イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    あなたのなまえ

    「何を読んでいるの?」
     突然声を掛けられて、彼女は顔を上げた。誰かがこちらを見下ろしている。逆光でその姿はよく見えない。
    「……旅行ガイドを」
    「近々どこかに旅に行くの?」
    「そういうわけではないですが」
     太陽を背にしていたその人は、ザリと革靴で地面を踏みしめながら移動しベンチの彼女の隣に座る。朗らかな陽気、今は会社の休憩時間だった。黒いシャツに白いスラックスを履いたその人の髪は、上から下までふわふわとした金色。あれは地毛か? 正直彼女が普通に生活していれば絶対に話しかけなさそうなタイプである。
     しかしその人は彼女の隣で微笑むと足を組んでそこに落ちついてしまった。まだ休憩時間が終わるまでには余裕がある。移動したくはないのだが。
    「どこの案内書なんだい?」
    「別にどこというわけじゃありませんが」
    「他にもたくさんあるね、袋の中に」
     彼は彼女の横にあった手提げを覗き込んでそう言った。ベンチの目の前にあるのは図書館、公立の図書館である。隣には公園も一緒にあって、昼下がりのいまは子どもたちが遊ぶ声も耳に届いていた。
    「行きたいの? ここ」
    「いえ、えっと」
    「楽しそうだね。こことか、とても綺麗だよ」
    「ああ、はい。そこ名所なんですよ」
     彼は身を乗り出して彼女の開いていたページの写真を指差した。鼻先をふわふわの髪が掠めて、ほんのりと日向の香りがくゆる。微かにきりりとした甘さのある匂いもした。
    「行ったことは?」
    「ないです」
    「そうなのかい、残念。でも行きたいから案内を借りてきたのかな」
    「そういうわけでもないんですが」
     強いて言えば趣味である、こうして旅行ガイドを眺めるのが。職場からほど近いこの図書館に、彼女は会社の休憩時間の度に通う。それは息抜きの意味もあるし、単純にこの時間が好きだというのもある。
     好きな本を借りて、読みながら休憩時間を過ごす。一週間分まとめて月曜に借りたら、あとの曜日はそれを順番に。天気がよっぽど悪くない限りは、このベンチでそうしている。
    「ふぅん、それならこの袋の中身はこれからってことかい」
    「そうなります」
    「そっか、じゃあこれ借りるよ」
    「えっ」
     ごそごそと手提げを探った彼は、そのまま一冊文庫本を抜き出すと手に取り立ち上がった。それは今彼女が借りてきたばかりの本だ。返却期限は丁度来週の月曜日。
    「一週間、その間に返せばいいんだよね」
    「そうですけど、その本は」
    「君もその間はここに来る、そうだよね?」
     にっこりと笑った彼の歯が、まるで牙のように尖っているのが見えた。彼は文庫本を小指と薬指と中指を使って器用に挟むと、その手をひらひらっと振る。
    「このくらいの時間、この場所、大丈夫覚えたよ」
    「いや、あの……本!」
    「じゃあまた。明日だね」
     ピピピと丁度よくスマートフォンが鳴り始める。そろそろ会社に戻らなくては。彼女は慌てて膝に広げていた旅行ガイドを閉じて手提げに戻した。その男性は金色の髪を日に透かして、まるでスキップをするような軽やかな足取りでどこかに行ってしまう。
     いや、冗談だろう。しかし借りた本をそのままにするわけにも。彼女はそう言えば彼の名前も聞かなかったと思いながら、会社まで駆け戻った。



     いたって普通の人生を送ってきた自負がある。何の変哲もない、人生だ。普通に学校に通い、普通に就職し、職場では特にトラブルやら何やらを起こすことなく勤務している。くどいようだが「普通」を形にしてきたような人生だ。というか、彼女はそれを望んできた。何事もない、ただ過ぎていく毎日のほうが気楽だったので。
    「やあ、こんにちは」
     それがこのざまである。
     彼女は手にしているサンドイッチの入った手提げを落としそうになってしまった。彼女が昨日座っていたベンチには、もう既にあの黒いシャツに白いスラックスの男性が座っている。早い。いや、貸した本をそのままに消えられても困るので、いる分には構わないのだがそれにしても。
     同じベンチに座るのも変だったので、彼女は隣のものに腰を下ろした。それからいただきますと手を合わせてサンドイッチを食べる。彼はするするとベンチの上を滑って彼女の近くになる端まで移動した。
    「おや、そっちに座ってしまうの?」
    「あの、本返してもらってもいいですか?」
    「美味しそうだね、なあに、それ」
     話がまるでかみ合わない。相手があまりにもマイペース過ぎる。彼女が困っていると、彼は腕を伸ばして彼女のランチボックスからデザートに入れてあった苺を摘まむ。
    「本を返してほしいのかい」
    「はい、あれは私個人のものではなくてそこの図書館のもので」
    「いいよ、返してあげてもいい。あ、でも今持っていないや。弟に任せて来ちゃった」
    「弟?」
     もぐもぐと苺を咀嚼しながら、彼はこちらを見た。
    「その代わり一つ約束してほしいんだけど」
    「はい?」
    「一週間、変わらず僕とここに来て話してくれる?」
     ……なんだそれ。そもそも勝手に本を持っていたのは彼なのに、なぜ彼の要求を聞かねばならないのか。
    「……ナンパにしては下手くそですね」
     呆れて彼女は答えた。そもそもナンパする必要なんてないだろう。彼女はまじまじと彼の顔を見つめた。昨日は動転していたのでわからなかったのだが、彼はかなりの美形なのである。ふわふわの金の髪は地毛なのか染めているのかわからないが、蜂蜜色の瞳に女の彼女よりずっと白くきめの整った肌。同じ人間だと思いたくないレベルだ。少なくとも日本人の風貌ではない。
     しかし彼はきょとんとして首を傾げた。
    「難破? ここは海ではないよ?」
    「いやそういう意味ではなく」
    「とにかく、僕に会ってくれる? 会うと約束できるなら、明日にでも本を持ってきてあげる。君の本ではないんだよね? なら僕に預けたままにはしないよね、君は」
     ……確かに、それは出来ない。
     しかし彼女には今のところ一つもこの男性の意図が読めなかった。昨日いきなり声を掛けてきたのは、まあ美形の気まぐれナンパと片づけてもいい。けれど正直彼女は自分にそこまでの容姿があるとも思えないし、こうして執拗に会うことを強要してくる意味が分からない。
     それも、一週間のみ。
    「……わかりました」
     仕方なしに彼女はそう答える。というかそうとしかできないだろう。図書館の本を人質代わりに取られているのだから。彼女の返答を聞き、彼は益々嬉しそうに笑うと弁当からミニトマトまで摘まんでいく。あまり食べられると何も残らなくなってしまうのだが。
    「うん、いい子、いい子。君ならそう言うと思ってた」
     にっこりして彼は立ち上がると彼女と同じベンチに座り直す。これでは何のためにわざわざ別なものに座ったのかわからない。彼女は焦って手すりまで移動した。彼は零距離で隣に来たのだ。
    「いやあの、初対面ですよね? なんでそんな馴れ馴れしいんですか。大体誰ですかあなた」
    「うーんとね、それ言っちゃいけないんだよね」
    「は?」
    「でもせっかくだし、僕、君とあまり話したことなかったし、一週間くらいお喋りしてもいいかなって。だめ?」
     意味が分からない……。彼女は頭を抱えたが、彼は穏やかな笑みのままで彼女のほうを覗き込み、それから嬉しそうに瞳を和ませた。
    「君って昔っから、困るとここに皺を寄せるんだね」
    「……」
     それは不思議な感覚だった。
     絶対に覚えなどあるはずがない、彼とは会ったこともないはずなのに。まるで幼い頃のアルバムを捲っているような、遠い昔に尋ねた場所のような、そんなよくわからない懐かしさがその蜂蜜色の瞳にあるのだ。
     いやだがこんな美形一度会ったら忘れるものか。彼女は頭を振って顔を背けた。
    「約束ですよ、明日必ず持ってきてください、本」
    「うん、勿論。僕は約束を違えたりしないよ。君もだからね」
    「わかっています」
     彼女はサンドイッチを平らげると、ランチボックスを片付けた。それから手提げから本を出し、捲り始める。すると当然のように彼もそれを覗き込んできた。彼女はややそれから距離を取りながら眺める。
    「今日は何?」
    「絵本ですよ」
    「文字が少ないね」
    「絵本なので」
     まるで絵本を見たことのないような口ぶりの彼に、彼女はやや面食らった。小さい頃に読んでもらったこととかないのだろうか。そう問えば、彼はふるふると首を振る。
    「ないよ。そもそも初めて見たかなあ」
    「絵本をですか?」
    「うん、小さい頃に読むものなのかい?」
    「そう、ですけど」
     ちょっと嫌な予感がして彼女は身じろぐ。ここまで突飛もないことしか言っていない彼のことだ、ちょっと何を言いだすか予想がつく。自分の中で最悪のパターンを想定すればいいのだ。すると案の定、彼はにっこり笑って彼女に要求した。
    「君が読んで」
    「ほら来た……」
     絶対に言うと思った。そう言うと思った。彼女は小刻みに首を横に振る。そこまでしてやる謂れはない。そもそも一週間ここで毎日会う意味も分からないのに、それ以上のことをする必要性を感じない。
    「嫌です」
    「おや、どうして」
    「なんでこんな屋外で、明らかに成人男性に絵本の読み聞かせをしなきゃならないんですか。嫌ですよ」
    「それっておかしいことなのかい?」
    「えぇ?」
     おかしいに決まっているだろう……。そう思ったのだが、彼はきょとんとして首を傾げている。本当に何がおかしいのかわからないという顔だ。
     一体何がどうしたらそうなるのだろう。……親御さんとあまり接点がなかったとかだろうか。しかしさっき弟がいるとか言っていた気がする。弟にも読んでやらなかったということか?
    「ねえ、読んでくれないかい」
    「……貸しますから、御自分で」
    「君に読んでほしいんだよ」
     ううと彼女は呻いた。この人は何なのだ。一切ノーと言わせてくれない。彼女は渋々最初のページまで戻る。絵本だ、音読したところで五分もかからない。たったそれっきりだ。
    「これっきりですよ!」
    「うん、ありがとう」
     途中であれこれ聞かれるのではないかとも思ったのだが、彼は大人しく彼女の読み聞かせを聞いていた。彼女が声に出す文字を目で追って、じっと広げられた絵を見つめている。あまりに静かに聞くものだから、彼女はかえって落ち着かなかった。途中くすくすと笑ったり、あの瞳を細めたりしながら、彼は絵本を辿っていく。
     予想通り五分程度でその絵本は終わった。ぱたんとそれを彼女が閉じると、身を屈めて覗き込んでいた彼も上半身を起こす。
    「これは君が好きな絵本なのかい」
    「……まあ、そうです。小さい頃から割と」
    「そっか……ふふ、いい話だね」
     ピピピとそこでスマホが鳴った。そろそろ会社に戻らなければ。彼女は手提げに絵本を戻して立ち上がる。彼は座ったままでひらりとこちらに手を振った。
    「じゃあまた明日だね」
    「本、忘れないでくださいね」
    「もちろんだよ。君も、僕との約束を違えてはいけないよ」
     正直気のりはしないが仕方ない。彼女は軽く会釈をして、オフィスに戻った。明日は文字のない本にしよう、そう決めて。



