フユゴナコール?【フユゴナコール?】
隔週で『とよま診療所』に勤務する菅波光太朗が、診療所勤務に加えて訪問診療も手掛けるようになってしばし。当初は中村にしてやられた形で手掛けるようになった訪問診療だが、手掛けていくうちに、単に『診療所が出向いている』だけではない、と言うことが、段々と分かってきている。
病院や診療所では、ある程度、対処の型が決まっている面があるが、患者の生活の場においては同一の例はなく、すべて個別対応になる。生活全般が見えることで、疾患が慢性化した理由が分かることもあれば、早期の治療につなげられることもある。患者と同居する家族の状況も把握した上で、治療方針を決め、生活が見えることで具体化できる予防もある。また、同居の家族とも一定周期で顔を合わせるため、その人たちの健康状況も把握でき、必要に応じた検査や受診も勧められる。中村がやろうとしていることの片鱗を垣間見つつ、菅波は新しくなった登米での勤務形態に馴染んできた。
並行して、『とよま診療所』の入る登米夢想に併設の『米麻町森林組合』の職員である永浦百音との勉強会も続いている。気象予報士を目指す百音の勉強の進捗は、現業もあってなかなか理想通りとはいかないが、本人の意志と菅波のサポートで、勉強することそのものは途切れることもなく。その日も、訪問診療から診療所に戻り、残務を片付けた後は、『カフェ椎の実』で勉強会の予定だった。
最後の訪問先の診療を終え、帰り支度をしていたところで、同行の看護師のスマホが鳴った。スマホに出た看護師は、眉根を寄せて通話先と会話を交わし、菅波を見た。
「阿部さんとこのおじいちゃん、いつもと違う胸の痛みを訴えていて、10分ほど症状が続いているけどどうしたらよいか、と」
狭心症の経過観察をしている患者の同居人から入った連絡に、菅波が眉を寄せる。従来服用していたニフェジピンから、リシノプリルに変更して様子を見ていたところであり、様子が気にかかる。患者宅はここから車で5分ほど。菅波は、看護師に、これから伺いますと伝えてください、と頷き、看護師がこれから行きますね、とスマホで返事して通話を終えた。
菅波が残りの荷物を片付けにかかると、看護師は、先に車で次の用意しておきます、と玄関に向かう。お願いします、とその姿を見送って、ふと壁の時計が目に入った。おそらく診療所に戻る予定は最大で1時間ほど後ろにずれる。そのことは永浦さんに伝えないと、とチノパンのポケットに手をやって、スマホを車に置いたままなことに気づいた。
「あ、スマホ」
と漏れた独り言を、訪問先の家人が耳ざとく聞きつけた。
「先生、どこかにお電話ですか?」
看護師とのやり取りで予定外の訪問が増えた流れで、菅波の行動に推測が付いたようだ。
「ええ。勤務先の隣の森林組合に出入りの予定変更を伝えようかと。車にあるはずなので後でかけます」
「よかったらそこの電話使ってください。短縮の1で森林組合につながりますし」
すぐ隣にある電話を指し示され、運転前後に連絡で気を取られるよりはいいか、と申し出に甘えることにする。すみません、お借りします、と頭をさげ、並ぶ短縮ダイヤルボタンの1を押すと数コールで応答があった。
『はい、森林組合です』
電話の向こうの男性、菅波は早口で伝言を託す。
『菅波です。急患の連絡があったので予定の時間に1時間ほど遅れると永浦さんに伝言お願いします。では』
早々に電話を切って、電話を借りた礼を述べつつ、お大事に、と訪問先を辞する。車の出発の準備はすでに看護師が整えていて、運転席に乗り込んだ菅波は急ぎながらの安全運転で急患宅に向かうのだった。
幸い、阿部さんとこのおじいちゃんは、症状の一時的な悪化は見られたものの菅波たちが駆け付けた頃には症状が納まっており、可能な範囲の検査をした限りでも病院への搬送は不要という判断で訪問を終えた。電話で連絡した通り、予定より1時間遅れて登米夢想に戻った菅波は、訪問診療後の残務を片づけて、予報士試験テキストとノート、論文、ペンケースを持って椎の実に向かう。
椎の実のガラス戸越しに、百音の勉強する後ろ姿を目にした菅波は「遅くなりました」と言いながら、戸を開けた。ぱっとノートから顔をあげた百音が笑顔で振り返る。
「先生、お疲れ様です。遅かったですね」
「すみません、帰り際に急患の連絡があって」
「いえいえ、お仕事ですから。連絡入れづらいタイミングだったんだろなと思って、自習してました」
百音の言葉に、いつもの席に腰を下ろしかけた菅波が怪訝な顔をする。
「あれ、伝言受け取ってませんか。一時間ほど遅れると森林組合に電話して伝言を頼んだんですが」
「組合に?」
「ちょうどスマホを持ってなくて。訪問先の家電を貸してもらいました」
「ナルホド。うーん、伝言、伝え漏れかもですね。どなたに伝えました?」
「あー、誰だったかな。急いで言うだけいって切ってしまったから、それがよくなかったかも」
