彼らが愛したのは「 」です【注意】
・男性の妊娠、出産、授乳の表現があります。オメガバース等の特殊設定はありません。
・リックに対する差別、迫害要素があります。辛辣なセリフが多々あります。
・リックが孤立する展開で進んでいくため全体的に重苦しい雰囲気です。「暗すぎて読むのが辛い」とならないように心がけましたが個人差があります。
・セディク、ゲイブリエル、ニーガン以外のキャラクターが「リックの敵」のように感じられる可能性があります。そのような描き方にならないよう配慮していますが個人差があります。
注意事項を読んで引っかかるものがあれば読まない方が良いかもしれません。
楽しい話ではありませんので、気が向いた時に読んで頂ければ嬉しいです。
次のページからどうぞ。
アレクサンドリアの小さな診療所。その玄関先には若い医師──セディクが立っている。
セディクは治療を終えたばかりの患者を見送るために開けた玄関ドアを手で押さえた。
「お大事に。あまり無理はしないで。」
「気をつける。ありがとう、先生。」
セディクは腕にガーゼを貼った住人を笑みと共に見送る。
サンクチュアリとの大きな戦いの後、アレクサンドリアを始めとした各コミュニティーは町の再建に大忙しだ。その作業中にケガをする者は後を絶たず、セディクが常駐するアレクサンドリアの診療所は忙しい。診療所での診療だけでなく他のコミュニティーへの訪問診療も行っているため、これまでの人生を振り返っても今が最も多忙だった。イーニッドが医師見習いとして手伝ってくれるのでとても助かっている。
患者を見送ったセディクは中に戻り、治療に使った器具を片づけているイーニッドに「今日はもう終わりにしよう」と声をかける。
「備品の在庫確認をしたいから診療所を閉めるよ。君も勉強する時間が欲しいだろ?急患が来たら俺一人で対応するから大丈夫だ。」
「ありがとう。もし手が足りなかったら呼んで。家にいるから。」
イーニッドは残りの器具を棚にしまい終わると「また明日」と笑顔で帰っていった。
セディクは表に「診察終了」のプレートを出してから在庫確認を始める。備品がすぐに手に入るわけではないので在庫確認は重要な仕事だ。在庫確認を怠れば必要な時に薬や治療道具が足りないという事態を引き起こしてしまう。
セディクが棚や引き出しの中を確認しながらノートに在庫数を書き込んでいるとドアがノックされた。患者が来たようだ。
ドアを開けた先に立っていたのは町のリーダーであるリックだった。
「やあ、セディク。診察が終わっているのにすまない。」
「構わないよ。ケガか?」
セディクが尋ねるとリックは緩く首を横に振った。
「そうじゃない。少し前から体調のことで相談したかったんだが、忙しくて時間がなかなか取れなくて……今日こそは相談したかったんだ。都合が悪ければ出直す。」
「在庫確認をしていただけだから大丈夫。入って。」
「悪いな。」
リックは申し訳なさそうに眉を下げながら診療所の中に入った。
二人は診察時に使う椅子に座って向かい合い、セディクが促すとリックは自分の状態を話し始める。
「一ヶ月くらい前から食事をすると吐き気がするんだ。軽い時もあれば戻してしまうくらいひどい時もある。体が怠い日も多い。だからといって熱があるわけじゃない。何かの病気だと思うか?」
「とりあえず胸の音を聞かせてくれ。」
リックは「わかった」と頷いてシャツの裾を引き上げ、セディクは聴診器で鼓動を確かめる。その次に目と喉の様子を見たが、特に異常は見られない。
セディクは首を捻りながらリックに診察台に横になるよう促して腹部を触診した。
「……やっぱり異常はないな。尿や便におかしなところはないか?」
「特にない。疲れだと思うか?」
「単なる疲れにしてはおかしい。……もう起きても構わない。」
リックは体を起こすとそのままの状態で顔だけをこちらに向けてきた。
セディクは診察ノートにリックの状態を書き込みながら問診を続ける。
「食事の時に吐き気がすると言っていたが、まともに食事を取れないことが多いのか?水分はどう?」
「たまに戻してしまうが、とりあえず全部食べるようにしているよ。食べないと体力が保たないからな。水は問題なく飲める。」
「睡眠は?なかなか寝付けないとか、夜中に何回も目が覚めるとか。」
「よく眠れている。昼間だって少し休憩するつもりがいつの間にか寝てしまうくらいだ。」
セディクは聞き取ったことを全て記したノートを眺めて唸る。リックの体の異変の原因が全くわからないのだ。
よく知られている病気の症状に当てはまらず、かといって疲労による体調不良とも思えない。
「本当に見当がつかない。力不足ですまない、リック。」
セディクが謝るとリックは笑みを浮かべながら「気にするな」と答えた。
セディクは手元のノートに視線を落としながらリックに一つ提案する。
「原因がわからないから定期的に診察しよう。診療所に来られないなら俺がリックの家に行くよ。」
「いや、いい。時間を作って診療所に来る。ミショーンに心配させたくない。」
「わかった、そうしよう。」
定期的に診察して様子を見るということで話がまとまり、リックは診察台から立ち上がった。
そのままドアの方に向かいかけたリックだが、何かを思いついたように足を止めてこちらを見る。
「そういえば、俺の妻がカールを妊娠していた時と似てるよ。つわりがひどくて大変そうだった。体が怠くて昼寝をすることも多かったし。ジュディスの時はひどくなかったから良かった。」
懐かしそうに目を細めて笑うリックを見てセディクは頬が緩むのを自覚した。最近ではリックが個人的な話や他愛のない話をしてくれることが多く、心を許してくれていると感じて嬉しかったのだ。
「そう言われると妊娠初期の症状に似てるな。だが、それは有り得ない。」
「その通りだ。じゃあ、行く。診てくれてありがとう。」
セディクに自分の状態を話すことができて安心したのか、リックは明るい表情で出ていった。
セディクは再び一人になると診察ノートを見直す。
リックの今の状態に緊急性はないかもしれないが油断はできない。常に状態を把握して小さな変化も見落とさないようにしなければならない。
セディクは「在庫確認が済んだら医学書を読み直そう」と決めてノートを机に置いた。
リックの診察をした日から、セディクは積極的に彼に会いに行くようにした。定期的な診察はするが、それだけでは不十分だと考えたからだ。
リックは本調子ではないことが多いというのに忙しく飛び回っている。ニーガンの支配から脱するために皆を先導した彼は他のコミュニティーとのやり取りを引き受け、敵であったサンクチュアリの再建にも協力しているので仕事量が多い。朝早くに出かけて暗くなってから帰ってくることも度々ある。
セディクとしてはもう少し休みを取ってほしいのだが、皆がリックを頼りにしているのを感じるので休みを取るように強く訴えることもできなかった。
小まめに様子を確認することしかできない自分がセディクはとても歯痒かった。
*****
セディクがリックの変化に気づいたのは本当に偶然だった。
いつものように体調を確認するために診療所に現れたリックは珍しくTシャツを着ていた。体の線に沿うようにピッタリとしたTシャツによってリックの体型がはっきりとわかり、それによって腹部だけが異様に膨らんでいることに気づく。
リックの体型に違和感を覚えたセディクは申し訳なく思いつつもそれを指摘することにした。
「リック、失礼なことを言って悪いんだが、妙にお腹だけ出てないか?」
その指摘にリックは自身を見下ろしてから気まずそうな表情と共に顔を上げた。
「実はそうなんだ。ベルトの穴の位置もずらした。食事の量が極端に増えたわけでもないし、運動量は多いくらいなんだがな。」
「歳かな」と零すリックの腹部を凝視しながらセディクは必死に考える。
リックの顔は丸みを帯びていない。肩や腕、背中、そして脚を見ても脂肪が増えたようには見えない。セディクには腹部以外は以前と変わらないように思えた。
「リック、腹痛はあるか?それと、いつも吐き気がするとか。」
「特にない。」
「それじゃあ、便秘とか……とにかく何か気になることは?」
「ないな。何もない。」
「……確認のためにお腹を触らせてほしい。」
セディクの真剣な声音にリックは戸惑った様子で頷くとTシャツを捲った。
セディクはリックの正面に屈んで腹部を観察し、慎重に触れてみた。
(しこりはなさそうだ。……だが、この触った感じ、まるで──)
頭に過った可能性を「有り得ない」と振り払いたくなる。
しかし、これまでのリックの症状と今現在の腹部の様子から導き出される答えが最も適しているのではないかと思えてしまう。
腹部を凝視したまま黙り込んだ医師に不安になったのか、リックが「セディク?」と声をかけてきた。その声にセディクはハッとし、顔を上げてリックと目を合わせる。
「……リック、今からヒルトップに行こう。確かめたいことがある。」
セディクはリックを連れてヒルトップを訪ねた。突然やって来た二人にヒルトップの住人たちは驚いていたが、診察のために必要な器具がヒルトップにしかないことを伝えると納得した様子だった。
セディクはヒルトップの住人からの手伝いの申し出を断り、簡易診療所として使っているトレーラーにリックと二人だけで入った。
中に入るとリックを診察台の上に寝かせてTシャツを捲り上げ、腹全体にジェルを塗った。
そして診察台の傍らにエコー検査の機械を持ってくる。これは胎児の状態を確認するための機械であり、マギーにも使っているものだ。人払いをして妊婦のために使う機械を持ち出したセディクにリックは戸惑っているようだが、緊張感の漂う雰囲気を察して何も言わない。
セディクは緊張を解すために一つ息を吐いてからリックの腹部に器具を当てた。
器具を動かし、その結果が画面に映し出されるとセディクは驚きを隠さずに目を見開く。
「──嘘だろ。こんなことがあるのか。」
セディクは画面を見つめたまま小さく呟いた。
画面に映し出されたのは胎児だった。今行っているのはリックの腹の中の状態の確認なのだから胎児は間違いなくリックの子どもだ。つまり、彼は妊娠している。
信じられないようなことが現実に起きた衝撃に言葉を失っていると「有り得ない」と震える声が聞こえた。
セディクが顔をリックの方に向けると彼は画面に映る胎児を凝視している。
「こんなのおかしい。だって俺は男だ。男が妊娠するはずがない。これは何かの間違いだ。そうだろう、セディク。」
リックの縋るような目がセディクに向けられた。
リックは目の前の現実を否定してもらいたがっている。セディクはそれができないことへの苦しみを抱えながら声を絞り出す。
「これは今のリックのお腹の中の様子だ。あなたは妊娠してる。俺は専門医じゃないから正確じゃないと思うが、妊娠五ヶ月ぐらいになると思う。」
セディクが現実を突きつけるとリックはそれを拒絶するように顔を両手で覆った。指の隙間から漏れ聞こえてくる嗚咽と、それに合わせて震える肩が痛々しい。
セディクは無言でリックの腹部のジェルを拭き取って捲り上げたTシャツを下ろした。かける言葉など見つからなかった。
トレーラーの中にはしばらく啜り泣く声が響き、それが止むとリックが顔から手を離してこちらを見た。
「俺の体はどうなってしまったんだと思う?」
セディクは明確な答えを見つけられないもどかしさと共に頭を振って「わからない」と答えた。
「ウイルスの影響で体が変化したのかもしれない。他の人間も同じなのかもしれないし、リックだけなのかもしれない。……わからないことだらけだ。それでも確かなのはリックは妊娠していて、出産までは安静にしなければならないということだ。」
出産という言葉にリックの顔が引きつった。
セディクは泣き腫らしたリックの目から視線を逸らさずに言葉を続ける。
「俺は産婦人科医じゃない。中絶手術の経験のない人間が手術するのは危険すぎるし、ここまで成長していると無理だと思う。男であるあなたに酷なことを言っている自覚はあるが、あなたはこの子を生むしかない。それしかないんだ。」
セディクの言葉にリックは苦しげに顔を歪めた。
「俺にニーガンの子どもを産めって言うのか?」
思いがけない人物の名前が出たことにセディクは目を瞠った。
ニーガンは嘗ての支配者でありリックも苦しめられてきた。他の仲間たちの話ではニーガンはリックに執着して何度も彼を訪ねて来たそうだ。二人だけでリックの家に何時間も籠もっていたらしいが、何をしていたのかは誰も知らない。リックも話したがらなかったそうだ。
セディクが喉元まで出かかった言葉を飲み込むと、それを察したようにリックがニーガンとの間に起きたことを語り始める。
「俺が男とセックスしたのはニーガンだけだ。奴に支配されていた時、俺は体を求められて拒めなかった。『嫌なら拒否して構わない』と言われたが、他の誰かがひどい目に遭うかもしれないと思うと怖かったんだ。もしかしたら本当に拒否してもよかったのかもしれないが……」
リックは痛みを堪えるように目を閉じた。
「すまないが少し一人にしてほしい。心を落ちつかせないと帰れそうにない。」
「……わかった。」
セディクは頷き、慰めるためにリックの腕を擦ろうとした。
しかし、触れることは叶わない。今にも壊れてしまいそうな彼に気安く触れてはいけない気がしたのだ。
セディクはリックに触れることなく外に出て、トレーラーのドアに背中を預ける。
すっきりと晴れた空を見上げても溜め息しか出てこなかった。
ヒルトップからの帰りの車内では重苦しい沈黙が続いていた。
行きはリックが運転したが帰りはセディクが運転している。動揺の続く彼に運転を任せるわけにはいかなかった。
やがてアレクサンドリアが遠くに見えてくると助手席から深い溜め息が聞こえた。
「……セディク、みんなには黙っていてくれ。話は俺がするから少し考えさせてほしい。頼む。」
セディクが「わかった」と答えると再び沈黙が落ちる。
隣のリックの様子を窺うと暗い表情で前方を見つめていた。戦いが終わってからリックがこんなにも辛そうにしていたことはない。男でありながら妊娠し、それがよりによって宿敵だった男の子どもなのだから当然だろう。
こんな時にカールならばどうするのだろうか?
