僕はコーヒー豆を挽かない 小綺麗な家の玄関ドアを開ける時に感じる、他人の家を訪ねるような感覚。それは簡単に拭い去ることができるようなものではない。リックは未だに新しい我が家に慣れない自身に苦笑いしながらドアを開けた。
家の中に入れば、穏やかに笑う長男と無邪気な笑顔を見せる長女が床に座りこんで遊ぶ姿が目に留まる。幼い妹を構う息子が手にしているのは新品のぬいぐるみ。赤ん坊の存在を知った新たな隣人が贈ってくれたもので、その他にも真新しいベビー用品がこの家には整えられている。粉ミルクの在庫に悩まされることや、赤ん坊の泣き声がウォーカーを呼び寄せる問題から解放されたのは少し前のことだ。
仲間たちと放浪していた生活は夢だったのではないかと疑いたくなるほどに壁の中の町──アレクサンドリアは崩壊前の世界のままだった。新築住宅独特の匂いも、水道から流れる水も、洗剤が香る清潔な服も、何もかもが二度と手に入らないと思っていたもの。それが己の手の中にあることが不思議で仕方ない。
そんな風に物思いに耽るリックの耳に「父さん、お帰り」という我が子の声が届いた。その声を聞いて我に返り、リックは微笑と共に子どもたちの方へ足を向ける。
「ただいま、カール。ジュディスは俺が出かけている間に起きたんだな。」
「さっき起きたんだ。しっかり昼寝したからご機嫌だよ。」
カールはリックに返事をしながらジュディスのふっくらした頬を撫でる。妹を可愛がる息子の姿を見てリックは目を細めた。カールは旅の最中も懸命に妹の面倒を見ていたが、アレクサンドリアに来てからもその姿勢は変わらない。「妹を守らなければならない」という義務感よりも愛おしむ気持ちの方が強いのだろう。
リックは子どもたちの姿を満足するまで眺め、手を洗うために洗面所へ向かおうと体の向きを変えた。その時、「あっ、そうだ」とカールが話を切り出したのでリックは足を止めて振り返る。
「父さんより先にダリルが帰ってきたんだけど、すぐに出ていったよ。まだこの家にいるのが落ち着かないみたいだね。」
そのように話すカールの顔には仲間を案じる気持ちが滲む。カールの心配は彼個人のものではなく、リックや他の仲間たちも抱いているものだ。
リックと共に旅をしてきた仲間たちの中でもダリルは特に新しい環境に馴染めていなかった。来たばかりの頃はシャワーを浴びるのも拒否するほどだった。それについては今は改善されたものの、家での滞在時間は誰よりも短い。警戒心が拭えないのはリックたちも同じだが、彼の場合はその度合が強いのだ。
リックは町に馴染めずにいるダリルを心配して彼と何度も話をしてきたが、改めて話をする必要性を感じた。
「ダリルはどこへ行くのか言ってたか?」
「ううん、何も。町の外へは行ってないと思う。」
「わかった。捜してくるからジュディスを頼むぞ。」
そのように告げてからリックは再び家を出る。
まずは家の周りを見てみたが、ダリルの姿はない。その他に一通りの場所を巡っても彼は見つからなかった。恐らく人目につく場所は避けているのだろう。
リックは少し考えて、町を囲む壁の辺りを捜してみることに決めた。アレクサンドリアの住人たちは壁の周辺にはほとんど近づかないので一人で過ごすには最適だ。
リックはゲート付近をスタート地点として壁沿いを歩きながらダリルを捜す。そして町の奥側まで行き、ようやく彼を見つけた。
「ダリル、ここに居たんだな。」
壁に背中を預けて座り込むダリルはリックの呼びかけに顔を上げた。目を丸くしてこちらを見る様子から、仲間が自分を捜しに来るとは考えていなかったのかもしれない。
ダリルはこちらに視線を向けているものの立ち上がる様子はなかった。リックはダリルの正面に膝をついて目線を合わせる。
「家の中は落ち着かないか?」
遠回しではなくストレートに問えば「ああ」と短く返事があった。予想していたこととはいえ心配が増す。
「そうか。……誤解しないでほしいんだが、責めてるわけでも早く慣れるように言いに来たわけでもない。どうすればお前がストレスなく落ち着いて過ごせるのか方法を探したいんだ。俺たちはこの町で生きていくしかないから。」
