コはこうたろうのコふふふふ、と、ご機嫌に漏れる笑い声を聞きながら、かれこれもう15分はこうしてるな、と、くせっ毛の頭をもじゃもじゃと撫でられ続けながら、菅波はふと視界の端に入った時計で経過した時間を認識した。
心の伴侶たる百音が来登して、菅波の部屋で過ごすかけがえのない時間。今日は、森林組合の取引先のブルワリーが開発中のクラフトビールを数種、お土産にと登米夢想で持たされた。菅波の仕事のこともあって普段はあまり呑まない二人だが、呼び出しの都合もつけてある今日は呑みますか、と、意見がまとまって。
風呂も終えた夜に、スツールをテーブル代わりにソファベンチの前に置いて、小ぶりのグラスを2つ。数種あるうち、まずはピルスナーから、とお互いのグラスに注ぎあって、カチリと乾杯してひと口飲めば、風呂上がりにビールの味わいが心地よい。乾かしたてで髪がほわぽわと遊んでいる菅波が、うまい、と顔をほころばせる珍しい風情が百音には好ましく、サメのもこもこのルームウェアを着た百音が、スキンケアしたての素肌をわずかにアルコールで上気させている様子は、菅波には目の毒なほど。
二人で家飲みをするというのも、振り返ってみれば初めてのこと。めいっぱいくつろげる環境で、おいしいクラフトビールを分けっこして飲んでいるということがひそやかに楽しい。もらったビールは4種のセット。ピルスナーの次にペールエールを開けて、百音の頬の上記が増したのを見て、菅波はこれぐらいか、と酒量を見極める。登米への移動の疲れもあるだろうし、水を汲んでこよう、と菅波が立ち上がると、ほろ酔いでふわりと笑って百音が見上げるのがまたかわいい。
口許を緩ませながら台所で大きめのグラスに水を注いで、ソファベンチに戻った菅波が見たのは、栓が空いてすでにグラス1杯半ほどのスペースがあいたIPAの瓶と、さっきよりニコニコとご機嫌にソファの座面に体育座りで膝を抱えてサメのフードが頭と一緒に楽しく揺れている百音だった。
菅波が戻ったのに気づいて、へへへ、と笑う様は、まごうかたなき酔っ払いである。
「永浦さん、もう1本あけちゃったんですね」
菅波がわざとため息をついてみせながら、ソファベンチに座ると、またへへへ、と笑いながら、サメの百音がころんと肩にもたれてくるので、そのため息も長くは続かない。悪い酒ではないし、と菅波も笑って、まずこれも飲んで、と水のグラスを渡すと、百音は素直に両手でグラスを受け取って、ひとくち、ふたくちと飲む。それを見届けて、菅波も同じグラスで水を飲み、スツールに置く。
「せんせ、これもおいしいですよ。なんて名前のビールかは分からなかったけど」
百音がニコニコと開けた瓶を見せるので、それを手に取ってラベルを検分する。
「ここに書いてあるIPAというのが種類みたいですよ」
「あいぴーえー」
「うん」
自分のビールグラスに注いで菅波飲む様子を、百音が楽しそうに見守る。
「うん、また味わいが違ってうまい。3本の内では一番苦みが強いのかな」
菅波の感想に、百音もうんうん、と頷いている。
空になったグラスを菅波がスツールに置いたところで、菅波の肩にもたれていた百音が、菅波の顔をずいっと覗き込んだ。菅波が状況を把握しかねているうちに、百音が口を開く。
「せんせい」
「はい」
「さっき、ながうらさん、っていいましたよね?」
「…はい」
それが何か?という顔の菅波に、百音が口をとがらせる。
「でも先生、最近、時々、ももねさん、って呼ぼうとするじゃないですか」
「あー、はい」
百音の言葉に、菅波はあいまいに頷く。『永浦さん』から呼び名を変えてみたい菅波が、様子を測りつつ時折にファーストネーム呼びを混ぜるようになった昨今。家族の間でも『モネ』と呼ばれてきた百音にとって、ファーストネーム呼びは叱られる時や改まった時の呼び名に感じるらしく、菅波によるファーストネーム呼びを歓迎している気配はないが、絶対に嫌だ、とまでは拒絶されていないので、許されそうな時に許されそうなトーンで時々織り交ぜている。
今日、ついに拒絶されるなら、『百音さん』は諦めて他の呼び方を模索しなければ、しかし絶対『モネ』呼びは避けたい、と菅波が決意を固めたところで、百音の次の言葉に菅波は顔の筋肉のコントロールを失っていた。
「だから、わたしも、せんせのこと、こーたろーさん、って呼びます!」
百音のその決意に満ちた言葉に、菅波の顔はチベスナ オブ チベスナという様相。瞬発力の高い不服に、百音が頬を膨らます。
「なんで、こーたろーさん、ダメなんですか?」
「母親がそう呼ぶんですよ。も…永浦さんからも同じに呼ばれるのは…」
菅波も頬を膨らませて見せると、その普段より子供じみた仕草に百音の頬の体積が反比例的に減る。へにゃりと笑った百音が、そっか、そっかーと頷くので、菅波は、何が?という表情。
「せんせいは、こどものころ、こーたろーさん少年だったんですねぇ」
脈絡のないことを言って、何かを想像しながら楽しそうに笑う百音に、菅波はしかめっ面をして見せる。
