夢物語への憧憬 まん丸の月が浮かぶ夜。岐阜城へと名を改めた城の主の寝屋には仲睦まじい夫婦の姿がある。夜着をまとって妻の膝に頭を乗せているのは城の新たな主である織田信長であり、己の膝に甘える夫に微笑みかけるのは正室の帰蝶。華やかな打掛ではなく白一色の夜着であっても彼女の美しさは変わらない。
信長が帰蝶と嫡男である奇妙丸を岐阜城へ呼び寄せたのは最近のことだ。美濃を手に入れてすぐに呼び寄せたかったのだが物事が落ち着くまでには時間が掛かり、ようやく二人を傍に置くことができるようになったのだ。
久しぶりに妻の膝枕を堪能する信長は零れる笑みを抑えることができなかった。帰蝶の傍は心地が良い。帰蝶は温かく柔らかく、いつも良い香りがした。そして最も好ましいのは自分と正面から向き合ってくれるところだ。己の血縁の者たちとは異なり、真っ直ぐに信長を見てくれる帰蝶は何にも代え難い。
笑みを堪えきれない信長を見る帰蝶が楽しげに笑い、膝に乗る頭を優しく撫でた。
「殿、何か良いことでもございましたか?先程から嬉しそうにしておられて。」
信長は面白がるような表情を見せる帰蝶の頬に触れながら返事をする。
「そなたを呼び寄せることができて嬉しいのじゃ。こうしていつでも膝枕を強請ることができる。」
「まあ、甘えん坊な殿ですこと。」
わざとらしく目を丸くした帰蝶に信長は笑みを深める。こうした気安いやり取りが心を癒やしてくれるのだ。
その時、帰蝶が「そういえば」と話を切り出した。
「伯母上から文が届きました。」
「そなたの伯母というと十兵衛の母君か?」
「左様でございます。今の暮らしの様子を伝えるために送ってくださりました。明智庄に残った家臣や領民たちが館を修繕してくれていたそうで、不自由なく過ごしていると書いてございました。」
「そうか。元の場所で暮らしておるならば心穏やかに過ごせよう。」
「はい。これも全て信長様のおかげだ、と。どれほど感謝しても足りぬと仰せです。殿、伯母上に代わり感謝申し上げます。」
帰蝶はそのように言って頭を下げた。その顔に浮かぶ笑みには喜びが滲んでおり、それが信長の気分を更に良くする。帰蝶が嬉しいと信長も嬉しかった。
「帰蝶、伯母君が美濃に戻れて嬉しいか?」
そのように問えば帰蝶は「はい」と首を縦に振る。
「伯母上は私にとってもう一人の母。伯母上が幸せであれば私も嬉しゅうございます。」
「もう一人の母、か。」
信長はぽつりと呟き、視線を妻から外した。
幼少期から実母との関係が破綻していた信長とは異なり、帰蝶は己の母親と仲が良く、それに加えて伯母とも母娘のような関係を築いていると聞く。そんな彼女の子ども時代の話を聞くのは楽しいが、同時に羨ましくもあった。
信長は視線を帰蝶に戻して小さく笑む。
「帰蝶、そなたの幼少の頃の話を聞かせてくれ。明智の館で過ごしておった頃の話を聞きたい。」
夫のお強請りに帰蝶は目を細めて笑った。
「その話は何度もお聞かせしましたが、また聞きたいのですか?」
「うむ、聞きたい。そなたが明智の館で過ごした話は何度聞いても面白い。全く飽きぬ。」
「変わった御方。以前にお聞かせした内容と同じでもよろしければお話しいたしましょう。」
帰蝶の口から明智家での日常が朗々と紡がれていく。
雑談を交えながらの楽しい食事のこと。
十兵衛と共に野山を駆け回って遊んだこと。
時には双六で遊び、十兵衛は一度も勝てなかったこと。
木から降りられなくて泣いた十兵衛と交わした約束のこと。
泥だらけになって遊んだ後に十兵衛と並んで伯母に叱られたこと。
母が恋しい夜には十兵衛や伯母が寄り添ってくれたこと。
彼女の語る一つひとつが信長にはきらきらと輝いているように思えて胸が踊った。
「他には?」と強請れば「このお話はいかがでしょう」と次の話が紡がれる。
帰蝶が語る思い出話は金の粒よりも価値があった。
帰蝶の昔語りは信長が強請ったせいで夜遅くまで続き、ようやく眠ることになると帰蝶はすぐに寝付いてしまった。その寝顔を眺めながら、信長は羨ましさが胸の内に広がっていくのを感じる。
