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    押して駄目なら 告白を断ったら、精進しますと言われた。
    「……わかりました、では精進します」
    「……精進?」
     何を、というよりも彼女は帰り道に自分に告白してきた男子高生がどのクラスの誰なのかも最初は知らなかった。だがそれを聞いたところ「忍んでおりましたので」という意味不明な答えが返ってきてしまったので、それ以上の追及をやめた。
     「ヤバイ」人だと思ったのだ。
    「精進って、なんの?」
    「勿論、あなたに好ましく思っていただけるようにですが」
     たった今お断りしたところなのに。聞こえていなかったのだろうか。いや、彼は「わかりました」と言っていた。ならば断わったことは理解していてくれたはずだ。
     しかし彼は大真面目な様子で続ける。
    「まずは友人からですね、努力します」
    「はあ……?」
     ぽかんとしている彼女を他所に、彼は切れ長の瞳を少しだけ緩めて微笑んだ。学ランの詰襟をしっかり上までボタンを留めている。涼し気な印象を持たせる目元だった。
    「それでは明日からよろしくお願いします、ではまた」
    「ま、また」
     すたすたと彼は去っていく。少なくとも今しがた振られた後ろ姿ではない。だがちょっと既視感がある。
     何だったんだろう。彼女はぽつんと帰路に立ち尽くす。呆然とした自分の方がなんだか、失恋した人みたいだなとぼんやり思った。


     昨日自分に告白してきたのは、二つ隣のクラスの五月雨江という同級生らしい。二つ隣、となると体育や他の授業でも一緒にならないはずなのに、どうして五月雨が自分のことを知っていたのか、彼女はわからない。一年生のときもクラスは一緒ではなかったのに。
     だが言われてみれば、その名前にのみ覚えがあった。全校や学年での集会でよく賞をもらっていた人だ。後ろ姿の既視感はそれか。表彰されるところを見ていたからだ。それにしては何故、校舎内で出くわしたことがなかったのだろう。ああ、「忍んでいた」からか……。彼女はここで考えるのをやめた。
     とにもかくにも、その五月雨に昨日告白されて、断って、「精進します」と言われた。「友達からお願いします」みたいなことも言っていた。
    「お願いって言われても、ねえ」
     彼女は必要な教科書を鞄から出し入れしながらぼやいた。次の時間は古文なので、廊下のロッカーに辞書を取りに行かなくてはならない。
     お願いされても、彼女にとって今の五月雨は「よく表彰されている同学年の人」、もしくは「振られてもめげない人」程度の認識しかない。告白を断ったのも、別に五月雨が苦手だとか嫌いだからというマイナスの理由ではなく、シンプルに全く知らない人だったからである。彼女も流石に知らない人と付き合う勇気はないのだ。
    「すみません」
    「あ、はい」
     そんなことを考えながら彼女が少し屈んでロッカーを開いたとき、声を掛けられて振り返る。それからぎょっとした。
    「さ、みだれ君」
    「はい、おはようございます」
     きっちりと学生服を着こんだ五月雨が彼女の背後に立っていた。驚いて持っている古語辞典を取り落としそうになったが、それは顔色一つ変えないで五月雨が掴んでキャッチする。
    「落ちましたよ」
    「え、あ、ありがとう」
    「いいえ」
     昨日と同様に涼やかな表情で、五月雨は彼女の手に辞書を持たせた。二つ隣のクラスの人がどうしてここに。いや、確かに授業と授業の間の休憩時間ではあるけれど。
    「な、何……? 何かうちのクラスに用?」
    「いえ、あなたに用が」
     肩がぎくりと震えた。あんな話をして昨日の今日なのだから、不思議ではないが心の準備ができていない。というか本当に五月雨は一切めげたり落ち込んだりしていない風だった。
    「お昼は空いていらっしゃいますか」
    「昼?」
    「ええ。予定があるなら、出直します」
     生憎特に予定がない。適当に嘘を吐くのも心苦しい。少し悩んで、彼女は両手で辞書を持ち直しながら答えた。
    「何もないよ」
    「ではお迎えに上がります。……次は古典ですか」
     さらりと五月雨は答えると、彼女の手元を見てそう言った。
    「私の組と範囲が同じなら、今日出てくる助動詞の『る』は訳が難しいので注意したほうがいいですよ」
    「え、五月雨君のクラス、どこやってるの?」