セディクは不意に浮かんだ思いに苦笑いを滲ませる。
カールであれば戸惑いながらも冷静に受け止め、父親にとっての最善を考えるに違いない。そして全力で支えになろうとするだろう。そんな息子はリックにとって何より心強い存在だったはず。
しかし、カールはこの世を去ってしまった。意見を聞きたくても、リックを支えてほしいと望んでも、それは絶対に無理なのだ。
(俺がリックを支える。カールの代わりに──いや、俺自身がリックを支えたいんだ)
セディクはリックを支えると自身に誓いを立てた。
そのためには自分がいつまでも動揺していてはいけない、と軽く頭を振って今後のことを考え始めた。
*****
リックの妊娠がわかってから三日後。
セディクはリックから「夕食後に教会に来てほしい」と言われていたため、手早く夕食を済ませると急いで教会へ向かった。
教会のドアを開ければ既に長椅子に座るリックの姿があり、その傍らにはゲイブリエルが佇んでいた。
「遅くなってすまない。」
セディクが謝るとリックとゲイブリエルは「気にしなくていい」と微笑んだ。
二人の傍に行くとリックが見上げてきた。
「ゲイブリエルに子どものことを話した。……自分で抱えていられなかった。情けないな。」
弱々しく笑うリックの肩にゲイブリエルの手が置かれる。
「一人で重荷を抱えていなくてもいいように仲間がいる。情けないと思う必要はない。」
「その通りだ、リック。俺たちは仲間だろ?」
セディクとゲイブリエルの言葉にリックは小さく頷いた。
そしてリックは二人の顔をしっかりと見る。その胸に宿る決意をセディクは確かに感じた。
「この子は俺が責任を持って育てる。ニーガンの子どもだということは関係ない。この子は俺の子だ。」
その言葉を聞いてセディクは黙ったまま頷き、ゲイブリエルも同じように頷いている。
話の続きを促すようにリックに向かって微笑むとリックが安心したように肩の力を抜くのがわかった。
「最初は産んですぐに殺した方がいいのかもしれないと思った。だって、誰もこの子の誕生を祝福しない。みんなのニーガンへの憎しみがこの子にも向けられて、俺もそうしてしまうかもしれない。親である俺が愛せなかったら……この子はきっと辛い思いをする。だから殺すべきなんだろう、と考えた。」
アレクサンドリアだけではなく他のコミュニティーの人間もニーガンへの憎しみは強い。踏みにじられて奪われた怒りは根深い。「ニーガンを処刑すべきだ」という意見が消えていないのがその証拠だ。
そのような状況においてニーガンの血を引く子どもの存在は人々の心を乱すだろう。怒りや恨みが幼い命に向けられても無理はない。
しかし、セディクはあることに気づいた。
リックはお腹にいる子どもが誰からも祝福されず、怒りや憎しみを向けられることを憂いている。自分自身が我が子を愛せない可能性を恐れている。そのように思うのは彼がお腹の子どもを愛しているからだ。リックはニーガンとの間にできた子どもをカールやジュディスと同じように愛している。
セディクはそのように感じながらリックを見つめ続ける。
「どうしたらいいのか悩みながら無意識に腹を擦っていたら、傍にいたジュディスが腹に触れて『赤ちゃん?』と尋ねてきた。マギーの姿を見ていたからそう思ったんだろうな。どうやって答えればいいのかわからないでいたら彼女は俺の腹に抱きついて頬ずりしたんだ。その姿を見て、ジュディスと腹にいる子どもに愛しさを感じた。だからこの子を育てよう、と……親子三人で一緒に生きていこうと思えたんだ。」
「誰からも祝福されなくても」と震える声で付け加えたリックは目を潤ませている。
その正面にゲイブリエルがしゃがみ、震えるリックの手を自らの手で包み込んだ。
そしてリックを見上げる形で言葉を紡いでいく。
「誰にでも等しく生きる権利があって、そのことに周りからの祝福は関係ない。それに誰からも祝福されないなんてことはない。私はこの命の誕生を祝福する。それはセディクも同じではないかな?」
微笑みながら見上げてきたゲイブリエルと目が合い、セディクは自然と笑みを浮かべた。
セディクはゲイブリエルの言葉に深く同意する。リックのお腹に宿った命には他者と同じように生きる権利があり、そしてセディクにはその誕生を祝福する気持ちがあった。
「俺も同じ気持ちだよ。この子の誕生を祝福するし、あなたを支える。いや、あなたたち親子を支えると約束する。」
リックはセディクとゲイブリエルの顔を交互に見遣って「ありがとう」と感謝を口にした。その表情が晴れやかなものであったことにセディクは笑みを深める。
これから先もリックの表情が晴れやかなものであってほしい。
それが難しいことなのだとしてもセディクは願わずにいられなかった。
セディクがリックの決意を聞いた日から五日が経ち、アレクサンドリアの教会には多くの人々が集まっていた。リックが「大事な話があるから集まってほしい」と頼んだからだ。
教会の中にはアレクサンドリアだけでなく他のコミュニティーの住人の姿もある。リックは他のコミュニティーへの説明は訪問を希望していたが、体への負担を心配したセディクが反対したため代表者に来てもらうことになった。ヒルトップは出産が近いマギーの代わりにジーザスが姿を見せ、キングダムは王の不在を不安がる住人の声を受けてキャロルが来ており、サンクチュアリは再建を手伝っているダリルが今日のために戻ってきていた。オーシャンサイドからも数名が参加している。
久々の再会に喜び合う皆の雰囲気は和やかなものだ。この雰囲気が一変する様子を想像すると溜め息が出るのを止められない。
皆が揃い、遂にリックが祭壇の前に立った。
「それぞれに忙しい中、集まってくれてありがとう。他のコミュニティーのみんなも遠くから足を運ばせてしまってすまない。」
一番最初に謝意の言葉を述べたリックだが、その顔には緊張の色が濃い。微笑みながらもぎこちなさがある。
セディクは全体を見渡すリックと目が合ったので励ますように頷き、それに対してリックも頷き返してくれた。
「今から話すことは簡単に信じられるようなものじゃない。俺自身もなかなか信じられなかったし、受け入れ難かった。それでも話を聞いてほしい。」
一瞬の沈黙の後、リックの唇が動く。
「──俺は妊娠している。ニーガンの子どもだ。」
余りにも予想外の話に誰一人として声を発しない。身動きすらしない。その様子に怯むことなくリックの話は続く。
「俺の頭がおかしくなったと思うだろう。当然だ。男が妊娠するなんて有り得ない。だが、死人が歩き出して生きた人間を襲うなんて有り得ないことが現実に起きたことを考えれば有り得ないとは言いきれないはずだ。」
そう言ってリックはエコー検査の際に撮影した胎児の写真を一番近くに座る住人に手渡した。受け取った住人は顔を強張らせながら写真を眺め、隣の者に渡していく。
リックはその様子を少し見守ってから話を進める。
「マギーの子どもの写真だと思うか?彼女は自分の子どもの写真を大切に保管しているから持ってくるのは無理だ。彼女以外に妊娠している人もいない。これは紛れもなく俺の腹の中にいる子どもの写真だ。……他の証拠はこれだ。」
そう言ってリックはシャツの裾を捲り、大きくなった腹部を晒す。それを見て皆は息を呑んだ。
リックはしばらく腹部を見せていたが、ある程度の時間が経つとシャツを下ろした。
「信じられなくてもこれが現実なんだ。俺は妊娠していて、この子のもう一人の父親はニーガンだ。支配が続いていた時、俺はあの男と体の関係を持っていた。拒否する勇気がなかった。」
リックは視線を己の腹部に向け、優しい手つきで撫でる。
「ニーガンは憎い。それでも自分の腹に宿った命は愛しい。だから俺はこの子を育てる。ニーガンの子どもということは関係なく、カールとジュディスと同じように愛していくと決めた。」
その言葉が引き金になり、怒りで興奮した住人たちが次々と立ち上がって声を荒らげる。
どうして人殺しの子どもなんて産むんだ!
男が妊娠するなんて有り得ない、その子どもは人間じゃない!
あいつの子どもを育てるなんて殺された人たちを踏みにじるつもりか!
妊娠したのはウイルスに感染したせいじゃないのか!あんたは本当に人間なのか!
ニーガンの子どもがここで暮らすなんて耐えられない!
お前は裏切り者だ!怪物だ!
