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    白の糸


     今日、堀川国広は失恋する。
     まあ元々、叶えるつもりのない恋だったのだが。
    「綺麗に似合うといいなあ……」
     自分の世話焼きな性分と手先の器用さには自信があるが、それでも気になるものは気になる。だからなんとなしにそう呟いて、堀川は再び手を動かした。レースを使った刺繍は初めてだが、なかなかの出来だ。
     堀川国広は、失恋する。好いた女性が今日、結婚するのだ。



     切欠は、長く助手役を務めている和泉守兼定の頼みだった。
    「うちの親戚筋の娘の世話役を探しててよ。そろそろ嫁にやる予定の娘だからこう、躾だのなんだの必要なんだ。本当なら二代目が自分で選ぶって聞かねえんだが、今は二代目も手が回らねえ。兼定に関係のないお前に頼むのも気が引けるんだが、これ以上二代目に苦労かけたくねえんだ」
     がしがしと長い髪を乱しながら、和泉守は申し訳なさそうに肩を竦めた。今、兼定の家は長く臥せっていた当主が亡くなったばかりで、和泉守の兄である歌仙が跡を継ぎてんやわんやなのは兼定によく顔を出す堀川も知っている。そして和泉守は和泉守で当主は荷が重いかもしれないが、その兄もまたあまりそういう性分ではないことも。物言いはつっけんどんでも優しい和泉守が、そんな歌仙を気遣うのは至極真っ当だった。
     一方の堀川といえば、基本的に和泉守の手伝いをしつつ手先が器用なことや持ち前の面倒見のいい性格を活かしてその便宜を図る比較的自由な身。特に不便はない。それに、和泉守の気持ちもわかる。だから手にしていた和泉守の新しい羽織を衣紋に掛けながら、堀川は頷いた。
    「いいよ、兼さん。僕に手伝えることなら何でもさせてよ。お世話は得意なんだ」
    「……すまねえな、助かる。ありがとよ国広」
     そういうわけで、堀川は兼定の親戚筋の少女の面倒を見ることになった。
     依頼は嫁に入るまでに最低限の礼儀作法を教えること。それから、堀川が得意な裁縫を伝授してやってほしいこと。堀川は自分の裁縫道具を片手に、その家の門を叩いた。兼定の本家よりはこじんまりとしているが、やはり立派な屋敷だ。
    「すみませーん、兼さ、いや、和泉守兼定から紹介された者ですがー!」
     ……しばらく待ってみたが、返事はない。僅かに首を傾げて、もう一度そこを叩いてみた。大きな屋敷だ、もしかしたら聞こえなかったのかもしれない。どんどんと先程より強めに拳をぶつけると、がららと引き戸の音がする……がそのあとすぐに立て続けに「ぎゃっ」という叫び声が聞こえた。
     思うに、これは若い女の声である。これはもしやと堀川は僅かに苦笑した。からころと下駄が喧しく足音を立てている。
    「す、すみませ、今開けますからっ」
     重い木の門がゆるゆると開かれる。転んだときにぶつけたのか赤くなった鼻先を押えながら、やや下の位置から堀川を見上げた顔は、事前に和泉守から見せられていた写真と一致した。あ、やっぱり。この子が今日から自分が面倒を見る子らしい。
    「は、初めましてっ! 和泉守さんからお話は聞いてます、私がこの家の娘です!」
     がばりと勢いよく下げられた頭。一応兼定の家の親戚筋なのだから、女中も手伝いもいるはずだが、彼女の手は泥まみれで着物もおはしょりが多めにとられて脛の辺りが見えている。これは嫁入りまで教えることが多そうだ。
     堀川はにこりと微笑むと、自分も頭を下げた。
    「初めまして、僕は堀川国広。今日からお手伝いは任せて」
    「はいっ! 頑張るので、どうぞびしびしよろしくお願いします!」
     元気いっぱいの表情で、彼女は笑って顔を上げる。泥のついた手で押えられた鼻は黒く汚れていた。思わずくすくすと堀川も笑ってしまう。まあ、最初から完璧でいるよりは教えることが多い方がやりがいがある。そんな風に考えて裁縫道具を抱え直すと、堀川はピッと人さし指を立てた。
    「じゃあまずは足を閉じて立って。それから、手を洗っておはしょりはもう少し短く。それじゃあ嫁入り前なのに足が見えすぎだと思いますよ……お嬢さん」