帰蝶の子ども時代は温かくて幸福に満ちていた。最終的には道を違えた兄・義龍とも幼い頃は気安いやり取りを交わす関係であったのだから、幼い頃の帰蝶は周囲の愛情に恵まれて育ったのだとわかる。幼い頃から母に疎まれ、弟との関係も上手くいかなかった自分とは余りにも差が大きい。
幼少期について話す帰蝶の顔はいつも穏やかで楽しげだ。特に明智家での出来事を語る時の表情が良い。思い出を大切そうに語る彼女は美しく好ましいが、羨ましく思うのも事実だった。
帰蝶の母は病でこの世を去り、弟たちは兄に殺され、父を兄との戦で失い、その兄さえも既にこの世にはいない。故郷である美濃に戻ってくることができたものの、彼女を待つ家族は一人もいないのだと思っていた。
しかし、それは違う。帰蝶には明智家というもう一つの家族がいた。信長にとって家族と呼べる存在は己の妻と子どもしかいないようなものだが、帰蝶には自分たち以外にも明智家という家族がいる。そのことが無性に羨ましかった。
信長は眠る帰蝶に手を伸ばし、その艷やかな髪に触れる。起こさぬよう静かに髪を梳く顔に表情はなかった。
「わしにとっては唯一であっても、そなたにとっては唯一ではない。……帰蝶、そなたが羨ましい。」
帰蝶の思い出話は信長を楽しませてくれるが、虚しさを感じる時がある。生まれ育った環境の違いを突きつけられたような気がするのだ。
子ども時代の楽しい思い出も、温かな家族も、信長にとっては夢物語と同じ。遠い存在でしかない。この虚しさを共有できる相手など、きっといないのだろう。
*****
信長は足利義昭を将軍に擁立して幕府の立て直しを図るようになり、京の都に滞在する機会が増えた。それに伴い「都に館を建ててはどうか?」という意見が持ち上がるようになった。それは当然の流れであったが、信長自身は今ひとつ気が乗らなかった。
守りを考えれば寺を宿舎とするよりも己の館を持った方が良い。未だに三好勢は都を狙っており、その他にも警戒すべき勢力がいるのだから襲撃に備えて館を建てるべきだろう。それを理解しながらも踏ん切りがつかないのは朝廷や公家衆の受け止め方が気になるからだ。
財政的に苦しい状況にあっても帝には大きな影響力があり、その帝を支える公家も無視できない。それゆえ信長の都への根の張り方に不快感や反発を抱かれるようなことがあってはならないのだ。そうなると館を建てることにも慎重にならざるを得なかった。
このような理由で信長は京に己の館を持っていない。そのため懇意にしている寺を宿舎としているのだが、今回は運悪く寺の重要な行事と重なってしまったので寺での宿泊を断念することとなった。その代わりの宿舎としたのが明智十兵衛光秀の館だ。面倒事を片付けるために都に上ったのだが、明智家の館に泊まることを考えれば自然と機嫌が上向く。鬱陶しい幕臣たちとの会談を終えた信長は少数の伴を連れて明智家の館に足を向けた。
馬をゆっくり歩かせながら明智家の館を目指し、目的地に近づくと館の前に数人の武士が並んでいることに気づく。その中でも一際目立つのが館の主である十兵衛だ。背筋を真っ直ぐ伸ばした立ち姿は美しく、遠くからでもひと目で彼だとわかる。わざわざ館の前で自分を待っていてくれたのだと思うと嬉しかった。
信長は我慢できずに馬から降りて十兵衛に駆け寄る。
「十兵衛、久しいな!館の前で待っているとは思わなかったぞ!」
信長が声を弾ませると十兵衛は「お待ち申し上げておりました」と丁寧に頭を下げた。
「館が完成して日が浅く、人手も十分とは申せませぬが、信長様に心地良く過ごしていただけるよう手配しております。さあ、中へお入りください。」
「うむ!頼むぞ、十兵衛!」
信長がそのように答えると十兵衛は小さく頷いてから館の中に向けて歩き始めた。その後ろについて門を潜り、玄関で式台に腰を下ろすと年若い下女がぬるま湯で足を洗ってくれる。少し緊張した面持ちで足を洗う女に信長は声を掛けてみることにした。