セディクは憎悪の恐ろしさを目の当たりにして全身を硬直させた。
昨日までリックと笑い合っていた者が、肩を並べて作業していた者が、信頼の眼差しを向けていた者が、彼に怒りと悪意を投げつけている。
心に巣食う憎しみが彼や彼女を支配し、人々を守ってきた男に言葉の弾丸を浴びせる光景は狂気的で恐ろしい。この過酷な世界で手を取り合って生きてきた仲間であることなど記憶から消えてしまったかのように一人の人間を責め立てる人々に背筋が寒くなる。
セディクがリックに目を向けると彼は青ざめながらも全てを受け止めて立っていた。それでも足がよろめきそうになっていて、セディクは堪らず彼の前に飛び出す。教会の隅に立って話を聞いていたゲイブリエルもリックの傍に寄って背中を支えた。
セディクはリックを背に庇いながら住人たちと向き合う。
「もう中絶できる時期は過ぎた!可能な時期だったとしても産婦人科医以外が手術をすればリック本人も危険だ。それに産まれてくる子どもには責任も罪もない。この子には生きる権利がある!」
セディクは必死に叫んだ。
子どもが産まれるまでリックを手助けしてほしいのではない。
ニーガンの子どもを育てるのに協力してほしいのでもない。
ただ、幼い命がアレクサンドリアの住人として生きることを認めてほしいだけなのだ。
しかし、その願いは怒号に打ち砕かれてしまう。
「そんなのは認められない!悪魔の子がこの場所で生きるのは許さない!」
それに賛同する声が次々に上がり、住人たちは教会から出ていってしまう。リックと長く付き合いのある者たちもそれぞれに異なる感情を宿す眼差しを寄越して立ち去った。
そして、静かになった教会には祭壇の前に立ち尽くす三人だけが残された。
静寂の中、ゲイブリエルの気遣わしげな声が響く。
「リック、座った方がいい。少し休むべきだ。」
その言葉にリックは小さく頷き、フラフラと長椅子に腰を下ろした。
セディクはリックの正面に跪いて彼の顔を覗き込む。顔色は悪く、疲労と精神的なダメージの深さが見えた。
セディクは努めて柔らかな声音でリックに話しかける。
「休憩したら家に戻ろう。俺が送るから心配しないで。」
「……ありがとう。」
その声の弱々しさに胸が痛む。
セディクは何度も頷きながらリックの腕を擦った。
リックはセディクとゲイブリエルの顔を交互に見ながら「頼みがある」と話を切り出した。
「ニーガンに俺の妊娠のことを知られたくない。あいつには黙っているようにみんなにも伝えてくれないか?」
思いがけない頼みにセディクはゲイブリエルと顔を見合わせ、すぐにリックへと視線を戻した。
二人の驚きを察したリックが理由を説明する。
「今更あの男に責任を取ってほしいなんて思わないし関わってほしくない。だが、子どもの存在を知れば奴は大人しくしていないだろう。だから秘密にしたい。」
リックの思いを聞き、セディクはもう一度ゲイブリエルに顔を向けた。同じように彼もこちらを見ており、目を合わせて頷き合う。
ゲイブリエルはリックの方に顔を向けて「わかった」と穏やかな声で告げた。
「リックが望むならそのようにしよう。みんなには私が話しておくからセディクと一緒に家に戻ってくれ。」
「ああ、任せて。」
セディクが応えるとゲイブリエルは急いで教会を出ていった。他のコミュニティーから来た者たちが帰ってしまう前に話さなければならないからだ。
ゲイブリエルが出ていって少し経ってからリックは立ち上がる。
「……帰るよ。ジュディスが待っているから。」
そう言ってリックは微笑む。
その微笑みが儚げで、セディクは彼が消えてしまうのではないかと恐ろしくなった。
*****
リックが仲間たちに妊娠のことを打ち明けてから彼を取り巻く環境は大きく変わった。
まず、「リックの指示を受けたくない」という住人が多いためにリックは再建作業を含む町の運営全てから外された。それだけでなく調達や様々な作業にも参加することを拒否されてしまい、リックがどうしても調達に行きたい時はセディクとゲイブリエルに同行を頼むしかなかった。
その次には恋人であるミショーンが家を出ていった。「冷静になるのが難しくて傷つけてしまいそうだから距離を置きたい」と言い残して荷物と共に去る恋人を見送るリックの隣に、セディクは黙って並んでいることしかできなかった。
リックと距離を置いたのはミショーンだけではない。アレクサンドリアの住人たち、そして他のコミュニティーの人間も彼から離れていった。各コミュニティーから「コミュニティーが混乱するのでリックは来ないでほしい」との伝達があり、これをきっかけにサンクチュアリとは交流が途絶えることになってしまった。
多くの人々にとってリックは「男でありながら妊娠した怪物」だった。
多くの人々にとってリックは「ニーガンの子どもを産み育てようとする裏切り者」だった。
多くの人々にとってリックは「リック」ではなくなっていたのだ。
よく晴れた日の午後。
アレクサンドリアの診療所にはセディクとグライムズ親子の姿があった。リックは定期検診のために来ており、ジュディスはその父親に付いてきたのだ。
診察台の上に横になっているリックの腹は妊娠が発覚した時よりも更に大きく膨らみ、サイズの大きな服やゆったりとした作りのものでなければ着られないほどになっていた。その腹の上をエコー検査の器具が滑る。画面に映し出される胎児の様子に問題はなく、そのことにセディクは顔を綻ばせた。
「順調に来ていると思う。今のところ心配しなくても大丈夫だ。……と言っても、本を読んで勉強しただけだから当てにならないかもしれない。」
セディクは自身の言葉に溜め息を落とす。
崩壊する前の世界では産婦人科医としての勉強はしていない。世界が変わった後にアレクサンドリアや他のコミュニティーで医師として求められるようになってから学び始めた程度で、産婦人科医としての知識と技術は半人前以下と言えるだろう。ヒルトップのマギーの子どもを取り上げた際、出産自体は無事に終わったが力不足を強く感じた。
セディクが自身を情けなく思っているとリックに手の甲を軽く叩かれる。
「セディクは指導者がいないのによく頑張っていると思う。自信を持つのは難しいかもしれないが、自分を情けなく思う必要はないさ。」
リックからの励ましに心が少し軽くなる。
セディクはリックに感謝の言葉を告げ、機械の電源を切ってから彼の腹部のジェルを布で拭った。
その様子を見て検診が終わったことを察したジュディスが父親の傍に来て「赤ちゃん、まだ?」と尋ねる。期待に満ちた目で見上げてくる愛娘を見下ろすリックの眼差しは優しい。
リックはジュディスの柔らかな頬に触れながら「まだだよ」と答えた。
「ジュディスは赤ちゃんが来るのが楽しみか?」
「うん!いっぱい遊ぶの。」
「そうか。パパも一緒に遊びたいな。」
「いいよー。」
リックは捲ったシャツを下ろすと診察台から立ち上がってジュディスと手を繋いだ。
「セディク、ありがとう。帰るよ。」
「家まで送る。拳銃を持ってくるから待っててくれ。」
現在、リックはアレクサンドリアに住んでいない。町から少し離れた場所にある空き家を手入れし、周囲を柵で囲ってジュディスと二人だけで暮らしている。畑を作って作物を育てていることから察するに、彼は町に戻って暮らすつもりはないのだろう。
それは無理もないことだった。住人たちがリックに向ける眼差しは「奇妙な生き物」或いは「恐ろしい怪物」を見るようなものだった。そこにはリックの存在を恐れ疎む気持ちが表れており、そのためリックは「自分がいると皆が不安定になる」と考えて幼い娘と共に町を出たのだ。
セディクとゲイブリエルはグライムズ親子の新たな住居を整える手伝いを積極的に行い、彼らが引っ越した後は頻繁に様子を見に行っている。リックが定期検診で町に戻る際はどちらかが送り迎えをして危険がないようにしていた。リックとの付き合いの長い仲間たちに協力を依頼することも考えたが、皆はニーガンの子どもを受け入れられずに葛藤しているため諦めるしかなかった。
セディクは拳銃を取ってくるとリックとジュディスと共に診療所を出る。外に出ると通りを歩く住人がリックを見て眉をひそめ、彼を避けるように足早に立ち去った。その姿を見遣るリックにセディクは声をかける。
「気にしない方がいい。あなたは悪くないんだ。」
セディクの言葉にリックは苦笑を滲ませた。
「わかってる。誰かが悪いわけじゃない。異質な存在を拒むのは人間の心に染みついたものだから。」
「リック……」
「俺も同じだ。異質な存在に対して抵抗を感じることはあるし、妊娠したと知った時は自分のことが気持ち悪くて仕方なかった。大勢と違う一握りの存在を恐れて遠ざけたがるのは自然な流れなんだ。」
「俺もそう思う。そう思うけれど、みんなにとってリックはずっと一緒に生きてきた仲間なのに……今のあなたの状況が俺には辛い。」
セディクもゲイブリエルも皆がリックから距離を置くのは仕方がないと思っている。自分たちと異なる存在を不気味に思い、自分たちにとって悪いものではないかと恐れるのは自身を守るためだ。それは過酷な世界で生き残るための防衛本能の一種なのだろう。誰もがその性質を持つのだ。
皆はリックが「人間ではない何か」に変化したと思い、それが自分たちを脅かす存在である可能性を恐れている。恐れは自らを守る力を得るために怒りを生み出し、恐れと怒りは攻撃性を高めた。リックを責め立ててコミュニティーの外側へ弾き出したのは防衛手段の一つと言ってもいい。
そして、人々の激情を煽ったのは「リックが身ごもったのはニーガンの子どもである」という事実だ。
ニーガンが率いた救世主たちの行いは多くの人々の心に深い傷を残し、支配下にあった頃の影響は大きい。それでも悪夢のような日々を忘れて前に進んでいこうとしていたのだが、ニーガンの子どもの存在は人々が心の奥に押し込めた怒りや憎しみを掘り起こしてしまったのだ。
人間の性質や皆が心に負った傷を考えれば今のような状況は当然の流れかもしれない。そのことをセディクとゲイブリエル、そしてリック本人もよく理解している。
しかし、セディクの中にやり切れなさは残った。
「セディク、心配してくれてありがとう。」
セディクが打ち明けた本心に対してリックは穏やかに微笑みながら感謝した。
「今の自分の状況を辛くないと言ったら嘘になる。だが、俺には子どもたちがいてくれて、そしてお前とゲイブリエルが手を差し伸べてくれる。そのことに救われているから大丈夫だ。」
「それでも俺はもっとあなたのために何かしたい。他にもできることがあるはずなんだ。」
「もう十分だ。」
リックはそう答えて首を横に振った。
そして、この話題を続けることを拒むようにジュディスと話し始めた。
セディクは楽しげに言葉を交わす親子を見守りながらリックのためにできることを考え続けた。
*****
ニーガンの体調を確認するために定期的に独房を訪れるのはセディクにとっては日常の一部だ。リックが町から離れて以降は食事や着替えを渡すために足を運ぶことも多くなり、ニーガンと顔を合わせる機会は増えた。
そのため、些細な変化も見落としていないはずだった。前日に着替えを持っていった時も様子は普段と変わらなかった。
しかし、今は違う。独房の中のベッドに座るニーガンはセディクを強く睨みつけてきた。殺気さえ宿るその眼差しにセディクは恐怖を感じ、檻が何の役にも立たないように思えた。
セディクが凍りついたように立ち尽くしているとニーガンは座ったまま口を開く。
「リックに会わせろ。話がしたい。俺があいつに最後に会ったのは二ヶ月くらい前だ。」
地を這うような声から感じるのは怒りだ。それが何に対するものなのかセディクには見当がつかない。
セディクは唾を飲み込むと答えを返すために声を振り絞る。
「それは無理だ。彼は橋の建設作業で現場に泊まり込んでる。前にも話したじゃないか。」
それは嘘だった。動き始めたばかりの橋の建設計画はリックの妊娠発表と共に潰えた。リック主導で行っていたこととはいえ、引き継ごうとする者が一人もいなかったのだ。
リックが姿を見せないことを訝しがるニーガンに以前も同じ説明をしてとりあえずは納得してもらったのだが、今回は無理なようだ。
ニーガンは険しい顔で「そいつは違うな」と言って立ち上がった。
そして、こちらに近づいてくると驚くべきことを口にする。
「俺の子どもを妊娠したから町にいられなくなったんだろ?自分たちを守ってきた男を追い出すなんて腰抜け共にしちゃ大胆なことをしたもんだ。」
それを聞いてセディクは頭が真っ白になった。
リックがニーガンの子どもを妊娠したことはニーガン本人には伏せておくことになっている。一応は大人しくしているニーガンだが、自分の子どもの存在を知ればどのような行動に出るかわからない。元からニーガンに近づきたがる者はいなかったものの、誰もがそれを憂慮したからこそ秘密は守られてきたのだ。
それなのに知られてしまったのはなぜなのか?
