「この感情」を大切に、私たちは台風12号の緊急戒厳体制が解かれて、そこに亀島に竜巻が発生したという報がはいって。実家とは電話で話ができたけど、やっぱり落ち着かない。落ち着かない気持ちを持て余して、気が付いたら洗濯をしてた。洗濯機がまわる音を聞きながら、いつの間にか寝ちゃったみたい。さっきまで戦う相手でもあった、水の、ぐるぐるばしゃっていう音が、今は心を落ち着かせる。
目を開けてふと顔をあげたら、壁際に、座ってスマホを見てる先生がいた。
「え…。いつ?」
いつものふわりとした笑顔で、スマホをポケットに仕舞いながら先生が言う。
「さっき」
「起こしてくれたらよかったのに」
先生が来てくれてるのに、気づかなかったなんて。やっぱり疲れてたのかな…。
「疲れてるだろうと思ったから」
そういう先生はいつもやさしい。そのやさしさにほっとしながらスマホをチェックするけど、送ったメッセージにみーちゃんからの返信はなく、既読もついていない。
「返事ないか…」
思わずつぶやいてスマホ置くと、心配顔になった先生がテーブルの向かいに場所を移した。寝てる時には私を見守れる距離。起きたらお話できる距離。ほんと、そういうとこ。
「何かあった?」
「実家の方、突風で少し被害があったみたいで」
「大丈夫?」
本当に心配して言ってくれる声音。
「うん、大したことなかったって」
「そうか…。ならよかった」
「うん」
そこまで話て、ふと気が付く。
「あれ?先生、来週、東京…」
って言いながら、スマホをみて気づく。ここ数日がひとかたまりすぎて、時間感覚なくなってた。
「もう来週になってますね」
やっと気づいた私に、先生はそうなってる理由もすっかり分かってる顔で優しく言う。
「台風ひどかったから、まだ仕事忙しいだろうとは思ったんだけど、今日祝日で僕も休みだし。それに、明日は…」
「あ…」
そこで一区切りして出た言葉に、今まで忘れてた莉子さんとの会話がよぎる。
『来週モネ誕生日だよね?プロポーズされんじゃない?』
いつか結婚する、っていうか、ずっとこのパートナーシップは続くし、続けたいと二人とも思ってるのはその通りで。だけど、それがいつなんだろう、ってのは私はまだ全然考えられてなかった。でも、先生は、今これからだ、ってそう思ってる…のかな…?
「別に合わせなくてもいいとは思ったんだけど、こういうのはタイミングだから…」
あ、やっぱり…?…ん?でも?
「え?ここで?」
思わず口をついた言葉に、先生が顔をあげる。
「え?」
「あっ、ごめんなさい」
もぅ、私はいつも、先生の前だとすぐ口にでちゃう。
「いや、ここで、ではさすがにないんだけど、今回僕がこっちにいる来ているうちには、と思ってる」
…って先生、ほとんど言っちゃってません?やっぱり、そういう話をするつもり、なのかな。って、しばらく沈黙してたら、先生が眉をしかめて、続きの言葉を絞り出した。
「これは、もう、ほとんど言ってるか…。」
うん、そんな気はする…。
「ああ、あの…」って言いながら手を改めて太ももに置いて。
「百音さん」
「あ…。はい」
思わず私も手を膝において改まっちゃう。
「今日、僕がこっちに来たのは…」
って先生が言いかけたところで、ガタン!ピー!ピー!っていう洗濯終了の音。
えぇ、今?!
いや、あの、先生が言いかけてたこと、ちゃんと聞かなきゃ!
「ああ大丈夫です、全然まだ」
思わず膝に置いてた両手を広げて力説しちゃった。
「全然まだ大丈夫です、全然」
えー、私、全然って何回言ってるのー。あちゃーって顔してたら、私のその全力な様子に、先生もちょっとはにかんで、緊張がほぐれたみたい。両てのひらをズボンで拭ったあと、先生が改めて私の名前を呼ぶ。とっておきの、フルネームで。
「永浦百音さん」
仕事で呼ばれるのとは全く違う、先生にしか出せない特別な響き。先生が言おうとしてること、今ここで、とは思ってなかったけど、結局、私もすっかり心は決まってることなんだと思う。それを、ちゃんと受け止める。
「はい」
私の返事に、先生が言葉を紡ぐ。きっと、先生らしくたくさん考えてきたんだろう、言葉。
「僕はあなたが抱えてきた痛みを想像することで、自分が見えてる世界が2倍になった」
ここで。あの日先生が私の腕を引き寄せて言ってくれた言葉。私の痛みは分からない。でも分かりたいと思っている。あの日からずっと、先生が分かろうと思い続けてくれたから、私も先生も、二人で世界を2倍にすることができて。
「僕は、あなたといると自分がいい方に変わっていけると思える。多分これからも。だから…」
うん。私もそう思…ん?せんせ?
