遠い、あの日。 「久しぶりだな」と言ってアレクサンドリアに現れたニーガンにリックは溜め息を零す。その顔を最後に見たのは記憶違いでなければ三日前のはずだ。
徴収日以外も訪ねてくる支配者にリックは供を命じられている。そのため我が子二人を速やかに教会へ避難させるのにも慣れたものだ。もちろん、リックとしては少しも慣れたくないのだが。
リックがいつものようにニーガンを家へ案内すると一人の救世主が後から付いてきた。その腕に大きな箱を抱えているので荷物持ちなのだろう。その救世主はダイニングテーブルに箱を置くなり早々と家から出ていった。
リックはニーガンが持参した正体不明の箱を指差して問う。
「ニーガン、これは?」
その問いにニーガンは得意げな顔をしながら蓋を開けて中身を取り出す。
箱から出てきたのはレコードプレイヤーだった。それはニーガンが初めてアレクサンドリアに来た時に町から持ち去ったもの。そのレコードプレイヤーを見たニーガンが「掘り出し物だ」と上機嫌だったことを記憶している。
しかし、なぜ自分たちから奪ったものをわざわざ持ってきたのだろうか?
リックが訝しく思っていると、ニーガンはレコードプレイヤーを軽く叩きながら話し出す。
「お前のために持ってきてやったんだ。音楽鑑賞は気分転換になるからな。たまには音楽でも聴いてストレス解消しろ。こんな風に気遣う俺って本当に優しいよな。」
その発言にリックは眉間にしわを寄せた。リックのストレスの原因はニーガンだ。その原因が姿を見せなくなれば解決するのだが、そのようにならないからストレスが解消されない。
不快感を隠そうとしないリックをニーガンが気にした様子はなく、彼は口笛を吹きながら音楽を聴くための準備を進めていく。
「リック、ジャズは好きか?」
ニーガンはプレイヤーにレコードを設置しながら問うてきた。それに対してリックが「それなりに」と返せばニーガンは満足げに頷く。
「俺も好きだ。特にジャズバラードは女を口説く時に良いぞ。ムード作りに最適だな。」
「それしかないのか、あんたは。」
リックは溜め息混じりに返した。ニーガンの軽薄なところも好きではなかった。
ニーガンは「堅物だな」と笑いながらレコードに針を落とす。そうするとゆったりとしたメロディーが流れ始めた。
語りかけるように奏でられるトランペット。それに寄り添うピアノはどこか儚げだ。その二つの音色だけで別世界を生み出すのだから音楽というものは不思議である。
音楽を聴くのはいつ以来だろう、とリックは流れてくる音色に耳を傾けながら考える。ジュディスを寝かしつける際に子守唄を歌うことはあるが、それは音楽を楽しむためのものではない。自らの歌声で皆を癒やしてくれたベスが死んだ後、音楽を楽しむことを忌避するかのように皆がジュディスのためにしか歌わなくなった。そして今、仲間を守るために必死に働く日々の中では音楽の存在を思い出すことさえない。
こうして美しい音色に耳を傾けているとニーガンの存在を忘れてしまいそうだ。ただただ音楽の波に漂い、心地良さに身を委ねる。そうすると自分がひどく疲れていることに気づいた。
リックが物思いに耽っているとニーガンが近くに来た。その顔を見上げても目の前に立つ相手の感情は読み取れない。
ニーガンは感情の読めない笑みを浮かべたままリックに向かって手を差し出してきた。
「お手をどうぞ。」
そう言って差し出された手にリックは視線を落とす。「一緒に踊ろう」と誘われていることは理解できた。
普段であれば差し出された手を叩き落としたかもしれない。だが、リックは導かれるようにニーガンの掌に己の手を乗せた。それは音楽の生み出す不思議な力によるものなのか、疲れ切った心の気まぐれだったのか。その理由はリック自身にもよくわからない。
差し出された手を取るとニーガンの空いた方の手がリックの腰に添えられて抱き寄せられる。そして手を取り合ったまま腕を伸ばし、リックが己の空いた手をニーガンの肩に添えればダンスの基本姿勢の完成だ。二人はそのまま音楽に合わせて体を揺らし始める。
