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    しおり
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    獅子の心臓


     元気そうな子だったから。源氏の惣領である髭切が彼女を嫁に選んだのはそんな理由だったらしい。候補になっている少女たちの中で、一番健康そうだったからと。彼が選べばほぼ決まり、といった感じの一方的な見合いで彼女の資料として提出されたのは一般的な身上書ではない。健康診断の結果だ。それを見ての判断だという。将来的に源氏の嫡男を産んでもらわなくてはならないから、できるだけ若くて、元気な子がいいな。そんな風に髭切は言ったようだ。
     結婚する前に彼女はそれを両親から聞かされた。それは完全に娘を跡継ぎ目的でしか見ていなかった髭切を両親が心配してのことで、もしも彼女が嫌だと言えば両親は格上の源氏相手に何が何でも断るくらいの覚悟だったらしい。けれど当の彼女本人は「そうですか」とそれほど気にもしなかった。
     なぜなら、彼女もまた結婚にそこまでの夢を抱いていなかったからだ。



    「源氏の惣領、髭切さ。色々あってたくさん名前が変わったりしてるんだけど、とりあえずはそれで覚えてくれていいよ。それでこっちが、弟の、えーっと」
    「膝丸だ。今日から兄者共々よろしく頼む……義姉上、と呼ばせていただくがよろしいだろうか」
     ほわわんと笑う夫と厳格そうな表情のその弟と、彼女は初対面だった。自分の方が年下であるが、「義姉」でいいのだろうか。少し考えたが、向こうが自分から言っているのだからいいだろう。そう納得すると、指導されたとおり彼女は畳に三つ指を突いて頭を下げた。
    「構いません。ふつつかなものですが、本日よりよろしくお願い申し上げます」
    「うんうん、よろしくね」
     源氏の獅子と蛇。そんな風に世間一般から評されるその兄弟は、びっくりするくらいに対照的だった。
     彼女の夫になった兄の髭切は、ふわふわとして辺りの空気も二度位は上がるんじゃないかと思う穏やかな風貌。しかしその弟の膝丸は、目つきも鋭くピンシャンと伸びた背筋から、その真っ直ぐさが見るだけで伝わってくる。源氏の兄弟は二人で一対なのだとよく言われているようだが、確かにそのように思えた。そして見た印象だけでいえば、しっかりしているのは弟の膝丸のほうに思える。だが惣領は兄の髭切だ。
     ぼんやりしていらっしゃるようだけれど、当主としては別なのかしら。そんなことを彼女が少しだけ考えていると、春の陽だまりのような笑顔を浮かべたまま髭切は口を開いた。
    「ところで、早速なんだけど、君、前の月の障りはいつだった?」
    「……は?」
    「兄者っ!」
     「ん?」と屈託のない表情で、髭切は大声を上げ立ち上がった膝丸を見上げる。その間に彼女は言われたことを反芻した。聞き間違いでないのなら、月の障りがいつだったかをたずねられた気がする。
    「あ、あああ兄者、そんな、初対面の女子にそのようなことを」
    「え? だってほら、彼女には僕の子どもを産んでもらわなきゃいけないんだし。知っておいたほうがお互いのためだと思うんだ」
    「いや、そうかもしれんが、しかし」
     あ、聞き間違いではなかった。膝丸の顔が赤くなったり青くなったり白くなったりしているのを見ながら、彼女は自分の耳が確かだったらしいと把握した。間違いなく月経の周期を聞かれたのだ。
     膝丸が泡を食って彼女の反応と兄とを見比べていると、髭切はあははと笑いながら、ぽんぽんと自分を見下ろしている弟の足を叩く。
    「何をそんなに驚くの、弟。僕がそれを気にするのはおかしいかな」
    「いや、兄者」
    「だって当たり前じゃないか。……この子は源氏の跡継ぎを産むためにいるんだよ」
     ぞわ、と嫌なものが背筋を駆け抜ける。
     先ほどのほわほわ笑いはどこへやら、一瞬髭切が彼女に向けた視線はそんな可愛らしく暖かいものではなかった。
     捕食者の目だ、あれは王者の瞳だ。なるほど、巷で彼が獅子と呼ばれていることも、兄であることを差し置いたとしても髭切が惣領を務めていることも、彼女は一息に納得した。
    「……先月の半ばです。あまり予定が狂ったことはありません。ですから、今月もそのあたりかと」
     彼女が顔色を変えずにそう答えたことに、膝丸は一層唖然としたようだった。しかし髭切のほうはにこりと微笑んで頷く。
    「そう、わかったよ。じゃあ今日は丁度いいね」
    「そうですね」
     よし、と立ち上がった髭切がするりと羽織の紐を解く。それからうーんと伸びてひらひら手を振った。依然として口を開けたままの弟を置いて、髭切は部屋を出て行こうとする。彼女は特に立ち上がることもなく、その様子を見ていた。
    「僕ももう若くないからね、ちょっと疲れちゃったよ。先にお湯をもらうから、女中に君の仕度も頼んでおくね」
    「かしこまりました」
    「じゃあ後で」
     すっと襖を開けて、髭切はいなくなった。彼女はただ、その場に正座したままでいる。残された膝丸は一度だけどうしたものかと兄の去った方向を見たが、眉間にしわを寄せ彼女の正面に座りなおした。それからピシリと伸びた背筋を曲げて、頭を下げる。
    「すまない、驚いただろう。だがあれでも兄者に悪気はないのだ。気を悪くしないでくれ、義姉上」
     兄に対し、弟は本当に見たままの真面目一徹といった性格のようだった。ここまで正反対だといっそ面白いくらいだ。彼女はそんな弟の一直線な謝罪に、ふるふると小さく首を振る。
    「気にして、いませんから。平気ですよ」
     膝丸はそんな彼女の返事を、嫁入りしてきた立場である彼女の遠慮だと思ったらしく「しかし……」としばらく言いよどんだ。けれど彼女は本当に気になんてしていなくて、ただ少し重たい花嫁衣裳で肩が凝ったなあ位のことを考えていたのだ。
     彼女は、自分が源氏に嫁に取られた理由を弁えているつもりだ。だから、気にしてなんていない。本当に平気だ。仮に閨で玩具のように扱われたところで、きっと自分の心に傷のひとつもつかないだろうということを彼女は理解している。
     ……自分が本当に悲しいことは、そんなことではない。
     したがって、その晩彼女はあっさりと髭切に処女を奪われたけれど、せいぜい、寝るのが遅くなって嫌だな程度のもので、他に何のダメージも受けやしなかった。



