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    しおり
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    しおり
    雪の憧憬


    「はあまったく、兼定が落ち着くまで随分時間がかかってこちらを放り出す羽目になりましたよ。とんだじゃじゃ馬……いえ、こんなことをいったら歌仙が怒りますね」
     外から戻った宗三左文字がため息をつきながら天井を仰いだ。江雪もふうと力を抜く。確かに、ここ数ヶ月骨の折れることだった。
     兼定の当主である歌仙のお見合いが破綻した。末弟の小夜の頼みでその縁談の仲人を務めるはずだった左文字長兄と次兄は見合い相手に平身低頭したり、そちらが話を理解してくれたら今度は歌仙の結婚のために奔走したり、かなり苦労したのだ。それは歌仙が相手に選んだ女性がなかなか首を縦に振らなかったのが原因である。最終的に、あの気位の高い歌仙が土下座までしてやっと折れてくれた。「何としても彼女に来てもらう、五体投地する覚悟だって決めるさ」とは歌仙本人の言だが、本当にすることになると思っていなかった。
    「……ですが、あの女性も身分の低い自分を妻に迎える歌仙殿の苦労を思いやってのことだったのでしょう。最後は幸せそうで、何よりでした」
    「まあそうですね。終わりよければすべてよし、としましょう。ああ疲れた」
     相手が一介の女学生で、かつ両親もすでにないような状態だったため、兼定一門の親戚一同の反対が酷く、結婚に際し歌仙の味方をしてくれたのは弟の和泉守だけだった。それで小夜がどうしてもというものだから、二人の兄は歌仙の結婚のために全面的に支援に回ったのだ。歌仙の奥方の後見に江雪がつき、今後一切の身の保障は左文字がするということで折り合いがついたほどである。
     だがその分、縁談がまとまったときの喜びはひとしおだったようで、歌仙も彼女も幸せそうに笑っていた。対価はそれで十分だと思えてしまうくらいに。
    「さて……向こうが納まりましたからね、次はこっちですよ兄様」
    「またですか……」
     顔を上げた宗三がじっとりと自分のほうを見たので、江雪は再びげんなりと肩を落とす。ここしばらく忘れていた縁談地獄がまた巡ってきたのだ。
     江雪左文字は武家左文字家の長男として生を受けた。だから三兄弟のうちで一番自分の責任が重いものだと思っている。二人の弟たちの面倒を見なくてはならない。家を守らなくてはならない。だが正直、争いごとや駆け引きの苦手な自分にはこなしたくても見合わない役割だということを薄々感じ取っていた。
     兄弟である二人の弟のことは、深く愛している。これからも支えあって家を守り立てていく、可愛い弟たちだ。しかしその反面、江雪はあまり他者に興味がなかった。というよりも、他者と関わると何がしかの諍いがおき、江雪の大嫌いな争いごとに発展する。それが煩わしいのだ。
    「江雪兄様、もう観念なさったほうが。これ以上避けようがないです」
    「しかし……」
    「次男の僕とは身軽さが違うんですよ。大人しく見合いをなさってください。僕もこれ以上断るのは疲れました」
     はあとため息をついて、宗三が手にしていたお見合い写真を投げ出す。江雪はいつもの渋い青の着物をまとったままそれらを見つめた。
     左文字は歴史ある武家。その現当主ともなれば、当然縁談は舞い込んでくる。家柄やら相手の素性なんかを末弟の小夜が調べて次兄の宗三が見極め、江雪に見合わないと判断すれば彼の前に出す前に弾いているらしいがそれでも多い。とはいえ江雪ももういい年なので、そろそろ身を固めねば後継ぎを決める面でもまずいというのが傍系含め親族一同の意見である。
    「いっそ、宗三が結婚してその子を養子に迎えるというのは……」
    「正気ですか兄様。僕が直系でも妾の子だってこと覚えています?」
    「……」
     それはわかっているけれど。江雪は項垂れた。結婚やら跡継ぎやら、疲れてしまう。前にも三条のほうで、跡継ぎのことで揉めた嫡男の三日月とその嫁が離縁しかけてしまうような騒ぎがあったばかりだ。まあそこは単純に二人の間ですれ違いがあっただけのようで、何事もなくことは片付いたのだが。
     ちらりと江雪は助けを求めるような視線を宗三に投げかける。宗三はそれをわかっていてひらりと手を振った。
    「残念ですが兄様、僕は手ひどい失恋をしたばかりなんで。しばらく結婚はしませんよ」
    「……わかっていますよ」
     家のことをするのはいい。まだ耐えられる。だって江雪は一人ではないのだから。宗三がいる、小夜がいる。二人が江雪の足りない部分を埋めて助けてくれる。しかし江雪個人のこととなれば話は異なってくる。
     江雪は目を伏せて立ち上がった。長い月白の髪と着物がひらりと揺れる。
    「寄り合いに、行ってきます」
    「縁談、小夜と話して僕が適当に組んでしまいますよ。いいですね?」
    「構いません……」
     どうせ誰と会っても自分とはどこかちぐはぐなのだろう。江雪は最初から諦めていた。武家の生まれでありながら争いを厭い避けようとする自分が、武家の嫁として迎え入れられる女子とうまく行くはずがない。
     ああそれこそ本当に、三条から掠め取ってでも弟の初恋の相手を左文字に迎え入れればよかった。そうすれば弟が身を固めてくれて、少しは自分の負担が減ったかもしれない。
     そんな薄ら暗いことを考えながら、江雪は車に乗る。当主は意味もないのに様々なところに顔を出さねばならないのだ。気が重い。できれば兄弟以外の誰にも会いたくない。江雪はただ、兄弟と静かにどこかで暮らせれば、それでよかったのに。
     好きでもない外出にひどく疲れた江雪は、茶でももらおうと帰宅してすぐに厨へと向かった。もう今日は早く寝てしまおう。
    「あ、おかえりなさいませ、当主様」