「そなたは明智家に仕えるようになって日が浅いのか?」
下女は声を掛けられたことに驚いたらしく、目を丸くしながら顔を上げた。そして「左様でございます」と首を縦に振ると慌てたように俯く。
「そうか。明智家はどうじゃ?十兵衛は良き主であろう?」
「は、はい。お仕えできることを感謝しております。」
「ほう。では、十兵衛がどのような主なのか教えてくれ。」
館の主としての十兵衛への興味から信長が質問を重ねると、下女は困ったように十兵衛の方へちらちらと視線を向ける。それを受けて、十兵衛が苦笑を滲ませながら「その辺りでご容赦を」と声を掛けてきた。
「本人の前では答えにくいことにございます。それに加えてお千代は人見知りゆえ緊張しておりまする。ご容赦くだされ。」
その言葉を聞き、今度は信長が目を丸くする番だ。まさか下女の名前や性格まで把握しているとは思わなかったのだ。
信長が驚いている間に足を洗い終えた女は頭を下げて去っていった。その後ろ姿を見遣ってから館に上がり、十兵衛の案内で寝泊まりする部屋へ向かう。
信長は己の部屋に着くまでの間、じっくりと館の中を観察した。全体的に品のある良い館だ。廊下は磨き上げられていて掃除が行き届いており、通りすがりに見る各部屋は落ち着いた雰囲気で居心地が良さそうに見える。
何よりも印象的なのは館で働く者たちだ。人手不足という話は大げさではないらしく、遠目に見える者たちは誰もが忙しそうに動いている。それでも殺気立った様子や苛立った様子は見受けられなかった。忙しくしていながらも言葉を交わす顔は穏やかなものだ。それだけ館内の雰囲気が良いということだろう。
そのような印象を抱きながら歩みを進めるうちに今夜泊まる部屋に到着した。落ち着いた色合いの部屋には花が生けられており、その美しさに目を引かれる。控えめな美しさはどこか家主を思わせた。
信長は部屋の中をぐるりと見渡してから十兵衛に笑顔を向ける。
「良い部屋じゃ。これならば心地良く眠れよう。」
「気に入っていただけたようで安堵いたしました。茶と菓子を持ってこさせますので、ごゆるりとお寛ぎください。本日はお疲れでしょうから。」
その言葉に頷き、信長は茵の上に腰を下ろした。信長が座れば十兵衛も向かい合うように座る。
「そなたの申す通りじゃ。美濃から来て休む暇もなく幕府の者どもと話をしたが、あやつらでは話にならぬ。頭の固い者ばかりで何も進まぬのだ。疲れが増したわ。」
「申し訳ございませぬ。私の方でも説得に当たりましょう。」
「頼んだぞ、十兵衛。」
その時、「失礼いたします」の声と共に先ほどの下女よりも歳を重ねた下女が茶碗と茶請けである饅頭を持ってやって来た。
信長は女が茶碗と饅頭を自分の前に並べる姿を見遣りながら口を開く。
「そういえば十兵衛、そなたは下男や下女の性格まで把握しておるようだが、何故じゃ?」
その質問に十兵衛は不思議そうに瞬きしたが、「恐らく……」と答え始める。
「よく皆に声を掛けて話をするからでしょう。話をする機会が多ければある程度は人となりがわかるものでございます。」
その返答は信長にとっては意外なものだった。要するに十兵衛は己の館の下働きの者たちと気安くしているということだ。
信長は茶を出し終えて退出しようとする下女を「待て」と呼び止めて問いかける。
「十兵衛はそなたらに対して気安いのか?」
信長の問いに対して女は笑顔で「はい」と頷いた。
「私は殿が美濃におられた頃から明智家にお仕えしておりますが、明智家の皆様は下々の者に対しても親しくしてくださります。京にお移りになられてからはまだ館に慣れぬ者たちを気にかけて何かと声を掛けてくださるのです。時には私どもを手伝ってくださることもございます。」
「ほう。十兵衛がそなたらの手伝いを?」
信長が面白がりながら視線を十兵衛に移すと、彼は気まずげに視線を逸らす。
「威厳がないと指摘されても致し方ないことではございますが……皆が忙しい時に薪割りや障子の貼り替えなどを、少々。」
