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    頑張りましょう「が、がんばります!」
    「えっ、頑張ります?」
     パっと彼女の手から書類の束を取ったかと思うと、村雲江はぴゃっと執務室から出て行ってしまう。引き留める間もなく、彼女はただ左右に揺れるピンク色の尻尾を眺めることしかできなかった。
     頑張りますって一体なんだ。そもそもどうして近侍なのに執務室を出て行ってしまったのだ。今持っていかれたのは特に期限のある書類ではなく、お茶でも飲んでのんびりすればいいと言うつもりだった。そのためにお菓子も用意していた。賞味期限はまだ先だったので、彼女はそれを引き出しに戻す。今日食べなければ死ぬというわけではないのだから、構いはしないのだがしかし、どうして。
     まあ、村雲には村雲の予定があるだろうし、レッスンだとか、今日は何か急いで仕事を終わらせなければいけない理由があったのかもしれない。仮にそうだとして、村雲には逐一それを審神者である彼女に報告する義務はない。けれどそれならそれで仕事を任せなければよかったかな、と彼女は首を捻った。でも平気かどうか聞く間もなくすぐに持って行ってしまったし……。
     何より「がんばります」が一番わからない。頑張りますってなんだ。
     釈然としない気持ちのまま、彼女は再びパソコンのスクリーンに向かった。



     これまでは、村雲江に大丈夫そうかと聞けば「だめかもしれない」と返事が返ってきていた。
    「お腹も痛いし、だめかも……」
     顔色が悪く、腹部に手を当てていたので具合が悪いのは本当なのだろう。だから最初こそ彼女は心配していたが、そのうちに気づいた。
     村雲江がこう答えるときは、ちょっと保険を掛けているのだ。実際は、八割くらい大丈夫なのだ。
     保険というのはつまり、好きな子に手作りのお菓子なんかを渡すときに「美味しくないかも」というときのあれである。既に何回か練習してあるが本番が来たときに「うまくできないかも」というときのあれである。
     さらに保険を掛けがてら、少し甘える口実にもしている。なお村雲は誉を取ったときも「褒めなくていい」というが、実際に褒めないでいるとやや悲しそうにする。あれと同じである。
     だから有体に言えば、村雲は自分の口では負け犬だの二束三文だの言っても、結構自意識はしっかりあるし図太いのだ。気を許した相手に対しては。
     初めは扱いづらいと思っていたものの、村雲はそんな調子だったので彼女もその「だめかも」保険に関しては、多少なりとこちらに心を開いているのだろうと思って少し嬉しいくらいだった。しかし、ここにきて「がんばります」なのだから何かあったのだろうかと悩まざるを得ない。頑張りますって本当に何だ。
    「私、なにかしたかな……」
     やや青くなりながら彼女が言えば、隣でアイスコーヒーなんか飲みながら話を聞いていた加州清光がストローから口を離した。
    「別にあいつもちょっとやる気出しただけじゃない? もうここ来て暫く経つんだし、慣れたからやる気出したってだけで」
    「そ、うなのかな。清光は雲さんそういうタイプだと思う?」
     うーんと清光は首を捻って、それから苦笑いした。
    「……微妙」
     概ね同意見だった彼女もまた、曖昧に笑った。やはり、第三者から見ても村雲の「がんばります」は少しおかしいのだ。
    「で、村雲は頑張りますってずっと言ってるわけ?」
    「うーん、ここ数日、かな。最初は備品管理の表任せたときだったけど」
     がんばりますと叫んで執務室を飛び出して行って、その日村雲は表を完璧に埋めて帰ってきた。だから宣言通り「がんばって」来たのだと思う。
    「経費の計上、それから内番の割り振りとか、編成は流石に一緒に見ながらやってるけど……でもこの数日はずっと『がんばります』モードかなあ。大体ここ飛び出して行っちゃうから、どこで作業してるかわからないんだけど。でも戻ってきてくれた時には仕事終わってるし、ちゃんとできてるんだよね」
    「ふーん……村雲がね」
     清光が頬杖をついて斜め上の方を見る。彼女もどうしたらいいかわからなくなって、同じように文机に腕を置く。こんな風に村雲相手に悩むのは、顕現して以来少し久しぶりのことだった。
     どう接するのが正解なのかわからない。村雲江は最初、彼女にとってそういう刀だった。
     「どうせまた二束三文で売られる」と低くじめじめした呟きをよくする。刀装を持たせると期待しないでほしいと主張する。かといって大事にしようと思って接すれば、そんな価値は自分にないと言う。そのくせ放置したらしたで、売り飛ばし先を探していたのだろうなんて拗ね方をする。
     刀剣男士は揃いも揃って曲者ばかりだが、久方ぶりにどうしたらいいのがわからないのが来たなと彼女は思った。大体、二束三文といっても一体時価でいくらを想定しているのだろう。刀剣男士としては人身売買になってしまうからどうだか知らないが、刀剣の村雲江は重要文化財で、「郷とお化けは見たことがない」と言われるほどの希少価値のある刀だ。過去どうだったかは知らないけれど、少なくとも現在の価値では彼女のお給料で到底手が出ないレベルの価格のはずである。二束三文がいっそ嫌味に聞こえる。
     加えて村雲が拗らせる理由が値段のことだけならまだよかったのだが、元の主の代表格が時代劇などで所謂「悪人」のポジションに立たされることが多いせいか、村雲は自分のことを負け犬だと思っている。
     しかし通り一遍の日本史の知識しかない彼女が調べた限りでも、その「悪人」らしい元の主には確かに賄賂を受け取っていたり擁護しづらい一面もあるようだが、文化面ではかなり優秀な人だったことが文献として残っている。一概に悪人とも、負け犬とも言いづらいのではないのだろうか。大体村雲自身だって、その主を毛嫌いしているようではないし、春になって桜が咲いたときにはその主が造園した六義園に行きたいなんて言っていたのだ。だから案外、悪人の元主にだって村雲には何かしらのマイナスではない感情があるのではないかと彼女は思っているのだが。
    「いやでも、主も村雲相手に相当頑張ったんだし、村雲にもそういうときあるんじゃないの?」
     気を取り直して清光がそう彼女を励ましたが、何の自信もない彼女はまだ肩を落としたままだった。ぽんぽんと二度清光が彼女の背中を叩く。
    「そうなのかなあ……」
    「そうだって、だって主めちゃめちゃ頑張ったじゃん」