    「徒然草の第一九段です」
    「じゃあ一緒だと思う。ありがとう」
     同じ学年だから、進度にあまり違いはあるまい。彼女が礼を言えば、五月雨は「いいえ」とただ返した。
    「ではお昼に参ります」
    「あー、うん」
     軽く会釈して、五月雨は自分のクラスへ戻っていく。その後姿を見て、彼女はやっぱり集会で見たことがあるなと思った。
     席に戻ると、隣の加州が気づいてこちらを見る。もう授業が始まるところだったが、彼はくるりと体を回して彼女に話しかけた。
    「珍しいのが来てたじゃん。あ、でもそっか、あんた去年からずっと図書委員だっけ」
    「え?」
     図書委員のどこに納得する要素があるのだ。椅子に座りながら彼女が問い返せば、加州は首を傾げた。
    「えって、五月雨しょっちゅう図書室で見るけど。違うの?」
     知らなかった……。彼女が閉口すると同時にチャイムが鳴り、担当教員が入ってくる。お昼、迎えに来るんだっけと黒板に書かれる品詞分解を書き写しながら彼女は考えた。十中八九昨日の話の延長戦になるんだろうなと思うとやや気まずい。やはり断ればよかっただろうか。
     ちなみに五月雨の言っていた助動詞『る』は可能で取ると誤用になるため、自発で意味を拾わねばならなかった。試験に出すからと担当教員が言っていたので、彼女はピンクの蛍光ペンでマーカーを引いたが、恐らくこの文を読むたびに五月雨のことを思い出すのだろうなと思った。



    「空いている教室でもよろしいですか」
     昼休みになってすぐ、五月雨はお弁当が入っているらしい包みを持って彼女のところへ来た。教室で二人で食べていると目を引きそうで嫌だ。それなら人のいない空き教室の方がまだいい。
    「あ、うん。大丈夫……」
    「行きましょうか」
     五月雨は何でもない様子で、彼女の教室を出ようとする。けれど二人して連れ立って出て行くのだから、十分それらしく見えるなと彼女は何となくミニトートを抱えてしまった。あまり目立つのは好きではない。だが出入り口の辺りで、クラスメイトの歌仙が五月雨に気づいて声を掛けた。
    「おや、五月雨。珍しいね。そういえば……すまない、借りている本なんだが、まだ読めていなくて」
    「いえ、構いませんよ。私はもう読んだ本ですから」
    「そうかい、じゃあ遠慮なくもう少し読ませてもらうよ。引き留めてすまなかったね」
     驚いた、五月雨はこのクラスにも知り合いがいたのか。これまで普通に学校生活を送っていて、全く姿を見なかったのに。
    「歌仙君と、知り合い?」
     何となく歩きながら五月雨に聞いてみれば、五月雨は「ええ」と頷く。
    「一年のとき組が同じでした」
    「あ、あれ……? 五月雨君、一年生のとき何組?」
    「四組です。あなたは二組でしたから、接点はありません」
     だから接点がないのになぜ……。彼女が再び「忍んでおりました」に疑問を覚え始めた頃、五月雨はカラカラと視聴覚室の扉を開ける。昼休みでそこには誰もいなかった。
    「ここでもよろしいですか」
    「あ、うん。平気」
    「どうぞ」
     手前にあった椅子を五月雨が引いてくれたので、大人しく彼女はそこに座る。五月雨はその前の席の椅子をくるりと回して、彼女の正面に座った。
     なにを話したらいいかもよくわからなかったので、彼女はただミニトートから取り出した巾着袋を開く。五月雨も特に何も言わずに同じようにして包みを開いていた。
    「いただきます」
    「い、いただきます」
     丁寧に五月雨が両手を合わせたので、彼女もそれに倣った。律儀に五月雨は小さく一礼までする。それから箸を手に取って、なんとなく昼食を食べ始める。食べている間は話さないタイプの人なのだろうか。暫く彼女はただお弁当の中身を空にすることに努めながら、五月雨の方を伺った。
     どんな人なのかほとんど知らないので、当然五月雨の顔もあまり見たことがない。見慣れない人といきなり一緒に昼食を食べているこの状況もよくわからないが、この際それは置いておこう。
     五月雨が表情があまり変わらない人なのだということはもう何となくわかった。昨日告白してきたときも真顔だったし、今朝もそうだ。
     柔らかな物腰で話すことをもう知っているため、彼女はさほど気にはならなかったけれど目元がきりりとしているせいか、鋭い印象を与える顔をしている。恐らく、向こうから声を掛けられなければ彼女が自分から話しかけることはなかっただろう。しかも……今しがた気づいたのだが耳に恐ろしい量のピアスが空いている。何故。この人は俳句なんかで賞をもらうような、文化系の人ではなかったのか。というかピアスは校則違反だ。
