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    しおり
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    石の花嫁


    「ご結婚おめでとうございます、三日月さん」
    「うむ、次はそなたたちだなあ」
     次期当主の三日月宗近が結婚した。それも親子ほど年の離れた、成り上がりの商家の娘を嫁にもらった。旧い華族の三条にしては、異例のことである。それは彼女もよくわかっているため少し物珍しく、彼女は石切丸の後ろから花嫁を覗き込んでしまった。
     件の花嫁は金屏風の前、角隠しで半分顔を隠して正座している。僅かに見え隠れする頤や唇はどこか凛としていて、利発そうだ。三条では見ないタイプの顔である。
    「いやあ、まだ私達には早いよ。まだこの子は若いし」
     しげしげと花嫁を見つめる彼女の傍ら、はははなんて笑いながら石切丸が返事をする。ごく自然にその手は彼女の肩を抱いていた。というのももう十年来の付き合いなので、それもまた当たり前のことなのだけれど。
     紋付き袴姿の三日月はそんな石切丸の返答におやと首を傾げた。
    「だが、おぬしの許嫁は俺の妻とそう年も変わらんだろう。それに引合されてもう何年経つ」
    「うーん、もう十年以上になるかなあ。ねえ」
    「そうですねえ」
    「ふむ、俺からも当主に言うておこう。そろそろおぬしも身を落ち着けろ」
     そうだねえなんて曖昧に返事をして、石切丸は三日月への挨拶を切り上げた。少女も今一度新郎新婦に会釈をして、促されるままに披露宴をしていた三条邸の大広間から出る。まだ賑やかなそこはこれからも祝う客が訪れそうだった。
     一応新郎の親族なので、石切丸も今日は紋付き袴だ。そんな彼がこうも早々に席を立ってしまってもいいのか気になったので、少女は石切丸を見上げて問う。
    「いいんですか? 石切丸。まだいなくて」
    「え? ああ、構わないよ。今日の主役は三日月と花嫁だからね。わざわざ私に挨拶に来る物好きはいないだろう。それに、私は特に三条で重役をしているわけではないからね」
    「なら、いいんですが」
    「それに、私は君とのんびりしている方が好ましいんだ。早く部屋に帰ろう」
     広間からは離れた石切丸の部屋に戻る。羽織を衣紋掛けに掛けたところで、彼女は後ろから抱き寄せられた。もう毎度のことなので、驚きもしない。何故なら彼女は、その為にここにいるのだから。帯紐がするりと解けるのを、少女は無感動に見つめる。
    「さあ、今日も励むとしようか」
    「……はい」
     許嫁なんて、そんな可愛らしいものではない。彼女はよっぽど、三日月の花嫁が羨ましかった。
     彼女は三条の胎だ。ただ、それだけなのだ。



     一応、血筋としては三条の親戚にあたる。分家筋だけれど、血がそこそこ近いことは間違いない。その彼女が本家に来たのは、物心がつくかつかないかのころだ。両親と本家との間にどんな取り決めがあったのか知らないけれど、少女は女中に送られ一人でここへ来た。そうして、十五年上の石切丸の許婚になったのである。若いうちから、石切丸の子どもを生むために。より濃い三条の血を残すために。
     それに対して、疑問を覚えたことはない。そういう風に育てられてきたからだ。
    「それで、今日も石切丸のお弁当を届けに来たわけかい」
    「はい、毎日のことですから」
     帝大の図書室で、元は武家だが今は武芸を含めた芸術全般の名家、青江の若い嫡男がからかうような口調で彼女に言う。青江の家ではそれぞれが家から号をもらって身を立てていくわけだが、彼に与えられたのは「にっかり青江」とかいう一風変わったものだった。
     石切丸は現在、生母が神職に縁のある女性だったこともあり神道関係の講義を帝大で受け持っている。だから講義がある日は昼に三条の家から帝大までお弁当を届けに行くのが、彼女の習慣だった。
    「君も好きだよねえ、帰る間際になるとこっそり、こうして図書館に来るだろう」
    「普段あまり、こうして本を読む機会もありませんから」