誰かがニーガンに話したということなのか?
そうであれば何の目的のために?
セディクの混乱を察したようにニーガンは答えを示す。
「今朝、ここの近くでペラペラおしゃべりするバカがいたんだ。この独房には窓があるってことを忘れてたみたいだな。デカい声で話してたぜ。『男が妊娠するなんて有り得ないからリックは人間じゃない。しかもニーガンの子どもを産むなんて頭がおかしい。町を出ていったんだから戻ってこなきゃいいのに』だとよ。医者のお前は町の奴ら全員の口を縫い合わせておくべきだったな。」
「なんてバカなことを……」
「おしゃべり野郎のことはどうでもいい。俺にとって大事なのはリックと話をすることと、どうして俺に知らせなかったのかってことだ。」
知られてしまった以上、これ以上隠しても無駄だ。
そう悟ったセディクは全てを打ち明けることに決めた。
「あなたに話さなかったのはリックの希望だ。彼はあなたに責任を取ってもらう気はないし、関わってほしくないとも思ってる。子どもの存在を知れば脱走を企てるかもしれないとも思った。だから黙っていたんだ。」
「まあ、そう思うのは当然だな。それで今、何ヶ月目になる?」
「七ヶ月は過ぎたと思う。定期検診で異常はない。リックもお腹の子どもも元気だ。」
「あいつの今の立場は?」
「はっきり言って最悪だ。男なのに妊娠したことで怪物のように思われているし、ニーガンの子どもであっても育てると公言したせいで憎まれてる。町の運営や調達からは外された。だが、町を出たのは彼の意思だ。『自分の存在がみんなを不安定にさせる』と言って町から少し離れた場所でジュディスと暮らしてる。定期検診のために戻ってくる程度だ。」
セディクの話にニーガンは表情を曇らせた。腕組みをして「ちょっと待てよ」と言って疑問を口にする。
「ジュディスを連れていったのか?あのチビちゃんを?あいつなら自分自身を守れないようなガキを壁の外に連れ出すなんてバカなことはしないはずだ。恋人にでも預けるだろ。どうなってる?」
「ミショーンの方から距離を置きたいと言って家を出ていった。別れたわけじゃないが、それも時間の問題だと思う。それがわかっているからリックはジュディスを連れていったんだろう。」
「……リックの味方はいるのか?お前はどう思ってる?」
問いを投げかけてきたニーガンからはリックを案じていることが感じられ、そのことにセディクは驚いた。
二人は宿敵同士だ。ニーガンはリックを支配しようとする者であり、リックはその支配に抗う者だった。リックがニーガンに向ける感情は紛れもなく憎しみだった。
しかし、ニーガンからはリックへの憎しみを全く感じない。よく思い返してみれば、これまでにニーガンからリックへの恨み言を聞いたこともなければ憎しみをぶつける姿を見たこともなかった。
セディクは驚きながらも男の真摯な眼差しを正面から受け止める。
「俺はリックを支えたい。だから彼と子どもたちを守ると決めた。そう思ってるのはゲイブリエルもだ。ゲイブリエルもリックを守ろうとしてる。」
セディクの答えを受けて「お前とゲイビーか」と呟くニーガンの表情に少しだけ安堵の色が見えた。リックが完全に孤立していないことを知ったからだろう。
それもすぐに消え、ニーガンは真剣な表情で一歩前に踏み出した。
「リックと話したい。俺はあいつと話さなきゃならない。」
「お腹の子の父親だから?」
セディクの問いにニーガンは呆れたように溜め息を吐く。
「それもあるが、リックのことが気になるからに決まってるだろ。おかしいと思うか?言っておくが、俺はあいつを憎んでも嫌ってもいない。」
セディクはニーガンの目を見つめ、その心を探った。
そして「ニーガンはリックを愛しているのだろうか?」という疑問を心の奥に沈める。
支配が続いていた時からのニーガンのリックへの執着は恐らく消えていない。それは憎しみのようなマイナスの感情ではなく、もっと別の何かだ。仮にそれが愛情なのだとしても他人の心に無遠慮に踏み込むべきではない。
セディクは少し思案した後、「わかった」と首を縦に振る。
「リックを説得してみる。努力はするが、期待はしないでほしい。」
「頼むぞ。」
「……長居し過ぎた。健康状態の確認はまた改めてする。」
セディクがそう言うとニーガンは苦笑しながら「必要ない」と言うようにヒラヒラと手を振った。
「どこも調子の悪いところはないぜ、ドクター。さっさと行け。」
セディクはニーガンに見送られながら独房を後にした。
診療所に戻る道すがら、リックをどうやって説得するかを考える。宿敵と話をすること自体が気の進むことではない。しかもリックの今の状態の元凶とも呼べる相手なのだから尚更だろう。
しかし、リックがニーガンに妊娠のことを伏せる一番の理由はニーガンが子どもに与える影響を案じているからではないかとセディクは考えていた。
リックの中でのニーガンの印象は最悪だ。そんな相手が親として子どもに関わることによる我が子への悪影響を心配するのは当然だろう。リックはお腹の子どもへの愛情があるからこそニーガンを遠ざけたいのではないだろうか?
セディクはその心配はないと感じている。ニーガンの行ってきたことを肯定するつもりはないが、父親としてのニーガンは信頼できる気がした。それは先ほど話をしてみて感じたことであって説得力のある材料は何もない。
それでもリックにはニーガンときちんと話をしてもらいたい。いや、話をすべきだ。
セディクはゲイブリエルに相談するために目的地を教会に変更した。
二週間後、セディクはリックと共に独房へ続くドアの前に立った。
「定期検診のついでにニーガンのところへ行って彼と話してほしい」という説得はなかなかに難航した。リックはセディクが予想していた通りの理由でニーガンに子どものことを隠しておきたかったため、ニーガンと話をするのをとても嫌がった。
「町のみんながこの子を疎ましく思うのは『第二のニーガン』として見ているからだ。俺はこの子をあの男のようにはしたくない。」
そう話したリックの気持ちは理解できる。生まれてもいない我が子がニーガンの分身のように思われていることが嫌で、ニーガンが関わることでそのように育ってしまわないかと案じているのだ。
その不安を抱えるリックに対してセディクは自分が感じたニーガンの印象を何度も説明した。純粋にリックとお腹の子どものことを心配していると感じたことを話し、子どもと関わるようになってもリックが心配するような接し方はしないだろうとも伝えた。
ゲイブリエルと交替で毎日のように説得を続けた結果、リックは「カールもニーガンを信じていた」と言ってニーガンと話すことをようやく受け入れたのだ。
独房のドアの前に立ったリックは前方を見つめたまま動かない。彼の中にある葛藤を消化しようとしているのがわかるのでセディクは急かさなかった。
やがてリックはゆっくりとドアを開け、その先へと進んでいく。
セディクは足の裏の感触を確かめるように慎重な足取りで進むリックに付いて歩き、彼が檻の中にいる宿敵と対面する瞬間を後ろから目撃した。リックの顔は見えないので表情がわからないが、ニーガンの表情は落ちついたものだった。
リックは少しの間その場で立ち尽くしていたが、何の前触れもなくニーガンに近づいて声をかける。
「男の俺の腹が膨らんでいるなんて奇妙だろう?」
薄暗い部屋の中にリックの声が落ち、それに応えてニーガンが頷いた。
「俺だけが突然変異したのかわからないが、とにかく俺は妊娠していて、俺を抱いたのはあんたしかいない。ニーガン、この子はあんたの子どもだ。」
「ああ、わかってる。俺以外の男がそういう意味でお前に触るのは許さなかったからな。」
「……あんたのことは今でも憎い。それでも俺はこの子を育てる。この子を愛しているから。だからこそ、あんたにはこの子に関わってほしくなかった。みんなの恐れる『第二のニーガン』になってほしくない。」
リックは顔を逸らさずに告げた。ニーガンもリックから視線を外さない。
「だが、セディクが父親としてのニーガンは信用しても大丈夫だと……そう話していた。カールもあんたを信じていた。だから話してみようと思ったんだ。」
リックはそこで言葉を切ると俯いた。それは目の前の男から視線を逸らすためではなく、小さな命の宿る腹を撫でるためだ。
ニーガンはリックの手の動きを目で追いながら思いを口にする。
「腹の中にいる子どもは俺のコピーじゃない。別の人間だ。俺と同じようにはならない。だからこそ関わりたい。成長していく姿を見守りたい。──父親として。」
ニーガンの声には緊張が滲んでいた。それだけ本気なのだとセディクは察し、思いがリックに届いてほしいと願いたくなる。
しかし、ニーガンが子どもに関わることを許すか決めるのはリックだ。これはリックとニーガンの問題であり、第三者が口出しすべきことではない。
セディクが固唾を飲んで二人を見守っているとリックが不意に顔を上げた。
「カールを守れなかった俺と人間的に最低なあんたが父親か。父親たちが揃って半人前なんてかわいそうな子だ。だが、二人なら一人前の父親になれるかもしれない。」
