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    はつこい


     本当に予想外の出来事だったので、少々どころかかなり動揺した。
    「……本当に?」
    「はい、本当です」
     どうしよう。サッと顔から血の気が引いたのがわかる。思わず持っていた薄い紫色をした紙を握りつぶしそうになってしまったが、それは何とか踏みとどまった。美しいそれは、一度くしゃりとしてしまったら、二度と元に戻すことは叶わなさそうだったからだ。
     私の正面に立っている五月雨江は、普段通りの涼やかな目でこちらを見つめている。特に緊張をしている風でも、それ以外の感情も読み取れない。五月雨は基本的に、無表情であることが多いのだ。
    「あの、返事待ってもらってもいいかな」
     苦し紛れにそう言えば、五月雨はこくりと一度頷く。
    「ええ、構いません。急ぎませんので、ごゆっくり」
    「あ、うん、ありがとう」
    「では私は遠征に参ります。夕食には、戻ります」
    「うん、いってらっしゃい」
     一礼して、首に巻いているストールを揺らし五月雨は踵を返した。五月雨の後ろ姿が廊下を曲がり、見えなくなってから、やっと私は息を吐く。
    「……どうしよう」
     手にしていた淡い紫色の紙に書きつけられた、流れるような文字が詠う俳句を見つめる。
     そこに綴られているのは、五月雨江の恋の告白だった。



     今朝方襖に挟まっていたのだ、句が。丁寧に折りたたまれ、おみくじのように結ばれたそれは、私が起きて部屋の襖を開いたときに落ちた。つまり眠っている間に誰かが置いて行ったということである。開いてみれば、句が一句。名前は書いていなかったけれど、この本丸で短歌や俳句を詠む刀は限られている。それも俳句だ。ともすればこの手紙の送り主はカッコよくて強い刀か、江の忍びのどちらかだろう。そうあたりをつけ、私は最初から五月雨の方に行った。字に覚えがあったからだ。
    「……旅出でて、我が家にゆかし林檎かな」
     机に突っ伏したまま、顔を横に向けて紫の薄い紙を取り上げて読み上げる。
     簡単に意味を取るのであれば、「旅に出て、我が家の林檎が見たくなった」くらいになるのだろうか。きちんと辞書を引いた。ちなみに林檎は花が春の季語になるらしい。果物だと秋だと歳時記に書いてあった。
    「頭のことをお慕いしていますという意味です」
    「え?」
     ざっくりした意味は取れてもどういう意図かまでわかりかね、私は五月雨に直接聞いた。すると五月雨もそれがわかったのか、よりダイレクトな言葉が返ってきたのだ。現代人の私も、流石に「お慕いしている」と言われればそれが愛の告白だということは理解できる。
    「申し訳ありません、わかりづらかったでしょうか」
     静かな声で五月雨は聞いた。私はそれに慌てて首を振りつつ、字が綺麗だねなんて頓珍漢なことも言いつつ……困ったなと思った。
     もちろん五月雨が嫌いだなんてことはない。まだ付き合いは浅いほうだけれど、いつも殆ど変わらない表情に反して感情豊かで、それでいて案外お茶目なことも知っている。いい人、もとい、いい刀だ。旧知の仲らしい村雲江が傍にいると癒されるという気持ちも何となくわかる。
     けれどどうしても、気になることが一つあるのだ。
    「五月雨、真面目だから主に対する気持ちを恋だと思っちゃったのかな……」
     刀剣男士は、若いもので数百年、古いもので千年生きている。その分精神性や価値観が人間の私とずれていることがもちろんあり、最初のうちはそのすり合わせで苦労したりした。
     けれど手足や口、つまり人間の体を持ってからの時間は顕現してからの年数に伴うことになるのだ。つまり、人間が幼年期や思春期青年期と徐々に獲得する心の動きなんかを、同じように時間をかけて刀剣男士は覚えていく。刀としての数百年間の経験や感情の折り合いを、刀剣男士達は最初のうち、人間の体で表現しきれない。
     さらに言うのであれば、元々ヒトに使われるモノであった彼らは主である審神者、この本丸では「私」に対して基本的にプラスの感情を持ってくれている。無論その度合いは刀それぞれだが。
     とどのつまり、五月雨の感情が本当に恋なのか私には判断しかねてしまうのだ。卵から生まれた雛鳥の刷り込みよろしく、刀剣男士として持ち合わせた主に対する好意的な気持ちを恋愛のそれだと思ってしまった可能性がある。特に五月雨は情緒が豊かで、書籍も率先して手に取るほうだ。数々の恋愛の和歌や物語なんかも読んだだろう。
     そうして、自分の感情を勘違いしているかもしれない。
    「……やっぱり正直に話すしかないか」
     現状、私が打てる手立てはそれしかない。あなたの持っている感情は、恋ではないかもしれないと指摘する他ない。とはいえ、五月雨を傷つけてしまうかもしれないわけだから、あまり気は進まないけれど。返事を待ってくれているのをいいことに、なかったことになどできるはずもない。本当に恋心なのかどうかは別として、五月雨が言葉を尽くして考えてこの句を詠み、それを伝えようとしてくれたのは確かなのだ。
    「にしても、どうして林檎なんだろう」
     季語として花を入れたのだろうことはわかるが、林檎を選んだ意味が分からない。体を起こし、首を傾げてから私はもう一度その薄い紙を丁寧に畳んだ。
     しかし、ラブレターをくれた相手本人に意味を問うだなんて随分なことをしてしまった。恋の句だとわからなかったとはいえ、ギャグの説明をさせてしまったような申し訳なさと自分の無学さが露呈した恥ずかしさがある。
     いや、とにもかくにも先延ばしにしていい話ではないので、私はひとまず立ち上がった。手紙はどうしたものか。いくら断るのだと言ってもこれごと返すのは流石に。私は迷って、その美しい結び文は机の引き出しにしまった。五月雨はそろそろ遠征から戻っただろうか。確認がてら部屋に行ってみようと、襖を開ける。するとちょうど襖の前に当の五月雨が立っていたので、ぎょっとして後ずさった。よろめいた私の背中を五月雨が支える。
    「うわっ」
    「驚かせてすみません、先に執務室に伺ったのですがいらっしゃらなかったので」
     相変わらずの穏やかな調子で五月雨は言うと、私の体を立て直し「大丈夫ですか」と問う。
    「ご、ごめん、特に仕事なかったから、部屋にいて」
    「いいえ。遠征から戻りましたので、報告に。特に問題はありませんでした、資材は運んであります」
    「ありがとう……」
     五月雨を探す間に心の準備を整えようと思っていたのに、本人がすぐそこにいるのは想定していなかった。今朝から予想外のことばかりである。
     一呼吸おいて、私は顔を上げる。五月雨は小首を傾げた。
    「どうかしましたか」
    「……ちょっと話があるの、今いい?」
    「ええ。構いません」
     入って、と促すと五月雨は失礼しますなんて一礼してから部屋に足を踏み入れる。座布団を出して示せば、五月雨は背筋を伸ばして正座した。
     どこから話したらいいだろうか。だが変に遠回しに言ってきちんと伝わらないのも、内容が内容なだけに困る。結局はありのままに言うしかないとわかっているのだけれど、それはそれでどうも。
     腹をくくり、私はぎゅっと一度だけぎゅっと拳を握り、息を吐く。
    「今朝のことなんだけどね」
    「はい」
     すみれ色をした涼やかな瞳で五月雨は私をじっと見つめている。五月雨にはやはり緊張したり、動揺したり気持ちが急いているような様子は見られなかった。私ばかりがわたわたとしている。
    「あの、ごめんね、私これから酷いことを言うよ」
    「構いません。正直に、言っていただければ」
     息を吸って、それでも五月雨を直視することはできなくて、やや目を伏せて私は言った。
    「……五月雨の、気持ちは、恋じゃないかもしれないと、思って」
     右手で自分の左の人差し指と中指を握り締める。私からは今五月雨の膝と綺麗に紫に塗られた爪しか見えない。
    「五月雨の気持ちは、本当に、とても嬉しいんだけど。五月雨は刀剣男士で、まだ顕現して日も浅いから。刀剣男士の、審神者への気持ちを恋だと思ってる可能性はゼロではないと、思うの。だから……」
     細切れにしか、言葉を続けることができなかった。口に出すと余計に、残酷なことを言っているのだとわかる。いっそこんなふうに率直に指摘するのではなく、「あなたを好きじゃない」と伝えればよかっただろうか。けれどそれはそれで。
     こちらが動揺しては余計良くないとわかっていても、私はつい俯いてしまった。人間としては私の方が先輩なのだ。それでも五月雨が持つ情緒はとても豊かなもので、これからだって恋はできるのだと前向きに言えるのは私しかいない。せめてフォローをと思っていると、不意に五月雨の紫の爪をした指先が伸びてきて、私の固く握りしめた手をほどく。