    「おやおや、それはいけない。君くらいの年が一番、頭に入りやすいものだからねえ」
     今年、彼女は十五になった。義務教育を終えたらすぐに家に入ったので、女学校には進学していない。したがって日がな三条の家にいる。だが元々好奇心旺盛な性格もあいまって、彼女は石切丸が大学の講義に行く日は好きだった。帰りにこうしてこっそり、図書館に入ることができる。青江と出会ったのもここでだ。見慣れない顔だと警備に声をかけられたのを、「僕の身内だから」と庇ってくれたのである。
     まあ実はそれも当たらずしも遠からずなのだ。聞けば青江の兄は三条の次期当主、ついこの間結婚した三日月の友人で、青江自身も家の関係で石切丸とは以前から親しかったのだという。彼女が「三条の」と口にすると「ああ、石切丸かい」とすぐに言ってくれたのだ。彼女はあまり……どころか全く、石切丸の知人とは顔を合わせないからまるで知らなかった。だが今は、こういう変な縁もあってよく話す間柄だ。進学しなかったから、あまり本を読むのが得意でない彼女に、青江はよく文字やら何やらを教えてくれる。
     ぺらりと少女が手にしていた本のページをめくると、隣で課題をしていた青江がふと思いついたように口を開く。
    「そういえば、三日月さんがお嫁さんをもらったんだろう?」
    「あら、よくご存知ですね、青江さん」
    「んっふふ、実は僕、数珠丸についてお祝いを言いに三条まで行ったんだよねえ。君には会えなかったけど」
    「えっ、あっ、そうだったんですか?」
     あの日は来客も多かったし、石切丸が早々に引っ込んでしまったから、彼女はそんなこと露ほども知らなかった。だが確かに、両家の間柄を考えればそれはごく普通のことだ。
    「どんな人だい? まだ君の方は籍が入っていないにしても、一応、君の兄嫁に当たる人なんだろう」
     青江はどこか楽しげに笑ってそう聞いたけれど、少女はうーんと首を捻るほかなかった。なにせ、接点がない。
    「どんな、といっても。あまりお話しする機会も会う機会もないので」
    「同じ家に住んでるじゃないか」
    「そういう人はたくさんいるんですよ、三条には」
     そう、たくさんいる。……本当に、たくさん。
     彼女の返答に、青江はへえといって自分の唇を指でなでた。しかし青江が三条のほかの人間のことを気にするのは珍しい。彼女はそちらのほうが気になった。
    「えっと……若奥様と、お知り合いなんですか? 青江さん」
    「ああ、いや、違うんだよ。僕は直接会ったことはないけど。友達のねえ、初恋の相手なんだ」
    「はっつこい!?」
     思わずやや大きな声を上げてしまい、はっと少女は口を抑える。くすくすと笑った青江が人差し指を唇に持っていった。
    「ふふ、内緒だよ。きっと僕の友達も認めたがらないだろうから。でもねえ、ちょっと様子を気にしていたから。君から聞けたらよかったんだけど」
    「あっ、そ、それは、ごめんなさい、力になれなくて」
    「いいや、いいんだよ。まあ、もうお嫁に行ってしまったんだからどうしようもないしねえ」
     身も蓋もないがそれもそうには違いない。けれど彼女は頭の中でいくらか反芻していた。初恋、初恋ね。
    「君はどうなんだい? もう随分と小さいころから石切丸と一緒にいるんだろう? やっぱり石切丸が初恋なのかい?」
     青江のからかうような声音に、彼女は曖昧に笑う。
     初恋なんて、とうに捨ててしまったのだ。



    「義姉上かい?」
     その日の夕食の時、石切丸に尋ねると彼は意外そうな表情で顔を上げた。二人はいつも部屋で一緒に食事を摂っている。うーんと首を捻りながら、石切丸は右斜め上のほうに視線をやった。そういえばこの間帝大の本に書いてあったが、人間はものを思い返すときそのあたりを見上げることが多いのだという。
    「君と同じで、基本的に家にいらっしゃると聞いたけどねえ」
    「私がお話に伺ってはご迷惑でしょうか?」
    「ああ、それは……すまないね、やめておいたほうがいい。三日月が怒ると思うよ」
     申し訳なさそうに石切丸は眉を下げて肩を竦めた。彼女はその言葉にやや驚く。あの温厚で穏やかな気性の次期当主が、怒る?