     三日目。彼女がお弁当と一緒に持ち出したのは植物図鑑だった。これは流石に読み上げられない。強請られても適当に逃れられるだろう。
     昨日同様に彼は彼女よりも先にベンチに座っていた。しかし今日は本を読んでいる。よく見るとそれは彼女から持っていった文庫本だった。ちゃんと持ってきてくれたらしい。そのことにとりあえずは安堵して、彼女は彼の前に立つ。
    「こんにちは」
    「やあ、ちゃんと来てくれたね」
    「本を返してもらわなくてはならないので」
    「おや、ではこれを返したらおしまい? そうじゃないよね、約束したもの。座って」
     彼は笑って自分の隣を叩いた。傍に座るのはあまり気が進まなかったのだけれど、仕方ないのでそうする。彼女が腰を下ろすと、彼ははいと文庫本を差し出した。受け取って、念のため傷がついていないか確かめる。特に問題はなさそうだった。
    「読んだんですか?」
    「一応ね。でもちょっと退屈だったよ。昨日君が読んでくれた絵本の方が面白かった」
    「……そうですか」
    「今日は何を持ってきたんだい?」
     わくわくとした表情で彼は聞いたが、彼女はそれは手で制した。こればっかりは譲れない。
    「先にご飯を食べさせてください」
    「おや、今日はお弁当なのかい」
     食事をしながら本を読みたくはなかった。だから彼女は頂きますと手を合わせて、まず先に弁当箱を開く。ひょいと伸びてきた指先が詰めてあった卵焼きを摘まんだ。ああまた取られた。
    「美味しいね、君が作ったの?」
    「そりゃ、私のお弁当ですから」
    「ふふ、そっか。君案外料理できたんだ」
     案外とはなんだ案外とは。料理が出来なさそうな風に見えるのだろうか。彼女はやや解せない気持ちになりながら、もそもそとお弁当を食べる。たまに横から手が伸びてきて適当におかずを摘まんでいったが、まあ気にせずに放っておいた。
     食事を摂ってから、彼女は持ってきていたお手拭で手を拭った。一度はそれをしまおうとしたのだけれど、思い直して彼女はそれを彼にも差し出す。
    「僕も?」
    「どうせ横から本捲るでしょう。汚れた手で触ってはいけません。ちゃんと綺麗にしてください」
     パチパチと彼は目を瞬いてから、大人しく言われた通りにした。返されたお手拭をくるくると丸めて元のケースに仕舞う。それからやっと、彼女は持ってきていた図鑑を開いた。とは言っても、それは持ち歩けるサイズのハンディ植物図鑑なのだが。
    「それ、なんだい? 読めるものなのかい」
    「読めますよ。でも文字量が多いので読み上げませんからね」
    「へえ……どう使うの?」
     どう使う? まさか図鑑も見たことがないというのか。彼女は呆れ半分、実はちょっと予測できていた気持ち半分で息を吐く。にこにことした彼は彼女に説明をさせる構えだ。あの蜂蜜色の瞳をきらきらとさせてこちらを見つめている。
     仕方なしに彼女は図鑑の索引ページを開いた。ぱらぱらとめくって、彼女が一番最後の方のページを開いたからか、彼は首を傾げる。
    「ありゃ、一番最後を見るの?」
    「ここは索引って言ってですね、載ってる植物の一覧なんです、よっと。あった」
     弁当箱やら何やらを膝からおろし、彼女は立ち上がった。それから彼を手招きする。彼は組んでいた足を解いて、軽やかな足取りで彼女の後をついてくる。彼女はあたりを見回し、目当てのものを見つけると屈みこんだ。こういった公園には必ず生えているものだと思ったのだ。
    「はいこれ、見てください」
    「花だね」
    「そうです、花です。名前分かりますか」
    「うーん……?」
    「そういう時に使うんですよ」
     ぱらぱらっと彼女は索引に載っているページを開いて示した。シロツメクサ、よくある野草である。
    「……へえ」
    「シロツメクサ、別名クローバーともいいます。シャジクソウ属の多年草。マメの仲間ですね。花言葉なんかも載ってます。どうぞ」
     ハンディ植物図鑑のページを開いたまま手渡せば、彼はしげしげとそれを上から下まで見た。それから感心したように図鑑と生えているシロツメクサとを見比べる。しっかり最後まで読んでから、彼は彼女を見上げた。
    「これ、草花が全部載っているのかい?」
    「そのサイズだと全部ではないですね。主要なのだけ」
    「へえ、こんなのに」
     ぱらぱらぱらと彼はそれを捲った。どうせならその辺に咲いている花を見たほうが楽しかろう。彼女は彼の肩を叩いて、近くの花壇を指した。そこには丁度ツツジが見頃を迎えている。
    「ツツジと、先程の索引で調べてみてください」
    「つつじね」
     彼は索引の「つ」の欄からツツジを探し出し、目当てのページを開いた。そこには色とりどりのツツジの写真と共に、学術名やら植える時期やらが掲載されている。「おお」と彼は呟いてまたそれを読み始めた。
     思わずふふと笑ってしまう。まるで小さな子どものようだ。彼はツツジの傍に屈みこんで、葉をひっくり返したりなんだりしながら眺めていた。あの様子では、きっとこれ知らないだろうな。彼女は一輪、ツツジの花を摘む。
    「ご存知ですか?」
    「え? 何をだい」
    「これです」
     摘み取った花の付け根のあたりに、彼女は唇を付けた。ちゅうと少し吸えば、ほんのりと甘い風味が口に広がる。
     彼女の様子を見て、彼は同じように一輪花を摘んだ。それから口元にそれを持っていき、不思議そうな顔で花を吸った。ぱちぱちと長い睫毛が瞬かれる。どうやらやはり蜜を吸えることは知らなかったらしい。
    「美味しいね」
    「ツツジは蜜が吸えるんです」
    「花って食べれるんだね。知らなかったよ」
    「いや食べれるわけじゃ……食べないでください!」
     彼はもしゃもしゃと花ごと口に含んだので、彼女は慌ててそれを止めた。死にはしないだろうが花自体が美味しいわけではない。案の定若干苦かったらしい彼は、眉を下げてもごもごと口を動かす。
    「美味しくない」
    「だから花が食べられるわけじゃないんですって……」
    「でも面白いね。他に載っているの、あるかな」
     彼がそう言いだしたものだから、彼女は残りの休憩時間いっぱい使って図書館の公園内に生息している草花を片っ端から図鑑で調べる羽目になった。あれはこれはと引っ張られて聞かれるので、その度に彼女もまた幼い頃の知識なんかを引っ張り出して来て答える。そうこうしている間に、上着のポケットに入れているスマホが鳴りだして彼女はアラームを止めた。
    「楽しかった。ありがとう、今度からお腹が空いたらあの花を食べるよ」
     上機嫌の彼は、笑顔で彼女にハンディ図鑑を返す。彼女はそれを受け取りながら、はあと息を吐いた。
    「いやだから、あれ花自体は食べれないんですよ……」
    「あはは、蜜だったね、覚えたよ」
    「……」
     お腹が空いたら、と彼は言ったけれど。そう言えば彼女がここに来るまでは一体何をしているのだろう。昨日教えられないとかなんとか言っていたのは覚えている。だが彼女同様昼休みを過ごしているにしては、この三日昼食の用意はない。というかいつも手ぶらで、スマホさえも所持している気配がないのだ。
     どう見ても、勤め人のナリではない。
    「……あの」
    「ん? なあに? 君、そろそろ行かなくちゃいけないんじゃない?」
    「そうなんですけど」
     今しがた渡されたハンディ図鑑を、彼女は彼にもう一度差し出した。彼はきょとんとして首を傾げる。
    「いいのかい」
    「……どうせ、明日会います」
     まだたった三日の知り合いだ。それ以上でもそれ以下でもない。けれど彼は約束を違えないような気がした。また明日と言えば、明日ここにいる。一週間ここで同じ時間に話をすると約束したのだから、きっと彼は明日もこのベンチに座っているはずだ。
     彼女と図鑑とを見比べ、彼はあの蜂蜜色の瞳を和ませて微笑んだ。それから大切そうに図鑑を両手で受け取り、背表紙を撫でる。
    「ありがとう、退屈しのぎになるよ」
    「汚しちゃだめですよ」
    「もちろんさ、君からの借り物だもの」
    「図書館の本だからです!」
     しまった、流石にもう行かなくては。彼女は腕時計を見て駆けだす。最後に一度振り返ると、彼はしっかりと図鑑を手に持ったままもう片方でこちらに手を振っていた。一瞬躊躇ったあと、彼女もそれに一度だけ手を振り返す。
     一週間、たかだか一週間の付き合い。それももう折り返しだ。それだけは念頭に置かなくては。彼女はまた、ヒールを鳴らしてオフィスに戻る。



