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    ずっと有効な『約束』【ずっと有効な『約束』(サメのしりとり・これからの)】

    百音がもってきた映画を見終わった二人は、しばしその余韻に浸ってクッションを敷いた床の上で過ごしている。菅波の膝の間にもたれるように座っていた百音が泣きそうになっているのを、自身も目を潤ませた菅波が、ぽんぽんと百音の前に回した腕で慰めている。菅波が百音の肩に顔をのせ、だいじょぶ?と覗き込むと、目じりに一滴の涙を溜めた百音がこくりと頷く。そっとその涙を拭ってやると、百音はその指に心地よさそうに顔を寄せる。

    そうして過ごしていると、ふと、菅波にもたれていた百音のお腹がくぅくぅと音をたてた。百音が頬を染め、その様子に菅波の口許が緩む。気づけばすっかり夕方になっていた。傍らに置いていた矢羽板のトレイを押しやった菅波が立ち上がって百音に手をのべると、百音もその手を取って立ち上がった。頬に手を添えられて、菅波に顔を覗き込まれた百音は、その腰に両手を回してむぎゅっとハグをしたまま自分の額を菅波のシャツに寄せて顔を隠した。その甘えた仕草が菅波にはたまらなく、またしばし背中をぽんぽんと撫でていると、菅波の腹もぐぅと音を立てた。

    その音に百音がくすりと笑ったところで、菅波が提案をする。
    「晩ごはんにインドカレーを食べに行きませんか?」
    菅波に腕を回したまま、百音が顔をあげる。
    「インドカレー?」
    「うん。面白い立地にあるお店がおいしいってこの間教わったんです。なぜかパチンコ屋の敷地の一角にあるらしくて」
    「行って見たい!」
    「じゃあ、いきますか」

    簡単に出かける支度を済ませて、菅波の運転で目的地へ。短いドライブの間、二人はぽつぽつと映画の感想を語り合う。実在の呼吸器系の指定難病患者だった20代女性が紡いだ物語とあって、それぞれの立場での思いが深い。ここ数年で、内科的治療法が飛躍的に発展したんだけど、あの頃はまだなかったしなぁ、と菅波がしみじみ言うと、百音がそうなんだ、頷く。ご両親が肺移植を考えないかってなるのも、本人がそれを考えられないのも、どっちも分かりますよねぇ、という百音の言葉に、たったひとつの正解というものはないですからね、と菅波も同意する。

    作中に美しく描かれていた四季の描写を振り返りながら、菅波の運転する車はナビ通りに幹線道路から少し離れたパチンコ屋の駐車場に着いた。郊外故のだだっ広い駐車場の端から、二人で手を繋いで煌々と電飾の輝くパチンコ屋を目指すと、かくしてパチンコ屋の入り口の手前に、簡易なつくりの建物があり、そこにはインドカレー店を示す表示と装飾が。不思議なところにありますねぇ、と百音がその簡素な建物とパチンコ屋を見比べ、菅波も、ねぇ、と頷く。

    幸い、2人掛けのテーブル席が空いていたのですぐに入ることができ、二人でメニューを相談する。ほうれん草とひき肉のカレーは百音の、マトンとトマトのカレーは菅波のチョイスで、後はナンとサラダとチキンティッカ。ラッシー飲みますか?と外国人店員に聞かれた百音が「はい!」と即答な様子が菅波にはかわいらしい。ラッシーも二つオーダーすれば、それは早々に運ばれてきて。

    ラッシーの冷たさと甘さにリフレッシュを覚えながら、また二人は映画の話に戻る。主人公とそのパートナー、またその二人を取り巻く友人や家族それぞれの立場に目線を置きながら感想や意見を述べると、あるところでは二人の考えが完全一致し、またあるところでは全く違った観点に驚かされ。驚きながらも、あぁこの人なら確かに、と思える違いに、温かいものを覚えつつ。