ニーガンはリックの顔を見つめながら目を丸くしている。リックの言葉に驚いたというのもあるだろうが、恐らく表情に驚いたのだろう。リックの纏う雰囲気は柔らかく、顔を見なくとも彼が微笑んでいるのは予想がつく。
リックは驚きを隠さないニーガンを気にする素振りを見せずに一歩前に出た。そうすることでニーガンが手を伸ばせば触れられる距離にまで近づいた。
そして己の腹に宿る小さな命に話しかける。
「ほら、君のもう一人のパパだよ。最低な奴だが、きっと君には優しくしてくれる。」
リックは我が子に話しかけてからニーガンに顔を向ける。
「せっかくの機会だから触ってみるか?」
リックの提案にニーガンは神妙な顔つきで頷き、ゆっくりと手を伸ばす。普段の姿からは想像できないくらいに慎重な動きにセディクは思わず笑みを零した。
ニーガンの指先がリックの腹に辿り着き、続けて掌を滑らせながら腹部全体を撫でていく。慈しむような手つきからは愛しさが感じられた。ニーガンは間違いなくその子を愛している。
ニーガンは微笑と共に優しい眼差しをリックの膨らんだ腹部に注ぐ。
「どうせ外には出してもらえないんだから、おチビちゃんのためにできることを考えるさ。その時間は腐るほどある。ついでにお前のためにできることも考えてやるよ、リック。」
「期待しないで待とう。」
驚くほどに穏やかな雰囲気で言葉を交わすリックとニーガンを見守るセディクの胸には喜びが溢れていた。
リックを支えようとする人間は少ない。独房から出られない立場であっても彼を気にかける存在がいてくれると心強い。過去に因縁があろうとも、ニーガンはリックにとって大きな支えになってくれるはずだ。
そんなことを考えているとリックがこちらを振り返る。微笑みながら頷くリックは感謝の気持ちを伝えたいのだとわかった。
セディクはそれに応えるために顔に笑みを乗せて頷き返した。
リックがニーガンと話をして以降、リックは定期検診の後に時々ニーガンを訪ねるようになった。
会話が弾むとは言えない。それは二人の関係を考えればおかしなことではない。
しかし、ポツポツと言葉を交わす程度であっても二人が今までとは異なる関係を築こうとしていることが重要だ。それは産まれてくる子どもにとって何より喜ばしいことだろう。
その様子を見守るセディクは「このまま穏やかに時間が流れていってほしい」と願った。
町の皆がリックを「怪物」だと見なして避けるのは仕方がないことだと受け入れている。ニーガンの血を引く子どもを拒絶する気持ちを否定しようとは思わない。
ただ、リック本人と彼が愛する存在を傷つけないでほしい。
リックの笑顔を曇らせないでいてくれるなら、それでいい。
セディクが望んでいるのはそれだけだ。
しかし、その願いを叶えるのは何よりも難しい。
*****
リックの腹に宿った命の成長は順調だ。妊娠したと想定される時期から考えれば、そろそろ出産が近づいていると思っていいだろう。腹部の膨らみ具合を見ても臨月を迎えているのは間違いなかった。
リックは出産が近いということでしばらく診療所に滞在することになった。町の外にある家にいては産気づいた際に診療所に来ることができず、一人で出産することになってしまうからだ。だからといってセディクがリックの家に長期で泊まるわけにもいかないのでリックに来てもらうしかなかった。
ジュディスはゲイブリエルに預けられ、彼女は彼と一緒に毎日父親に会いに来た。多くの人々によって育てられてきたジュディスは他人の家での寝起きを嫌がることはなく、むしろ新鮮な日々を楽しんでいる。そのことにリックは安堵すると共に「適応力のある子だ」と笑った。
そんな風にリックはジュディスとの関わりにおいて笑顔を見せるものの、風当たりの強いアレクサンドリアにいるのは居心地が悪いようだ。カールの墓参り以外は診療所の一室で過ごすことが多く、散歩に出るのも外が暗くなってから。明るい時間帯に外出することは極めて少ない。ニーガンを訪ねないのも皆を刺激しないためだ。
セディクはリックに出産後は最低でも半月は診療所に滞在するよう求めているが、この様子では数日で出ていってしまうだろう。
出産による体への負担を考えると一ヶ月か二ヶ月ほど留まって安静にするのが理想だが、それを困難にするほどに住人たちのリックに対する感情は悪化していた。
ある日、セディクが診療所でカルテを書いているとドアが開いてジュディスが姿を現し、「セディク、助けて!」と駆け寄ってきた。
セディクは困り顔の幼子の前にしゃがみ込んで目線を合わせる。
「やあ、ジュディス。どうしたんだ?何かあったの?」
「ゲイビー、元気ない。病気だよ。治して。」
ジュディスは悲しげな顔でゲイブリエルの治療を求め、玄関ドアを閉めながら苦笑する当事者を指差した。セディクがゲイブリエルに視線で「何かあったのか?」と問うと首が縦に振られた。
セディクは再びジュディスに視線を戻し、彼女を安心させるために笑みを浮かべる。
「ゲイブリエルは俺が元気にしてあげるからジュディスはパパとお話しておいで。君を待ってるよ。」
その言葉にジュディスは元気良く頷くと慣れた足取りで奥の部屋へ向かう。
ジュディスがリックのいる部屋に入ったのを見届けてからセディクはゲイブリエルに椅子を勧め、彼が座ったのに続いて自分も椅子に座った。
改めてゲイブリエルの顔を見てみれば確かに浮かない顔をしている。ジュディスが気づいて心配するほどに感情の乱れが顔に出ているということは余程の何かがあったのだ。──恐らく、リック絡みの。
セディクは気を引き締めて尋ねる。
「リックのことで何かあったのか?」
その問いにゲイブリエルは弱々しく頷いた。
「……一部の者たちがリックについて話しているのを聞いてしまったんだが、この町の人々の彼への感情は悪化している。彼の死を望むまでになってしまった。」
ゲイブリエルは悲痛な面持ちで声を絞り出す。
彼が耳にした内容は「男なのに妊娠して子どもを産むなんて気持ちが悪い。リックは人間ではなく怪物だ。そんな男が近くにいるなんて恐ろしいからウォーカーにでも食われて死んでほしい」というようなものだった。その上、「ニーガンの子どもを産んで育てようとするのは本当はニーガンと通じているからではないか?だから処刑しないのかもしれない。そんな裏切り者も処刑すべきだ」とまで話していたと言う。
リックに対する批判的な意見はセディクも耳にしていたが、死を願ったり処刑について言及する内容は初めてだ。それほどにリックを排除したい気持ちが強くなっているのだろう。
セディクが言うべき言葉を探しているとゲイブリエルが重い溜め息を吐く。彼は俯いて己の両手を見つめていた。
「人の意識を変えるのは難しい。それでも時間をかければ不可能ではない。だから根気強く説得してきた。数年後には皆がリックと彼の子どもの存在を受け入れてくれるように……彼らがこの場所で生きていけるようにしたかった。」
ゲイブリエルは手を握りしめるとグッと唇を噛んだ。その悔しさを堪えるような様子を見て、セディクはゲイブリエルの努力を振り返る。
住人一人ひとりに「我々と違う部分があってもリックはリックだ」と説き、「ニーガンの罪を彼の子どもにまで押しつけてはならない」と諭す姿を見た回数は数えきれない。
ゲイブリエルはいつも叱るのではなく落ちついた口調で語りかけていたが、彼が必死だったのをセディクは知っている。アレクサンドリアだけでなく他のコミュニティーにも何度も足を運んで人々の意識を変えようとしていた。皆を説得しながらリックに対しては「皆を説得するから諦めないでほしい」と励ますことも忘れていなかった。だからこそゲイブリエルの悔しさは計り知れない。
ゲイブリエルは顔を上げるとセディクを真っ直ぐに見つめてきた。その目に宿る悲しみは、きっとセディクの目にも宿っているだろう。
「今日、彼らの話を聞いて私は怖くなった。皆の意識が変わる前にリックは命を奪われるかもしれない。彼が命がけで守ってきた人々に彼は殺されるのかもしれない、と。もしかしたら皆を説得するための時間は……ほとんど残されていないのかもしれない。そんな風に感じてしまって恐ろしくなったんだ。」
声を震わせながら話すゲイブリエルの手も震えている。感情が制御できなくなっているようだ。
セディクは立ち上がってゲイブリエルの肩に手を置く。そうするとゲイブリエルは堪えきれなくなったように両手で顔を覆った。
労るように肩を擦ることしかできない自分が歯痒く、セディクは眉根を寄せる。
「ゲイブリエル、落ちつくまでここにいるといい。俺は二人の様子を見てくるから。」
それに対して「ありがとう」と小さな声が返ってきた。
セディクはゲイブリエルから手を離して親子がいる部屋に足を向ける。
部屋の中に入らずに中の様子を覗うと、リックとジュディスはベッドに並んで座っていた。元気良く話をする娘を見つめるリックは優しく微笑みながら頷いている。その手が腹部を撫でるのは無意識なのだろう。
セディクは目の前にある優しくて愛おしい光景に胸が苦しくなった。
どうすれば彼らの幸せな時間を守ることができるのだろうか?
