君に甘えたいのです 都の往来を行き交う人々は、ある男が荒々しい足取りで歩く姿を見て慌てて道を開ける。その男の名は松永久秀という武将で、都に住む者で彼の名を知らぬ者はいない。その松永久秀を見て人々が急いで道を開けるのは「恐ろしい男」と畏怖される男が苛立ちを隠そうともせず勢い良く歩いているせいだ。
大股で歩く久秀の進みは非常に速く、後から付いてくる従者たちは距離が離れそうになる度に「殿、お待ちを!」と小走りになる。幾度も呼び止められた久秀は痺れを切らして後ろを振り返り、従者たちへ射殺すような眼差しを向けた。
「遅い!」
久秀は一喝すると顔を正面に戻して先ほどと変わらぬ速さで突き進む。後を付いてくる者たちに配慮してやろうとは少しも思わない。
これほどまでに久秀が苛立っているのは、可愛がっている明智十兵衛光秀が久秀の宿敵である筒井順慶の誘いを受けて茶会に参加するという話を耳にしたせいだ。
十兵衛は織田信長の命により鉄砲の調達に奔走した際に順慶と縁を持ったため、信長や将軍と近しくなった順慶との関わりを持ち続けている。久秀はそれを常日頃から苦々しく思っていたのだが、茶会の話を聞き、遂に積もり積もった苛立ちが爆発してしまった。それにより茶会当日の今日、十兵衛が出発する前に文句を言ってやろうと明智家の館を目指しているのである。
やがて、前方に立派な館が見えてきた。躍進目覚ましい明智十兵衛光秀の館だ。
久秀が館の前に到着した時、茶会へ出かけようとする十兵衛と出くわした。久秀が居ることに驚いた十兵衛は目を丸くしてこちらを見下ろしている。己より長身な十兵衛に見下されることには慣れているはずなのに今は無性に腹立たしい。
「松永様!いかがされましたか?誠に申し訳ないのですが、私は今から出かけなければならず──」
「順慶に誘われて茶会へ行くのだろう?その程度のことは知っておる!」
苛立ちを隠さず言い放てば十兵衛が納得したように頷いた。
「ご存知でしたか。……ということは、『茶会を欠席せよ』と仰るためにお越しになったと?」
呆れの混じる十兵衛の声に久秀は眉を吊り上げる。
「お主はわしが順慶と因縁があると知っておるのだろうが!あのような男とお主が仲よく茶会なんぞに参加すると聞いて腹を立てずにいられるか!行くな!帰れ!」
怒鳴り散らす久秀を見て、十兵衛の後ろに控える彼の従者たちが困惑したように久秀と十兵衛の顔を見比べている。それは恐らく久秀に付いてきた者たちも同じだろう。
政略と戦に置いては容赦のない久秀が怒り狂う姿を見て皆が怖気つくのは当然なのだが、怒りをぶつけられている十兵衛本人は全くそのような素振りを見せない。「困ったことになった」と言いたげな顔で眉を下げるだけだ。他の者とは異なり久秀を恐れることなく普通に接する十兵衛を好ましく思うが、その姿が今日ばかりは小憎らしい。
久秀が十兵衛を睨みつけたまま「行くな」と再び告げると、彼は小さく溜め息を吐いた。
「筒井殿は公方様にとっても信長様にとっても必要な御方です。公方様にお仕えする身としては無下にできませぬ。それに、私が約束を反故にして平気でいられるような性分ではないと松永様もご存知でしょう?」
落ち着いた口調で正論を並べられ、久秀の怒りはするすると萎んでいった。十兵衛が言ったことは全て承知している。それでも十兵衛を宿敵に奪われるような感覚が拭えないのだ。
久秀は「なあ、十兵衛」と情けない声を出した。
「わしの気持ちは考えてくれんのか?若い頃から可愛がってきたお主が宿敵の順慶と親しくするのは面白くない。怒りたくもなる。」
「わかっております。それでも付き合いというものがございます。今日は筒井殿と共に茶会へ参加いたします。どうかご理解ください。」
久秀に理解を求める十兵衛は本当に困った顔をしている。その顔を見ると胸がちくりと痛んだ。いや、困らせようと思って来たのだが。