     頑張ったと言われても、自分はひたすら村雲に構い続けただけなのだ。清光にありがとうと答えながら、彼女はやはり自分の行動を省みざるを得なかった。
     二束三文だと村雲が言うたびに、「売らない」と彼女は繰り返した。「負け犬」と言うたびに倍構うことにした。かなり頭の悪い対策だと彼女は思ったが、他に解決案が見つからなかったので仕方がない。人間頑張れば大抵のことはなんとかなる。そう思って村雲に接して、最近なんとなくやっと、村雲のことを理解できたような、少しは心を開いてくれたような、そんな気がしていたのだけれど。
    「……まあまた頑張ればいっか」
     様子がおかしいなと彼女が感じたのは事実で、傍から見た清光から見てもそうなのなら、きっとその感覚は正しい。それを何とかしようと思ったのなら、また自分が頑張ればいいだけの話だ。
    「ええ、まだ頑張んの?」
    「うん。前よりは、雲さんも話せば素直に言ってくれるかもしれないし。放っておくわけにもいかないから」
     少なくとも、本丸に来た当初よりはいくらか打ち解けたはず。機を見て、村雲の様子を伺いながらなら話ができるはずだ。何でもないのであれば、それはそれ。気のせいでよかったと笑うこともできる。そうしよう。うん、と彼女は気を取り直して姿勢を正した。隣に座っていた清光が、ズズとグラスの底に残っていたアイスコーヒーを啜る。
    「まあ、そうだろうけどさ。でもあんた仕事で夜更かし常習犯だし……あんま無茶しないで困ったら俺にも相談してね」
    「うん、ありがとう」
     頬杖を突いた清光は何か言いたげにしたが、やめたようで手に持っていたグラスを置いた。それとほぼ同時に、軽やかな足音を響かせて村雲が執務室を覗き込む。
    「主、言われてた台帳の記入、終わったんだけど」
    「あ、雲さんお疲れ様」
     彼女は声をかけたが、村雲のほうはちらりと清光に目をやって引っ込もうとする。緩く癖のついた髪が揺れた。
    「加州の何か話してるなら俺はあとでも」
    「いやなんで近侍のあんたが遠慮してんだよ」
     胡坐をかいていた清光がグラスを持って立ち上がる。そのままつかつかと歩み寄ると、清光は村雲をやや引っ張るようにして執務室に入れた。
    「近侍なんだから遠慮なく入ってきていーの。俺は主と喋りたかったら勝手に部屋尋ねていくし。ねー主」
    「ふ、ふふ、そうだね」
     村雲は清光より上背があるが、それでもおろおろとしている村雲の肩をぽんぽんと押して僅かに村雲が手にした台帳を確認し、清光はひらりと彼女に手を振った。
    「じゃー村雲、近侍の仕事『がんばって』。主、またあとでねー」
    「うん、あとでね。雲さん、台帳見せてくれる?」
    「あ、うん」
     差し出された台帳を受け取って、彼女はそれを捲った。村雲はそろそろと彼女の隣に座る。いつもは膝を立てたりして腰を下ろすことが多いのだけれど、緊張しているのか正座だった。資材の量や備品の数なんかをひとまとめにして管理している台帳の記入を、村雲一振に任せるのは初めてだったからだ。けれどざっと見る限りどこにも記入に不備はなく、むしろ丁寧に端書きまでされていた。
    「……うん、大丈夫。ありがとう、丁寧に書いてくれて」
     彼女がそう言えば、村雲は一度びくりとした後、安堵したようにほっと息を吐く。一度だけあのピンク色の尻尾が揺れたような気がした。
    「わ、わん! よかった、合ってて」
    「あはは、緊張した? お腹痛くない?」
    「だっ大丈夫。痛くない」
     何度か村雲はセーターの上からお腹のあたりを撫でたけれど、そう答えた。それにもほんの少しだけ彼女は引っかかる。もう少し前の村雲なら、一休みしたいと言ってもおかしくはない。
     台帳を文机の横のラックに戻しながら、やはり彼女はうーんと首を傾げた。ちらりと村雲を見やったが、もう足を崩して落ち着いている。今なら平気だろうか。
    「雲さん、明日非番にしてあったよね」
     彼女も休日がないと流石にやっていられない。だから一応、審神者や近侍という立場を外れるわけではないが、一週間に二度は休みが取れるように彼女も村雲も仕事のない日を作ってあった。明日はそうだったはずだ。
    「何か予定ある?」
    「ううん、特に何も。夕方にれっすんがあるくらいだけど」
    「じゃあ私と出掛けない?」
    「えっ」
     ピンと村雲の尻尾が立った。同時にびくりと体を跳ねさせた村雲が、強かに膝を文机にぶつける。一度だけ文机は持ち上がって、上にあったペンが何本か転がった。
    「いった」
    「あっ、雲さん大丈夫?」
    「だ、大丈夫、大丈夫だけど、出掛けるってどこに」
     しまった、そこまで考えていなかった。でもまあ、散歩でも万屋のあたりに出るのでも構わないだろう。彼女は村雲と二人で、少し落ち着いて話がしたいだけなのだし。
    「考えておく、けど、でもせっかくのお休みだし部屋でゆっくりしたいとかならまた別な日でも」
    「ううん、行く」
     首を左右に勢いよく振って村雲が答えた。今度は彼女のほうが安心して息を吐いた。よかった、ひとまず時間は取れそうだ。
    「雲さんどこか行きたいとかある?」
    「そういうのは、ないけど。でも行く」
    「わかった、じゃあ考えておくね」
    「わん!」
     村雲は嬉しそうに頷いてくれたので、彼女も同じように笑った。その日は結局特に急ぎの仕事はなかったので、彼女と村雲は何となく他愛もないことなんかを話したりして、出掛ける時間なんかを決めて業務を終えた。
     様子を見る限り、村雲は話をしてくれそうな雰囲気ではあるし、あとはどの程度「がんばります」の真意を聞き出せるかだなあと寝る前に彼女は考える。村雲はもうそれなりにここに慣れて、仕事ができて褒めれば嬉しそうにして、そういう積み重ねの上で清光の言う通り「やる気を出した」からなのだろうか。そう考えるのが自然なのだと彼女もなんとなくはわかっているのだけれど、今までの村雲を見ているだけにどうしても疑念が残ってしまう。本当は他に、何か気になることがあるのではないだろうか。村雲にも考えることがあるのではないだろうか。
    「……がんばろ」
     彼女は一人で呟き、眠る前に見ていたタブレット型の通信端末をスリープモードに切り替える。つきりと僅かに側頭部が痛んだ気がして、早く寝ようと横になった。



     変に奇をてらって珍しい場所に外出しても、村雲は緊張してしまうかもしれないと思った彼女は結局外出先に万屋や他の店が並ぶ政府管轄のショッピングモールを選んだ。喫茶店も何軒あるので、落ち着いて話すこともできる。