    テーブルに届いたナンの大きさに百音が華やいだ声をあげ、さっそくちぎろうとした菅波がその熱さに情けない顔に。猫舌だけじゃなくて猫指って言葉もあるんですかねぇと百音が笑うと、そもそも猫舌も医学用語にないですからね、と菅波がスネた顔をしてみせる。

    くすくすと楽しそうに、百音がちぎり分けたナンを菅波に差し出し、ありがとうと受け取ろうとすると指が触れ合った。すっかり二人で慣れた外食なのに、ふとしたふれあいに二人の顔が染まるのは昨日の今日だからか。あぁあ、段々冷めてくると思いますから、先生、あとは自分でお好きにちぎってくださいね、と百音がわたわたとするので、菅波は少し冷静さを取り戻して頷く。

    二種類のカレーや副菜を分け合いっこして満足な夕食を終えた二人が店の外に出ると、夕焼けの名残が低いビル越しに暮れるほどの宵が迫っていた。電灯の少ない薄闇の中を手を繋いで駐車場を歩いて戻る。おいしかったですねぇ、おいしかったけどどうしてあの立地なんでしょう、さあねぇ、と他愛のない会話でふらりと歩く時間もいとおしい。車に乗り込んで菅波がエンジンをかけたところで、百音が明日の朝食にするものがないことに気づき、じゃあ道むこうのコンビニに寄りますか、という算段がつく。

    コンビニで牛乳と卵、食パンを買って、フレンチトーストか、トーストに卵料理かどっちにしましょっかねぇ、と百音が楽しそうに思案するのを菅波もうれしく見守りながら、家路に。車中、ふと菅波が今日見た映画の主題歌に言及し、全人類から10分ずつ寿命をもらってあなたに埋め込みたいって、言ってたけど、75億人以上から10分ずつもらったら数百万年になっちゃうよなぁ、とつぶやく。百音が、何言ってんですか、と笑いながらスマホを取り出して電卓アプリを立ち上げて計算してみようとすると、入力可能な桁が1億までしかなく、あぁ、計算できない、と言うのに、そしたら、7.5億だとして6で割って一時間単位にして、それを2.4で割れば日数になって…と菅波が横から口をはさむ。えっと、そうなんだけど…と百音があたふたとキーを叩いているうちに、車は菅波のアパートの駐車場に着いた。

    あー、落ち着いて計算できなかった!と嘆く百音に、まぁいいじゃないですか、と菅波が笑って頭を撫でると、そーですけど、とちょっとふくれて見せる百音がかわいい。車を降りて、アパートまでの少しの距離も百音がついっと菅波と手を繋ぐ。僕は、数百万年生きるよりあなたと丁度の時間をすごしたいなぁ、と菅波が呟くと、百音もそうですねぇ、と頷く。あの歌詞の続きのくだり、いいなって思いました、という百音にどんなのだっけ、と菅波は疑問顔。

    全人類から10分、で思考がそっちに飛んだんだな、と笑いながら、百音が『僕の残りの命を二等分して、かたっぽあなたに』って、と言うと、菅波があぁ、と頷く。でも、残される側はそう思っても、残す側は相手のそれをもらうのは、とも思うよねぇ、と菅波がうーむ、と応えると、百音は、でもそのかわり、『そしたら「せーの」で来世に乗れる』んですよ?とそれはそれで悪くないという顔。

    お互い今は健康体だけど、この人はどこまで自覚してこれを言ってますかね、と、すでに百音との先々のことをひそかに心に決めつつ、一定の年齢差のことも頭をよぎらざるを得ない菅波には、百音のまっすぐさが眩しい。

    駐車場一番端からアパートまでの距離など大したことなく、ドアの前に着いて会話が途切れる。菅波が鍵を取り出すのに、提げていたコンビニ袋をさりげなく百音が受け取る。菅波がチノパンのポケットに手を突っ込みつつ、全く別の話題で口を開いた。

