きみはすきなこ
結果論だが、それまで私は恋愛運のバランスを取っていたことになる。
なにせ全くと言っていいほど、恋愛にいい思い出がない。例えば……いや、上げたらきりがない。やめよう。だから彼女は思った、おそらく、自分は、「はなからそういうことに縁と運がない」のだと。
だから今になって思えば、もしかしたら。
もしかしたら、私ははたった一人その人に出会うために、運を取っていたのかもしれなかった。
「僕を君の彼氏にしてくれないかな」
耳を疑った。突然何を言っているんだろうと思った。
学食で正面に座っているのは、同じ学科で同じゼミの学生だ。今年同じゼミになって、くじ引きで研究のペアになった。接点はそのくらいである。他にいくらか講義が一緒になったことはあるけれど……けれど、という程度なのだ。なにぶん、人数の多い学科なのだ。
メモを取っていた手を私は止めた。中途半端に聞いたからいけないのだ。にこにこしている彼に問い直す。
「源君、なんて?」
「だめ? 今他に彼氏、いる?」
聞き間違いではなかったらしい。同級生の源髭切君ははっきりと彼氏と言った。源君は自分に彼氏にしてくれと言っている。何故だ、どうして。
「いないけど」
「じゃあそれって僕でもいい? だめ?」
「なんで? 冗談にしては質が悪いよ」
笑いながら私は言ったけれど、源君のほうはきょとんとして首を傾げただけだった。
「おや、冗談じゃないよ。本気で言ってるんだけど」
源君は基本的にいつも人のいい笑顔を浮かべていて、今もそうだった。優しげで、穏やかな表情でシャープペンシルを取り落とした私の手を取り、もう一度言う。手が私よりもすべすべだった。
「君のことが好きだから、僕を彼氏にしてほしいんだけど、だめかな」
ふざけている風にはどうしても見えなかった。というかこれ以上疑ってかかると源君にも失礼な気もした。ただでさえ一度冗談でしょうと聞いてしまっているし。
困って、焦って、悩んで、何とか一言絞り出した。口の中が酷く乾いていた。
「ご、ごめんなさい」
それしか言えない。源君は何度か目を瞬いた。
「ありゃ、そっか」
「う、うん、ごめんね」
すんなりと、源君は私の言ったことを受け入れてくれる。それに少しだけホッとした。あんまり落ち込まれたりされては、いたたまれない。しかし引こうとした手はなかなか離してくれなかった。どうして。
「理由は?」
「えっ、理由?」
食い下がられた。いや、でもこっちだって逆の立場ならそれはちょっと気になるかもしれない。だが聞かれるほうになると困る。
「今、特に好きな人とか、いないから……彼氏作ろうかなって気もないし」
「そっか」
本当にそうだったので、私は事実だけを述べた。そうするとやっと、するりと手を離される。納得してくれたらしい。私はホッと息を吐いて、再びシャープペンシルを取る。
ルーズリーフにメモを取ろうとして……一応源君に尋ねた。
「あの、源君、誰かとペア変わってもらう? 今さら難しいかもしれないけど、源君相手なら誰かそうしたいって言うかも」
すると資料を手にした源君は不思議そうにこちらを見つめた。蜂蜜のような色をした、ビー玉のような目だった。
「どうして? 君、僕と組になるの嫌かい?」
「えっ、ううん、大丈夫。源君が平気なら、全然」
不思議な人だなあと私は思った。いや、最初に会ったときからずっと、源君は変わった人だった。
ゼミが同じの源髭切君はかなり目立つ人で、私も入学当初から何度か名前は友達の間で聞いたことはある。何故なら源君は顔立ちが大変……いや、大変なんて程度で済ませていいのかわからないくらい整っているのだ。そういう人はかなり目を引く。加えて人当たりもいいようで、いつもにこにことしていて周りには人がいた。
だから普通にしていれば、私にに突然彼氏にしてほしいなんて言ってくる人ではないはずなのだ。普通に、していれば。
「はあっ? 告られたっ? なんで」
「私が聞きたいよそれ」
カフェオレ奢るからの一言でヒトコマさぼってくれた別学科の中学からの友人、清光に事の次第をぼやく。清光は一度取り落としそうになったプラスチックのカップを持ち直して、真ん丸に見開いた目で上から下まで私を見た。
「いやー、なんで、今の今まで男っ気なし、彼氏なしのあんたに。自分で恋愛に運も縁もないって言ってたじゃん」
「いやだから、わかんないって」
「ゼミ一緒になっただけって言ってなかった?」
「うん……」
それだけ、なのだ。本当にそれだけ。源君と私は地元も同じではないし、サークルも違う。というか、源君はサークルになんて入っていないようだ。バイトもしているのかどうか知らない。聞いたことがない。そのくらい、私は源君のことを知らない。
ズココと音を立てて清光はカフェオレを啜った。氷の関係か、あまり量は多くなかったらしい。
「はー、しかしあの源ね、あの……」
「あのってやめない? あのって」
「いやでも、あの源だろ、あんたも噂知らないわけじゃないでしょ?」
まあ、そうなのだけれど。私は苦笑いした。源君と言えば……「あの」源君である。