この問題の答えを見つけ出すのは容易ではない。それでも必ず見つけなければならない。そうしなければセディクは大切な人を失うことになるのだから。
運命の時は夜中に訪れた。
リックのために診療所に寝泊まりしているセディクは自分を呼ぶ声に目覚めを促され、その声がリックのものだと認識した途端に意識がはっきりする。
慌ててリックの部屋に飛び込むと彼はベッドの上で苦しげに顔を歪めていた。
「陣痛か?」
その問いにリックはしっかりと頷いた。
「こんな痛み、経験したことっ、ない!」
「わかった。イーニッドを呼んでくるから少しの間だけ一人になるが──」
「わかった!」
リックが答えるとセディクは枕やクッションをリックの背中に差し込んで背もたれ代わりにし、下に履いているものを脱がせてから急いでイーニッドの家に向かう。イーニッドもお腹の子どもに複雑な思いを抱いているが、彼女は医師見習いとして出産時の手伝いを承諾してくれている。
セディクはイーニッドにリックが産気づいたので手伝いに来てほしいと伝え、続いてゲイブリエルにも診療所に来るように伝えた。ゲイブリエルがニーガンへの連絡を引き受けてくれたので診療所へ戻るとイーニッドも到着したところだった。
それからはイーニッドと二人でリックの出産にかかりきりになる。ジュディスと共にやって来たゲイブリエルに「別室で待っている」と言われても頷くことしかできず、リックが産気づいたことを知ったニーガンの様子を教えてもらう余裕もなかった。
リックの出産は過酷で壮絶だった。
男の体は出産の痛みに耐えられるようにできていないのか、リックは絶えず泣き叫び、何度も失神した。その度に頬を叩いて意識を取り戻させ、言葉で励ましてやることしかできない。その壮絶さにセディクもイーニッドも涙を堪えるのに必死だった。
数時間に及んだ出産は夜明け頃に終わりを迎える。ようやく外の世界に出てきた赤ん坊は元気な女の子だった。
セディクはぬるま湯で赤ん坊の体を洗ってから柔らかなタオルで包み、その子をリックの元へ連れて行く。
「リック、あなたの女の子だよ。とても元気だ。」
赤ん坊を差し出すとリックは恐る恐る受け取り、生まれたばかりの我が子を胸に抱いてじっくりと顔を見下ろした。
リックは自分が産んだことが信じられない様子で黙って赤ん坊を見つめていたが、やがて小さな声で呟く。
「無事に生まれてきてくれて良かった。……俺が君のパパだよ。これからよろしく。」
その瞬間のリックの微笑みにセディクは目を奪われる。
リックの目元は愛おしげに垂れ、唇は緩く弧を描いた。新たな命の誕生への喜びを隠すことのない笑みは何よりも美しかった。彼以上に美しい人などこの世には存在しないと断言できるほどに、セディクにとってリックは誰よりも一番美しい人だった。
イーニッドが濡れタオルでリックの額を拭く様子を見てセディクは我に返り、労いを込めてリックの肩を擦る。
「リック、本当にお疲れ様。辛かったろう?あなたは本当によく頑張ったと思う。」
「頑張ったのはセディクとイーニッドも同じだ。本当にありがとう。二人のおかげだ。」
イーニッドは満足げに微笑みながら頷き、「ゲイブリエルとジュディスを呼んでくる」と言って部屋から出ていった。
間もなくしてジュディスとゲイブリエルが部屋に入ってくる。ジュディスが大喜びでベッドに駆け寄ったのでセディクは小さな体をベッドの上に乗せてやった。
初めて会う妹の顔を覗き込むジュディスの目は輝きに満ちている。
「可愛い!」
その素直な感想に大人たちは思わず笑みを零す。
「可愛いね、パパ!赤ちゃん可愛い!」
「そうだな。この赤ちゃんはジュディスの妹だぞ。仲よくしてあげてくれよ。」
「する!」
セディクが幸せそうに笑う親子から視線を外して彼らを見守るゲイブリエルに目を向けると、彼は何度も目元を拭っていた。
セディクは苦笑と共にゲイブリエルに近づき、その背中を撫でてやる。
「よかった……リックも子どもも無事で……本当に、よかった!」
「ああ、本当にそう思う。ゲイブリエル、リックには一ヶ月くらい診療所にいてもらいたい。負担をかけてしまうが、もうしばらくジュディスの世話を頼みたいんだ。」
その言葉にゲイブリエルは「任せてほしい」と涙を拭った。
そしてセディクは再びグライムズ親子に顔を向ける。
本当の意味で大変になるのはこれからだ。これまで以上にあの親子を支えて守っていかなければならない。
セディクは親子を優しく見守りながらも気を引き締めた。
出産後のリックには新たな変化があった。驚くことに母乳が出るようになったのだ。
それが判明した時の衝撃はリック本人だけでなくセディクにとっても大きなものであり、その時は二人揃って黙り込んでしまった。
子どもを産むことができる体になってしまったがリックは男である。体つきが女のようになったわけではなく、性的欲求が高まれば射精もする。彼は男のままだった。それなのに母乳まで出るようになり、そのことが「自分は男だ」という彼の性自認を更に傷つける。
しかし、リックは葛藤しながらも最終的には己の体の変化を受け入れた。それは生まれたばかりの我が子のためだ。物資不足に悩まされることのない世界であれば市販のミルクで済ませられるが、それらの物資は今では貴重品だ。リックは自分の胸から出る乳を幼い娘に与えた。
胸に吸い付いて元気良く乳を飲む赤ん坊を見下ろすリックの眼差しは優しい。その顔に複雑そうな笑みを浮かべながらも我が子に話しかける声は穏やかなものだ。
「男の母乳なんて旨いのかわからないが、たくさん飲んで大きくなれ。」
その優しい声がセディクはとても好きだった。
リックの優しい声が響く診療所の一室が世界の全てだったなら、それはグライムズ親子にとって幸せなことなのかもしれない。
だが、現実は違う。部屋から一歩外へ出れば彼らには厳しい眼差しが注がれる。
リックが無事に女の子を産んだ話はすぐに町中に、そして他のコミュニティーにも広まった。それについての話題の中に祝福する声はない。
リックは「極悪人の子どもを産んだ怪物」であり、生まれた子どもは「悪魔と怪物の子ども」としか認識されなくなっていた。母乳が出るようになったことも知られ、そのことがリックに対する差別にますます拍車をかけた。リックがニーガンに生まれたばかりの娘を会わせるには皆が寝静まった真夜中でなければならないほどリックの立場は厳しくなっていた。
そのような状況でリックが診療所に留まるのは難しく、彼はセディクやゲイブリエルが反対するのを押し切って二人の娘を連れて町の外にある自宅に戻った。出産してから一週間しか経っていなかった。
*****
少しの食料と日用品。セディクはそれらをリュックサックに詰め、腰のホルスターに収めた拳銃を確認してから家を出た。
今日は診察を午前中で終えて午後からリックの家に行く予定になっている。自分の食料や日用品を節約してグライムズ親子に分けるのはセディクだけでなくゲイブリエルもニーガンも行っていることだ。ニーガンに関しては他の住人よりも支給される量は少ないのだが、そんなことを気にせず「あいつらに持っていけ」と物資を差し出してくる。
セディクがニーガンから渡された分も背負って通りを歩いていると三人の住人が町を出る姿が目に映った。その三人がリュックサックや他の鞄を持たず、拳銃やナイフしか装備していないことがセディクは気になった。記憶に間違いがなければ今日は午後から調達に出かける者はおらず、他のコミュニティーに行く予定もなかったはずだ。
セディクは足を速めて三人の後を追う。彼らの目的地が知りたかった。
気づかれないように尾行しているうちにセディクの心臓は嫌な予感に騒ぎ始める。彼らの歩く道がリックの家へと続いているからだ。
そして嫌な予感ほど的中するもので、住人たちの目的地はリックの家だった。リックの家が見えてくると彼らはそれぞれの手に武器を握る。その状態で親子が暮らす家に近づいていく姿はどう見ても襲撃犯のそれだ。
セディクは拳銃を手にすると三人に近づきながら「止まれ!」と大声を出し、驚いて振り返った彼らのうちの一人に照準を定める。
「リックたちに何をするつもりだ?彼らを傷つけるのは許さない。今すぐに町へ帰るんだ!」
セディクは三人を睨みつけながら力強く言い放った。
それに対して住人たちは苛立った表情を見せる。
「どうしてリックを庇う?あいつは俺たちとは違う。怪物だ!怪物が近くに住んでるなんて冗談じゃない!」
「それだけじゃない、リックは裏切り者だよ!ニーガンなんかの子どもを育てるなんて仲間への裏切りだ!悪魔の子どもも生かしておけない!」
セディクが拳銃を向けていない二人が興奮したように叫ぶと、狙いを定めている男が「落ちつけ」と二人を宥めた。
そして、その男はセディクと視線を合わせて苦々しい顔で口を開く。
「俺たちは自分や家族を守りたいだけだ。リックは俺たちにとって脅威なんだ。だから排除する。」
「彼は変わっていないし裏切り者でもない。それでも殺すのか?彼の子どもまで?」
「いいか、セディク。そう思ってるのはあんたとゲイブリエルぐらいのもんだ。町のみんなはリックが死ぬことを望んでる。俺たちの行動を知ってる奴は大勢いるぞ。見て見ぬ振りをしてるだけだ。」
その言葉を受け止めた瞬間にセディクは全身の血液が冷えたように思えた。
リックが昔から付き合ってきた仲間たちは違うだろうが、他の大半の住人たちがリックの死を望んでいるという現実を突きつけられたせいで打ちのめされそうだ。
セディクは手が震えそうになるのを堪えながら拳銃の安全装置を解除した。
そして、正面に立つ男に告げる。
「リックを殺そうとするなら俺はあなたを殺す。それでも彼を殺したいなら俺を殺してからにしてくれ。唯一の医者である俺を殺して恨みを買わずに済むとは思えないが、それでもいいならやればいい。」
嫌な言い方だ。セディク自身は自分が医療技術を持っていることに特権意識はなく、それを誇示するのは嫌いだった。
しかし、今はこれを利用しなくてはならない。そうしなければリックを守ることができない。
セディクの言葉に三人は顔を見合わせた。彼らの顔に諦めの色が見えたことに内心ホッとしたが、それを悟られないように努める。
三人は武器を収めると町のある方角に向かって歩き始めた。それでもセディクは男から狙いを外さないでいる。
その時、男が「一つ言っておくぞ」と言って振り返らないまま足を止めた。
「今回だけじゃ終わらない。俺たちが失敗しても他の誰かが必ずリックを殺しに来る。あんたがリックを守るのは無理だ。」
それだけを言い残して男は再び歩き始める。
三人が遠ざかってからセディクはようやく拳銃を下ろした。
そして額に汗が滲んでいることに気づき、手の甲で拭う。冷や汗だ。
その場に立ち尽くしたまま動けないでいると後ろから「セディク」と呼ぶリックの声が聞こえた。振り返ればリックが少し離れた場所に立っている。
「リック……今の……」
「全部見ていたよ。声が聞こえたから気になって外に出た。……すまなかった。」
「あなたは悪くない。」
「いや、俺のせいで嫌な思いをさせた。すまない。」
リックは悲しそうに微笑むとセディクに背を向けた。まるで拒絶されたようで胸が痛む。
「セディク、ここにはしばらく来ない方がいい。あの子が生まれたばかりで町のみんなは気が立っているんだろう。時間が経てば落ちつくから──きっと大丈夫だ。」
リックの提案に対してセディクは「無理だ」と言いながら一歩踏み出した。
「いつまで待てばいい?その間にあなたが襲われるかもしれないのに見過ごせと言うのか?俺にはできない!俺はあなたを守りたいんだ、リック!」
セディクは振り向かないリックに向かって必死に言葉をぶつけた。
リックが傷ついているのがわかっているのに見て見ぬ振りはできない。危険な状態なのに放置することはできない。大切な人を失うかもしれないのに何もしないのは嫌だ。
「傍にいさせてくれ」とセディクは懇願した。
しかし、リックは背中しか見せてくれない。
「何かあっても子どもたちは俺が守る。自分のことは自分で何とかするから。……気をつけて帰れ。」
リックは声を振り絞るように言い残して家に戻っていった。一度も振り向かない彼の背中をセディクは追いかけられない。
自分はどうすればいいのだろう?
自分はどうしたいのだろう?