    「明日は、帰る前に老柳の方に行ってみたいって言ってましたよね。今日は早く寝ましょう」
    「…えっ?」

    チノパンのポケットをひっくり返して木のサメのキーホルダーを取り出した菅波の動作が、百音の一言で一瞬止まる。片手にコンビニ袋を提げる百音のもう片方の手は自分のチェックシャツの裾をつまんでいて、その一言が含んだ意味に気づいた菅波は、チャリンとキーホルダーを手から落とした。

    「えっ」
    「あっ」

    百音がぱっとチェックシャツの裾から手を離して、耳元を赤く染める。硬直したままの菅波に代わって落ちたキーホルダーを拾うと、菅波も我に返ってそれを受け取った。キーホルダーを持ったままの手で、せわしなく口許や鼻をこする菅波を、せんせ?と百音が見上げる。

    「あぁ、えと、とりあえず中に、なかに入りましょう」

    解錠したドアを開けて百音を誘う。あ、はい、と百音が入って靴を脱ぎ、菅波も後に続いて施錠する。菅波が自分も靴を脱ごうと体の向きを変えると、上がり框に立った百音と目が合った。アパートの簡易な上がり框でも、三和土に立つ菅波との身長差はぐっと縮まる。菅波がくすりと笑って百音の右頬を左手で撫でると、百音は、あの、これ、冷蔵庫に入れてきますね、と台所の方にパタパタと去る。その姿を見送って靴を脱いだ菅波は先に洗面所で手洗いとうがいを済ませ、ざっと風呂桶を流して風呂のスイッチを入れた。入れ違いで百音が洗面所に来たので場所を譲り、自分はどさりとダイニングの椅子に腰を下ろした。

    明日、百音は午後には新幹線に乗って東京に戻り、その翌早朝には出勤する。決して単なる成り行きではなく、二人の意志を一致させて迎えた昨日の夜はかけがえのない時間だった。それでも百音にとって初めて尽くしの慣れないことであることは事実で、大事な仕事を控える身に無理はさせたくないし、わずかなりとも新しい関わり方にマイナスの印象が残るのは今後のためにも避けたいという自己保身もある。今日は今までのように普通に寝るのが良かろうと思っていたが、先ほどの百音の言葉の真意は。しかし、もし百音の真意が自分が汲んだ通りのところにあったとして、それを無批判に受け入れたものかという点は残る。いや、もちろん今後、百音が慣れてくればまた話は別だろうが、ともかく昨日の今日は、とも思っていたし、それを歯止めるべきは己だろう。

    膝の間で指先をあわせてつらつらと考え事をしていると、ふとその手元に影が落ちた。見上げると、外食に出るのにまとめていた髪を降ろした百音が立っていた。口許をむにむにとさせた百音は、ひょいっとその前にしゃがんで菅波を見上げた。

    「せんせ?」
    洗面所からリビングに戻った時、何かをいろいろと考えているその様子がとても菅波らしい、と見上げる百音はしばし手すさびを続ける菅波の手にそっと自分の手をかけ、菅波の言葉を待つ。菅波はその百音をじっと見つめて、意を決して口を開いた。

    「今日いちにち、体調はどうでしたか?言いそびれた不調があれば教えてほしいです」
    その真摯な物言いに、百音はそっと首を横に振った。実際、午前中こそ体が慣れない感じもあったが、今日一日をのんびりと過ごして特に支障はなく、不調かといわれるとそうとは言い難いほどには普通だったと思う。そう伝えると、菅波はホッとした表情で百音の手に自分の手を重ねた。

    「あなたに著しい負担がなくてよかった。やっぱり、そればかりは僕では測り兼ねることばかりで」
    どこまでも自分のことを気遣う菅波のことは信頼しつつ、自分はそこまでひ弱じゃないのにな、などと思ってしまうのは百音の若さ故か。