口ごもりながら話す十兵衛を見て下女が小さく笑みを零した。それに反応して十兵衛が拗ねたように唇を尖らせる。
「そなたまで笑わずとも良かろう。わしの立場であれば相応しくない振る舞いだが、皆が忙しくしておるのに放ってはおけぬ。」
「ええ、承知してございますよ。殿が美濃におられた頃と変わりがないので嬉しく思うているのです。それでは失礼いたします。」
下女は澄ました顔で告げてから丁寧に頭を下げ、上品な歩き方で部屋を出ていった。
下女が退出するのを見届けた信長は十兵衛に視線を戻す。
「あの者は美濃の頃から仕えているだけあって十兵衛の扱いを心得ておるようだな。面白いものを見た。」
「はあ……。美濃の頃から仕えている者たちとはどうしても気安くなってしまいまして、威厳がないとは自覚しておりますが、こればかりはどうにも……」
「良いではないか。この館の雰囲気が穏やかなのはそなたと皆の関係が良いからであろう。実に居心地が良い。」
「そのように仰っていただきありがたく存じまする。」
十兵衛は穏やかに笑って軽く頭を下げた。
己の館ということもあってか、今日の十兵衛は普段よりも柔らかい雰囲気だ。素に近い彼に会えるのは嬉しい。
信長は笑みを浮かべたまま饅頭を手に取ってかぶりついた。中に餡が詰まっているだけの素朴なものだが、程よい甘さが美味しい。
「ん、美味い。たまにはこのような素朴な味も良いな。」
信長が上機嫌で褒めれば十兵衛が嬉しそうに微笑む。
「それは良うございました。夕餉前なので茶請けの饅頭は素朴なものにしておりますが、夕餉は様々な料理を取り揃えました。ご満足いただけるかと。」
「十兵衛のもてなし、楽しみにしておるぞ。……話は変わるが、先ほどの薪割りと障子の貼り替えの話はまことか?」
その話を切り出すと十兵衛は少し狼狽えて眉尻を下げた。まさか蒸し返されるとは思っていなかったのだろう。
十兵衛は困った顔で首の後ろを掻いた後に「まことでございます」と肯定した。
「美濃で暮らしていた頃から行っておりました。新たに雇った者たちは驚いておりましたが、人手が足りぬ状況では私も行うべきと考えております。」
「主であるそなたがそこまでやってやる必要はないと思うが?」
「そうなのやもしれませぬが、明智家を支えてくれている者たちと手を取り合っていきたいと思うのです。」
信長は十兵衛の真っ直ぐな眼差しを受け止めながら小さく苦笑を漏らした。
帰蝶から「十兵衛は幼少の頃から下々の者たちとの距離が近い」と聞いていたが、大出世を果たした今になっても変わらないことには驚かされる。明智十兵衛光秀という男の根の部分は美濃の若侍だった時と何一つ変わっていないのだろう。
「そなたの真っ直ぐさは相変わらずだな。……十兵衛、館の中を案内してくれ。そなたが皆と手を取り合って築いてきたものを感じてみたい。」
信長がそのように告げると十兵衛は目を瞠ったが、嬉しそうな微笑を浮かべて頷いた。その笑みに見惚れていると十兵衛が「参りましょう」と言って腰を上げたためそれに続いて立ち上がる。
信長は先を歩く十兵衛の背中を見つめながら彼の変化の無さを羨ましく思った。十兵衛の「身分に囚われず誰とでも近しい」という性格は少しも変わらないようだ。どれほど身分が高くなろうとそこが変わらない彼は人々の目には眩く映るだろう。それゆえに大勢から慕われるのだ。
自分はどうだろうか、と信長は己の掌に視線を落としながら考える。
大きな国を作ることを目標として掲げた瞬間から従来の自分でいるのは難しいことだった。数多の敵に飲み込まれないためには自身を変える必要があった。その結果、嘗て共に笑い合っていた者たちとの距離は遠ざかったように思う。
「掌から零れ落ちたものがあるならば新たな何かを掴めば良い」と考えても己の手は虚しく空を切るだけのように思えて不安に襲われる。だから何も取り零さずにいるように見える十兵衛が羨ましくなるのかもしれない。