リックは目の前のニーガンの顔を見つめながら奇妙な感覚を味わっていた。
(懐かしい気がする。前にも、こうやって……)
自分が女役を務めて踊るのは初めてではない。以前にも同じようにダンスした記憶がある。
リックは微かに目を細めて記憶を辿った。いつ、どこで、誰と。遠い記憶のどこかにあるそれを手繰り寄せようと記憶の海を彷徨う。
そして、リックは見つけた。切なさに胸が締め付けられるほど大切な記憶を。
(──ああ、そうだ。学生時代にシェーンと踊ったんだ)
それは遠い遠い、幸福に満ちた時間の記憶。
*****
輝かしい青春の象徴であるプロム。それを翌週に控えた土曜日に、リックは遊びに来たシェーンと自分の部屋のベッドに並んで座っていた。
ラジオから流れてくる音楽をBGMに会話を楽しんでいたのだが、間近に迫るプロムの話をするうちにシェーンは不機嫌になっていった。そして彼は唇を尖らせながらリックの肩を小突く。
「リックがプロムに出ないなんて聞いてないぞ。どうして言わなかった?相手が見つからないなら協力してやったのに。」
言葉の端々に怒りを滲ませるシェーンにリックは苦笑いを漏らす。
リックはプロムに参加しない。プロムへの憧れがないわけではないが、学校で目立つ者ばかりが集う場に行くのは気後れしてしまう。パートナーに誘いたい相手も誘ってくれる相手もいないとなれば不参加は当然だろう。
しかし、シェーンはリックもプロムに参加すると思い込んでいた。楽しげにプロムの話題を振ってくるシェーンに「自分は行かない」とは言い出しにくく、今日まで伝えられずにいたのだ。そのため、直前になって親友がプロムに参加しないことを知った彼の機嫌は急降下である。
リックは「悪かったよ」と謝ってから理由の説明を始める。
「プロムには憧れるけど、俺は場違いだ。楽しめる気がしない。誘いたい相手もいなかったしな。シェーンがプロムを楽しみにしてるのがわかっていたから言い出しにくかったんだ。本当にごめん。」
リックの言葉にシェーンは深々と溜め息を吐き出した。
「リックも行くと思ってたから楽しみにしてたんだぞ。学生生活最後の思い出になると思ってさ。」
「悪かった。俺のことは気にせず楽しんできてくれ。後でどんな様子だったか話を聞かせてくれたら嬉しい。な、シェーン。」
「……それで、当日はお前は何するんだよ?家で過ごすわけじゃないんだろ?」
恨みがましい眼差しを寄越すシェーンにリックは溜め息を吐きたくなったが、どうにか我慢する。プロム当日のリックの予定を話せばシェーンの機嫌が更に悪くなることがわかっていても嘘を吐けない。
「プロムに行かない奴らとパーティーをするんだ。アンジーの家に集まってな。」
リックの言葉にシェーンの眉がピクッと動く。
「何だ、それ……。俺にも声かけろよ。」
「パーティーをやると決まったのが遅かったんだ。その時にはお前、プロムに出るって決まってたし。……ごめん。」
リックの弁明に対してシェーンは何も言わずにむっつりと黙り込んでしまった。その眉間に刻まれた溝は深い。
リックは拗ねてしまったシェーンを見つめながら、改めて自分とシェーンが正反対のタイプなのだと実感する。
シェーンは活発で目立つタイプだ。異性からモテて、少し悪っぽい部分は同性から憧れの目で見られている。「硬い奴」と言われて目立たない自分とは違う。共通の友人がほとんどいないのもその証拠と言えるだろう。
シェーンにとってプロムは輝かしい青春の思い出の場所であり、リックにとっては壁の向こう側の遠い場所。それはきっとシェーンには理解できない。シェーンには親友が自分以外の友人と楽しもうとしているように思えるのかもしれないが、楽しめる場所が異なるだけなのだ。