     四日目。彼女はげんなりとして公園の遊具に立っていた。
    「なんで……」
    「行くよー、ち、よ、こ、れいと!」
    「あ、ちょっとそれ、ずるいです!」
     彼は大股で六歩歩いた。彼と彼女ではリーチが違う。そんな大股で歩かれたらあっという間に追いつかれるではないか。彼女はただでさえパンプスで動きづらいのに。
    「そう? 僕には同じ一歩だよ」
    「いや無理があるでしょう無理が! もうちょっと加減して進んでくださいよ」
    「えぇー」
     いつものベンチの上では、ぱらぱらと雑誌のページが風に吹かれて捲られていく。今日はたまたま開いた雑誌のページに懐かしの遊びなんてものが載っていたのが良くなかった。案の定彼は「やりたいやりたい」と言いはじめ、結局彼女はそれに付き合う羽目になっている。ちなみにお弁当はおにぎりだったので、一つを彼にあげた。
    「最初はグッ、じゃんけんポン!」
    「僕の勝ち。グーだから、えーっと、ぐ、り、こっと」
    「だから一歩が大きい!」
     ガシャンと音を立てて彼は遊具の鎖で編まれた梯子に飛びついた。彼の一歩はその梯子の一段飛ばしである。
     あのベンチから、今いる遊具の頂上まで。じゃんけんで勝った分だけ進むと言うアレである。最初、要領を得なかった彼に彼女はじゃんけんで勝ち続け、一足先に遊具まで辿り着いた。しかしスカートをはいていた彼女は彼のように梯子を使うことは出来ず、律義に階段部分を使って頂上を目指しているのだ。
    「あはは、同じ同じ。君はそっちからで僕はこっちから行くってだけだよ」
    「絶対そっちの方が歩数少ないですって!」
    「じゃあ君がその分勝てばいいよ。ほら行くよ、最初はぐー」
    「じゃんけんポン!」
     ああよかった勝った。パーで買ったのでパイナツプル。彼女は出来るだけ大きく足を開き、六歩分前に進んだ。
    「ぱ、いなつ、ぷ、る!」
    「おお、結構先に進んだね」
    「いや、だって貴方の一歩が大きいから怖いんですよ」
    「ふふ、じゃあ僕も頑張らないと。それ、じゃんけんポン」
    「え、うわ」
     最初はグーがなかった。彼女は反射的に手を差しだしたが手は握りこまれたままであり、彼は笑顔で開き切った手を振っている。
    「ずるい、今のどう考えてもずるいですよ!」
    「ふふ、勝ちは勝ちだよ。さあて行くよ、ぱっと」
     ガッと彼は一気に梯子二段分くらいを跳躍して上の段を掴む。ガシャンと鎖が派手な音を立てた。え、あんなのありか。彼は昇ると言うよりも飛び上がっている。弾みをつけて一度に体を持ち上げ、ずっと上の部分に駆けあがっているのだ。なんていう身体能力をしているのだと彼女は脱力した。彼は革靴だと言うのに……勝てっこない、あんなの。
    「る! これで六歩。もうすぐ君に追いつくよ」
    「だーからそれ、ずるですって……!」
    「ふふ、天辺までもう少しだよ、頑張ろうね」
     彼が梯子を上りきり、彼女が階段を上がればあとは一本数段の梯子を上がって、ちょっとした見晴らし台が天辺だ。これはそこから滑り台が伸びる、ありきたりな遊具なのである。
     つまり、彼女が彼に勝とうと思ったら先に最後の梯子まで辿り着かなくてはならないのだ。あの梯子は一人分くらいしか昇るスペースがない。先に行かれてはどうやっても勝てない。しかし彼は後一歩分でもあれば梯子を上りきってしまいそうである。それどころか下手すれば頂上まで行ってしまうのではないか。
     これはちょっと次は負けられない。最初はお遊びのつもりだったが、ここまでくると彼女は大人げなくそう思っていた。シャツの袖を捲くって、彼女はぎゅっと階段の手すりを握った。
    「次行きますよ次!」
    「はいはい、じゃあ最初はグー」
    「じゃんけんポン!」
     彼はパー、彼女はチョキだった。よしと彼女は息を詰め、両手で手すりを掴むと弾みをつけて一気に体を前に押し出す。普通に一歩歩くより、この方が前に進むのだ。
    「ち、よ、これいと!」
    「おお、進んだね」
    「あと一回でも勝てたら終わりです!」
     なんとか、何とか彼女は最後の梯子に足を掛けたところで終わった。しかしこれで彼女が見晴らし台までの道は塞いでしまったので、勝ちは決まったようなものである。
     しかしくすくす笑うと、彼は右手のグーを出した。
    「まあまあ、最後までやってみないと分からないよ。ほーら、最初はグー」
    「じゃんけんポン」
     彼女がチョキ、彼がグーである。グーはグリコの三歩分のみ。彼ならば今いる梯子は昇りきってしまうだろうが、どうやっても天辺には届かないはず。
    「よーし、じゃあちょっと頑張ってしまおうかな」
    「え?」
    「よいしょっと、グ!」
     まず一歩、彼は跳躍して梯子から上に降り立った。しかし天辺に昇るための梯子は彼女が塞いでしまっている。彼は彼女ににこりと笑うと、彼女同様シャツの袖を捲くり見晴らし台に付けられた柵の下部分を掴んだ。……もしや。
    「リっ!」
    「わっ」
    ギシッと大きく金属の軋む音がする。彼は弾みをつけて見晴らし台を支える柱に足を掛けると、壁を駆けあがるようにして一気に上を目指す。トンと軽やかな音を立てて、柵を越えると彼は見晴らし台に降り立った。
    「コーっと。はい、僕の勝ちだよ」
     にこりと笑って彼はこちらに歩み寄ると、彼女の腕を掴み引っ張り上げる。ふわりと昼なかの暖かな空気の匂いがした。急に持ち上げられた彼女は、たたらを踏んでよろける。ぼすりと彼のシャツに額を押し付ける形で、彼女は何とか転ばずに済んだ。
    「わっ」
    「ふふ、お疲れ様。君も頑張ったね」
    「……あ、すみません」
     離れようとしたのに、彼は彼女が転んでしまわないように腰のあたりに腕を回して支えてくれていた。
     小さい子のためのその見晴らし台は彼女と彼には狭い。加えて、柵も低かった。思いの外高いところまで上がってきたことがわかって、思わず彼女はぎょっとしたけれどその分支えてくれている彼の手が温かかった。
    「楽しかったかい」
     不意に聞かれて、彼女は言葉に詰まった。大人げなく勝ちにこだわってしまったのが恥ずかしいような気もするし、スカートなのに随分思いっきり動いてしまった。小さい子どもたちが遊ぶ場所で、真昼間に何をしているのか。
     ……けれど。
    「楽しかったです」
     尋ねた彼が屈託なく笑っているので、彼女もただシンプルにそう答える。
     なんだかもう、細かいことはいいや。楽しかったのは事実であるし。彼女はあははと声を上げて笑った。
    「ええ、はい、とっても、楽しかったです」
    「……そう、よかった」
     ふふ、と唇を緩め彼も彼女に身を寄せて一緒に笑った。ふわりと彼から日向の匂いが香る。お日様の匂い、それから今動いたためかちょっとした汗の匂い。体温の匂いだ。
    「お兄ちゃんいちゃついてないで代わってよー」
    「ぅえっ!?」
    「おや」
     下から突然声を掛けられて、彼女は驚いて肩を震わせる。先程までグラウンドで遊んでいた子どもたちが遊具まで上がってきていた。
    「お兄ちゃんすごーい! 一気にそこまで上がったでしょ!」
    「おやおや、見ていたのかい。今代わってあげるからね」
    「ぎゃっ」
     彼はいきなり彼女を抱えあげると、ひらりと柵を越えて見晴らし台から降りた。ひゅっと内臓が浮いたような心地がして、思わず彼女は彼にしがみつく。なんてことをするのだ、せめて一声かけてほしい。
     しかし小さな子どもたちはそんな彼と彼女を見てキャッキャと余計に楽しげに声を上げる。
    「デートの邪魔しちゃだめだよー」
    「えーでもー」
    「でっ、デートじゃない! デートじゃないです!」
    「でえと? あ、君そろそろ時間じゃない?」
    「うわっ、本当だ!」
     動いて落としたら嫌だったので、彼女はスマホをベンチに置きっぱなしにしていた。彼のほうが時計を見てそれに気づく。彼女が慌てたのを見ると、彼はじゃあねーとひらひら子どもたちに手を振り、それから彼女を抱えたまま再び一息に遊具から降りた。
    「ぎゃぁぁぁああっ! やめてください心臓に悪い!」
    「あはは、こっちの方が早いから。じゃあまたね、また明日」
     また、明日。今日で四日目だった。明日で五日。
     先程子どもたちにしたのと同じ調子で、彼は彼女にも手を振る。雑誌をしまった手提げを手に持って、彼女は同じようにしながら……これはまずいと思った。
     まずい、あと二日、あと二日なのに。
     ふわふわとした日向の匂いが記憶に残っている。