     弟である膝丸は、早々にその義姉の異常性に気がついた。
     いや、自分の兄も相当にずれているのはわかっているので、義姉ばかりをおかしいというのは間違っているかもしれない。けれどその兄と結婚して何の文句も零さない時点で、あの少女もまた何かが欠落しているのだなと判断した。
     その少女は、実は髭切と一回りほど年齢が違う。兄がふわふわとして若く見えすぎるだけなのだ。そんな若い嫁を取ったのには当然理由がある。跡継ぎ問題だ。
     今は兄の髭切が惣領として治める源氏は、古くからの武家。武士の世は遠ざかったとはいえ、血を絶やすわけにはいかない。どこかずれた兄がなかなか結婚できなかったせいであの年齢になってしまったけれど、そろそろ本格的に後継を決めなくてはならないのだ。ともすれば胎は若い方がいい。孕みやすいほうがいい。
     だから兄はあの娘を選んだ。元気そうだから、健康そうだからという理由で。
    「もししばらくして僕の子どもができなかったり、あるいは僕の子どもが生まれたあとは、そのときは弟のほうを頼むね。まあ、僕たちは兄弟だからね。きっと大差ないから大丈夫」
     髭切、膝丸、そして花嫁の少女を交えて初めて朝食を摂ったとき、兄は彼女にそう言った。
     初夜の次の日にそんなことを花嫁に告げる夫があろうか。兄と付き合いの長い膝丸も流石に血の気が引いて箸を取り落としそうになった。まだ若い彼女が、結婚初日にそんなことを言われるのはどうにも不憫で、膝丸はなんとかフォローをしようと顔を上げる。けれど彼女は顔色一つ変えずに、朝食のおかずをつつきながら返事をした。
    「承知いたしました。ではそのように」
     え、なんて? ほんま?
    生まれてからしばらく備州で過ごしたことのある膝丸が、思わずそう突っ込んでしまいそうになるほど、彼女はあっさりそう言った。だが彼女は外から嫁入りをしてきた立場である。もしかしたら我慢をしているのかもしれない。膝丸はそう考えて家のものに細かく様子を見てやってほしいと申しつけておいたけれど、それでも彼女は裏でショックを受けたり泣いたりしているような風は見られなかったと言う。
    もっと、悲しんだりするものなんじゃないか。驚いたりするものではないのか。
     膝丸には兄も義姉もわからなかった。
    「それは、あなたが女性と、それから結婚に夢を見すぎてるんじゃないですか」
     やや呆れた顔でコーヒーカップを持ち上げながら宗三左文字が片眉を上げる。ぐっと膝丸は押し黙った。一気に喫茶店の室温が下がったような心地さえする。渡された仕事関係の書類に再び目を落とし、ぶちぶちと膝丸は続ける。
    「いや、しかし、義姉上はまだお若く、少女と言ったとしてもおかしくない年なのだ。もっとこう、兄者に驚いたり動揺したりしてもいいと思うんだが」
    「確かにお宅のお兄様はだいぶずれたかたですけどね。腹をくくった女性は強いですよ。例えば、うちの囲もそうですから。どなたかのおかげで」
     じっとりと宗三にそう言われれば、膝丸は最早返す言葉を持たなかった。
     同じ武家の左文字とは、繋がりは薄くともやはり面識はある。特に膝丸と宗三とは互いに当主の弟ということもあり、会えば話くらいはするのだ。それに最近、源氏の血縁の娘を左文字当主の嫁にやった繋がりで、近頃は特によく顔を合わせる。そしてその一件で、左文字の屋敷内が荒れに荒れたことを膝丸はよく知っていた。
    「……その件はすまなかった」
    「いーえ。おかげさまで兄様は前以上に神経を尖らせていますよ。いつ彼女が出て行ってしまうものかと、ひどく怯えています。まあ無理もないですね、兄様が泣いて縋ったおかげで今は彼女も部屋から一歩も出ずにいてくれていますが、ばあやが孫娘を返せと屋敷に殴りこんでくる始末。ええ、どう落とし前をつけてくれるんでしょうね」
    「……すまない」
     左文字に血縁の娘をやったのは髭切の判断だった。源氏の息子としては、それが間違っていると膝丸は思わない。家を残していくために、それは当主としての適解だった。けれどその裏で本当は江雪左文字に心を寄せる女性がいたことを知って、膝丸の心は少なからず痛んだ。それに、面識はないがそんな家に嫁にやった血縁の娘に対しても。
     不貞腐れたようにばらっとテーブルに書類を投げだし、宗三は頬杖を突く。それからつまらなさげに砂糖壺の蓋を開けたり閉めたりした。
    「……兄様の件については、腹をくくっていっそ駆け落ちくらいさせなかった僕も同罪です。それに、当主としてのあなたのお兄様の判断は正しい。兄様が、大人しく結婚したことも。だから僕はあなたを責められません。今のは愚痴です、聞き流してください」
     宗三の不器用なフォローに、膝丸は目を伏せ一度だけ頷いた。もらった書類をトントンとテーブルで整えながら、膝丸は小さく呟く。
    「そういった一つ一つに傷ついてしまうから、俺は……惣領には向いていないんだろうな」
     兄のように、家を第一には考えられない。何もかもは切り捨てられない。膝丸は、自分が家の頂点に立つには甘すぎることを承知していた。だからこそ、兄の治める源氏をその傍らで支えられればそれで満足しているのだ。
     そっぽを向いた宗三がちらりと一瞬だけ膝丸を見る。
    「……それは僕もです」
    「お互いにままならんな」
     はあ、と溜息を吐いた宗三はコーヒーカップを空にして鞄に書類を仕舞い込む。大体の話し合いは終わった。家にいる兄が心配だとしきりに繰り返していた宗三だから、もうさっさと家に帰るのだろう。だがふと思いついたように、席を立ちつつ膝丸に向きなおる。
    「あなたの義姉上ですけど」
    「なんだ?」
    「どういった育ちの方なんです?」
     何を問われているかわからず、膝丸は首を傾げた。宗三は言葉が厳しいときもあるけれど、いたずらに誰かを傷つけたりはしない。家柄を尋ねてぐちぐちいうタイプではないのだ。だからそんなこと気にするとは思えなかった。
    「どういった、とは」
    「源氏に嫁ぐくらいですから家柄は別として、育った環境や性格ですよ」
     ぽかんとしている膝丸に若干呆れつつ、宗三が長い髪をかきあげる。
    「あなたのお兄様がずれているのは育ちと環境のせいでしょう? 義姉上もそうなんじゃないかと、僕は思っただけですよ」
     そういえば……と膝丸は考え込んだ。髭切は、一定以上の家柄の女たちの中からあの少女を選んだ。しかし、その参考にしたのは健康診断の結果のみだ。それ以外は、膝丸も彼女のことをよく知らない。そしてそれはきっと、あの兄も同様だろう。
     彼女は、いったい何者なのだ?



    「ねえ、君、何が好きなの?」
     その晩、まだ荒い息を吐いて自分の下でうつ伏せになっている妻に髭切は尋ねた。彼女は汗ばんだ頬に髪を張り付かせながら振り返り、怪訝そうな目を髭切に向ける。一向に答えてくれそうな気配はない。
     ありゃ? 聞き方を間違えたかな?
     髭切は首を傾げる。
    「……好きな、もの?」
    「うんうん、君にも好きなものくらいあるよね。何が好きなの?」
     なお彼女が訝しげな表情をしたのにはこれまでの髭切の態度などをふまえてそれ相応の理由があったのけれど、髭切はそれに気がつかなかった。そのとき髭切の頭にあったのはやはり、先日弟から投げられた言葉である。
    「……兄者は義姉上にもう少し、優しくしたほうがいいと思うぞ」
     出先からの帰り、車の中で髭切の隣に座っていた弟はそう言った。源氏の惣領はもちろん髭切だが、基本的に家の仕事には弟の補佐が入る。弟は確かに家を治めていくには甘すぎるけれど、その代わりに言うべきときに、時には無情であろうとも的確な助言ができた。しかしその実心で弟が傷ついていることを髭切は知っている。しかし見て見ぬ振りをしてやることも、時には弟のためである。傷ついているだろうなんて髭切が言った日には、膝丸は余計に苦しい気持ちを押し殺そうとするだろう。優しい性分なのだ。
     まあとにもかくにも、そういう理由で髭切は弟の進言はよっぽどのことがない限り聞き入れることにしていた。それは、きちんと家のことを考えてのことだと思っているからである。
    「優しくって? 奥さんは特に不自由はしていないはずだけど。そう家の者にも言いつけてあるしね」
    「いや、そうではなくてだな、兄者……。義姉上は兄者の妻なのだ。大事にしてやらねば」
    「うーん、大事にしているつもりなんだけどなあ。でもお前がそう言うってことは、きっとそうなんだろうね」
     首を傾げながらも、一応髭切はそう返した。弟は訳もなくそんなことを言わない。
     弟は若干緊張していたようだったが兄の返事にほっと息をついていた。それから居住まいを正し、こほんと一度咳払いをする。
    「兄者、義姉上は外からいらしたからだ。元々源氏のものだったわけではない。兄者が気遣ってやらねば、義姉上は源氏の家で一人になってしまう」
    「ふむ、そうだね」
    「家で寂しい思いをした女性が、その家に自分の子どもを残しておこうと思うだろうか? もし、今後義姉上が本当に兄者の子を産むため実家に宿下がりでもさせたとき、そのまま帰ってこなくなってしまったらどうする」
    「うーん、それは困るね」
     なるほど、それで弟はそんなことを言い出したのか。髭切は非常に合理的な性格をしている。だから結果的に、弟が全部が全部本心ではないにも拘らず、そんな風に兄を説得したのは正しかった。もちろん、髭切はそんな弟の思慮など知らないのだが。
     髭切の役目は源氏の家を守り繋ぐこと。そのために妻である彼女は必要である。子どもを産んでもらわなくてはならない。もちろん、彼女が仮に抵抗の意思を見せたとしても家の力をもってそれを連れ戻したり家の中に隠してしまうことは容易かった。しかし、あまり手間になることとは髭切にも本意ではないし、外聞も悪い。それは源氏の家にとってよくない。
     だからまあどうすれば妻に「優しくしていること」になるのか、弟の指南の元にとりあえず好きなものを聞いてみたのだけれど違ったのだろうか。
    「……なんで、急に、そんなことを」
    「ありゃ? 奥さんの好きなものを旦那さんが気にするのはおかしい? 僕はそう教わったんだけど」
    「いえ、それは別に、おかしくないんですが」
     まだ若干疑わしそうにして、少女は髭切の顔を見上げていた。だがしかし、少し悩んだ後に口を開く。
    「……犬が好きです」
    「犬かあ」
     僕の奥さんは犬が好き。なるほどね、犬かあ。
     髭切は確かにそれを頭の中に置いておいた。実はそれは髭切にとって初めて、心に場所を作って留め置かれた、家のことでも弟のことでもない事柄だったのだが、髭切は自分自身でそれには気がつかなかった。