    「私も義姉上が一人でいらっしゃるときはあまり近寄らないように言われていてね。これには私も笑ってしまったのだけれど、三日月はあれでひどく奥方に入れ込んでいるみたいだよ。外に出してしまうのが怖いんだろうね」
    「へ、へええ……それはまた、意外というかなんというか」
     物心がついてからもうずっと本家にいる彼女にとって、次期当主の三日月宗近は優しく美しい容姿に反して、どこか近寄りがたい人だった。石切丸の異母兄に当たることもあって、顔はよく合わせていたのだけれど、会うたびになんだか緊張した。もちろん三日月が何か意地悪を言うだなんてことは決してない。むしろ彼女くらいの年頃の女の子は皆菓子が好きだと思い込んでいるのか、顔を合わせるたびに砂糖菓子を手渡してくる変な癖まである。
    けれどそんな穏やかでゆったりとした態度とは別に、どこかピンと張り詰めた糸のような、そんな言い知れぬ雰囲気が三日月にはあったのだ。
     その三日月が、奥方に? 意外すぎる。
    「そういうわけだから、私はもちろん他の兄弟も義姉上にはあまり近寄れないし、君も同様だろうね。ごめんね、近い頃合の女の子が来たわけだから、君が仲良くしたいと思う気持ちはわかるのだけど」
    「いえ、いいんです。そういうことなら。少しどんな方か気になっただけですから」
     青江に言われる前から、その人のことは気になっていた。
     三条の外から来た女の人。華族ではなく、商家で、しかも庶民からの成り上がりの人。ついこの間まで女学校に通っていたという、その人。一度廊下で見かけたけれど、その人は彼女のような重たい上質な布の着物ではなく、もっと軽くて動きやすそうなものに袴を重ねていた。それを女中が陰でとやかく言っているのも聞いたことがある。彼女はそれを嫌だと思ったが、仕方のないことだろうとも感じていた。
     三日月の奥方は、この三条の中で明らかに異質なひとなのだ。
     ……その人は、ここの掟を知っているのだろうか。ここが、どんな場所か、どんなに固い檻の中に入ってきてしまったのか。
    「友達がほしいのかな?」
     じっと考え込んでいると、石切丸が気遣わしげな様子でこちらに尋ねた。彼女は慌てて首を振る。
    「あっ、いえ、そういうわけでは」
    「君も小さいころからこちらにいるからね。その気持ちはわかるけれど。私も最近帝大での講義が増えてきて一緒にいられないから。そちらを減らそうか」
    「いえっ、それは、そこまでしていただかなくても、平気です」
     それに帝大への石切丸の外出がなくなれば、自分が外に出る理由もなくなってしまう。だから彼女は焦ってそれを否定し、それから少しだけ目を伏せる。自分は、石切丸なしで外には出られない。ただ石切丸のためだけにいる。それだけはずっとわかっていた。
    「本当に……私は、大丈夫です。石切丸が、いますからね」
     彼女が答えれば、石切丸はそうかいと満足げに笑って食事に視線を戻した。彼女もまた、再び箸を動かし始める。
     あの義姉はいつまで持つだろう。ぼんやり考える。
    数多くの三条の女に子どもを産ませ、最も優秀なものを跡目にするという決まりを知ってもなお、ここにいてくれるのだろうか。血を尊ぶ歪な一族だと知ってもなお。
     そんなことを少女は思っていたのに、事態はとんでもない方向に終着した。義姉は強かに女学校に復学したかと思ったら、案の定三条の暗黙の掟を知って出て行き、なんと自分の足で戻ってきた。どうしてだ。
    「私を、三日月さんのお嫁様にしてください」
     切りそろえられた髪を揺らし、地面に手までついて義姉は頭を下げる。なんで、どうして戻ってきた。影からその様子を見つめていた彼女は不思議でならなかった。
     出て行ったところまでは予測できた。外から来た女に、三条を受け入れられることなどできるはずがない。義姉がいなくなって日に日に三日月のほうは憔悴して行ったのがわかったけれど、正直彼女はそれはもう諦めるしかないことだと思った。
     だってここは、そういう場所なのだ。
     それなのに、どうして。
    「……お慕いしております。どうか、家に戻すなんて寂しいこと言わないでください」
     涙を流しながらもそう言って三日月を抱きしめる義姉から、少女は目を離すことができなかった。
    「へえ、じゃあうまくやれそうなのかい、君の義姉上は」
    「そう、みたいです。三条の中では揉めそうですけど」
