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    ①君のことが好きすぎる

     世界一、幸せな恋をしている。たぶん。
     村雲江は執務室の手前で耳をそばだてた。これでも一応、いくら具合が悪くても忙しくなさそうな時間帯を見計らっているのだ。今のところ他に誰か刀剣がいそうな気配はなく、仕事が立て込んでいるような様子もない。村雲は部屋の中を覗き込んだ。
    「主、……お腹痛い」
    「あ、雲さん。大丈夫? 薬あるよ」
     顔を上げた彼女が言った「薬」には村雲は勢いよく首を横に振った。それには心当たりがある。確かにあの薬はよく効くのだが、今はいい、今はあれを飲みたくない。
    「畑当番も終わったからちょっと休みたい、ちょっとだけ」
    「そう? うん、いいよ、おいで」
     おそらく薬が入っているのだろう戸棚に手を伸ばしかけた彼女であったが、それはやめて村雲を招く。村雲は尻尾が揺れないように気をつけながら隣に腰かけた。別に自分と直接繋がっているわけではないのだが、この尻尾と来たらたまに村雲の意志に反して、気持ちに正直に動いているらしい。
     村雲が傍らに膝を抱えて座ると、彼女は何度か背中を摩ってくれた。温かく小さな手が上着の上を上下する。
     それが村雲は大好きだった。
    「まだまだ冷える時期だもんね。温かいもの飲む?」
    「ううん、ちょっとここで休んでれば、平気」
     重たくないように気をつけながら、村雲は少し彼女に寄り掛かる。彼女はそれに特に何も言わずに、机の上の書類を記入し始めた。そうしてたまにカタカタと鳴る「ぱそこん」とかいう機械の鍵を彼女が叩く音なんかを聞きながら、村雲は目を閉じる。
     無論村雲は彼女に想いを告げてなどいないし、恐らくこれからもそんなことはしないだろう。けれど村雲はこの現状に満足していた。腹痛を理由に忙しくない時を見計らって彼女を訪ね、少しの間隣に座らせてもらうだけで十分だった……のだが。
    「もう何度も言ったでしょう? 私は刀剣男士相手には恋しないって」
     厨の前で村雲は凍り付く。そもそも自分はここに何をしに来たんだったか、そうだ、この時間帯に厨に行けば主に菓子を持って行くよう頼まれることが多くて、それで。村雲が動けなくなっている間に、聞き慣れた彼女の声が追い打ちのように続ける。
    「……私はここにいる誰も、好きにはならないよ」
     ここにいる、誰も。
     村雲が言葉の意味をきちんと噛み砕いて理解する前に、彼女がこちらの出入り口のほうに歩いてくる音がしたので村雲は慌てて踵を返してそこから立ち去った。力なく垂れた尻尾が左右に揺れる。
     たぶん、世界一。幸せな恋をしている。
     いや、正確には、恋をしていた。なぜならたった今、告白する前から振られたからだ。


     実を言えば数日前から、雲行きの怪しさはあった。
     それは村雲の腹痛が少し収まって、執務室から厨に向かおうとしていたときのこと。その日は夕飯の当番だったのだ。
    「あの、ねえ、村雲!」
    「……加州」
     呼び止められて振り向けば、加州清光がそこに立っていた。思わず村雲はぎくりとする。お小言をもらう心当たりが村雲にはあるのだ。
    加州は彼女の初期刀であり、基本的にはいつも近侍を務めている刀剣男士だ。加州が近侍を外れるときは、誰かが新しい刀剣として顕現したときだけ。だがそれも期間が定められているし、完全に彼女の傍から離れるわけではなく、新刃が彼女に説明を受けている間も控えて仕事の補佐をしているくらいだ。