    「傷になりますよ」
    「……ありがとう」
    「いいえ」
     五月雨の指の腹は思いのほか硬く、普段刀を持って振るう手なのだなと私はぼんやり思った。けれど同じ手で、筆を持って句を詠んでいるのか。そう考えて、なんとも言えない気持ちになる。
    「頭の仰ることはよくわかりました」
     私の指先を握ったままで、五月雨が静かに答えた。その声音に唇を噛む。やはり、もっと他に言いようがあったのではないだろうか。
    「ごめん、でも、五月雨は十分心が豊かだから、これからだって」
    「ですがそれは、あくまでこの感情が恋である可能性も零ではない、ということですね」
    「え?」
     話が大きく方向転換をしたのがわかる。いや、思いきりUターンしたような。思わず顔を上げれば、五月雨はいつの間にか座布団からやや膝を進めて私のすぐ前にいた。ぱちぱちと切れ長の瞳が瞬きをする。
    「頭は私の感情は恋ではないかもしれないと仰いました。かもしれない、ですね。したがって恋である可能性も零ではないということだと理解したのですが、違うのでしょうか」
    「……いや、それは」
    「言い切る理由があるのならお聞かせください」
     ……弱った。ない。
     この指摘は結局、想定の範囲を出ない。私が五月雨本人ではない以上、五月雨が私をどう思っているか正確な感情はわからない。
     つまり五月雨の言う通り、私が先ほど口に出した通り、「かもしれない」というのが一番正しい。そして断言できない以上は、もしかしたら恋である可能性も完全には否定できないということだ。
     私がうんともすんとも言えなくなっている間に、五月雨はやや屈んでこちらを覗き込む。よく通った鼻筋が私の鼻と触れそうになった。
    「では私と、少しお付き合いしていただけませんか」
    「は……?」
     ぎょっとして力が入り、指先を包んでいた五月雨の手を反射で握り返してしまう。いやこれは了承の意味ではない。しかしほんの僅かにだが、五月雨の瞳が嬉し気に和らいだような気がした。
    「私自身でも、この感情が恋なのかそうでないのか、判断がつきません。頭も仰ったように、私は顕現して日が浅いもので」
    「……」
    「ですから、どちらなのかわかるまで、恋かどうか確かめるために頭にお付き合いいただければと、思うのですが」
     ものすごい、私が言ったことを逆手に取るではないか。
     私が呆気に取られていれば、五月雨はそれともと念を押す。
    「それとも、頭は私がお嫌いですか」
     ぺしょと五月雨のつけている耳と尻尾が下がったように見えた。いや、あれは作り物で、五月雨の感情の変化には関係ないはずだ。はずなのに。五月雨が気を落としたのがありありとわかって、私は慌てて首を振る。
    「ち、違、そんなことないよ」
    「ではよろしいのですか」
     いいとまでは言っていない。けれどこの流れでそれはできないと言えば「嫌い」を少なからず肯定することになる。
    「わ……わかった……」
     他に正解の返事が見つからない。結局私は首を縦に振るしかなくなった。
     それを聞いて私の指先を撫でて離すと、五月雨は居住まいを正す。しっかり伸びた背筋を折って、軽く頭を下げられた。
    「では、よろしくお願いいたします」
    「うん……」
    「夕餉の時間になりましたら、呼びに参ります。遠征帰りですから、衣服を整えてきてもよろしいですか」
    「あ、もちろん、どうぞ……」
     失礼しますと五月雨は腰を上げ、部屋から出て行く。襖がしまって、自分の部屋に戻っていったはずだが足音は殆どしなかった。そう言えば五月雨は自称忍びであった。
    「……どうしよう」
     まずいことになった。というか何も解決しなかった。
     ずるずると正座していた足を崩す。あんなに押しの強い刀だと思わなかった。何よりちょっと狡くなかっただろうか。言質を取られるだけ取られて状況をひっくり返された。けれど言っていること自体はおかしくなかったので、無理だと突っぱねることもできない。
    「なんで林檎なのか聞けばよかった……」
     もう何もかも分からなくなって呟く。顔を覆い、ひとまず私は呻いた。



     そもそも恋ってなんなのだろう……。一晩考えた私はげっそりしながら執務室に入り、いつも書類なんかを片付ける文机の前に座った。まだ午前中なのに疲労感が凄まじい。
    「おはよー、って何その顔」
    「あ、おはよう、おはよう清光……」
     初期刀でもあり近侍でもある清光が少し遅れて、今日の分の郵便物なんかを手にやってくる。私の隣に胡坐をかくと、怪訝そうな表情でこちらを覗き込んだ。
    「なんかあった? 隈酷いけど」
     首を傾げつつ清光が尋ねるのに、私はやや考えて首を振った。他の誰かに相談するような内容ではない。これは私と五月雨の問題だ。
    「平気、ちょっと、寝つきが悪かったんだよね」
    「大丈夫? ちゃちゃっと終わらせてさ、今日は昼寝でもしちゃえば?」
    「具合が悪いわけじゃないから大丈夫だよ、ありがとう」
     とはいえ、体調以外のことは何も大丈夫ではない。日報に今日の出陣予定なんかを書いて、政府からの郵便物に目を通したりなんだりする。その間も若干気がそぞろなのに自分でも気が付いていた。落ち着かない。
     そうして何かもの言いたげな清光の視線を誤魔化しつつ、筆記具を回して備品発注の表を埋めていたときだった。
    「頭」
    「っはい!」
     落ち着いた声が響いて、私は持っていたシャーペンを取り落とす。カンと高い音を立ててシャーペンは頭から文机に落ちた。膝を立てていた清光が、体を捻って開け放った執務室の入り口を見る。
    「あれ、五月雨じゃん。珍しいね」
    「ええ。頭、午後よろしければ少しお時間をいただけますか」
     うわ、来た。昨日の今日で来ないはずないと思っていたが、五月雨は普段通りの涼やかな表情で立っている。私は残っている書類を見た。午前中で片付かない量ではない。
    「午後、午後たぶん、大丈夫」
    「え、主寝不足って言ってたじゃん。昼寝とかしないで大丈夫なの」
    「寝不足なのですか」
     五月雨は膝を折り、屈んで私の顔を見る。さらりと紫色の髪が揺れた。
    「確かに、あまり顔色がよろしくないように見えますが」
    「いや、大丈夫。別に体調悪いわけじゃないから。午後声かけるね」
    「……ご無理はなさらず。私の用はいつでも構いません」
     穏やかに言って、五月雨は再び立ち上がって出て行く。ああ変に緊張した。目元を指で押さえる。一呼吸おいて瞼を開くと、じっと至近距離で赤い瞳がこちらを見つめていた。
    「うわっ」
    「え、何そういうこと? しかも五月雨? あんまり接点ないと思ってた」
     へえーとにんまり笑う清光に、私は慌ててまた首を振った。
    「あ、いや、そうじゃなくて、全然」
    「ふーん? なんなら俺ちょっと近侍代わってやるくらいはするよ」
    「違う、本当に、ちょっと色々、相談されただけで」
     弁明としてはなにも嘘をついていない。ひらひらと両手を左右に振りながら、私は口を引き絞る。難しい、下手なことは言えない。
     だが幸いにも、清光も根掘り葉掘り追及してくる性格ではないため意味深ににんまり笑っただけで、それ以上は何も聞かなかった。間違いなく何か勘違いしているだろうが、多少はもういいことにしよう。
     くすくすとしながら、清光は軽く二度私の肩を叩く。なんだか学生時代の友達だとかそういう親しい相手と話している気分だ。いやしかし、と思い直して私は顔を上げる。
    「清光、変なこと聞いていい?」
    「何? 俺恋愛相談なら多分得意だよ」
    「いや、そうじゃなく、説明が難しいんだけど……。清光って、自分の今の気持ちが嬉しいとか、悲しいとかそういう名前の気持ちなんだって、いつ分かった?」
     この本丸で、一番長く人間の体でいる刀剣男士は初期刀の清光だ。きょとんとして清光は首を傾げる。
    「なにそれ、政府の何かの検査?」
    「ん……単純な私の、興味なんだけど。皆自分の感情の名前ってどうやって知ったのかなって」
     どの程度、どのくらいの時間を掛ければそれらを獲得できるものなのだろう。清光は不思議そうにはしたけれど、腕を組み少し考えた。
    「……どう、とかいつっていうか。なんだろうな、刀だったときに色々考えたり、言いたかったこととかを、この体になってからそういう名前なのねーってわかるって言えばいいのかな。何もないところから知るわけじゃないんだよね、ただ、あのときこうしたかったって気持ちがそうなのかって、こうなってみればわかるってだけで。でも人間特有のやつは別。俺お腹空くとか眠いとか最初わかんなくて怖かったもん」