セディクは頭の中をグルグルと回り続ける問いに翻弄され、しばらくその場から動けなかった。
襲撃未遂が起きた日の深夜、セディクはゲイブリエルと共にニーガンの独房を訪れた。昼間の出来事を二人に報告し、今後について話し合うためだ。
セディクの報告を受けた二人はそれぞれに異なる反応を見せる。ゲイブリエルは今までに見たことがないほど悲壮な顔になり、手の震えを抑えようと必死に拳を握っていた。ニーガンは噴き出す怒りを発散させるために粗末なベッドを何度も殴りつけてはアレクサンドリアの住人を口汚く罵った。
セディクは二人が落ちつくのを待ってから本題に移る。
「今のままだとリックはまた襲撃を受けると思う。人数が少なければリック一人でもどうにかできるかもしれないが、彼が住人を傷つけたり殺してしまえば取り返しがつかない。」
セディクの発言に同意するようにニーガンが二度頷いた。
「正当防衛なんて認められないだろうな。リックを処刑するための理由ができたってことで群れて押しかけてあいつを殺す。リックはガッツがあるが、何十人も相手にすりゃ負ける。」
ゲイブリエルも「同感だ」と溜め息を吐く。
「リックは出産してから日が浅くて本調子ではない。私がこの前訪ねた時も『体が怠い』と言って休んでいた。もしかしたら二人か三人が相手でも厳しいかもしれない。」
深刻な問題を前にしたニーガンとゲイブリエルの表情は固い。それはセディクも同じで、三人は黙り込んだまま考え込む。
重苦しい沈黙が続いた後、セディクはポツポツと己の心の中にあるものを語り出す。
「俺はリックを守りたい。カールの代わり、ということじゃなくて……俺自身が望んでる。彼を仲間と戦わせたくない。それはきっと、彼の心を傷つけることだから。それなのに、リックが大事なのに……どうすればいいのかわからないんだ。」
セディクの話を聞いていたゲイブリエルが「私も同じだ」と寂しげに笑って頷いた。
「この三人だけでリックを守るのは無理だ。ミショーンやロジータ、タラ、そしてユージーンはきっと彼を守ろうとするだろうが、我々と彼女たちだけでは人数が圧倒的に少ない。マギーとダリル、そしてキャロルはアレクサンドリアから離れているし……少人数で大勢を相手に守りきるのは難しすぎる。」
それ以上誰も言葉が続かず、再び沈黙が訪れる。
やがて、ベッドに座って床を見つめていたニーガンが顔を上げた。そしてセディクとゲイブリエルを見ながら「黙って聞け」と話を切り出す。
「お前たちはリックのためにアレクサンドリアの連中を裏切る覚悟があるか?」
思いがけない言葉にセディクもゲイブリエルも目を丸くする。
しかし、すぐに表情を引き締めた。これはとても重要な話だ。
「今のままだとリックは間違いなく殺される。あいつが必死に守ってきた奴らにだ。いつか理解してくれる、なんて悠長なことは言ってられない。怯えてる奴はとんでもない行動に出るからな。」
ニーガンはそこで言葉を止めると立ち上がってセディクたちの方へ一歩踏み出した。
立ち上がったニーガンに力強い目で見つめられると圧倒される。それは彼が一帯の支配者であったことに説得力を持たせた。
そしてニーガンは堂々と己の考えを口にする。
「俺はリックを連れて逃げる。」
一切の迷いのない声がセディクの耳を打った。
「あいつにとって酷なのはわかってる。それでも遠くへ行かなけりゃあいつはここに住んでる奴らに殺されるんだ。俺はあいつと子どもたちを死なせたくない。リックを殺すために動いた奴が現れた以上、もう時間がないのはわかるな?だから俺がリックたちを連れて逃げるのに協力しろ。」
セディクはニーガンの言葉を頭に染み込ませる。
ニーガンの案はセディクも頭の片隅にあったことだ。アレクサンドリアから離れるしか彼を救う方法はないのだとわかっていた。それでも唯一の方法に踏み切れなかったのは「自分がリックを連れて逃げてもいいのだろうか?」という思いがあったからだ。
セディクは医者だ。この世界において貴重な医者であり、患者は大勢いる。その自分が医者であることを放棄してもいいのかという迷いがあった。
それを見透かしたようにニーガンの視線がセディクに定められる。
「俺はここに未練も思い入れもないが、お前らは違うだろ?だから一緒に来ることを強制する気はない。一つだけ言えるのは『どっちみち後悔するなら後悔の小さい方にしておけ』ってことだ。」
続けて「さあ、どうする?」と問うニーガンはいつものようにニヤリと笑った。
セディクが自分の心と向き合っているとゲイブリエルが「私は決めた」と静かに告げる。
その声に導かれるようにゲイブリエルに顔を向けると穏やかに微笑む彼がこちらを見ていた。
「私は残る。ニーガンが脱出するには町に残って動く人間がいた方がいい。それに、この町にはカールの墓がある。私はリックの代わりにカールの墓の世話をする。それだけじゃなく、私なりの方法でこの町の人々を守ろう。リックが守ってきた人々を彼の代わりに守る。それがリックのためにやりたいことだ。」
ゲイブリエルの目に迷いはなかった。リックのために自分ができること、やりたいことを考え抜いた末に出した結論だからだ。
セディクはゲイブリエルの目を見つめ返しながらもう一度よく考える。
「俺は……」
リックを支えたい気持ち。
リックを守りたい気持ち。
リックの傍にいたい気持ち。
それらは衰えることなくセディクの中に存在し続けている。その気持ちの一つひとつと向き合い、セディクは遂に答えを見つけた。
セディクはゲイブリエルに微笑んでからニーガンを見つめ、答えを口にする。
「俺はリックを守るために一緒に行く。俺は傍で彼を守り続けたい。」
声に出してみるとその気持ちはますます強くなった。
迷いのない晴れやかな気持ちがセディクの顔に笑みを浮かべさせ、それを見たニーガンは満足げに目を細める。その後にゲイブリエルの手が肩に置かれたので彼の方を見遣ると優しい眼差しが返ってきた。
そしてニーガンが一つ手を叩き、頼もしいリーダーの顔で笑った。
「さあ、作戦会議だ。」
グライムズ親子を逃がすための作戦はセディクとゲイブリエルの情報を基にしてニーガンが考えた。
まず始めにそれぞれの役割を明確にした。セディクは「ニーガンを独房から出してリックと共に行くこと」が任務であり、ゲイブリエルは「セディクとニーガンの逃亡を手助けし、逃亡の発覚を遅らせること」を担い、ニーガンは「騒ぎを起こさずにアレクサンドリアから脱出し、リックを連れて逃げること」が使命だ。
セディクは明け方近くになったらニーガンを独房から出し、車でリックの家に向かうことになっている。夜中に出発しないのは緊急時以外は夜間に町の外に出てはならないというルールがあるからだ。そのルールを破って出かければ「疑ってくれ」と言っているようなものだ。
しかし、明るい時間帯ではニーガンが独房から出ることができない。そのため、調達班が夜明け頃に出発するのが珍しくないという事実から「夜明け頃が出発には最適だ」という結論に至った。もし車が出ていく様子を目撃されても怪しまれにくいだろう。
逃亡の補助を行うゲイブリエルはシフト通りに見張り番として見張り台に立ち、二人の逃亡を誰にも連絡しないことが主な仕事だ。ゲイブリエルは「一人で見張りを行っていたらセディクに襲われて拘束されたので報告できなかった」という理由を作るためにケガをすることになるのだが、彼は少しの躊躇いもなく引き受けた。
少しでも時間を稼ぐこととゲイブリエルに疑惑の眼差しが向けられるのを防ぐためにはこの方法しかないが、この作戦は彼が見張りの当番になっている日でなければならないため、作戦の実行日が明後日というハードスケジュールになってしまった。シフトの交代をゲイブリエルが提案したが、決行日を延ばせないのと彼が疑われないようにするため却下となった。
ニーガンは誰にも気づかれずに逃亡用の車まで辿り着くのが最重要任務だ。無事に車のところに着いた後はトランクの中に隠れて大人しくしていなければならないのだが、それはアレクサンドリアから離れるまでの辛抱だ。
セディクとニーガンがリックの家に辿り着けば計画はほぼ成功と言える。最難関なのはリックの説得だ。リックに「一緒に逃げよう」と提案したところですぐに首を縦に振るわけがない。
セディクは時間の少ない中でリックを説得するための言葉を考え続けた。
*****
作戦実行の時が来た。
セディクは緊張のせいで寝たり起きたりを繰り返しながら起床時間を迎え、手早く着替えると準備しておいた自分とニーガンのリュックサックを車の後部座席に放り込む。
その次に行ったのは治療や様々な症状に関する情報をまとめたノートと医学書を診療所に運び込む作業だ。
セディクは自分に何かあった時のために日頃から情報や知識、医療現場において経験したことをノートにまとめるようにしていた。それは十冊以上にもなる。それらのノートと勉強のために使った医学書を診療所の机に置いておき、自分がいなくなった後に役立ててもらおうと考えたのだ。
自分の患者たちを見捨てることへの罪悪感はある。医者として失格なのだろうとも思っている。それでもセディクの心はリックを選んだ。
セディクは机の上にあるノートに触れ、名残を惜しむように撫でてから診療所を後にした。
診療所を出てから向かうのはニーガンの待つ独房。彼のために用意した服と靴を胸に抱えながら慎重に移動する。まだ皆が寝ている時間帯ではあるが自主的に見回りをする者は皆無ではない。周囲への警戒は過剰なくらいにすべきだ。
普段より時間をかけて独房に到着すると、既にニーガンは起き上がっていた。
「おはよう。着替えを持ってきた。」
「助かる。誰にも見られてないな?」
「大丈夫、誰にも会わなかった。」
セディクはすぐに檻の鍵を開けた。その様子を見てニーガンは一瞬目を丸くし、続けて苦笑いを浮かべる。
檻から出たニーガンはセディクから服と靴を受け取るとセディクの額を指で弾いた。
「俺を簡単に信用しすぎだ。リックならもっと警戒するぞ。」
セディクはジンジンと痛む額を撫でながら眉根を寄せる。
「リックを見る時のあなたを見ていれば信用できるとわかる。」
その言葉に首を傾げるニーガンを見ながらセディクは小さく溜め息を吐く。
リックと会う時のニーガンの目には彼への執着が滲んでいる。それだけでなく会話の途中で焦がれるように目を細めることも自覚していないのだろう。リックの存在に心を奪われている者が今更裏切るなど有り得ない。
そのことをわざわざ教える必要はないのでセディクはニーガンに背を向けて独房から出て辺りの様子を窺った。そのうちに着替え終わったニーガンが来たので周囲に視線を巡らせながら移動を始める。
静まり返った通りに響く足音は意外にも大きい。誰かが起き出して外に出てこないことを願うしかない。
建物の影に隠れて様子を窺いながら移動し、ようやく車のところまで来た時には薄っすらと汗が滲んでいた。
「ニーガン、早くトランクへ。」
セディクが小声で促すとニーガンは無言で頷いてトランクを開け、長身を折り曲げて中に入った。
セディクがトランクを閉めようとすると恨めしそうにこちらを見るニーガンと目が合う。
「もっとデカい車にしろよ。狭すぎる。」
その文句にセディクは小さく肩を竦める。
「乗り捨てるのが前提だから大きな車は選べない。町への迷惑は最小限にしないとね。」
続けて「しばらく我慢してくれ」と言い添えてからセディクはトランクを閉めた。
そして運転席に乗り込み、一つ息を吐く。
(さあ、リックのところへ行こう)
自分を励ますように心の中で呟いてからエンジンをかけてハンドルを握り、ゆっくりと走り出す。
門の前に車を移動させるとロープを持って車を降り、見張り台の梯子を上る。その間にゲイブリエルの視線が自分に注がれているのを感じた。
梯子を上りきってゲイブリエルの正面に立つと彼は微笑みながら頷いた。
「セディク、リックと子どもたちをよろしく頼む。ニーガンもいるから大丈夫だと思いたいが、放浪の旅は過酷だ。定住できる場所を見つけられるように祈っているよ。」
「ありがとう。あなたの方こそ疑われないように気をつけてくれ。できる限りのことはしたが、この計画に参加していることが知られたらどうなるか……」
「その時はその時だ。私は神の導くままに進む。さあ、早くやってくれ。」