     五日目、朝から土砂降りの雨だった。
     彼女はちょっと安堵してオフィスの窓から外を見る。よく磨きこまれたガラスには、風向きに合わせあちらこちらから雨粒が叩きつけられては流れていった。これは帰りが心配なレベルだ。
    「……流石に、来てないよね」
     いや、だってこの雨だ。絶対にない。普通外で昼食を取るなんて発想はないぞ。彼女は手提げに入れた本を見る。今日用意したのは、写真集だった。
     雨が降った日、彼女は大抵昼食を社食で済ませてしまう。お弁当を持ち込んで、そこで食べておしまいだ。だから今日もそうすれば良い。本は別に屋外でなくても読める。いつもはそうしているではないか。
     だから彼女は窓から離れ、社食に向かおうと踵を返した。
     ……でも、もし来ていたら?
    「あり得ないよ」
     口に出して言ってみたのは、そう自分に言い聞かせたかったからだ。
     しかし、彼は絵本も図鑑も知らなかった。じゃんけんをして先に進む遊びだって。彼女の知る常識と予想の範疇を易々と越えてくる。そんな彼がこの雨の中待っていないと言えるのだろうか。
     躊躇って、もう一度窓を見る。
     ……駄目だ、行ったら駄目だ。そうブレーキを掛けているのはこれまでの彼女である。普通に生きてきた、そうしていたいと思っていた。自分の人生は、波乱や目立つようなあれこれとは無縁だとずっと思っていて、そうであってほしいと願っていた。ただ何事もなく、毎日が過ぎていけばそれでよかったはずなのに。
     ガラガラと音を立てて椅子を引き、そこに本の入った手提げを置く。代わりに彼女は傘を手に取ってオフィスを飛び出した。いないかどうか見るだけ、それだけだ。
    「うわっ、すごい雨……っ」
     思わず悲鳴を上げてしまうほどの豪雨だった。こんなとき外に出るのはどう考えても馬鹿げている。だが彼女は傘を差してその雨だれのの真っ只中に出た。
     すぐにストッキングがびしょびしょになる。ついでにパンプスの中にも水が流れ込んできた。これはオフィスに戻ったら、みっともなくても干さないと靴がダメになりそうだ。滑らないよう注意しながら、それでも雨の中を走る。
     もし、もしいたら。この雨の中、彼があのベンチで自分のことを待っていたりしたら。
     息を切らせながら、彼女は図書館まで辿り着く。重たい雨雲のせいで、昼間だと言うのに図書館は館の外の灯りまで点けてくれていた。雨で煙る公園に目を凝らす。ベンチ、ベンチに人影は……。
    「よか、った……っ」
     よかった、いない。待っていたり、しなかった。
     ハッハッと短い息を吐きながら、彼女は膝に手を突く。傘はもう意味をなしていなかった。上着だけでもオフィスに置いてきてよかったと見当違いなことを考える。着ているシャツもスカートも濡れそぼって重く冷たい。
     ふぅと息を吐くと、彼女はもう一度だけ「よかった」と呟く。そう、これでよかった。待っていなくて、よかったのだ。流石に、こんな雨の中では彼もそれどころではなかったのだろう。
     まだ荒い呼吸をなんとか押え、彼女は長く一度瞬きをして踵を返す。パンプスの中で、濡れたストッキングが擦れてギュッと音を立てた。
     ……だが、そのとき。
    「……なに?」
     ぞわりとした悪寒が背筋を走った。
     体が冷えているからだろうかと、彼女は思わず両腕を抱く。だがそうではない、これはそういった気温や体温の問題ではない。
     彼女はもう一度背後を振り返る。何もない、誰もいないはず。そのはずなのに、首筋に刺すような視線を感じる。何かが彼女を見ている。四方八方から、何かがこちらを狙っている。そう、悪意や害意を感じるのだ。この悪寒は、そう言った敵意に対するものだ。
     バツバツバツと雨粒が弾丸のように傘に叩きつけるせいで、他の物音が聞こえない。雨雲のせいで暗くて、周りがよく見えない。彼女はそれでももつれる足でぐるぐると周囲を見渡した。誰だ、何がいる。一体何が、彼女を見ているのだ。
    「だ、誰、一体、誰なの……っ!」
     先程まで走って熱かった体が、今は凍えるほど冷たい。指先は真っ白になり、傘の柄を抱きしめるようにして握りしめた。とにかくここから離れなくてはと思うのに、足が棒のようになって動かない。
     助けを求めるために口を開いたが、喉がカラカラに乾いて声が出なかった。誰か、誰か助けて。
    「言ったよ、一週間同じ時間に、待ちあわせだって」
     カツンと革靴の音がするのと同時に、バサリと傘が地面に落ちた。
     代わりに、彼女は後ろから羽交い絞めにされるように誰かに抱きしめられる。この雨の中でも薫る、太陽の匂い。
    「約束を違えないようにねって言ったのに、今日は随分遅かったんだね」
    「……っ!」
     振り返れば、彼女同様頭から雨に濡れた彼が目を細めて笑っている。
     同時に、あの刺し貫くような敵意が一斉になくなった。口をはくはくとさせて、彼女は何か言おうとしたのだがうまく言葉に出来ない。安堵で足の力が抜けて座りこみそうになったところを、「おっと」と彼が持ち上げた。
    「大丈夫? 立てるかい?」
    「あ、あな、あなた」
    「なあに? この雨じゃあ、今日は本は読めないかな」
     ね、と彼は笑う。
     一体、一体なぜ、今まで何の疑問も抱かなかったのだろう。どうして今までただの美形だと、そう片付けてしまえていたのだろう。
     雨に煙る公園。それでも温かな明かりの灯る図書館。そんな日常の光景の中に、この男性はあまりにも異様だ。穏やかに緩められた口元も、蜂蜜の色をした瞳も、ふわふわとした金髪も、何もかもがおかしい。異質すぎる。
    「あなた一体、誰なんですか……!」
     彼はその問いにふふと笑いを漏らすと、一層強く彼女を抱き寄せて頭を擦りつけるようにした。
    「いいよ、教えてあげる。もう隠している余裕も意味もないからね。でもここだと君の体が弱ってしまうから。……弟」
    「兄者」
     どこからか低い声だけが彼女に届いた。彼女はきょろきょろと周囲を見回すが、誰の姿も見当たらない。
    「敵影はない。兄者の気配で退散したようだ」
    「そう、流石に馬鹿ではないようだね。ならいい。でも早いなあ」
    「あ、あなた、誰と喋って」
     彼女が聞けば、彼はにこりとして答えてくれた。
    「弟、言ってあったよね。僕の弟だよ」
    「弟……? でも、誰もいな」
     そこまで言ったところでどこからかばさりと頭に何かが被せられた。見ればそれは白いジャケットである。
    「こら、弟。もう少し優しく。確かに寒そうだったけどね」
    「す、すまぬ。どうも加減が掴めぬのだ」
    「えっ、ええっ?」
    「とにかく君、今日は午後から仕事を休めるね?」
     彼に羽交い絞めにされた彼女は、最早頷くことしかできなかった。