     そんなことを彼女が考えていると不意に五月雨が口を開いた。
    「随分小さいですね」
    「え、な、なにが」
    「弁当箱です」
     五月雨はじっと彼女の手元を見つめている。つられて彼女も自分の弁当箱を見下ろした。やや細めではあるかもしれないが、二段重ねの普通のお弁当箱だと思う。細いのは、小食だからではなく鞄に入れる都合だ。学生鞄に入れるのに、細長いほうがいい。
    「普通だと思うけど……」
    「そうでしょうか」
     確かに、五月雨の弁当箱と比べると小さいかもしれないが男子と比較するのはまた違うような。
    「その、五月雨君のと比べたら小さいってだけだよ」
    「そうですか」
     納得したのか、五月雨はまた昼食を再開する。やはりあまり食事中に話を積極的にする方ではないらしい。それからは黙って食べていたので、彼女もひとまずお弁当箱を食べるのに集中することにした。
     暫くすると食べ始めたときと同じように、ごちそうさまでしたと五月雨は手を合わせたので、彼女もまた同様に両手を合わせる。挨拶を終えると五月雨はお弁当箱を包み直した。
    「普段は、昼食を持参しているのですか」
    「え」
     お昼は持ってこないと保たないだろう……と考えてから、質問の意図に気づく。
    「あ、うん。あんまり買ったりはしないかな。登校の途中にどこかに寄るの好きじゃなくて」
    「何故ですか?」
    「面倒くさくない? 好きなものがいつも売ってるかどうかわからないし」
     あれを食べたいなあと思いながらコンビニかなにかに入って、「なかったなあ」となるとちょっとがっかりするし。それに有難いことに家族が欠かさず作ってくれている、というのもある。
    「確かにそうですね」
    「五月雨君、はいつも持ってくるの?」
     何を話したらいいかわからず、振られた会話を打ち返すことしかできないと思ったので彼女は五月雨に問い返した。五月雨はやや考えた後に、包みを結びながら答える。
    「基本的には、そうですね。朝が早いので、よほどのことがない限りは」
    「えっ、自分で作ってるの?」
     何を作っているのかちゃんと見ればよかった。まさか手作りだとは思わなかったのだ。
    「起きるのが早いので。いつも似通ったものですが」
    「す、すごいね」
    「ありがとうございます」
     話にひと段落着いてしまった。意味もなく彼女はお弁当箱を詰めたミニトートを両手で持つ。
     五月雨に聞きたいことがないわけではない。むしろありすぎるほどあるのだ。いつから自分のことを知っているのかだとか、忍んでいたって具体的にはなんなのだとか。
     そもそも、どうして自分のことが好きなのか、だとか。
    「……」
     いやしかし、昨日の今日で聞けないだろう。昨日は帰り道で声を掛けられて、返事をしてそのままだから、今日の昼休みより短い時間しか話していない。現在進行形で、彼女は今五月雨と一緒にいる時間は毎秒最長記録を更新しているようなものだ。
     気まずくて彼女は視線を下げているのだが、ちらりと五月雨の方を見ると背筋を伸ばしてこちらを向いていた。やりづらい。
    「古文の授業は、どうでしたか」
     気を遣ってくれたのか、五月雨のほうが話題を振ってくれたので彼女はホッと息を吐く。
    「あっ、そうだった、うん。先生が五月雨君が言ってた助動詞の話してたよ」
    「私の組でも言っていましたから」
    「教えてくれてありがとう。五月雨君は、古文得意なの?」
     短歌だとか俳句だとかで賞をもらうのだから、きっとそうなのだろうけれど。しかし五月雨のほうは首を傾げて少々考える。
    「いえ……得意だというわけではないのですが」
    「え、でも、五月雨君よく賞とかもらってるのに」
    「古典文学と詩歌は少々勝手が違いますから」
    「そうなんだ……辞書なしですらすら読めるものかと思ってた」
     正直彼女から見ればどちらも同じなのだ。けれど五月雨はふふと小さく笑う。口元に手の甲を当てたので、僅かに厚めの前髪がさらりと揺れた。あ、笑うんだ。当たり前のことなのに驚いてしまう。
    「いいえ。私も予習するときには辞書を引きます」
    「そ、そっか」