     最近、夫の考えていることが読めない。
     いやもともと読めたためしなんて一度もないのだけれど、彼の行動原理には一つだけ絶対に変わらないものがあったから、まだ理解できたのだ。それが、ここ最近はどうしたことだろう。彼女は自分の目の前で寛ぐ大型犬と、膝の上で頭を撫でてやっている子犬を見つめた。どちらも、髭切が昨日今日で買ってきた二匹の犬である。
     一応言っておくと……実は彼女は別に犬が好きなわけではない。髭切からそんな風に聞かれて、返答に困り咄嗟に髭切の尖った犬歯を見てそう言ってしまっただけである。
     とはいえだ、そんな翌日に本当に犬を買ってくるだなんて誰が思うだろうか。
    「えーっと、どっちがどっちだったかな。大きいのがうしわか? 小さいのがおにたけ?」
    「逆です……」
    「ありゃ、逆だってさ。じゃあ君がおにたけで君がうしわかだね。よかったねうしわか、君もちゃんと可愛がってもらえて」
     彼女の膝の上で撫でられている子犬のほうを摘みあげて、髭切は自分の顔の前までその子を持って行った。それまで気持ちよさげにしていたうしわかはきゅうと情けない声を上げる。うしわかは先ほど帰宅した髭切によって連れて来られたばかりである。それも、一度店に返されそうになった。
    「大きいのを買ってきてあまりいい反応じゃなかったから、君は小さいのが好きなのかと思ったけど、そうじゃないみたいだから返してくるよ」
     そんな理由で、やっと家を見つけたというような様子で部屋を駆け回る子犬を髭切はあっさりと手放そうとした。犬が特段好きだというわけではないにしろ、流石にそれは忍びなくて彼女は結局その子犬も面倒を見ますからと引き取ったのだ。
     ひょいとうしわかを再び彼女の腕の中に戻しながら、髭切は足を崩して座った。それからふむと言いながら彼女の腕の中のうしわかと、彼女の膝に顎を乗せたおにたけを見る。
    「うしわかもおにたけも可愛い? どう? 好き?」
    「そりゃ、可愛いとは思いますけど……好きかどうかは一朝一夕にはわかるものじゃないですよ」
    「ありゃ、そういうものなんだ」
     あっけらかんと髭切はそんな風に言ったので、彼女は脱力する。もともと変だと思っていたが、相変わらずどこか薄ら寒い人だ。
     人として大切な何かが、すっかりと抜け落ちている。嫁に来てしばらく、彼女は夫をそういう風に思っていた。彼の行動理念のもっとも大きなものは「家を守ること」なのである。髭切にとってはそれが第一で、彼の取る行動や言動はすべてその目的に付随しているのだ。だから家についてマイナスになることは決してしない。……だから彼女のことを、月の障り以外の日は毎日抱く。だがそれも、機械的なものだ。そのとき一応の快感を与えられるのも、そうでないとことがスムーズに進まないというシビアな理由からである。
     だからまあ、おそらくこの犬たちも彼女が源氏の家に愛想をつかして出て行かないようにするため。それだけだ。きっとあの真面目な弟あたりがそう助言したに違いないのだ。
    「……」
     こんなことしなくても、彼女はここにいるというのに。それを特に苦とも思っていないのだから。だがそう口にしても髭切は理解ができないだろうから、彼女は言うのをやめた。代わりに腕の中の子犬を抱きしめ、大型犬の頭を撫でてやる。
     可哀想に。この犬たちも彼女と同じだ。ここで飼い殺しにされる。たった一つ髭切の目的のために。……まあ別に、彼女自身はそんなことどうでもいいが。
    「……よしよし、脚がしっかりしているから、今は小さくてもきっと大きくなるわ、うしわか。おにたけも」
     そうしたら遠くへ行くといい。ここにいるのは自分ひとりで十分だ。うしわかに頬を寄せると、うしわかは言っていることがわかっているのかいないのか嬉しげにわふわふと言うと彼女の頬を屈託なく舐めた。それがややこそばゆかったので、僅かに彼女も笑みをこぼす。するとおにたけのほうもそうしていれば自分も構ってもらえると思ったのか、大きな体躯を起こして彼女にのしかかる。
    「わ、ちょっと、おにたけ、重い、ふふ、くすぐったい」
    「ありゃ」
    「だ、旦那様、ちょっと、助けてください、あはは、旦那様!」
     おにたけの重みで仰向けに倒れてそれをいいことに、二匹は寄ってたかって彼女にじゃれつく。くすくすと笑ってはいたが、やはり重い。その場にいるのは髭切だけだったので、彼女は流石にそう言うほかなかった。すると髭切の手が彼女の腕を掴み、おにたけを押しのけよいしょと助け起こす。
    「大丈夫? 髪がほつれてるよ」
    「ああ、驚いた。二匹世話をするとなると大変そうですね。ふふ、でも可愛い」
     少し楽しくなった気持ちのままに、思わずそう気軽に言ってしまった。いけない、気の抜いた話し方をしすぎた。すぐに彼女は口元を押さえた。「すみません」と一応謝っておく。しかし髭切は二三、瞬きを繰り返し彼女を見つめ、小首を傾げて問うた。
    「……それで、君は他に何が好き?」
    「え?」
    「犬の他だよ。他は何が好き?」
     まさか別なものも買い与えるつもりなのだろうか。彼女は目をぱちくりとする。しかし髭切はいつもの穏やかな笑顔のまま、するりと彼女のほうに体を倒した。やや顔の距離が近づいて、彼女は逆に身を引く。それに好きなものと言われても、またうしわかやおにたけのように無尽蔵に買ってこられても困るのだ。そんなことされても嬉しくもなんともない。
    「いえ、特には」
    「じゃあしたいことでもいいよ」
    「特にないですから」
    「何でもいいんだよ、教えて。甘いものは? 君くらいの年の女の子って、お菓子は嬉しいものではない?」
     何故だか知らないが髭切があまりにもしつこくそういってくるものだから、彼女はややへきへきとしながら絶対に実現できないだろうことを口にした。少なくとも、彼女の思う夫は確実にそんなことはしない。
    「わかりました、じゃあ旦那様と一緒に二人で外に出かけたいです、私」
     髭切は妻を子どもを産むためだけの存在だと思っているのだ。彼女とてそれは了承して結婚したし、不満はない。だがそれならそれで、割り切った関係でいてほしい。だからそんなことを言ったというのに、髭切はそれを聞いてにこりと笑った。
    「なんだ、そんなことでいいんだね」
    「……え?」
     最近、本当に夫の考えが読めない。いや元々、正確に読めたことなど一度もなかったし、読もうと思ったこともなかったのだけれど。
     なぜなら彼女は、できるだけ髭切と関わり合いになりたくなかったのだ。