真摯に語りかけるリックに対してダリルは何も言わなかった。だが、真っ直ぐに返される眼差しから彼がリックの話に耳を傾けていることはわかる。
リックはダリルの目を見つめ返しながら言葉を続ける。
「この町そのものに慣れないという気持ちは理解できる。俺もまだ慣れたとは言えない。無防備すぎることが不安だしな。ダリルもだろ?」
それに対する返事は頷くことによって示された。
見張りも立てず、外部からの攻撃に対して何も警戒していないアレクサンドリアの現状は過酷な経験を経てきたリックたちには考え難いことだ。リックをはじめとする仲間たちが壁の中にいても気を抜けないのはそのせいだった。
「町の無防備さについてはディアナに対策を立てるように求めていこうと思ってる。今すぐに解決できるわけじゃないが、少しでも良くなるように努力する。それが解決できれば落ち着けそうか?」
リックは黙り込むダリルの顔を覗き込みながら返事を待つ。そうすると重なっていた視線が外された。逸らされた視線は思案するためというよりも気まずさから逸らされたように感じられて、それが気がかりだった。
ダリルはアレクサンドリアに来てから仲間と目を合わせることが少なくなった。以前はリックとも視線だけで会話していたというのに、最近では目が合うことがほとんどない。その変化がリックを不安にさせる。
目を逸らしたまま黙り込んでいたダリルは沈黙の末に「わからない」という答えを出した。
「馴染める気がしない。今言えるのはそれだけだ。」
示された答えにリックは唇をグッと噛み、心の奥底にある疑問をぶつけてみることに決めた。
「……一人になりたいか?狭い家の中に大勢でいるのが嫌なんじゃないかって……環境が変わったことで俺たちが煩わしくなったんじゃないかって、心配していた。」
仲間を避ける素振りを見せるダリルを見て、リックは彼が一人になりたがっているのではないかと考えていた。元々は馴れ合うことを好まず、一人でも生きていくことができる男だ。ここへ来て仲間がいることの煩わしさを感じてもおかしくはない。
その考えはリックの胸を締め付けた。ダリルが去ってしまうことを想像しただけで悲しくて胸が苦しくなる。それでも彼が決断したならば引き止めることはできない。
問いを投げかけておきながら答えを聞くことが怖くなり、リックは立ち去ろうと腰を浮かせかけた。その時、ダリルに手首を掴まれる。
驚いてダリルを見ると焦りを浮かべた彼がこちらを凝視していた。
「違う。あんたらが嫌になったわけじゃない。離れたいなんて考えたこともない。ただ、俺は……」
そこで言葉を切ったダリルの顔に苦笑が浮かぶ。それは恐らく自分自身に向けられたものだ。
「この町に来て、俺はあんたらと生きてきた世界が違うってことを突きつけられた気がした。忘れてたってのに……思い出しちまった。だからあんたらを避けてるのかもしれない。」
「ダリル、そんなことは──」
「否定するなよ。本当のことだ。」
ダリルはリックの言葉を遮って断言した。そのように言い切られてしまうと反論できなくなってしまう。
リックが何も言えずにいるとダリルはリックから手を離して立ち上がり、横を通り過ぎて去っていった。リックは振り返り、去っていく男を視線だけで追いかけたが、彼が振り向くことはない。
崩壊する前の世界でのダリルはまともとは言えない暮らしをしていたそうだ。本人が話したがらないので詳しいことは知らないが、出会った頃の彼の様子を思い返せば想像はつく。社会を恨み、他者に対して敵意に近い警戒心を向けていた姿からは生い立ちの過酷さが垣間見えた。
そんなダリルにとってアレクサンドリアという町は整いすぎているのだろう。この町の雰囲気に戸惑い、馴染めずにいる自分とは異なり仲間たちは町に溶け込んでいく。まるで自分だけ取り残されるような状況がどれほど辛かったことか。ダリルが「自分と仲間たちでは生きてきた世界が違う」と感じて皆と距離を置くようになるのは当然だ。
リックはダリルの抱える苦しみを知り、それを理解してやれなかった自身に情けなさを感じる。
(俺にできることは何だろう?)