    「はい。もちろん英語も引きますよ」
     やや冗談めかした風で五月雨が言うので、彼女もつられて少し笑った。
     視聴覚室の外では、昼休みのためかやや遠いところで話し声や笑い声、足音なんかが聞こえる。それでも幸い、こちらには誰も近づいてこないようだった。
    「聞きたいことも、多いでしょうから。何を聞いてくださっても構いませんよ」
     静かに五月雨が言った言葉が、はっきり耳に届く。低く穏やかな五月雨の声は、どこか心地よい。周囲の喧騒から離れているからか、今は特に。
     やっとゆっくり顔を上げてみれば、五月雨は口元を緩めてこちらを見つめていた。
    「……そう言われると、今度は何聞いたらいいかわからなくなっちゃうね」
    「そういうものですか」
    「いやだって、知らないことばっかりだよ」
    「では知っていることを教えていただけますか。それ以外のことを答えます」
     うーん、と彼女はまた考えた。
    「名前と……二つ隣のクラスってことと、あと短歌と俳句でよく表彰されてることくらい」
    「少ないですね」
     そうは言っても、それ以外を知る余地が今のところないのだ。彼女からしてみれば、クラスが違ったとはいえここまで見たことのない同級生も珍しいくらいである。
    「でもそれって五月雨君が忍んでたせいじゃないの」
    「なるほど。それは盲点でした」
    「あ、でも図書室によくいるってさっき聞いた」
     とはいえこれもクラスメイトから聞きかじった情報であって、彼女自身の目撃情報ではないのだが。けれど五月雨は「ああ」と言ったので、間違いではないらしい。
    「本を読みに、よく行きます」
    「やっぱり短歌とか俳句とか詠むから?」
    「参考程度にはします。ですがそればかりではありません。他にも読みますよ。先週は昆虫図鑑を読みました」
    「なんで……?」
     昆虫図鑑は歌を詠むのに必要なのだろうか。全くわからない。しかし五月雨はどこか得意げにしているので、彼女はそれ以上追求するのをやめた。
    「た、短歌とか俳句っていつ詠むの? 部活? 五月雨君って何部だっけ。やっぱり文学部かな」
    「いえ、私は山岳部です」
    「文学部じゃないんだ……」
     文学部でもないのに短歌や俳句で賞を取り続けているのか。謎すぎる。というかこの高校に山岳部なんてあったのか。
    「山岳部って、えーっと……何するの?」
    「平日はあまり活動していません。月に二回定例会があるくらいなので、割と活動は自由ですよ。休日は月に一度程度ですが、山に登ります」
    「山に……」
     彼女には少なくとも、休日に登山をする選択肢はない。そこまで運動も得意ではない。
     不躾かもしれないと思ったが、つい彼女はまじまじと五月雨を上から下まで見た。運動が得意そう……と言えなくもないが、体躯はどちらかといえばすらっとして見える。山なんて言われるとつい、筋骨隆々の体型を想像してしまうのだが、これでも登れるものなのだろうか。
     かなり怪訝そうな目で五月雨を見てしまったが、それでも五月雨は楽しそうに微笑んで、彼女に続ける。
    「山に登り、歌を詠みます。天候などのその日の状態で頂上まで登り切れないときも、もちろんあります。ですから道中でも、中腹でも構いません。季語を探し、見つけて詠みます。山を歩くのはとても楽しいですよ」
    「季語? 季語って、俳句の?」
     ごくごく一般的な知識しかない自覚のある彼女であったが、「季語」という単語自体には覚えがあった。俳句を詠む際には必ず入れなくてはいけない、季節を象徴する単語のことだ。授業で習う。五月雨は一つ頷いた。
    「はい。ですが、そうですね、広義で言うのなら。歳時記に綴られていなくとも、あなたが美しいと思ったもの、好ましいと思ったもの、全て季語です」
    「……全部?」
    「ええ」
     切れ長の瞳を和ませて、五月雨は微笑みもう一つ頷く。
    「その辺に落ちてる葉っぱも、石も?」
    「ええ。あなたがそれを、好ましく思うのなら。なんなら山道の途中で拾った菓子の包み紙もです。ごみは拾うのが作法ですから」
     硬派な容姿の印象とは正反対に、五月雨は茶目っ気のあることもよく言うらしい。今のは多分そうだ。思わず彼女はくすりと笑ってしまう。ふふと五月雨も吐息のような笑い声をあげた。
    「今度一緒にいかがですか。私はお弁当も作れますよ」
     変な人には、変わりないのだろうけれど。でも、五月雨はとても不思議な人だ。