菅波がこめかみをかくと、忙しいところお手間おかけしました、と百音が頭を下げる。まぁ、こうして先生ついてるんだし、いいじゃないですか、と百音が話しを区切り、さっき解いてた問題でここが分からなくて…とノートと問題集を差し出せば、モードはすぐに勉強会に切り替わる。伝言が伝わらなかったことは、その日の勉強会が終わるころにはすっかり二人の意識から抜け落ちていたのだった。
翌日。通常通りに診療所に出勤、のち訪問診療に出た菅波は、ほうぼうの訪問先で頭をかしげる事態に遭遇した。カノジョさんお元気ですか、や、カノジョさんにもよろしく、だの、明らかに三人称ではなく一般的に交際関係にある存在を示唆するイントネーションのほうのそれが訪問先のあいさつや雑談に頻出するのである。
30前の独身と知れている男性に対する社交辞令がはしかのように広がっているのか、と菅波はあいまいにいなして返事をしてみたが、これが5件目で同様にリピートされるとなるとさすがに問うてみないわけにはいかない。
「あの、すみません。前のお宅でも、僕に『カノジョ』がどうとか言われたんですが、なにかありましたか?」
その問いに、何を異なことを、という顔で訪問先の家人が答える。
「え、だって、菅波先生、お付き合いされてるんでしょう、新田さんとこの永浦さんと」
「…はい?」
その答えに菅波が我が耳を疑っているうちに、家人が話を続ける。
「昨日、デートの待ち合わせ遅れるからって電話してた、って森林組合のトラさんが言ってましたよ。すぐ切れたし間違い電話かと思ったけど、菅波も永浦も名前も後から思い出した、って。若いっていいねぇ、って」
「え?間違い電話?いや、でも森林組合の…」
「まぁまぁ、ねぇ、いいじゃないですか。お若い方のそういう話を聞いたらこっちも気持ちが若返りますよ」
まったく菅波本人の言葉など聞かずに家人は患者の居室までしゃべり通しなのだった。登米夢想に菅波が戻ると、待っていたかのごとくに、というか待っていたのだろうが、森林組合の佐々木達が顔を出した。
「菅波先生、とうとうなんだって!」
「おめでとう!」
口々に言われ、菅波は慣れた面々にチベスナ顔である。
「あの、それ、さっきも訪問先で言われたんですけど、なんなんですか」
「いや、だから。トラさんから聞いたのよ。菅波先生がナガウラさんに逢引きの時間の連絡してたって」
川久保の言葉に、さらに菅波のチベスナ度が上がる。
「あの、その、トラさんって、どなたですか。もちろん熊谷さんなら知ってますが…」
さっきも訪問先で当たり前のように出てきた名前を問いただすと、そりゃアンタ、というような当たり前の顔で佐々木が言う。
「おとなりの、かぬま森林組合のトラさんでしょ」
「…かぬま?」
ますます菅波の眉間のシワが深くなる。そこに電話した覚えはないが…と考えを巡らせたところで、思い当たった。
「昨日、急患の連絡を受け取って、山田の佐藤さんとこで電話を借りて、内線の1が森林組合だと言われたのですが…」
「あぁ、そりゃ、かぬまになるよ。佐藤さんとこ、じいさんがかぬまの森林組合の事務長だったでしょ」
佐々木の、当たり前だ、と言う顔に、あぁあ、と菅波は頽れる心境だった。
『森林組合です』とでた電話に、気が急く中で、『どの』森林組合か、確認することを怠った。しかし、電話に出る側も、類似の事業所が多いなか、『森林組合です』だけで事足りさせるものか?固定電話に応電することはほとんどない身だが、くれぐれも自分はちゃんと名乗ろう、とまずわが身を振り返ったあと、菅波はすっくと背筋を猫背なりに伸ばして『米麻町森林組合』の面々に向き合った。
「あのですね、僕と永浦さんはなんでもありません。逢引きなんてもってのほかです。永浦さんの勉強のサポートに遅れる、という連絡を、そのトラさんという方が勘違いしただけです。僕はまだしも、そんな噂がたってしまったら永浦さんに申し訳が立ちません。トラさんにはくれぐれも勘違いである旨を知らせてください」
「えー」
「なんだよー」
「やっとこさと思ったのに」
「ケチ!」
「ケチで結構です。くれぐれも、お願いします」
言い残した菅波は、バタンと準備室の向こうに消えていく。なんだやー、と言いながらも、菅波の百音のことを考えた発言に、ほらやっぱり永浦さんのこと大事にしてるよねぇ、などと納得顔の面々である。まぁ、本人が違うというのだから、違うといっておいてやろう、と川久保はトラさんに電話をかけるが、そのトラさんから先の伝播先にどうこうする術は誰にもない。
結局、あそこの登米夢想の診療所のお医者さんと森林組合の職員が割り無い仲であるという誤解は一部地域にそのまま残り、残り続けた結果、数年後には事実の方が追い付いてくる、という局面に至ったのだった。
そして、誤電が分かった日の勉強会で、菅波から謝罪を受けた百音は、まったく気にしません、と無邪気に笑う。その時に、くれぐれも職場で電話を取って名乗る時には、職場のフルネームを述べること、と何度も念押しされた百音が、それ以降『米麻町森林組合です」と電話を取るようになり、周りの職員もそれに倣うようになった。
『森林組合』だけでよいというのに、ああして、『米麻町』まで言うってのは、よっぽどあそこの商売は手広いのかねぇ、などという噂に、サヤカはそうでございますよ、と言うような顔をしてみせるのであった。