その場から動けないまま、リックはダリルのために自分ができることを考える。時間が解決するなどとは思えなかった。
しかし、良い案は何も浮かばない。ダリルの抱える問題は安易に踏み込んでいいものではなく、下手なことをすれば彼を傷つけるだけだ。
「生きてきた世界が違う、か。」
リックは呟きながら空を仰ぎ、日差しの眩しさに目を細める。
リックや他の仲間たちにとって当たり前の日常はダリルにとっては日常ではなかった。それを突きつけられて一人取り残される虚しさや悲しみは、実感した者でなければ本当の意味で理解できないのだろう。ダリルの苦しみを理解できないことがひどく悲しい。
開いてしまったダリルとの距離は縮まることなく過ぎていってしまうのだろうか?
過ぎった疑問はリックの胸に痛みを生じさせる。リックは空を見上げたまま、じくじくとした胸の痛みに一人きりで耐えた。
*****
縮まることのないダリルとの距離に落ち込みながらも数日が過ぎ、それと同時にリックは熟睡できないという悩みを抱えたまま日々を過ごしていた。放浪していた時の癖が抜けないのか、夜中に何度も目を覚ますことが未だに続いているのだ。
今日も眠りについてから二時間ほどで目が覚めてしまい、もう一度眠っても熟睡できずに夜中に起きてしまう。上手く眠ることができない苛立ちを無視して無理やり寝てみたのだが、また目が覚めてしまった。
リックはサイドテーブルに置いた腕時計を手に取り、時間を確認して顔をしかめる。
「……まだ五時前じゃないか。」
窓の外は多少明るいものの、一日の活動を始めるにはまだ暗すぎる。また短時間で目が覚めてしまったという証拠だ。
リックは熟睡できない苛立ちのままに腕時計を睨むと、それをサイドテーブルに戻すことなく腕に巻き付けてベッドから起き上がる。もう一眠りしても許される時間帯だが、今の自分ではアラームの時間まで眠っていられるとは思えなかった。悶々としながら寝転がっているよりも起きた方が良いだろう。
服を着替えて寝室から出ると廊下が妙に静かに感じられた。子どもたちや同居する仲間たちはまだ眠っている時間帯なのだから当然だ。
リックは足音を立てないよう気をつけながら階下へ移動し、洗面所に直行して顔を洗う。冷たい水で顔を洗うと気分も少しだけ晴れた。
洗面所の次に足を運んだのはキッチン。インスタントコーヒーの瓶が用意されていることを思い出したので久しぶりにコーヒーを飲もうと思い立ったのだ。以前は日常的に飲んでいたコーヒーだが、今ではすっかり贅沢品になってしまった。
リックはケトルに水を入れて火にかけ、その次にはインスタントコーヒーの瓶とマグカップ、そしてスプーンを用意した。コーヒーの粉を適当にマグカップに入れたら準備は完了。後は湯が沸くのを待つのみだ。
リックはカウンターにもたれながらケトルを見つめる。コンロの上で火にかけられているケトルという構図がとても珍しいもののように感じられて、無性に眺めたくなったのだ。
コーヒーを淹れるためにキッチンで湯を沸かすこと。その行為は日常の一部であり珍しいものではなく、リックも過去に数え切れないほどに繰り返してきた。それが数十年も前の出来事のように感じられてならない。それほどに自分は文明的な生活から遠ざかっていたのだと改めて思い知らされたような気がした。
「そういえばキャロルがこのキッチンを見て喜んでいたな」と思い出し、初めてキッチンに足を踏み入れた時のキャロルの姿を思い浮かべる。
真新しい輝きを放つキッチンを見て目を輝かせたキャロルは久しぶりに楽しそうな笑顔を見せた。立派なオーブンが備え付けられていることを特に喜び、「これでクッキーやケーキが焼けるわね」と愛おしげにオーブンを撫でる姿は印象的だった。きっと彼女は平和だった世界で一人娘のために焼菓子を作っていたのだろう。その子は変わり果てた世界で死んでしまい、自分たちは彼女を埋葬した地からこんなにも離れた場所まで来た。
ソフィアの存在をきっかけに、失った仲間たちの顔がリックの脳裏に次々と浮かんでくる。その全員がこの地まで来ることができたならどれほど良かっただろうか?