十兵衛が将軍と信長のために身を粉にして働いていることは理解しており、その二人のために順慶の力を借りたいというのも納得できる。認めるのは癪だが、筒井順慶という男は味方であれば心強い存在だ。その順慶と久秀の因縁を知る十兵衛が久秀の心情を考えないわけがない。久秀と順慶の間で板挟みになる十兵衛を哀れに思うが、たまには聞き分けの悪い男になりたかったのだ。
久秀は「もう良い」と言い放ち、十兵衛の胸を拳で軽く殴る。
「勝手にしろ。わしも勝手にする。だから明智家の館で寛がせてもらうぞ。」
そのように宣言すると、十兵衛が「は?」と間抜けな顔を晒した。それを見て少しだけ胸がすっとする。
「お主が帰ってくるまで待たせてもらうことに決めた。ああ、もてなしは期待しておらん。急に来たのだから何も用意できんだろう。ほら、お主はさっさと行け。」
久秀が追い払うような手振りをすると十兵衛は額に手を当てて深々と溜め息を落とした。
別に本気で館に上がろうとは思っていない。十兵衛をからかって困った顔を見たいだけだ。それだけで許してしまうほどに自分はこの男に甘いという自覚はある。
久秀が「十兵衛が立ち去ってから己の館に帰ろう」と考えていると十兵衛が踵を返して門を潜り、館の敷地内に戻っていった。そして、予想外の行動に目を瞠る久秀の耳に信じられない言葉が飛び込んでくる。
「煕子、わしが戻るまで松永様をもてなしてくれ。必要なものがあれば買い足して構わぬ。」
十兵衛の言いつけに対して館の奥から「畏まりました」と鈴の音のような声が聞こえてきて、久秀は「十兵衛!」と慌てて門を潜った。
「おい、十兵衛!冗談だ、冗談!お主がいない時に上がり込むつもりはない!」
慌てる久秀とは対照的に十兵衛はいつもと変わらぬ口調で「どうぞ、こちらへ」と先導して歩き出す。仕方なくあとを追いかけると表玄関へ連れて行かれ、十兵衛の正妻である煕子に笑顔で出迎えられた。品のある彼女の笑みは相変わらず美しい。
煕子はこちらに向かって「お久しゅうございます」と頭を下げた。
「前に我が家へおいでになってから随分と経っておりますね。精いっぱいおもてなしさせていだだきます。」
そのように告げる煕子の笑みに釣られて式台に腰を下ろしかけたが、どうにか踏み止まる。それでも出迎えには応えたいと思い、久秀は「久しいな」と煕子に笑みを向けた。
「煕子殿の美しさは変わらんなぁ。いや、寧ろ増しておる!顔を見られて満足だ!そういうわけだから、わしは帰るぞ。」
「またな」と言って帰ろうとする久秀の進路を十兵衛が塞ぎ、立ち止まることを余儀なくされる。憮然とした面持ちで見下ろしてくる十兵衛に久秀は居心地の悪さを感じた。
「……十兵衛、もう邪魔立てせぬから帰らせてくれ。さすがのわしも主が不在の館に上がり込むのは気が引けるぞ。」
「この館の主である私が良いと申しておるのだからお気になさらず。私が茶会から戻るまでお待ちください。初めてお越しになったわけではないのですから、緊張せずとも良いでしょう。」
「緊張なんぞしておらん!……わかった。昼寝でもして待たせてもらおうではないか。」
そのように返せば十兵衛は一つ頷き、己の妻に「後は頼む」と告げてから背を向けて歩き出す。
しかし、数歩行ったところで立ち止まり、再び体の正面をこちらへ向けた。どうしたのかと訝しむ久秀に十兵衛は真っ直ぐ視線を寄越す。
「行ってまいります。」
そのように言ってお辞儀する十兵衛の所作は手本のように見事だ。その姿に久秀は苦笑して「気をつけて行け」と見送るしかなかった。
十兵衛が出かけた後、久秀は煕子に案内されて過去にも通されたことのある客間へ足を踏み入れた。久しぶりに来ても以前と変わらない控えめな美しさに顔がほころぶ。
