熨斗かけるふたり久しぶりに菅波が汐見湯を訪ったのは、百音が投げたサメのキーホルダーと百音自身を菅波が受け止め、その後に百音が百貨店に頼まれた遣い物を買いに行った翌日だった。さすがに引っ越し・異動準備をしろと休みを言い渡されていて時間に自由が利くことになり、遣い物を受け取りに、百音の退勤に時間を合わせた訪問である。
コインランドリーからではなく正面から番台横の暖簾をくぐってリビングに入ると、番台にいた菜津の祖母の光子にいらっしゃい、と声をかけられ、ぺこりと頭を下げる。奥を見遣るれば、百音が菜津と何やら話をしているところだった。テーブルの上には、大きな紙袋が鎮座している。
菅波が顔を出したことにすぐ気が付いた百音が、先生こんにちは!と弾けるように立ち上がって菅波のもとに駆け寄る。菅波も口許を緩めながら、こんにちは、と他愛ない挨拶を交わす様子を、菜津がやさしく見守った。
「井上さん、こんにちは。お邪魔します」
菅波の挨拶に、菜津も「こんにちは」とやわらかく挨拶して、どうぞ、と椅子をすすめる。すすめられるまま椅子に座ると、百音が大きな紙袋を菅波の前に置いて、その傍らに立った。
「先生、これ、頼まれた御遣い物です」
「改めて量を見るとすごいですね。重かったでしょう。急な頼みごとを聞いてくれてありがとうございます」
「お安い御用です。お買い物楽しかったですよ」
本当に楽しかった、とにこにこしている百音に菅波が目を細めて頭を下げる。
「でね、先生、ひとつ相談があるんです」
「相談?はい、なんでしょう」
百音がもう一つの紙袋から、ずるりと熨斗の束を取り出すと、菅波の顔に疑問符がつく。
「熨斗、です。お店の方からどうしますか、って聞かれて、私では判断できなくて。悩んでたら、熨斗は別に準備するから、贈り主の方の判断で使ってください、って支度してくれたんです」
書入れありのと、無地のと、両方です。いたれりつくせりでした。という百音の言葉に、菅波が広げられた二種類の紙をとっくりと見る。その表情は、何か手土産が必要ぐらいは考えていたけど、熨斗の要否なんかまったく考えていなかった、という顔で、どうしましょう、という百音の顔とそっくりである。
「全然考えてなかったですね。うーん、贈答のマナーとか恥ずかしながら全く分からないんですが、こういう場合は何が適切なんでしょうか…」
「どうなんでしょう。菜津さん、どう思います?」
百音が菜津に聞くと、菜津はそうねえ、と頬に手を当てる。
「モネちゃんの話を聞いた感じだと、ご挨拶に行くところははじめてのところではない、のよね?」
「そうですね。登米の診療所でずっとお世話になっているところがほとんどです」
「だとしたら、改めての表書きはなんだか仰々しい感じもするし…。ねぇ、おばあちゃんはどう思う?」
菜津が番台の光子に水を向けると、光子も、そうねぇ、熨斗なしもちょっとぶあいそだし、無地熨斗ぐらいがちょうどな気がするわね、と同意する。菜津と光子の意見を聞いて、菅波と百音が顔を見合わせた
「アドバイスありがとうございます。通いだった場所に専任することになる挨拶なので熨斗はかけつつ無地、にします」
菅波の言葉に、百音も無言でうんうん、と頷く。
「熨斗紙のかけ方、教えてもらったんです。買って来たものの説明もありますし、ここでかけちゃいましょう」
セロテープも準備しときました、と百音が得意げにカッター付きの小さなセロハンテープホルダーを持ち上げてみせるのも可愛らしい。
「場所を、お借りしてもいいですか?」
と菅波が菜津に聞けば、菜津はもちろん!と頷く。
では、と百音が紙袋からあれこれと包装紙に包まれた箱を取り出す。すみっこに小さい付箋貼っておきました、と百音が指さす場所には、持って行く先の施設名称が書かれている。熨斗をかけるにも邪魔にならない場所で、百音のさりげない気遣いに菅波は心から礼を言うのだった。
その言葉にはにかみながら、百音は箱を一つ手に取った。
「こうやって、両端にセロテープをつけて、箱の真上真ん中に置いて…、箱の角をきゅってして、そのままテープでくっつけます」
ふむ、と菅波がやり方を見て、百音が熨斗紙をかけ終えたところで、おぉーと小さく拍手をする。なるほど、確かに言われればその手順ですね、なるほど、と菅波が妙に感心しているのが百音には面白い。じゃあ、次やってみます、と菅波が別の箱を手に取った。
そう、そこにテープ貼って…と百音のインストラクションに沿って菅波が手を動かせば、くるりときれいに熨斗がかけられた。なるほど、できた、と菅波はくしゃりと嬉しそうに笑い、百音もそれに笑顔で応える。
