春霞に酔ふ出発前 真昼の星空が桜の上に広がっている。
天照の敷地内にある桜の上をふわふわと旋回していた鯨の下半身を持つ少年……颯鯨は、地上から誰かが呼んでいるのに気付いて尾をくねらせ舞い降りた。ほっとした表情をしたその人物は天照の職員で、「臨時バディの要請です」と、颯鯨に話を切り出した。
颯鯨は天照に協力的な刀神である。異能の危険度も低く、性質も穏やかであるため、新人の訓練などにも付き合うことがある。刀遣い以外の職員にも友好的で、よく天照内をうろついては遊んで遊んでとねだっているところが目撃されている。
そんな彼に今回下った指示は、鷹緒山で起こっている怪異に対して臨時バディを組んで対応に向かうことだった。颯鯨の方には特に断る理由もなかったため、職人に連れられるまま廊下を進んでいく。
「相手は凪鞘班所属の梓馬百々恵という女性です。段位は伍」
「ふうん」
凪鞘班は主に人命救助などを担当する部署であり、癒やしの異能を持つ颯鯨が力を貸すことはよくある。梓馬百々恵という女性については知らないが、段位の低さからして後方支援の人間なのだろうなと颯鯨は思った。
妖刀保管室の隣にある面会室へ向かうと、そこには既に梓馬百々恵とおぼしき女性が待っていた。……若い。まだ成人したばかりだろう。快活そうな印象で、荒んだ戦士のような雰囲気はない。颯鯨の来訪に気付いた娘は、丁寧に一礼すると颯鯨を正面から見た。はしばみ色の目。
「はじめまして、颯鯨さま。梓馬百々恵と申します」
「うん、はじめまして! 今回はよろしくね」
人懐っこく笑う颯鯨に多少緊張が解れたのか、娘は少し笑うと体の力を抜いた。二人の対面に問題がないことを確認し、引き合わせ担当の職員がファイルに入った資料を渡してくる。鷹緒山での怪異についての調査資料と、娘のファイルには颯鯨についての、颯鯨のファイルには娘の能力についての軽い評価書が含まれている。
「山かあ」
颯鯨はそらを飛ぶ刀神である。また、本性は巨大な鯨だ。本領を発揮するなら開けた場所が望ましいが、通常の治療範囲であれば問題はないと判断されたのだろう。娘の頭上に浮かびながら資料に目を通す颯鯨を、娘はちらと見上げた。
……下半身さえなければただの無邪気な子供にしか見えないのに、資料を易々と読む姿は彼が子供ではないことをありありと見せ付けている。胴体や髪にきらきらと輝く星は蛍光灯の下ではそこまで輝きはしないが、昼でも星は確かにそこにあるのだ。
「! 電車移動なんだね!」
「あ、はい。そうですね」
ぱっと表情を輝かせた颯鯨はぐるりと娘の周囲を一周してから人の子の姿に変化する。軽やかに床へと降り立ち、娘を見上げる。黒く濡れた目は無垢な子供のようにも、老成した偉大な生き物のようにも見える。
「じゃあ早く出発しよっか!」
これ以上被害者が増えてもいけないしね、と言う口振りは子供のそれではあるが、ひとを助ける刀神としての自覚もある。ひとを癒やすために打たれた刀を依り代とする颯鯨はひとを愛しているし、慈しみ守るべきものだと思っている。子供の姿ではあるが本質的にはひとを包み込む癒やしの具現化だ。
「……はい!」
娘は、この刀神となら問題なく任務を遂行できそうだと思った。
登山中 この状況でなければ咲き誇る桜は春の恵みと幸福の象徴であっただろうが、ここは妖魔の地であり、この桜も恐らく尋常なものではない。それでも昼の星空がその間を通りすぎていく様は美しく、娘は複雑な思いでそれを見ていた。
「百々恵! あそこ!」
昼の星空、人と鯨の間の姿を持つ星空模様の人魚、颯鯨が前方を指差す。人影が倒れているのが見えた。周囲を警戒しながらも急いでそちらに駆け寄った娘は、その人物──若い男だった、腰に刀を差しているため刀遣いだろう──の脈や呼吸を確認して難しい顔をする。
「大分毒が回っていますね……颯鯨さま、どうですか」
「うーん」
若者の顔を覗き込み、小さな手でぺたぺたと触れたり額を付き合わせたりした後、颯鯨は娘の方を振り返って少し首を傾げた。
「とりあえず動けるくらいにまではすぐ治せるんじゃないかな……この後何人助けるかわからないし、生気温存しておきたいから、完全に治るまでやるのはちょっとやめといた方がいいかも」
幼気な子供の顔をして、颯鯨は冷静な判断をする。凪鞘班と行動することと同じくらい鯉朽隊と行動することも多く、妖刀としての来歴──子供の病気快癒祈願に打たれた刀であり、人を切るためのものではない──とは裏腹に常在戦場の気構えを身に付けているこの刀神は、時折ひどく合理的だ。
一方の娘は善良で誠実な人物だが、看護学生として様々なことを学んできているというのもあり、取り乱したりはしなかった。軽く頷くと、懐から取り出した短刀“颯鯨”を軽く捧げ持ってから丁寧に鞘より抜き放った。
「それでお願いします」
「うん」
刀身から星の輝きに似たものが零れ落ちる。その光の粉が若者の身体に降り積もり、一瞬強く輝いては消えてゆく。小さな呻き声を洩らし、若者の目が開いた。
「……ここ、は……」
「大丈夫ですか、ここは鷹緒山ですよ」
上半身を起こした若者は眉間を指で揉んでから周囲を見回し、はっと我に返った様子で娘を見た。
「救助隊か? 民間人は」
「まだ発見していません」
「そうか……」
若者は少しふらつきながらも立ち上がると娘に頭を下げ、自分の名前、所属は鯉朽、段位は肆である旨を告げた。それから自分の得た限りの情報を共有する。
遭遇した妖魔。周囲に満ちる酒のような毒。頂上へ近付くにつれ増していく重苦しい気配……。
「刀神とはぐれてしまったから俺はこれ以上先には進めない、悪いが」
「ええ、後は任せてください。お気をつけて」
妖魔の気配が薄い方へ避難する若者を見送り、娘はひとつ息を吐いた。颯鯨がその周囲をゆらゆらと飛んでいる。
「百々恵はまだ平気?」
「え? ああ、はい、まだ大丈夫です」
「動きに影響が出る前に言ってね」
ふわりと尾を揺らして高度を上げ、ぐるりと旋回してからまた降りてくる。自由にそらを泳ぐくじらの人魚は、咲き誇る桜と合わせると夢の中の光景のようである。酔った花見客の見る夢は、あるいはこういうものかもしれない。
だがこれは夢ではないし、周囲に漂うのは酒精どころか緩やかに人間を蝕む毒で、辺りには妖魔の気配もある。彼らは花見客ではなく天照であり、刀遣いと刀神だ。
夢のような現実の中を、二人は進んだ。