     しかし江雪はその切れ長の目を瞬いた。見慣れない女子が厨で襷をして立っている。長年、左文字の家は広いとはいえそこまで家人を置いていなかったし、江雪の性格もあり女中はほとんどいない。せいぜいこの厨を切り盛りしていたばあやくらいだったのだが。
    「……ばあやは」
    「あ、祖母はお暇をいただくことになりました。少し体調を崩しましたので」
     ふわふわと癖のついた髪が揺れる。江雪がやっとのこさ尋ねたことに、なんでもないように彼女は返事をした。
     祖母ということは、おそらく彼女はあのばあやの孫なんだろう。だが江雪はばあやが体調を崩したことも、代わりに孫が来るなんてことも聞いていない。一切表情は変わらないまでも、江雪はひどくうろたえた。
    「おや兄様、お帰りでしたか」
     厨の暖簾をくぐり、宗三が顔を出す。くるりと振り返って、江雪は宗三に問いただした。
    「宗三、この方は」
    「ああ、今日から来てもらったんですよ。ばあやがぎっくり腰だそうで」
    「なぜ私に何も聞かぬまま」
    「炊事係を変えるのに御当主の指示を仰ぐまでもないと思いまして」
     いたずらっぽい笑みを浮かべて、宗三は春色の髪を翻して去っていく。釜の火を熾していたまだ若い女は、振り返って江雪にぺこりと頭を下げた。
    「というわけで、祖母の調子がよくなるまでお世話させていただきます。当主様。本日からよろしくお願いいたします」
    「……わかりました」
     頭の痛い事案が増えた。江雪は黙って踵を返す。そして部屋に戻ってから、茶をもらうのを忘れたと気がついた。気は重いが再び厨に行こうと江雪は襖を開ける。しかし江雪の部屋の襖の前には、いつの間にか温かく湯気の昇る緑茶が置かれていた。気のつく娘らしいことは、わかった。



     その少女は年の頃は宗三よりも下で、あのばあやの娘の、さらに娘だという。普段は喫茶店で給仕の仕事についていたが、ばあやが腰を痛めてしまい、代わりに左文字の家へ行くようにと言われたらしい。左文字は男所帯、ばあやがいなくては屋敷の家事関係は完全に停止する。
     けれど若い女性というものは、江雪の最も苦手とする部類だった。
    「当主様、お菓子はいかがですか? もうお仕事を始められてからしばらくたちますよ」
     障子戸を開けて、彼女が顔を出した。江雪は鉄面皮の下でウッと呻く。失礼いたしますと前おいて、彼女はお盆を持って部屋に足を踏み入れる。給仕をしていただけあって、卒のない動きだった。そこには温かなお茶とちょっとした茶菓子が載せてある。
     可愛らしい花を象ったそれを見つめ、江雪はほんの少しだけ心を和ませる。こういうものは、好ましい。
    「こう言ったお菓子はお好きですか?」
    「ええ……」
    「ならよかった! 当主様はお食事もあまり召し上がられないので、何ならよろしいかと考えていたところです」
     ふわふわとした笑みを浮かべながら、彼女はそういってお盆を抱えた。江雪は静かに菓子に向かって手を合わせ、「いただきます」と言った。
    「当主様は、食事の所作が丁寧ですね」
    「……命を頂くのですから、当然です」
     争いごとは、好きではない。殺生も好ましくない。けれど目の前に差し出された命を、嫌いだからと遠ざけるのはもっとよくない。そんなのはその命に対して失礼である。殺したからには、感謝してこの身に取り入れなくてはならない。
     だから江雪は、基本的に好き嫌いをしない。ただ殺生は最小限に留めたいがために、食べる量は昔から極端に少ない。
    「では、お野菜でしたら召し上がられます?」
    「植物とて、生きとし生けるものです」
    「でも食べねば当主様が死んでしまいます」
     江雪は思わず黙り込んだ。確かに、ここ最近はあまり食事を摂っていない。色々疲れてしまって、食欲がわかないのだ。江雪がため息をつくと、彼女は「うーん」と考え込んで天井のほうを見上げる。それから「ひらめいた!」という晴れやかな表情を浮かべて手をたたいた。
    「当主様、私と一緒に料理をいたしましょう」
    「……なぜですか」
    「ご自分の作ったものなら、きっと美味しく召し上がれますよ。それに、安心できますね?」
     ぐっと江雪は押し黙った。
     見抜かれていた。自分にあまり縁のないものが食事を作っているものだから、警戒しているということを見抜かれていた。
     左文字は元は武家。食べ物に毒物を仕込まれることも少なくはない。だから誰と知れぬものが作ったものを食うなと、江雪は随分小さいころから教え込まれていた。誰が作ったかわからないもの、家の外で作られたもの、それらは口にしてはいけない。そう言われ続けた江雪は、そのうちに小さいころから家にいたばあやと、兄弟の作ったものしか食べられなくなった。
    「ご自分の手で作られたものなら、食べられますね?」
    「……はい」
    「では私と一緒に料理をいたしましょう。祖母が戻ってもし当主様が今以上に痩せていたら、祖母は驚いて卒倒してしまいますから」
     江雪は彼女のその勢いに、最早頷くしかできなかった。
     ふわふわとした印象なのに、随分押しが強い。だがそれのおかげで江雪は「彼女の作ったものを極力食べなかった」という負い目をあまり感じずに済んだので、少しだけ江雪は安堵した。



     宗三左文字はあまり朝が強くない。だがその日は急に気温が下がったのもありたまたま目が覚めて、あたたかいお茶でももらおうと厨に顔を出したのだ。そして暖簾をくぐって、そこでとんでもないものを見た。
     兄が、長い髪を結わえた上に三角巾をして、加えて割烹着まで着て厨に立っている。一体何があった。今日はこの世の終わりの日ではないのか。兄の隣にはあのふわふわとした少女がいて、いつもどおりにこにことしながら朝食の支度をしている。
    「……槍でも降るんですか、今日は」
     思わず口をついて出たつぶやきに、振り返ったのは兄のほうだった。誰かの気配に江雪が声を上げねば気づかないのは、これまた珍しいことである。兄は武家の長男ということもあり、ヒトの気配には恐ろしいまでに鋭い。続いて宗三を見た少女が、穏やかな笑みで挨拶をする。