     帝大で彼女がそう告げると、青江は少し愉快そうに言った。どうしているか教えてほしいというから、彼女は青江に事の顛末を話したのだ。飛び出して、戻ってきたと。
     だがどうやら青江は家から出されたところまでは知っていたらしい。詳細を知らなかっただけで。
    「社交界じゃちょっとした騒ぎだったからねえ。三日月さんがあれほどご寵愛なさってた奥様を家に帰らせたって。まあ、噂は仲睦まじいご夫婦だから、早めの宿下がりじゃってとこに落ち着いてはいたけど。当たらずしも遠からずってことになりそうなのかなあ」
    「……かもしれません。あの、お友達の方は」
     気になって彼女が控えめに尋ねると、青江はあっけらかんとして答える。
    「ああ、僕の友達は完全に失恋したってことになるねえ……、んっふふ、可哀想に。でも心配していたから、少しは安心するかもしれないよ。だってお義姉さんは三日月さんと、愛し合って夫婦になれたわけだろう?」
    「……」
     彼女は何も言えなくなってしまった。三条は本当に大騒ぎである。三日月が現当主に「自分は決して妾を取らぬ、自分の子どもはすべて妻が産む」とほぼ一方的に告げたのだ。
    そもそも三日月が外から妻を迎えいれる例外的な結婚をしたのはすべて金のため。時代に取り残された華族の三条が、嫁の実家から金銭的な援助を受けて生き延びるためである。だがそれでも血を重んじる当主は当然、濃い三条の血を持つ子を嫁以外に産ませるつもりだった。彼女も後継ぎはそうするのだと思っていた。
    そうでないのだとしたら。だったら、だったらなぜ自分は、ここにいるというのだ。
     なんだか背筋がぞわぞわとして、気分が悪かった。胸のうちで色んなものが崩れていく気がする。
    「黙りこくってどうしたんだい」
     青江がそう言って、とんとんと机を叩く。ハッとして少女は首を振った。
    「顔が青いようだけど、大丈夫かい」
    「だ、大丈夫です」
    「手が震えているよ。君、具合が悪かったんじゃないのかい」
    わからない。朝ごはんはいつもどおりちゃんと石切丸と食べた。帝大に講義に行くのを見送って、お昼になったからお弁当を渡して、それで。
     そう、いつもどおりだ。石切丸のために彼女は存在している。石切丸の、子どもを生むために。生まれたときから変わらず。
     けれどこうなってしまうと、自分がいた世界が突然ひっくり返ってしまったような心地さえする。次期当主の三日月が選ぶ方針は、ゆくゆくはこれからの三条の未来になる。無論、彼女だって三条の環境がいびつで、どうかしていて、健康的でないことなんて百も承知だ。
     だがその三条の中でなら、彼女は無条件で石切丸のそばにいられた。
    「ご、ごめんなさい、私」
     ぼろ、と涙が一粒落ちると続けざまにいくつも零れた。図書館で声を上げてはいけないとわかってはいたから、口を押さえる。だが嗚咽はなかなか隠し切れなかった。身を縮こめた彼女の肩が、柔らかに叩かれる。
    「喉が渇いてしまったなあ、僕。付き合ってくれるかい?」
     低く穏やかな声に、彼女は一度だけ頷いた。



     彼女の持つ一番古い記憶は、両親のものではない。まだ青年の石切丸に抱えられて、本家の屋敷を歩く光景である。
    「あちらが南の棟、私の部屋はあそこにあるから、よく覚えておくんだよ。もしも迷ってしまったら、すれ違った人に私の名前を言いなさい。ほら、言えるかい?」
    「……」
     物心はつくかつかないかの頃とはいえ、やはり生家から離されたことがやや寂しかったことくらいはぼんやり覚えている。だから彼女は、うまく石切丸の名を口にすることができなかった。黙ったままでいると、石切丸は優しく微笑んで大きな手で彼女の唇に触れる。
    「ゆっくりでいいよ、言えるかい。いしきりまるって」
    「……いしきり、まる」
    「うん、そうだよ。さ、もう一度」
    「いしきりまる」
     彼女が繰り返せば、石切丸は嬉しそうに笑って顔を近寄せ、鼻を摺り寄せる。それからうんと一つ頷いた。
    「忘れては、いけないよ。私は君の旦那さまになるんだから。たくさん可愛がって差し上げるから、私の傍から離れてはいけないよ。君は私のためにいるんだからね」
     優しい笑みが大好きだった。抱き上げてくれる暖かな手を感じると、安心できた。少女の初恋は紛れもなく石切丸だった。石切丸は本当に可愛がってくれたし、いつだって一緒にいてくれたから、そのうち両親から引き離されたことなんて気にもならなくなったけれど。
