シロナガスクジラのふもとですっかり他の来館者の気配がなくなった半地下広場吹き抜けの出口を出た百音と菅波の二人は、広場に一歩足を踏み入れて、空が深い赤に染まっていることに気がついた。ここに着いた時は、昼食をどうするかという相談をしていたことを思うと、あっという間に時間が過ぎている。
「すっかり夕暮れですね」
冬の気配をうっすらと含んだ秋風に髪を揺らして百音が笑うと、隣の菅波もそうですね、と頷いた。
「つい長居してしまいました。永浦さん、他に行きたいところとかなかったですか?」
頭をかきながら申し訳なさそうに言う菅波に、百音はぶんぶんと首を振る。
「あの、他に行きたいところとかなかったですし、その、ここでずっと楽しかったので!」
うんうんと頷いてみせる様が菅波には改めてかわいくて仕方がない。
それに、と百音が傍らに聳えるタイル張りの建物を見上げた。築90年になろうかというネオ・ルネサンス調の建物は夕陽の名残にふわりと照らされている。
「これだけ長くいたのに、まだ全部見れてません」
「それもそうですね」
「また、先生と来たいです」
屈託なく言う百音に、菅波ははにかんで頷くのが精一杯。
会期終了間際に駆け込みで二人で訪れたサメ展。会場である博物館は、サメ展といった特別展だけでなく、常設展も充実した館である。前回、サメ展に来た時にはほとんどの時間をサメ展に使って、駆け足で恐竜のエリアを見るに留まっていた。サメ展を見に行った翌週は菅波が登米勤務。週の半ばに二人が電話した折に、菅波が(もうそんな必要はないはずなのに)決死の覚悟で、週末どこか行きませんか、と誘うと、百音が、同じ博物館の常設展に行きたい、と言ったのである。
菅波にもちろん異論はないし、むしろそんなところでいいのかとも思うが、そもそも自分に『デート』の引き出しなど皆無に等しいので、じゃあ今度はゆっくり常設展を見ましょう、と初デートに続いて、2回目のデートも上野の博物館と相なったのだった。
またしても明日美に早い到着を叱られながら、それを見越して支度を整えていた百音が早々に汐見湯のリビングに姿をみせ、二人して連れ立って上野に到着すれば、開館30分前。前回来たときにライトアップされた姿を見た西郷隆盛像を、今度は朝の光の中で見上げて、そこから道を拾って公園の中を散歩しつつ。菅波が登米の人々の近況を伝えれば、それを百音が嬉しく聞く。
二人の関係性が変わったことは、この1週間ですっかり登米夢想における周知の事実。仕事以外の時間には誰彼となく声を掛けられて困った、と菅波が苦笑して見せれば、先生は人気者ですから、と百音が笑い、それは、あなたのことだからですよ、とは菅波は口には出さず、その笑顔に目を細めた。
開館と同時に入館した二人は、結局、午前中で『地球の多様な生き物たち』の1フロアしか消化せず、その展示室を見下ろす中二階のレストランで昼食を食べた後も『科学と技術の歩み/科学技術で地球を探る』のフロアでは和算の算盤・算木の解説動画を見ては二次方程式の解き方に二人で頭をひねり、と、結局、閉館時間までに『地球生命史と人類』のテーマ館を回り切る事すらできなかった。
前回、帰り際に閉まっていて見られなかったミュージアムショップに行ってみたいという百音の言葉に、少し早めに展示見学を切り上げて、出口側のもう一つの展示棟に向かう。今度こそ無事にミュージアムショップににたどり着くかと思えば、その手前にフーコーの振り子がゆったりと拍を刻んでいて、それに足が止まる。百音はそのスケール感が面白い一方、実験の趣旨が良く分からず、菅波も何となく地球の自転を目視するためのものだと知りつつ、いざ自分で説明できるかというと難しい。うーむ、とまた二人で解説を読むと、コリオリ力という、懐かしい椎の実での勉強会で何度も目にした言葉が現れ、あぁ、地衡風の…と百音が呟き、菅波がハドレー循環もそうですね、と頷く。
勉強会の頃を思い出す用語にふと出くわし、二人でくすぐったく顔を見合わせる。あの頃、こうして二人で過ごすようになることなど、どちらも夢にも思っていなかった。ミュージアムショップに向かいながら、菅波が、永浦さんにコリオリ力と気圧傾度力を理解してもらうのはなかなか大変でした、と笑ってみせると、百音がぷくっと頬を膨らませてそれがまた菅波にはかわいくて仕方がない。