後悔に沈みかけた意識は沸騰したことを知らせるケトルの音によって現実に引き戻され、想像以上に大きく響く音に慌てたリックは急いで火を止めた。そしてマグカップに湯を注ぐとスプーンでかき混ぜる。久しぶりのコーヒーの香りは懐かしさを感じさせた。
リックは役目を終えたスプーンを洗ってからマグカップと共にダイニングルームへ移動し、椅子に座ってコーヒーを味わう。真っ黒な液体を口に含めば安っぽいコーヒーの香りが鼻を通り抜けていった。以前は特に美味しいと感じたことはなかったが、今は不思議とホッとする味に思える。慣れ親しんだ味というものは人の心を優しく包むのだろう。
ホッとすると同時に甦る思い出に胸が締め付けられる。家で過ごす時に飲むコーヒーは自分で淹れる場合もあれば、ローリが「私のついで」と淹れてくれることもあった。勤務中に飲むコーヒーはいつもシェーンの笑顔と一緒だった。コーヒーの香りや味は愛おしく懐かしい思い出を呼び起こし、過去には戻れない切なさをもたらす。
しかし、愛おしむことのできる過去があるというのは幸せなことだ。忌まわしい記憶として背を向けたくなるような過去を持つのは悲しい。例えばダリルのように。
そのように考えた途端、コーヒーの苦味が急に強くなった気がした。
リックが少しずつコーヒーを味わっていると階段を下りる音が聞こえてきた。誰かが起きてきたようだ。
リックがマグカップをテーブルに置きながら階段のある右方向へ顔を向けた時、階段を下りてきたダリルが一階の床に足を着地させた。彼はこちらを見て微かに眉根を寄せる。
「あんた、いつから起きてたんだ。眠れてないのか?」
足早に近づいてきたダリルはリックの傍らに立ち、気遣わしげな眼差しを寄越した。それを受け止めながらリックは微笑する。
「おはよう、ダリル。全く眠れていないわけじゃないんだが、夜中に何回も起きてしまうんだ。五時前に目が覚めて、寝付けそうになかったから起きてコーヒーを飲んでる。心配しなくていい。」
「俺も似たようなもんだが、あんたは日中に動き回るから疲れが溜まってるはずだ。無理するなよ。」
「ありがとう。それより、起こしてしまって悪かったな。ケトルの音が思ったより大きかった。」
苦笑交じりに謝罪するとダリルは「気にするな」と頭を振る。
リックはダリルがすぐに立ち去ると思っていたが、予想に反してダリルはテーブルに浅く腰掛けてリックを見下ろした。最近は仲間との距離を置きがちな彼にしては珍しい行動だ。
リックが内心驚いていると、ダリルはマグカップを手に取って飲みかけのコーヒーを一口飲んだ。コーヒーを飲み込み、マグカップをテーブルに戻すダリルの動きをリックは黙って見つめる。
ダリルはマグカップから手を離すと視線をこちらへ寄越して「安っぽい味のコーヒーだな」と感想を述べた。
「棚にあったインスタントのやつか?」
「ああ、そうだ。昔は特に美味いとも思わなかったが、久しぶりに飲んでみると妙に美味いような気がする。不思議だよ。」
リックは返事をしてから再びコーヒーに口を付けた。ゆっくり味わいながら飲んでいたので温くなっていたことに今更ながらに気づき、「ダリルは温いコーヒーでも良かったのだろうか」とぼんやりと思う。
リックの喉を温いコーヒーが下りていった時、ダリルが「意外だった」と呟いた。
「あんたはこんな安物は飲まないタイプだと思ってた。」
それを聞き、リックはコーヒー豆を挽く自分の姿を想像した。どう考えても似合わない。
「俺がわざわざ豆を挽いてコーヒーを淹れるタイプだとでも?どう考えたってそんな奴に見えないだろう?」
リックは笑い混じりに問いかけたが、返される眼差しは真摯なものだった。それによりダリルは本気でそのように思っていたのだと知る。