     夕方にはレッスンがあるという村雲に合わせて、お昼より少し前の時間に玄関に来てねと彼女は村雲に言い置いておいたのだが、それより一五分早く来ても村雲は既にそこに座り込んでいた。ピンク色の尻尾が左右にゆっくり揺れている。
    「あ、ごめん、雲さん。待たせたかな」
     声を掛ければ一度だけびくりと肩を跳ね上げたけれど、村雲はすぐに振り返った。
    「あっ、ううん、俺が早く来ただけだから」
    「一応メール見てたらこの時間になっちゃって。靴履くね」
     下足箱から歩きやすそうなものを選んで彼女が履き始めると、村雲はややそわそわとしながら彼女の方を覗き込む。
    「主、俺なんかと出掛けてていいの? 仕事とか」
    「ん? うん、大丈夫。私も今日は休みだし、何かあったらって清光にお願いしてあるから」
     村雲と出掛けてくると声を掛ければ、清光はすぐに彼女の思惑を察してくれたようで「おっけー」と返事をしてくれた。本丸のことは清光に任せておけば問題ないし、執務室のパソコンに送られてくるメールは彼女の持ち歩く通信端末に転送されてくる。だから多少外出するくらいは大丈夫だろう。
    「私もたまには外にくらい出たいから。大丈夫大丈夫」
    「……そっか」
    「うん、じゃあ行こうか」
     少し散歩して外の転移地点から出掛けることもできたが、ひとまず玄関から直接万屋の付近にアクセスすることにする。村雲も買い出しや彼女の付き添いで何度か政府に出たので、勝手はわかるはずだ。
     買い出しに来ている刀剣男士や、彼女たちのように休日で出てきているのだろう審神者やらで人出はまずまずだった。普段は本丸の内から出ることがないので、彼女には久しぶりの外出になる。そういえばこんな風だったと彼女は思った。
    「雲さん、何か見たいものある? 最近あんまり外には出れてないんじゃない?」
     彼女の本丸でも、恐らく他の本丸同様に刀剣男士たちは空き時間は好きに外出していいことになっている。けれど村雲は現在近侍で、審神者の彼女と同じくそこまでまとまって時間が取れるわけでもないだろう。
     村雲を見上げて聞けば、村雲は慌てたように両手を振る。
    「俺の用なんか主のが終わってからでいいよ」
    「私はちょっとふらふらその辺見て回れればいいから平気。何かある?」
     そう尋ねると、村雲は少しだけ迷った後に綺麗に桃色に塗られた爪で向こうの方にある店を差す。
    「文房具、見たいんだけど」
    「文房具? いいよ、雲さんも雨さんみたいに歌を詠むの?」
    「いや、そうじゃないんだけど」
     店の押し戸に彼女が手を掛けると、後ろから村雲が腕を伸ばして開いてくれた。ありがとうと礼を言って、彼女と村雲は店内に入る。カラカラとドアベルが音を立てた。店は雑貨店のようで、文房具以外にも髪留めやら何やら揃っている。村雲はペンやノートの並ぶ棚のほうに進んだ。
    「帳面がもうないし、使ってた筆記具がだめになったから、買おうと思って」
     そういえば、村雲は近侍の仕事中よくメモを取る方だったと彼女は思い出した。清光から村雲に近侍を交替するとき、清光が付ききりでみっちりと基本的な作業を教え込んでくれたのだが、そのときからかなり細かく指示を書きとっていた。書いてまとめたほうがうまく頭に入るタイプなのかもしれない。
     もしかして、と彼女は村雲が手を伸ばしたノートのセットを見て思った。最近近侍の仕事を頑張っていたからノートのページがなくなってしまったのだろうか。村雲は近頃執務室を飛び出して行ってしまうから、どんな風に仕事をしているのかわからないけれど、もしかしたら。
    「……買ってあげよっか」
     ひょいと村雲が持っていた五冊セットのノートを彼女は取る。ついでに自分用にペンの替え芯も買っておこう。
    「えっ、い、いいよ、俺のなんか」
    「私も買うから。雲さんどのペンがいい? いっぱい並んでると目移りするね」
     買う予定はなかったのだけれど、色とりどりのペンが並んでいると数本買ってもいいような気がしてくる。彼女はつい、手前にあったピンクのカラーペンを手に取った。
    「せっかくだから何本か買っちゃおうかな。松井君には内緒にしてね、無駄遣いは怒るだろうし」
    「でも、俺なんかに」
    「好きなの選んで。嬉しいからいいよ」
     村雲に筆記具を買えるのが嬉しい。だからいいのだ。
     彼女が笑って言えば、村雲は戸惑ったように棚を見る。それからいくらか迷って、三色ボールペンを手に取った。
    「……じゃあ、これ」
    「シャーペンも選ぼうよ。ボールペンだと消せないし」
    「う、こ、これ!」
     村雲が並べられていた細めのグリップのシャープペンシルを選んだので、彼女はそれをディスプレイから一つ取った。
    「じゃあこれ買ってくるね」
    「でも荷物は俺が持つから!」
     何故だか泣きそうになりながら村雲が言うので、彼女は余計に笑いながらレジに向かう。こんのすけに似た管狐型のAIに代金を払い、ノートとペンを受け取る。紙袋に入ったそれを、すかさず村雲が取り上げた。
    「荷物は絶対俺が持つから!」
    「ありがとう。ノートも五冊もあれば暫く使えるね」
     抱きしめるようにして紙袋を持っていた村雲が、ちらりと腕の中の見る。
    「うん……ありがとう」
     微笑んで、村雲は改めて紙袋を抱える。嬉しい気持ちで彼女はドアを引く。カランカランとまたドアベルが鳴った。
     お昼前に出てきたからと彼女と村雲は喫茶店に入ることにした。彼女はさほど空腹感を覚えていなかったが、村雲はこの後に江のレッスンが控えている。何も食べないままとはいかないだろう。席に案内される前に、彼女は通信端末を確認した。特に急いで返さなくてはならない連絡はない。清光からは「こっちは平気、そっちはどう」と一言だけメッセージがあった。本丸の方も問題ないのだろう。
    「主、こっちだよ」
    「あ、うん。今行くね」
     村雲に呼ばれ、通信端末を鞄にしまう。メニューを受け取り、彼女は紅茶を頼んだ。
    「何か食べなくていいの?」
    「うん、平気。でも雲さんはちゃんと食べたほうがいいよ、夕方レッスンなんだし」
    「ん、じゃあこれください」
     紅茶とサンドイッチのセットの注文を聞いて、かしこまりましたあとここでも管狐型のAIが答えた。席についても村雲がまだ紙袋を抱えていたので、彼女は温かい気持ちになる。中身は何の変哲もないノートと筆記具だけれど、村雲は本当に喜んでくれたのだろう。