     成長して、体が少しずつ大人になるにつれて気が付いてしまった。
     自分は、ただ石切丸の子どもを産むためだけに、三条の血を遺すために選ばれたのだ。当主や血を重んじる人たちが勝手に、最低限子どもを作っても問題ない血族の中から条件に合う女を選んだ。それが自分だった。
    つまりそこに、石切丸の意志はない。
    「……不幸だと思ったことは、ありません」
     構内のベンチに座って、彼女は顔を覆ったまま呟く。指の隙間から、青江の履くブーツが見え隠れしていた。
    「石切丸は、私のことを可愛がってくれた。一緒にいる時間はとても、楽しかった。でも、それは私のためじゃないんです。家のことがあるから、私といなきゃいけないから、ただそれだけ。本当に、私を思ってくれていたわけじゃない……、私だって、それがわからないほど馬鹿じゃない」
     三日月の妻は、三条のしきたりを知ったうえで、自分で考えてそこへ戻った。それは三日月を愛していたから。そして三日月が自分を愛していると知っていたから。きっとあの穏やかで優しい三日月の愛情を信じていたから。
     でも彼女にはそれができない。だって思い返せば一度も、石切丸に言われたことがないのだ。
     「好き」だと、「愛している」と。
    「……君は石切丸を愛しているんじゃないのかい」
     青江が静かに尋ねた。彼女は目を開けたまま涙を受け止めていた自分の掌を眺め、それから首を振る。
    「そんな気持ちは、とうに、忘れてしまいました」
     そうでいないと、気が狂ってしまいそうだったから。
     体が大人になって、石切丸に初めて抱かれてからもうどのくらい経つのか覚えていない。だが日毎夜毎、行為の度に感じざるを得なかった。自分はただの胎だと。だから忘れなくてはならなかったのだ。
     それなのに、まだ心のどこかで願っている。石切丸に愛されたいと。胎ではなく、一人の女として愛されたいと願ってしまう。だって小さい頃から、彼女には石切丸しかいなかったのに。
    「……私は知らない人とはあまり話さないよう、君に教えたつもりだったんだけれどね」
     穏やかだがどこか底冷えのするような声が響いて、彼女はハッと顔を上げた。瞳から溢れた残りの涙がつうと頬を伝う。
     無表情の石切丸が、青江と彼女を見つめて立っていた。



     石切丸は、三条の跡目になることに関してあまり興味がなかった。一応当主の息子として生まれたわけだから、その権利は当然ある。けれどそんな子どもは三条にはごまんといて、石切丸が必ず継がなくてはならないわけではなかったし、それは性分に合わなかった。石切丸は何かを取り仕切ったりするよりは、部屋でのんびりと本を読んでいる方が好きだったし、神職に縁深い母の影響もあってあまり競り合うことが好きではなかったからだ。
     だから石切丸は早々に跡継ぎ争いからは手を引くつもりでいた。できるだけ三条の力を頼らずに生きていこうと考えていた。母もそうするのが良いと言っていた。きっと母には母なりの葛藤があったのだろう。しかし当主の血を引いてしまっている以上、石切丸は希望通りにおいそれと舞台を降りることを許してはもらえなかった。ここに生まれた男児として本家の血を繋ぐ必要があると言われても、自分の体内を流れているそれに一体何の価値があるのか石切丸にはさっぱりわからなかったし、仮に子供ができたとして、その子は今の自分と全く同じ状況に立たされるわけである。こんな憂鬱なことはない。
     そんなときに引合されたのが、かなり年の離れたその少女である。
    「お前の許嫁だそうだぞ、石切丸。親戚の娘ゆえ、お前とその娘とで血の濃さは保たれると言うわけだ。醜いなあ」
     当時はまだ次期当主の有力候補に過ぎなかった三日月が、その少女を見て皮肉気に笑って言う。広い本家の部屋に、ちょこんと座らされた少女はまだ本当に幼かった。物心もついているかどうかわからないくらいだ。
     その幼さが意図していることを、わからないわけではない。子どもを産むなら胎は若ければ若いほどいいのだ。石切丸もまた、三日月同様に嗤う。ああ、なんて場所なのだここは。
     人身御供よろしく本家に差し出されただろうその少女の手を引いて、石切丸は彼女を部屋に連れ帰る。何もわからないと言った様子の少女だが、それも致し方ないこと。むしろ哀れだった。普通の子なら、外に出て遊びまわっていたかもしれない。それなのに、この子はきっと一生この冷たい三条邸の中で生きていく。石切丸の、ためだけに。
