメガに依存するから相手なしに生きられない。会えなくなったり失えば気が狂う。」
「どうしてそう思う?」
「俺なりに調べたんだよ。おかしいと思ったから、普段は近寄りもしない図書館にしばらく通ってな。アルファが起こした事件や事故の記事を調べまくったら半分以上が番のオメガを亡くしてた。アルファがおかしくなる理由と結び付けないってのは無理だろ?」
ニーガンの話を聞き、ダリルは眉間のしわを深くさせる。
当時高校生だったニーガンが気づいたのならば他にも気づいた人間はいただろう。論文として発表しようとしたり、新聞や週刊誌の記事にしようと考える者がいても不思議ではない。それなのに話が広まらなかったのは恐らく権力者が握り潰したからだ。
腐った奴らがのさばる世界が滅びてよかった、と心の中だけで呟くとニーガンが「ダリル、俺はな」と己の心にあるものを語り出す。
「番のオメガに依存して自滅したあいつみたいになりたくない。今のお前もだが、本当に惨めだ。俺は惨めな野郎には絶対になりたくないね。だから誰とも番にならないと決めた。オメガを抱くのは楽しいが、それだけだ。番になりたいとは思わない。」
惨めだと言われてダリルの頭に血が上る。何度も侮辱されたことへの怒りを堪えるのは流石に難しかった。
ダリルは唸りながらニーガンに殴りかかろうとしたが、傍で控えていたドワイトに拳銃のグリップで殴られて床に沈められる。そして、そのまま床に押さえつけられた。
ダリルは頬を床に擦りつけながらも目だけを動かして憎い男を睨みつけた。
「ふざけん、なよ、クソっ!それだったら、あいつに……リックに、執着するな!」
リックを見るニーガンの目を見ると腹が立って仕方なかった。その熱の籠もった目にはリックへの執着が滲み、ダリルの中の独占欲が嫉妬の炎で焦げる。
その他にも気に入らないことはあった。他のコミュニティーの徴収や巡回は部下に任せきりな男がアレクサンドリアだけ自ら赴くのはリックに会うためなのが丸わかりで、ニーガンの乗った車がアレクサンドリアに向けて出発するのを見るたびに唇を噛んだ。ニーガンが楽しげにリックの話をするのも「リックは自分のものだ」と主張されているようで腹立たしい。
「オメガと番になりたくない」と言いながらオメガであるリックに執着するこの男が気に食わない。
リックと番になったのは自分なのに「リックは俺のものだ」と嫌らしい笑みを浮かべるこの男が憎い。
自分とリックを引き離しておいて、自分はリックに会いに行くこの男を惨たらしく殺してやりたい。
ダリルは怒りに思考を占領された自覚のないままニーガンに殺気を送り続ける。
ニーガンが憎い。
俺からリックを奪おうとするニーガンが憎い。
絶対に許さない。
リックは俺の番。
リックは俺だけのもの。
殺したい。
殺す。
目の前のアルファを、殺す。
*****
ダリルとニーガンの視線での戦いは一人の男の出現により唐突に終わりを告げる。
「──ニーガン!俺をここへ連れてきてどういうつもりだ!?」
怒りを隠そうともしないリックの声が薄暗い廊下中に響き渡った。思いがけない人物の登場にダリルの怒りは霧散する。
数人の救世主たちと共にこちらに向かってくるリックはニーガンを睨みながら歩いてきた。その目が床に押さえつけられているダリルを捉え、驚愕を浮かべた顔は瞬時に悲痛なものへと変わる。
リックが「ダリル!」と悲鳴のような声を上げて駆け寄ってくるのを合図にニーガンは「放してやれ」とドワイトにダリルを解放するよう指示を出す。
そしてドワイトが離れてすぐにダリルの目の前でリックが膝をついた。
「ダリル、大丈夫か?……顔が傷と痣だらけだ。それに手も腫れてる。早く手当てしないと。」
リックはダリルの腫れた顔を見て泣くのを堪えるような表情になり、ケガの具合を確かめるためにダリルの顔や体に触れた。
ダリルはしばらく呆然とリックを見上げていたが、体を起こすと全身が痛みに悲鳴を上げるのも構わず彼を強く抱きしめる。久しぶりのリックの温もりに思わず安堵の息が漏れた。
リックはダリルの行動に驚いたようだが優しく抱きしめ返してくれた。
「リック、やっと会えた。──会いたかった。」
「俺も会いたかった。お前が心配で堪らなくて……ダリル、早く手当てしよう。今のお前に必要なのはケガの手当てだ。」
リックはダリルを抱きしめたままニーガンの方に顔を向けた。その顔に浮かぶのは怒りだ。
「ダリルの手当てをしてほしい。それが無理なら彼をアレクサンドリアに帰らせてくれ。」
「アレクサンドリアに帰るのはだめだ。手当てはここでしてやる。おい、さっさと医務室に連れていけ。」
ニーガンの命令で救世主たちがダリルを立たせようとしたが、ダリルはその手を振り払ってリックを更に強く抱きしめる。絶対に離れたくなかった。
手当てを拒否するダリルにリックは「だめだ、ダリル」と諭す。
「きちんと手当てしないと悪化する。頼むから──」
「そうだぞ、ダリル。最近お前が不機嫌で暴れまくるからリックを連れてきてやったんだ。こうして会えたわけだし、大人しく言うことを聞け。」
「待ってくれ、どういうことだ?」
リックが訝しげに尋ねるとニーガンはダリルとリックの傍らにしゃがんだ。その目がリックにしか向いていないことに気づき、ダリルは腹の底に怒りがドロドロと流れ込んでくるのを感じた。