「違う」
「ん?」
「理屈ではそうだ。でも、理屈じゃない」
「は?」
先生が『理屈じゃない』って言った?なんでもロジカルに考える先生が?でも、そうして二人の世界を広げるのだって、私たちがずっとやってきたことで、これからもそうしていきたい、なのでは…?
ガタン!って立ち上がった先生が、何かをせっせと考え始めてる。
「何なんだろう、僕らの今の生活。今までの生活。どう思う?」
私たちの、今までの生活…。どう…思ってるか…。
「あなたは今、どう思ってる?」
私の方に向いた先生が、両の手の指はいつも通りそっと優しくテーブルの上に置いて、でもすごく前のめりで聞いてくる。えっと…
「ど…どうって、まぁ確かに、ずっと登米と東京で行ったり来たりで、まあ時間もなくて寂しいなと思うこともありましたけど、まあお互い仕事のことは分かってるし」
そう、寂しいなって時はもちろんあるけど、でも、私たちはずっとそうやってやってきたから。先生は私の仕事のことを大事にしてくれるし、私も先生の仕事のことを大事にしたい。
「僕だってそうだ。理解はしているし関係は悪くない。でも、そういうことじゃないんだ」
じゃないんだ。なんなんだろ…。
「顔を見ればうれしいし、声を聞けばほっとする」
先生が、私の顔を見れてうれしいって思ってくれて、声を聞いたらホッとしてくれる。改めて言われると照れくさいけど、うん、私もそう。
「離れる時はもう少しこの時間が続けばいいのにと思う」
いつも別れ際、先生はめいっぱいのハグをくれる。先生のこの言葉に、そのハグのあたたかさと力強さを思い出して、口許がむにむにしちゃう。
「これだ。この…感情がすべてだ!」
あ、何か先生の結論が出たみたい。
感情が全て。私にもいつもロジカルで正しくあろうとしてる先生が。でも、言われて私も、ストンと納得の気持ち。
だって、ずっとこのままでも二人一緒だけど、どうして結婚っていう新しい形にしたいのか、って言われたら、もっと確かな形の一つを選びたいから。
「一緒にいたい。この先の未来一分一秒でも長く」
一分一秒でも。なんて先生らしい。
「結婚したいと思ってる」
うん。私も。してください、じゃなくて自分がこう思ってるって言う先生は、とってもフェアで。
私も、自分がこう思ってます、って伝えたい。
そう口を開こうとしたら、先生が先に話続ける。
「あ、いや、今は答えなくてもいい」
「え」
そういったところで、先生の目線で気づく。コインランドリーにお客さんだ。促されて、洗濯物をランドリーバッグに入れて、汐見湯のリビングに戻る。ランドリーバッグを持ってくれた先生が、移動しながら言う。
「いや、いいんだ。明日でまだ24だ。考えたいだろうし、この先のことも…」
多分、先生は今回、結婚したい、まで言うつもりじゃなかったのかも。これから考えていきませんか、って。先生はいつだってフェアであろうとしてくれるし、私の仕事や島への思いを最優先してくれる。だから、私が今答えなきゃいけないようになってることに気が引けてる気がする。でも、私も。
「考えますけど、でも…」
「あなたにも仕事がある。地元に戻ろうと思ってるならなおさら即答はできない」
やっぱり、即答させるようにしちゃだめだって、思ってる。でもね。
「先生、私…」
「僕は東京に戻ろうと思ってるし」
「え」
それは、ハツミミです、せんせい。
「ごめん、先に言わなくて。中村先生から大学病院に戻るように言われた。あなたにもちゃんと相談しようと思ってた」
「そうだったんですね」
きっと、その話も順序立ててするつもりだったんだろうな。とはいえ、中村先生のご意向もあるなら既定事項ではあったんだろうけど。でも、それは先生にとって必要な判断なんだったらそれはそれでよくて。
「5年間、地域医療に携わってきてその重要性は日々感じてる。まだ、やりたいことも山ほどある。ただ同時に医療の進歩も感じていて。一度戻ってもいいと思った」
そうして学び続けるひと。そしてその学びを私にも分けてくれるひと。私の仕事もまだまだこれから。気象報道も、スポーツ気象も。そして、それはやっぱり先生がいろんな支えをくれて。だとしたら…。