     そういえばと私は思い出す。顕現して三日くらいの頃だっただろうか。清光が目の下を真っ黒にして私の部屋に来たことがある。「主俺、折れるかもしんない、かわいくもないし」と濁った声で言うので、「寝不足じゃないのかな」と返した。
    「ねぶそくってなに、寝るって何。頭の中がどっかに引っ張られてるみたいで怖い」
     顔をくしゃくしゃにして清光が言うので、確か私は一晩中清光の手を握って、大丈夫だと言い聞かせた。三日も続けばヒトの肉体も限界だったようで、何もしなくても眠りには落ちるものの、たまにハッとして起き上がるような調子だったのだ。
    「そう言えばそんなことあったね」
     笑いながら返せば、清光は片眉を上げて肘で私を小突く。
    「笑い事じゃないよ。そういえば人間って夜静かにじっとしてる時間あったなーって知っててもさ、実際に寝たことなんかないんだから。もの噛んで飲み込むとか、結構難しかったし。割と俺の最初の犠牲の上に今の皆の生活あるからね?」
    「ふ、ふふ、そうだね、うん、ありがとう」
     でも、やはり最初は右も左もわからないものなのだ。当たり前だけれど。となれば、五月雨の気持ちが恋かどうかなんて益々わからなくなってくる。人間特有の感情は別だと清光は言った。恋は、どうなのだろう。モノは、恋をするのだろうか。なんだかどんどん深みにはまっている。私は何と向き合えばいい。
     それになにより昨日一晩考えて気づいてしまったのだが、私もまた、何が「恋」なのかどうかなんて定義できないのだ。
    「五月雨、ごめん、お待たせ」
    「いいえ。わざわざ来てくださってありがとうございます」
     約束通り仕事を片付けてから五月雨を尋ねれば、五月雨は部屋で静かに本を読んでいた。らしい過ごし方だなと思いつつ、そう言えば私は五月雨が普段どんな風に本丸で暮らしているのか知らないと気づく。たまに縁側で発句に勤しんでいる姿は見たことがあるけれど。
    「用って何だった?」
    「用と言いますか、せっかく頭にお付き合いいただけるようになりましたので、一緒に過ごせたらと」
     なるほど、デートだろうか……。
     とはいえ、昨日ああ言ってしまった手前それは嫌ですと断るのもよくない。五月雨が何を考えて、どう思っているのか理解しなければこの問題は解決しないのだ。私は五月雨が用意してくれた座布団に腰を下ろした。ひとまず相互理解を図るのは、悪いことではないはずである。
     五月雨の部屋に来ること自体がそもそも初めてだなと思っていると、五月雨がお盆の上に用意しておいたらしい急須や湯呑を差し出す。
    「お茶でも飲まれますか」
    「あっ、ごめん、何か持ってくればよかった。気が利かなかったね」
    「いいえ、用意します」
     慣れた手つきで五月雨は緑茶を淹れ始める。呼ばれていることにしか意識がいっていなかった。お菓子でも持参すればよかったのに。
    「どうぞ、作法はあまり詳しくありませんが」
    「ありがとう」
     少し冷ましてから、五月雨が渡してくれたお茶を飲む。作法に明るくないと言っていても、ほんのり甘くておいしい。それを味わいながらふと顔を上げると、五月雨がこちらを凝視していたので、驚いて肩を跳ね上げた。
    「な、なに?」
    「熱いものは得意ではありませんか」
    「いきなりだと、厳しいかな」
    「覚えておきます」
     菓子もありますよと五月雨は個包装の饅頭が載った皿を差し出す。五月雨はきちんと私を部屋に呼ぶ仕度をしていたというのに、こちらと来たら。やや申し訳なさを覚えたところで、私は気を取り直すことにした。せっかく午後の空き時間を一緒に過ごそうと言っているのだから、できるだけ楽しい昼下がりにしたい。
    「五月雨は普段、空き時間何してるの?」
     すすめられた饅頭を一つ貰いながら聞いてみる。五月雨も同じように包装紙を剥がしながら、静かに答えてくれた。
    「裏手にある山に登ります」
    「……やま」
    「はい、天気が良い日に限りますが。足腰の鍛錬にもなりますし、新しい季語も見つけられます」
     そういえば五月雨は旅が好きなんだった……。文系の趣味を想定していた私は少し面喰いながら復唱する。考えているよりアウトドア寄りの嗜好なのだと思っていたほうがいいかもしれない。もしかして、今日ももっと外に出られるような服装だったり予定だったりした方がよかったのだろうか。
    「部屋に来るより外に出かける方がよかったかな」
     私が聞けば、五月雨は首を振った。
    「いいえ、私と頭の足は違います。いきなり山に登るのは、厳しいでしょう。最初は近くの散歩から始めた方が」
     冷静な指導が入ってしまった。まあ、裏の山は確かに、おいそれと気軽に行って帰ってくるような場所でないことは確かだ。刀剣男士の体力と身体能力があればまだしも、私はただの人間であるし。
    「そ、っか。まあ確かに、いきなり運動なんかして怪我でもしたら五月雨に迷惑かけるしね」
    「いいえ、迷惑には思いませんが、頭が怪我をしては困りますし、悲しいです」
     思わず饅頭を取り落としそうになってしまった。あまりにもストレートな「悲しい」が剛速球で飛んできたものだから驚いたのだ。
     けれど、そういう刀なのだなと思いながら私は饅頭を食べる。五月雨は、基本的に思ったことをはっきり口にする。自分の気持ちをきちんと相手に伝えられる。余計なごまかしや、嘘は吐かない。正直で誠実な刀だ。
    「ですから、またにしましょう」
    「え?」
    「怪我をされるのは嫌ですが、頭と旅はしてみたいです。ですから次は一緒に出かけましょう」
     包み紙をもらいますねと五月雨は私の手からそれを取った。丁寧に折りたたむと、それを捨てる。
     次が、あるんだ。いや、一回こっきりだと言ったわけではないし、今日何時間かを二人で過ごしたところで解決するような話ではないのだから、時間と日を重ねなければいけないのはわかっていても、明確に口に出された「次」にそうかと納得してしまった。
     私は今、恋かどうか確かめるためとはいえ五月雨と付き合っているのだ。
    「……じゃあ今日は何しよっか」
     自然とそう五月雨に問いかけていた。屑籠に手を伸ばしていた五月雨はこちらを振り返り、僅かに目元を緩める。
    「何をしましょう」
    「五月雨は普段、部屋にいるときは何してる?」
    「そうですね……」
     先ほどまで五月雨が読んでいた本が机の上に伏せられている。五月雨はそれを取り上げて、しおりを挟むときちんと閉じて本棚に戻した。
    「やはり本を読んだり、句を詠んでいることが多いかもしれません。歌詠みですから」
    「今日もそうしてもいいけど、どうしよっか。私は句は詠めないし……」
    「いえ、今日は頭がいらっしゃるので、頭と話がしたいです」
     膝を少しこちらに寄せて、五月雨が言う。何となく気恥ずかしくなって、あははと笑いながら聞く。
    「いいよ、何話そう」
    「頭は空き時間何をしていらっしゃるのですか」
    「空き時間か、私もあんまり変わらないよ。本読んだり、何もせずにぼーっとしたり、部屋に来た子と遊んだり」
     それから他愛もないことを、いくらか五月雨と話した。好きなご飯、お菓子、得意なこと、苦手なこと。喋りながらなんだかお見合いみたいだなと思ったけれど、律儀に五月雨が全部聞くので、私も全部答えた。
    「そうなのですね。わかりました、今日から緩衝材を潰す行為も季語とします。今度やってみます」
    「いや、それはどうかな、人によって全然楽しくないかも……」
    「緩衝材をぷちぷちと呼ぶのも初めて知りました。歌にするときもぷちぷち、と詠んだ方がよろしいでしょうか」
    「それもちょっと個人差が」
     何を言っても大真面目に五月雨が私の言ったことを受け止めるものだから、つい笑ってしまう。そうすると五月雨は不思議そうに首を傾げた。
     しかし、そうか。私たちはお互いに案外何も知らないのだなとしみじみ思う。同じ本丸で、屋根の下で暮らしている。けれどここは刀の数も多いから、私が一振一振に割ける時間はかなり限られていて、通り一遍のことしかわかっていなくて。私も、五月雨のことは「郷義弘作刀の打刀で、俳句が好きで、自分の名前を呼んでくれた俳人を慕っている」なんてことしかわかっていなかった。
     だとしたらやっぱり、五月雨の気持ちは「主に対する好意」の延長なのではないだろうか。
     最初から「好き」なところから始まったから、それを恋だと思っているのではないだろうか。
    「……五月雨」
    「なんでしょう」
     句でも考えていたのか、どこか別なところに視線を向けていた五月雨がこちらを見た。
    「あの」
     紫色の、凪いだ海のような静かな瞳がじっと私を見ている。その視線があまりにも真っ直ぐだったので、ついこちらが目を逸らしてしまう。