     そういうわけなので、村雲が腹痛で主の傍で休んでいるときは、当然加州も執務室にいる。そのときに加州が村雲に何かを言うことはなく、むしろ「またお腹痛いのー? 大丈夫?」なんて気にかけて声をかけてくれることが殆どなのだが、入り浸りすぎだと言われればその通りだ。それに入り浸っている自覚もある。
    「ど、どうかした?」
    「あー、えっと」
     いつもはきはきとしている加州には珍しく、言葉を濁して襟足を掻く。どうしたらいいのかわからず村雲も立ち尽くした。少しだけチクリと鳩尾のあたりが痛んで押さえた。緊張する。
     加州も村雲のその動作に気づいたのか、意を決したように唇を噛みしめて顔を上げる。村雲のほうが背が高いため、加州はややこちらを見上げていた。
    「あのー、村雲さ、……主はやめておいたほうがいいよ」
    「え……え?」
     やめておく、とは何のことだろう。村雲を見つめ、さらに気まずそうに加州は髪を払った。
    「あー、あーっだから、村雲、主のこと好きでしょ?」
    「……え?」
     ひくりと喉と同時に鳩尾が引き攣った。ストンと顔から血の気が引いたのがわかる。
     何故それを、いや、慌てたり焦ったりしたら肯定したのも同然だ。落ち着かなくては。とにかく深呼吸しようと村雲は口を開いたものの、しゃっくりをしたようになってうまく吸えない。
    「なっ、なん、で?」
     やっとこさできた返答はどもっていて、自分で顔を覆いたくなった。これではまるで駄目だ。
    「なんでって、気づかない方が無理っていうか、いやごめん、率直に言ってバレバレっていうか、ごめん」
     気づかない方が無理。率直に言ってバレバレ。
     加州は申し訳なさそうに告げたが、村雲にはトドメであった。いやしかし、問題はそれではない。もっとまずいことがある。
    「やめといたほうがいいってなに……?」
     この際自分の恋心が露呈していたことは脇に置いておいたとしても、止められる理由がわからない。お腹が吃驚し過ぎて限界を訴えているが、それを聞かずにここを立ち去るわけにはいかない。
     しかしその問いにやや動揺したのは加州の方だった。唇を微妙な形に引き絞って腕を組む。
    「あー、やっぱそうなるよね、それ聞くよね……」
    「えっ、なんで加州がそこで動揺するの」
    「いや、わかる、わかるんだけど、んー」
     やや逡巡した後に息を吐き、加州は腕を解いた。普段吊り上がっている加州の眉がやや下がる。あまり言いたくないことを口に出そうとしていることはよくわかる。そのたびに村雲の胃はしくしくと痛む。
    「……ごめん、これだけはわかっててほしいんだけど、村雲がどうっていうんじゃないから」
    「俺が、どうって」
     益々わからない、てっきり村雲は負け犬の自分に問題があるのだと思っていた。自分が主に釣り合わないのだと言われたら、反論なんてできない。事実そうだからだ。だから村雲自身も彼女に思いを伝えるつもりは微塵もなかった。それなのに何もしてないうちから止められるなんて。
    「本当に、村雲だからダメってわけじゃなくて、あー、あの、なんて説明したらいいか俺もわかんないんだけど! でもとにかく、……主はやめておいた方が、いいよ」
     ごめんね、と一言だけ告げて加州は踵を返した。村雲は結局何が何だかわからずに置いてけぼりにされてしまう。
     それが、数日前の出来事だった。
    「どうせ振られるから、やめといたほうがいいって、ことだったのかな」
     そして現在、村雲はお腹を抱えたまま戸を締め切った押入れの中で蹲っている。今日が非番でよかった。とてもじゃないが内番やらなにやらできる気がしない。
    「村雲、村雲」
     とんとんと襖を叩く音がしたが、村雲は背を向けて膝を抱えていた。この声は松井だ。