    「わっ、あ、はいっ!」
     思えばそのときからきっと少しずつ、恋に落ちていたのだと思う。



     彼女は堀川のことを「堀川君」と呼んだ。そして彼女のことを、堀川は「お嬢さん」と呼んだ。彼女は自分のことをそんな大層な呼び方しなくてもいいですよと言ったのだが、一応彼女は堀川の雇い主であり名門兼定の親戚筋の娘である。堀川とは身分が違う。「優しいのはいいことだけど、やっぱり身分は弁えたほうがいいですよ」と堀川が言えば、彼女は「ごめんなさい」と肩を竦めた。
     彼女に教えなくてはならないことは、山ほどあった。本当に風雅を極めた兼定の娘なのかなと堀川が疑問に思う程度には。
     所作がなっていないとかそういうのではない。ただあまりに外に出すぎるのである。
    「あっ! お嬢さん、だめじゃないですか! 言ったでしょ、せめて帽子を被って外に出てって!」
    「うわっ、ごめんなさい、堀川君。だってほら、庭の桔梗の切り離しをしたかったんですよ、二番花を見たくて」
    「だったらせめて日傘か帽子を使って。日に焼けちゃって困るのはお嬢さんですよ」
     どうやら、彼女は庭の花を手入れするのが趣味らしい。嫁入り前だというのに、襷をかけて庭に出てしまう。着物のおはしょりは堀川が指摘してからだいぶましになったけれど、それでも町娘か何かのような格好でふらふらっとするのだから仕様がない。これで良家に嫁に入る予定だというのだから流石の堀川もくらくらとした。
     堀川は庭先の下駄を突っかけ、縁の広い白の帽子を手に彼女の元に駆けていった。既に日の光を吸って熱くなっている頭にそれを被せる。気休め程度だがまあ仕方がない。だが彼女のほうは休めることなく手を動かし、花の世話をしている。健康的な色をした指を彼女が躊躇いなく土の中に埋めるのを見て、堀川はああまた爪の間に泥が入ってしまうなと思った。
    「桔梗だけですよ、お嬢さん。終わったら部屋に入って裁縫だからね」
    「はーい、わかってます。桔梗は縁起のいい花だから、できるだけ花をつけてほしくて。よいしょと」
    「そうなんですか?」
    「そうですよ」
     着物の膝についた土ぼこりをパンパンと叩きながら、彼女は立ち上がって桔梗の花に指を添える。鮮やかな紫の花は、世話がいいからかピンシャンとしっかりした茎をしていた。
    「桔梗は多年草なので、長持ちします。冬に枯れて春にまた芽を出し、初夏に咲くことから健康や生命力の象徴なんですよ。家にとっては縁起のいいものです」
    「なるほど、家紋にもよく使われますね」
    「はい! だから枯らしてしまうのは験が悪い気がして。これで終わりです、お待たせしました」
     泥まみれの手を拭けるようにと、堀川はスラックスのポケットからハンカチを出した。しかし彼女はそれを見て首を横に振る。
    「堀川君のハンカチが泥まみれになっちゃうから。こんなのは前掛けで十分ですよ」
    「でも、爪の間まで泥が詰まってますから」
    「ううん、平気。それに、綺麗な刺繍がしてあるもの。イニシアルですね、素敵」
     堀川には兄弟がいる。上に二人の兄だ。国広の家は特筆すべき家柄でもないし、両親は忙しなく働いて家を空けていることも多い。ともすれば男三人でいることが主なのだが、そうなると持ち物がごっちゃになるのだ。上の兄はあまりそういうことに頓着しないし、下は下で放っておくと同じものを何度も使う。そういうわけだから、手先の器用な堀川がどれが誰のものなのかわかるようにしているのだ。
     いつも見ているありきたりな自分のイニシアルが、そんな風に褒められるとなんだか気恥ずかしくて、堀川は何も言わずに彼女の手をとって自分のハンカチで泥を拭いた。淡い水色のそれが、やや汚れる。
    「あー、せっかく綺麗だったのに」
    「洗えば落ちるから! いい機会だから泥汚れの落とし方も教えてあげます。お嬢さんにはきっと必要な知識だろうから」
     日向で活発に動く彼女には、きっと。あらかた手を綺麗にしてやると、彼女はくすくすと笑い出す。