    「おはようございます、宗三様。今日の朝餉は当主様がお作りになっているので、もう少々お待ちください」
    「兄様がっ!?」
     今度は流石に大声を上げざるを得なかった。いやだって、あの兄が、料理? あの格好で何となく予想の中にはあったけれど、だが現実として突きつけられると衝撃が大きすぎる。嘘だろう。
     江雪は死んだ目で唇を引き絞ると、つかつかと厨の入り口に近寄ってきてすすすと宗三の肩を押した。どうやらもう出て行けということらしい。
    「……そういう、ことですから。居間で待っていなさい」
    「あの、今日の献立は」
    「これから鮭を焼くところです。他は味噌汁と卵焼きがつきます。もう行きなさい」
     それだけ言うと、江雪は今度こそ暖簾の向こうに宗三を押し出した。踵を返し、江雪はすぐに釜のほうに戻っていく。微かにかちゃかちゃと食器や包丁の音がし始めた。
     へえ……あの兄が、料理。それも少女と一緒に。宗三はひゅうっと口笛を吹きそうになったが、そんなことをしては今度こそ江雪から鉄拳が飛んできそうだったのでやめた。あの少女がどんなことを言って江雪を厨に立たせたのか知らないが、確かに最近どんどん細くなる一方だった兄の食が気になっていたのだ。自分で作ったものなら、江雪とて口にするだろう。鼻歌交じりに、宗三は厨を離れ居間へと足を向ける。
     さてさて、お小夜にどう今の光景を話してやりましょう。くすくす笑いながら、宗三はそんなことを考えた。



    「さてまずは、鮭からいきますよ」
     襷をかけた少女は氷の入った容器からがさりと一本鮭を取り出した。それをまな板ではなく、洗い場に彼女は下ろす。江雪はじっとその大きな魚を見つめた。
    「……水で、洗うのですか」
    「ああ、そうなんですけど。その前に鱗を取ってしまわなくてはなりません」
     ざかざかと包丁をその身に走らせ、彼女は鱗を洗い場に落とした。それからざっと水で洗い、やっとまな板の上に乗せる。それから彼女は江雪のほうに目を向けた。
    「当主様、お魚を捌かれたことはございますか?」
    「いいえ。一度も」
    「では今日はご覧になっていてくださいね。先ずはヒレを落とします」
     彼女はさくさくと手際よく胸ビレと腹ビレを切り取ると、そのまま一息に頭を落とした。若干の生臭い臭いが江雪の鼻をつく。彼女の手指も少しだけ血で汚れた。
     一つ一つ江雪に手順を教えながらではあったけれど、あっという間に彼女は鮭を三枚におろしてしまった。一応メモを取ろうと割烹着に筆記具を入れていた江雪だったが、目を白黒とさせながらその様を見るので手一杯である。「今日はご覧になっていてください」ということは、明日以降はご自分でどうぞという意味だろうが、できる気がしない。
     ひとしきり三枚にされた鮭を焼く用と保存用とに分けた彼女は、朝食分を焼き始めた。本当に手際がいい。明日から全て一人でやれと言われたらどうしようと、江雪は若干青ざめた。
    「魚を焼く時間を使って、汁物と卵焼きを作りましょう。そこのお鍋を取ってください、当主様」
     ずっと彼女の隣でじっと手元を見つめていた江雪は、明確な指示を得てやっと動くことができた。厨の机に置いてある鍋を渡せば、彼女はその中に水を注ぐ。
    「はい」
    「では先程の鮭の頭を使います」
     てっきり江雪は切り捨てた頭を捨てるものと思っていたのだが、彼女はまな板の端に残していたそれを再びその中央においた。
    「頭を……?」
    「そうです、いいお出汁が出るんですよ」
     出刃包丁で勢いよくスコンと真っ二つにしたうえザクザクと切ると、彼女は火にかけた鍋の中にそれをどんどん投げ込んでいった。出汁、魚の頭で取れるものだったのか。江雪が目をぱちくりとしながらそれを見つめていると、彼女もそれに気づいてああと笑った。
    「珍しいかもしれないですね。祖母はいつも昆布だしなんです。でも、美味しいですよ、鮭のお出汁も。お茶漬けなんかにするとこれからの時期は温かくて、いいですね。今度作りましょう」
    「てっきり、捨てるものだと」
    「ふふ、食材のどこにも、捨てる場所などございません。命を頂くのですから、無駄にしてはいけませんと祖母から教わっております」
      それを聞いて、江雪は「確かにこの少女はあのばあやの孫なのだな」としみじみ思った。江雪も幼い自分にそう言い聞かされた記憶がある。
    江雪は両親や親戚から、「お前は直系の跡取りなのだ」と物心のついたときから何度も何度も繰り返しそう言われてきた。世の中はお前に優しいものばかりではない、いつ何時、命を狙われるとも限らない。お前は武家の生まれなのだ、常に警戒を怠るな、怪しいものは口にするな、誰が作ったかわからないものなど食べてはならぬと。一度、それを思い知らされるために、親族に本当に軽い毒を仕込まれて寝込んだことさえある。食事は、江雪にとって恐怖だった。
     それを、ばあやがそう言ったのだ。「江雪様が召し上がった命は全て、江雪様の血肉となり生かしてくださるのです。無駄にしてはいけません。残してはいけません、生きるために殺したなら食べなくては」と。
     彼女は出汁を取り終えた鍋に切った野菜をさらに入れて、ぐつぐつと煮込む。これでしばらく置きましょうと言ってから、江雪を振り仰いだ。
    「当主様が、昨日、命をいただくのだから当然だと仰ったとき、とても嬉しかったのです。祖母と同じことを仰るのだなと思いまして」
    「……かつて貴女のお祖母さまに教わったことですから」
    「ええ、だと思いました。よく祖母から、左文字の仲のよい三人のご子息方のお話は私も伺っていたので。ですから余計に、当主様が痩せてしまっては、祖母が悲しむと思ったのです。強引に厨へ連れ出してしまって申し訳ありませんでした」
     深々と、少女は頭を下げる。江雪は僅かに口を開き、そしてまた閉じた。それから首を振り、少女の肩を叩く。