     自分と縁の遠い、あまり関わり合いにならないようなことを話されているのに。ひどく身近な、ずっと小さい頃から知っている懐かしい思い出を聞かされているような気持ちになる。とても親しい友人と話しているような心地になる。だから彼女は楽に答えた。
    「それって登山って言うよりピクニックじゃない?」
    「季語を楽しめるのであれば、大差ありません」
    「……そっか」
     少しだけ、本当に少しだけだが興味が湧いてしまった。相変わらず彼女にはちっとも五月雨のことがわからないし、運動は苦手なので心から気乗りがするかと言えばそうではないのだが。
     五月雨と一緒なら、もしかしたら楽しいのかもしれない。
    「予鈴が鳴りましたね」
     微かにチャイムが聞こえて、五月雨は立ち上がった。向きを変えていた椅子を戻して、彼女のほうに向き直る。
    「お付き合いいただいてありがとうございました」
    「ううん、こちらこそありがとう」
    「……よろしければ」
     右手に空になったお弁当箱の包みを抱えて、五月雨は学生服のポケットを探る。シンプルな透明のケースに嵌まったスマホを取り出す。
    「番号を教えていただいてもよろしいですか」
     傷もついていない、殆ど使っていなさそうな五月雨のスマホを彼女は見た。もちろん、彼女のスカートのポケットにも機種は違えど同じものが入っている。連絡先を教えることは簡単だ。
     でも、それは今後も連絡をしていいと彼女が自分から意思表示することになる。
    「……QRコードでいいかな、読める?」
     画面を操作して、彼女はメッセージアプリを起動した。はい、と自分のものを表示して差し出すと何故か五月雨は首を傾げる。
    「それはなんですか」
    「えっ」
     五月雨のスマホには、大多数のスマホに入っているはずのそのアプリのアイコンがなかった。
    「クラス内でどうやって連絡取ってるの?」
    「必要な連絡は電話がかかってきます」
     小学校の連絡網みたいだなあと思いながら、仕方ないので彼女は五月雨のスマホにアプリをインストールするところから始めた。



     ヴーっと長めにバイブレーションが鳴ったので、彼女はスマホを取り上げて画面を見た。やはり五月雨だ。
    「こんばんは」
     耳を当てると、もう聞きなれた物静かな声が響く。夜の八時か、恐らく五月雨はもう二時間もすれば寝るはずだ。驚くべきことに、五月雨は規則正しくいつも日付の変わる前には布団に入ってしまうらしい。
    「こんばんは……どうしていつも電話かけてくるの?」
    「こちらの方が話すのに早いので」
     この間せっかくメッセージアプリのインストールをして使い方を教えたというのに、五月雨は殆どそのアプリを使わない。いつも電話をかけてくる。本当に現代の男子高生なのだろうか。
    「それに携帯を定期的に見る習慣がないもので。すみません」
    「……なんか五月雨君って、江戸時代とか、その辺りで生きてそうだよね」
     彼女は呆れ半分からかい半分でそう言ったのだが、五月雨は何故かふふふと楽しそうに笑う。
    「いいですね。性に合っていると思います」
    「まあいいや。何か用だった?」
    「明日の放課後、お時間はありますか? 以前食べたいと言っていた饅頭を売っている茶屋を見つけたので、よろしければいかがでしょうか」
     ああ、あれ。彼女はほんの数日前を思い出した。五月雨が昼休みお弁当を食べ終えた後に良かったらと、饅頭をくれたのだ。家にあったものを持ってきたとかで、今度売っていた場所を調べてきてくれると言っていた。
     彼女はスマホを持ったまま部屋を中を歩き、鞄を探って手帳を取り出す。特に何もない。けれどさらに鞄の内ポケットを探って、彼女はタグのついた鍵を取り出す。
    「何もないけど、図書室に鍵を返しに行ってからでもいい?」
    「鍵、ですか?」
    「今日の委員会でちょっと用があって、書庫の鍵を借りっぱなしにしちゃったから」
    「わかりました。では私が図書室まで伺います」
     五月雨と何か約束するときは、待ち合わせではなく大抵教室までわざわざ迎えに来てくれる。手帳を閉じて鞄に戻すと、彼女はそのままベッドに座った。
    「下駄箱でもいいよ? 渡すだけで、すぐ終わるから」
    「いいえ、私があなたを迎えに行きたいだけですから。お気になさらずとも結構です」