     切欠はなんでもない、あのおにたけが彼女にのしかかってじゃれ付いた日のことだ。
     胸の奥に、自分でもよくわからない何かがあることに、髭切はそのとき気がついてしまった。
     髭切の妻は、年が一回りほど下の少女である。健康で、一定の家柄の出身で、そういう条件の下に選んだ。それ以上のこともそれ以下のことも髭切は知らない。実のところを言うと、名前さえもどこかおぼろげである。
     そして髭切は、今までそれでいいと思っていた。彼女は自分の妻になるが、それは名目上のこと。実際は彼女には源氏に嫁入りしてもらうのだ。元気な跡継ぎを産んで、それを育てて、家の根元を磐石にする。自分の役割が家を守ることならば、彼女の役割は家の地を固めることだ。だから別に、名前なんて問題ではない。容姿も、性格も、何も。
     そう思って、いたのに。
    「お、おにたけっ、あんまり引っ張らないで、転んじゃう、あっ」
    「ありゃ、貸してごらんよ」
     外に出るのが楽しいのか、うしわかのほうがまず彼女の足元を駆け回る。それに対しておにたけもぐいぐいと大きな体躯で彼女を引っ張る。よろけて転びそうになった彼女の体を右手で支え、髭切は左手でおにたけの手綱を受け取った。それからぐいとそれを引き、おにたけに自分のほうを向かせる。
    「だめだよ、おにたけ。部屋なら奥さんも怪我はしないけど、ここは外だから。僕ならまだしも、君に引っ張られたら奥さんは転んじゃう。奥さんに何かあったら、お前を斬っちゃうよ」
     髭切に睨まれたおにたけが、大型犬らしからぬ情けのない声を上げた。すると彼女が慌てて髭切の胸元を叩いて制止する。
    「ま、待ってください。そんな転んだくらいじゃどうこうなりませんから」
    「そう? でも君が怪我をしちゃったら僕が困るし。それに、こういうのは誰が一番偉いのか最初に教えてやるのがおにたけのためなんだよ」
     そう、最初に教えてやるべきだと、髭切は幼いころ学んだのだ。誰が強者でどちらが支配される側なのか。お前は自分より弱いのだと、叩き込まねばならないと。
     うしわかのほうの手綱は彼女に任せて、髭切はおにたけのほうを握った。散歩のルートはもう決まっているので、てくてくと歩く。目指しているのは帝大の側の公園だった。
     奥さんと出かけるのだけど、大型犬と子犬が走り回っても問題のない場所はないかと聞いたとき、弟がそこを教えてくれたのだ。それも、なぜか感涙しながら。「兄者、名案だ、流石だぞ兄者」と道筋をマークした地図を弟は渡してくれたのだけれど、そんな褒められるようなことをしただろうか。
     思いのほか人が多かったため、髭切は空いている手で彼女の手を掴んだ。はぐれてはいけない。
    「……旦那様?」
    「はぐれちゃったら困るからね。えーっと、こっちだったかな」
     弟が見せてくれた地図を思い返しつつ、髭切は再び足を進める。おにたけも大人しくそれに付き従った。一拍遅れて、手を引かれた彼女もついて来る。ぱたぱたとうしわかも小さな歩幅で走っているようだ。
     彼女は何も言わなかったが、暫く歩いていると強張ったように開かれたままだった手が、ゆっくりと閉じられて髭切の手を握った。そのことにおやと髭切は彼女を振り返る。
    「な、なにか?」
    「……ううん、君の手、小さいんだね」
     髭切は、本当にはぐれることを危惧して彼女の手を掴んだに過ぎない。握ったのではない、掴んだのだ。だがそれが僅かにでも返されることのなんと……なんだろう。
     うーんと髭切は首を傾げる。またもやもやだ。
     帝大側の公園にはすぐに到着して、他の飼い主たちがそうしているように髭切と彼女は二匹の手綱を首輪から外してやった。先ほどのことがあるからか、二匹は髭切のほうを見上げて動かない。だから髭切は頷いて二匹を促す。
    「あんまり遠くに行っちゃだめだよ。怪我もしないようにね」
     するとやっと二匹は広い芝生を走り始めた。まあ、これまで屋敷内にずっといたのだから、ちょうどいい運動にはなるだろう。しかし彼女のほうは、髭切のいうことを大人しく聞いている二匹を驚いて見つめていた。
    「……すごいですね、おにたけもうしわかも私の言うことなんてちっとも聞いてくれないのに」
    「ん? ああ、まあ一応僕は惣領だから。こういうのは得意なんだよ。小さいころは僕だって色々飼ってたから」
    「色々?」
    「犬とか馬とか。随分昔だけどね」
     源氏といえば、武家の名門中の名門なのだ。時代が変わって武士の世の中でなくなったといえど、髭切も弟も武芸百般はすべて修めた。犬や馬の飼育もそのうちのひとつである。
    「弟と一緒になって色々。昔は弟も君みたいに中々犬を扱えなくてね。あはは、結局僕がまとめて手綱を引いてたんだ」
    「……昔から仲がいいんですね、弟さんと」
    「弟だからね。親は違うけど」
    「えっ」
     そう、弟だ。あれは髭切のたった一人の弟。生まれてこの方、髭切の補佐をするようにと育てられ定めたれた弟。けれど、親の違う弟。
     弟と髭切は腹違いの兄弟である。母親が違うのだ。髭切がまだ幼いとき、その弟は自分の前に現れた。そして、父親から優秀なほうを惣領にすると告げられた。それからのしばらくの記憶が、髭切は、あまり確かではない。
    「物心ついてなかったっていうのもあると思うんだけどね。でも忘れちゃったけど、色々あって僕が惣領に決まって、源氏を治めることになって。それからはずっと弟と一緒だよ」
     源氏の獅子と蛇。そんな風に呼ばれるようになったのはいつからだったかも、髭切はあまり覚えていない。だがとにかく、弟は大切だ。弟は髭切を助けてくれる。源氏の家を治めるための、足りない穴を埋めてくれる。
     元気よく走り回る二匹を髭切は眺めた。そういえば、弟と飼っていた犬はあんなふうに遊ばせたことがなかったなあなんて。
     そのとき僅かに、左の手を引かれたような気がした。ちらりと髭切がそちらを見れば、彼女がやや険しい表情で視線を伏せている。自分の手を握っている彼女の手に、先ほどより少しだけ力が込められていた。
    「どうしたの?」
    「……いいえ、何でもありません」
    「そうかな、さっきよりあんまり元気ない顔のような気がするんだけど」
     髭切は身を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。視線が下を向いているせいで、髭切も見上げるようにしないと目が合わない。ぱちりと目が合うと、彼女は慌てて顔を背けた。
    「ありゃ? ちょっと泣いてる?」
    「そんなことありませんっ!」
    「どうして? 何かあった? 怪我でもしてる?」
     彼女には今日半袖のワンピースを着せていたから、髭切は一旦手を離してぺたぺたとその腕やら首やらに触れた。どこも痛そうな感じはしない。おにたけに引っ張られたときに傷でもついたかと手のひらも見てみたが違う。屈んで足元を確認しようとしたら、彼女は焦ってワンピースの裾を押さえた。
    「ち、違います! 怪我なんてしてません!」
    「本当?」
    「本当です、大丈夫ですから!」
    「そっか、ならいいんだけど」
     二匹がやや遠くに行き過ぎた気がして、髭切は指で笛を作りそれを鳴らす。すると耳聡く二匹はそれを聞きつけて駆け戻ってきた。いつもどおり彼女に飛びつこうとしたのだが、やはり隣に髭切いるからかすぐにはやってこない。だから彼女のほうが膝を芝生につけて手を広げた。うん、まあそれなら怪我をしないだろう。
    「よかったわね、しっかり運動できて。ねえ、おにたけ、うしわか」
     わふわふと嬉しそうにする二匹を撫で、彼女は笑った。瞳を和ませて、唇を緩ませて、ぎゅうと二匹を抱きしめながら。
     そのとき「あ、そうか」と髭切はやっと気づく。胸の奥のもやもやの理由はこれなのだろうか。確証は、持てないけれど。
    自分はもしかしたら、彼女のこの顔が見たかったのかもしれない。