     だから最初は同情していた。自分のために巻き込んでしまったという負い目もあった。
    「いしきりまる」
     そうして少女は石切丸が教えたとおりに自分の名前を呼び、心細いのか、いつも石切丸の傍にいた。
     私が守って差し上げなくては。生来の優しい気質も手伝って、石切丸はそう強く思った。許嫁なんて生々しいものではなくて、年の離れた兄のように接してやろう。せめて少女が寂しくないように。ここは、生きていくには過酷すぎる。自分が守ってやらなくては。誰もいない分石切丸が可愛がってやらなくては。間違っても泣いたりしないように、大切に。
     そうしている間に、少女のことを心から愛おしく思うのなんて自然なことだった。
     でもその感情を持つことは何も間違っていない。だって少女は最初から、石切丸のためにいるのだ。石切丸と添わされるために、ここに来たのだ。
     少女がどんな感情を石切丸に抱いているのかなんて、関係なく。
    「俺は結婚したくなどない」
     しかしある日、次期当主になることが決まった三日月がそう零した。石切丸と三日月とは年齢が近い分、異母でも親しい方だった。酒を飲みながらそう呟いた異母兄の気持ちが、石切丸にもわからないわけではない。ここは歪すぎる。結婚や子作りはそこに数多くの女子供を落としこみ、ただ悲しませるだけだ。優しい異母兄がそれを厭うのは、石切丸とてよくわかった。自分だって嫌だからだ。
     じっと杯の中で揺れる清酒を見つめながら、石切丸も口を開く。
    「でも、そんなこと言ってどうするんだい。当主や老人たちはそれを許しやしないだろう?」
    「……伸ばせるまで、伸ばすしかあるまい。笑って構わん。だが俺は、恐ろしい。幾人も泣く女と子どもを見てきた。今度は自分がそうさせるのかと思うと、恐ろしくてかなわん」
     それも仕方のないことだ、笑えるはずもない。石切丸は納得した。そうすればいいと思った。だから金銭のためとはいえ外から女を迎えるかもしれないと聞いたとき、少しだけ安心した。何かが変わると、思って。
     しかし実際に外からの女を選ぶ段階になると、嫁も決まる前に妾として白羽の矢が立ったのは幼い石切丸の許嫁だったのだ。「あの娘なら血の濃さは保たれる」、「幸いまだ若く、石切丸と結婚して籍に入れたわけでもない」。そんな勝手なご隠居達の声を聞いて、流石の石切丸も頭に血が上りかけた。
     あの子をなんだと思っている。自分のことをなんだと思っている。血が守られれば何でもいいのか。自分たちの結婚に随分時間がかかったのは、そのためか。いざというときは自分の許嫁をあてがうつもりだったのか。だったら何故、あの子を自分に添わせた。あの子を愛してしまってから、取り上げようと言うのか。
     だからそれを知った石切丸は、彼女を幼いうちから抱きつづけなくてはならなかった。早く孕ませてしまわねばならなかった。自分のものにしなければ、取り上げられてしまう。離れて行ってしまう。今更あの子がいない日々だなんて、耐えられるはずもなかった。歪なこの檻の中で石切丸が今までやってこれたのは、あの子を守るという目的があったからなのに。
    「まっ、待ってくださいっ! 石切丸、いた、痛いっ」
     手首をしっかりと握って邸の廊下を歩く。彼女の腕は、今でも石切丸の掌では余ってしまうほど細かった。
    「私は、昼を届けたらすぐに帰るよう言いつけておいたはずだよ」
    「それは……っ」
    「こそこそと私に隠れて他の男と会っていて、楽しかったかい?」
    「違、違います、青江さんはそうじゃなくて」
     部屋の襖を開けると、ぐいと腕を引っ張り少女をその中に放り込んで閉める。軽い彼女は存外力の強い石切丸に、為す術もなく布団の上に倒れ込んだ。
     普段は和装を好む石切丸だけれど、帝大に行くときには洋装のスーツを着る。ネクタイを緩めて襟から抜き去ると、適当に放り投げてワイシャツのボタンを外す。首元を寛げて、石切丸は彼女に覆いかぶさった。
    「や、やだ……っ嫌です、石切丸、話を聞いてください!」
     少女は暴れたけれど、石切丸が押さえつけてしまえばなんてこともなかった。しかし「嫌」だとはっきり言われたことに酷く胸が痛む。今まで一度だって、そんなこと言われたことがなかったのに。
    「お願いします、話を、聞いて下さい、石切丸っ!」
    「君は私の言うことを聞かなかったのに、かな」