     唐突にド直球が飛んできたので、彼女の喉がぐうと変な声を上げた。驚いた、驚いたし慄いた。
    「どうかしましたか」
    「う、ううん。わかった、じゃあ図書室にいる」
    「わかりました」
     密やかに、彼女は五月雨にばれないように小さく息を吐いた。調子が、狂う。五月雨が告白してきた日から、ガタガタである。
     本当に現代を生きる男子高生なのかと疑わしくなるくらい、五月雨は浮世離れしている上に、自分の気持ちを言うのに一切臆さない。恐らく反抗期だとかはなかったのではないだろうか。いや、あの夥しい量のピアスがその名残なのだろうか。
     とにかく、物怖じせずに五月雨は常にストレートで思ったことを伝えてくるのだ。語彙に奥ゆかしさはあるが、変わり玉がない。変な駆け引きやオブラートがない。だからいつも、彼女の喉はその都度潰れたカエルのような変な声を上げる。
    「では明日、伺います」
     彼女が衝撃をいなしていると、夜の闇と同じくらい穏やかな五月雨の声が言う。もう眠るのだろう、用件も済んだ。
    「あ、うん。わかった、待ってるね」
    「はい。それでは、おやすみなさい」
     ぷつりと通話が切れた。十分かそこらの会話だった。
    「……友達なら夜に十分くらい、普通に喋るよね」
     なんとなく彼女は口に出してしまった。
     というのも最近どうも、わからなくなってきてしまったのだ。スマホを手に持ったまま、彼女はベッドの上に仰向けに倒れる。白い天井をぼんやり眺めてから、彼女は着信履歴を見つめた。ずらりとそこには五月雨の名前が並んでいる。
     彼女は基本的に、「友達」とやり取りをするときはメッセージアプリを使う。文字やスタンプが主だ。その方が気軽なのもある。彼女の母親は「昔はメールだったのにね」なんて言っていた。
     けれど五月雨は、いつも電話を掛けてくる。そうして他愛ない話をなんとなくして、最後には必ず丁寧に挨拶をして通話を切る。
     変なことではないと思う。会話の内容にしても、その日の授業の話や、分かりづらかった予習の範囲を相談したり、他には今日のように明日の予定を聞かれたりだ。そんなのクラスメイトの女の子とだってやり取りする。だから別に、何もおかしくないはずなのだ。
    「友達、だよね……?」
     少なくとも彼女はそう思っているのだが、疑問符がどうしても消せないのはやはり、五月雨が既に一度彼女に告白をして「友達から努力します」なんて言っていたからだろう。彼女とてこの関係の発端を忘れているわけではない。忘れていないからこそ、困っているともいう。
    やはり、友達からよろしくと言われた状態でここまで仲良くしてしまっているのは、五月雨の気持ちを受け入れていることと変わらないのでは。
    「いい人だと、思うけど、なあ……」
     誰に答えるわけでもなく、彼女は一人呟いてごろりと寝返りを打った。じっと画面に表示されたままの着信履歴を見る。
     同い年にしては落ち着いていて、穏やかな五月雨は他の男子生徒よりずっと接しやすい。それに彼女は五月雨から自分の知らない俳句や、季語の話を聞いているのは好ましかった。五月雨の説明はわかりやすかったし、話し上手なのもあって彼女にも話題を振って真摯に聞いてくれる。
     だから五月雨と過ごす時間は心地いい。けれど「好き」かどうかと聞かれると、少々悩む。もちろんこのままではよくないことはわかっている。だが発端が発端なのだから、彼女が答えを出さねばならないのだ。
     長く長く息を吐きつつ、彼女はスマホを充電器に繋いだ。



     放課後、彼女はホームルームを終えるとすぐに図書室に向かった。五月雨が迎えに来ると言っているのだから、用事はすぐに済ませたい。司書教諭に委員会で鍵を借りたままだったことを伝えると、彼はああとすぐにそれを受け取った。彼が手にしていた湯呑を机に置いたので、彼女はその手のひらに鍵を置く。
    「わざわざ返しに来てくれたのか。すまないな」
    「いえ、すみませんでした、鶯丸先生。昨日そのまま帰ってしまって」
    「大したことじゃない、気にするな。だが、そうだな、少し留守を頼んでいいか」
    「え?」
     回転椅子から立ち上がった鶯丸は、傍にあったカーディガンを羽織ると何冊か本の入った手提げ袋を見せた。本に貼られているラベルの色が違う。高校の蔵書ではない。
    「うちの高校は傍にある公立の図書館からも本を取り寄せられるだろう。それで借りた本を戻してきたい。本当は当番の生徒に任せるつもりだったんだが、生憎今日は欠席だったらしい。風邪だそうだ」