リックは笑いを引っ込め、ダリルと向き合うために椅子ごと体の向きを変えた。そして、こちらを見下ろすダリルに「聞いてくれ」と呼びかける。
「ダリル、俺が飲むのは安いインスタントコーヒーだ。高いコーヒー豆を買ってきて、手間をかけてコーヒーを淹れたことなんてない。……なあ、お前の中にある俺のイメージがとんでもなく高尚な男に思えるんだが、俺の気のせいか?」
その問いにダリルは苦笑を滲ませる。それが答えだ。
リックが咎めるように「ダリル」と名前を呼ぶと彼は黙り込んだまま俯いてしまった。俯いたせいで長い前髪がダリルの顔を隠してしまい、表情がわからない。
ダリルは顔を隠したまま溜め息を落とした。
「あんたと俺は違いすぎる。生きてきた環境も、人間性も、何もかもだ。世界がこうならなかったら俺はあんたの視界に入ることさえできない。俺はそういう生き方をしてきた野郎だ。」
「昔の自分の生き方を後悔しているのか?」
リックの問いにダリルは「するに決まってるだろ」と吐き捨てた。
「この町に来て、昔の自分のくだらねぇ生き方や生きてきた世界の違いを思い出した。──リック、あんたは俺には手の届かない人間だ。」
だからダリルは手を伸ばすのを諦めるというのだろうか?
ダリルの話を聞き、リックは浮かんだ疑問を叩き落としたくなった。
「リックは自分には手の届かない人間」だと勝手に決めつけて距離を置かないでほしい。手を伸ばすことを始めから諦めないでほしい。こちらの思いを何も聞かずに決めないでほしい。
リックは俯くダリルの右手に触れる。そうするとダリルの肩が驚いたように跳ねた。
「ダリル、俺たちの生きてきた環境が違うことは確かだと思う。お前が話したがらないから詳しいことは知らないが、予想はつくよ。それでも俺たちが今こうして一緒にいることが大切なんじゃないか?」
ダリルは相変わらず俯いたままなので顔が見えない。それでもリックは思いを紡ぐ。
「なあ、過去はどうにもならない。変えたくても変えられない。もしもの話だって同じだろう。この世界になっていなかったら俺たちは見知らぬ他人で終わったのかもしれないが、それが何だ?俺たちは出会って、一緒に旅をして、大事な仲間になったじゃないか。過去や仮定のことじゃなくて今の俺たちに目を向けてほしい。」
生きてきた環境が大きく異なるのは事実だ。世界が今のようになっていなければリックとダリルが出会うことはなく、大切な存在になることもなかっただろう。それは認めるしかない。
しかし、全てが変わってしまった世界で二人が出会ったことも事実であり、大事な仲間として共に生きているのは過去や仮定の話ではなく今現在の話だ。それは絶対に変わることがない。それならばリックは今を大切にしたいと望む。
リックは「ダリルが過去から解放されてほしい」と願いながら己の決意を口にする。
「ダリルが手を伸ばすことを諦めても俺は諦めない。お前に手を伸ばし続ける。俺はダリルと一緒にいたいからやめない。このことを忘れないでくれ。」
生きてきた環境の違いのせいで、リックが真にダリルの苦しみや悲しみを理解することはできないだろう。それはどうにもならない。だからといって諦めてしまえばダリルとの繋がりを失うことになる。
ダリルとの繋がりを失いたくないのなら、「自分は彼の苦しみや悲しみを理解してやれない」と嘆くのではなく「大切に思うから一緒にいたい」と自分の気持ちを伝えれば良かったのだ。距離を置いたままにするのではなく隣に寄り添えばいい。ダリルの心は他者を拒絶しているのではないのだから。
自分の思いを全て言葉にしたリックはダリルから手を離そうとした。それを阻んだのはダリルの左手だ。ダリルの右手に触れるリックの手の上に彼の左手が置かれ、それにより手の甲に温もりを感じる。
ダリルの行動に驚いたリックが重なり合った手を見遣ってからダリルの顔に視線を戻すと、彼は自分たちの手を眺めていた。