     ……もし、そうでなかったら。仮に五月雨の気持ちが本当に「恋」だったら。
     私は一体どうしたらいいのだろう。
    「なんでもない」
     まだ一日しか経っていない。判断を急いでも、仕方がない。結局私は口を噤んだ。
     しかし五月雨のほうは体を傾けて、俯きかけた私の顔を覗き込む。昨日から思っていたのだが、やけに距離が近い。
    「なんですか、気になるので言っていただけませんか」
    「いや本当に、何でもないから気にしないで。ね」
    「何か言いかけたでしょう」
     押しが強い。というか視線の圧があまりにも強い。私は思わず両手で五月雨の顔を押し返した。手のひらに唇が当たる。さらさらとしていると思っていた髪も毛先は柔らかかった。
    「近い! 昨日も思ったけど近い!」
    「いけませんか」
    「いけ、なくはないけど、いやいけないのかな」
    「どちらですか」
     どっち。どちらだ。
     普通押し返された時点で遠慮するだろうと考えていたので、いけないかどうかと聞かれると思っていなかった私は固まってしまった。やめてと言うのは言葉が強すぎる気がする。顔が近いと落ち着かないので少し離れてほしいと言うのが正しいのだろうか。
    「……今は、頭とお付き合いさせていただいていると思っているのですが、違いますか」
     たらりと冷や汗が流れる。それもあった。
     恋をしているかどうか確認するために付き合っているのだ。ならば一般的な恋人同士のような距離感でいるべきなのだろうか。でも、しかし、だって、ええと。
    「お、女の人にそんなに顔を近づけると吃驚すると思うので、余所ではしないでください」
     やっと振り絞ったのはそんなどうしようもない回答だった。外でしないでほしいのは確かなので、間違ってはいない。
     私が五月雨の顎を押している形で硬直していると、五月雨はぱちぱちと二度瞬きをする。それから珍しく瞳を明確に緩め、細めて微笑んだ。
    「……余所ではいけないなら、頭には顔を寄せてもよろしいですか」
     言葉を詰まらせ、うっと言い淀む。わかっていて、絶対に私が答えに困るのをわかっていて聞いている。面白がっている。楽しんでいる。
    「さ、五月雨面白がってるでしょう!」
    「そんなことありません」
    「嘘、絶対私のことからかって楽しんで」
    「違います。あまりにも頭の表情がくるくるとよく変わるので、愛らしいと思って見ていただけです」
     ふっと五月雨の笑った吐息が、指先に触れた。
    「お茶のおかわりでも飲まれますか」
     すっと五月雨が体を起こして、ついでに引いて斜めになっていた私のことも抱き上げる。急須の中にお湯を入れるために、一度五月雨が背を向けた。
     顎を、押さえていたのでなければ。口元をそうして覆っていなければ、五月雨が笑ったところが見られただろうか。
     手に湯呑を渡される。先程のものより少しぬるめにされていた。
    「どうぞ。これならあまり熱くないと思いますよ」
    「……ありがとう」
     唇をつけたお茶は、確かに適温で、やはりほんのりと甘かった。



     カタカタとキーボードを叩いていると、「頭」と柔らかな声で呼びかけられた。しまった、もうそんな時間だった。
    「ごめん、もう、少しだけ待ってくれる、かな」
     この書類だけ仕上げてしまってからにしたい。私は画面から目を逸らさず、とにかく指先を動かしながら五月雨に言う。
    「ええ、構いません」
     五月雨が静かに執務室に入ってくるのがわかったが、ひとまず作業に集中する。本丸で管理している帳簿なんかは書式があるので、必要な個所を手書きで埋めることが多いけれど、政府に提出するあれこれは、手書きの申請書もたまにあるが大抵パソコンで作成してそのまま送ってしまう。
     書類の最後に本丸の識別番号なんかを記入してしまって、保存した文書を添付して政府に送信する。一連の動作を終えて振り返れば、やはり五月雨は随分近い距離で私の手元を覗き込んでいた。
    「うわびっくりした」
    「頭はその機械をお使いになるのがお上手ですね」
     しみじみと五月雨が言うので、私はちょっと笑って首を振った。
    「普通だと思うよ。特に難しいことはできないし、打ち込んでるだけだからね」
     五月雨はやや考え、ちらりと私の方を見て言う。肩越しに机のキーボードを覗かれていたので、五月雨が少し顔を動かすと頬が触れそうになった。
    「……少し、何か書いていただいてもよろしいですか」
    「いいよ」
     なにか、なにがいいだろうか。
     適当にメモ帳を開きキーボードの上に手を置いて、左の薬指から動かす。さみだれごう、スペースキー、変換してエンター。五月雨江。
     打ち込んで首を回すと、五月雨は目を閉じていた。
    「五月雨?」
    「音が、心地よいと思いまして」
    「音?」
     カタカタ、と特に意味もなくキーを叩く。ほうと息を吐いて五月雨が私の肩に顎を載せた。
    「はい、心地よいです」
    「ふふ、タイプ音は季語ですか」
    「ええ、季語です」
     すみれ色の瞳が開く。五月雨はキーボードから画面に視線をやって、じっとそれを凝視した。
    「……最初に私の名前を打ってくださったのですか」
    「え、ああ、うん」
    「私は何か、と言いましたが」
     確かに、音の話をされてからは適当にタイプしたので、アルファベットや数字なんかが文字列になっている。けれどその一番上に、五月雨江と表示されていた。
     ……もしかしてものすごく恥ずかしいことをしたのでは。耳の辺りが熱くなる。距離が近いせいで、五月雨にもそれが伝わってしまいそうな気がした。
    私は中指で何となくバックスペースキーを押して、少しずつ後ろから文字を消し始める。カタ、カタ、カタと一定のリズムでそうしていると、五月雨に上から手を掴まれた。
    「何故消してしまうのですか」
    「いや、もういいかなあって」
    「いいえ、消さないでください。嬉しいです。一番に、私の名前を思い浮かべてくださったのですね」
     耳元で、五月雨の落ち着いた声がするのが心臓に悪い。私は「はい」とも「いいえ」とも答えられず、空いている手で画面を切り替えた。書類も終わったのだから、当初の予定に戻ろう。
    「お、お待たせしました。出かけよっか」
    「はい」
     今日は午後から五月雨と外出する約束だった。だから午前中に仕事を終わらせたのだが、政府から一件だけ書類が戻されてきて直していたのだ。それでも出かけるには十分な時間帯だったので、私と五月雨は玄関で靴を履く。
    「夕方には戻るね、ちょっとその辺り散歩してくるから。近場のお店くらいは覗くかもしれないけど」
     留守を預ける近侍の清光にそう伝えれば、清光はひらりと手を振った。
    「んー、夕飯要らなさそうだったら連絡して」
    「そんなに遅くならないよ、清光。お土産何かいる?」
     私は言ったけれど、清光は悪戯っぽく笑って首を振った。とんと軽く肩を押される。
    「ゆっくりしてきていーよって意味だよ。主も息抜き大事でしょ、じゃーいってらっしゃい。五月雨も主のことよろしくね」
    「ん、……いってきます」
    「はい、行って参ります」
     相変わらず、私がちゃんと説明していない上に五月雨が遠慮なしに距離を詰め続けているので、清光は五月雨のことを勘違いしたままだ。それでもあれこれ聞かないでいるのは、私が話すのを待ってくれているのだろうから有難い。
     五月雨と「恋かどうか確かめる」名目で、仮にでも「付き合う」という体裁で一緒に過ごすようになってから、そろそろ一月が経つ。もう、何かしら目途なり結論を出してもいいはずだ。けれど私はまだ、それができないでいた。
     一緒にいればいるほど、わからなくなってくる。どうするのがいいのか、何が正しいのか。
    「頭」
    「えっあ、何?」
     考え事をしながらひとまず歩いていると、五月雨に手首を掴まれた。何事かと思って振り返れば、五月雨は足を止めて下に視線を向けている。
    「すみれです」
    「あ、本当だ。よく見つけたね」
     もう終わりの季節に差し掛かっているはずだが、緑色の野草に紛れて紫色の小さな花がこちらを向いている。五月雨が膝を折ってすみれに手を差し伸べた。指先で、花びらに触れる。
    「山路来て、なにやらゆかしすみれ草」
     五月雨がそう言ったので、私も隣に屈みこんですみれを見る。句に聞き覚えがある気がした。
    「どういう意味?」
    「あの方の句です。山道にひっそり咲くすみれ草のなんと慕わしいことかと」
     ああ、「あの方」の俳句なのか。それならもしかしたら、どこかで聞いたのを頭が覚えていたのかも。それにしてもと感嘆してしまう。