セディクは胸に込み上げる熱いものを無理やり飲み込んで拳を握り、それを思いきりゲイブリエルの頬に叩き込んだ。鈍い音と呻き声がその場に落ちる。
そして足をふらつかせるゲイブリエルからライフル銃を奪い、彼の両手を後ろに回して素早くロープで縛った。これでゲイブリエルは襲われたせいで身動きできなかったのだと思ってもらえるはずだ。
セディクは急いで梯子を降りようとして、その動きを止めた。顔をゲイブリエルの方に向ければ彼は痛そうに顔を歪めながらも微笑んでいる。
「ゲイブリエル、ありがとう。……元気で。」
別れの挨拶にゲイブリエルが頷いたのを確認してからセディクは今度こそ止まることなく梯子を降りて地面に着地し、ライフル銃をその場で放棄した。必要最低限の武器や物資しか持っていく気はない。
そして音が大きくなりすぎないように注意しながら門を開け、車一台分が通れる程度まで開けてから車を外に出した。
停車すると再び車を降りて門を閉めるが、町の外側から施錠するのは困難だ。そのため近くに置いてあるものを使って簡易のバリケードを作った。逃亡が発覚するまでウォーカーが近づかないことを願うしかないのが心苦しかった。
セディクはバリケードを作り終えるとすぐに車を発進させてリックの家を目指す。一秒でも早くリックの家に行き、誰かが追いかけてくる前に出発しなければならない。
セディクはアレクサンドリアからある程度の距離まで来たところで停車して車のトランクからニーガンを出し、彼を助手席に乗せて再び走り出す。
リックの家まで、もう少しだ。
リックは早朝に訪れた二人を見て驚きと動揺を隠さなかった。ニーガンが自分の家に来たことが信じられないようだ。
ニーガンは驚いて玄関先で固まるリックを無視して家の中に入り、「リュックか鞄はないのか?」と物色を始める。
リックは困惑を顔に浮かべながらセディクを見た。
「これはどういうことだ?なぜニーガンが一緒にいる?あいつを逃したのか?」
「リック、話を聞いてくれ。俺たちはあなたと子どもたちを逃がすために来た。」
セディクの返答にリックは眉をひそめる。
「俺たちを逃がす……?その必要は──」
「ないとは言わせないぞ、リック。」
リックの言葉を遮ってニーガンが強い口調で言いきった。それに対してリックはニーガンの方に向き直って彼を睨みつける。
ニーガンはリックと睨み合ったまま現状を伝える。
「アレクサンドリアの連中はお前たち親子を殺したがってる。実際にこの家の前まで来たらしいな。たまたまセディクが気づいて止めたから助かったが、こいつもゲイブリエルも一日中お前に張りついてるわけにいかない。どう考えたっていつかお前は殺される。」
「自分の身は自分で守る。子どもたちだって俺が守る。」
「町のほとんどの奴らが押しかけてきても大丈夫だって言えるか?お前一人で何十人も相手にして勝ち目があるって?無理だぞ、リック。一人や二人の問題じゃない。アレクサンドリアそのものがお前が死ぬことを望んでるんだ。」
ニーガンの容赦ない言葉にリックは完全に沈黙した。セディクは青ざめた顔で唇を噛むリックの正面に回って顔を覗き込む。
そして涙の膜が張る瞳を見つめながら語りかける。
「もしかしたら時間が解決してくれるのかもしれない。だが、今はその時間がない。彼らはあなたを恐れていて、同時に憎んでいる。恐怖と憎しみに囚われた彼らは近いうちに必ずあなたを殺しに来る。そうなったらあなたは子どもたちを守るために戦うだろう。それは仲間と殺し合いをするということだ。俺たちはあなたにそんなことをしてほしくない。わかってくれ、リック。」
セディクの言葉を聞いたリックの顔が歪む。目の縁に溜まった涙が頬を伝い落ちるのを見て、セディクは指でそれを拭った。
リックの涙は美しい。そう思う気持ちはあっても、彼が涙を流すのは喜びの時であってほしかった。
「リック、俺とニーガンと……ここに来なかったゲイブリエルはあなたに生きていてほしいんだ。体も心も傷ついてほしくない。幸せであってほしい。そのためにはアレクサンドリアから遠く離れてもらうしかないんだ。……こんな守り方しかできなくて、すまない。」
セディクは溢れ続けるリックの涙を拭いながら思いを紡いだ。
リックはセディクの手を拒まないが、「それはだめだ」と苦しげに零す。
「お前たちを危険に晒すことは、できない。それに……セディク、お前は医者だ。患者を見捨てることになる。苦しむのはお前なんだぞ?」
リックは真っ直ぐにセディクを見ていた。その目に宿る優しさにセディクは思わず笑みを零した。
ああ、この人は果てしなく優しい。
「俺は医者失格なんだ。他の大勢よりもたった一人の大切な人を救いたいと望んでしまった。この選択はあなたを苦しめてしまうかもしれないが──それでも俺にあなたを選ばせて、リック。」
驚いたように瞬きをするリックにセディクは微笑む。
医者としての自分は罪悪感に苦しみ続けるだろう。それは覚悟している。
しかし、リックと離れることに耐えられなかった。彼を傍で守り続けたいと心から望んだ。自分の気持ちを捻じ曲げて生きていくことは不可能だ。
セディクとリックが見つめ合っていると横から手が伸びてリックの肩に触れる。ニーガンの手だ。
リックの視線がセディクからニーガンに移るとニーガンは真剣な表情でリックを見つめ返した。
「俺がこの世で執着してるのはお前だ。後は子どもたちだな。だからあいつらに殺させるわけにはいかない。それとな、リック。ゲイブリエルはカールの墓の世話と町の奴らを守るために残った。お前の代わりをするんだとよ。それだけお前に生きてほしいと思ってるってことさ、あいつもな。」
リックはニーガンから言われたことを噛みしめるように目を閉じる。
その頬を滑り落ちる涙はゲイブリエルの献身に対する感謝のものだろう。その涙をニーガンの指が優しく払っていく。
「いいか、俺は何をしてでもお前を連れて行くぞ。頼むから俺にお前を無理やり攫わせるな。」
「……あんたらしくない言い方だな、ニーガン。」
リックは涙を浮かべながらも笑った。その笑みが何かを吹っ切ったように見えたのはセディクの気のせいではないだろう。
リックは自らの手で涙を拭い、セディクとニーガンの顔を交互に見た。
「迷惑をかけてすまないと思うが、俺と一緒に逃げてほしい。子どもたちを守りたいんだ。」
そのリックの目に迷いはなかった。覚悟を決めた彼の姿は何よりも美しい。
セディクはニーガンと視線を合わせて頷き合うと再びリックに顔を向けた。
「もちろん。俺たちはあなたとあなたの子どもたちを守るよ、リック。」
リックが決断すると物事は早く進んでいった。
リックが子どもたちの出発の準備をしている間にセディクとニーガンで必要な荷物をまとめて車に詰め込む。車で行けるところまで行ってからは徒歩になるため持つことができる量は多くはない。必要なものを厳選して荷物を作らなければならなかった。
トランクに荷物を入れ終わった頃には子どもたちの準備も終わった。ジュディスは眠たそうに目を擦りながら家から出てきたが、セディクとニーガンを見ると「おはよう」と嬉しそうに笑った。そんな彼女は兄から譲り受けた帽子をしっかりと胸に抱いている。
そして生まれたばかりの赤ん坊はリックの腕の中で気持ち良さそうに眠っている。慌ただしい雰囲気を気にもしていないようだ。
「リック、チャイルドシートは一つしかなかった。すまない。」
セディクが謝るとリックは「謝らないでくれ」と小さく笑みを浮かべた。
「セディク、ジュディスをチャイルドシートに座らせてくれないか?この子は俺が抱っこしたままでいく。」
「わかった。ジュディス、おいで。」
セディクがジュディスを後部座席のチャイルドシートに座らせている間にリックはその隣に座り、ニーガンは運転席に乗り込む。
そしてセディクが助手席に乗るとニーガンが一人ひとりの顔を見つめながら口を開く。
「嫌だろうが何だろうが、俺たちは家族だ。──行くぞ。」
それに異を唱える者はいない。セディクもリックも深く頷き、それを見届けたニーガンがアクセルペダルを踏み込む。
ゆっくりと動き出した車はアレクサンドリアのある方角とは反対方向に進んでいく。もっと先へ行けば見慣れた景色は見えなくなるだろう。
セディクがアレクサンドリアで過ごした期間は長いとは言えない。それでも懐かしさと寂しさが胸に込み上げるのは濃密な時間を過ごした証だ。
車窓から見える景色に目を奪われているとジュディスの無邪気な声が耳に届く。
「パパ、どこ行くの?」
その明るい声に惹かれて後ろを振り向けばジュディスが隣に座る父を見上げていた。
「遠いところだよ。パパも知らない遠いところ。」
「みんなは?」
その質問にリックが寂しげに微笑む。
「みんなは行かない。サヨナラ、なんだ。」
父の答えにジュディスが悲しそうに眉を下げて「そうなんだ」と呟く。
その次に幼子は前に座るセディクとニーガンを指差して問う。
「セディクたちは?サヨナラするの?」
それに答えたのはニーガンだ。
ニーガンは顔を前方に向けたまま「違うぞ、ジュディス」と明るい声で言った。
「俺とセディクはお前たちとずっと一緒だ。俺たちはジュディスから離れたりしないぞ。」
「本当?」
ジュディスの弾んだ声に言葉を返すのはセディクの番だ。
「本当だよ、ジュディス。俺たちは君とパパと一緒にいる。」
セディクがそう言って微笑むとジュディスは満面の笑みを浮かべてはしゃいだ。
セディクは愛娘を見守るリックの横顔を見つめながら「この親子を守り抜く」と改めて自分自身に誓う。
旅の過酷さは自身も経験している。幼い子どもが二人もいれば大変さが増すのはわかりきったことであり、更に言えばリックは産後間もないため本調子ではない。当分の間、まともに動けるのはセディクとニーガンだけだ。
二人で三人を守るのは容易ではない。それでも「絶対に守る」という思いはどちらも強い。
何があってもリックたち親子を守る。三人が幸せであるために自分たちは彼らを連れて逃げるのだから。
セディクは顔を正面に戻し、目の前の道に視線を移す。
どこまでも続く道の先に何があるのかは知らない。それでも不思議と不安はなかった。
END
後書きがあります。興味があれば読んでみてください。
【後書き】
私の書いた小説を読んでくださってありがとうございます。
この話を書いた理由は「人間の心の複雑さ」「理不尽な状況に置かれるリックの姿」を描きたいと思ったからですが、書き進めていくうちに「望まない妊娠をした人の出産」の色合いが濃くなったように感じました。「このことについて何も触れずに投稿しっぱなしというのはどうなんだろう?」と思ったため、今回だけ後書きを書くことにしました。
今回の話では、リックは宿敵であるニーガンの子どもを妊娠しました。リック本人が望んだわけではありません。中絶できないほどに成長していたため出産することになり、「産んだ後すぐに殺すべきではないか?」と一時は葛藤しますが、最終的に彼は生まれてくる子どもを愛し、一緒に生きていくことを選びました。
しかし、違う展開に進んだとしてもおかしくはありません。妊娠初期であれば中絶を選んだかもしれませんし、子どもを愛せなかったかもしれません。
私の個人的な意見としては、望まない妊娠をした人が子どもを愛せるかどうかはその人の心が決めることであり、心がどちらに傾いてもそれを責めるべきではないと思います。子どもを産むのか産まないのかということも、それを決めるのは本人です。本人が考えて決断を下すことであり、周りが強制したり選択の結果についてゴチャゴチャ言うものでもないと思います。
私は「どのような理由があっても子どもを愛すべきであり、産むべきである」と示しているわけではありません。「どのような理由があっても何を思い、考え、選択するのかは本人の自由である」と思います。
この話ではこのような展開になりましたが、この展開が正しいというわけではありません。私の意見も単なる個人の意見でしかありませんので、ご自分の考えや気持ちを大切にしてください。
最後になりますが、この小説に正解はないと思っています。各キャラクターの考えや選択が正しいとも間違っているとも決められません。
「こういう状況だからあんな風に思うのかな?」などと考えて頂ければ嬉しいです。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
だんご