    「ふふ、堀川君は私に家の中にいろとは言わないんだね。そう注意されるものだと思ってました」
     あ……そうか。どうしてそうしなかったんだろう。
     彼女に指摘されて初めて、堀川はそう気がついた。彼女は良家に嫁ぐお嬢さんなのだ。外で庭仕事をする機会なんて、これから数えるほどあるかどうかわからない。それに、花嫁衣裳を着るときに肌が焼けているのもあまりよろしくないし。
     でもなぜだか堀川は彼女に、「外に出るな」よりも「気をつけてください」と言いたかった。彼女のくすくす笑いに曖昧に微笑んで、堀川は彼女を母屋に連れて行った。
     堀川は洋裁も和裁も得意だ。それは先ほども言った堀川の二人の兄が関係している。長兄は修行と称し山に入ることが多いため、しょっちゅう纏っている着物をだめにしてくる。加えて次兄ときたら、同じものを何度も何度も擦り切れるまで着るものだからすぐにほつれてしまう。そしてそれらの服と修繕するのが末弟の堀川の役目である。長兄は山伏姿で修行をするから繕うには和裁の知識がいる。その点次兄は洋装を纏うから洋裁。そのどちらもをこなしている間に、元々器用だった堀川は裁縫の達人になってしまった。
    「兼さ……いや、和泉守さんも仕事と家とで和装と洋装着こなすからね。その点でもまあ、両方できたほうが都合がいいんだ」
    「にしても器用だよねえ、堀川君」
    「あはは、ありがとう。そこの纏り縫い、もっと強くしないとほつれちゃいますよお嬢さん」
     彼女の嫁ぐ家は、兼定と同じく華族なのだという。きっと夫になる男性の着物を繕うこともあるだろうからと、和泉守は堀川に彼女に裁縫を教えるよう言った。
     外でしゃきしゃき動きお嬢様には見えない割には、彼女は物覚えは速く水を吸うように堀川の教えることを吸収していった。元々賢いほうらしい。しかし思い返してみれば確かに、彼女のする庭仕事はきちんとした知識の元に行われていた。なるほどちゃんとした教育を受けているのだろうなということがそういった端々から伺える。
     今堀川は彼女に羽織の繕いをさせていた。服のつくりから教えて、それから縫うというちょっと手間な教え方だったが、そういった知識ありきの物事のほうが、彼女は理解が早い。やはり曲がりなりにも良家の娘である。
    「堀川君、そういうお店で働けばいいのに」
    「え?」
    「洋裁とか和裁とか、裁縫のお店。きっと重宝されそうです、堀川君器用だし。イニシアルの刺繍も自分でデザインしたんでしょう?」
    「まあ、そうだけど」
     そんなの、ただわかりやすく名前を糸で綴るのでは何も面白くないと思って、ちょっと配置してみたり意匠を入れてみたりしただけだ。だが彼女はぶんぶんと首を振る。
    「それも立派な才能です! お洒落だし、せっかくだからやってみたらいいのに」
    「ええ? でもいいよ、僕はそういう表に出るのは性に合わないんだ。お手伝いは得意だけど」
     繕っていた糸を玉止めして、ぷつんと切ってしまう。そう、性に合わない。端的に言ってしまえばそうだった。
     堀川の長兄は、はきはきとして快活で。大らかに全てを笑って包み込み、どこでも人に好かれる性格をしている。次兄は引きこもりがちだけれど能力は本物。いつもは顔を隠して書庫で書を写す仕事をしているが、あんなところで終わる逸材ではないと堀川は知っている。
     だが、それに比べて堀川は。
    「……僕、兄弟と比べたらパッとするところがないし、取るに足らないもんだから。誰かのお手伝いをするのが、一番性に合ってるんだ」
     だって本当は、堀川だけは、国広の家の子かどうかわからない。
     兄弟は何も言わないし、両親もそれに言及することはないのだけれど。でも、自分一人の分だけ、幼い頃の記録がないことを堀川は知っている。改めてそれの真偽を明らかにするつもりは、ない。だって二人の兄は堀川を「兄弟」と呼んでくれるのだ。そして、相棒としてずっと手伝ってきた和泉守だって堀川を「国広」と呼んでくれる。だから堀川は、「堀川国広」でいられる。だからそれが事実かどうかなんて、どうだっていい。
