あんぱんとメロンパンをはんぶんこ(サメのしりとり・それから)まだ冷房をかけて寝るようなこの時期、心地よい眠りに差し込んできたのは遮光カーテンの隙間から差し込むくっきりとした夏の名残の日差しだった。ここに陽が射すということは寝過ごしたか、と身体を動かしかけて、身体を僕の方に丸めて、腕の中ですうすうと寝息をたてるひとが目にはいった。動かない頭で、あ、そうだ、永浦さんが来てくれてて…と思い出した瞬間、当直でたたき起こされる時より早く脳が覚醒する。
だいぶとここで過ごすことも慣れてきた様子だけど、その日はまだもう少し先か、と思っていたのに。『今日じゃないのはやだ』とまっすぐに伝えてきた永浦さんのその気持ちが、僕の逡巡を飛び越えてきてくれて。できるだけ永浦さんが怖くないように、痛くないようにと慎重に進めたけど、本当に大丈夫だったか、正直自信はない。
なのに、全部終わった後、永浦さんは笑って『こうなることが決まってた』って言う。どこまでこの人は僕のことを信頼してくれているんだろう。その信頼に足る自分でいなければ、と思いつつ、僕の永浦さんへの信頼もきちんと伝えていきたい、と思う。こうして一緒に過ごしてくれることが、あなたが勇気を見せてくれることが、どれだけ僕を支えてくれているか。あ、また泣きそう。というか、本当に僕の情緒は大丈夫だろうか。
初めての行為におそらく本人も気づいていない疲労もあるのだろう、腕の中の永浦さんは起きる気配がない。窓から差し込む光は幸い永浦さんの顔には当たっていなくて、その眠りの邪魔はしていない。片腕を伸ばしてカーテンをズラせば、光の道はベッドの向こう側に落ちた。
起こさないように気を付けながら、そっとベッドを抜け出す。ブランケットをかけてあげると、もぞりとそれを体に巻き込む仕草すらかわいいと思えてしまう。その拍子に露わになったうなじの白さが、ふと昨夜の時間を想起させ、慌てて首を振る。この調子では、ほんの些細なことでは昨夜のことを思い出しては挙動不審になってしまう。
水を入れたケトルを火にかけ、洗面所で簡単に顔を洗って髭を剃る。朝ごはんは、永浦さんが食べたいって昨日の昼に二人でベーカリーに買いに行ったあんぱんとメロンパン、それにレーズンブレッド。レーズンブレッドはトーストしてバターを塗るのが好きだ、って言ってたから、そうしよう。飲み物は牛乳たっぷりのカフェオレかな。
台所の隅の買い物袋からパンを取り出して、なんだか不思議な気分になる。このパンを二人で選んでいる時には、まさかその夜が、いつか話した『いつか』になるなんて、全く想像していなかった。思わず迎えたこの朝に、一緒に選んでおいた朝ごはんを支度できることがうれしい。もしこれが自力でなんとかとなると、食パンを焼いてジャムを塗るのがせいぜいだったところだ。
椎の実ブレンドを淹れてカフェオレを作って、レーズンブレッドをトースターに入れて。戸を開けたままの寝室に首を伸ばしてみれば、永浦さんがもぞりと動いている。起こしてもまぁ大丈夫かな。あぁ、そして森林組合に売りつけられた矢羽板の大きなトレイが役に立つ時が来た。普段独り暮らしの独身男に幅50センチの盆を売りつけますかね、彼らは全く。とはいえ、永浦さんが来た時に喜ぶよ、で財布を開けた僕も大概だけど。
あんぱんとメロンパンのこれまた矢羽板の皿とレーズンブレッドバタートーストを載せた皿、カフェオレのマグふたつを載せても余裕があるトレイは、確かに『永浦さんが来た時』用で。喉乾いてるかもな、と水のペットボトルをスウェットズボンのポケットに突っ込んで、寝室へ。
書斎兼寝室に入る手前で、いつもは景色の一部になっているサメポスターが目に入る。最新研究が反映されてビジュアルの美しさも気に入ってるけど、まさかこれを壁に貼った時には、このポスターの情報が最後の一押しになるだなんて、想像もしてなかった。永浦さんが、『目の前から先生がいなくなっちゃうのやだって思ってる』と言ってくれた時にはずんだまんじゅうが、『それが今日じゃないのはやだな』と伝えてくれた時にはサメが、僕たちの間にあって。この朝を迎えているのが宮城県北の地であることが、なんだかそれも、かくあれかしということだろうか、とは感傷に浸りすぎか。
一度、トレイをデスクに置いて、ベットのそばへ。口許がむぎゅむぎゅと動いている永浦さんの覚醒の気配を確認して、とんとんと肩をたたいてみる。
「永浦さん、おはよう」
んんっと声が漏れて、うっすらと永浦さんの目が開く。
「あ、せんせ…」
あふっと小さなあくびと共に僕を呼んで、永浦さんがふわりと「おはよう」と言う。
「おはようございます」
改めて朝の挨拶をすると、ぱちっと永浦さんの目が開いた。
覚醒のレベルが一段上がったようで、まじまじと僕の顔を見たあと、ぱっと頬に朱を散らした永浦さんが、両手でブランケットを鼻まで引き上げる。上目遣いで、ものすごく照れくさそうに「おはよございます」って言ってる永浦さんは、きっと昨夜のことを思い出していて。あぁ、もう破壊的にかわいくてたまらない。
そっと永浦さんの頭を撫でつつ、「体調はどうですか?」と聞くと、うーん、と首を傾げてみせる様子もまたかわいい。ポケットからペットボトルを取り出して、水を飲むか聞いてみると、こくりと頷く。起き上がって、一口水を飲んだ永浦さんが、何かに気づいた顔でベッド脇に立ったままの僕をまた見上げた。