     彼女が口を噤む。昔から、彼女が自分に叱られることを忌避しているのに石切丸は気づいていた。三条の家の中で、彼女の居場所は石切丸の隣しかない。だから怒られるのをできるだけ避けようとしているのを石切丸は知っている。
     それなのに、今日は。
    「……悪い子だね」
     昼を届けに来てほしいな、と彼女に言ったのは、少しは外に出してやった方がいいと思ったからだった。彼女の進学は頭の固い当主たちから許可が降りなくて、三条の内では友達もできない。だから少しでも、外と接触する機会をやりたかった。
     だが自分でそうしたくせに、今日の自分はどうだと石切丸は自嘲気味に笑う。
     学生の一人が美味しい甘味処があると教えてくれたのだ。甘いものが好きな先生に、と。だから少し待っていてくれたら帰りにでも寄ろうと、少女を誘うつもりだった。昼を届けてから時間が経っているしと思ったものの、構内にはまだ三条の迎えの車がいて、探してみれば青江の前で泣いている。しかも笑って流せるような内容の話でなかった。
    「そんな気持ちは、とうに捨ててしまいました」
     どうして、どうして、どうして。
     この子は私のものなのに。小さい頃から私のためだけに存在したのに。三条の檻が綻びかけたら、捨ててしまうと言うのか。他の男のところへ行ってしまうと言うのか。そんなこと、許せるはずがない。
    「気持ちのない私を捨てて、別なところに行かれるとでも言うのかな」
    「そう、じゃないんです! 石切丸、お願いですから、話を聞いて」
    「君は私の傍から離れる事なんて、できやしないんだよ」
     この冷たく強固な三条の檻の中、石切丸が正気を保っていられたのは彼女が傍にいたからだ。彼女を守らねばという気持ちがあったからだ。石切丸が石切丸であるために、彼女はそこにいなくてはならなかった。
    つまり裏を返せば、檻の中に彼女を放り込んだのは他でもない石切丸なのである。
     ああ醜い、醜い、醜い! 例に漏れず自分も歪な三条の血を引いていたというわけだ。
     帯を解き、少女の着物を開く。今まで一度だって、石切丸は彼女を泣かせたことがない。初めて彼女を抱いた時ですら、痛みを感じないようにどろどろに溶かしてから体を繋げたのだ。けれど今はぼろぼろと涙を零した彼女が自分の下で首を振っている。完全な拒絶だった。
    「いつも通り気持ちよくして差し上げるから、そんなに泣く必要はないんだよ」
    「いや……っ、やだ、やめて、離して」
     傷つくことしか言わない口は塞いでしまえばよかった。涙でしょっぱくなった舌を吸い上げて、それでも暴れてぜいぜいと荒い息を吐く少女を見下ろす。力で石切丸に敵うはずもないのに、そうわかっているはずなのに、どうして抵抗するのだ。そんなに嫌なのか。
    「……私の傍以外のどこにも、君の行くところはないんだよ」
     だって、そうでないと、石切丸は一人になってしまう。
     それを聞くと、ひくりと喉を鳴らして彼女はしゃくりあげた。
    「……わかって、います」
    「……それなら大人しく、私の傍にいておくれ。言っただろう、可愛がって差し上げるよ。欲しいものは何でもあげよう。これでも三条のものだからね、ある程度の力は持っているし」
     避けていた三条の力だけれど、それで彼女がここにいてくれるのなら。そのためならもう、生まれてこの方忌み嫌っていた歪な檻の中に、自分から閉じこもるのもいい。
    「っだったら! 一つだけ!」
     今まで石切丸が聞いた中で、一番大きな彼女の声だった。びくりと石切丸は身を震わせる。
    「……何、かな?」
     彼女が何か要求してくれたことに安堵しつつも、石切丸は心のどこかで「これで終わりなのだ」と覚悟していた。希望を叶えれば、彼女はこれからも傍にいてくれるかもしれない。だがそれは石切丸を思ってのことではなくて、三条の力を頼ってのことだ。
     結局、石切丸は彼女を失うほかない。
     だが予想に反し、少女は驚きで緩んだ腕の拘束をすり抜けて石切丸に縋り付いた。
    「好きだって、言ってください……っ」
    「……」
    「たった一度でいいんです、好きだって、愛しているって、言ってくださいっ」
     しゃくりあげながら彼女が言う。じわりとワイシャツの胸元が濡れた。石切丸の腕は、凍りついたように動かなくなってしまう。
    「そうとだけ言ってくれたら、私ずっと、お傍にいます……。子を産むためだけでもいい、傍に、置いてください……石切丸が、好きなんです、ごめんなさい、好きなんです」