    「さっきも言った通り、明日は永浦さんは東京まで戻らないといけないし、その夜からは普通に仕事でしょう。だから、これからはいつも通り過ごすのがいいのだろうなと。とりあえず風呂沸いたら入ってください」
    その言葉と同時に、『夢を見ているところ』のメロディと風呂の準備が整ったことを知らせる音声が鳴った。それを聞いた菅波がぽんぽんと促すように重ねた手をやさしくたたくと、百音がついと立ち上がった。手は触れ合ったままで菅波を見下ろしている。何やら首をかしげて考えている様子に、菅波はそれをそっと見つめる。

    「えっと…。はい、とりあえずお風呂入ってきます」
    何かを心に決めた様子の百音が、はい、と頷いて、触れている手に一度きゅっと力を入れて離し、書斎兼寝室の片隅に置いている自分の荷物に着替えを取りに行く。ごゆっくり、と菅波に言われ、着替えを抱えた百音は洗面脱衣所に入った。

    今日は全然汗かいてないし、早く上がりたいし、と髪をクリップとヘアバンドでまとめて浴室へ。顔と体を手早く洗ってざぶんと湯に浸かった百音は、しばし膝を抱いて思考する。先生は、自分のことを第一に慮っていつも通りに過ごそうって言ってくれてるのはよく分かるし、自分も普通に考えたらそれが一番無難だと思う。だけど、昨日、『いつか』の目安にやっと気が付いて、ずっと待っていてくれた先生の腕に飛び込んで。迎えたあの時間は確かに甘やかなことばかりじゃなかったけど、大切な、そう、なにかとっても新しくて大切な時間だった。

    あの時間が何だったのか、もう一度、先生と自分で確かめることができるなら、そうしたい気持ちを否定できない。まさか、自分がこう思うだなんて思ってもいなかったけど、これも、『いつか』が来るまで辛抱強く待ってくれてたから、すっかり先生に触れることには慣れちゃったからなんだろうとも思うと、先生には責任とってもらわなくちゃいけない気もする、とそこまで思考して、百音は自分の考えにひとりでくすりと笑った。なんて自分は変わったんだろうと思うし、その変化はいいものだとも思う。先生もお風呂から出たらちゃんと話をしよう、でも、それでも先生の気持ちが変わらなかったら、それはちゃんと聞き分けよう、とそこまで考えて、百音はさぶりと湯から立ち上がった。

    百音と入れ替わりに風呂に行った菅波は、やはり烏の行水である。百音がスキンケアを終えるかというところで、もう髪を拭きながら上がってくる。その様子に、百音はいつも通りだ、と笑いながら、洗面所にドライヤーを取りに行く。ダイニングの椅子に菅波を座らせて、そのくせっ毛に指を滑らせて髪を乾かす。後ろからでも菅波がリラックスしていることが感じられて、自分が紙を乾かすことで菅波がそうなっていることが百音にはうれしい。短い髪がふわふわに乾くとまるで子犬のようで、楽しくなった百音がくしゃりとその髪をめでると、菅波が嬉しそうに百音を振り仰いで礼を言った。

    どういたしまして、と笑い、ドライヤーを片付けようとコードをまとめて洗面所に向かおうとする百音の手を、菅波が掴む。ふっと百音が振り返ると、見上げる菅波のまなざしがまっすぐに百音の瞳を射抜いた。百音が菅波に向き合うと、菅波は百音の手からそっとドライヤーを取り上げてテーブルに置き、百音の両手をそっと自分の両手で包んだ。椅子に座った姿勢で百音を見上げた菅波はわずかに首をかしげてみせる。

    「風呂でちょっと反省してたんです」
    「はんせい?」
    「さっきは、僕の考えを永浦さんに伝えるばかりで、永浦さんが何を考えて、何を思っていたのか聞いていなかった、と」