    「村雲、水分くらいは摂ったほうがいい。白湯があるから」
     白湯、と繰り返してみると耳元で別な声がする。
    「お腹痛いなら水より白湯の方がいいと思うよ」
     明るい、村雲が大好きだった声。じわりと視界が滲んで村雲は首を振る。着ていた内番の上着に目元を押し付けた。
    「いらない……」
     か細い消え入りそうな調子で村雲は答える。朝食は抜いた上に、昼食も少なめにしてしまった。村雲は元々小食なので、きっと周囲は気にしなかっただろうけれど。この分だと夕飯もいつもの半分以下程度しか食べられそうにない。
    「振られてしまって落ち込むのはわかるけど、それで具合を悪くして主が来たら困るのは村雲じゃないかな」
     薄暗く湿っぽい押入れの中で村雲は俯いた。それは松井の言う通りだ。彼女のことだから、村雲の体調がよくないと聞けばきっと様子を見に来るだろう。
     いや、それよりも。はたと気づいた村雲はシャッと慌てて押入れを開く。松井がすぐ傍に立っていた。
    「なんで俺が振られたって知ってるのっ?」
     焦る村雲を余所に松井は同情したような瞳でこちらを見て、静かに答えた。
    「……村雲、残念だけど君が主のことを好きなのは皆わかっていたよ」
    「う、うぅぅ……」
     力なく村雲は両手を着く。
     自分では密やかな恋のつもりだったのが、もう誰から見てもバレバレだったわけだ。スンスンと鼻を鳴らし、押入れの中段で縮こまる。押入れの板は黴臭い匂いがした。
    「穴掘りたい……」
    「雲さん、お白湯です、どうぞ。飲んで下さい」
     何かが傍に置かれる。今のは五月雨の声だ。ずるずると鼻を啜りながら顔を少しだけ上げる。涙で濁りきった視界に五月雨の紫の爪と湯呑が映った。指先で湯呑に触れる。熱すぎず冷たすぎず、適温だ。だが飲む気にはならずにまた俯く。
    「ありがとう雨さん……でも今はいらないんだ」
     何も食べたくないし、飲みたくない。気を抜いたらまた涙が出そうになる。だから息を止めて、蹲っているのが今は一番楽なのだ。
     けれど今は、お腹を押さえても楽にはならない。
    「それにしてもどうして、村雲じゃだめだったんだろうねえ」
     だがそんなのはお構いなしでズバリと言い切ったのは桑名だった。思い切り「だめ」という言葉が突き刺さった村雲は項垂れる。押入れの前に立っていた松井が勢いよく振り返った。どうやら畑から帰ったらしい桑名は、帽子を引っ掛けると畳の上に座り込む。
    「言い方が他にあるだろう桑名……。それより篭手切は。僕は篭手切を呼ぶように頼んだのに」
    「篭手切は皿洗いが終わったら来てくれるって。でも気になるよね。何か理由があって、駄目だったわけだし。だって主は闇雲に村雲を傷つけたりしないでしょお? ねえ、村雲」
     それは、そうだと思う。村雲は俯いたままで小さく頷いた。
    「そもそも主はなんて言ったの? 村雲のことが嫌いだって?」
     桑名の直球の問いに村雲は首を振った。そんなことは言われていない。
    「ち、違う。ただ、刀剣男士に恋はしないって……ここにいる誰も好きにはならないって……うぅ、だめだお腹痛くなってきた」
     思い出すだに辛くなる。自分で口に出したら追加の衝撃が来た。
     結局、自分は土俵に立ててさえいなかったのだ。刀剣男士だから、彼女のそういう対象にはならない。そもそも彼女は人間で、自分は刀。冷静に考えれば当たり前のことなのに、彼女の声で、言葉で、直接それを聞いてしまうとこんなにも悲しい。
     しかし村雲の落胆など全く気にもせず、松井と桑名は顔を見合わせた。
    「なんだ、直接断られたわけじゃないのか」
    「なんだぁ。そんなに落ち込むことでもないねえ」