    「僕は妙なめぐりあわせで、たまたま華族の兼さんに会ってさ、それが縁でお手伝いさせてもらってるだけなんだ。だから本当はお嬢さんのお世話なんてできる立場じゃないし、何かの表舞台に出るなんてもっと無理だよ。お嬢さんが褒めてくれたのは、嬉しいですけど……」
    「……ううん、違う。違うと思います!」
     黙ってずっと聞いていた彼女が、手にしていた針を針山に刺して再び首を振った。それから手にしていた羽織をばっと広げる。
    「これも、堀川君に手伝ってもらったから今綺麗に縫えているんです。だから、えーっとあんまりうまく言えないんだけど」
    「何……?」
    「だからお手伝いばっかりだからパッとするところがないっていうのは、違うと思うんです。堀川君は裁縫で、誰かが楽しくなったり嬉しくなったり、それこそ綺麗な服を着る手伝いをしてるんだよ。十分、十分に、素敵な力だと思う。堀川君しか持ってない、すごいことです。だからそんな風に、自分が取るに足らないものだなんて、言わないでください」
     ちかちか、と何かが目の奥で瞬いたような感覚がした。日差しが目を刺したような、そんな眩しさ。
     思わず手が止まってしまって、改めて縫い始めようとしたがそれは先ほど玉止めした糸。堀川は慌てて新しい針に別な糸を通した。
    「……手が止まってますよ、お嬢さん」
    「あ、いけない。はーい」
     僅かに指が震えて、真っ直ぐと縫えない。いつもより早くなった鼓動が指の腹を通して糸に伝わり、それは細かに堀川の鼓動を表していた。



    「あいつの様子はどうだ、国広」
     和泉守用に仕立てていたよそ行きの羽織が仕上がったので持っていくと、和泉守はそれに袖を通しながら聞いた。堀川は腕につけたまち針で細かな調整をしながら答える。
    「うん、元々の筋がいいから、裁縫もしっかり覚えるしやっぱりなんだかんだで兼定のお嬢さんだね。所作も綺麗だよ」
    「そうかあ? お転婆で昔から頭を悩ませてたんだが、まあお前が言うならそうなんだろ。まったく、どうしてうちの血筋の女は揃いも揃ってやんちゃかねえ」
    「そうなの?」
    「ああ、この間青江に嫁にやったやつもそうだったじゃねえか。まああいつは……二代目が可愛がってたからな。多少は違ったけどよ」
     くすりと堀川は笑う。その子のことは、堀川もよく知っていた。二代目、要は和泉守の兄である現当主の歌仙が左文字の末弟とともに茶や歌を教えていた子だ。和泉守ときたらしょっちゅうその子をからかっては、相手を泣かせたり怒らせたり。そのたびに歌仙から拳骨を食らっては堀川に窘められていた。
     まあ、所謂初恋の君というやつだ。
    「あの子は兼さんだって一緒になって遊んでたんだから、仕方ないよ。仲良しだったもんね」
    「ちっ、違えよ! 俺はただ」
    「はいはい。ん、裾はこのくらいでいいかな。今度の会合で着るには十分なはずだよ」
    「おう、ありがとよ。……ん? 珍しいな国広、お前刺繍の仕方変えたか? ちょっと凝ってるな」
    「えっ、あ、えーっと」
     実は、変えた。前よりも少し手の込んだものを、次兄の勤める書庫で方法を調べてもらい和泉守の羽織で使ってみた。それが存外うまくいったのだ。しげしげと和泉守は羽織に施されたその刺繍を見ている。
    「前から器用だと思ってたが、最近腕を上げたじゃねえか国広。店で売れるくらいじゃないのか」
    「い、いや、まだそんな。ちょっとさ、もう少しできるものが増えてもいいかなって思っただけで」
    「はーん、さてはお前女でもできたな?」
     かあっと耳まで熱くなる。いつも上から和泉守を窘めている堀川が黙りこくったのが面白いのか、和泉守はニヤニヤとしながら堀川の顔を覗き込んだ。
    まったく、和泉守は根っからの直感型なのだ。理詰めでの思考は滅法苦手だが、なぜだが最短距離で最適解へと辿り着く。最早それは野生の勘としかいえない。刺繍の仕方を変えただけで、堀川に変化があったことをすぐに感じ取ってしまった。
    「なーんだよ、からかっただけだったんだがなあ、図星か?」
    「や、やだなやめてよ兼さん。僕は別に」
    「隠すなって、相手は誰だ? 俺が連れてきてやるよ」