     じわりと今度は石切丸の視界が歪む。腕の中では少女がまだ泣き声を上げていた。だからやっとこさその肩に触れて、石切丸は力いっぱい彼女を抱きしめる。
    「……愛しているよ」
    「……っ」
    「ずっとずっと、愛していたんだよ……」
     歪でも、おかしな家のしきたりに落としこまれて生まれたモノでも、確かにそうだった。その気持ちだけは、本当だった。
     ただ石切丸は、それまでその伝え方を知らなかったのだ。



    「……はあ、結局は元の鞘に戻ったってことでいいのかい」
    「そうなるねえ、悪かったね青江」
    「すみません、御心配をおかけしました」
     二人に揃って頭を下げられた青江は溜息を吐いて肩を落とした。もう見るからに怒っている石切丸が彼女を引っ張っていくのを見たとき、「しまった、とんでもないことをした」とかなり肝を冷やしていたのだが。これは犬も食わない結果になったようだ。帝大のカフェテリアで、青江はげんなりすると同時に安心する。丸く収まったのなら、ひとまずそれでいい。
    「それで、家を出るって数珠丸から聞いたけど」
    「ああ、うん。私は当主の子だけれど家を継ぐわけでもないから、この子一人いてくれれば構わないし。それに本家にいるといつ年寄りたちがこの子に目を付けるかわからないから、早々に籍を入れて、素知らぬ振りをして出て行くつもりだよ。三条に関係のない帝大の仕事をしていてよかったよ。慎ましやかだけれど、蓄えはある」
     石切丸は少女の肩を抱き寄せて微笑んだ。少女も嬉しそうに笑って目を細める。青江もその様子を見て唇を緩めた。
    「うんうん、前時代的な君の家に関しては僕もどうかと思っていたし、それでいいんじゃあないかい」
    「青江も気軽に遊びにおいで。本家より来やすいだろう? この子の話し相手もしておくれ。ただし私がいるときだけだけど」
    「嫉妬深い男は嫌われるよ、ねえ君」
    「ふふ、いいですよ。嬉しいですから」
     前とうって変わって幸せそうな少女の様子に、青江もなんだか少しだけ羨ましくなった。お熱いねえなんて冷やかしながら、青江は手にしていた珈琲を啜った。石切丸も古い知り合いだけれど随分不器用で、特にその不器用さをこの許嫁に発揮していたから気になっていなかったと言えば嘘になる。それがうまく治まったと思えば、僥倖だ。
    「まあ、末永く仲良くしなよ、二人とも」
    「ふふ、そうするよ。そう言えば、青江も婚約すると聞いたけど」
    「えっ、そうなんですか?」
     耳が早いなあと青江は苦笑する。だが隠しても仕方がないので、ひらひらと手を振って肯定した。
    「んっふふ、まあ僕も一応青江一門の息子だからねえ、順当だよ。お見合いを組んでもらったのさ」
    「あの、青江さん……」
     少女が気遣わしげに青江を見たので、青江は大丈夫と微笑んだ。彼女には三条との見合いで初恋を失った友人のことを話してしまったから、「見合い」と聞いて心配したのだろう。
    「実はね、僕は友達と違って器用な方だから。初恋の女の子を相手に据えてもらったんだ。だから平気だよ」
    「あ、そうなんですか。ならよかった」
    「なんだいその話は。私は知らないんだけどなあ。君たちやっぱり仲が良すぎるんじゃないのかな」
    「あとで彼女に聞きなよ。じゃあ、僕はそろそろ講義に行くから。またね、石切丸」
     ひらりと長い髪を翻し、青江は席を立つ。ああよかった。青江自身は特に何もしていないけれど、何だかほっとした。
     少し離れたところで振り返ると、石切丸と少女は穏やかに微笑みながら話をしている。
     ……僕の恋も、うまくいくといいんだけれどね。
     そんな風に思いながら、青江は校舎の中に足を踏み入れた。
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    2022/09/05 14:30:35

    石の花嫁

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    #刀剣乱夢 #石さに #大正パロディ

    産まれたときから石切丸の婚約者だった少女の話。
    以前pixivに掲載していたなんちゃって大正パロです。

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