     濡れそぼったまま、彼女は急な体調不良ということで会社には早退の届けを出した。尋常ではない彼女の様子に、上司は黙って受け取ってくれた。非常にありがたいことだ。
     そして彼女は今彼と二人で自分の部屋にいる。
    「着替え、ありがとう。ちょっと小さいけどね」
    「すいません、サイズが……」
    「ううん、君の服だし、仕方ないよ」
     やや大きめのユニセックスものを彼には貸したのだが、それでも案外がっしりした体型の彼には小さいようだった。彼は頭からタオルを被ったまま、にこにことして彼女の出したお茶に手を付ける。それから宙に向けて彼は顔を向けた。
    「えーっと、じゃあどこから説明したらわかりやすいかな、弟」
    「ふむ……」
    「ま、待ってください、そもそもその、弟さんの姿が私には」
    「あ、ああそっか」
     ポンと彼は手を打つ。彼には見えているのだろうか、その「弟」が。
    「一応いるんだよ、ここに、弟」
    「えぇ……」
     笑顔で彼は何もないところを指差す。彼女は一応目を凝らしてそのあたりを見つめてみたが、何もない。本当に何もない。彼女に見えるのは、ただ虚空のみである。そこを指して笑みを浮かべている彼に薄寒さまで覚えてきた。
     すると先ほどからずっと聞こえている低い声の方が答えてくれる。
    「信じろと言っても難しいかもしれないが、俺は本当にここにいる。君のことも見えている。先程君に兄者の上着を掛けたのは俺だ」
    「そうそう、あれは弟だよ。君も声だけは聞こえているんだよね」
    「は、はあ……確かに少し、低い男の人の声はするんですけど……」
     だが声だけだ。やはり姿は見えない。けれど彼女は納得することにした。今更何を疑ってかかっても無駄な気がするのだ。
     彼女が頷けば、彼はほんの少し眉を下げて微笑んだ。困ったような、悩んでいるような表情だ。
    「本当はね、弟もちゃんと見えるはずだったんだけど。色々手違いがあってね、僕しかちゃんと来られなかった」
    「あの……その、来るって、あなたは一体どこから」
    「未来だよ。僕は未来から来たんだ」
     さらっと返ってきた答えに彼女はぽかんと口を開けた。
     未来、未来というとあれか。今から先のことのことか。青い猫型ロボットとかがやってくる、あの未来か。
    「ちょ、ちょっと待ってください、未来? 未来ですか」
    「ありゃ、あれは混乱している顔だね」
    「彼女は昔から全く変わらんのだな。逆にわかりやすいぞ兄者」
    「そうだねえ」
     頭の中を整理している間に、彼と彼の弟はごにょごにょと喋っている。ああまったく、虚空に耳を寄せて話している様ははっきり言ってホラーだからやめてほしい。そもそもこれは現実なのだろうか……いっそ夢だと言ってくれないか。
     彼女が何も言えずにいると、彼は穏やかに笑んで身を乗り出す。
    「まどろっこしいから、一気に説明してしまうね。後でまとめてわからないところは聞いて」
    「は、はあ……」
    「結論から言うよ、君はね、月曜日に死んじゃうかもしれないんだ」
     ……もう駄目だ、考えるのをやめよう。彼女は脱力した。
     すると彼がおっとと言いながら向かいからこちらに回り、背中を支えてくれる。
    「細かいことは言えないんだけど……とにかく、君、月曜日に死ぬかもしれなくて」
    「し、死ぬ? 何でです、健康そのものなんですけど」
    「病気とかじゃないんだよ。事故か、それとも辻斬りとかそう言う何かに出くわすのかもしれないけど。とにかく月曜の昼間、いつも僕と会っていた時間帯、あのくらいに死ぬかもしれないんだよ」
     意味が、意味が分からない。けれどもう一つ、冷静な声で説明が入った。
    「本当なのだ、信じてくれ。だがそれは君の寿命ではない。現に、俺たちの来た未来では君は息災なのだ」
    「は……?」
    「でも色々あって、次の月曜から誤差はその前の一週間の間、君がもしかしたら死ぬかもしれないってことがわかったんだ。だけどさっきも言ったけれど、それは君の寿命じゃない。だから僕と弟は、それを止めに来たんだよ」
     ああ、だから一週間。彼女の唯一まともに回った思考回路が、ようやくそれだけ理解した。一週間期間限定で彼が彼女に声を掛けてきた意味、それがわからなかったのだ。
    「誤差は一週間と言っただろう? さっき、君が感じた嫌な感じはまさにそれだったんだ。君がもし、僕がいるかもしれないと思ってあそこに来てくれなかったら。僕は間に合わなかったかもしれなかった。君が来ないからイチかバチかで会社に行こうかなと思ってたんだけど、そうすると君がどこにいるかわからないから探すのに時間を取られていたからね」
    「え……」
    「わからないか。君はあのとき死ぬところだったのだ。兄者が君を見つけるのが一瞬でも遅れたら」
     あのときの刺すような視線と害意を思いだし、彼女は身を竦ませる。あれは、あのとき感じた恐怖は間違っていなかったのだ。
    「信じてくれる?」
     蜂蜜色の瞳がこちらを覗きこむ。ふわふわの金色の髪が鼻先を擽った。
     彼女は深く息を吸って何かを言いかけたけれど……結局、ゆっくりと頷く。もうそうする他ないだろう。あまりにも理解の範疇を越えていたことが、彼らの説明で全て辻褄が合うのだ。ならば信用する以外ない。
     彼女が首を縦に振ったのを見て、ほうと見えない誰かが息を吐いたのがわかった。彼の方も胸を撫で下ろして安堵する。
    「よかった、この期に及んで君に逃げられたら僕ら流石に任務を遂行できるか自信がなかったもの」
    「ああ、そうだな、兄者。君の理解に感謝する」
     なんにせよ、自分の身が危険に晒されていることは確かだ。彼らを受け入れて、今後どうするのかを考えなえれば、恐らく本当に死ぬことになる。それだけは理解できた。
    「それで……今日は、事なきを得たようですが、月曜日まで私が無事なら、それで大丈夫なんですか?」
     例えば何事もなく、彼女がこうして家に居たのならば。引きこもって誰にも会わず、何にも接触しなければ。彼女の命は長らえると言うのだろうか。その問いに彼は首を振った。
    「いや、そうじゃないね。元を絶たないと意味がない」
    「元を絶つって」
    「簡単だよ、僕たちが敵を倒す。それだけさ。僕と、弟でね」
    「うむ」
     何事もないように、彼はひらっと手を振りながら言った。だが彼女の頭には再び疑問符が浮かぶ。倒す? 何をだ。
    「倒す? 倒せるものなんですか?」
    「うん、大丈夫。僕たちはね、その為にここに来たんだから」
    「如何にも。君は心配しなくていい」
    「は、はあ……」
     一体、彼らは何者なのだ。
     彼女と彼と彼の弟は話し合い、今日は体力の温存のために休み明日に「敵」を倒すと計画を立てた。話し合ったと言っても、殆ど彼と彼の弟が段取りを決めたのだ。彼女に出来ることはないので。
    「そういうことだから、今日は僕ここに厄介になるけど、いいかな」
    「えっ」
     ひとしきりどうするか決めたのち、彼は何でもないように彼女に尋ねた。それは想定していなかったので、彼女は思わず声を上げたがそれはそうだ。というか今まで寝るところなんかはどうしていたのだ。彼にそれを聞けば曖昧に笑って「……まあ」なんて言っている。もうやめておこう、変に追及するのは。
     彼女は考えて、自分は床にやや厚めのクッションを引いた。一人暮らしの部屋なので、ベッドは一つしかないし客用の布団なんかもない。まだ寒い季節でなくてよかった、掛布団は適当にどうにかなる。
     ぱたぱたとそう言った用意をする彼女を見て、彼はベッドに座りながら言う。
    「いいんだよ、僕が床でも。ここは君の部屋なんだし」
    「いえ、明日動くのはあなたのほうなので」
     倒す……というのがどういった行為を指すのかわからないが、少なくとも肉体を使うはず。だったら床に寝かせて、がちがちの体になんてさせられない。彼の弟のほうは「俺は見張りに出る」と部屋から出て行ったようだった。そういうわけで、部屋には彼女と彼とが二人残される。
     起きているのもなんだったので、彼女と彼は簡単に食事を済ませるとすぐに寝支度をした。電気を消そうと立ち上がったとき、不意に後ろから声を掛けられる。
    「ごめんね、この一週間」
    「え?」
     振り返ると、ベッドから彼は微笑んで言う。
    「でも明日で終わるから。だからあと一日、我慢しておくれ。そうしたら、僕たちも帰ってしまって、君もいつも通りに戻るから」
    「……」
     彼女は息を吸いこんだまま、すぐには返事ができなかった。だが視線を照明のスイッチのほうに戻して、「はい」とだけ言う。
     パチリと無機質な音を立てて、部屋の中は真っ暗になった。