「僕にだって子供の頃はあります。でも、やっぱり、光太朗さんはちょっと…」
「ん-、じゃあ、こうくんかこうちゃん?」
「いずれも近しい親戚から呼ばれていた名前で、それもちょっと…」
あれもヤダこれもヤダという菅波に、百音はわがままだなぁ、という顔で、うーんと首をひねって見せる。サメのフードをかぶったまま、悩んで見せる百音は筆舌に尽くしがたくかわいく、また、『百音さん』呼びを禁じられるのではない流れに、菅波はただたた百音をかわいいなぁ、と目許を緩めるのみである。
「こたさん!」
「はい?」
ぽん、と手を打って、百音ななんだか得意げに言い放ち、菅波は瞬時にはそれを処理できず。
へへへ、と笑いながら、百音がもじゃもじゃと菅波の髪を撫でる。こたさん、こたさん、となんだか嬉しそうに繰り返し呼びながら、髪を撫でられ、そうしている百音はかわいいし、髪を撫でられるのは気持ちいいが、その『こたさん』ってのは斬新すぎやしないか、と、スタンダードに導出される呼び名3つにダメ出しをしておきながら眉をしかめる菅波は心中がとても忙しい。
ご満悦に百音が髪を撫でるのを、させるがままにして経過すること15分。
「こたさんは、ですねぇ」
口数が少なくねむそうになりつつ、でも、髪をもじゃもじゃするのを止めない百音の言葉に、菅波は目線をあげる。
「こたさんは、ほかのひとがだれもよばないから、わたしだけのこたさんでせんせーなのです。こたさんなせんせーは、わたしがひとりじめなんです」
もじゃもじゃとしながら、酔いと眠気のはざまに漏れた百音の思わぬ独占欲に、菅波の頬が緩む。そういわれて悪い気はしない、と思いつつ、段々と眠そうな様子に、そろそろ寝ましょう、と髪をもじゃもじゃとする百音の両手を頭からとると、百音もこくりと頷く。菅波に手を引かれて洗面所に行き、二人でのそのそと歯磨きをして。口をゆすいだところで、さらに眠気のギアが上がった百音を、菅波が抱き上げると、百音の両腕が首に回る。猫のように額を肩に擦り付ける百音に、表情を緩めながら、菅波の足は寝室に向かった。
百音をベッドに横たえ、自分はグラスを片付けてから寝るか、とベッド際を去ろうとすると、百音が菅波の白Tシャツの裾を捕まえて見上げる。
「こたさんもいっしょにねる」
フム、と逡巡は一瞬で、まぁ片付けは明日でいいだろう、と菅波は百音のリクエストに応じて自分もベッドに滑り込む。隣に来た菅波に、百音はくすくすと笑いながら、こたさんだぁ、とその首に両手を回してくるので、かわいいが過ぎる、と菅波は目前の艶やかな髪を撫でるしかなく。
じきに静かな寝息が聞こえてきて、やれやれ、と菅波は懐中のぬくもりに笑いを漏らす。
こうして思わぬ本音が聞けるなら、たまの家呑みも悪くないかもしれない。とはいえ、毎回寝落ちされると、それはそれでちょっと残念でもあるので痛しかゆしだが。しかし、『こたさん』とは、また突飛な。まぁでも確かに、他に誰も自分のことをそう呼ぶものはいないし、百音だけが自分のことをそう呼ぶならそれはそれで捨てがたい。それに、もし百音が『こたさん』呼びを常用するなら、自分が『百音さん』と呼ぶのもバーター的に勝ち目がある気がする。ふむ、つまり悪くはないな。
百音の髪を撫でつつ、菅波は持ち前の思考をぐるぐるさせながら、百音の寝息に誘われるように自分も緩やかに眠りに落ちていく。とっぷりと深まる登米の夜、カーテンの隙間からは冴え冴えとした月の光が差し込んでいた。
翌朝。
菅波が目を覚ますと、百音が菅波の髭を指先で触ってみようとしているところだった。目が合って、笑みを交わす。
「おはよう、百音さん」
菅波の言葉に、むぅっと頬を膨らませつつ
「おはようございます、先生」
と百音が言う。
ん?という菅波の疑問顔に、不服顔の百音がつられて疑問顔になる。
「先生、どうしました?」
上半身を起こして、ベッドに胡坐をかいた菅波の前に、同じく起き上がった百音がちょこんと座る。
「あの、永浦さん、昨日の夜の事、覚えてます、か?」
おそるおそる、という菅波の問いに、なぜに?という顔で百音が即答する。
「クラフトビールおいしかったですよね」
あぁあ…という菅波の顔を見て、百音が自分の記憶がない部分がある事に気づく。
「そういえば、後片付けしてない」
「それはいいです、グラスだけですし。あの、他には…?」
「え、なにかありますか?ありました?あったなら教えてほしいです!」
「あの、いえ、後は永浦さんが僕の頭をずっともじゃもじゃしてたぐらいで」
えー、それ覚えてないの残念!と残念がる百音に、菅波は別の意味で残念である。
「あの、永浦さん」
「はい」
「その、こ…」
「こ?」
「こ…今度、そのブルワリーに行ってみようかって」
「あ、そうですね!その話もしましたね」
あぁ、やっぱり覚えてない…。
『こたさん』は一夜の幻か…、と菅波は心の中で体育座りをして膝を抱えるのだった。