「これは、あの整形外科のとこ宛なんですけど、ほら、院長さんがゴルフお好きじゃないですか。ゴルフボールの形の最中があったので、それにしてみました」
「へぇ、そんなのが。きっと喜ばれます」
百音がセロテープを適度な長さに切って、菅波が熨斗紙をかけつつ、熨斗紙をかけているそれが、どこ宛のどんなお菓子なのか百音が説明する時間が楽しく過ぎる。百音が知っているところに宛てて選んだ品も、よく知らないが菅波から聞いた話から推量した場所への品も、いずれも到底菅波にはない目配りが効いていて、説明を聞くたびに、菅波は感心のため息を漏らす。
「僕が用意してたら、全部同じここの小倉羊羹詰め合わせになってましたよ」
ぴしっと掛け紙の角をあわせつつ、菅波が言うと、百音も菜津もくすくすと笑った。
「それはそれで間違いないとは思いますけど」
「すごく無難にきたな、とは思われるでしょうね」
「まぁ、無難は無難で、無難だと思いますけど」
くすくすと笑われることに苦笑しながら、菅波は次の箱へ、と手を伸ばす。
もののしばらくですべてに熨斗をかけ終え、すべての品をまた紙袋に丁寧に戻したところで、菜津が淹れたての紅茶を盆にのせて運んできた。お茶どうぞ。私もお邪魔だけどお相伴いいかしら、と笑うのに、百音も菅波も、もちろんご一緒に、と頭を下げる。菅波が紙袋を床の端に避難させ、菜津がカップをテーブルに置く間に、百音が冷蔵庫からパウンド型のベイクドチーズケーキを取り出した。百音が人数分に切り分けて、おばあちゃんのぶん、置いときますね!と番台に声をかける。はーい、の声を聞きながら、残りを小皿に装ってテーブルへ。いただきます、と声を合わせてチーズケーキを食べれば、程よい甘さが軽い一仕事終えた後に美味しい。
「これ、お遣いの帰りについ見かけておいしそう、って思って、先生にお土産です」
百音がニコニコとほおばるのに、菅波が目を細める。
「本当に助かりました。しかもあれこれと考えてもらって。きっと喜んでもらえます」
「できることがあってよかったです。それに、私が知ってるところも多かったから、あそこはこれがいいかな、とか考えて選ぶの楽しかったです」
二人のその会話に、菜津が「素敵ね」と笑う。二人してそっくりに首をかしげて見せるのに、内心の笑いを噛み殺しつつ、菜津が言葉を続けた。
「ここのお仕事に専念します、どうぞよろしく、って大事なご挨拶のための買い物を任せられるって、とっても相手のことを信頼していないとできないじゃない。モネちゃんも、先生のために、って登米のことを思い出しながら、一生懸命考えて。どっちも、とってもいいな、って思うわ」
そんなこと考えてなかった、とまた二人の表情がシンクロして、菜津はまた内心の笑いをかみ殺す。そうやって無意識無自覚に歴史と絆を育んでたのよねぇ、と、これはすーちゃんに通報案件だわ、と心の中にメモを取りつつ。
「それで、今日から先生は三日間お休みなんですよね?」
「そうです。さすがに引っ越し準備を進めろ、と。とはいえ、あらかた本だけだし、一日あれば片付くと思ってはいるんですけど」
「そうかなぁ…。あ、でも、今日はお手伝いさせて下さい。先生が家にいるなら、いいでしょ?」
「それは…、はい」
菜津がにこにこと見守りつつ、この後の算段が決まって。お茶の片づけをした後、じゃあ行きますか、と菅波が紙袋片手に立ち上がりかけたところで、百音が、あ!ちょっとこれ片付けときます!とセロハンテープと使わなかった熨斗紙を手にした。
「それ、もう使わないから紙ごみでよいのでは?」
「きれいな紙だし、裏紙に使おうかなって」
「そうですか」
ふむ、と菅波が頷くのに、すぐ!すぐ置いてきます!とトタトタ足音が二階に行くのを見送る。その様子にまた菜津がくすりと笑うのを菅波が目顔で問う。
「モネちゃんね、熨斗の表書きを書いてもらう時に、『菅波です』って伝えるのになんだかドキドキしたらしいですよ」
思いがけない菜津のその言葉に、菅波の耳朶がうっすらと朱に染まる。
「だから、表書きのある熨斗もすぐには捨てがたかったんじゃないかな」
菅波が口を開けて、無言でまた閉じている間に、百音がお待たせしました!とドアを開けて百音が戻ってきて、菜津と菅波の会話はそこで終わった。
菅波がおじゃましました、百音が行ってきます、と汐見湯を辞して、菅波の家を目指す。こうして一緒にこの道を歩くのもあと何回か、と二人して思いつつ、口には出さずに。一緒に勝鬨橋を渡ると、春の風が心地よく二人の髪を撫でるのだった。