     ヒュゥ、ヒュゥという隙間風のような音で、ぼんやりと意識が深いところから昇ってくる。慣れない床なんかで眠ったからだろうか。薄く目を開けた彼女は、音の正体を伏せたままで探した。頭上のカーテンは微動だにしていない。戸締りはしたのだから、当然だ。しかし外からは未だ降り続く雨音の他に、何か細い呼吸のようなものが聞こえる。
     そこでやっと、彼女は今自室に自分以外の誰かがいる事を思い出した。
    「だっ、大丈夫ですか?」
     がばりと起き上がれば、ベッドの上で彼がうつ伏せに蹲っていた。風の通り抜けるような音は、彼の苦しげな呼吸音だったのだ。
    「ありゃ、ごめん、ね、起こしちゃったかあ」
    「えっ、ど、どうし、どこか痛むんですか?」
    「ううん、平気……大丈夫だから、君は、休んで、いて」
    「大丈夫そうに見えないですよ!」
     まるで喘息のときのような荒い息をして、彼は蹲っていた。水、とりあえず水を。彼女は立ち上がり、シンクで水を汲んできた。しかし飲めるだろうか、助け起こさねばならないだろうか。彼女はやや考え、彼を覗き込む。
    「お水、取ってきました。飲めますか?」
    「ん……ありがとう、でも、今はいい、かな」
    「じゃあ、じゃあ要るようになったら言ってください。あ、あとは、どうしよう」
     そうだ、背でも擦れば。彼は自分自身を抱きかかえるようにして苦しそうにしている。一体何が原因かわからないが、呼吸の感じが喘息や咳き込んでいるときに似ている。だったら少しでも楽に、と彼女が彼に手を伸ばしたときハッとして彼が叫んだ。
    「僕に触るな!」
    「っ!」
     だがそのときには丁度、彼女の右手は彼の背に触れていたのである。
     ピッと何か、彼女の掌を走った。それは冷たい衝撃、あまりにも鋭利な痛み。弾かれたように彼の背から手を離す。つぅと玉のような血液が膨れ、彼女の手首を滑った。
    「なん、で」
     切れている。一直線に、彼女の掌は切られていた。それも結構深い。慌てて彼女は左手で傷口を合わせるように押えた。
    「っ、ぐっと押えて!」
    「う、痛」
    「痛いかもしれないけど、お願いだよ。ぎゅっと、合わせるようにして」
     懇願するような彼の声の言うように、彼女は痛みをこらえて傷口を押える。暫くして血が流れなくなった頃、離せば傷はぴたりと閉じていた。
    「本当に、よく斬れるものでできた傷は、すぐなら閉じちゃうんだ。よかった、深手に、ならなくて……。消毒をして、何かを当てて。きっと、それで普通の切り傷と同じように治るから」
    「は、はい」
     彼女は簡単に傷口を洗い流すとガーゼを当てて固定した。彼のほうを見やると、まだ荒い呼吸をしているものの先程よりはましになっている。
     それよりも……一体、この傷は何だったのだ。彼女は彼の背中に触れただけである。まさか服に剃刀の刃など仕込めまい。それにそもそもあれは彼女の服だ。ならば想像ができる理由は、たった一つ。
    「あなた……人間、なんですか?」
     こちらを見ている蜂蜜色の瞳が、暗闇の中でも煌めいた。
    「本当は、最低限の接触しか、しちゃいけなかったんだ」
     ふふ、と笑いながら彼が言う。ぎゅうと彼が自分自身を掻き抱く指には力が籠って白くなっていた。
    「でも、僕、前にも言ったかもしれないけれど、あまり君と話したことがなくって」
    「……未来の私と?」
    「ちょっと、言い方が違うかな……君は僕のこと、苦手、だったのかも。今も、そうだったよね?」
     ギュッと彼が横たわるシーツを彼女は握りしめた。右手が少しだけ痛む。
     苦手だった、苦手だったとも。月曜にいきなり声を掛けてきて、それから今日まで。突飛もないことを言って、いつだってマイペースで。
    「僕が話しかけると、君、いっつも眉間に皺を寄せて、困った顔してた」
    「……」
    「でも、だから今回の任務、僕が引き受けたんだ。君と僕、仲良くしなかった分、縁が薄くてね。それで僕しか、君の傍を離れられなかった。君、今未来で、消えかけてるんだ。だから、助けてあげなきゃ。今ここで君が死んだら、本当に、消えちゃう」
     はあ、と息を吐きながら彼はとつとつと喋る。本当は、色々聞きたいことがあった。けれど今はどの一つも聞き逃してはいけない気がして、ただ彼女は同じように息を詰めて耳を澄ます。
    「でもいざ、君のこと、見たら。君、何にも変わっていないん、だもの。だから一週間くらい、いいかなって。君と、お喋りしようって、思って」
    「どう、して?」
    「ふふ、だってさ、今君と仲良くなったら、もしかしたら、未来の君も、僕と仲良くしてくれるかも、しれないじゃないか」
     あははと脂汗を流して彼は言う。ぐぅと彼は一層苦しそうな声を上げて、その額をシーツにこすり付けた。思わず体に手を掛けてやろうとして、彼女はやめる。だめだ、触れては、だめなのだ。
    「じゃあ、帰ったら……未来の私は、あなたと仲良く、出来るんでしょうか」
    「ん……だと、いいなあ。そうだと、いいんだけど。君を無事に、助けたら……」
     あれ、でも、待って。
     彼女はそこではたと違和感に気付いた。今、彼女が接触しているのは未来の彼。彼が未来に戻って出会うのは……彼に助けられた自分。では、未来は変わるのではないのだろうか。だって、これから先の自分はきっと彼の記憶を保持している。そんな自分が彼と疎遠になるものだろうか。
    「あの、明日、敵を倒したら……あなたは未来に帰るんですよね?」
    「そう、だよ」
    「その未来って……正確には、あなたが来た未来では、ないですよね」
     ぱちぱちと蜂蜜色の瞳がゆっくり瞬きをする。それからくつくつと肩を震わせて笑い始めた。はは、あははといくらか声を上げた後、うっとまた身を縮める。
    「君、昔から変なところ頭が回るんだなあ」
    「やっぱり……っ! あなた、帰れなくなるんじゃないですか!」
     彼女は本来ここで死ぬはずではないらしいので、過去を変えることにはならない。しかし彼女の思い出に彼は干渉している。今ここにいる彼女が彼のことをなかったことにしなければ、彼の辿り着く未来には至らないのだ。だがそんなのは、無理である。
     何故なら彼女と彼とはもう既に、出会ってしまったのだから。
    「ねえどうか、自分を、責めないでね。最初から、無事に帰れるかわからないって、僕も弟も知っていたんだから」
     息遣いは荒くとも、彼は穏やかな声音でそう言った。彼女に向かって手を伸ばしかけ、それからおっととややおどけた調子でやめる。
    「仮に僕が、君に声を掛けなかったとしても。僕は過去の君に、干渉することになる。それは君が死なないっていう、正しい歴史を守ることだけど……君の未来に幾分か、小石を投げ込むのと同じなんだよ。その波紋がどう、未来の僕に影響するかなんて、わからない。だから、僕はそれを承知で一週間、君と仲良くしたかった。どうせなら、ねえ。いるかどうかわからない未来の僕だけじゃなくて、今の僕だって、良い目を見たいじゃないか」
    「でも、そんなっ! じゃああなたは、どうなっちゃうんですか」
    「ふふ、どうなるかな……もう、ちょっとこの形を保つのが、厳しくなってきちゃったかも。弟は早々に、ヒトの形を持てなくなってしまったし。でも大丈夫、明日までは絶対に、君のこと、守るからね」
     くすくすと笑いながら彼はほうと息を吐く。苦しげな呼吸がやや落ち着いた。しかしそれは小康状態を得たと言うよりは、彼が無理矢理に自分の身体を抑え込んでいるようにも見える。
    「せめて、ねえ、せめて名前を、教えてください。そうしたら、そうしたら私」
     その懇願に、彼は悲しそうに眉を下げて首を振った。
    「ごめんね、まだ、ただのヒトの君に、僕の名はあげられないんだ」
    「そんな……っ」
    「……君が、そんなに欲しがってくれるなら、どうでもいいとか、言ってられないんだけど。でも、ごめんね」
     彼女はもうなんだか涙が出てきて、シーツに顔を埋めた。そんなの、そんなの酷い。だったら声なんて掛けてくれなくてよかったのに。五日間一緒に過ごしておいて、あんな風に一緒にいて、どうして今更そんなことを言うのだ。
    「あと二日、あったのに」
     本だって、あと二冊。
     必ず別れるのがわかっていて、どうして声を掛けたの。
    「うん……僕もそれだけがとても、残念」
     名も知らず、手さえも繋げないその人を、どうして好きになってしまったのか。