    「確かにそうかも。すごいね、たった十七文字でそれだけ表現できるのは」
    「それが俳句の妙ですからね」
     ふふと五月雨も微笑む。紫色の、ちいさな花。山路来て……と頭の中で句を繰り返して、やっと私は既視感に気が付いた。
    「ゆかしって、前にくれた句にも入ってた単語だね」
     辞書でも引いたから、特別記憶に残ったのかもしれない。ゆかし、単語の響きだけではどういう意味なのか想像がつかなかった。
    「ええ、そうです。覚えていてくれたのですね」
    「お恥ずかしながら、辞書を引いたので……」
     私が言えば、五月雨は柔らかく瞳を細めた。
    「ゆかし、には二つ意味がありますが、語源は行くという言葉だそうです」
    「行く、がゆかしになったってこと?」
    「はい。そちらに行きたいと思うほど興味がそそられるもの、転じて、知りたい、見たい。または懐かしい、恋しいという意味になったそうです」
     本棚から古語辞典を取り出して、その単語を引いたとき。一番目に書いてある意味は「見たい、知りたい」という意味の方だった。だから私は、そちらの意味を取った。けれど、今考えてみればそうではなかったのかもしれない。
     あの歌の意味を聞いたとき、五月雨は「頭のことをお慕いしているという意味です」と答えた。それなら、二つ目の「恋しい、慕わしい」という語意が正しかったのかも。
    「あのゆかし、どっちの意味だった? 私、俳句に詳しくなくて辞書に最初に書いてある方の意味だと思ったんだけど。あとどうして急に林檎が出てきたのかもわからなくて」
     私が尋ねれば、五月雨は悪戯っぽい表情でやや口の端を上げる。
    「なぜでしょうね」
    「え、教えてくれないの?」
     五月雨は大抵、聞いたことには的確に答えてくれる。詠んだ俳句を見せてくれるときもそうで、どういう意味なのか聞けば丁寧に解説してくれたものだから、はぐらかされたのは初めてだった。五月雨は立ち上がり、私にも手を差し出した。
    「頭に贈った歌ですから。ご自分でお考えいただけると」
    「わからなかったらどうしたらいい?」
    「そうですね」
      こちらに伸ばしてくれた手を借りながら、私も立ち上がって聞く。先ほどまで柔らかなすみれの花に触れていた指先は、しっかりと私の手を握っていた。
    「何故詠んだのかは、もうお伝えしました。私の頭への思いは、歌に込めましたので。あとは頭がどうお感じになったのかにお任せします」
     行きましょうと五月雨は私の手を握ったまま引く。
     本当は、今日はこのままではいけないと思って五月雨を誘った。一カ月が経ったのだ。一カ月で何が判断できるのかと言われれば、そうかもしれない。答えを急ぐことでもない。けれど、このまま、「恋かどうか確かめる」という理由でずっと一緒にいるのは良くない気がした。
     五月雨の傍は、心地がいい。穏やかで優しく、真っ直ぐな五月雨の傍にいるのは落ち着く。だからたぶん、このままではいけない。なあなあにするべきではない。してはいけない。
    「少し歩きましたら、先ほど言っていたようにどこか店を見てみましょうか」
     ゆったりとしたペースで歩みを進めながら、五月雨が言う。たぶん、歩調を合わせてくれているのだと思う。
    「え、いいんだよ? さっきのは一応、どこか出てもいいように清光に言っただけだから別に、五月雨、散歩好きでしょう?」
    「はい。好きですが、一般的な恋人同士は店に出て一緒に何か食べたりするものだと聞きましたので、今は頭とそうしてみたいです。お付き合いさせていただいていますから」
     一般的な、恋人同士は。
     五月雨は握った私の手を離しはしなかった。だから私と五月雨は手を繋いで歩いている。それこそ、一般的な恋人同士のように。
    「……念押しみたいに付き合ってるって言うね」
     私が半歩後ろからそう言えば、五月雨は僅かにこちらを振り返って口元を緩める。
    「はい。事実です」
     本当に、ずるい言い方をする。私と五月雨は、本当に好きあってそういう関係であるわけではないのに。ずっとそうでいられるわけではないのに。
     けれどそうわかっているはずの私も、今は決定的なことを口に出すことを躊躇している。



    「季語ですね」
     無表情のままで五月雨は言ったけれど、心なしかいつもより目を開いているのであれは喜んでいる。ひとつきもなんとなく一緒にいると、私は五月雨の微細な表情の変化がわかるようになっていた。
     銀色の柄の長いスプーンを持った五月雨の前には、やや大きめのパフェが置いてあった。私も同じものを頼んでいるのだが、食べたことがないと五月雨もそれを注文したのだ。果物とクリームとがたくさん載った、スイーツなんて絶対食べそうにない硬派な風貌の男性の前にあるパフェは、なんとも異様な雰囲気を放っている。
    「食べる前から?」
    「はい。今は目で楽しんでいます」
     じっと目を見張って五月雨はパフェを凝視している。思わず私は口元に手を当てた。だめだ、笑ってしまう。こっそり通信端末を出すと、私はカメラを五月雨に向けた。カシャと鳴ったシャッター音に五月雨は体を強張らせる。その拍子に耳と尻尾がピンと立った。
    「今のは何ですか」
    「カメラ。ふふ、ごめんね、可愛かったから」
    「かめら、ですか?」
     そういえば、五月雨に通信端末を持たせたことはなかったかもしれない。長期の遠征に出る刀剣男士や、近侍の清光なんかにはよく端末を持たせて連絡を取れるようにしているのだが、五月雨にはまだ馴染みがないのかも。私は画面を五月雨に見せる。
    「ほら、写真を撮っただけだよ」
    「……こんなものがあるのですね」
     五月雨は両手で私の通信端末を受け取ると、しげしげと眺めた。それから先ほどの私と同じようにこちらに構えてみるが、残念ながら操作の仕方がわからないらしい。
    「どう使うのですか」
    「カメラ起動しないと」
    「きどう」
     端末をテーブルに置いてもらい、私は手を伸ばしてカメラアプリをタップする。レンズ裏側ねと言ったが、五月雨はよくわかっていないのか首を傾げた。画面にはテーブルが接写で写っている。
    「違う違う、端末持ってね、それで裏側のその目みたいなやつが写してくれるから」
    「こう、ですかね」
    「そうそう。それで画面の丸いところ押してみて」
     おっかなびっくり五月雨がカメラを使うのがおかしくて、私が笑っているとカシャと音が鳴る。どうやら撮れたらしい。
    「本当に、こんなもので写しとれるのですね」
     感心した風で五月雨は言った。見せてと端末を返してもらい、アルバムを見ると大口を開けて笑っている自分がいて苦笑する。いい写真なのだろうが明け透けすぎて、少し。
    「……恥ずかしいから消していい?」
     何となく端末をしまいながら聞けば、五月雨は真顔で首を横に振った。
    「いけません。私にください」
    「い、嫌だよ。すごい間抜けな顔してるし」
    「そんなことありません、可愛らしいです」
     ウッと私は言葉に詰まる。五月雨の褒め言葉は率直すぎて、私は受け止めるのに逐一衝撃をいなさなくてはならない。何となく胸元を何度か叩いてしまう。
    「頭?」
    「溶けちゃう、から、パフェ食べちゃった方がいいよ、ね?」
     そう促せば、五月雨はああとパフェに視線を戻す。写真はとりあえず後だ。
    「これは氷菓でしたね」
    「うん。いただきます」
    「いただきます」
     五月雨はきちんと手を合わせてから一番上のクリームを掬う。どんな反応をするものかと、私は自分も同じようにしてアイスの部分を食べながら様子を見た。
    「っ!」
     冷たかったらしい。まずは目を見開いて五月雨はびくりとした。慎重に口を動かしているのがわかる。まだソフトクリームの部分しか食べていないはずだが、一口の咀嚼が随分長い。
    「美味しい?」
     一応聞いてみれば、五月雨はこちらに顔を向けて頷く。
    「……はい。口の中が冷たいです」
    「中に色々入ってるから、食べてみてね」
    「はい」
     二口目からは早かったので、おそらくパフェを警戒していたのだろう。私はやっぱりなんだかおかしくなってしまって、五月雨に気づかれないように肩を揺らした。
     綺麗に五月雨はパフェを食べきって、ご馳走さまでしたと手を合わせる。それから少ししてから私もごちそうさまでしたと言った。途中途中で五月雨が季節の果物や、恐らく初めて見たのだろうコーンフレークに驚くのを見ていたら食べる手が止まったのだ。
     ちょうど昼過ぎのおやつの時間帯に喫茶店へ入ったのものあって、外に出ると空は夕暮れを迎えようとしていた。他の審神者や刀剣男士達の出入りもまばらになり始めている。私と五月雨も本丸の近くに転移し直して、食後の運動がてらまた少し歩くことにした。