結局20分ほどしか過ごせなかったミュージアムショップでは、百音がサメの柄のネクタイを見つけてしまい、先生に似合うと思います!と笑顔で菅波の胸元にあててみせるものだから、菅波に買わないという選択肢はなく。サメのタイピンなんてのもあるといいですねぇ、とレジに向かいながら百音が言うと、ジンベイザメのなら持っています、と当たり前のように菅波が答えて。
そうしてミュージアムショップが閉まる音を背後に聞きながら、地下の吹き抜け広場に出て。本当に丸一日一緒に過ごしたのに、展示は全部見られなかったし、時間はあっという間に感じる。また来たいですね、と言いながら、地上に出る階段をめざすと、真正面にシロナガスクジラの実物大のオブジェがそびえる。まさに海に潜ろうという躍動感ある姿が夕闇の中でくっきりと影になっていて、えも言えぬスケール感で、その場を去りがたい思いの二人の足は、その圧倒的な存在感に自然とひきつけられるのだった。
シロナガスクジラの真下に立てば、そのスケールが一層実感される。二人の傍らに1本の木が植わっているが、斑点交じりに縦縞の入ったクジラの腹部はその木のてっぺんよりさらに高く。夕闇が落ちる中、人影がなくなった片隅で、二人でまるで海の中にいる様な。おおきいですねぇ、とシロナガスクジラを見上げて、そのまま頭を巡らせて自分を見上げる百音の笑顔が、光の陰る中でも眩しく、菅波はふと身をかがめた。
あ、と、菅波が自分のしでかしたことに気づくのと、百音が硬直するのが同時で。
ぱっと触れた唇を離して、菅波が自分の口許を右手で覆い、器用な上目遣いで百音を見ると、百音は頬を真っ赤に染めている。
「あ、あの、す、すみません。あなたの意向を聞かずに、だなんて、決してそんなことはすまいと、その…」
菅波が両手を体の前でもじもじと新調のコートの裾やポケットのあたりに漂わせながら言うと、百音がぶんぶんと首を横に振る。横に振るが、頬の色はそのままで、言葉はでてこなくて。
「怒って…ますか?」
さらに首を横に振った百音が、菅波のコートの裾をそっと握り、しばし俯いた後、ふわりと顔をあげた。
「あの、その、ちょっとびっくりして。でも、怒ってないし、いやでもないです」
その言葉に、菅波がほっとした顔になり、さっきまでの表情との落差に、百音がくすりと笑う。その笑顔に、菅波がそっと右手を添えて、夕陽の残紅に照る百音の瞳を覗き込む。
「キスを、してもいいですか?」
百音が見上げる菅波の瞳も、その日の光の残滓を湛えたいろどりで、百音はその問いに小さくうなずいて応える。改めて、明確な意思を持って落とされたそのキスは、明確な意思をもって受け止められて、時間が凝ったように、新しい熱伝導の形を二人で確かめる。先ほどよりゆっくりと離れていく唇に、ほのかな寂しさを感じたことを百音は気づいているかどうか。
頬に添えたままの右手の親指で、そっと百音の頬を撫でた菅波が俯く。
「すみません。こういうことは、きちんとあなたの意向を聞かなければいけないと思っていたのに、さっきは…」
頬のぬくもりをうれしく受け止めながら、百音が小さく首を振る。
「先生が私のこと、いつもちゃんと考えてくれてるの、知ってます」
その言葉に、菅波の口許が緩む。
「それに」
と続く百音の言葉に、菅波は顔をあげた。
「あの、その、ファーストキス、、、だったので、その、先生がたくさん、すみません、って言っちゃうの、やです。その、、うれしか、った、から」
今度は菅波が真っ赤になり、百音の頬に添えていた右手で自分の口許を覆うと、百音が、つまんだままだった菅波のコートの裾をつんつんと引っ張る。はにかみながら自分を見上げる百音に情緒を直撃された菅波は、ぎゅっと百音をハグする。忍び笑いする百音をぎゅうぎゅうとハグしていると、懐中でじたばたする気配があり、腕の力を緩めると、コートに顔をうずめていた百音が、ぷはっと息をついて笑いながら菅波を見上げる。
何て破壊力なんだ、とそのかわいさに耳まで赤く染めた菅波は、百音の左手をとってすっかり陽が落ちた公園の方に歩きはじめる。半歩遅れてついていく百音も、菅波がふと見せた新しい顔に、刷かれた朱色はそのままで。百音と菅波の歩みが並ぶころには、博物館の前の木のタイルが敷かれた小径にはいり、ひそかに浮き立った足音が柔らかく。木々のシルエットを背景に、初々しい二人が歩くのをシロナガスクジラだけが見ていた。