    「あ、そうなんですね」
     それは仕方がない。彼女が了承すると、鶯丸は首からネームプレートを外して肩に手提げ袋を引っ掛ける。本を返さなくてはならない図書館は高校からそう距離はないし、すぐに戻るだろう。五月雨には申し訳ないが、少し図書室で時間を潰してもらうほかなさそうだ。
    「手が空いてますけど、何かすることありますか」
     彼女が聞けば、鶯丸はくるりと首を回した。彼女も一応図書委員だ。ある程度の作業はできる。すると鶯丸はカウンターの内側に積んであった書類の束を指さす。
    「ならそれをクラスごとに分けてくれると助かる、図書だよりだ。急ぎじゃない、茶でも飲みながらのんびりやってくれ。今日は今のところ来室者もいないからな」
    「わかりました」
     鶯丸が図書室を出て行って、彼女は空いた回転椅子に腰を下ろした。今日は天気もよくて、運動部は離れたグラウンドで活動している。そして試験週間でもない図書室は誰もおらず、何の音もしない。
     ふうと息を吐いて彼女は書類束を適当に取り、紙の端を捲るようにして枚数を数え始める。一クラス分は余部を含めて四十枚。彼女は十枚ずつ取って分けることにした。静かな図書室でさらさらと紙の擦れる音を立てながら二十枚目に手を掛けたとき、彼女の手元が不意に陰になった。
    「お待たせしました」
     来室者がいないため誰にも咎められることはないのに、小さな声で五月雨が言う。彼女が顔を上げると、いつものようにしっかりと詰襟のボタンを留めた五月雨がやや屈んでこちらを見つめていた。いつの間に来たのだろう。
    「五月雨君」
    「国語科の準備室に提出物を出しに行っていたので遅れました。すみません」
    「ううん、平気。来たの全然気が付かなかった、ドアが開く音もしなかったよ」
    「忍んでまいりました」
     悪戯っぽく五月雨が言うのに、彼女もくすくすと笑う。そうか、こんな風に物音ひとつ立てずにやってくるのなら、これまでの彼女も全く気付けなかったはずだ。
    「何をしているのですか?」
    「あ、そうだ、実はね」
     斯く斯く云々、今少し留守番をしている旨を五月雨に伝える。すると五月雨はそのまますぐ傍の机に鞄を置き、椅子を移動させてカウンターに座る彼女の正面に落ち着いた。
    「手伝います」
    「えっ、いいよ。五月雨君は本読んでても。先生も急ぎじゃないって言ってたし」
    「いえ、量も多いですから。今なら誰もおりません。貸出台の前にいても、邪魔にはならないでしょう。饅頭は逃げません、留守番をしてからにしましょう」
     手を伸ばして彼女の脇に積まれた図書だよりの束を取り、五月雨は上から順番にずらすようにしてそれを数え始めた。それから彼女同様に十枚ずつに分ける。
     カサコソと暫くの間、彼女と五月雨はそうして二人で作業を続けた。たまに廊下を誰かが歩いていく音がする以外はとても静かで、やはり図書室には誰も来ない。一学年分を取り分けた頃、彼女は一息ついて腕を伸ばした。単調な作業は眠くなる。五月雨もトントンと机の上で紙の端を整えながらこちらを見る。
    「疲れましたか」
    「ううん、ちょっと眠くなっただけ」
     答えながら首を傾けて伸ばしつつ、彼女は手元にある図書だよりに目を落とした。月に一回発行されるこれは、司書教諭の鶯丸が殆どの文面を作るけれど、一角だけ図書委員が担当して本を紹介するスペースがある。月替わりなので、今月は誰が担当だったか見たかった。だがそれ以外のことに気づいて、彼女は口を開く。
    「あ、被っちゃった」
    「何がですか?」
    「紹介しようと思ってた本。私の方が変えなきゃ」
     図書だよりを指せば、五月雨が覗き込む。確認して、「ああ」と小さく言った。
    「昨年は、児童文学を薦めていましたね。今年は何になさるのですか?」
    「え?」
     彼女は驚いて顔を上げた。確かに彼女は昨年このコーナーを担当したとき児童文学の一冊を載せたけれど、なんでそんなことを知っているのだ。しかしそう尋ねると、五月雨はさも当然といった様子で答える。
    「名前つきで記事が載りますから」
    「そ、そうかもしれないけど。去年の話だよ」
    「はい、去年の六月ですね」
    「ど、どうしてそんなはっきり」
     焦って尋ねれば、五月雨はふっと目元を緩めた。それから手にしていた十枚分の束を、向きを変えて混ざらないようにして重ねる。
    「図書だよりを読むのが、好きでした。小学生の頃から」