    「構いませんよ。気遣いに、感謝いたします。ばあやが戻るまで、どうかよろしくお願いいたします」
     するとぱっと少女は表情を明るくした。ふわふわとした髪や印象も相まって、まるで陽だまりのような顔だと江雪は思う。
    「ええ、ええもちろんです当主様! では、当主様、最後に卵焼きを作りましょう。簡単ですから当主様にもできます。さ、こちらにいらしてください。まずは油を敷きましょう」
     彼女に手伝ってもらいながら、江雪が初めて作った卵焼きは少し焦げていて、小夜は「美味しいよ」と言ったものの宗三が声を上げて笑い転げていた。江雪はそれを一度ぽかりと殴った。だが確かに、焦げていた割にその味は「祖母はいつもこうです」と彼女が砂糖を多めに入れてくれたおかげで、甘かった。



     ばあやの腰は年のせいもあってなかなかよくはならず、例年よりやや早く訪れ始めた冬の頃になっても左文字家には少女が代理として通ってきていた。やはり年若い女性がいるというのは屋敷が華やぐもので、男所帯だった左文字では殊更だ。料理も、ばあやの得意だったものに加えて給仕の仕事で覚えたのだという洋食が増えた。
     そして、江雪左文字は当主の仕事の合間に少女と厨に立つ日を、たまに設けていた。もう卵焼きを焦がすこともない。
     そんな随分冷える日の夕刻のことだ。
    「江雪兄様、びしょ濡れじゃあないですか」
     ばさりと大きめのタオルが宗三によって投げかけられる。
     寒い、江雪左文字は指先をすり合わせた。寄合に出た先で雨に降られてしまって、その上それがみぞれにまでなったものだからすっかり体が冷えてしまったのだ。カチカチと僅かに歯の根が合わず音を立てる。長い髪から水が滴るのも煩わしかった。
    「当主様、大事ございませんか」
     少女が湯を汲んで玄関まで走ってきた。足をどうぞというので、言われるままに桶に冷たくなったつま先を浸す。適度にぬるくされた湯はちょうどよかった。
    「今、お風呂の支度をさせているよ。江雪兄様、お腹は空いている?」
    「いいえ……今は。今日は、何だったのですか」
     小夜に声をかけられて献立を問うと、江雪の足を拭いていた彼女が顔を上げて微笑む。
    「今日は小夜様が召し上がりたいとおっしゃるので、暖かい野菜スープをお作りしました」
     野菜スープ。江雪は頭からタオルを被りながら、以前彼女が作った透き通った色のそれを思い出す。玉ねぎやニンジンが多く入っていて、体のうちからほこほこと温まるような料理だった。くしゅんとひとつくしゃみをしてから、江雪はこくりと頷く。
    「では、後ほどいただきましょう」
    「……はい、当主様。まずはお湯を召されてくださいね」
     小さい末弟に手を引かれて江雪はすぐに熱い風呂に入ったのだけれど……結果として言えば、彼女の野菜スープは食べそびれてしまった。何故なら、やはり見事にみぞれに降られたのが祟ったらしく熱を出して入浴直後に寝込んでしまったからだ。
     頭が、がんがんとする。江雪は幼いころ両親に連れられてよく寺に行っていたが、そのとき聞いた鐘の音が間近で響いているかのようだ。ああそういえば、あの座禅も最初は厳しいものがあった。
     武家の嫡男たるもの、いかなるときも精神を乱してはならない。気を抜くな、隙を見せるな、周囲のものはお前が緊張の糸を緩めるのを今か今かと待っている。そして、その瞬間にお前は殺されるかもしれない。ずっとそういい聞かされて、座禅を組まされる。
     争いごとは、嫌いだ。誰かが傷つくことは嫌だ。だが江雪には下に弟がいた。江雪一人では大きい左文字の家をまとめるのに苦労をするだろうと、妾に産まされた異母の弟。可哀想に、好きで妾の子になったわけではないのに、弟は親族に酷く苛められた。飄々として憎まれ口をたたく弟だったけれど、それでも影で泣いていたのを江雪は知っている。だから江雪は強くならねばならなかった。争いごとが嫌いなら、誰かが傷つくのを見たくないのなら、自分が強くなって守ってやらねばならなかった。そのうち年の離れた小さな弟も生まれて、江雪はなおもしゃんとして立たねばならなくなった。
     冷やりとした何かが自分に触れて、バッと江雪は目を開ける。すぐさま額の辺りにあった手首を掴んで思いきり引き倒し、首元を押さえつけた。
    「んぐっ」
    「何なさってるんですか兄様!」
     視界がぐらぐらとしていてよくわからない。だが同じ室内にいたらしい宗三が、慌てて江雪を押さえつけていた相手から引き剥がした。普段の江雪なら宗三の細腕ごときがそうすることを許さなかっただろうが、ひどい頭痛と重たい体のせいでうまく動かない。しかし、倒れこんだ人影がけほけほとむせている声を聞いて、江雪はやっと我に返った。宗三がその人を助け起こして背を摩っている。
    「あ、あなたは」
    「大丈夫ですか、しっかりなさい。すみません、僕の配慮不足でした。兄様は寝ていても酷く用心深くて」
    「だ、大丈夫です、宗三様。私こそ失礼いたしました」
     へらっと笑ったのはばあや代理の少女だ。江雪は震えながら自分の手を見る。柔い感触だった。簡単に押しつぶせてしまいそうな、体だった。
     呆然としながら、それでも江雪は宗三に問う。
    「宗三、彼女が、なぜここに。今は」
    「今は夜ですよ。ちょうど十時を回ったころで」
    「ならなおさら何故彼女がここに」
     彼女は住み込みではなく通いで左文字邸に来ているはず。少女をこんな夜更けに帰らせるわけにはいかないが、ここに置いておくわけにも。
     しかしその問いに焦ったように答えたのは少女自身だった。
    「申し訳ございません当主様、それは私が我儘を宗三様に申し上げたのです。当主様がお風呂から上がられてずっとお休みになっていたので、せめてお夜食でも作らせてくださいと」
     ついで宗三が困ったように肩をすくめる。よく見れば宗三はこの時間だというのにきっちりとスーツを着込んでいた。完全にこれから外へ出る風である。