     六日目も、雨だった。雨脚は昨日から一向に弱まる気配がない。彼女は自分の部屋の窓からその重たく濁った空を見上げた。振り返ると、彼はきゅっと自分で何か武具のようなものをつけている。器用に唇で結ぶための紐を咥え、左手に真っ白な籠手を装着した。
    「……確かに、その格好で公園にいたらものすごく目だったでしょうね」
     彼女がそう言えば、彼はこちらを向いて首を傾げる。
    「え? ああ、そうだよね。だから上着とこのへんのは全部弟に預けちゃってたんだ。あの格好ならヒトの子みたいだっただろう?」
     ふふと笑って彼は腰に長い刀を提げた。……きっと、あれが。彼女はそう思ったけれど、口にはしない。代わりにぎゅっと右手のガーゼを固定した包帯を握りしめる。
     場所はこのアパートの屋上にした。施錠されているかもしれないと言ったが、それは弟が何とかすると彼が笑ったのだ。開けていて、人目にはつかない。彼らの提示した条件に屋上は丁度あっていたのだ。
    「行けるかい?」
     支度を終えたらしい彼が問う。彼女は玄関にあった傘を手に取って、頷いた。けれど外に出ようとしたとき、「あ」と彼が声を上げる。
    「ねえ、残りの本、なんだったの?」
     振り返り、彼女は首を振る。
    「……内緒です。次に会ったときにしましょう」
     そう答えれば、彼はあの蜂蜜色の瞳を和ませて微笑んだ。
     彼の言うように、屋上へ続く扉は施錠が解除されていた。ドアノブが回ったのを確認し、彼がこちらを見る。
    「弟、いるよね」
    「兄者、ここに」
    「よかった、まだいて。お前、無理だよね」
    「……すまぬ、もう無理だ。兄者にももう気配しか伝わらぬだろう」
     無理とはなんだ。彼女はハッとして顔を上げた。もしや、もう本当に弟のほうは消えかけているのか。彼女は慌てて彼の白い上着を掴む。
    「一人で相手にするんですかっ?」
    「まあ、仕方ないよね。大丈夫だよ、予想の範囲内だし」
    「で、でも、数、多いんじゃないですか?」
     四方八方から感じたあの嫌な視線。あれは一つ二つの気配ではなかった。尋常じゃない数だった。それを彼一人が相手取ると言うのか。一体なんなのかわからないような、得体のしれない敵を。
     しかし彼はアハハと笑うとぐっとドアノブを握る。本当に、行くつもりなのだ。
    「大した問題じゃないよ。弟がいたって、僕一人だって、結局は勝たないといけないんだし」
    「でも!」
    「大丈夫、大丈夫」
     ふわふわの髪が、揺れる。彼女の耳元まで彼は唇を寄せて、そっと囁いた。
    「君は僕を信じて、祈っていて。それが一番僕の力になるから……気休めじゃない、本当だよ?」
     ぐっと唇を噛み締め、彼の瞳を見つめ返す。
     彼がそう言うのなら、信じよう。今の彼女にはそれしかできない。
     ギィと錆びた音を立て、屋上の扉が開く。傘を開いて彼女が一歩外に出ると……その瞬間あの寒く厭な悪寒が背中を撫でた。いる、信じられないくらいの数がいる。何かが彼女の全身を、ねめつける様な粘っこい視線で見ている。
    「さて、鬼退治の時間かな」
     彼がそう呟いた途端、彼女の手にしていた傘が吹き飛んだ。
    「ヒッ」
     赤い眼光が見えた。禍々しい、異形の姿。何の、何の匂いだ。鼻を突くこの刺激臭。形容しがたい、しかし嫌悪感だけは消し去ることのできない匂い。それらが塊になっている。そして皆一様に同じものを彼女に向けていた。
     殺意だ。
    「っ!」
    「大丈夫だよ」
     ビュッと風を切る音と共に、何かが吹っ飛ぶ。彼が右腕を振るのと同じように孤を描いて、屋上のコンクリートの床に赤黒い飛沫が飛び散った。
    「弟!」
    「わかっている!」
     彼が叫べば、声だけが応えた。同時に彼女のことを何かが抱き留めて後ろの倉庫の物陰に連れ込む。ああ、もしかして。
    「弟さん?」
    「すまぬ、もう俺は戦えない。手荒なことをするかもしれないが、許してほしい。なんとかついてきてくれ」
    「っわかりました!」
     革靴が水しぶきを立てて床を滑る音が響いた。彼が駆け、何かを屠る音。金属と金属がぶつかっている。隠れている彼女にはそれしかわからない。
     ぎゅっと手を合わせ、彼女は祈った。祈ることが一番彼の力になると、そう言ったのだ。だからそうする他にない。どうか、どうか彼が無事でいますように。
    「弟、そっちだ! 避けろ!」
    「承知!」
     彼女が隠れていた倉庫に何かが激突し揺らいだ。その瞬間に彼の弟が彼女の腕を引き走り出す。早い。彼女の普段の三倍ほどの速さで、彼女は移動させられた。だがその刹那、何かが飛び出して来て彼女と彼の弟とを繋いでいたはずの空間を横切る。
    「ぐぁっ!」
    「弟さんっ!」
     何もないはずなのに、ビシャリとそこには血飛沫が散った。どんどん広がる真っ赤な水たまりを見て、彼女の足がすくむ。けれど間髪入れずに、琥珀色をした鞘が歪な音を立てて別な刃を受け止める。
    「……よくやった、我が弟よ。また後の世で巡り会おうぞ」
     ギリギリと右手で刀を振るい、左で鞘を押える彼がそれでも微笑んで言う。ほう、と安堵するような吐息が雨音の中でも響いた。
    「……三途の川でお待ち申し上げる、兄者。ゆるりと、お参り下され」
     ああ、逝ってしまった。姿は見えなかったけれど、彼女はそちらに手を伸ばす。消えてしまった、いなくなってしまった。一度も顔を合わせたことがないはずなのに、彼女の脳裏に誰かが過ぎる。胸が割かれてしまいそうなほどに痛い。
     力で押そうとした敵を足で押し戻し、彼はそれでも敵のほうを向いていた。ああまだ、あれほどに数がいる。
    「ふふ、正真正銘、僕一人になってしまったね。……ちゃんと名乗りを上げられないのが、残念だよ」
     すうと息を吸うと、彼は鞘を投げ捨てて両手で刀を構えた。
    「やあやあ、遠からんものは音に聞け! 近くば寄って目にも見よ! 我が誉高き死にざまをとくとご覧じろ!」
     それは獣の、吼えるような声だった。金の髪を振り乱し、逆立てて咆哮する獣。白い衣装が赤黒い染みで斑に染まる。彼女はただ一心にそれを見つめ続けた。彼女を庇うがために、そこから一切動こうとしなかった広い背中を、注視しながらただ祈る。
     鋼の煌めきを、そのしなやかな太刀筋を、決して忘れることのないように。
     お願いします、どうか神様。どうか、どうか。
     永遠にも思える長い時間が過ぎたのち、スゥと一筋厚い雲を裂いて光が差し込んだ。雨が、止んだのだ。一滴、零れ落ちたのが血液だったのか雨垂れだったのか。だがそのひとしずくを最後に、剣戟の音は遂に止んだ。
    「お、わった……?」
     ゆらりと逆光にその白い上着が翻る。彼女が最初に出会った彼も、思えばそうして現れた。
    「……よく頑張ったね。ありがとう、信じていてくれて」
     穏やかな声が聞こえて、彼女は思わず顔をくしゃりとした。そちらに駆け寄ろうとし……足が止まる。彼の姿は、差しこんだ陽の光に透けていた。
    「……行って、しまうんですね」
    「ふふ、うん。もう限界。弟も待っているし、行かなきゃ」
     うーんと一つ彼は伸びをする。随分、清々しい表情だった。
    「もう会えないのでしょうか」
     わかりきっている問いを彼女はあえて投げかけた。気休めは要らない。ただ確認したかった。彼はこちらを見ると、目を細めて首を振る。
    「……わからないや。僕はそのつもりだったけど」
    「けど?」
    「だって、君と今の僕の間に縁が出来てしまったから。ほら、君の手を見て」
     指を指された自分の右手を見る。そこには包帯が巻かれていた。握りしめていたせいか、僅かに血がにじんでいる。ひりひりとした痛みさえ訴えているその傷が、彼との縁だと言うのか。
    「ヒトの子の記憶はあやふやだけど、君の体に残ってしまったからねえ。僕、結構切れ味がいいんだ」
    「……いや、覚えてますよ」
     忘れるわけない。一緒にいたのはほんの少しのことだったけれど。
     彼はそれには頷かなかった。けれど瞳を和ませて微笑む。
    「まあ、とにかくそれを辿って、どこかで会えるよ、弟も一緒にね。大丈夫。それに、約束が途中だから。言ったじゃないか、僕は約束を違えないよ」
     一週間の約束の内、今はまだ六日目である。だから、大丈夫。
     雲の切れ間から射す光が増えるごとに、彼の身体も段々と見えなくなっていった。彼女は目を凝らすようにしてその姿を見つめ、包帯を巻いた右手を伸ばす。
    「次にお会いするときには、名前を教えてください。ここまで勿体ぶったんですから、きっととても素敵な名前なんでしょうね」
     そう言えば、彼は悪戯っぽく肩を竦めて笑った。
    「さあ……君は気に入って、くれるかな」
     取られなかった手は、ただ太陽の光に伸ばされる。
     雨が、あがった。