「あの、腰が、なんか違和感あって…」
…ですよね。永浦さんが、あれ、なんでだろって顔してるけど、いやもう、理由はひとつで。ハイ、すみません。
「やっぱり昨夜には出てなかった部分の疲労だと思うので、今日は無理しないでください」
僕の言葉に、永浦さんが頷くけど、どこまで分かってるかな。やっぱり、相応には身体に疲労は出てしまっていて。負担すぎないと良いのだけど。でも、こういうものなんですね、ってなんだか納得してる様子の永浦さんはとても永浦さんらしいな、とも思う。
「あの、朝ごはん簡単だけど用意したので、食べますか?」
僕が聞くと、買っといたパンですよね、食べます!と色気より食い気な笑顔で、それになんだか安心する。ベッドを降りようとするので、それを制して、僕と永浦さんの枕二つをベッドボードに重ねて並べてポンポンと叩いてみせる。ここに座って、と疑問顔の永浦さんにいうと、永浦さんがもぞもぞと体をずらしてそこにもたれて座ろうとするのを見届けて、デスクの上のトレイを取りに行く。
トレイを持ってベッドに戻ると、永浦さんの顔がぱぁっと明るくなった。
「わ!すごい!大きな矢羽板のトレイですね!え、ここで朝ごはん?」
複数の要素でわくわくした顔になって身を乗り出す永浦さんの楽しそうな様子に、僕も思わず笑顔になる。
壁側に座っている永浦さんの手前にトレイを置いて、僕は適当にその向かい側に。永浦さんがわくわくした顔のまま、矢羽板のトレイとお皿を指さす。
「これ、森林組合の新製品ですよね。先生買ってくれたんですね」
とてもうれしそうな永浦さんに、あえてしかめっ面をしてみせる。
「買ったというか、売りつけられたというか、ですね」
僕のしかめっ面の意図を汲んだ永浦さんが、くすくすと笑う。永浦さんを挟んでの森林組合と僕の関係はなかなか複雑で、でもまぁそれもまんざらでもないとも思う。カフェオレをどうぞ、と色違いのお揃いのマグを渡すと、ふわりとほほ笑んで受け取ってくれる。
ベッドの上で、なんていつもはしないお行儀だけど、かちり、とマグを合わせて乾杯をするのはいつも通り。マグに口をつけて、ほっとしている様子の永浦さんがまたかわいい。カフェオレを飲みながらトレイを覗き込んで、レーズンブレッドをトーストしてくれたんですね、と嬉しそうだ。
「バタートーストにするとおいしいって言ってたからやってみたんだけど」
うまく意図通りにできたかな、と首筋をかきつつ言うと、美味しそうです、と永浦さんが早速手を伸ばしてくれる。皿でパンくずを受けながら、サクリじゅわりとレーズンバタートーストをかじると、満面の笑みで。ばっちりおいしいです、と幸せそうで、こっちも幸せになる。真似して同じに食べると、確かにレーズンの甘みとバターの塩気のバランスがとても美味しい。うまいね、と僕が笑うと、なんだか永浦さんは得意げな顔。
あんぱんとメロンパンは分けっこしたいです!と永浦さんが言うので、まずはあんぱんを慎重に二つに割る。その僕の慎重な様子を永浦さんが笑うけど、そこはやっぱりちゃんとしたいじゃないですか。
まぁまずまずに割れたかな、という左右のあんぱんをさしだして、どっちがいい?と選んでもらう。ほんとに瓜二つに割れてるって笑いながら、永浦さんは僕の右手のあんぱんをもってった。ベーカリーが近隣の和菓子屋から仕入れているというこしあんがたっぷり入ったあんぱんは、パンの塩気とこしあんのバランスがこれもうまい。
「大学病院時代はよく食べてたけど、こっちに来てからは久しぶりだ」
僕が漏らすと、永浦さんがそうなんだ、と頷く。
「やっぱり食べやすかったから?」
「そうですねぇ。とりあえず買ってとりあえず片手で食べるには便利な」
「そういう理由だけだとしたらあんぱんがなんだか不憫」
「でも、こうしてここで食べてるとしみじみうまいものだなって」
僕が笑うと、永浦さんも笑って、ふと僕の方に手を伸ばしてきた。僕が固まっていると、口許についてしまっていたらしいこしあんをそっと拭って。一瞬の逡巡を見せたかと思うと、それをぱくっと自分の口に入れてしまった。自分でも大胆なことをしてしまったぞ、という顔をしている永浦さんのかわいいこと、かわいいこと。
それを紛らわすように残りのあんぱんを口に詰め込むと、口いっぱいにあんぱんが入った僕を永浦さんがくすくすとみてる。マグを両手に持って、ブランケットごしに曲げた膝の上にのせて、ゆったりとうれしそうに。
「私、きっとこの朝ごはんの事、ずっと覚えてます。ずっと」
はにかんでつぶやくように紡がれる言葉が、僕の心をふわりと覆う。
「うん、僕も。ずっと覚えてる」
そう伝えると、うん、って嬉しそうに頷いてくれて。
ずいっと身を乗り出して、触れるだけのキスを贈れば、答えのように永浦さんも軽やかなキスを返してくれて。うん、本当にこの日のことは絶対に忘れないと思う。
そうやってとってもいい雰囲気になったのに、続けて僕が割ったメロンパンが、ビスケット生地の大半が片方のブリオッシュに残るという事態になり、永浦さんが笑い転げて、今度こそ僕がチベスナ顔。
この朝の思い出が残念なメロンパンだけになっちゃったらどうしよ、って永浦さんが笑うけど、それも全部まるっと僕が一生覚えておきます、とはひとまず心の中だけに仕舞っておいたのだった。