    「ええ、本当はそこで車をつけて帰らせるつもりだったんですが、そうもいかず。江雪兄様、ただいま急な連絡が入りまして。源氏に呼び出しを食らいました」
    「源氏に……?」
     源氏というのは、左文字と同じく武家の名家である。左文字よりも長い歴史を持つ家で、華族でいう三条同様に武家の一門の中では強い力を持っている一族だ。そこに呼び出されるような何かをしただろうかと、江雪は熱でぐらつく頭で考える。
     宗三がネクタイを締めながらはああと息をつき、首を振った。
    「おおかたこの間の歌仙のことを聞かれるのでしょうよ。ちょっと兼定の家に肩入れをしすぎましたからね。ただ当主が体調が優れないので、僕が行くといってあります。僕もあそこの当主は苦手ですが……まあ話を聞くだけです、問題ありません」
    「いえ、それを、宗三にさせるわけには」
     江雪は立ち上がろうとしたが、体に力が入らない。宗三はくすりと笑ってそれを嗜めた。
    「そんな体であの獅子と蛇の前に出るんですか? お強い兄様でも無理がありますよ。それで、病の兄様を小夜一人に任せるわけにも行きませんから、彼女にお願いして今日は一晩いていただくことにしたんです。ですから、先ほどのように警戒して彼女を引き倒すなんてことはしないでくださいね」
     じゃあ、と宗三は家のものを連れて出て行った。彼女は行ってらっしゃいませとそれを見送ると、江雪のほうに向き直り跳ね起きたときに蹴り上げてしまった布団を直し始める。それからにこりと笑って江雪に枕を示した。
    「さ、当主様。横になってください。早くよくなってしまいましょう」
    「あ……お小夜は」
    「小夜様なら、こちらに来る前にお休みになると仰ったので白湯を差し上げました。もう眠っておいでだと思いますよ」
    「そう、ですか」
     当主様も、と彼女は江雪を手で促そうとし……すぐにやめた。途中でふっと手が止まったので、江雪がひどく警戒しているということを思い出したのだろう。彼女はなんでもない風に畳に転がった手拭を拾い氷で冷やした水に浸しているが、それも先ほど江雪が弾き飛ばしたものに違いない。
     何ともいえない気持ちになって、江雪はただ唇を引き絞り絞られた手拭が立てる水音を聞いていた。
    「……先ほどは、失礼をいたしました」
    「いいえ、寝ている方に急に触れた私が悪いのですから。お気になさらないでください」
    「そんな、ことは……っ。やはり、いけません。若い女性がこのような男所帯に、泊まるなど。ばあやに面目が立ちません。車を出させます、どうぞそれで、お帰りに」
     江雪はそう言って立ち上がろうとして、またも失敗し崩れ落ちた。思いのほか自分の熱は高いらしいと唇を噛む。彼女はその上から布団をかけてやんわり微笑んだ。
    「こんな様子の当主様を放って家に帰ったとなれば、それこそ私が祖母に叱られてしまいます。どうか今日は一晩お休みになられてください」
     抵抗しようにも力が出ないので、江雪は仕方なくそのまま枕に頭を預けた。失礼いたしますと前置いてから、彼女はその髪が解れてしまわないよう枕上に流す。そして静かな動きで行灯の明かりをやや落として、火鉢の火を熾した。
    「白湯もお持ちしていますよ。少し飲まれますか?」
    「いえ、今は……」
    「では次に目が覚めたときにいたしましょう。汗をかかれていたようですから、ちょっとでも飲まないと体に悪いですからね」
     彼女が首まで引き上げてくれた布団。その手首には、赤く痕が残っている。江雪が思い切り掴んだせいだろう。きっと痛いだろうに。
    「……申し訳、ありません」
     再び謝罪した江雪を、彼女はじっと見つめた。
    実はまだ、手が震えている。彼女の小さな感触を覚えているのだ。江雪の、細くとも大きな手でなら潰してしまえそうな喉を。組み敷いた華奢な肩を。
    兄弟を守るため、誰も傷つかないようにと強くなったこの手が、その反面で容易く誰かを殺めるかもしれないことを、江雪左文字は知っている。
    「強く、なろうとしました」
    天井を見上げて、ポツリとつぶやく。昔も今も、この天井は江雪左文字にはとても高く感じる。
    「……強く?」
    「私は、争いが嫌いです……殺生も、嫌いです。それを避けるためには、宗三や小夜を血なまぐさいものから遠ざけるためには、私が強くなるほかなかった。そうすれば、弟たちを守ることができる。だから強くなろうとしたのです」
    「当主様」
     とつとつと、一度口を開いてしまえば止まらなかった。堰を切った川のように、江雪はただ話し続ける。
    「強く、なりたかったのです。家などどうでもいい、どうだっていい。私はただ、弟たちと三人で、穏やかに暮らせればそれで幸せだったのに」
     それなのに、手に入れた強さは江雪に一体何をしてくれたのだろう。一体どうしてくれたというのだろう。ほろりと一筋、熱のせいか温度を持った涙が頬を伝っていった。



     少女は物心ついたときから、祖母からその三兄弟の話を聞かされていた。家事能力を買われて、お武家様の家の厨を管理している祖母は、少女に特に頻繁にその長兄の話をした。
     食事をあまり召し上がらないということ。そのせいでしっかりとした体つきはしているものの、少し痩せていらっしゃること。けれど弟のことはとても大切にしていて、弟の好物を献立にすると、それを分けて差し上げること。
     率直な言い方をするのであれば、それはきっと物語の登場人物に興味があった、くらいのものだっただろう。祖母が年のせいか腰を痛めたとき、本当ならば彼女の母が左文字邸に行くはずだった。それを、少女が祖母に頼んだのである。給仕の仕事もしているから、きっと滞りなくできるはずだと。祖母の代わりに、左文字邸に行かせてほしいと。
     一度でいいから、会ってみたかったのだ。小さい頃から話を聞かされていた、その人に。
    「どうやってあの兄を厨に連れ出したんです?」