気まずい沈黙が生まれた部屋の中にはラジオの音だけが響く。流れてきたのはスローテンポのバラード曲。「優しく甘い歌声が気まずい空気を溶かしてくれたらいいのに」と思わずにいられない。
その時、不意にシェーンが立ち上がって手を差し出してきた。その顔は相変わらず不機嫌そうだ。
「立てよ、リック。」
ぶっきらぼうに言われ、リックは仕方なく立ち上がった。そうすると手を握られて腰を抱き寄せられる。まるで男女がダンスする時のような姿勢だ。
目を丸くするリックの眼前でシェーンはいたずらが成功した幼子のように無邪気に笑った。
「俺たちだけのプロムってことで踊ろうぜ。いつかリックもガールフレンドと踊るかもしれないし、ついでに練習しておけ。」
シェーンはそう言って足を動かし始めた。危うく足を踏まれそうになり、リックは慌てて避ける。
「危ないなっ。シェーン、お前、ダンスの経験は?」
「ない。」
「お前こそ練習しなきゃいけないじゃないか!しかも、この曲でステップは必要ないだろ。」
「そういうもんか?まあ、楽しけりゃ何でもいいさ。」
のんきに笑うシェーンを前にリックは脱力しそうになった。だが、その顔には自然と笑みが浮かぶ。
タイプが全くの正反対であっても、共通の友人が少なくても、楽しめる場所が違うことがあっても、互いに親友が大好きであることは変わらない。それが一番大切なことだ。
リックは時々足元に視線を落としながらも顔をシェーンの方に向け続ける。
「お前のリード、下手くそ。本番で大丈夫なのか?」
リックが挑発的に笑いながら言えばシェーンがムッと唇を尖らせる。
「リックが相手だからちょっとぐらい雑でも問題ないんだよ。本番はきっちりやる。」
「どうだか。シェーンは荒っぽいところがあるからな。相手を振り回さないように気をつけろよ。」
リックがそのようにからかうと、シェーンが突然勢い良くターンする。当然リックも一緒にターンすることになり、勢いの良さにバランスを崩して躓きそうになった。
「うわ!」と慌てたリックを見てシェーンが声を上げて笑う。リックはシェーンがわざと自分を慌てさせたのだと気づき、笑い続ける親友を睨んだ。
「おい、シェーン。レディーの扱いがなってない奴はフラれるぞ。」
その言葉にシェーンはニヤリと笑った。
「自分で自分のことをレディーって言う奴はそれらしくないんだぜ、リック。」
「あー、はいはい。わかったよ。」
リックは苦笑と共に返事をしたが、その心はすっきりとしている。
今回のようにシェーンと思いや考えが擦れ違うことは今後も出てくるだろう。そのたびに気まずくなったりケンカになることは避けられないが、相手を大切に思う気持ちが変わらなければ元の親友同士に戻ることができる。今までと変わらず、いつまでも二人一緒に。
リックは今この瞬間の楽しさを表すように笑顔を浮かべた。互いに相手の足を踏みそうになるたびに騒ぎ、見つめ合って笑い声を上げる。傍から見れば不格好でもシェーンとのダンスは楽しい。
やがて、ラジオから流れてくるのが新しい曲に変わった。それでもダンスは終わらない。
「シェーン、次の曲になったら役を入れ替えよう。次は俺がリードする。」
リックの提案にシェーンは「いいぞ」と頷いた。
「お前が上手くリードできるか審査してやるよ。」
「構わない。お前よりは上手くやれるさ。俺は紳士的だから。」
「おっ、言ったな?」
シェーンは笑いながら額を触れ合わせてきた。間近で目が合うと妙におかしくて、リックはクスクスと笑う。「何がおかしいんだよ?」と言うシェーンもリックに釣られて笑い出した。
その後しばらく、リックの部屋は二人分の笑い声で満たされる。それは終わるのが惜しいと思えるほどに楽しいひと時だった。
*****
「──リック。リーック。目を開けたまま寝てるのか?器用だな。」
ニーガンの呼びかけにより、懐かしい記憶に浸っていたリックは目の前の現実に意識を戻す。