    「え?」
     二振のあっけらかんとした反応に、村雲は思わず顔を上げた。やれやれなんて調子で松井は桑名の隣にどかっと胡坐をかくと、顎のあたりに手を当て考えこみ始める。桑名も腕を組んで首を傾げた。
    「思ったより大丈夫そうだ。篭手切を呼ぶまでもなかったかもしれない」
    「そうだねえ、主のところに行く豊前を止めておいてよかった。主に直接聞いてもこれじゃ話が通じないし」
    「も、もーっ、俺のことも気遣ってよ!」
     大したことないじゃないかと言わんばかりの二振の様子に、村雲は遂に押入れから降りた。こっちは本当に落ち込んでいるのだ。食事もおやつも喉を通らないくらいに。
    「雲さん」
     ぽんと五月雨に肩を叩かれる。村雲が眉を下げたままそちらを見れば、五月雨は微笑んでいた。手には先ほど村雲が飲まなかった湯呑を持っている。
    「二人とも、とても心配していたんですよ」
    「雨さん……」
    「どうぞ。今が丁度、飲みやすい温度だと思います」
     湯呑を手渡される。村雲はおずおずとそれに口を付けた。
     ……あったかい。それに何故だか、しょっぱい。ぐすぐすと鼻が鳴ってやっと、村雲はそれが直前まで自分が泣いていたせいだからと気づいた。
    「う、うぅ、うー……」
     またぼろぼろと涙が落ち始める。辛い、苦しい。だが背中を温かい手が一つ、二つ、三つ撫でてくれる。
    「大丈夫ですよ、雲さん。まだ直接振られていないのですから、もっと押せばいいんですよ」
    「強引だな……、でも泣いていたって仕方ない。村雲、これからどうするか考えよう」
    「まずはなんでだめなのか主に聞かないとねえ」
     でも、刀剣男士だからだめだと言われてしまえば、村雲には手も足も出ない。顔を上着の袖で拭う。どうしたって、村雲は刀なのは変わりない。そもそも刀のくせに、人間の主を好きになるなという話なのかもしれないが……。
    「そもそもどうして刀剣男士相手ではいけないのでしょう。審神者と恋仲になる刀剣男士は珍しくないと聞きましたが」
     五月雨の言にそうなのか……と村雲がぼんやり思っている間に、松井も首を傾げる。松井はいつも事務関連の手伝いをしていて、本丸内で顔が広く彼女とよく話をする刀剣男士でもある。村雲はそれに便乗して彼女に会いに行っていたこともあった。
    「これまで刀と何かあった、という話は僕は聞いたことはないけど。それに主はどの刀とも同じように親しいから、刀が苦手というわけではないだろうし」
     不思議そうに松井が呟く。
     村雲はまだ新入りであまり込み入ったことは知らないが、彼女は適性が見つかった一般人として審神者に就任してここに来たと聞いている。所謂神職とは関係なく、本当にただ「普通の人」だったのだと。
     だがそれでも中堅と呼べる程度には審神者として務め、戦績も維持している。本丸の運営は問題なく、刀剣男士との関係も今松井が言ったように良好である。程度はそれぞれだろうが、皆基本的に彼女に対しては好印象を持っている。刀だからと言って苦手意識を持たれていると感じたことは村雲も一度もない。
     するとそのときパタパタと小走りの足音が近づいてきて、村雲はそちらに視線を向けた。篭手切が手を拭きながら部屋に入ってくる。
    「すみません、お待たせして。さっきそこで、加州さんに会って、村雲さんを探していたようで……」
    「え? 加州?」
    「あー、やっぱり、村雲部屋にいた」
     篭手切の後ろから、黒い外套を脱いだ加州が覗き込む。この時間帯はいつも見回りやら何やらをしていて忙しいはずだ。しかし加州は村雲の姿を認めてホッと安堵して息を吐いた。だがそれも束の間、じっとこちらを胡乱な目で見つめる。