十兵衛に館の中を一通り案内してもらった後は庭に降り、丁寧に整えられた庭を観賞した。館と同じく華美ではなくとも趣のある美しい庭だ。帰蝶の話では「美濃の明智家の館の庭は落ち着きのある美しさだ」と聞いたことがある。信長は十兵衛の説明に耳を傾けながら「美濃にある館に似ているのだろうか?」と思った。
庭の散策を終えると庭全体が見渡せる縁側に案内された。そこには甘酒が用意されている。
「ほう、甘酒か。甘酒を出されたのは随分と久しぶりじゃ。」
幼い頃はよく飲んだものだが、成長してからは飲んだ覚えがない。近頃の自分にとっては珍しくなったものを味わえることに信長の頬が緩む。
信長が縁側に腰を下ろすのに続いて十兵衛が隣に座り、小さな器に甘酒を注いだ。
「茶ばかりではつまらぬかと思い、甘酒を用意いたしました。どうぞお召し上がりください。」
「うむ、貰おう。」
差し出された甘酒を受け取って一口飲めば懐かしい甘さが舌を包んだ。
温かい甘酒は庭の散策で少し冷えた体を温めてくれる。菓子とは異なる甘さも良い。豪勢な料理や菓子、貴重な酒などでもてなされるのは嬉しいが、時には素朴な味も恋しくなる。このもてなしには大満足だ。
信長は甘酒をゆっくりと堪能し、空になった器を十兵衛に差し出した。
「美味い。もう一杯貰おう。」
その言葉に十兵衛が「気に入っていただけて良うございました」と微笑する。
信長は二杯目の甘酒を口に運びながら、庭の散策中に疑問に思ったことを尋ねてみることにした。
「帰蝶が『明智家の館の庭は華やかではないが落ち着いた美しさがある』と申しておったのだが、この庭と似ておるのか?この庭も落ち着いた美しさがあると思うたが。」
その問いに十兵衛は考える素振りを見せた。
「そうですね……特に考えたことはございませぬが、改めて思い返しますと似ているように思います。無意識に同じような趣にしてしまったのやもしれませぬな。」
「そうか。気に入っておったのだな。」
「物心ついた頃から過ごしていた庭ですから。思い出が数え切れぬほどございます。」
そう言って、十兵衛は顔を庭の方へ向けた。信長は懐かしげに目を細める十兵衛の横顔を見つめながら「わしに聞かせてくれ」と強請る。
「時折、帰蝶に明智の館の話を聞かせてもらうのじゃ。十兵衛の話も聞いてみたい。」
「それほど面白い話などございませぬが。」
「良いではないか。話して聞かせよ。」
信長の再三の頼みに十兵衛は苦笑と共に「かしこまりました」と頷いた。
「つまらなかったという文句は受け付けませぬぞ、信長様。」
「そのようなことは申さぬ。早う話せ。」
「では、帰蝶様が滞在されていた頃の話をお聞かせしましょう。」
十兵衛は思い出の一つひとつを噛みしめるように言葉を紡いでいく。
母と帰蝶と雑談しながらの食事は時間が掛かったが楽しかったこと。
毎日のように帰蝶と共に遊び回ったこと。
双六遊びはたくさんしたものの帰蝶には敵わなかったこと。
木登り上手な帰蝶とは対照的に自分は木から降りられずに泣いたこと。
着ているものを泥だらけにした時ばかりは自分だけでなく帰蝶も母に叱られたこと。
「母上に会いたい」と泣く帰蝶を慰めるために物語を話して聞かせた夜のこと。
信長には彼の語る思い出話が帰蝶の時と同様にきらきらと輝いているように感じられる。
「もっと聞かせよ」と強請れば彼は「大した話ではありませぬが」と前置きした上で話し出す。
十兵衛が語る思い出話は高価な菓子よりもずっと甘い。
信長が幾度も次の話を強請ったために十兵衛の思い出話は長くなり、途中で注いでもらった三杯目の甘酒は冷めてしまっていた。信長はすっかり冷えたそれを一気に飲み干す。
「……馳走になった。うむ、やはり明智の館での話は面白い。礼を言うぞ、十兵衛。」
信長が満足気に告げれば十兵衛が微かに苦笑する。
「左様でございますか?それほど変わった話ではないと思うのですが。」
「それは当事者だからであろう。わしからすれば明智家はなかなか変わっておる。面白いぞ。」
「それならばよろしゅうございました。それはさておき、そろそろ部屋の中へ入りましょう。お体が冷えてはいけませぬ。」