     左文字の家に通うようになって暫くしたころ、二番目の息子にそう聞かれた。彼はいたずらっぽく笑いながら、厨の柱に寄りかかり彼女の淹れた茶を飲んでいた。笑んではいるけれど、その目はしっかりと少女を探っていた。
    「……自分の食事はご自分で作られたほうが、ご安心なさると思っただけですよ」
    「ふふ、まあそうですね。いえ単にあの手負いの獣のような兄をどうやって手名付けたのか、少し気になりまして。弟として、これでも心配しているんですよ。兄様は不器用ですから。武家を治めるには、あの人は優しすぎる」
     話に聞いていたよりもずっと飄々としている二番目の弟。表情のまったく変わらない長兄に対して、もっと社交的でおしゃべりで、たまにからかって頭をぽかりとやられたりしていた。
    「兄様は、本当は料理、好きなんだと思うよ」
     江雪と厨に立つようになって、ポツリと話しかけてくるようになった末の弟。祖母は可愛らしい坊ちゃんなのよといっていたが、無口であまり感情が出ないところは長兄によく似ていた。
    「でも、江雪兄様はずっと昔から色んなことを我慢してきたから……きっと好きだって口に出すのも難しいし、気づくこともできないんだ。だから、貴女がこうして一緒に料理をしてくれて、僕はよかったと思う」
     二人とも、とてもあの長兄のことが好きなのだと少女はすぐにわかった。そして同様に、長兄も二人の弟が一緒にいるときは空気が和らぐことを知った。当主として家を出るときは張り詰めている空気が、帰宅し弟たちに迎えられるとわずかに綻ぶ。
     確かに料理は好きなのだろうが、あまり器用ではなくて焼き加減やらなにやらは大雑把。最終的には力技で何とかしようとしさえする。そして、うまく料理ができれば張り付いた表情にうっすらと笑顔さえも浮かべるのだ。
     だが先ほど、寝覚めで押し倒されたときにその人の目に浮かんでいたのは、怯えだった。大事なものを奪われまいと、傷つけさせまいと、自分が嫌なことでも突き進んでいった彼の先にあったのは。
     話で聞いていたよりも、彼女が会いたかったその兄は体温を持った人間だった。
    「強くなりたかったのです」
     そして今、一筋だけ涙をこぼしながら、今その人は目の前でそう呟いている。
    「……当主様、好きなご飯は、何ですか?」
     涙を拭うことなく、江雪は彼女のほうを見た。自分でも脈絡がないことはわかっている。けれどそれでも、彼女にはそうとしか聞けなかった。
    「できれば、宗三様と小夜様のお好きなものも、教えてください」
    「……」
     しばらく考え込んでから、江雪は静かに口を開いた。彼女は傍にあった懐紙を手にとって、メモをとる準備をする。
    「宗三は、食べ物より、菓子のほうが……。ああでも、色とりどりのものは、好きなようですから」
    「では散らし寿司など。見た目を華やかにいたしましょう」
    「小夜は、……そうですね。凝ったものでなくとも、握り飯や、味が素朴なものを好むようです。できるなら、柿を」
    「じゃあ具を工夫して。食べていて楽しい気持ちになるものがいいかもしれません。小夜様は洋食も好まれますし、力のつくものにいたしましょう。……それで、当主様は?」
     江雪の厳しい印象を持たせる眉が、困ったように下がる。いくらか迷って、何を言ったものかと唇を動かしていた。それでも少女は、急かすことなく江雪がそれを言うのを待つ。
     たっぷり十分は時間をとってから、一息ついて江雪は答えてくれた。
    「……今日、貴女の野菜スープを、食べ損ねました」
     ああ、この人はなんて。思わず涙が出てしまいそうになり、彼女は堪えた。
     本当に、素朴な幸せを望んでいる人なのだ。左文字の当主なんかではなく、普通の家に生まれていればどんなにか楽だっただろう。
    「わかりました。スープは、水筒にして持っていけば、きっと大丈夫です。私がご兄弟皆さんの好きなものを詰めたお弁当を作りますから、それを持って、どうか、どうか」
     遠くへ、行ってほしい。
     兄弟三人で、もう江雪が傷つかなくていい場所に。
    「当主様ももう、十分にお料理ができるようになりました。きっとどこででも、やっていけます」
    「……」
    「だから早く、元気になりましょうね。当主様」
     夢物語のようなことをいっているのはわかっている。こんなのは、気休めでしかない。実際はそんなことできないのを知っている。江雪は左文字の家を捨てることはできない。弟二人を連れて、家を投げ出すことはしないだろう。
     でも心が弱っているときくらいは、その程度の夢を見ていてほしい。
    「……当主、と」
    「え……?」
     する、と布団の隙間から細い手が伸ばされる。一度躊躇ったようだったけれど、その手は縋るようにして彼女の指先に絡んだ。
    「当主と、呼ぶのをやめにしていただけませんか」
     じわじわと熱を持った江雪の手が彼女の手を握る。細い指が彼女の指の間をなぞって、手首を辿り、緩い力で、けれどしっかりと掴む。
    「私の、名で呼んでいただけませんか」
     少女はまだ、人生経験が豊富なわけではない。
     けれど自分の名を呼んでほしいと、熱い声で言う江雪の心の内がわからないほど、子どもでもなかった。だからいけないとわかっていても、目を閉じ、ただ縋ってくる相手に対して「江雪様」と繰り返しその夜を過ごした。



     厄介なことになった、どうしたらいい。
     宗三は珍しく焦って屋敷のうちを歩き回っていた。だんだんと冬も勢いを増してきて板張りの床は冷たい。あまり足音を立てて移動すれば、あの兄はきっと耳聡く聞きつけてやってくるだろうから、結局困って末弟の部屋を目指す。そこならば宗三が長居をしたとて家人に不審には思われまい。
    「ちょっとお邪魔しますよ」
    「どうしたの、宗三兄様」
     シャッと素早く襖を開け閉めして宗三が部屋に入れば、手習いをしていたらしい小夜が顔を上げた。小夜は細川の家に顔が利くためか宗三とは違った人脈を持っている。だが今回ばかりはそれは頼れそうにない。