    「旬の果物がたくさん入っているというのは、良いものですね」
    「ふふ、うん、季語だもんね」
    「はい。季節が変われば、あの果物も変わるのでしょうか。また食べに行きたいです」
     またという五月雨の言葉に、私は少し返事に困った。五月雨は純粋にまた食べたいと言っているだけで、また一緒に行こうと誘ってくれているわけではない。
    「五月雨、唇が、少しだけど紫になってる」
     話を変えて私がそう言えば、五月雨は自分の口に手をやった。私は手鏡を出して五月雨に見せた。
    「ほら」
    「本当ですね。何故でしょう」
    「冷たいもの食べたり、寒いところにいるとそうなるんだよ。もう外に出たし、暫くしたら治ると思う」
     五月雨は私の手鏡を覗き込んで、不思議そうに指先で自分の唇をなぞった。それから体を起こして、また歩き始めようとして、やめた。
     帰途を進む足を止めた五月雨に、私は何も言えなかった。五月雨は何か、話そうとしている。けれどそれを聞きたいと思えなかった。できるならやめてほしいとさえ、思っている。
     だが勘のいい五月雨はきっとわかってしまったのだ。私が、今後の話をするのを避けていることも、本当は今日その話をしようとしていたのも。
    「……不思議なものですね、人の器というものは。五感もそうですが、刀であったときももの思うことはあったはずなのに。今はこんなにも違います」
     頭、と声を掛けられても私は顔を上げられない。先程唇をなぞっていた指が伸びてきて、私の頬に触れた。僅かにひんやりとする感覚に、過剰に肩が跳ねる。
    「本当は、最初からずっとこの感情が恋だといいと思っていました」
    「え……?」
     やっと視線を向けてみれば、五月雨はやや俯いたけれどすぐにこちらを見つめる。
    「刀の私にも、恋をする心があるのだと思いたかった。鋼の私にもあの方が、この名を詠んでくださったように、何かを慈しみ、愛する心があるのだと思いたかった。歌を詠むためのこの心と体を、貴方が下さったから」
     五月雨の表情はどこか穏やかなものだった。瞳は春の海のように凪いで、口元は僅かに微笑んでいるようにさえ見える。
    「ですから、私にも、これが恋なのかどうかなど、わかっていませんでした。そうであるかどうかよりも、恋をしてみたいと私はずっと思っていたものですから。申し訳ありません。頭のご指摘は、正しかったのでしょう。鳥の刷り込みのように、審神者である貴方を慕っていると」
     自分でそう五月雨に言ったはずなのに、心のどこかがチクリと痛む。そうであれと私は最初思っていた。でも、それはなぜ。どうして私は頑なに五月雨の恋心を否定しようとしたのだろう。
    「……じゃあやっぱり、恋じゃなかったってこと、なのかな」
     なぜだか掠れたような声しか出ない。頬に添えられていた五月雨の手が、耳から首、腕を辿って私の手を取る。
    「いいえ、やはり恋ではなかったのかと、思ってしまいます。ひとつき、頭にお付き合いいただいてわかりました」
    「っどうして、そう言えるの?」
     言い切るのなら、根拠があるはず。私と五月雨は、私がその感情を「恋ではない」と言い切れなかったからこうして付き合い始めたのだ。
     しかし五月雨は私の手を両手で包んで、ぽつりと呟いた。
    「……これが二度目の恋ならよかったと、思ってしまったもので」
     さらさらと夕暮れどきの涼やかな風が五月雨の前髪を揺らした。すみれ色の瞳は私の指先を見つめている。
    「このひとつき、とても楽しかったです。本当に、様々なことをしました。日頃の様子を拝見していて、頭は押せばお付き合いしていただけると思いましたので、押してよかったです」
    「五月雨……」
     やや脱力して私が言えば、五月雨は瞳を細める。
    「頭のことも、私は知らないことばかりでした。熱い飲み物は得意でないことや、空き時間どう過ごされていたのか。茶菓子は何が好きでいらっしゃるのか。顔を寄せればどんな風に慌ててくださって、私のことを見てどんな風に笑ってくださって、揶揄えばどんな風に怒るのか」
     やっぱりからかっている自覚があったのか。私は黙りこくることしかできなかった。なんと五月雨に返したらいいのかわからない。
     五月雨は、お別れを言おうとしている。
    「ずっとこのままでいられたらいいと、思いました」
     私はそれに、答えられなかった。
     ずっと、一緒に。この一か月過ごしてきたような時間をこのまま。
    「……初恋は実らないと聞いていましたが、実らないことで恋かもしれなかったとわかるのは皮肉なものです。結局、これだと確証は得られませんでしたが」
     指の腹で私の爪を撫でると、五月雨は少し屈んで私の顔を覗き込んだ。最初に話したときと同じように、鼻先が触れ合いそうなほど距離が近づく。
    「頭は今、困っておいでですね」
     それでもやはり静かな五月雨の声は優しくそう言った。
    「困って、なんか」
    「それは本意ではありません。ですから、もう構いません。……私は十分、幸せに恋をしました」
     ありがとうございますと五月雨は囁いて、そっと握っていた手を離す。それから何でもない風で、赤紫から濃い青へと色を変えようとしている空を見上げた。僅かに開いた唇が息を吸ったのがわかったので、いつものように五月雨は句を詠むのだと思ったけれど、口を噤んでこちらに向きなおる。
    「すっかり日が落ちてしまいました。帰りましょう」
    「……うん、そうだね」
     手を繋ぐ理由がもうなかったので、私と五月雨は少しだけ離れて歩く。暗くなった畦道では、五月雨の紫の髪も黒くて長いストールもそのまま消えてしまいそうだった。



     足音が部屋の前で止まって、私は首を文机からもたげた。昼下がりなので、誰が来てもおかしくない時間帯だ。
    「ねーえ、俺だけど。入っていい?」
    「……どうぞー」
     スッと襖が開く。恐らく、トータルでは一番多く私の部屋を訪ねている刀剣男士だろう清光が顔を出した。外套だけ脱いで、少しラフな服装の清光はスケジュール的に演練から帰ってきたのだと思う。
    「今日の訓練おしまい。まあ訓練じゃ怪我しないし、普通に終わったよ」
    「お疲れ様。今日は他に何もなかったよね、清光も休んで」
    「ありがとー。じゃー久しぶりに主の部屋で寛いじゃお。今日誰もいないし」
     ごろんと清光は遠慮なしに私の部屋で寝転ぶ。その辺にあった座布団を枕用に折り畳み、はーあと息を吐きながら清光は仰向けになった。清光がそうして私の部屋にいることはさほど珍しくない。むしろよくあることだった。
     「久しぶり」と清光が自分で言うのは、最近私の部屋には五月雨がいることが多かったからだ。
     清光はお腹の上で指を組んで、足を組んで転がっている。天井に視線をやったままで、清光は口を開いた。
    「ねー主」
    「なあに?」
    「俺、これでも主から話してくれるの待ってたんだけどな」
    「……」
     ぐるりと清光は仰向けから俯せに体勢を変え、畳の上に頬杖を突く。赤い瞳が私の方を見上げた。
    「ここに来る前に俺村雲から苦情貰ってんだよね」
    「苦情?」
     ダイレクトに飛び出してきた不穏な単語に、私は眉を顰めた。清光はひらひらと手を振ってそれをいなす。
    「まあその内容は後でいいよ。それで、いつか話してくれるだろうと思って何も聞かなかったんだけど、間違ってた?」
     なんのことを言われているのか、流石にわかっていた。五月雨のことだ。
     五月雨と二人で出かけて、そして別れたのはもう数日前のこと。私はあの日も、それからあとの何日かも今まで通り普通に過ごし、五月雨もそうだった。部隊のことで報告があれば私のところへ来たし、私も五月雨に指示があれば顔を合わせて話した。それだけだ。
     一カ月前に戻っただけ。たった四週間ほどのことだ。
    「……前に戻っただけ。このひと月、ちょっと五月雨から相談受けてて。それで一緒にいただけだよ。話せなくてごめんね」
    「相談って?」
    「それは五月雨の個人的なことだから、私からは言えないよ」
     清光はじっと私を見つめ続けていたので、居心地が悪くなって体の向きを変える。代わりにのそりと起き上がった清光は、折りたたんでいた座布団を戻してその上に胡坐をかいた。
    「まあそうね。じゃあ五月雨のことはいいや、主のこと教えて」
    「私のって何?」
    「俺に話したいこと、ない?」
     後ろから清光が私の手首を掴む。視界の端に、赤く綺麗に染め上げられた爪が見えた。
     だめだ、思い出しちゃだめだ。紫色の爪も、同じ色をした髪と瞳も、思い返してはいけない。掴まれたそれが清光の指よりしっかりしていたことも、どこかを掴んできたときは大抵、振り返ったすぐ傍にいたことも。あれだけ言ったにもかかわらず、顔を本当に近くまで寄せてくることも、全部。