明智家の館には派手さがない。派手さはないが、品のある落ち着いた美しさには心惹かれる。それは十兵衛にも通じるものであり、館というものはその主に似るのだと思わされた。
久秀が座って庭を眺めていると、「茶を持って参ります」と退出していた煕子が茶碗と饅頭を持って戻ってきた。
「お待たせいたしました。こちらをお召し上がりください。」
「うむ、いただこう。」
久秀は茶碗を手に取って一口飲み、少し距離を置いて座る煕子へ視線を移した。
「今日はすまなかった。本気で上がり込むつもりはなかったのだが、十兵衛に押し切られてな。」
非礼を詫びると煕子は楽しげな笑みを見せる。
「事情は察しておりますから、気になさらないでください。十兵衛様は茶会が終わりましたら急いで戻ってこられると思います。」
「いやいや、これは参った。」
久秀の突然の訪問は十兵衛が茶会に参加するのを邪魔するためだったと煕子は気づいているようだ。そのことに気まずくなって久秀が頭を掻くと、煕子は袖で口元を隠してくすくすと笑う。
「心配なさらずとも十兵衛様は松永様のことを考えておられます。本日の茶会についても『松永様が知れば気を悪くなさるだろうな』と気にしておられましたから。」
思いがけない事実に久秀は瞬きを繰り返す。その久秀を見つめる煕子の眼差しはとても優しい。
「十兵衛様が筒井様と関わりを持つのは政治的なものだけでなく、個人としてもあの御方が嫌いではないからでしょう。ですが、そのことが松永様を蔑ろにすることには繋がりません。だから自分が戻るまで待っていてほしいと仰ったのだと思います。」
「……わかっておる。十兵衛の立場も事情も理解しておるが、それでも無性に腹立たしくてな。構ってほしかっただけのことよ。子どもじみた真似をしたものだ。」
「それも理解しておられると思います。それでも無下にしないのは松永様を慕っておられるからです。十兵衛様は本当に松永様がお好きなのですよ。」
にこにこと笑う煕子からそのように言われると妙に照れくさい。十兵衛から慕われているという自覚はあったが、彼の最も近くにいる人間から言われるとくすぐったくなる。
久秀は照れていることを隠すために咳払いし、煕子から視線を外して庭を見た。
「己の振る舞いを反省しながら十兵衛を待たせてもらおう。放っておいてくれて構わんぞ。」
そのように告げると煕子は「畏まりました」と頷いた。
「それでは、折を見てお茶のおかわりだけお持ちいたします。お酒やお食事は十兵衛様が戻られてからにいたしますね。失礼いたします。」
煕子は頭を下げてから去っていった。その姿が見えなくなってから久秀は苦笑を零す。
十兵衛が順慶と親しくしていると聞いて心がざわついたのは彼が離れていくのではないかと不安になったからだ。自分と順慶の双方と関わりを持つ者は他にもいるというのに、彼だけは気にかかって仕方ない。十兵衛が自分から離れていかないことを確かめたくて子どもじみた真似をしてしまったのだろう。
思わず零れた「甘えてるなぁ」との呟きを聞く者は誰もいない。この松永久秀が大きく歳の離れた十兵衛に甘えているなど極秘事項だ。
久秀は大きく伸びをすると、そのまま背中から倒れて仰向けに寝転がる。だらしない格好だが気にしない。明智家の館は気を抜くことができる数少ない場所だ。
「昼寝でもするか。」
そうと決めれば目を閉じて体から力を抜く。そのままの状態でいると徐々に眠気がやって来る。
遠くで鳴く鳥の声を耳にしながら、久秀は穏やかな眠りに入っていった。
*****
静かに響く虫の声。それは久秀の目覚めを緩やかに促す。
久秀が重い目蓋を持ち上げると辺りは薄っすらと暗くなっていた。体を起こし、庭の方へ視線を投げれば日が傾きかけていることがわかる。しっかりと寝入っていたようだ。