    「そんなの」
     いない、と堀川は口にできなかった。何故なら脳裏に浮かび上がったものがあったからだ。日向のにおい、泥の色。それからしゃんと伸びた、桔梗の紫。
     堀川は目を見開いたまま動けなくなってしまった。そんな、そんなのはいない。いないはずだった。ただ不意に刺繍や裁縫をもっとしてみようかという気になって、それで。
     あのとき単純に嬉しかった気持ちはある。堀川は今までの自分に不満なんてかけらもない。仮に国広の家の子でなかったとして、堀川には二人の兄も相棒もいる。だが、あんなふうに自己を肯定されて嬉しくないはずもない。ただそれきりのことだと思っていた。あの言葉はたった一つ、新たに心の中にできた宝石だと。
    「国広?」
    「……やだな兼さん、そんなのいないよ」
     だめだ。これはだめだ、いけない。他の何がよくても、これだけはいけない。
     だって、お嬢さんは。
    「お嬢さん、呑み込みが早いからさ。僕が新しいの覚えて教えてもいいかなって、思ったんだ。嫁入り先で重宝されるかもしれないでしょ?」
     お嬢さんは近くお嫁に行く、大切な兼定の娘なのだ。お嬢さんの世話は和泉守から頼まれた仕事なのだ。
     勘のいい和泉守だったけれど、堀川のその言に特に追求はしなかった。今日兼定の本家に寄ったのは、羽織を届けるためだけだ。今の堀川の本分は、和泉守の助手ではない。胸中に泥を抱え込んだような気持ちで堀川は足を進める。
     自分の中のその感情を、どうこうするつもりはない。分は弁えている、自分と彼女とでは何もかもが釣り合わない。だが欲を言えばそれに気がつきたくなかった。気がついてしまえばどうしたって意識をしてしまう。もちろん誤魔化すことも、聞き分けのない幼い和泉守を相手にしてきた堀川は得意なのだけれど。
     足取りは重かったが真面目な性分の堀川は、特に約束の時間に遅れることなく彼女の家にたどり着いた。門を叩いても彼女は庭に出てしまっていることが多いともう堀川は知っているので、自分でそこを開けて屋敷に入る。しかし、件のお嬢さんは庭にはいなかった。
    「……お嬢さん? 珍しいね、部屋にいるの」
    「あっ、堀川君……こんにちは。あはは、ちょっとね、今日は縫い物してたんですよ」
     彼女が手にしているのは堀川が教えて、もうほぼ完成間近だったはずの羽織だった。だがそれは何故だか一度ばらされたようで、再び身頃と袖に分かれた状態になっている。あれではまた一から縫い直しだ。
    「お嬢さん?」
    「あ、ああ、ごめんなさい、せっかく堀川君が教えてくれたのに。ちょっと裾が気になったものだから、バラしちゃって、えへへ、直さないと」
     彼女が笑いながら再びそれを繋ぎ合わせはじめたけれど、どう見たって様子がおかしかった。堀川は畳の上に散らばっていた別な袖と身頃を手に取って、自分もそれに針を通す。彼女は何か言いたげに口を開いたけれど、それは見て見ぬふりをした。
     これは、確か嫁ぎ先の家に渡すのだと言っていた。結納の日に、彼女が花婿の上着を仕立てるという話になって、それでと。だから手先の器用なものが世話役として探されて、堀川が適任となったわけで。だからこの紋付きの羽織はいずれ彼女の夫が着る。
    「もう一度縫い直すなら、少し縫い目をずらさないとばらしたってわかっちゃいますからね、お嬢さん」
    「……うん」
    「裾の纏り縫いはきちんとね」
    「……堀川君」
     ぱたたっと音を立てて数滴、滴が畳の上に落ちた。彼女は咄嗟のところで腕を伸ばし、羽織の上にそれが滴るのは回避したらしい。
    「今日、ね、仲人さんが来たの、うちに」
    「うん」
    「私、そのとき庭で、桔梗の世話、してて」
    「うん、今日も綺麗に咲いてるね」
     自分の、美しい手を泥だらけにしてでも彼女が世話をしている桔梗は、今日もしゃんとして日向に咲いている。
    「怒られちゃったあ……、日に焼けるって。もうすぐ式なのに何考えてるって。羽織もね、縫製が雑だって言われちゃって」
    「そんなことなかったよ」