そのように促されたので信長は部屋に戻った。信長が茵に腰を下ろしても十兵衛は部屋の中に入らず、入り口の辺りで片膝をつく。
「私は夕餉の支度を指示して参ります。信長様はこちらでお過ごしください。」
「わかった、そうしよう。」
「御免。」
十兵衛は頭を下げてから去っていった。信長は遠ざかる足音に耳を澄ませながら庭へ視線を投げる。
日が傾き出した刻限の庭は昼間とは違った美しさがあった。この庭に似た美濃の館の庭で、幼い頃の十兵衛と帰蝶は暗くなるまで遊んだのかもしれない。
十兵衛が語る思い出話は美しかった。近頃は澄ました表情ばかりの十兵衛の表情がくるくる変わることも楽しく、彼の話を聞いているだけで幸せだった。それなのに少しだけ胸が苦しいのは寂しいからだ。
十兵衛と帰蝶が語った内容は多少異なっているが、二人は同じ思い出について語っていた。それは共通の思い出があることの証。二人が揃えば共に懐かしげな顔をして思い出を語り合うのだろう。そこに信長が加わることはない。そのように考えるだけで寂しかった。
「十兵衛も帰蝶も、羨ましい限りじゃ。」
溜め息混じりの呟きは空気に溶けて消えた。
陰りのない子ども時代の思い出と、それを共有できる親しい存在。いずれも信長が持たないものだ。どれほど切望しても決して手に入らない夢。
信長は思い立ったように庭へ向けて手を伸ばした。まるで手を伸ばせば己が望むものに届くかのように。だが、伸ばした手が何かに触れることはない。
信長は「阿呆じゃな」と自嘲しながら力なく手を下ろした。
「……幼なじみ、か。」
幼い自分を美濃に行かせてくれたら良かったのに、と信長は父や母を恨めしく思った。
幼い頃に美濃に滞在していれば十兵衛や帰蝶と遊ぶことができたかもしれないのに。幼なじみとして思い出話に花を咲かせて笑い合えたかもしれないのに。なんと口惜しいことだろう。
そこまで考えて、「自分は誰かの大切なものを壊してしまう」ということを思い出した。母の大切なものを壊し続けて疎まれた自分が分別のつかない幼い頃に十兵衛と帰蝶に出会っていたなら嫌われて終わったはず。きっと、成長してからの出会いで良かったのだ。
そのように自身に言い聞かせても胸の奥がじくじくと痛む。それに気づかない振りをしたくて信長はきつく目を閉じた。何もかもが無駄なことなのだと知りながら。
*****
夢を見た。ある館の庭に立つ夢だ。夢の中の自分の手足は今よりも小さく、目の前に建つ見慣れぬ館が随分と大きく見える。それゆえに今の自分は幼少の頃の姿になっているのだと知った。
そして、この館が明智家の館であることを薄っすらと認識する。明智家の館だと知っている理由はわからないが、とにかく自分が建っているのが美濃にある明智家の館の庭なのだという確信があった。夢の中というのはそういうものなのだろう。
立ち尽くしたままぼんやりと館を眺めていると館の奥から二人の子どもが駆けてくる。一人は美しい衣を纏う少女で、もう一人は端正な顔立ちの少年だ。
「十兵衛、早く早く!」
「お待ちください、帰蝶様!」
帰蝶と呼ばれた少女がはしゃいだ様子を見せる一方で十兵衛という名の少年は困りきったように眉を下げている。ああ、二人の関係性は昔から少しも変わっていない。
微笑ましい様子に笑みを浮かべた時、少年がこちらを見て穏やかに微笑んだ。
「吉法師様、今日は近くの野に遊びに行こうと考えております。ご一緒にいかがですか?」
少年の言葉に同意するように少女が何度も首を縦に振る。
「そうしましょう、吉法師様。私は三人で遊びとうございます。」
笑顔でこちらの返答を待つ少年と少女を見つめるうちに胸の奥がじんわりと温かくなる。
二人の顔を交互に見遣ってから「行く!」と返事をすれば、彼らは歓声を上げながら庭に飛び降りて走り出した。その後ろを追いかける自分の顔には自然と笑みが浮かぶ。
これは夢。目覚めてしまえば思い出すことさえできない儚いもの。叶わないと知りながら切望する己の願いの具現だ。
叶うことのない願いならば、せめて夢の中で手を伸ばそう。
終