     運ばれてきた紅茶のポットをやや蒸らして、カップに注ぐ。角砂糖を二つほど入れて村雲にも砂糖壺を回せば、村雲は一つだけ角砂糖を紅茶に落とした。村雲よりも、日ごろ一緒にいる五月雨のほうが甘党らしいと言うのは彼女も村雲と親しくなってから気付いたことだ。五月雨は前一緒に菓子を食べたとき、出した紅茶に三つか四つ角砂糖を入れていた。
    「あの、文房具ありがとう。本当は通信端末で買っちゃおうと思ってたんだけど」
     そんなことを考えていると、村雲がおずおずとそう言ったので彼女は首を振る。
    「ううん。ないと不便だし、買えてよかった」
     彼女はただそう答えたのだが、村雲のほうはまだ言いたいことがあったようでティーカップを両手で握る。
    「……さっきの、嬉しいからって、なんで?」
     少し余所に目を向けて、やや緊張した風ではあるが村雲はそう口に出した。そのそっぽを向いた顔に覚えがあったので、彼女は何かが腑に落ちたような安心したような気持ちになって思わず笑う。ふふ、と小さく漏らしたのを聞いて村雲は焦ってこちらを向く。
    「な、なにっ?」
    「ううん、ごめん、雲さんが初めて私のとこに来た日思い出して」
    「えっ、なに、俺なにしたっけ」
     あわあわとした村雲は焦って思い返したようだったが、彼女はありありと覚えている。
     どういう風に打ち解けたらいいかわからなくて、彼女は思いつく範囲で村雲に接した。幸い、村雲は審神者に対して悪感情を持っているわけではないようだったし、内向的でまだ出会って日の浅いのが原因なら親しくなればいい。だからできるだけ時間を取って、彼女は村雲と過ごそうとした。
     そうしているうちに、村雲は天気の悪いある日に自分から彼女のところにやってきて、何を断るでもなく突然ゴロンと傍に横になった。
    「雲さん、どうかした?」
    「……ううん」
    「雨さん遠征中だから具合悪い?」
    「ううん」
     村雲は体調が悪いときは正直にそう言う。だから首を振るということはそうではないのだろうと彼女は思ったが、俯くようにして畳に頭を向けているので彼女からは村雲の顔色がよくわからなかった。天気が悪いからそれで調子を崩したのかと思ったが。
     しかし特に何も言わない村雲を他所に仕事に戻ろうとすると、村雲は彼女の手を掴んで自分のお腹に持って行く。
    「お腹、痛くなるから。さすって」
     痛くなるなら摩って、では順序があべこべではないだろうか。これまでも村雲が具合が悪そうなとき、嫌ではないか確認を取ってから背を摩ったりすることはあった。けれど痛くなるからというのでは……。
     もしかして、自分に甘えてくれているのだろうか。
     そう気付いて初めて、彼女はやっと扱いづらいと思っていた村雲を理解できたような気がした。
    「……ふ、ふふ」
    「な、なに?」
     ぎくりと肩を震わせた村雲が、若干上目遣いでこちらを見る。笑ってはいけないと思ったのだけれど、どうしても堪えきれず彼女は口元を押さえた。
     あの日のきょとんとした村雲の顔まではっきり覚えている。
    「あのとき、私はすごく嬉しかったんだよ」
     多く、様々なしがらみを抱えた村雲の歩く道のりはきっと、まだまだ長く遠いのだろうけれど。村雲はここでやっていけるだろう。誰かに助けを求められるなら、甘えたりすることができるのなら。
     それでいい、十分だ。
     そのときは痛くない村雲のお腹を撫でながら、彼女はそう思って明るい気持ちになった。雲っていたけれど、お日様がその隙間から差し込んできたようなそんな気分だった。
    「だからね、今日雲さんに文房具ねだってもらえたのも嬉しかったの。まあ私が頼んでねだってもらったんだけど」
     それでも、嬉しかった。村雲とこんな風に出かけて、一緒に買い物なんかしたことが。
     村雲は彼女の返答を聞いて、何度か瞬きを繰り返した。腕の中の紙袋をもう一度抱きしめながら、僅かに俯く。
    「……主は、なんでそんなに頑張れるの」
    「え?」
     問い返すと、村雲は慌てたように左手で目の前にあったサンドイッチを取る。右手は紙袋を抱えたままだった。
    「俺の相手するのなんか、面倒くさいでしょ。二束三文だし、負け犬なんだし」
    「だからそんなことないよ」
     もう何度も繰り返した否定を彼女はもう一度口にする。すると村雲は僅かにだが嬉しそうにした。
    「でも、主はいつも根気強く声かけてくれたし……。もちろん俺相手だけじゃないってわかってるよ。でも、何でかなって思って」
    左手で持ったサンドイッチに口を付けて、村雲は何となくそれを食べ始める。彼女もティーカップを手にして、どう答えようか考えた。村雲が一切れサンドイッチを食べ終えるまでの時間をかけて、彼女はやっと言う。その間村雲もただ待っていてくれた。
    「それしかできないから、かなあ」
    「それしか?」
    「うん。あっ、嫌なんじゃないよ。嫌なのを無理矢理してるってことじゃなくて、うーん」
     なんとなく彼女は持っているティーカップを傾けた。中に入っている紅茶が揺れる。
    「私ね、人間、頑張れば大体のことはどうにかなると、思ってて」
    「大体?」
    「ふふ、うん、大体」
     審神者をするだけの才覚があるかどうかと問われれば、自分はそうではないと彼女は思っている。能力的には、平均的にある……と言われた。ただそれは、刀剣男士を顕現させて、本丸を維持するだけの霊力は身体に備わっているというだけ。それを抜けば、彼女は一般人でしかなく、戦場の指揮を執るなんてことは一から学ばねばならず、本丸の運営をするには経理だのなんだのの知識も必要で、就任してすぐのころは本当に目まぐるしい日々だった。
    「毎日色んなこと頭に詰め込んで、死ぬかと思ったなあ」
     少し懐かしい気持ちで彼女がぼやくと、村雲の方はぎょっとしてサンドイッチを取り落とす。
    「死、死ぬの?」
    「いやごめん、言葉の綾だけど」
    「なんだ……そんなにしなくていいよ……」
     心底安堵した表情の村雲に、彼女は笑って首を振った。
    「でもほら、頑張ったから今何とかなってるわけだし。皆も、冗談とかじゃなく生きるか死ぬかでしょう? だから、私にできることってもう、そのくらいだなって」
     自分にはもう、頑張ることしかできないと思った。
