はじめてのおとまりのあさ百音がふと目を開けた時、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。すでに部屋に陽が射す時間で、今日は休みの日だけど天井が見慣れなくて、えっと…と思いつつ、傍らのぬくもりを自覚した瞬間、あ、と目が覚めた。登米の菅波の家に、初めて泊まりに来て、一緒のベッドで眠っている。
疲れていないだろうか、菅波は百音を腕枕したままで、薄く開いた口からはすうすうと寝息が聞こえてくる。以前、コインランドリーなどでうたた寝していることは見かけたことがあったが、今、頭上至近距離の顔は、それとは比べ物にならないほどリラックスした寝顔は無防備そのもの。うっすらとヒゲが伸びていることも相まって、本当に初めて見る顔だった。
恥ずかしいような、そんな寝顔を間近に見ていることがたまらなく嬉しいような、ムズムズした気持ちで、百音は菅波をじっと見上げる。しばらく寝顔を堪能していたが、ふと興味が湧いて、おずおずと右手を菅波の無精髭に伸ばし、でもやっぱり触れることは躊躇われて、手を出したり引っ込めたりしていると、菅波の口元がうっすらと笑っていることに気づいた。
あ、起きてた。百音がぷくっと頬を膨らませるのと、菅波が目を開けて百音の顔を覗き込むのが同時である。
「おはようございます、永浦さん」
笑いを噛み殺したような、それでもとびきり優しい菅波の声色に、百音は膨らませた頬の空気の逃げ場がないままに、頬を染めてこくりと頷く。
「おはよう、ございます、せんせい」
やっと、と言うように絞り出された百音の言葉に、菅波はくしゃりと想像を崩して腕枕をしていない方の腕で百音の頭から髪を撫で、両の腕で百音をギュッと抱きしめた。驚いた百音が掛け布団の中で足をぱたぱたさせると、くつくつと笑った菅波がその抱擁を緩める。
「すみません。起きたら永浦さんがいて、嬉しさをこらえられませんでした」
見慣れない髭面で本当に嬉しそうに笑って顔を覗き込んでくる菅波に、百音は翻弄され通しである。
「触ってみますか、これ」
菅波がなんとも楽しそうに指さしてみせるのはまばらにヒゲがのびた自分の頬のあたり。菅波のその言葉に、思っていたより早く菅波が目覚めていたことに改めて確信を抱いた百音が、少し恨めしげに菅波を見上げる。
「いつから起きてたんですか?」
「んー?あなたが僕の顔に手を伸ばそうとして引っ込めた2回目ぐらい、かな。なんだか顔の周りに気配があるなぁ、と思って目が覚めたのだけど、せっかくの永浦さんの好奇心を邪魔しちゃいけないと思って」
余裕めかして笑う菅波に、百音はドギマギするやら恥ずかしいやらで、くるくると変わる表情がたまらなくかわいらしい。そのかわいさに菅波は目が眩むような思いで、これ以上ベッドでごろごろしているのは危険だ、と自分の手持ちのあらゆる理性という理性の総動員を決意する。
百音の額に軽いキスを落とし、よっ、と小さな掛け声と共に腕枕にしていた腕を百音の首元から抜いてベッドの上に起き上がった。寝癖だらけで好き放題な方向に跳ねたくせっ毛に全く無頓着に笑う菅波に、見上げる百音も笑顔である。百音ももぞりと起き上がり、ちょこんと菅波の向かいに座る。いつもは綺麗に梳られた髪が、艶やかさはそのままに、数条乱れて顔の周りにかかっているのがえもいえぬ景色で、菅波は思わず右手で口元を覆って顔を伏せる。
『いつか』の目安について話をしたのはまごうかたなき本心だが、一方でこうして過ごして風呂上がりや寝顔、それに今の寝起きのあどけなさとほのかな色気が同居するような姿を見せつけられて、菅波の情緒の乱高下が著しい。これ、永浦さんが、あと数回泊まりに来て、まだ『いつか』がこなかったら、俺、出家できるな…と思いながら、呼吸を整えて改めて百音に向き直ると、こてんと首を傾げて菅波を待っていた百音は満面の笑みで。
「おはようございます」
改めて朗らかに朝の挨拶を発した百音が、一瞬の逡巡ののち、えいっと上体を乗り出して菅波にキスを贈る。
キスにはだいぶと慣れてきて、でも、まだ、陽光の元のキスしか知らない百音から、めいっぱいの勇気を出して贈られたそれに、菅波は真っ直ぐに応えて。登米の初夏の朝がその帷を開ける。応えていた自分が漏らした吐息が、百音の整わぬ前髪にかかってゆれたとき、菅波は確かに百音と『盃』を交わしている、と、甘酸っぱくもくすぐったい朝をしみじみと感じるのだった。
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まだあげ初めし前髪の
ランドリーのもとに見えしとき
前にもちたるぬくもりに
手当の君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
手当をわれにあたへしは
薄紅の夕映えに
人こひ初めしはじめなり
わがこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
楽しき恋の盃を
君が情けに酌みしかな
登米の風車の丘の下
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