     夫と急に話をするようになった。いや、その適切な表現ではないかもしれない。正確に言うのであれば、前よりもよく会うようになった、である。
    結婚してからこれまで、夫に会うのは夕飯と眠るときだけだった。朝は彼女が起きるより早く、彼女の着替えを用意すると布団から出て行ってしまう。それに朝食は初めての朝以来ずっと弟と食べているようだ。結婚して初めての日は流石に、挨拶の意味があったのだろう。
     それがここ最近はどうだ。まず出先から帰ったら必ず彼女の部屋に顔を出してくる。それもただいま、とだけ言って頭を撫でて去っていくだけだ。週に一度は一緒に二匹の犬の散歩に出て、それから朝はじいっと目を覚ますまでこちらを見ている。あの蜂蜜色をした硝子玉のような目に凝視されるのは、どうにも落ち着かない。目を覚ますと「おはよう」と声をかけてまた頭を撫で、布団から出て行く。
     それから極めつけは夜だ。今まで、髭切との性行為は非常に事務的なものだった。何の情緒もなく始まり、便宜上の快楽を与えられて、なんとなく終わる。それが、こちらの反応をうかがうようになってきた。一体何があったのだ。
    「ねえ、これは? 気持ちいいの?」
    「あ、の……っいちいち、聞かないでくださ、いっ」
    「どうして? 見てるだけじゃ、わからないよ。ねえ、気持ちいい?」
     求めていなかった熱を与えられて、それもしつこく聞かれて、これまでまだ平静を保っていられたはずの思考がショートしそうになる。彼女が口で答えなくても、体のほうが反射的に反応を返してしまうのもだから、のんびりしているくせに勘のいい髭切はすぐにそれに気づくのだ。するとにんまりとして、「ここがいいんだね」と責め立てる。そうしてうまく彼女が上り詰めてしまえば、満足げに頭を撫でて「いいこ、いいこ」と抱きしめてくる。
     変化がめまぐるしすぎて、正直夫に何があったのかさっぱりわからない。出先で頭でも打ったのか。だがそれ以上に、熱くなった髭切の腕の中を、僅かにでも心地いいと思ってしまった自分に戸惑った。
    「どうしたものかな、おにたけ、うしわか」
     縁側に腰掛けて、彼女は二匹の犬に話しかける。思えば彼らを買ってきたときから髭切はなんだか様子がおかしかったのだ。ばうばうとおにたけは吼え、最近少しだけ体が大きくなってきたうしわかはそれでも彼女の膝で甘えている。だが髭切の「躾」が行き届いているのか、二匹とも彼女が動けなくなるほどまでにのしかかってくるようなことはなくなった。
     彼女はじっと、おにたけの頭を撫でながら考える。
     飼い犬とはいえ、一睨みで髭切は大型犬を黙らせ従えてしまった。鋭い眼光ひとつで、おにたけを征服し掌握した。あれが、惣領として天賦の才能とでもいうのだろう。帝王学を身につけ、それを完全に自分のものにしている。
     ……けれど、それはあまりに。
    「義姉上、どうかしたか」
     ややぼんやりとして考え込んでいたら、弟のほうが声をかけてきた。珍しく、今日は兄と一緒ではない。
    「ああ……膝丸様」
    「俺に様など付けなくてもいいぞ、義姉上。貴女は俺の義姉なのだ。俺も兄者同様に思う」
     相変わらず真面目一徹といった様子の弟は、厳格な表情でそういった。隣にいいだろうかと聞かれたので、彼女は少しずれた。膝丸はしっかりと背筋を伸ばして、彼女の隣に正座する。
    「兄者は……どうだろうか。その、相変わらずだと言われてしまえばそれまでになってしまうのだが」
    「……そうですね、変わった方だとは思いますが。最近はよく、話をしてくださいます」
    「そうか……、そうか、それは、よかった」
     心の底から安堵した風で膝丸はそう言った。彼女も一応、彼の立場みたいなものは理解しているつもりだ。それに、兄と比べてかなりの常識人だと言うことも理解している。それなりに、彼女のことを案じてくれていたのだろうことも。
     膝丸はほうと息を吐いたのち、一度咳払いをしてから再び彼女のほうを向いた。
    「貴女に……貴女に、こんなことをお願いするのは間違っているとわかってはいるんだが。兄者のことを頼む、義姉上」
    「……」
    「難しいお人なのは俺も理解している。だが、俺ではだめなことも、あるのだ」
     人懐っこいうしわかが彼女の元から膝丸の方へ移動した。膝丸は僅かに笑むとうしわかを抱き上げて、よしよしと撫でながら腕に抱える。そう言えば、彼も昔は犬を飼っていたのではなかったか。そんなことを髭切は言っていた気がするが。わふわふと上機嫌のうしわかをじっと見つめ、膝丸は口を開いた。
    「……兄者は俺の名をよく忘れる」
    「名前?」
    「ああ、俺の名は兄者同様、この家での働きに合わせてよく変わった。だがそのどれか一つたりとも、兄者は覚えておられぬだろう。だがそれは、仕方のないことなのだ。俺はそのことで兄者を恨もうとは思わぬ」
     自分の夫と、真反対な雰囲気の義弟が母親の違う兄弟だと言うことは、彼女は夫に聞いていた。それも酷くあっさりと告げられたものだから、衝撃までよく記憶している。
    「あれは、兄者が惣領だと定められる前のことだ。ある朝起きた兄者は、俺の名を覚えてはいなかった」
    「え……」
    「それまでは、俺をきちんと膝丸と呼んでいたのだ。しかし、ある朝急にだ。俺の名を忘れてしまった。それだけではない、兄者はそれからも様々なことを忘れるようになった。覚えていたのは、俺が弟だということと、俺と共に叩き込まれた惣領としての知識だけだ」
     忘れもしない、その日の朝のこと。
     髭切は目を覚まし、いつものように「おはよう兄者」と声を掛けてきた膝丸に……「おはよう、えーっと……ありゃ、弟」と挨拶を返しながら微笑んだという。最初は、のほほんとしている兄の性分だけに、ふざけているのだと思った。もしくは寝ぼけているのだろうと。
     けれどいつまで経っても、その日髭切が膝丸の名前を呼ぶことはなかった。「弟」とは言ってくれる。けれどどう頑張っても、どれだけ悩んでも、源氏の弟の名前を思い出すことは出来なくて。
    「……兄者は逃げることなど、一度たりと許されなかった。俺と兄者は生まれる前より、どちらか片方が惣領となり、どちらか片方がそれを補佐すると定められて作られた子ども。俺と兄者どちらが欠けることもありえん。優秀なほうを惣領にすると、父上は決められたが、兄者には惣領として天賦の才があった。期待の度合いが俺とは違う。俺は幼いながらに、兄者は強いお人なのだと思っていた。だが、そうではなかったのだと、今は思う」
    「それで、忘れてしまったと?」
     やや俯いて、膝丸はうしわかを抱きしめる。おにたけのほうはひとつ欠伸をしたきり、彼女の膝に顎を乗せて眠っていた。いつも眉間に皺を寄せすぎて、膝丸のそこは痕になりそうだった。だがその分きっと、何度も兄を案じてきたのだろう。
    「ご自分の心の本当に大切な場所を守るために、きっと……兄者は忘れてしまったのだ。壊れてしまわぬよう、全て手放すことをお選びになった。持たなければ失うこともない。だから兄者は忘れてしまった。忘れてしまうから、どんなことも兄者は出来る。それを心のないことだと、源氏の獅子には心臓がないのだなどと、世の人は言う。だが俺は違うと思う。兄者の心は、人一倍優しく繊細だった。だから……」
     言葉を詰まらせて、膝丸は俯く。彼女はおにたけの頭に手を載せたまま小さく呟いた。
    「……可哀想なひと」
     ずっと鼻を啜る音がして、膝丸は慌てて顔を拭ったようだった。きっとこの優しい弟が、惣領に向かないと髭切は早々に悟ったのだと思う。だからこそ、余計に彼の心には拍車がかかった。
    「だがっ、だが兄者は義姉上が来てから随分変わったのだぞ! 兄者は義姉上が好きなものを覚えていられるようになった。まあ、いささか変ではあるだろうが、義姉上がどうしたら喜んでくれるのか考えるようになった! ……その根底に、源氏の家を残すということがあったとしても、俺はそれが嬉しい」
     だから、兄者を頼む、義姉上。
     膝丸はそう言って彼女を見たけれど、彼女返事をできなかった。それどころか、視界がじんわりと濁っていく。
    「……義姉上?」
     今更ながら、彼女はその話を聞いたことを後悔した。夫について知ってしまったことを悔いた。何故なら彼女の心は、髭切と違って忘れることを知らなかったからだ。
     彼女には、実家に姉がいる。それも、二人もいる。いや、正確には、いた。過去形にしたのは、一番上の姉が嫁ぎ先で死んだからである。もう三年ほど前のことになる。
     彼女は末の妹ということもあり、二人の姉に甘やかされて育った。女三人の姉妹ともなれば、やはり一番話題になったのは将来の結婚相手である。それなりの家庭で、家柄で。ならば結婚する相手もそれ相応。三人の姉妹は自分たちの両親の仲が良好だったこともあり、結婚というものに夢を見ていた。
    「姉さん、姉さん……っああ、どうして」
     変わり果てた姿で嫁ぎ先から戻った姉の姿を、その遺体に縋り付いて泣く次姉とは異なって、彼女は茫然と眺める他なかった。あんなに幸せそうだったのに。結婚が決まったとき、姉はあんなに笑っていたのに。
     姉の死因は、嫁ぎ先で受けた、夫による執拗ないじめだった。
     聞けばその家が欲しがっていたのは、姉妹の中で一等若い娘。つまり末娘である彼女である。それが何の手違いか姉が嫁いでしまい……ということらしい。
     何故、そんな理由で姉は死なねばならなかったのだ。「私達、三人で幸せになりましょうねと」一等彼女を可愛がってくれた姉が。もし本当なら、自分が嫁ぐはずだった家で。何故、何故だ。何故そんな理不尽な死に方をしなければならなかった。結婚とは、幸せなものではなかったのか。
     そのとき、残された次姉と彼女は結婚に対する夢や希望全てを捨てた。女はそういう死に方をしなければならないという現実を知ってしまったからだ。
     すぐに、次姉も見合いが決まって婚約した。相手は官憲の男だという。そして彼女も見合いを飛ばして結婚が決まった。武家の惣領に、出産する能力だけを買われたと聞いたとき……彼女はこれは罰だと思った。
     自分の代わりに死んだ姉。同じ目に遭えと、姉が怒っているのだ。
     だから、彼女は髭切がどんな思いを持って彼女を見ようと、扱おうと、気にもならなかった。辛くもならなかった。だって、それは当然の報いなのだ。死に損なった、彼女にとっては。
    「……可哀想な、ひとね」
     ぎゅうと目に力を入れる。そうでなくては泣いてしまいそうだった。
     ああ、髭切は姉と同じなのだ。理不尽な家の暴力に打ちのめされた、姉となんら変わりがない。それも、自分が傷ついていることに気づいてさえもいない。いや、違う。気づかないようにしているのだ。ああ、可哀想なひと。彼女の大好きだった姉と同じ。
     どんな感情も、あの夫に抱くつもりはなかった。ましてや好きになんてなってはいけなかった。それなのに。
    「あ、義姉上、どうした。どこか痛むか? だ、誰か」
     慌てた声を上げた膝丸が、彼女の背を撫でる。しかし彼女が「違う」とも何とも返事をする前に、言葉を失ったのは膝丸の方だった。
    「弟、駄目だよ僕の奥さんを泣かせちゃ」
    「……兄者、違う」
    「……旦那様」
     思わず彼女も息を呑む。鋭い眼光の髭切が膝丸の背後から、対照的に鈍く光る日本刀を突きつけている。膝丸に焦っている様子はなかったが、穏やかでない状況であることに変わりはない。
     視線は獅子のそれだが、口元だけは笑みを浮かべているのがいっそ不気味だ。
    「うーん、困ったな。お前は僕の弟で、代わりはいないから。出来るだけ穏やかに済ませたいんだけど」
    「兄者、俺は義姉上と話をしていただけだ。兄者が思っているようなことはない」
    「旦那様、膝丸さんは」
    「僕の知らない間に、随分弟と仲良くなったんだね」
     チンと音を立てて日本刀を鞘に納めると、髭切は笑顔のままで彼女の手首を掴んだ。そのまま立たせて引っ張ったがために、膝に乗っていたおにたけの頭ががくんと落ちる。だが髭切はそんなの気にせず髭切は彼女を抱き上げるとすたすた歩きはじめた。
    「旦那様!」
    「兄者、義姉上に無体をしてはいけないぞ!」
     膝丸の声が聞こえているのかいないのか、髭切は一直線に寝室に使っている部屋に向かうと彼女をそこに押し込めた。
    「……おかしなことをいう弟だよねえ。だって君は僕の奥さんじゃないか。君をどうしたって……君は、僕の奥さんじゃないか。ねえ、そうだろう?」
     髭切のその問に、彼女はなんと答えようか考えた。
     そうだ、と言ってしまうのは容易い。違う、と言うのは何かが間違っている。だが自分が髭切に抱いているこの気持ちをどう言い表したらいいかわからず、彼女はただされるがままで、いつもより早急にシャツのボタンが外されるのを待つばかりだった。