     刀剣男士を破壊しないようにだとか、できるだけ戦果を挙げるだとか、具体的な目標は数えきれないほどある。けれどきっとどんなことも集約すれば「頑張る」ことしか、彼女にはできない。
     だからひたすらに頑張って、頑張って、前に進むことしか。
    「……流石に単純すぎたかな、立派な理由じゃなくてごめんね」
     口に出してみると少し気恥ずかしくなってきて、彼女はやや笑いながら紅茶を飲む。しかし村雲は首を左右に振った。
    「ううん、そんなことない」
     それは村雲にしては、はっきりとした返答だった。こちらを真っ直ぐと見つめて、村雲はもう一度繰り返す。
    「そんなことないよ」
     ひと呼吸、彼女は口から吸ってゆっくりと吐き出す。
    「……ありがとう」
     泣くのを堪えるのには、少しだけ目元に力を入れなくてはならなかった。ティーカップに口を付けて紅茶を飲もうとして、中身がもう空だったと気づく。ポットを傾けておかわりを注いだ。
    「主、砂糖」
    「ん、うん、ありがとう」
     村雲が差し出してくれた砂糖壺を受け取って、彼女はまた角砂糖を二つ落とした。前に使った砂糖がまだ少し残っていて、先ほどのものより紅茶は甘いような気がした。
     それからは時間の許す限り話をして、彼女と村雲は過ごした。五月雨が最近見つけた季語の話、江のれっすんの話。この間初めて食べた夕飯が美味しかったこと。そんなことを村雲が話してくれるので、彼女も笑ってそれを聞いた。
     夕方にレッスンがあると聞いていたので、間に合うように彼女が村雲と一緒に喫茶店を出ると、村雲がそわそわと周囲を見た。どうかした、と彼女が聞く前に村雲はこちらに向きなおる。
    「ちょっとだけ! ちょっとだけ主ここで待ってて!」
    「えっ、雲さん? どこ行くの」
     早く本丸に戻らないと、レッスンに間に合わないのでは。しかし村雲は彼女に何度も念を押してくる。
    「誰に話しかけられても答えなくていいから! すぐ戻るからここで待っててね!」
    「わ、わかった、待ってる」
    「わん!」
     村雲は踵を返して走って行ってしまった。他に何か見たいものがあったのだろうか。ピンク色の尻尾とふわふわの髪が左右に揺れて、人ごみに紛れるのを見送る。どこに行くのかくらい言ってくれても、と彼女が首を傾げていると村雲はもう戻って来た。必死な面持ちでこちらに全速力でやってくる。ゼイゼイと肩を揺らしながら、膝に手を突いて村雲は彼女の前で止まる。
    「おっ、お待たせ、な、何もなかった?」
    「う、うん、大丈夫。本当にすぐだったね。雲さんどこ行ってたの?」
    「これ、あげる」
     いまいち会話がかみ合っていないなと思っている彼女の前に、村雲は長細い何かを差し出した。
     パッケージに、何故か薄ピンクのリボンがそのまま巻かれた何か。受け取って見てみると、先ほど村雲に買ったものと同じシャープペンシルだった。
    「これ買いに行ってきてくれたの……?」
    「本当は他に、色々考えたんだけど。でも普段使えるもののほうがいいかと思って」
     プレゼントで、このリボンをわざわざ巻いてもらったのだろうか。するすると指通りのいいリボンをなぞる。体を起こした村雲は汗が浮いたらしい額を拭いながら言った。
    「い、要らなかったら使わなくていいんだ。俺なんかがこんなの贈ってもしょうがないし」
    「ううん、ううん雲さん、ありがとう」
     嬉しい。しっかり細身のパッケージを抱きしめて彼女は答えた。村雲はホッと安堵したような息を吐いて、それからへにゃりと眉を下げて笑う。
    「……うん」
    「あっ、雲さん、早く帰らないと。レッスン遅れちゃう」
    「あっ、そうだ、そうだった」
     焦って彼女と村雲は速足で転移地点に向かった。ぱたぱたと勢いで村雲の尻尾が揺れて、彼女の持っていた鞄も同じリズムで跳ねる。それがなんだかとても楽しい。
    「嬉しいから今日帰ったら使うね」
    「きょ、今日は休みだから、明日から使って」
    「あ、そっか」
     はははと彼女が笑えば、雲さんもつられたようにへへと笑う。レッスンには五分遅刻してしまった。村雲さん遅いですよと呼ぶ篭手切に謝りながら走って行く村雲に、彼女は行ってらっしゃいと手を振る。慌ててジャージの上着を着ながら、それでも村雲は彼女に手を振り返した。
     結局どうして村雲が「がんばります」なんて言っていたのか、今日はわからなかった。けれどやはり、特に変わったような様子は見られなかったしと彼女は悩む。やはり清光の言う通り、気にしすぎなのだろうか。
     くるくると彼女は今日村雲が贈ってくれたシャープペンシルを回してみる。パッケージに結ばれていたリボンは、捨ててしまうには惜しく、部屋にあったくまのぬいぐるみの首に結んだ。
     状況は、少なくとも悪くはなっていないはずだ。釈然としない気持ちにはなったものの、彼女はひとまずそう思うことにした。



    「……なんか顔色悪くない?」
    「え?」
     清光の指摘に、彼女は書類から顔を上げた。やや厳しい目で、眉間に皺を寄せながら清光はじっと彼女を見つめている。
    「……そう?」
    「最近主が食べる量も減ってるって俺、厨当番から聞いてるんだけど」
    「あ、もしかしてそのお説教で執務室まで来た?」
    「そーだよ」
     わざとらしく清光が腰に手を当てて彼女の方を見る。笑ってはいけないとわかっているのだが、どうしても彼女はその姿にくすくすと肩を揺らしてしまった。
    「ちょーっと、俺怒ってんだけど? 何ともないの?」
     小さい子どもにするように、清光が片手で彼女の両頬を挟むのでごめんごめんと彼女は笑いながらその手首を掴んだ。清光の手首はほっそりとしているけれど、彼女の右手だけでは足りない。
    「何でもないよ。少し食欲が落ちてたってだけ」
    「ほんとに?」
    「うん、平気」
     まだ若干怪訝そうな表情をしていたが、清光は一度だけむにりと彼女の頬を指先で摘まんで離す。納得した、というよりはまだ様子見といった調子だった。
    「……そ。で、村雲の方は? 話してなんか進展あった?」
    「ん……変わったところはないかなって、思ったけど」
    「じゃあやっぱり、村雲もやる気出しただけじゃない?」
     とはいえ今日も村雲は「がんばります」と飛び出して行ってしまったのだが。苦笑しながら彼女はシャープペンシルを指先で回した。
    「納得いかないって顔だね。なにが気になってんの? 言ってみなよ」