    「お小夜……の人づてには、あまり期待できませんね。ああ困った」
    「最初から言って」
     事の発端はやはり、あの兄が高熱を出してぶっ倒れた日のことだろう。宗三は武家の元締めというというか、とにかくそういう位の高い家、源氏に呼び出されて行った。本当は当主の江雪が行くべきだったのだけれど、あの様子だったので江雪に相談するまでもなく宗三は自分が行くと言ったのだ。
     宗三は兄が常に何かを押し殺し、耐え、それでも家と自分や小夜の弟のために生きていることを知っている。そのために自分自身が本当に望んでいる穏やかな生活やら何やらを投げ打ってしまっていることを。そして次男で妾の子である自分が、そういった江雪の苦悩に対して何の対応策も持たないことも、わかっている。
     だからどことなくその兄の雰囲気を和らげてくれる少女を傍に置いて、宗三は源氏の本家に向かったのだ。あわよくばうまくいってくれないかなーなんて思いながら。
    「うまくいったよ。江雪兄様はあの子にべったりだ。表向きはそう見えないけれど」
     小夜は呆れたような、けれどどこか嬉しそうな声音で宗三に返事をする。宗三もそれに関しては頷いた。
    そう、宗三の目論見どおりに、長兄は羽休めをする場所を得たのだ。今や少女は通いでやってきて厨を切り盛りする傍らで、江雪の部屋で専ら彼の相手をしている。とはいえあの朴念仁の兄ときたら、男女が二人で部屋にいるにもかかわらず、することは一緒に本を読んだり写真を見たり、新しい料理を教わったりだというのだから卒倒しそうになってしまうが。
     だが問題はそこではない。
    「……源氏が、血縁の娘を兄様に嫁入りさせたいと」
    「源氏が? どうして」
     流石の小夜も怪訝そうな顔をして眉を顰める。源氏と左文字とは何の縁もゆかりもない。同じ武家だというだけだ。
    「その、同じ武家だからですよ、頭の痛い。お小夜、兄様がうまく隠していましたからね、あなたは知らなかったでしょうが……。兄様が最近、寄合に多く顔を出していたのは知っていたでしょう。できるだけ多く、伝手はあったほうがいい。左文字も変わらなくてはならない。その下準備です」
     時代は変わった。武士の世はもう遠い。新しい時代での行き方探しを模索しているのは、資金繰りのために宗三の初恋である商家の娘を掻っ攫っていった三条だけではないのだ。この世の中で、武家は軍人になるしか道は残されていない。けれど江雪の性分で、宗三の様子で、それができるはずもなかった。なら別を探さなくては生きていけない。
    「武家は武家同士で繋がりを深めていこうってだけだよ。そう深く考えないで、大雑把にいこう」
     蛇だなんていわれる弟よりもよっぽど穏やかな風貌をしているのだが、その兄は確かに獅子だった。嫌味も何もかものらりくらりと交わしていられる宗三が、真正面に立ったときに冷や汗をかく程度に。
     しかし宗三も源氏の惣領が言うこともわからないでもなかった。生き残るために、知り合いは多いほうがいい。話として、悪いものではないこともわかる、けれど。
    「……兄様に、なんと言えば」
     やっと、心の平安を得た兄に。その女性を手放して、他の女と結婚しろだなんて。小夜が悲しげに眉を下げ、俯いた。宗三も膝を立てて座り、組んだ手に額を伏せる。
    「源氏の、当主はなんて」
    「あの人に僕らの常識なんて通じるはずがないでしょう……ゾッとしましたよ僕は」
     どこか浮世離れし、惣領息子として育ったせいか無自覚な傲慢さを持つその獅子は和やかに笑ったまま宗三に言い放った。
    「やあ、僕もいい年だからね。この春にはお嫁さんをもらおうと思うんだ。でもほら、僕だってさ、好きでお嫁さんをもらうんじゃないし……その子だって僕のお嫁さんになるんじゃない。源氏の嫁になるんだ」
     あの獅子に嫁ぐ女性は苦労するだろうななんて考えるのは、きっと現実逃避なのだろう。とにもかくにも、宗三は頭が痛かった。
     言えない、自分の口から、大好きな兄にそんなこと言えるはずがない。だってもし、もしもこの話を知ったら、あの兄は。
    「……それで、お前は悩んでいたのですね」
     すっと襖が開いて、宗三が顔を上げるまでもなく大きな手に頭を撫でられた。思わず顔をくしゃりと歪めてしまいそうになり、宗三は堪える。
     うまく隠し事をしようとしても、小さいころから江雪はすぐに宗三の嘘やごまかしなんて見抜いてしまう。そうして先回りして、気づいたらすべて丸く収まっているのだ。そういう風に、してしまう兄なのだ。
    「……江雪兄様」
    「なんですか、宗三」
    「僕らはつくづく、恋をするのに向いていない兄弟でしたね」
     伏せたままそう言えば、ぺしりと軽く叩かれる。
    「お小夜もそうとは限らないでしょう」
    「……僕はずっと兄様たちの傍にいるよ」



     朝から厨はてんてこ舞いだった。流石に婚礼ともなれば外から手伝いも来るが、普段この左文字の厨を代理とはいえ取り仕切っていたのは少女だ。指示を飛ばすのも万事うまくいくよう采配を振るのも彼女の役目である。
    「あっ! 待ってください、小夜様はまだ山葵が苦手で。ええ、少なめに。宗三様はそのお野菜は嫌いです! もっと細切れにしてください!」
     祖母もきっとこの場に立ちたかっただろうなあなんて、少女はぼんやり思う。あれだけここの三兄弟を可愛がっていた祖母のことだ。……長男の結婚式ともなれば、きっとしたいことは山ほどあっただろうに。
     物思いに耽りそうになった思考を切り替える。僅かに頭を振って、襷を締めなおした。今の彼女にできることは、この婚礼を滞りなく終わらせることだ。
     しかし、お吸い物用の鍋を見ていたら陰から袂を引かれる。何事かと振り返れば、戸棚に隠れた三男だった。声をかけようと唇を開きかければ、小夜左文字は人差し指を立てて唇に持っていく。静かにという動作に大人しくしたがって、手招きされるままに一度厨を出た。何か婚礼の場で不具合でもあったのだろうか。