至近距離で探るような眼差しを向けてくるニーガンから離れたかったが、腰を抱かれて手を握られていては距離を置きようがない。憎い相手に身を委ねてダンスを続けるしかなかった。
ニーガンはリックが黙り込んだままでも特に怒ることなく問いを投げかけてくる。
「何を考えてた?」
囁くように尋ねられ、リックは「何も」と嘘を吐いた。シェーンのことまで話す義理はない。
しかし、ニーガンはそれを信じてくれるような人間ではなかった。獲物を狩るハンターの目をした男は「本当か?」と問う。
「俺には何かを懐かしがってるように見えた。例えば、大事に思う奴との思い出とか。どうだ?」
リックは嫌らしい笑みを浮かべながら話すニーガンに対して強烈な嫌悪感を抱く。
他人の大切なものに無遠慮に触れようとするニーガンが大嫌いだった。この男はリックが宝物のように大切にしてきたものを「お前の全てが俺のものだ」と引きずり出そうとする。そういったところが本当に嫌いだ。
リックはニーガンの視線から逃れるために顔を背ける。その行為に何の意味もないのだと理解していても、それがリックにできる唯一の抵抗だった。
顔を背けるリックの耳にニーガンの楽しげな笑い声が届き、耳元に男の呼気を感じる。そして「なあ、リック」と名前を呼ばれた。
「誰と踊った?」
その一言が耳に吹き込まれた瞬間、背筋に寒気が走る。
ニーガンは気づいたのだ。リックが過去にリードされながら踊ったことがあるのだと。その相手がリックにとって大切な存在なのだと。ほんの数分の間にニーガンが全てを見抜いたということにリックは恐怖を感じる。
リックは頭を振って「あんたには関係ない」と声を絞り出した。
「誰と踊った過去があっても、そんなものはあんたには関係ない。放っておいてくれ。」
シェーンとの大切な思い出に触れてほしくない。あの美しい思い出をニーガンに汚されたくなかった。
答えることを拒むリックに対してニーガンはすぐには言葉を返してこなかったが、少し経ってから小さく笑い声を漏らす。それを訝しく思い、リックは顔を正面に戻した。そうすると楽しげに微笑むニーガンと目が合う。
「お前の過去について話すのはやめてやるが……リック、これから先、誰かと踊る時にお前が思い出すのは俺になるぞ。」
浴びせられた言葉にリックは目を見開く。ニーガンの言葉を否定できなかった。この悪魔のような男と出会ってから、リックの全てが塗り替えられていくのは事実だったからだ。
何かの弾みで思い出すのはニーガン。何かを考えている時に思い浮かぶのもニーガン。日常がニーガンによって塗りつぶされていく恐怖を感じたのは一度や二度ではない。それなのにリックには侵食される自身を救う手立てが何もなかった。
きっと、次に誰かと踊る時はシェーンではなくニーガンを思い出すのだろう。親友との楽しい時間ではなく憎い相手との悍ましい時間が頭に浮かんでしまう。
リックは絶望が足元から這い上がってくるような気分になりながらもニーガンと視線を絡ませ続ける。まるで悪魔に魅入られた人間のように目が離せなかった。そのリックを見つめるニーガンの目が妖しく光る。
「俺たちには時間がたっぷりあるから、数え切れないくらいたくさんの思い出を作っていこうじゃないか。他の誰との思い出も忘れるくらいにな。」
ニーガンから投げかけられた言葉に対して、リックは「嫌だ」と叫びたかった。「消え失せろ」と怒鳴りたかった。だが、それは叶わない。
リックが拒絶の言葉を返す前に唇をニーガンのそれに塞がれた。この口付けのせいでニーガンとのダンスの記憶がますます色濃いものになってしまう。それにより絶望が深まろうともリックはニーガンの体を押し返すことができない。
唇を重ね合う二人の傍らではレコードプレイヤーが変わらず音楽を奏でており、一曲目が終わって次の曲に入る。二曲目は物悲しいメロディーが印象的だ。
もしかしたらこれは美しい過去への別れの曲なのかもしれない。
そのような思いに至った時、記憶の中のシェーンの笑顔が遠ざかっていった。
END