    「あんた、昨日俺と主が厨で話してるの立ち聞きしたでしょ」
    「うっ」
     ギクっと村雲が肩を震わせれば、加州ははあと長く息を吐いて天井を振り仰いだ。
    「やっぱり」
    「な、なんで」
    「俺が厨から出たときあんたが廊下の角曲がってくの見えたの。あんたのピンクの尻尾が!」
     思わず村雲は後ろを押さえたが、今は内番着なので生憎尻尾はなかった。加州は前髪をくしゃくしゃとしながらもう一度こちらを見る。それからまた息を吐いて今度は額に手をやった。
    「あー、あの……ごめん、本当。どこから聞いてたか知らないけど、聞いてて気分いい話じゃなかったでしょ」
    「あ、う、いや、その」
     それはもちろん、決して傷つかなかったわけではない。けれどそれよりも、加州にはもっと聞きたいことがある。けれど今更、それを聞いて何になるという話でもなし。
     村雲が俯いていると、ポンと一つ五月雨が背中を叩く。そちらを向けば五月雨が顔を覗き込んだ。
    「わん」
    「……わん」
     瞳を細めて五月雨は体を起こす。一呼吸置いてから、村雲は加州に尋ねた。
    「加州は主が、刀剣男士のこと好きにならないって知ってて。どうせ振られるから、主はやめておいたほうがいいって、ことだったの?」
     もう今となっては、そうとしか考えられないのだけれど。
    「……まあ、それも、そうなんだけど」
     座ってください、と篭手切に促されて加州は畳の上に腰を下ろした。胡坐をかいて、両手を口元に被せるように押さえると、長く息を吐く。少しだけ加州は疲れているように見えた。
    暫くじっとどこか一点を見つめた後、加州は手を口に当てたまま普段よりもやや小さいくぐもった声で言う。
    「あの人頑固でさー、一度言ったら聞かないの。別に刀剣男士と恋仲になる審神者なんか珍しくないし、政府からはっきり禁止されてるわけでもないんだしさ。最初っから、刀剣男士に恋なんかしないって言いきらなくったってって、俺も前から言ってるんだけど。全然、私はしないんだって聞かなくって。……でもそれだけじゃなくってさ」
     ちらりと赤い瞳が村雲を見つめた。やはりその目は数日前と同じように、どうするのがいいのか迷っている。
    「……村雲、幸せそうだったから」
    「え……?」
     苦笑して加州は両手を口元から外した。それから襟足を掻いて乱す。
    「主の傍にいるときさあ、本当に幸せそうだったから。このままだとものすごい、傷つくんじゃないかと思って」
     どうして、などともう村雲は尋ねることができなかった。ただ視線を下げてぎゅっと手を握る。
    「しんどいじゃん。刀だからって、断られんの。俺たちは刀以外の何にもなれないのに」
     ぽつりと、加州が呟く。
     刀以外の、何も。
     チクリと体に痛みが走って、村雲は反射的に鳩尾の辺りを押さえる。けれど痛んだのはそこではなくもう少し上、やはり胸の辺りだった。
     それを見て加州は一転しておどけるように両手を振った。
    「あっでも勘違いしないでよねー。俺は別に、主に対してどうこうってことはないから! 主のことは勿論好きだけど、そういうんじゃないし。……それに」
     何か言いかけたが、加州は首を振った。今関係ないや、と小さくぼやくとやはり視線を伏せる。
    「……とにかくごめん、いらないお節介して、余計傷つけちゃった。本当に、ごめん」
     頭を下げた加州のつむじが見える。聞きたいことは聞けたにもかかわらず、村雲の気持ちは晴れるどころか沈み込んだ。
     松井と桑名は何も言わずに考え込んでいて、篭手切は気づかわしげにこちらを見ている。五月雨だけが村雲に「顔色が良くありません、大丈夫ですか」と声を掛けたが、村雲は答えられなかった。