    「いや……大したことじゃ、ないんだけど。だって、別に、頑張ることは悪いことじゃないんだし」
     だが村雲なりに何か考えることがあるんだろうとわかっている。けれどそれが少し、彼女には気がかりなだけだ。そりゃあ村雲だって彼女に言いたくないことの一つや二つあるだろう。きっと、秘密にしておきたいことだって。そう頭ではわかっているのだが。
    「でももし、無理とかさせてたら、嫌だなって思っただけで」
    「……」
     正直に彼女は言ったのだが、清光は唇をやや引き絞って何か考え込んでいた。ほくろのある辺りを親指で押し上げつつ、やや眉間にしわを寄せた。
    「……それってさあ」
    「主、終わった!」
     何か清光が言いかけたとき、パタパタと走って来た村雲が執務室に飛び込んできた。彼女はつい、音のしたそちらを向く。
    「あ、うん、お疲れ様。早かったね、ありがとう」
    「うん、この後、政府まで出なきゃいけないって聞いてたし」
    「……あー、定期面談ね」
     何度か一緒に行ったことがあるためか、カレンダーを見て清光が言った。政府の面談は向こうで時間を指定されるので、彼女と近侍の村雲はそれに合わせてあちらまで出向かねばならない。そろそろ彼女も支度しなければならなかったが、何か言おうとしていた清光のことが気になった。
    「ごめん清光、あとでもいいかな。時間作るから」
    「いやまあ俺の用は主のお説教だったし」
    「え、説教?」
     村雲が書類を持ったままで首を傾げる。清光は少々迷ってから、片方の口の端だけ上げて微妙な表情をした。
    「そーそ。主顔色も悪いし、最近食べる量減ってるから、説教」
    「あっ、そういえば、主、出かけても何も食べてなかった」
    「え?」
     清光の細い眉が吊り上がる。まずい、と彼女は慌てて村雲を遮った。
    「それは本当に、食べる気がしなかっただけで。清光、とにかく後で聞くから」
    「……主、大丈夫なの?」
     こちらを覗き込む村雲に、彼女は首を振って見せた。
    「平気平気、ちょっと食べなかったくらいじゃ何ともならないし」
    「自分で食べてない自覚あるんじゃん。……ねえ村雲、悪いんだけどさ、今日一人で面談行けない?」
    「えっ、俺一人っ?」
    「定期面談、別に刀剣男士一振でもいいからさ。主の分は必要なら振替にできるし。そうだったよね、主。ちょっと話してくるだけだから、代わりに行けないかな」
     それは清光の言う通りだ。政府の定期面談は本丸の様子を見るためのものであって、審神者の都合がつかなければ刀剣男士のみの報告で済ませることもできる。流石に頻繁に欠席することはできないものの、彼女は割と顔を出していたので今回の一回くらいいなくても何とかなるだろう。
     だが今まで村雲一振を政府に出したことはない。いきなり役人と一対一の面談に行くのでは、かなり緊張するのではあるまいか。彼女だって最初は怖かったくらいだ。
    「でも、やっぱり私が」
    「が、がんばります!」
     彼女が言い淀むと、隣にいた村雲が答える。じっと清光も村雲を見つめた。村雲はなんとかかんとか頷いて続ける。
    「い、行けるよ、別に話して帰ってくるくらい」
    「雲さん、無理しなくても」
     いつかは一振でお使いを頼むこともあるかもしれないと思っていたが、こんなに急でなくていい。心の準備もできていないだろうし。
     案の定、村雲は小さくお腹のところに手をやった。彼女はちらりと視線だけそちらに向ける。
    「お腹、痛いの? 雲さん」
    「い、いたくないです!」
     痛くないですと言っても、村雲の顔は真っ青であるし額には脂汗まで浮いている。仮に腹痛ではないにしたって、一目で体調が悪いことがわかる。
    「絶対嘘、いいよ、休んで。私大丈夫だから」
    「平気、大丈夫、俺行くよ」
     何故そんなに意固地になる。彼女は困惑して閉口した。
     やっぱりおかしい、「がんばります」も「いたくないです」も絶対におかしい。あからさまに村雲は何か無理をしている。
     真ん中にいた清光が、二人を見やって小さく息を吐いた。こちらも困っているようで、項の辺りの短く切っている髪を掻く。それからとりなすように両手を振った。
    「まーほら、別に報告なら俺でもいいし、全然、行けるから」
    「いいよ!」
    「いいって!」
     彼女と村雲が同時に声を上げる。今度は清光が驚いて黙った。パッと村雲が机の上にあった通信端末を手に取る。
    「い、いいよ、俺行けるよ。主は休んでて、顔色悪いから」
     それは村雲だって同じだ。彼女は村雲から端末を取り上げようとして、あれ、と額を押さえた。うまく体のバランスが保てない。
    「……主?」
     いち早くそれに気づいた清光に肩を支えられる。軽く頭を振った、何でもない。少し立ちくらんだだけだ。
    「一緒に行くよ、雲さん」
    「いい、大丈夫だよ。主はいつも頑張ってるから」
     彼女が顔を上げると、へらっと村雲が笑った。ああ、やめてほしい。
     そんな顔して笑わないで。
    「だから今日は俺が頑張ってくるから、大丈夫だよ。だから主は休んで待って」
    「頑張んなくていいよ!」
     思わず彼女は叫んだ。
    「うれしく、ない、全然、そんなの全然、うれしくない……」
     ……ああでも、そっか。驚いた村雲の顔を見て、彼女はやっと気づいた。
     自分が今まで、そうだったから。村雲はそうするのがいいと思ってしまったのか。
     くらりと視界が反転する。そこでやっと、彼女は思い出した。
     朝からずっと、頭が痛かったのだ。



     努力も根性論も、本当は嫌いだ。闇雲に頑張れだなんて言うな。せめて明確な目標が欲しい。ゴールが欲しい。
    けれど、そんなこと言っていられるような状況ではなかった。
     もう頑張れないなんて、口が裂けても言えなかった。言いたくなかった。
    「……頭いた」
     ぼんやり呟けばガバっと両肩をそれぞれ押さえられた。覗き込んできた赤とピンクの瞳が視界に映る。赤い方が口を開いた。
    「起きたっ? 主、起きた?」
    「ぅ、きよみつ、と、くもさん」
     とりあえず目に入ったものを言えば、無言で息を詰めていたらしい村雲がはあーっと長く呼吸を吐いて彼女の布団にへたり込む。清光の方はぐっと奥歯噛み締めた後に怒鳴った。
    「馬鹿!」
    「……ごめん」