    あの烏の行水でそんなことを考える時間が?ともおもしろくなるが、おそらく百音が風呂を使っているときから考えていたのだろう。まぁ、それはそう、かな、と百音がためらいつつこくりと頷いてみせると、忠実な大型犬のように百音を見上げる菅波が、だから、永浦さんが何を考えて、何を思っていたのか、教えてくれますか?と問う。百音はその言葉に背中を押されて、包まれた両手の温かさを感じながら口を開いた。

    「その、先生が私の身体や仕事のことを気遣ってくれているのはよく分かってるんです。私も、普通に考えたらそれが一番無難だと思うし」
    風呂で考えていたことを訥々と言葉にすると、菅波はうなずきながら黙って聞いている。
    「でも、えっと、昨日、『いつか』の目安にやっと気が付いて、先生との新しい時間を過ごして、あれはとっても、とっても大切な時間だったな、って、そうも思うんです」
    百音が、あの時間を『とっても大切な』と言ったことに、菅波の目許が緩む。目の前のこの人がそう感じてくれているなら、それはなによりうれしいことで。

    「だから、そのぅ、あの時間が何だったのか、もう一度、先生と私とで確かめられたらいいなぁ、とも…思う…んです」
    最後の語尾は消え入りそうに、でも何とか言い切った百音の耳元は赤く染まっている。言われた菅波も、百音の言葉を脳が処理するのに普段より時間がかかり、すぐの応答がない。しばし二人で手を繋いだまま、時間が流れる。その硬直を解いたのは百音だった。包まれていた手のひらから両手を抜き、先ほど自分が乾かしたくせっ毛に両手を滑らせた百音は、菅波の後頭部を捕らえたかと思うとキスを落とす。

    まだ、ぎこちなさはあるが、昨夜にたくさん教わったようなキスを。百音の舌をそっと口腔に迎えた菅波は、硬口蓋をなぞられてその気持ちよさに眉根を寄せた。浮いた両手を百音の腰に添えて、気持ちのこもったくちづけを受け止める。百音の舌が歯列を掠めて唇が離れると、二人ともふっと息をついた。大胆なことをしてしまった、と耳元ばかりでなく目元まで赤く染めてはにかむ百音のかわいさが菅波に眩しい。左手は百音の腰に添えたまま、菅波は右手をそっと百音の頬に添えた。

    「あの、いつも通りに過ごそうって言うのは、あなたの心身の負担と仕事のことを考えてというのが勿論第一で」
    菅波の言葉に、その首に両手を回したままの百音がこくりと頷く。さり、と親指で百音の頬を撫でて話を続ける菅波に、百音も耳を傾け続ける。

    「あとは僕の自己保身なんです」
    「じこほしん?」
    「永浦さんに無理をさせないっていう、かっこつけと、やせがまん、かな」
    言葉の終わりに、菅波はぽんぽんと百音の腰と頬を撫でて両手をひっこめた。そのひっこめた両手を、今度は百音の両手が包み込む。

    「先生が私にかっこつけして、やせがまんしてる、って初めて知りました」
    「僕はいつだって、あなたにかっこつけたいと思ってるし、やせがまんもその一部ですよ」
    嬉しそうに言う百音に、菅波は照れくさそうに言う。
    両手を捕まえられていて口許を隠せない菅波が、ふいっと口をとがらせ、その少し子供っぽい様子に百音がくすりと笑った。

    「いつだって、先生のことはかっこいいな、って思ってますよ」
    そう言って、うーん、と百音がしばし何かを考えている様子を、菅波はじっと待つ。

    「先生が、やっぱり今日は違う、って言うんだったら、それはちゃんと聞き分けようって思ってたんです。私と先生、ふたりのことだから」
    こくり、と無言でうなずいて、菅波は百音の言葉に耳を傾け続ける。
    「だから、その、私は昨日今日って過ごして、あ、意外とだいじょぶって思ったけど、後の理由が先生の気持ちなんだとしたら、それは大事にしたいな、とも思います」