     妻から、もっと様々な顔を引き出したかった。
     髭切は源氏の惣領。弟も含め、源氏の人間、領地の人間、全て自分のものだと思っている。無論、妻だってそうだった。彼女は髭切の妻である以前に源氏の妻、源氏の子を産む女性である。ならば取り扱いは、一層大切にしなくてはならない。弟の進言は、そう言う意味で一理あった。自分のものの管理なのだ、きちんとするべきである。不自由があってはいけない、何か困っていても、いけない。それは源氏の家のプラスにはならない。
     だから彼女の好きなものを覚えた。一緒に外に出たいと言うからそうした。
     そのうちに、もっと色んな顔を見たいと思った。
     外に出て僅かにでも笑う。髭切のおにたけとうしわかに対する扱いに怒る。眠る、起きる。それから夜には、髭切の手指で気持ちよさそうにする。そういう反応の一つ一つが面白くて、ずっと見ていたいなと思った。
     何故なら髭切には、弟以外の人間のそういう顔を見るのが、幾久しいことだったのだ。
     ……もっとも、それは自分が忘れているのかもしれない。髭切はそれを知っていた。
    「っぐ、ぁ、く、んんっ、ひ……ぅっ」
    「……大丈夫だよ、殺しはしないからね」
     弟と妻の姿を見たその晩の髭切は、行為の最中彼女の細い首に手をかけた。もっと言えば手首は縛ったし、ろくに身動きもとれないようにした。
     自分の手の下で細く空気が通っていく気配がある。酸欠になって跳ね上がった鼓動が、指を脈打っていく。そのことに甚く、髭切は興奮した。自分の手の中に、彼女の命があるのだ。
     もちろんそのまま締め上げてしまうつもりはなかった。けれど、何故だかそうしなくてはならないような気がした。だって彼女は、自分のものなのだ。自分が好き勝手にしていいものなのだ。源氏のものは、髭切の支配下に置くべきものだ。
     それなのに、何故だろう。胸の辺りがぽっかりとする。彼女が笑ったときは埋まっていたようなそこに、穴が開いている。どうしてだろう、どうしたらいい。彼女は間違いなく自分の手の内にあるのに。今までこんなことはなかったのに。
    「ああ、そうか。心臓がないって、そういうことだったんだね」
     彼女が寝入ってしまってから、ぽつりと髭切は呟いた。首には赤く痕が残っている。これは弟が見ればうるさく騒ぎそうだ。
     源氏のためにどこかの家を潰すたび、弟が陰で傷つき自責するたび、髭切のことを世の人はそう言った。「源氏の惣領には心臓がない」、「どんなことだってやってのける」、「恐ろしいひとだ」と、畏怖や不気味さを込めて。それを今まで自分は気になんてしなかった。家を守るのは髭切がしなければならないことだ。だからその結果何を言われても、気になんてならなかったのに。
    「……でも君は嫌がるかな、僕に心臓がないってこと」
     弟は兄のそういうところを容認した。それは弟が髭切の人となりを知っているからだ。けれど彼女はそうではない。弟の言うとおり、彼女は源氏の外から来たのだ。
     髭切は初めて恐怖した。自分のものでありながら、彼女はいざとなれば髭切を捨てて行ける。どれほど体を征服しようと、支配下に置こうと、その気になれば彼女は出ていけてしまうのだ。
    そのことを、髭切は酷く恐れた。
     眠っている彼女の胸に耳を押し当てると、どくどくと鳴っている音がする。これがほしい。自分のものなどなくたって構わないから、彼女のこれがほしい。どうしたらくれるだろう、どうしたらいいんだろう。
     かなしい。源氏のためにと一切の無駄を切り捨てて来たはずが、たった一つ自分がほしいと思ったものの手に入れ方がわからないことを、髭切はひどくかなしいと思った。