     見れば、左腕に点滴の針が刺さっている。執務室ではなく、彼女の私室のようだった。蹲るようにして布団の上に伏せている村雲が、何故か彼女の部屋のくまのぬいぐるみを抱えている。
    「政府の医者呼んだから……薬研がお手上げだって。あとで請求が来るって言ってた。あとその点滴二時間くらいかかる」
    「そ、っか」
    「……っもう、もうふざけんなよ!」
     ドスの効いた、腹から発されている清光の怒声は彼女の脳天を思いきり殴った。うっと彼女は呻く。
    「過労? 栄養不足? ふざけんなよ、あんた何考えてんだよ、どうしてそんなことするんだよ!」
    「ごめん、清光」
    「だから言ったじゃん、俺、何度も」
    「加州、怒らないで、加州!」
     慌てて村雲が起き上がり、彼女の上に覆いかぶさるようにして腕を伸ばした。抱えていたくまのぬいぐるみが転がり落ちる。
    「主、具合、悪いから」
     村雲の上着の隙間から見える清光は、怒りによる興奮で白い頬を紅潮させながら唇を引き絞って彼女を見つめていた。目の縁が赤い。
     そんな表情を見ていると、胸が苦しくなって、彼女は俯くことしかできなかった。清光があんなにも怒っているのは、心配しているからである。恐らく、本当はずっと色々言いたかったのを彼女の意志を尊重して我慢してくれていた。
    「ごめんね……」
     何かを堪えるように、清光は口を歪める。それからそっぽを向いた。
    「……これでわかったでしょ、俺たちはそういうの、わかんないんだよ、あんたが大事にしないものは、俺たちもどう大事にするのが正しいのかわかんない。あんたが無理すればするだけ周りも同じだけ躍起になるし、あんたが黙ってれば黙ってるほど、そうするのが正しいと思ってそうしちゃうんだよ。……あんたのことが大事だから」
     じわりと視界が滲む。ぐすと鼻が鳴って、村雲が動揺してこちらを見た。ちらりと視線だけ向けた清光も同じように眦を払う。
    「……だからちゃんと大事にさせてよね」
     はあと息を吐いてから、一度だけ目元を拭って清光が立ち上がる。びしりと勢いをつけて村雲を指さした。
    「……っあー、もう、でも一人で突っ走ったお前もあとで説教だからな、腹痛くても薬でも持参して二時間は覚悟してから来いよ」
    「ぅえっ、は、はい……」
     まだ少し怒った足音で、清光は部屋から出て行き襖を閉めた。襖の外でいくらか話声がする。
    「ここに溜まってんなって言ったじゃん! 二時間したら点滴終わるんだからさあ! ほら帰って帰って!」
    「二時間だって、まだちょっとあるね」
    「おお、そうかそうか、よかった」
    「じゃあ何か食べやすいもの作りに行こうか、何なら食べられるかな、主」
     ざわざわと、一振や二振ではない気配がそこから遠ざかった。どうして部屋の外にずっといたのかなんて、聞かなくともわかる。
    「……主、大丈夫?」
     体を起こした村雲が彼女の方を覗き込む。大丈夫だと言いたかったのだが、そのために彼女は鼻を啜らねばならなかった。そうすると慌てた様子で村雲が周囲を見る。
    「あっ、ちょ、ちょっと待って」
    「う、いや、だいじょう、うぅ」
     結局、村雲は着ているセーターの袖で優しく彼女の頬を拭いた。ピンク色の毛糸の繊維に、ぽつぽつと彼女の涙が着く。
     起き上がろうとすると、村雲は背中を支えてくれた。点滴をしてはいても、座っていることはできる。二時間と言われたのを思い出して、容器を見る。確かにまだまだ薬液の量は多かった。
    「雲さんごめんね、心配かけて」
     ぽつりと彼女が呟けば、村雲は首を左右に振った。
    「違う、俺が何も言わなかったから」
    「ううん、そうじゃない、そうじゃないよ」
     全部、清光の、言う通りなのだ。
     彼女が周囲に何も言わずに、そうして一人で突っ走ったから村雲も同じようにしてしまったのだ。同じことをされなければ、彼女にはそれがわからなかったのだから本当に馬鹿だ。様子おかしいと思っても、本当は無理をしているのではないかと心配になっても、「頑張る」と「大丈夫」を繰り返して。
     今はここにいない、あのときの清光が言いかけたことがはっきりわかる。
    「……それってさあ、村雲も同じじゃない?」
     彼女が黙りこくっていると、ぽんと膝の上に先ほど村雲が転がしたくまのぬいぐるみが置かれた。首に、ピンク色のリボンが巻かれている。村雲がシャーペンをくれたときに巻かれていたリボン。
    「……俺、嬉しかったんだ。主がいつも負け犬じゃないって、売らないってすぐに言ってくれたから。主が俺のこと、大事にしてくれてるってわかって」
     もう一度鼻を啜って村雲の方を見ると、足を崩して座った村雲はなんとなしにくまのぬいぐるみの頭をぽんぽんと軽く叩く。
    「だから近侍やってみるかどうか主に聞かれて、本当は俺なんかに期待しないでほしかったし、お腹も痛かったんだけど」
    「やっぱりそうだったんだ……」
     ぼそりと彼女は呟く。そんな気はしていたのだ。近侍を頼んだ日は若干顔が引きつっていた。しかし村雲は慌てて首を振った。
    「でも、嫌だったわけじゃないよ。だから負け犬の俺が頑張っても、何の意味もないかもしれないけど、主も頑張ってるからちょっとくらいと思って、やってみたんだけど」
     眉を下げて、困ったような顔をして、村雲は少しだけ笑う。
    「……いつもどこにいたの?」
     彼女がそっと聞けば、村雲はおもむろに首のあたりを掻いた。
    「……納戸」
    「えっ、なんでまた」
     納戸なんて、あまり風通しも良くない上に荷物が雑多に置かれているだけの部屋だ。てっきり自分の部屋に戻っていると思っていたのに。村雲はきまり悪そうにあわあわとしながら、両手を振る。
    「帳面とか本とか、筆記用具床に広げても大丈夫だったし、静かであんまり他の刀も来ないし。計算とか、色々するのにちょうどよくて。部屋にいると、雨さんに見られるし、あと俺よりそういうの得意な松井が口出しそうで。主にばれるかもしれないし」
     ふと、段ボールや使っていない布団なんかが積み上げられた納戸の真ん中で、ノートや資料のファイルを広げ、筆記具を握って座り込む村雲の姿を想像してみる。机なんかなかっただろうから、ただ板張りの床にそれらを散らばしただけだっただろう。ノートがなくなるまでメモをして、帳面を書いたり、そういえば執務室にいた頃は算盤を弾いたりもしていた。
     ああきっと、それはなんて、愛しい、頑張っている姿だろうか。
    「……そっか」