    ちゃんと話して、ちゃんと聞いて、をあの春の川辺からずっと大切にしてきたふたりは、そっと手を重ねたまま、しばし向き合う。座ったまま百音を見上げた菅波が、そっと手を引いて自分の片膝に百音を座らせた。

    「ひとつ、伝えておきたいことがあるんです」
    「なんでしょう?」
    「昨日、『約束』をしたの覚えてる?」
    それを聞いて、百音はこくりと頷く。

    「あれは、昨日だけじゃなくて、今日もずっとこれからも有効だってことです。何があっても」
    菅波の言葉に、もう一度百音は深くこくりと頷く。
    こうして『約束』のことを何度でも伝えてくれる菅波だから、だいじょぶだと自分は思っているのだ、とどうしたら伝わるだろう、と思いながら。

    「あ、あと」
    「なんでしょう?」
    それにしてもあれこれあるなぁ、と内心面白く笑いながら、百音が聞くと、おそるおそるという顔で菅波が言う。
    「明日、朝寝坊や体調次第で、午前中に老柳に行きたいって言ってたのが行けないかも、なんだけど…」

    とても生真面目に明日の予定を気にする菅波に、百音は胸の内にあたたかいものと、一抹のおかしさが同時にじわじわと広がるのを感じた。百音が東京に戻る日には、菅波の家から新幹線駅に直行するのではなく、どこかへのお出かけを合わせることで家をでる淋しさを紛らわせるのが通例になっている。そのお出かけの候補地が今回は老柳なだけで、絶対に今回行かねばならない場所ではないのである。そのことは菅波も分かっているはずなのに。それでも。

    「老柳は逃げませんから」
    と百音が笑うと、菅波も安心したようにふにゃりと笑い、その安心した様子が百音にはかわいくうつる。

    ふと崩した相好を元に戻して、菅波が百音をすくいあげるように見つめる。その視線に、昨日の夜に交わした情火の片鱗を見つけた百音は、繋いだ手にきゅっと力を込めた。まだやはり羞恥も戸惑いも大きい。でも、それでも、と思う気持ちの方がやっぱり大きい。そんな複雑な気持ちを、おそらく汲み取った菅波が、そっとその手の甲を自分の親指で撫でた。そのやさしさに、百音の頬が緩む。

    「あなたが、こうして今日、次を考えてくれるなんて想像もしてなかった」
    全く想像を軽くこえていくんだから、あなたは、とまるで百音の理解が足りてなかった、と自嘲するように笑う菅波に、百音はその頬に手をそえて、いたずらっこのように笑ってみせる。

    「だって、先生が『いつか』までちゃんと待ってくれたから」
    そうしてむにっと頬を引っ張って。
    「だから、先生のせいです」
    責任とってください、とでもいうように目を覗き込んで笑いかける百音に、もう本当にかなわない、と菅波は笑わざるを得ない。

    「はい」
    と菅波が頷くと、百音がくすりと笑う。

    菅波の膝から降りて前に立った百音がいざない、立ち上がった菅波にぎゅっと抱き着いて、耳元でささやく。
    「先生のこと、ちゃんと覚えて帰るから、先生にも私のことちゃんと覚えてもらいたい」
    ぎゅっと抱擁を返して、「はい」と返事をする菅波も、二人とも頬が朱に染まり。

    パチンと菅波がリビングダイニングの照明を落とせば、部屋に薄闇が広がる。
    書斎兼寝室までのわずかな距離を手を繋いでとことこと。お互いの手の熱は、これまで親しんだ熱と昨日と今日でやっとたどり着いた熱とが混ざり合ったもので。ベッドに並んで腰かけた二人は、また新しい時間を重ねることを言祝ぐように繋いでいた手をそっと広げて重ね合わせて、そっとくちづけを交わすのだった。
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    2023/05/03 19:18:44

    ずっと有効な『約束』

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