     首筋に髭切の手形がくっきりと残ってしまったため、翌日髭切が彼女に着せたのはしっかりと首を隠せるよう上までボタンが留められるワンピースだった。加えて腕にも縛った痕がある。ややひりひりと痛むそこを擦り、彼女はそれを着て起き上がった。するとおずおずと髭切が口を開く。
    「……今日、散歩の日だよ。外に出られる?」
     彼女は驚いたような表情で顔を上げて、髭切のほうを見た。なぜなら、今まで一度だって髭切に彼女の都合やら何やらを聞かれたことはなかったからだ。基本的に、「しよう」「行こう」の決定事項で、それに彼女が引っ張っていかれるだけなのだ。
    「出られ、ます」
    「そう……よかった」
     いつもどおりに部屋から出てきた自分と髭切を見て、膝丸は安堵したようだった。昨日のことがあるので、挨拶は僅かな会釈だけで済ませる。
     二匹の手綱を引いて、髭切が差し出してきた手を握る。だが話すことが思いつかなくて、ただ黙って二人は公園まで歩いた。いつもの広場で手綱を外してやり、好きに走ってくるようおにたけとうしわかに告げる。それから髭切と二人、立ち尽くした。
    「……」
    「……」
     沈黙が痛い。けれどもう、知ってしまったからには黙り続けておくこともできない。
     微かに髭切の手が彼女のものをきゅっと握ったのをきっかけに、彼女は口を開いた。
    「旦那様」
     ぽつりと彼女が声を上げる。髭切のほうはぴくっと指先を震わせたが、すぐにいつもの笑顔で彼女を見た。
    「なに? 奥さん」
    「旦那様は、源氏の家が一等大切なんですよね」
    「そうだよ」
    「でしたら私が、膝丸さんの子を産むと言ったら、どうなさいますか」
     髭切はその硝子玉の瞳を見開いて硬直した。
     だがそれは、以前髭切が彼女に言ったことだ。
    「旦那様と結婚して、もうしばらく経ちます。ですが私は孕む気配がありません。旦那様がおっしゃったことです。旦那様の子ができなければ、膝丸さんの子をと」
    「そう、だけど」
    「大差、ないのでしょう?」
     そのとき初めて、彼女は夫が動揺した姿を見た。それまで何があろうとも穏やかな笑みを浮かべ、全てを自分の胸中に納めていた夫が。何もかもを、その薄い笑顔の下に押し隠していた、夫が。
     賭けていた。もしこれで、少なからず夫が反応を返してくれるのなら。夫は心臓をなくしちゃいない。本当に無垢なまま、壊れないようにそれをしまいこんでいるだけ。だったら……可哀想なままで死んだ姉の代わりにそれを守ってやりたい。
     最初は変な人だと思っていた。だがそれが好都合だった。彼女は罰されるために源氏に嫁に来たのだ。すんなりと幸せになるわけにはいかなかった。けれど今の彼女は髭切のことを知りすぎている。もう忘れることなんてできない。髭切にも、もうこれ以上忘れさせたくない。
    「旦那様、答えてください。旦那様がそうしろとおっしゃるなら、私は膝丸さんの閨へ参ります。旦那様の大切な弟です。私にも、大差ございません」
    「……」
    「旦那様、私にどうしてほしいですか?」
     髭切は微かに眉を動かしたままで、彼女の手を痛いほどに握り締めている。だがそれが答えだ。
     本当に、心が幼いままなのだ。悲しいまでに言葉を知らない。自分がどうしたいか伝える術を教わらなかったのだ。誰もが通る感情の起伏を全て投げ捨てて、惣領への道を突き進まされてきた。
     だから、彼女は握られている手をそっと上から包んだ。
    「……旦那様がここにいてほしいとおっしゃってくださるなら、私は」
    「……僕は」
    「どけぇ!」
     怒声にはっとして振り返る。キャアなんて甲高い悲鳴も耳に届いた。
     ああそうだ、髭切はいつも弟と一緒にいる。それは二人でいれば、万が一のときもとっさにどちらかが動けるから。二人はいつも一緒だった。膝丸はそうして兄のことを守ってきた。惣領としての才がないかわりに、兄の命を守ってきた。かつて髭切が、弟に代わって心を殺し、惣領になったように。
     兄者を頼む、義姉上。
     彼女が髭切の前に飛び出したのと、鳩尾の辺りに鋭く冷たいものがぶつかったのは、膝丸の声が脳裏を過ぎったのとほぼ同時だった。
    「だんなさま……」
    「君、なんてことを」
     異変を感じ取ったのか、低いおにたけの声とやや高いうしわかの声が近づいてくる。お腹を生暖かい液体が伝っていった。先ほどはひんやりとした感触があったのに、今はひどく熱い。段々と力が抜けて、彼女はそのままずるずると屈みかけた。しかし大きな手がその腕を掴み、軽々と体を抱え上げてくれる。
     とく、とくと穏やかな音が、耳元で響く。
     なあんだ、やっぱり。
     彼の心臓はなくなってなんていなかったのだ。ここでずっと、鳴り続けていた。
     なんとなしにくすくすと笑って、彼女は自分の意識を手放した。ひどく、眠たい。