「リック、あんた──俺に惚れてるだろ?」
唐突な問いは胸に秘めていた想いを指摘するものだった。それにより顔に熱が集中したことをリックは自覚する。ダリル本人に気づかれているかもしれないとは思っていたが、本人から尋ねられると照れてしまう。
リックはダリルからの問いに答えるため、躊躇いながらも首を縦に振った。
「うん、まあ、その通りだよ。いつから気づいてた?」
「それなりに前からだ。あんたのことばかり見てたからな。──俺もリックに惚れてる。」
その言葉を告げる瞬間にダリルは顔を上げてこちらを見た。前髪の隙間から覗く目の美しさにリックは息を呑む。久しぶりに見る、強い輝きを宿した目だった。
ダリルは視線を外さないまま「あんたに惚れてるから怖くなった」と思いを明かす。
「昔はあんたが手の届かない人間だとわかってたから手を伸ばさなかった。だが、あんたが振り向いてくれて欲張りたくなった。そんな俺に現実を突きつけたのがアレクサンドリアだ。……やっぱりリックには手が届かない、離れていっちまうって怖くなった。」
ダリルは自嘲気味に笑うと再び視線を手の方へ移した。
「あんたが俺に惚れてるってことに気づいた時、もっと仲を深められるかもしれないって期待した。ガキの頃から期待するだけ無駄だと思って生きてきたってのにな。その期待が潰れるかもしれないと思ったら、足掻くより手を伸ばすのをやめる方が楽だった。……でも、あんたは俺に手を伸ばしてくれるんだな。」
そう言ってダリルは顔を上げ、笑みと共にこちらを真っ直ぐに見る。
「今すぐに考え方を切り替えられるかって聞かれたら難しいが、あんたの話を聞いて少し気持ちが楽になった。だから俺もリックに手を伸ばすのを諦めたくない。」
「ダリル……!」
ダリルの言葉が嬉しくて、リックの顔には自然と笑みが浮かぶ。
自分がダリルに手を伸ばすように、ダリルもこちらへ手を伸ばしてくれる。それならばいつの日か必ず手を取り合うことができる。その期待を抱くことをリックだけでなくダリルも恐れはしないだろう。
その時、ダリルがいたずらっぽい笑みを見せた。
「リック、弱ってるところにつけ込んで落とそうとは思わなかったのか?たぶん、今の俺なら簡単に落ちるぞ。」
そう問われ、リックは顔をしかめた。
「弱ってるところにつけ込むのは卑怯だ。そんなやり方で恋人になれたとしても嬉しくない。」
そのように答えるとダリルが嬉しそうに笑う。
「だろうな。あんたのそういうところが好きだ。」
「あ、ありがとう。」
ストレートに告げられる好意にリックは恥ずかしくなった。ダリルは気持ちが軽くなって素直な思いを伝えられるようになったのかもしれないが、もう少し抑えてもらっても問題ない。
リックは気を取り直すように咳払いをして、改めてダリルと視線を重ねた。
「弱っているところにつけ込むような真似はしたくないから、ダリルの精神状態が安定して、もう大丈夫だと思えた時は『恋人になってほしい』と伝えるよ。」
そのように告げれば「待ってる」と返されたが、すぐに「ああ、違うな」とダリルが微笑む。
「待っててくれ、の方が合ってる。いつか絶対に『俺のものになってくれ』って言うから、それまで待ってろよ。」
ダリルはそのように宣言し、リックの手の甲にキスを落とした。その流れるような動きにリックは見惚れ、胸のときめきを感じる。
ダリルは自分を卑下しがちだが、そんな必要はない。彼は十分に魅力的な人間で、こんなにもリックを惹きつけるのだから。
手を解放されたリックはコーヒーを放置したままだったことに気づき、高ぶった気分を落ち着けるためにコーヒーを飲んだ。
すっかり冷めてしまったコーヒーは苦味が増したはず。それでも今のリックにはとても甘く感じられた。
END