「先生が東京に戻って、私がこのまま東京にいたら…。一緒にいられる」
いつか島には、気仙沼には戻りたい。でも、それは今じゃなくてもいい。もっと力をつけて。それまで、先生と東京で研鑽できるなら。そんな未来を選んでいいのなら。
「それが理由で結婚を持ち出したわけじゃない。あなたには自分の思うようにしてほしい」
うん。先生が登米にいるままでも、きっと結婚の話はいつかしてた。それに、先生はいつでも私がやりたいことを大切にしてくれる。だから、私のやりたいことは。
「でも」
と言いかけたところで電話が鳴った。
あのスーちゃんからの知らせは、今から思えば、あの時の私に絶対必要なものだった。だけど。
まだ着けてることにちょっと慣れない指輪をした私の左手を、暖かい先生の右手が包んでる。
手を繋いで島の砂浜を二人で散歩。何気ない時間だけど、何にも代え難い時間。結婚式もやっと終わって、色々ちょっと一段落して。
昔からお気に入りの浜の入り端にあるコンクリートブロックに二人で座って、木陰から海を眺める。
「あのね」
と口を開くと、うん、って顔をこちらに向けて話を聞く姿勢。こうしていつもこの人は私の話を聞いてくれる。
「覚えてます?コインランドリーでプロポーズしてくれた日のこと」
繋いだままの手をポンポンってしながら「忘れられるわけがないでしょ」って先生が笑う。
「あの日、先生が東京に戻るつもりだって聞いて」
「うん」
「私が東京で仕事を続けたら、一緒にいられる、って思って」
「うん。そう言ってましたね」
「あの時ね、そうしたい、って思ったの。東京での仕事も充実してたし」
「うん」
「で、その後、おじいちゃんのカキ棚の話を聞いて、すぐに新幹線に乗ったけど、その時に自分を責めてた」
私の不意の告白に、先生はじっと傾聴の姿勢。
「島のことを差し置いて、東京で自分がしたいことだけ選ぼうとしたから、やっぱりそうなったんだ、って」
そっと首を横に振りながら、それでも先生は否定の言葉も肯定の言葉も口にしないで私の話を聞いてくれる。
「だから、島に帰るって決めた時、その思いからくる理由もあったな、って今にして思うの」
「先生とこうして今、何も気負わず前を向けるのは、あの時にどれだけ厳しくても島と向き合えたからだし、そうしてよかったと思ってる。今はもう、何もできない私じゃないって信じられるし」
そう言うと、繋いでいない左手が、指輪を煌めかせながら頭をくりゃりと撫でてくれた、その指と手のひらが気持ちいい。
「あの日、先生は本当はプロポーズする予定じゃなかったんでしょ?」
「もちろんです。流石にコインランドリーで、なんて思っても見なかった。あなたが気に入ってたリストランテを予約していたし、そこで僕が東京に戻ること、あなたが島に戻りたいことを含めて、あの先の未来の約束ができれば、と、そう思ってました。…なんだかその前に暴走してしまったけど」
あの休みの時に先生が何を計画してたか、初めて聞いた。あの時、私は自分のことで精一杯だったけど、あそこで一人東京に残った先生は、どんな思いだったんだろう。そう思って先生を見上げたら、何を考えてるのかすっかりお見通しの顔をされちゃった。
「予約してた店には、両親に行ってもらいましたし、あなたが悔い無く島に向き合えれば、それが一番だと思ってた。あなたが島に帰ると決めても、僕たちが手を離す選択肢はないと思っていたし」
それに、と紡がれる言葉に、私が首を傾げると、先生がふわりと笑う。
「あの日、あの時間に『結婚したい』って意思表示してなかったら、その後、する機会はなかったと思う。竜巻被害のことも、感染症のことも考えたら」
「確かに」
「だから、あれでよかったんだ、と思ってる。あなたが自分を責めることになっていたのは想定外だったけど」
「ううん、それを含めても、やっぱり、あれでよかったんだと思います。今は、そうじゃない、って信じられるから」
「そっか」
なんだかなかなか計画通りとはいかない私たちの旅路。でも、やっぱり二人で、何かあるたびに一緒に考えて、いい方向にしていくしかないってこと。ね。先生。