    「……ねえ、主」
     唇を噛み締めて、私は首を振る。何もない、話したいことはない。
     清光が後ろで小さく息を吐いたのがわかった。清光は私の嫌がることはしない。こうして口を噤んでいれば、無理に問いつめることはしない。
    「歌、詠まないんだって」
     主語のないそれは何のことを言われたのかわからず、詰めていた息を吐くのと同時に聞き返す。
    「……え?」
    「五月雨が、歌詠まないんだって」
     振り返ることはできなかった。だから清光はそのままで続ける。
    「村雲がさ、雨さんの様子がおかしいから、主に言ってって。一句も詠まないんだって。短冊持って出てっても、全部白いまんま帰ってきちゃうんだって。本人は何も言わないけど、どうも何か落ち込んでるみたいだから、話聞いてやってって」
     ひくりと喉が震える。口元を空いている手で押さえたけれど、一度息を吐くために開いたそこから溢れるものを押しとどめることはできなかった。
    「なに、それ」
    「……」
    「やめてよ、そんなの、そんなのは」
     まるで本当に、恋だったみたいじゃないか。
    「……そんなはずないって、一か月、ずっと思ってた」
     事実がどうかじゃない。そうであってほしくないと、一か月の間ずっと思っていた。
    「私、たぶん、最初から、五月雨は恋なんてできないって決めつけてたんだと思う」
     心のどこかで恋なんてできるはずがないと、決めてかかっていた。五月雨が刀剣男士だから、人間ではないから。身勝手に、頭の中で分類した。自分とは別なモノなのだと、無意識で思っていた。だから違う、五月雨は恋なんてできない。モノが、主を慕っているだけだ。そうであってほしいと思っていた。
     けれど、その答えはどうやっても出ない。
     恋がどんなものかなんて私にも定義はできない。刀剣男士の五月雨の気持ちなんて。人間の私にはわからない。一生それは交わっていかないものだ。だから五月雨の気持ちが本当は何という名前なのかなんて、ずっとわかるはずがなかった。
    「でも、それでも私、五月雨と一緒にいて楽しかったりしたら」
     それでも、一か月一緒にい続けてしまった。
    「楽しくて、ずっとそうならいいって思ったりしたら、五月雨も、そうだったら」
     あの日、お別れを言わないでほしいなんて思ってしまったら。
    「それが本当に、恋だったら。っ私、どうしたらいい……?」
     いつまでたっても振り向くことができない私のために、清光が立ち上がって正面に回る。胡坐をかき、私の手を握り直した。温かい。清光の体温は、五月雨のそれより高かった。
    「ねえ、誰かが決めた枠組みの中じゃないと、気持ちって決められない? そういう風に、絶対こうだって、正解がなくちゃいけない?」
     組んだ足の上に肘をついて、私の手を両手で握りながら清光が言う。
    「俺はさ、沖田君のこと『好き』だったよ」
     おきたくん、と私は心の中で繰り返した。清光が、沖田君の話をすることは珍しい。秘密にしているわけではないと思う。けれど思い入れのある主で、自分が折れたことで途中で別れなくてはいけなかった主で。こうしてここにいる今でさえ、清光の心の大きな部分を占める人だということは、私にもわかる。
    「長く使ってほしかったし、無理もしないでほしかった。でも大事にしてくれてたし、夢に向かって、近藤さんや土方さんと生きてた沖田君が好きだった」
     静かで、穏やかな口調。例えば大切な家族や、古い友人のことを語るような声だ。いつもきりりとした、少しきつい印象を持たせる目元を優しく緩めて清光は微笑む。好きだと言う。ざわざわと乱れていた心地がそれを聞いて落ち着いた。それからこちらに視線を向けて、清光は悪戯っぽく口角を上げた。
    「でもたぶん、主に対する好きはまた、違うんだよね」
    「そう、なの?」
    「うん。全然、いや、全然でもないかも。わかんないな、でも違う、違う好きだと思う」
     清光が首を振ると、耳飾りがキラキラと光って揺れる。
    「そりゃ、長く使ってほしい、無理しないでほしいっていうのは同じだけど。慣れないこと頑張っててすごいなとか、あーやっぱ女の子だから手も指も細くてかわいくて好きだなーとか」
    「えっそんなこと思ってたの」
    「まーね、俺、手で使われる道具だもん」
     そう言われるとなんだか納得してしまう。清光は頬杖を突いたまま、何となく私の指先を摘まんで握った。
    「こうやって話してる時間が続くといーなとかさ、一緒に出掛けてると楽しいなとかさ。あんたじゃないと思わなかった好きっていうのもやっぱりあるわけ。それはやっぱり、沖田君への好きとは違うよ。でも主のことも、やっぱり好きだと思う。俺はもうただの道具じゃないから、主の手で振るってもらって戦うって言うんじゃないけど。あんたがこの本丸にいて、怪我しないように、怖い思いしないように、ずっと俺の主でいてくれるように。そうこの心っていうのが感じるのは、『好き』って気持ちなんだと俺は思う」
     とんとんと清光は自分の胸のあたりを叩いた。
     心、五月雨が「自分にも恋する心があるのだと思いたかった」と言ったもの。ずっと、清光も五月雨も「心」は持っていたのだ。ただそれが、鋼からヒトの体になったときに少しだけ、複雑に形を変えただけで。
    「……だからさ、俺は主が好きだけど、もし、他の誰かから見た好きと違ったら、俺は主のこと好きじゃないってことになんのかな。刀だからさ、人間の思う好きとはたぶん違うだろうし、今色々言ったけど、うまく言葉にできてないのかも。でもそうしたら、俺は主のこと好きじゃないってことになんのかな」
     ハッとして私は首を振った。
    「そんなわけない!」
     そんな風に、否定されていいはずがない。もちろん、清光の持った感情が本当はどんなものなのかなんて、私には完全に理解することはできない。けれどこんな風に優しく、丁寧に言葉を尽くして伝えてくれた清光の気持ちを「違う」なんて言えない。
     思わず声を上げて、そして愕然とする。
     こう言えばよかった。最初から、私は五月雨にこう言えばよかったのだ。
    「……じゃー五月雨が、恋なんだって思ったら、それが恋だったんじゃないの」
     ぽんぽんと清光が私の手の甲を軽く叩く。
    「俺が沖田君を好きだって思う気持ちと、主を好きだって思う気持ちは違うけど、そのどっちも『好き』なんだって俺が決めていいなら。五月雨だって主のこと好きだって思う気持ちを恋だって、自分で決めていいんじゃないの」
     ぼろ、ぼろと目から涙が落ちる。子どもじゃないのだからと思うのに、止まらない。
    「……それで、いいのかなあ」
     背中を丸めて、俯く。
     何が正解なのか、わからないけれど。それでもいいのだろうか。その気持ちを恋だと、百の自信を持って言うことはできない。
     けれど一緒にいて楽しかったこと、傍にいて笑ったり焦ったり、お互いのことを知って時にどきどきしたこと。ずっとそうしていたいと思ったこと。五月雨が言ってくれたそれを、私も恋と呼んでいいのだろうか。
    「正解はわかんないよ。人間が思う恋と、俺の思う恋と、もしかしたら主が今までしてきた恋と、多分全部違うよ。でも俺たち全然違うけど。口で喋って、言葉選んでさ。そうやって分かり合えるって。あんたがこの体で、教えてくれたんだよ」
     ありがとうと清光が囁く。嗚咽で答えられずに私は何度も頷いた。
    「ほーら、早く五月雨と話してきなよ。村雲も心配してるし、そっちには俺がうまく言っとくから」
     ぽんぽんと清光が私の肩を叩いて立ち上がる。そうだ、私も行かなくては。
    「うん、ありがとう、あっ、そうだ」
     頬を拭って、私は慌てて机の引き出しを開いた。綺麗に結ばれた薄紫の紙。慌てて開いてもう一度読む。
    「旅に出て、我が家にゆかし林檎かな……」
     五月雨が意味もなく林檎を選んだとは思えない。それにこの本丸に林檎なんて植わっていない。だからこれはきっと何かの比喩なのだ。
     パソコンを立ち上げて、検索サイトを開く。林檎、バラ科リンゴ属、いやそういうことが知りたいわけではない。絵画ではよくモチーフとして扱われ、これは近いけれど知りたい情報ではない。カチカチカチと上から順に出てきた情報をクリックしては閉じる。あの赤い果物に何の意味が。カチリと何個目かサイトを開いてスクロールしたとき、ぴたりと私の手が止まった。
    「……林檎は花と実と木とで花言葉が違いますが、林檎全体をさす場合は」
     最も、美しい人。
     ……こんなの、辞書を引いたって出てこないじゃないか。堪らなくなって私は五月雨の手紙を持ったまま立ち上がる。今日は五月雨を部隊に編成していない、どこにいるだろう。この一か月、五月雨はどう過ごしていただろう。時間があって天気の日は山に登って、そうでないときは部屋で本を読むか縁側で発句に励むか……。ひとまず縁側に行こうか。