    「こ、こんなんじゃ、やって、いけないって」
     確かに、手慣れたものの縫製とは言えないけれど。それでも丁寧な縫い目だった。相手のことを想って、大切に繕われたことがわかるものだった。だから多少荒があっても、堀川は口出しをしなかったのだ。
     捧げるようにして羽織を突きだしたまま、彼女の肩が震えはじめる。一体誰だろう、嫁入り前の、不安な心持をした花嫁にそんな酷なことを言ったのは。堀川は眉をさげて自分の手元を見る。可哀想に。
    「……お嫁に行くの、嫌ですか?」
     堀川の問いに、彼女は強く首を振った。彼女の結婚は見合いだと聞いている。それは別に、何も珍しいことではない。結婚するのが恋した相手だなどというのは、やはり夢物語だ。特に、彼女のような家柄の娘にとっては。
    「ううん、最初はとても不安だった、けど。それでも、相手に人に会ってみたらとても優しくて、これならやっていけるかもって、私」
     つきりと微かに、胸の奥が痛んだ。だがそれには、気が付かないよう目を背ける。
    「でも、もしがっかりされたらって、怖くて……っ。私、外に出るの、好きだし、普通のお嬢様じゃ、ないから……っ家を、出てうまくやっていく自信が、ないの」
    「……そ、っか」
     ぐす、ぐすと嗚咽の聞こえる中、堀川は自分の手にしていた針の糸を留めた。ピッと歯で糸を切ってしまってから、針山にそれを指す。綺麗に布を畳んでから、彼女の手にしていたものも取り払って同じようにした。
     強張って真っ直ぐと突き出された腕を、ゆっくり下ろさせる。確かに、日に焼けた腕だ。庭仕事のせいか、指先はささくれだってある。皮膚がむけてしまっているところも。
     けれどとても、綺麗な手だ。頑張り屋の手だ。堀川に新しく夢をくれた、手だ。だから……。
    「わかった、じゃあ、僕がお嬢さんのために花嫁衣装を縫ってあげるよ」
    「え……?」
    「餞だよ。大丈夫、手先は器用なんだ、最近新しい刺繍方法も覚えたし……。お嬢さんが不安になることなんて一つもないくらい立派な花嫁さんにするよ」
     大切な、あなたのため。堀川にたった一つできることがあるとすれば、彼女のこれからが幸多いものであるように、その手伝いをすることだ。大丈夫、手伝いは得意中の得意である。
     ギュッと手を握って、堀川は微笑んだ。くしゃりと歪んでいた彼女の顔も、じわりじわりと緩んで同じように柔らかく笑う。
    「ありがとう、堀川君……。私、頑張る。お嫁に行ってもきっと、頑張るよ」
     ああそうだ、これが、この胸の奥にある自分の気持ちの形なのだ。



     白いベールを、堀川は縫っている。とはいっても、もう仕上げだ。あと数時間もしたら花嫁にこれを被せなければならないし。ただちょっと、気になるところがあって手直しをしたかった。
     出来るとはいえ洋裁はあまり手を付けたことがなかったため、最初は結構苦労したのだ。それも、レースに刺繍だなんて初めてだ。生地の調達は、人当たりの良い長兄が奔走してくれた。山で知り合ったという人伝を辿って、海で働く舶来商人に話を付けたのだから頭が上がらない。刺繍の模様は、次兄が勤め先の書庫からこっそり写し取ってきた西洋の雑誌に載っていた図柄を使った。長兄が持ってきてくれたレースではちょっと物足りないなと、堀川自身で刺すことにしたのだ。
    「すべてを笑い飛ばすには、修行がいるなあ、兄弟よ」
     夜遅くまで刺繍をする堀川に、温かい茶を差し出しながら長兄は言った。堀川がベールを縫っている間、長兄は一度だって山には赴くことをしなかった。
    「人の心は思うようにならぬもの、こうして兄弟がかの女性を思い、針を進めるのもまた修行であろう」
    「あはは、そうかなあ」
    「……兄弟は十分強い男だ。写しの俺では、そうはできない。陰で見ているのが精一杯だ」
     ぎゅうと頭から被っている頭巾を引っ張って次兄がそうぼやく。くすくすと笑いながら、堀川は白く細い糸を引いた。細かいレースに刺繍するなら、いつもよりずっとずっと白く細いものを使わなくてはならない。
    「ええー? 兄弟にもそういう相手がいるの?」