    「無事に戻ってこられるかどうか、わかりません」
     管狐に、そう言われた。主が伏せって、もう何日になるだろう。わからないが、事態が急を要していることは明白である。
     時間遡行軍が、直接審神者という存在を消しにかかっている。彼女が眠って目を覚まさなくなってしまってから管狐はそう説明した。審神者の過去へ攻撃を初め、彼らが審神者になる前に殺そうとしているのだ。それを阻止するためには、審神者たちの過去へ飛び、遡行軍を殲滅しなくてはならない。しかしその任務には一つ、難点があった。
    「最低限の接触に留めたとしても、髭切様は主さまの過去に介入してしまうのです。歴史を変えたことにはならずとも、主さまの未来に少なからず影響が出ることは否めないでしょう。その結果、ここにいるこの本丸の刀剣男士としての髭切様が消えてしまっても、道理としては間違っていないのです」
    「まあ……そうなるよねえ」
     言っていることは間違っていない。今から髭切がしようとしていることは、歴史改変にはならなくとも一人のヒトの子の過去に干渉すること。彼女の死なない未来を守ること。だがその結果、消えるのが刀剣男士一振ならば相対的には安い代償ではなかろうか。最悪の場合、刀剣男士の自分には代わりがいるのだし。
     しかし髭切は隣にいる弟を見る。自分は行くつもりだが、弟までむざむざ死なせることはないだろう。
    「だって、どうする? 弟」
    「何を言うのだ、兄者。貴方が行かれると言うのに、俺が行かぬ道理はない」
     心外だと言う表情で、弟は一も二もなく答えた。微笑んで、髭切はその頭を撫でる。一振よりは二振のほうが心強い任務であることは確かだ。
    「ありがとう、膝丸。……他の子たちはもう、動けそうにないからね」
     主と縁深かった初期刀を初め、刀剣たちは次々に身動きが取れなくなってしまっていった。まあそれも道理だ。主の存在が消えかかっている。ならば主が励起した刀剣男士たちとて同様だ。同じように、消えていくしかない。
    「ま、僕がその動けなくなってく子たちの中に入れなかったのはちょっと癪かなあ」
    「む……しかしそれは兄者が悪いのだぞ。彼女を困らせてばかりいるから」
    「えぇ? 僕は仲良くなりたかっただけなんだけどなあ」
     だが反りが合わないとでもいうのだろうか。なかなか、うまく距離を詰められなかった。
     おかげで彼女がどんな子なのか、髭切は未だに掴みかねている。しかし最初の日だけはよく覚えているのだ。やってきた髭切に、笑って手を伸ばして。後ろから射していた陽の光が眩しかったことさえも、全て。
     出立前、眠る彼女の部屋を開けて髭切は最後の挨拶をした。固く閉じられた瞳は、誰かが開けてやらねばなるまい。だから自分が行くのだ。それで、帰ってきたら……笑って言おう。僕のおかげで、君は目が覚めたんだよって。
    「……次は、僕とも仲良くしてね」
     だから、仕方なかった。過去とはいえ髭切の知る姿そのままの彼女が、現世で本を開いているのを見て。本当はちょっと、周囲の様子に変わりがないか様子を見るだけのつもりだったのに。彼女が真っ直ぐ髭切を瞳に写したから。
     もう二度と戻れないのならば、たった一週間でいい。七日の間だけ、髭切と話をして、一緒にいてくれるのなら。
     戻るべき場所を失くした髭切は、虚空に手を伸ばす。
     最後に、手くらい握っても罰は当たらなかったかな。ふふと溶け始めた輪郭に笑みを浮かべ、髭切は目を閉じた。



    「えぇ? いきなりそんなに資材入れるのっ?」
    「入れるの。ちょっと見てて、自信あるんだから」
     彼女は先程知り合ったばかりの初期刀に笑って見せて、鍛冶場に二冊、本を置いた。右手を何度か開いたり閉じたりしてみる。その掌には、一筋線が引かれたような痕があった。
    「何それ、傷? 大丈夫?」
    「ん、平気。前にね、ちょっと。切味の良いのでスパッと」
    「うわ、痛そう」
     うん、確かに痛かった。彼女はくすりと笑ってその傷を撫でる。
     あれから、長いとは言えないまでもそれなりに時間が経った。普通の生活とはかけ離れ、ある日突然送られてきた招集状。政府だとか審神者だとか聞きなれない単語と自分とは程遠そうな状況説明の中、励起するのは「刀の付喪神」だという言葉にああやっとそのときが来たのだと彼女は悟った。
     いつか必ず、その日が来ると知っていた。彼女は右手にその縁をずっと握りしめ続けていたのだから。
     初期刀が止めるのも聞かず、最初の研修で習った事を思い返しつつ資材の量を設定する。最初は短刀を狙ったほうがいいだとか、定石は知っている。だがここまで待ったのだ。もう、彼女の方から迎えに行ったっていいだろう。
     炉が赤く燃え、鍛冶場が温かい空気で満たされる。彼女はあの日と同様に、光の中に右手を伸ばした。
    「……さあ、今度こそあなたの名前を教えてください」
     ふわりと薫る日向の香り。桜吹雪の中から現れたその手は、今度こそ確かに彼女の手を握った。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/01/31 17:00:00

    あなたのなまえ

    人気作品アーカイブ入り (2023/01/31)

    #髭さに #刀剣乱夢 #女審神者
    髭切と出会って別れる話。

    以前pixivに掲載していたものの再掲載です。

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品