    「兄者!」
     カンカンカンと革靴の足音を響かせながら、弟が白い廊下の奥から走ってくる。重たい頭を上げて、髭切はそちらを見た。
    「兄者、義姉上は」
    「……さっきからあの部屋の中だよ。入っていってからどのくらい経ったかな、ちょっと、わからないや」
     腕時計の文字盤が血で汚れてしまって、読めなくなったのだ。だからあれからどのくらい時が過ぎたのかわからない。
     黒いスーツを着る弟に対して、髭切はいつも白いものを着る。だがそれは今度からやめにしようかななんてぼんやり考えた。血が目立ちすぎる。もうすっかり乾いて赤茶けた色になったその染みは落ちそうにない。
    「……義姉上を刺した男は、数年前に源氏に潰された家の息子だそうだ。覚えているか、兄者」
     そう教えられて髭切は僅かに考えたが、すぐにやめた。それからゆるく首を振る。
    「ううん……。でも、覚えていなくちゃいけなかったんだろうね。覚えていたら、違ったのかもしれない。奥さんが、刺される理由なんて」
     なかったのに。何にも、なかったのに。
     傍にいてくれると、言ってくれた。髭切がそうしてほしいと口にさえすれば、そうすると。
     一瞬でも望んでいいものかどうか躊躇うのではなかった。だってそれは源氏の惣領の願いではない。彼女に傍にいてほしいと思ったのは、髭切自身だったのだ。待っていてくれる彼女に返事をするのは簡単だった。言葉にできずとも首を縦に一度振るだけでよかった。それなのに、どうして自分はそれをしなかったのか。
     かつて、あまりにも醜いものを見すぎたから。髭切はそれらを全て忘れることにした。
     親族同士の家督争い、忘れる。
     家のために潰さなくてはならなかった家庭、忘れる。
     武士の世が遠ざかったから、こちらが生き抜くために自分が傷つけた人、忘れる。
     そうしていなくては、きっと色々なものを保つことができなかった。髭切がそうしていなくては、それらは弟のところへも回っていってしまう。弟は髭切よりずっと優しい。泣く人を見れば手を差し伸べるだろうし、できるだけを助けようとするだろう。けれどそれでは生きていけないのだ。それを思い知れば弟は傷つく。だから、自分の方が向いている。髭切は忘れることができる。
     けれど、本当はそれではいけなかったのだ。
    「奥さんが、死んじゃったら、どうしよう」
    「兄者……」
    「奥さんが死んじゃったことまで忘れちゃったら、どうしよう」
     散歩のとき握ってくれていた小さな手や、おにたけやうしわかを呼ぶ声を忘れてしまったら。ちょっとでも笑う顔を忘れてしまったら。傍にいますよと言ってくれたことも、あの暖かく鳴る心臓も、今こんなにもぎりぎりと痛む自分の胸も、いつかすっかり忘れてしまったらどうしたらいいんだろう。忘れたくない。失ってしまいたくない。痛みを捨てるために忘れたはずなのに、この痛みだけは自分のものにしていたい。
     ぽろ、ぽろと瞳から何かが滴る。その涙はまっすぐ前を向いていた髭切の頬を落ち、もう乾ききっていたはずの血の染みを再び滲ませた。
    「兄者、兄者大丈夫だ、義姉上はお強い方だ。そうだろう? 兄者の奥方を務めて何の文句ひとつも仰らなかった。あんな凶刃のひとつなどにお倒れになるわけがない!」
     弟が焦って膝をつき、髭切の手を握って力強く言う。それは結構兄に対して失礼な励ましだったのだが、最早髭切にはそれに気づく余裕などなかった。そうして硝子玉の瞳から幼子のようにぽろぽろと髭切が涙を流していると、もうひとつカンカンと威勢のいい足音が近づいてくる。
    「勝手に人の義妹を殺すな!」
    「……ありゃ?」
    「長谷部か?」
     兄弟の視線の先で仁王立ちしているのは、制服姿の一人の男である。長谷部というその男は、官憲に務めており、武家の源氏もいくらか手を貸したことがあって顔見知りなのだ。もっとも、髭切はそんなのいたっけくらいの心持だったが。だがなぜその長谷部がここにいる。
    「フン、お前の妻は俺の許婚の妹だぞ。式のときに会っただろう、まさかまた覚えていないのか!」
    「そうだっけ……」
    「ああ、そういえばそうだったな」
    「お前たち兄弟ときたら、兄はまだしも弟も家のことと兄のこと以外は何も覚えちゃいないなまったく。とにかく。職場伝いに許婚の妹が怪我をしたと聞いたからな、見舞いだ。いずれ俺の義妹になるのだからな、当然だろう。それにあの方も心配しておられる。それで、具合はどうなんだ」
     それに髭切は答えられなかった。まずいといえばそうなってしまいそうだし、大丈夫だというには確証がなさすぎる。だから黙りこくっていると、ずっと閉じられたままだった処置室の戸がやっと開き、髭切は立ち上がった。



     長い長い夢を見ていたような気がする。
     どこか暖かくて、気持ちのいい場所で、上の姉を追いかけているのだ。彼女は姉に、一言でいいからごめんなさいと謝りたかった。
     寂しく死なせてしまったこと。温厚で優しかった姉が怒るはずもないのに……自分が救われたくて、姉が恨んでいるのだと思い込んだこと。それから、それなのに髭切を好きになってしまったこと。
     謝ることだって自己満足だとわかっているのだけれど、どうしても。だから「姉さん」と手を伸ばしたのに、振り返ったのは髭切だった。
     ぽろぽろと涙を零して、髭切はただ立ち尽くしている。それを見て、彼女はああ早く帰らなくてはと思ったのだ。
     一人ぼっちの、忘れっぽくて寂しがりやな、彼女の夫が待っている。
    「……おはよう。ずいぶん寝ぼすけだったね」
     随分眩しくて、そこがどこなのかわからなかった。だが声で、どうやら髭切が傍にいるらしいと察する。今がいつであれからどのくらいたったのだろう。じんわりと鳩尾の辺りが痛かった。白いベッドのシーツが外の明かりに反射していて、目がしみる。髭切はそのベッドの傍らに座っているようだった。
    「だんなさま」
    「よかったね、存外綺麗に治りそうだって。君丈夫なんだねえ、ああ、いや僕が元気な子を選んだのか。あはは、我ながらいい目をしてたなあ」
     そう言われてやっと、彼女は自分の身に何が起きたのか思い出した。そうだ、犬の散歩に出ていたら暴漢に襲われて。自分は咄嗟に髭切の前に飛び出していたのだ。痛む場所を正確に把握してはっとする。体を起こしかけたが、痛くてそれは叶わなかった。
    「ありゃ、だめだよまだ起きたら。いくら丈夫だって言ってもね、流石にしばらくは入院らしいし」
    「だ、旦那様、申し訳ありません。体に傷を」
    「え? いやまあ、それだけで済んでよかったよ。ちょっと縫ったみたいだから、それは痕になるかもしれないけど」
    「お、お腹は平気だったんでしょうか? もし万が一、子どもができない体なんかになったら」
     するとぱちくりと髭切はその硝子玉の瞳を瞬いた。それからあははははと声を上げて笑い始める。彼女のほうは呆気にとられて何も言えない。ひとしきり笑った後、髭切は息をついて椅子をよいしょなんて引き、もう一歩ベッドに近づく。
    「大丈夫だよ、君が心配しているようなことは何もないから」
    「でも」
    「平気だから。いい子、いい子」
     よしよしと髭切はそのまま彼女の髪を撫でた。空いているほうの手でベッドの下を探り、彼女の手を見つけると嬉しそうに笑って握る。それからふわふわの髪を揺らして、高めの病院のベッドに頬杖をついた。
    「もう、君は僕以外の男の子どもなんて産んじゃだめ」
    「……旦那様」
    「ううん、僕以外とそんなことしてもだめ。そんなことしたら、僕は相手の男を斬っちゃうよ」
     ぎゅうと柔くだがしっかり手を握られる。もう離すまいとしているのか、指まで絡めとられた。
    「僕は忘れっぽいんだから……君は傍にいてくれなきゃ。そうでないと、自分の心臓が鳴っていることさえ忘れてしまうよ。もうすっかり、なくしたと思っていたんだから」
    「それは、とても困ります」
    「うん、そうだよね。だから君はちゃんとそれを思い出させてくれなきゃ。傍にいて、僕の心臓はここにあるって」
    「……はい」
     暖かい手を握り返す。髭切は目を細めて、満足げに彼女の胸の上に頭を置いた。とくとくと鳴っている、心臓。
    「元気になったら、またおにたけとうしわかの散歩に行こうね」
    「はい、旦那様」
    「ふふ、忘れちゃ嫌だよ」
    「旦那様じゃありませんから」
     あはは、そうだねと笑う獅子の柔らかい髪を、彼女は空いている手で撫でた。彼の胸元もまた、静かに脈打っている。たった一つ、優しい音を鳴らしながら。
    micm1ckey Link Message Mute
    2022/10/28 17:46:34

    獅子の心臓

    人気作品アーカイブ入り (2022/10/29)

    #刀剣乱夢 #髭さに #大正パロディ
    惣領の髭切と死に損なった妻の話。

    pixivに掲載していたものに加筆修正しました。

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