    「な、いや、今のは言葉の綾だ! 違う!」
    「今のはいかにも相手がいるような言い方であったなあ、兄弟よ」
    「違う! 俺は別に、自分のことに集中したらどうだ兄弟!」
     一針一針、丁寧に。
     そうして兄弟に見守れながら、堀川はそれを仕上げた。彼女は気付くだろうか。堀川がベールに象った花々は、全て彼女が庭で育てていたものだと。美しい、日向で咲く彼女の花なのだと。白銀に彩られた桔梗の花、もう一輪これを足したかった。
     ピッと音を立てて白い糸を切る。これで完成だ。
    「なーにやってんだ国広ぉ、式始まっちまうぞ!」
    「あっ、ごめんね兼さん!」
    「凝り性だなあお前、急に空いてる部屋を貸してくれだなんていうからよ、驚いたぜ。しかし見事なもんだ。あのちんちくりんのほうが見劣りしちまうなあ。この腕ならこれからもうまくやって行けそうだな。紹介した俺も一安心だぜ」
     来月から、堀川は和泉守の口利きで帝都のデパートで働くことになった。服の直しや、刺繍をする店に勤めるのだ。まだうまくやれるかどうかまでわからないが、出来る限りの技術は身に着けていくつもりでいる。誰かが綺麗になる、手伝いをする。このベールは、その第一歩。
    「兼さんが紹介してくれたのに、へまするわけにはいかないからね。お手伝いは任せてよ」
    「おう、頑張れよ」
    「じゃあ、これお嬢さんに渡しておいてね、兼さん。繊細なんだから、引っ張ったりして破いたらだめだよ」
     身内でも何でもない堀川は、彼女に会うことはできない。式には招待されたが、出席は辞した。やはり表舞台は苦手だ。ただの一般人の堀川が兼定一門の結婚式なんて肩が凝ってしまう。だからベールは和泉守に託した。
     手早く裁縫道具を片付けて、それを小脇に抱えて堀川は立つ。
     きっと、綺麗だろう。彼女は誰よりも美しい花嫁になるはずだ。見なくたってわかる。だから、これでいい。
    「……すまねえな、国広」
    「え?」
     ちょうど隣をすり抜けたとき、和泉守がぽつりと呟いた。なんとなく振り向いてはいけない気がして、堀川はそのままでいる。
    「いや、お前だって色々、忙しかったり、するのによ。うちの事情で結構色んなこと任せちまった。……悪いな」
    「……いいんだよ、僕は兼さんの相棒なんだから」
     和泉守は、何か気付いていたのかもしれない。けれどそんなことどうだっていい。明確に、口にしなかったのだから。これでいいのだ。
    「国広、これ、あいつからだ!」
     ぱっと何かを投げられ、堀川はやっと振り向きそれを取る。掌を開くと、そこに納まっていたのは白と浅葱の色で編まれたリリアンだった。組まれた紐は、試行錯誤された跡が微かに見られる。明らかに、手慣れたものが編んだものではない。
    「確かに渡したぞ。お前からの餞別も、しかと受け取った」
    「……うん、ありがとう」
     今度こそ、堀川は和泉守に背を向ける。ふと窓の外に目をやった。青々とした空、今日はいい天気だ。よかった、これならば純白のベールはより映えるだろう。
     堀川は手にしたリリアンをぎゅっと握り、それを裁縫道具の留め具に括り付ける。白い白い、糸。
     彼女の赤い糸は、花婿に繋がっていればそれでいい。だが、堀川と彼女はきっと、このリリアンのような真っ白なもので繋がれていた。
     恋なんて一言では、きっと片づけることができない。赤や桃の色をした、燃え盛るようなものでもない。けれど新しい夢や、その先の未来へと繋がっている白い糸。
     堀川の恋は、そういう恋だった。
    micm1ckey Link Message Mute
    2022/10/28 17:55:39

    白の糸

    人気作品アーカイブ入り (2022/11/12)

    #刀剣乱夢 #大正パロディ #堀さに
    裁縫の得意な堀川国広と嫁入り前の兼定の娘の話

    pixivに掲載していたものの修正加筆版です。

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