あなたのつむじはどこですか百音が登米の菅波宅に泊まりにくるようになってしばし。医大に入学した時に菅波が適当に買った安物のドライヤーでは、百音の長い髪を乾かすには力不足ということが分かって、菅波がいいドライヤーを購入した。
それ以来、百音が泊まりにきた時は菅波が百音の髪を乾かすようになり、またその逆も然り。二人ともとりたてて口には出さないが、相手の髪を乾かす時間は密かなお気に入りの時間である。菅波は百音の髪に指を滑らせてその艶やかさを愛で、百音は胡座で座った菅波の後ろに膝立ちになって、普段は見上げるそのくせっ毛を目の前でもじゃもじゃとするのが楽しい。
その日も、菅波の烏の行水の後の濡れた頭を百音が乾かし、十分に乾いたところで百音がドライヤーのスイッチを切った。普段だと「終わりました」と百音が宣言するところだが、今日に限っては百音はその声をあげず、さっきまで髪を指ですいていた左手だけでなく、ドライヤーを持っていた右手も菅波の髪に触っている。
なにやらためつすがめつしている様子に、菅波が真上を向いた。
「どうしました?」
見上げられた百音は、菅波の髪をわしゃわしゃと撫でる。
「うーん、改めて、先生の髪ってくせっ毛だし、あちこち向きが自由だなーと思って」
見上げてくる菅波と目線を合わせようと、少し身を乗り出して百音が言うと、菅波が、あぁ、と小さく呟いた。
「昔っからこうですよ。一言で言えばくせ毛、ですよね」
「くせっ毛なのもそうなんですけど、なんだか髪が生えてるむきも自由な気がして」
「永浦さんの髪を乾かしてるとき、素直な方向に揃ってて素敵だなって思ってますよ。どうもこう、あちこちにはねて。仕事の時はある程度おさまるように撫でつけますけど」
菅波の言葉に、百音がくすりと笑う。百音が登米夢想に勤めていた頃の菅波の髪型を思い出し、あれは確かに今思えば『よそゆき』の先生だった、と思う。
「というか、先生、つむじがふたつありませんか?ここと、ここ」
菅波の髪をもじゃもじゃとしていた百音が後頭部の上の方の左右でズレた位置を二箇所指摘すると、前を向いて百音のやりたいようにやらせていた菅波が、うん、と頷いた。
「多分、三つあります。あと、このへん」
菅波が右人差し指で指し示すのは右の生え際のあたり。
「え、このへん?」
百音が頭を前に倒そうとするのに素直にその動きに菅波が従う。菅波が指し示したあたりを百音が両手で探してみるが、明確につむじ、という感じの場所はなく、他に準じてくせっ毛が生えているだけのように見える。
「うーん」
「高校生の頃かなぁ。母親に、ここにもつむじがあるって言われたんです。晩飯食べてる時に唐突に。それ以来、まぁ、これはつむじなんだな、と思ってるんですけど」
「お母様がおっしゃるならきっとつむじなんですね」
百音が笑って、菅波も、まぁそういうことにしておいてください、と笑う。と、百音がその襟足から上がったもみあげのあたりに指を滑らせた。
「と言うか、そういえばずっと気になってたんですが、先生のここの髪はどうなってるんですか?」
「え?」
「こご。この、耳ともみあげの間のこのあたり」
親指と、人差し指・中指でつままれた毛束は、乾かしたての今、ぴょこんと前を向いている。
「どうなってる…。えーと、どうなってるんだろ?なんか、これこそ昔からずっとこうですが…」
百音の問いに、どう答えたらよいかさっぱり分からない菅波である。
「この子はどうなってるのが正解なんでしょね」
「髪の向きに正解ってありますかね」
「どうなんでしょ…。うーん、でも、これ、この子がこう、撫で付けられててもみあげと一体化しちゃってたら、なんていうか、先生感がものすごーく薄れちゃう気がします」
百音がその毛束を耳の方向になでつけて、うん、やっぱりなんか、先生感が減っちゃうからこれはダメです、と断言して、またその一束を元の位置に戻す。ムム、となにやら百音が自分の髪であれこれしていることが、菅波にはなんだかじわじわと面白く、また嬉しい。
「そういえば、椎の実で勉強会してた頃から、先生の髪のここんとこ、どうなってんだろって思ってた気がします」
そんな頃にそんなところを見られていたとは、と、菅波は面映いような、と言うか、それって位置関係的には僕がホワイトボードの前に立っていた時ってことになるけど、ちゃんと話聞いてた?髪のここのとこ見てた?と、菅波は菅波で心中百面相である。
「じゃあ、これで、今日はいいと思います!」
くせっ毛を撫でていた百音が、おおよそ納得の手ぐしでのセットができたようで、両手指を襟足に滑らせて首筋から手を離す。傍らに置いていたドライヤーを取り上げてコードを束ねながら洗面所に戻しにいく百音の後ろ姿を見送った菅波は、艶やかな髪がふわりと流れるのに目を細める。
『いつか』の目安は、『あなたが僕に緊張せず何気なく触れられるようになったら』ではないかと話し合った、過ぎ去ったあの春の日。こうして僕の髪やうなじを無邪気にさわっていることに永浦さんは気づいているだろうか、と菅波は、ただただ好奇心で動いているような百音の様子にふと笑みが漏れる。
まだしばらく、菅波がそれに気づいたことは言うつもりはない。あくまで、そうだ、と百音が気づくのがきっと大事だ、と菅波は思っている。
それにしても、それはもう少し先なんだろうな、と、毛束の『この子』の正解をとにかく気にする百音の様子に菅波は改めて己を律するように顔を右手でつるりとひと撫でしたのだった。