     ぽろりとまた彼女の目から涙が落ちた。
    「そっかあ……雲さん、頑張ってたんだね……」
     点滴をしていない方の手の甲で、落ちてくる涙を拭う。すると伸ばしたままの点滴をした方の指先を、そろそろと伸びてきた村雲の手が握った。
    「褒めなくていいんだ。主と同じくらいは、頑張れなかったから」
    「そんなことないよ。雲さんは頑張ったんだから、どっちが頑張ったとか関係ないよ」
     彼女が言えば、村雲は瞳を和らげる。
    「……うん。たぶん加州も、同じこと主に言うと思う」
     ぐす、とまた鼻が鳴った。ううと呻きながら顔を覆うと、今度は慌てた村雲が焦ってまた袖を彼女の頬に押し当てる。
    「な、泣かないで、お腹痛くなるから」
    「わ、わかってるけど」
     それはわかって、いるのだけれど。止まることなく涙があふれてくるのだから仕方がない。
     たぶんずっと、本当はこうして泣けばよかったのだ。村雲のように、正直にお腹が痛いだとか、苦しいだとか言えばよかった。彼女が村雲にそう言われて嬉しかったように、清光だけじゃなく、そうすれば皆笑って彼女を支えてくれただろう。それがわかっていたのに。
     ふわふわのセーターの生地に僅かに力が篭って、俯いていた彼女の顔がほんの少し前を向く。まだ頼りなく、自信なさげな表情ではあったけれど、村雲がこちらを覗き込んでいた。
    「……でも、今度から俺になら主も言っていいよ」
    「え……?」
     爪がピンク色に塗られた指先が彼女の目元の涙を払う。
    「辛いとか、お腹痛いとか。俺相手なら、負け犬だから。主も気兼ねしなくていいし。それなら……俺も負け犬でよかったって、少しは思えるかも」
     口を開いて、息を少しだけ吸った。本当に、いいのだろうか。唇には涙が少しついていたようで、微かに塩辛い味がする。
    「雲さん……私ね」
    「……うん」
     まだ彼女の両頬に手を添えてくれていた村雲は、爪と同じ色の瞳で彼女を見つめていた。
    「人間、頑張れば大体のことはどうにかなると、思ってて」
     だから、それしかできないと思って、そうし続けた。
     審神者としてここにやって来はしたものの、何もかも手探りで、わからないことだらけだ。それでも自分の肩には、正しい歴史を守る使命だとか、ここにいる刀剣男士の命だとかが圧し掛かっている。
    「皆、何もできなくても優しくしてくれたし、ここにいるのは、好きだよ。皆のことも大好きだよ。だからできるだけのことはしたいって思ってるし、それは、本当なんだけど」
     ただ、少しだけ。本当に、少しだけ。
    「ずっと頑張ってるのは、やっぱり、しんどいよ……」
     もう十分泣いたはずなのに、口に出すと堰を切ったようにまだ涙が出てくる。鮮やかなピンクのセーターの上を、涙が一粒一粒滑って落ちた。
    「うん……俺ももうお腹、痛くなるから。一休みしよう、ずっとでもいいけど。元気になったら、またゆっくりやろう」
     点滴が終わるまで二時間、村雲の肩を借りて泣いていた彼女は、針を抜かれるときには疲れて眠っていた。
     けれど久方ぶりにゆっくり眠って、起きたときには頭の痛さもどこかに行ってしまっていた。


    「清光、間食の量が多い……」
    「なーに言ってんの、今まで食べなかった分戻してるだけでしょ。暫くダイエットなんか禁止だからね」
     ゴンと音を立てて執務室の机の上におにぎりが置かれる。先程昼食を摂ったのに。彼女の顔が引きつったが、清光の方はそれでも「否」と言わせる気はなさそうだった。
    「……食べきれなかったら俺が食べるよ」
     こそりと隣で資材の帳面を埋めていた村雲が彼女に耳打ちしたが、ぎろりとそれを睨んだ清光が村雲の肩を叩いた。
    「こっちのワンワンは二時間の説教が足りなかったみたいだな」
     あの晩はすっかり寝入っていた彼女の知るところではなかったのだが、本当に説教をしたのか。彼女がそちらを見やれば、村雲は小さくヒッと声を上げて後ずさる。
    「いっ、いいです、もう大丈夫だから! 加州本当にぶっ通しで正座で二時間説教して」
    「じゃーもうわかってるよね。あとで皿下げに来るから」
    「あっ、清光」
     執務室を出て行こうとした清光を呼び止めると、イヤリングを揺らしながら清光は振り返った。
    「ん、なーに?」
    「……ううん、あとで一緒におやつ食べよう。まだ疲れてるから、休憩したいな」
     彼女がそう言えば、清光はぱちぱちと赤い瞳を瞬かせたがすぐに八重歯を覗かせて笑った。
    「えっへへ、うん、なら甘いもんも食べなきゃね。またあとでねー」
     ひらりと手を振って、清光は行ってしまった。それに小さく微笑んで、彼女はおにぎりを見る。まあ、ゆっくり食べるしかあるまい。完食はちょっと自信がないけれど。
    「大丈夫? 食べれる?」
     彼女と揃いのシャーペンを握りながら、村雲がおずおずと彼女に尋ねる。それには苦笑いしかできなかった。お弁当に持たされるのと同じような大きさのおにぎりが三つだ、先ほど昼食をもらった彼女にはかなり厳しい。
    「まあ、が、頑張るよ」
    「ほどほどにね」
     すかさず村雲が言ったので、あははと彼女は口を押えた。それに安心したようにへへと村雲も笑って、少し彼女に体を寄せる。
     そう、ほどほどに。いつまで頑張ればいいか、これからどこまで頑張ればいいかわからないから。休み休み、それでも挫けずに。
    「雲さん、次のお休み時間ある? また一緒にどこか行こっか」
    「えっ、いっ、いいの?」
    「うん。何したい?」
     そう尋ねれば、何気なく彼女の指に自分の指を絡ませた村雲が、やや俯きながら言った。
    「……犬のぬいぐるみ買ったら、あのくまの代わりにりぼん、巻いて部屋に置いてくれる? 桃色のやつ、探すから」
     そっぽを向いた村雲の耳が真っ赤になっていたので、彼女はまた一つ、大きく笑い声をあげた。
    micm1ckey Link Message Mute
    2022/08/31 20:38:20

    頑張りましょう

    人気作品アーカイブ入り (2022/09/01)

    仕事を頼んだら「頑張ります」って言うようになった村雲江と審神者の話。
    pixivからの再掲です。

    #刀剣乱夢 #女審神者 #雲さに

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