なんでも、あまり女性関係でいい話を聞かない、ような。私はまた聞きの話なのだ。信憑性は知らない。ただそういう話たまに……、いや、結構頻繁に聞く。
「仕方ないじゃん、あの顔じゃモテるでしょ、そりゃ」
「いや本当に、綺麗な顔だなと思う……それは思う……」
「まーね。そりゃ女絶えないよ、固定の彼女はいないって聞いたけど」
「当たり前だよ!」
彼女がいて私にあんなことを言っていたら大問題だ。前提条件としてまずい。しかし、私の中で源君と言えば「あの」源君なのである。悪い人だとは思わないが、、思わないがと前置いてしまう程度。前情報が良くなかった。
カラカラと氷の入ったプラスチックカップを振りながら、清光が中身を見る。どうやら本当に空になってしまったらしい。
「それで? なんて返事したの」
「もちろん断ったよ」
「あっさり振ったの? もったいな!」
「清光?」
「いやごめん、つい本音が。えっそれで普通に別れてきたの?」
清光の問いに私は頷いた。元々今日は別に、ゼミの日ではなかった。だがゼミの時間内は基本的に他の学生の発表を聞いて質疑応答をする場であり、研究したりそれを取りまとめたりするのは個々人でなんとかしなくてはならない。だからゼミの日にいつがいいか聞いて、今日は空き時間を使って源君と発表の準備をしていたところだった。
あれから源君と私は普通に発表の段取りを決め、次にまとめておかねばならない箇所を決め、四日後のゼミで確認しようと言って別れた。「じゃあまたね」と源君は笑っていたし、私もそれに「またね」と返した。ペアを変えるか聞いて平気だと言われた以上、またがあることになる。
「全然わかんない、普通気まずくなったりするでしょ、普通」
「私は気まずかったけど、源君はそうじゃなかったんじゃ、ないかなあ……いや、わかんないけど……」
「まー、源が気を遣ってる可能性はまあ、あるけどね」
やはりそうなのだろうか。居たたまれない気持ちになって私は肩を竦めた。気にしても仕方ないとわかってはいるのだけれど、源君がこちらを気遣ってそうしてくれた可能性はもちろん考えていた。申し訳ない……。
「全然そんな感じじゃなかったから、源君。わかんなかったし何より動揺しちゃった、どうしよう」
本当に、源君は最初から至って普通に私に接してきた。
「初めまして、籤で一緒になった髭切さ。発表までよろしくね」
最初に挨拶したとき、にっこり笑ってそう言った顔がとても綺麗だったので、そりゃあ女の子が放っておかないだろうなとは思った。噂を聞いていただけに若干身構えていたのだけれど源君は礼儀正しく、聞いていたほど女たらしには見えないような、そんな気がした。連絡先も交換しなかったくらいだ。研究だって、いつもちゃんと進めてきてくれていたし、今日そんなことを言い出されるまではまるで。
「どうしようったって、ねえ。断ったんでしょ? それまでじゃん」
その通りでは、あるのだが……。はあと私が溜息を吐いて鞄を抱え直したのを見て、清光が咥えていたストローを離す。
「最悪、あんたから気まずいからペア変えてって言ってもいい気がするけどね」
「わかるんだけど……なんだかそれ、申し訳ない気がして」
「……なら試しに付き合ってみればよかったのに。あんた彼氏いないでしょ」
ぎょっとして私は清光の方を見た。なんてことを言うのだ。清光は笑うでもなく、ただ無表情に私の方を見ている。
「むっ、無理だよ、そんなことできない。源君に悪いし、何より私が嫌だよ」
そんな、噂がどうであれ源君の気持ちをいいように利用するなんて絶対に嫌だ。勢いよく首を振った私を見て、ふっと清光は瞳を緩めて笑った。
「そう言うと思った。ならあんたの良心が痛まない程度に源と接するしかないんじゃん? どうせゼミが同じだけなんだし。発表が終わったら話すことだってなくなるでしょ。向こうが普通にしてるんだったら、普通にしてな。源だってそのほうが楽だよ」
よっと、と軽く言って少し腰を上げた清光が、側のごみ箱にプラスチックカップを投げ入れた。カコンとそれは綺麗に収まる。清光はスマホに目をやった。
「俺今サボったので今日終わりだったんだけど、あんたどうする? こっからあと」
「あー、いや、語学だから一応出るよ。……でも一コマで終わりだから、ケーキとか買ってきてくれたら後で家行って、食べるけど、なー?」
私が言えば、清光はむっと口を尖らせた後にこちらをデコピンした。
「もー、現金な奴」
「あはは、だってなんか聞いてほしそうだったし。じゃああとでね」
「はいはい、終わったら連絡してよね! お茶淹れとくから!」
じゃあと手を上げて清光は行ってしまった。
中学のころからの友達である清光は、大学に入ったタイミングで一人暮らしを始めた。それは私も同じで、まあそれなりに清光と面識のある両親が「清光君と一緒なら大丈夫なんじゃない」なんて大雑把すぎる許可をくれたからである。最近、その一人暮らしの家の近くに最近ケーキ屋が出来て、清光はそこでバイトしている女の子がどうにも気になるようなのだ。そういうわけで、清光は何となくケーキ屋さんに足繁く通っている。だから清光の最近のお土産はケーキが多い。
「またあとでねかあ……」
清光は所謂、私の初恋の人だ。