「リック、お前に会えなくてダリルは機嫌が悪かったんだ。こいつは番のお前に依存してるから会えないストレスが溜まってたのさ。そのせいでリックに会わせろと暴れて勝手にケガしやがった。まあ、大人しくさせるために少しは手荒なことをしたけどな。」
そう言って肩を竦めるニーガンをリックは睨みつける。
「……一般には伏せられていたがアルファは番のオメガに依存しやすくて、長期間引き離されたり死なれると精神的に不安定になる人間が多い。もしかして、あんたはこのことをどこかで聞いたのか?」
その問いに対してニーガンは緩く頭を振りながら「そういうわけじゃない」と答えた。
「自分が見たものと調べたことから判断しただけだ。誰かに教えられたわけじゃない。だが、間違ってなかったんだな。流石は俺だ。」
「わかっていたのに俺たちを引き離したのか?……もういい、そのことについては何も言わない。だからダリルを俺と一緒にアレクサンドリアへ帰らせてほしい。このままでは自分を痛めつけて死んでしまう。」
リックはニーガンから隠すようにダリルを抱きしめ直す。まるで我が子を脅威から守る親のような姿を見てニーガンが眩しいものを見るように目を細めた。その瞬間をダリルは目撃し、それによってニーガンがリックに惹かれているのだと理解した。
愛情か、支配欲か。理性か、本能か。それは全くわからない。いずれにせよニーガンはリックという人間に心惹かれている。それはダリルにとって何よりも許し難い事実だ。
それに気づくことのないリックはニーガンにダリルの返還を求め続ける。
「このことを知っていて番になった俺を悪だと言うならそれでもいい。受け入れる。だが、ダリルと一緒にいさせてほしい。彼を苦しめないでくれ。頼む、ニーガン。ペナルティーがあるなら俺が受けるから──ニーガン!」
リックの悲痛な声が響いてもニーガンの薄い笑みは揺らがなかった。それどころか首をゆっくり横に振って拒否を示す。
失望したように僅かに顔を俯けたリックの顎にニーガンの指がかかった。それをダリルは即座にはたき落とす。間近で咎めるように自分を呼ぶリックの声が聞こえたが、ダリルはニーガンから目を離さなかった。
ニーガンは自分の手に視線を落としてからダリルに顔を向けた。その目に嫉妬が浮かぶのを見てダリルの中にあるニーガンへの殺意が勢いを増す。
「ダリル、お前は俺にとって戒めなんだよ。オメガと番になったアルファはとんでもなく惨めだから俺は絶対にこうならないっていう戒めだ。」
ニーガンの声は落ちついている。顔に浮かぶ笑みもいつもと変わらず他者を見下したものだ。
しかし、その目に宿る嫉妬と殺気は隠せない。
「俺は誰とも番になる気はない。もっと言えばオメガがいなくても別に問題ない。だがな、俺はリックが欲しい。」
ニーガンの視線はダリルからリックへと移った。その視線を受け止めるリックは言葉を失ったように黙り込んでいる。
「リックを抱いて、項を噛んで、番の契約を交わしたい。お前に出会ってからずっとそう思ってる。惨めなアルファになりたくないのに俺はお前と番になりたいんだ、リック。」
うっとりと囁くような声音にリックの体がブルッと震えた。振動を感じたダリルがリックの顔を見ると怯えた横顔が目に映った。
リックは怯えている。ニーガンの得体の知れない執着心を怖がっている。それを察したダリルは再びニーガンを睨みつけた。
「俺は、ダリルと番になっているから……あんたとは番になれない。」
リックが震える声を絞り出すとニーガンが笑い声を上げた。おかしくて堪らないといった様子で笑い続ける男をダリルとリックは奇妙なものを見るような目で眺める。
やがて笑いの引いたニーガンがリックに手を伸ばしてその頭を撫でた。
「番のアルファが死んだらオメガは他のアルファと番になれる。誰もが知ってる事実だ。だろ?」
幼い子どもに教えるような口調で話すのが却って不気味で、ダリルは背筋に寒気が走るのを感じた。
それはリックも同じらしく、「正気か?」と問う声には怯えが滲んでいる。
「俺は正気だ。こいつと違って誰とも番になってないからな。……わかるだろ、リック。ダリルを殺してリックと番になりたいっていう衝動を抑えるために、こいつには惨めな姿を見せてもらわなきゃならない。こいつの惨めったらしい姿が戒めなんだ。」
何を勝手なことを、とダリルは更に強くなった怒りを視線に乗せてニーガンを強く睨みつけた。
ダリルの心も本能もニーガンに対する憎しみと怒りを激しく燃え上がらせている。リックに執着し、何かの弾みでダリルからリックを奪いかねない存在を許せるわけがない。
ダリルはリックの体に巻き付けた己の腕の力を強めていく。リックが苦しげな息を漏らしても解放するつもりはなかった。
ニーガンは仲間を殺し、今でも自分たちを苦しめ続ける憎い相手だ。殺したいと思う気持ちは薄れることがなく、その思いがあるから虐げられても耐えられるのだろう。
しかし、今日ほどこの男を殺したいと思ったことはない。
(ニーガンを絶対に殺す。俺からリックを奪おうとする奴を放置できない。俺が、殺す)
リックへの愛情とアルファの本能が複雑に絡み合い、それはダリルの心を真っ黒に塗り潰していく。
真っ黒に塗り潰された心が己を変えてしまうことにダリル自身が気づくことはなかった。
END