ふと自身を見遣れば薄手の衣が体に掛けられており、少し離れた場所には新しい茶碗を乗せた盆が置かれている。掛けられていた衣を適当に畳んで傍らに置き、手を伸ばして盆を引き寄せると茶碗に口を付けた。すっかり冷めてしまった茶は昼寝で渇いた喉には丁度良い。
茶碗の中身を飲み干した時、何者かの歩く音がこちらへ近づいてくることに気づいた。この規則正しい足音は十兵衛に違いない。
久秀が居住まいを正したところへ長身の男が現れた。予想した通り、足音の主は十兵衛だった。
十兵衛は部屋の前で膝をついて顔をこちらに向ける。
「只今戻りました。お待たせして申し訳ありませぬ。」
そのように言って頭を下げた十兵衛に、久秀は「ご苦労」と声をかける。それを合図に十兵衛は顔を上げ、部屋の中に入ってくると久秀の正面に座して微笑した。
「気持ち良さそうに眠っておられたと聞いておりますが、疲れは取れましたか?」
それを聞き、「話したのは絶対に煕子殿だな」と思いながら頷いて返す。
「よう眠れた!苛立っていたのは疲れのせいもあったかもしれんな。いやー、すまんかった!許せ!」
そう言って久秀が大きく口を開けて笑えば、十兵衛が「それは良うございました」と苦笑する。その苦笑いはすぐに消え、十兵衛は神妙な面持ちで口を開く。
「筒井殿より松永様への言伝を頼まれました。」
「ん?順慶から?」
「はい。──今回はお譲りいたします、と仰っていました。心当たりはお有りでしょうか?」
十兵衛は言伝の意味がわからないようだが、久秀は正しく理解した。恐らく十兵衛は茶会の後に順慶から食事か何かに誘われたのだろう。それを「松永様が待っている」などと告げて断ったに違いない。その言葉を受けて順慶は「今回は明智様を譲る」などと申しているのだ。
久秀が「生意気な坊主だ」と苦々しく思っていると十兵衛が困惑した様子で「松永様?」と呼びかけてきたので、意識を目の前の彼に戻す。
「どういう意味かは理解した。お主は気にしなくていい。忘れろ。」
「はあ。」
釈然としない様子の十兵衛だったが、久秀の言葉を素直に受け取って「そういえば」と話題を変えた。
「松永様が好みそうな酒を買ってきたのです。いかがですか?」
その知らせは久秀を大いに喜ばせた。わざわざ十兵衛が自分のために酒を買ってきてくれたという事実が嬉しく、自分の好みを知っていてくれたことをいじらしく思う。
久秀は「それは良いな!」と前のめりになり、十兵衛を見つめながらにやりと笑った。
「当然、お主も付き合ってくれるのだろう?」
そう問えば間を置かずに「喜んでお付き合いいたします」と返され、久秀はますます機嫌が良くなるのを自覚した。
そして、久秀の機嫌は次の十兵衛の言葉によりますます上向くことになる。
「私が進んで酒を飲もうと思うのは松永様とご一緒する時だけですから。」
目を細めて笑い、さらっと言い放った十兵衛に久秀は目を丸くした。
酒に弱い十兵衛は酒の席であっても極力飲まないように努めているが、久秀と二人だけの場合はそうではない。酔い潰れた十兵衛の世話をしてやったことは何度もある。それは酒好きな自分に付き合ってくれているのだとばかり思っていたが、十兵衛自身が望んでいたのだと初めて知った。
──これほどまでに気を許してくれていると知って、嬉しくないわけがない。
久秀は笑みが零れるのを堪えきれなかった。我が子のように大切に思う相手が己の思う以上に慕ってくれていると知り、喜びを隠すなど無理な話だ。
情勢が刻々と変化していく世の中で、自分と十兵衛が異なる側に立つ可能性は皆無ではない。道を違えれば刃を交えることになる。仮にそうなったとしても明智十兵衛光秀が松永久秀を心から慕っていたという事実が消えることはなく、今日の彼の言葉を生涯忘れはしないだろう。
久秀は湧き上がる喜びを笑顔に変えて十兵衛に呼びかける。
「よし!今宵はとことん飲み明かすぞ、十兵衛!」
その呼びかけに対して返ってきたのは十兵衛の明るい笑顔だった。
終