    「小夜様、どうしました?」
    「静かに、ついてきて」
    「一体どこへ……」
    「いいから」
     キイと壁だと思っていた場所を小夜が押せば、そこは開けて道になった。まさかそんな風になっていたとはと少女は目を開いたが、元を正せば左文字は武家屋敷。隠し通路の一つや二つあったとて特に不思議ではない。
    「お小夜、誰にも見られませんでしたか」
    「もちろんだよ」
    「宗三様まで」
     普段は洋装の次男も、今日は流石に紋付袴だった。宗三はきょろきょろとあたりを見渡すと、少女の手をとって一室に引っ張り込む。
    「貴女にこんなことをお願いする筋ではないとわかっています。どうか許してください」
    「え……」
    「兄を好いていますか」
     急な問いに、彼女は答えを迷う。だが左右色違いの宗三の目は真剣そのものだった。からかっていたり、冗談を言っている風ではない。
    「兄は貴女を好いています、心の底から、愛しています」
    「そんな」
    「兄が貴女にこの結婚をなんと言ったのか存じ上げませんが、それだけは本当です。兄には貴女が唯一の支えなんだ」
     ……一ヶ月ほど前だったろうか。江雪に、「今度結婚します」と切り出された。とても静かな声だった。
    「当主の結婚ですから、家同士の繋がりを深める意味合いもあります……。武家の、血縁の女性を妻にいただくことになりました」
    「……そう、ですか」
     悲しくなかったといえば嘘になる。彼女の心の中に微かにでも熾された火は、もう打ち消してしまうには強くなりすぎていた。だが少女とて、自分の身分で江雪と一緒になれるだなどとは欠片も思っていなかった。左文字家の当主と、たかだか女中の孫だ。だからこんな、おままごとのような江雪との関係がいつ終わるものかとも考えては、いたけれど。
    「祖母にもそう伝えましょう」
     彼女がそう言ったとき、江雪はただわずかに瞳を細めて頷いたのだ。それだけだった。
     だからもうそれ以上、彼女も何も言えなくて。
    「江雪兄様は左文字を捨てられない。それは僕たちがいるからです。僕たちが生きていく場所を作るためです。兄様は家のために、感情をずっと投げ打ってきた。だから、貴女に愛しているだなんて口が裂けても言わないでしょう。でももう、これ以上はいけない。兄様が壊れてしまう」
    「お願いだよ、江雪兄様のために、傍にいてあげてほしい」
     宗三と小夜が二人そろって彼女の手を取る。
    「奥方になる女性が許さないと言うのなら、僕たちが貴女の味方になると誓います。貴女が左文字で、心穏やかに過ごせる場所を、必ず用意します。だからどうかお願いです、兄の傍にいてください」
     彼女は惑って、ただ視線を伏せた。どう答えたらいいか、わからない。
     少女がただ立ち尽くしていると、スッと音を立てて襖が開く。二人の弟同様に紋付袴を着た江雪左文字が普段通りの鉄面皮でそこにいた。
    「……何をしているのです。彼女がいなければ、厨は回らないのですよ」
    「兄様、でも」
    「お前たちも、早く戻りなさい」
     有無を言わせない調子で、江雪は宗三と小夜をその部屋から追い出した。隠し通路の先のこの部屋は、暗く狭い。彼女は何も言わずに、なんとなく両手を握り締めていた。江雪は弟たちが確かに出て行ったのを確認している。
    「……弟たちが、失礼をいたしました」
    「……いえ」
    「今日は客人も多く、忙しいかとは存じますが。貴女のおかげで滞りなく進んでおります。ありがとうございます」
     淡々とただ抑揚のない調子で江雪は喋る。少女の背筋を寒いものが走っていった。あの熱を出した日にとつとつと堰を切ったように話していたのとはまた違う。平べったく、空っぽな声だ。
     江雪はこちらを一切見なかった。黒い紋付の羽織に、月白の長い髪が流れている。だがそれも、部屋の暗さに溶け込んでいってしまいそうで恐ろしい。
    「江雪様!」
     堪らなくなって、彼女は声を上げた。江雪は、振り返らない。
    「……なんでしょう」
    「……いえ、あの」
     何と言えばいい。何と言ったらいい。女中の孫に何ができる。
     江雪を好きだという気持ちしか持ち合わせていない自分に、一体何が。
    「江雪様、私」
    「……っ」
     ギリギリと締め付けられているようだった。一瞬で踵を返して距離をつめた江雪左文字が、ものすごい力で彼女を抱きしめている。
    「申し訳、ありません」
    「え……」
    「申し訳、ありません。私が悪い、けれど、もう、耐えられません」
     ずるずると江雪が彼女に縋り付いたまま座り込む。腕や着物の袖を引っ張って、決して離すまいとしながら、江雪は彼女の胸に顔を押し当てていた。
    「もう、どこだっていいのです、宗三と小夜と、あなたがいてくだされば。すべて私のせいにしてください。嫌になったら、私を詰ればいい。それでいい、それで構いませんから、どうか、私を捨てていかないでください、離れていかないでください、どうか」
     ここにいてください。消え入りそうな声が、引き攣れた呼吸の間に聞こえる。
     着物がじんわりと温かくぬれていく。震える手で、彼女は江雪の頭を抱きしめた。好きだという気持ちしかない自分ができる唯一のことは、もうこれしかないのだ。
     どさりとどこかの屋根から、積もった雪が落ちていく音が響いた。
    micm1ckey Link Message Mute
    2022/10/14 16:57:22

    雪の憧憬

    #刀剣乱夢  #江さに #大正パロディ
    穏やかに暮らしたかった江雪左文字と女中の孫娘の話。

    以前pixivに掲載していたなんちゃって大正パロの再掲です。

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