     実のところ、この図書だよりをちゃんと読んでいる人がいると、彼女は思ってもみなかった。けれどそう言われてみれば合点がいく。
    「……あ、ああそっか、五月雨君、本もたくさん読むんだもんね」
    「はい。ですから、高校に入っても目を通していて、去年の六月にあなたの書いた紹介文を読みました」
     囁くような、穏やかな声で五月雨が言う。その調子があまりに優しいものだったので、彼女は思わずどきりとした。
    「児童文学を薦めているのが珍しく、どんな方が書いているのか気になりました。それで紹介文の名前と学年を見て、二つ隣の組の方が書いていることを知りました。ですが二つ隣では接点がないので、図書室に、見に行くことにしました」
    「えっ、見に来たのっ?」
    「はい」
     ふふ、と五月雨は微笑む。腰を上げて、五月雨は彼女が座っているカウンターの正面に立った。彼女からはやや、五月雨を見上げることになる。委員の仕事で貸し借りの手続きをするとき、彼女はこうして誰かとやりとりすることが多い。五月雨は普段通りの低い声で、彼女に言った。
    「この本を、貸してください」
     それは彼女がもう何十回と聞いた、ありふれた言葉だった。
    「本を渡すとあなたは手続きをして返却日を紙の栞に書きこんで、挟んで渡してくれました。そのときとても、好きだと思ったので。一年と少し、忍んでおりました。ですがそれでは気持ちが伝わらなかったようなので、今は精進しています」
     そう締めくくると、五月雨は再び座って図書だよりに手を伸ばす。するするとまた紙の擦れる音が響き始めた。何事もなかったかのように、五月雨は図書だよりを数えて分けている。
     正直なところ、彼女は全くそんなこと覚えてはいなかった。図書委員としてカウンターの当番をしているときは、学年にかかわらず毎日それなりの生徒に本の受け渡しをする。一年以上前、五月雨が本を借りに来たことなんて記憶にない。
     けれど、今は。五月雨は彼女に毎日のように連絡を寄越して、昼休みや放課後、時間があれば一緒に過ごす。山に登った話を聞いたり、見つけたらしい「季語」の話を聞かせてくれたり、彼女は日ごと、五月雨のことを知っていく。
    「……五月雨君、友達は夜寝る前に電話して来たり、教室に遊びに来るくらいはするかもしれないけど、当たり前に好きって言ったりはしないよ」
     ぽつりと彼女は呟いた。
     五月雨は友達からよろしくと言ったのに、これではスタートラインからして友達ではない。そんな当たり前の、ちょっと狡いことに今更ながら気づいたのだ。しかし五月雨は澄んだ切れ長の瞳でこちらを見ると、何でもないように答える。
    「まずは友人から努力するとは言いましたが、友人止まりですと、私が困ります」
     なるほど、最初から押して押しまくるつもりだったらしい。ふっと彼女は思わず噴き出した。やっぱり狡いし、変わった人だ。だが少し意地悪をしたくなって、彼女は図書だよりを数えながら尋ねる。
    「五月雨君は、押して駄目なら引いてみろって、知らない?」
     すると五月雨は顔を上げて、ぱちぱちと目を瞬いた。
    「……引いてそのままになってしまったら、悲しくはありませんか?」
     摩訶不思議と言わんばかりの様子で、五月雨は首を傾げながら言う。正直なところ、彼女の常識の範疇をいつも超える五月雨に「何を言っているのですか」みたいな顔をされるのは心外である。
     しかし、しかしだ。
    「確かに」
     実際押されまくって倒れそうになっている彼女は神妙な面持ちで五月雨にそう返した。するとさらに念押しのように、五月雨がすかさず続ける。
    「はい。ですから早く私のことを好きになってください」
    「そうだねえ……」
     トントンと紙の端を合わせて揃える。自然とそう答えてしまってから、彼女は自分が「五月雨を好きになれたらいいと思っているらしい」と気づいたのだった。
    micm1ckey Link Message Mute
    2022/10/18 17:09:22

    押して駄目なら

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    #刀剣乱夢 #雨さに #さみさに #現代パロディ
    告白をお断りしたら「精進します」と言ってきた二つ隣のクラスの五月雨江の話。

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