    「あー? もう、誰ぇ? こんなところに緩衝材置いてるん、しかも点々と」
     足をそちらに向けようとしたとき、桑名の声が聞こえて私は顔を上げた。緩衝材、プチプチ。
    「今日から緩衝材を潰す行為も季語とします。今度やってみます」
     桑名の声が聞こえたほうに走る。見れば廊下に、何かの梱包に使われたらしい緩衝材の切れ端が落ちている。桑名が屈みこんでそれを拾っていた。
    「ああ、主ごめんねえ。誰か散らかしてるみたいで。何か頼むのはいいけど片付けしてって」
    「大丈夫、平気、そのままにして! あとで私が片付けるから」
     少し先にもあったそれを拾う。こんなにぽろぽろ落とすほど持って行かなくても。そう思いながら集めて、私は納戸の前まで来た。引き戸に手を掛けて、ゆっくり開く。静かなそこは、明かりもついていなくて薄暗い。
     ぷち、と緩衝材の空気を潰す音が微かにした。均等に部屋の中に並べられた棚の隙間を一つ一つ覗く。一番奥に、黒いストールを巻いた後姿が見えた。周囲にはここまで持ってきたらしい緩衝材の端切れが散らばっている。
    「……あんまり、面白くないでしょう?」
     そう声を掛ければ、僅かに五月雨の頭が持ち上がった。
    「まだ、判断しかねています」
    「そんなに長く考えることじゃないよ、私だってずっとやってるわけじゃないし。たまたま側にぷちぷちがあって、本当にすることがなくなったときくらいだよ」
    「……そうでしたか。わざわざ、荷物を頼んでいた別な刀のところからもらって集めてきてしまいました」
     小さくぷちぷちと音がしている。あの整えられた紫の爪が、きっとあの空気の粒一つ一つを潰しているのだろう。
    「プチプチ潰しは、季語だったかな」
    「……」
     ただ緩衝材を持っていただけなら、きっと廊下に散らばすことはなかっただろう。五月雨の周りには他に、短冊が積み重ねてあった。あれも一緒に持っていたから、腕がいっぱいになったのだ。けれど真っ白なそれには何も書かれていない。
    「季語として、歌を詠もうと思ったのですが」
    「……うん」
    「一句も浮かばないのです」
     口調は淡々としていたけれど、それはあまりにも寂しい呟きだった。ぽつりと薄暗い納戸の中で、言葉がただ浮いているようだ。
     ゆっくり側に歩いて行って、隣に座る。五月雨の正座をした膝の上に、もう既にすべて潰されている緩衝材の切れ端があった。すみれ色の瞳が指先を見つめている。ぷちとまた一つ空気が潰れる。
    「本当に、恋の歌だったんだね」
     私は持ってきた五月雨の手紙を指でなぞる。五月雨はこちらに少し視線を向けた。
    「そうお伝えしたはずですが」
    「でも林檎が何のことだかわからなかったから。ちゃんと意味が取れなくて。ごめんね」
     ゆかし、は「行きたい」から派生した言葉。見たい、知りたいと思う気持ち。転じて、恋しい、慕わしい。
    「旅に出ても、帰りたいと思うほど我が家の林檎が恋しい……。でも林檎の花言葉、調べずにパッと出てくる人は珍しいよ」
     五月雨は唇を引き絞り、瞳を細めた。
    「それで、あなたはどう、お感じになりましたか」
     本当は、私はただ五月雨のこの歌に返事をするべきだった。
    「……ありがとう五月雨。すごく嬉しかった」
     ほう、と五月雨が小さく息を吐く。安堵して力が抜けたのか、僅かにこちらに体が傾いだ。眉間に皺を寄せて、五月雨は目を閉じる。
    「ずっと、考え続けていました。わだかまっている言葉を、あなたが傍からいなくなって苦しい気持ちを、歌にすればきっとそうでなくなると思ったのに。何も、私の周囲の世界は何も変わらないのに、季語が、色あせてしまって、言葉がここから出てきません」
     胸のあたりを五月雨が撫でる。腰を浮かせて、五月雨の体に腕を回す。膝の上にあった緩衝材が落ちてカサカサと音を立てた。
    「うん、私も同じだよ」
     だから、一緒にいよう。
     この気持ちに、二人で名前を付けて。
    「私も、刀に恋するのは初めてだったから。遠回りになっちゃって本当にごめんね」
     私の背中に五月雨の腕が回って、ぎゅっと抱きしめられる。いつも五月雨の方から距離を詰めてきていたから、私がこうするのは初めてだ。頬を寄せた黒いストールからは日向の匂いがして、板間の上で少しだけ五月雨の尻尾が揺れたような気がした。
    「……桑名が怒ってたよ。緩衝材、五月雨が点々と廊下に落としていってたから、散らかすなって」
    「……気づきませんでした。すみません」
     私が少し体を離してそう言っても、五月雨は腕を回したままだったので、私と五月雨の顔はやはり鼻先がぶつかりそうな距離だった。動いた拍子にかさかさと音を立てた緩衝材を見下ろし、そういえばと気づいてその一つを取り上げる。
    「これ、一個一個潰してもいいんだけどね」
     両手で緩衝材の端と端を持つ。それからぞうきんを絞る要領で、私はそれを一度に捻った。
     ぱちぱちぱちと先程の比ではない勢いで一つ一つの空気が弾ける。五月雨の目が丸く見開かれた。びくりと肩が震えたのがわかった。
    「次々に、空気に爆ぜるぷちぷちや」
    「あ、詠めたね」
    「……本当ですね」
     ふ、ふふと五月雨が声を漏らす。いつもの無表情はどこへやら、口角を上げて目元に少ししわを作って、五月雨は楽しげに笑う。それにつられて私もおかしくなってきて、私と五月雨は暫く二人で、抱き合って笑っていた。



    「結局、初恋は実るのでしょうか、実らないのでしょうか」
     仕事の終わった昼下がり、五月雨と縁側に並んでお菓子を食べる。お茶は五月雨が用意してくれたので、私は厨からクッキーをもらってきた。五月雨は短冊片手に首を傾げながら続けた。
    「実ったということは、私の恋は初恋ではなかったのですか?」
    「いや、それ通説みたいなものと言うか、別に科学的根拠はないから……」
    「頭の初恋は実りましたか」
     真顔で何てことを聞くんだ。私はクッキーをかじったままで黙りこくる。
    「どうでしたか」
    「お、覚えてない」
    「忘れてしまうようなものなのですか」
    「そうじゃない、けど。大体物心ついてすぐとか、そういう時期なんだよ」
     あれ、でも記憶にある一番最初の恋は確かに実らなかったような。だがそれも小学校の低学年だとかそういう頃だったと思う。どうせクラスで足の速い男子とかそういう、たぶん。
     私がお茶に手を伸ばすと、五月雨はじとりとこちらを見たがすぐに短冊に目を戻した。お茶は適温で淹れられていて、今日もやはり少し甘い。一体どういう風に淹れているのだろう。茶葉が別なものなのだろうか。
    「ですが多少なりと頭にも恋をした経験があるのですね。多少なりと妬けます」
     お茶を吹き出しそうになって、手で口を押える。また明け透けに。五月雨と一緒にいるといつもこうなのだ。まだまだ逐一、衝撃をいなすのに時間がかかる。
    「そ、そう……」
    「ええ。ですから少々、失礼します」
     ぱたりと、厚みのある短冊が縁側に置かれる音がした。
     手を床に突き、五月雨が体を傾げる。目を閉じる間もなく、そして五月雨もまた同じように瞼を開いたままで、しっとりとした唇が重なった。
     チチチと遠くで鳥が鳴いている。
    「……特に檸檬の味はしないのですね。どちらかと言えば緑茶の味がしました」
     ちゅ、ともう一度鼻の頭にキスして五月雨は元の体勢に戻る。私はそれから五月雨が再び短冊を手に取るまで身動きが取れなかった。
    「そ、それも迷信、みたいなもので」
    「そうですか。おや、林檎が真っ赤になりましたね」
    「五月雨!」
     ふふふと手の甲を口に当てて、五月雨は悪戯っぽく笑う。
     私たちは今、恋をしている。
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    2023/01/02 23:14:31

    はつこい

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    #雨さに #さみさに #刀剣乱夢 #女審神者

    五月雨の気持ちが「恋」かどうかわからなかったので試しに付き合ってみる話。

    ATTENTION!
    ・オリジナルの女審神者がいます
    ・独自の解釈、設定を含みます。

    ご注意ください。

    米津玄師の『Pale Blue』をずっと聞きながら書きました。
    pixivに掲載していたものの再掲です。

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