    「おー、なんだ、話は終わったのか? 来んの遅くなっちまったか? 悪いな、馬が暴れて時間かかって」
     そんな重たい雰囲気の部屋に、軽やかな足取りで帰ってきたのは豊前だった。今日は内番の馬当番だったのだ。腰に巻いた上着を締め直しながら豊前はドカッと腰を下ろす。外の空気の匂いがした。
    「村雲、まだ顔色悪ぃな。でーじょーぶか、なんだ、話終わったんじゃねーのか?」
    「……いや、まだだ、豊前。まだ村雲がどうするか決めてない」
     尋ねた豊前に、松井が代わりに答える。斯く斯く云々、ざっくりと聞いて豊前は自分のあぐらをかいた膝に頬杖を突いた。ちらりと加州も見やる。
    「ふぅん。まあ、わっかんねえけど」
     ぐっと体を倒し、豊前は村雲の顔を覗き込んだ。少し癖のついた前髪が揺れる。それから笑顔で言った。
    「どうすんだ、村雲。別に主がどう思ってたって、お前の好きにして、いいんだぜ」
     自分の、好きに。
     二度三度、村雲は鳩尾の辺りを摩った。あまり意味はない。ここは痛んでいない。
    「……あきら、めるよ」
     小さく、小さく呟く。だって、それしかない。
    「元々俺は負け犬で、主に釣り合うような刀じゃない、し。伝えるつもりもなかったんだから、諦めるって言うのも変な言い方だけど」
    「でも、村雲さん」
     篭手切が何か言いかけたのには、村雲は首を振った。
    「それに加州がそう言うんだから、よっぽどだよ。だから諦める、それに、それに……主は何も知らないんだから、俺の主のままでいてくれるし」
     ……そうだ。
     結局、村雲は彼女の刀剣男士以外の何者でもない。だから彼女が村雲を好きになることはない。けれどそれは、どう転んでも主は村雲の主であるということである。好きになってもらえなくても、彼女の刀ではいられる。
     篭手切はまだ口を開こうとしていたが、豊前はパンと自分の膝に手を置く。
    「そっか、お前が決めたなら、俺たちはそれでいいよ」
    「……」
    「でも気が変わっても、それはそれでいいからな。なんかあったら言えよ」
     それから勢いよく背中を叩かれて、痛いよと村雲は返した。だがそれで少しだけ、胸の痛みから気が紛れて、そっと息を吐いた。


     切欠は大変些細で、安直な出来事であると村雲もわかっている。だが二束三文の自分だから、それも仕方ないのかもしれない。それは少し冷える日の昼下がりのことだった。
    「……雲さん、どしたの、またお腹痛い?」
     多忙なはずなのに、いつここに来たやら。彼女はいつの間にか村雲の前に屈んでいた。実際問題として村雲の体は不調を訴えていたので、それに気づくだけの余裕がなかったともいう。とにもかくにも、声を掛けられた村雲が重たい首をもたげたとき、彼女は村雲の正面で同じように膝を抱えていた。彼女と村雲の膝の間には指が一本入るか否かという距離しかなく、村雲はぎょっとした。
    「主? な、なに……?」
    「膝掛はしてるね、部屋の暖房もついてるし。五月雨が点けて行ってくれたのかな」
    「……」
    「いつからこうしてるの? 座ってる方が楽?」
     昼食を食べて暫くしたころから、村雲はこうして蹲っている。今は何時なのだろう。時計を見るために首を回すのも億劫だった。
    「吐き気はするかな」
     黙っている村雲相手に、彼女は問い続ける。村雲は緩く首を横に振った。遠くで八つ時だと言う他の刀の声が聞こえて、一刻ほど自分はこうしていたのだなとぼんやり思う。
    「……構ってくれなくていいんだ」
     のろのろとした調子で村雲が答えれば、はきはきとこちらに尋ねていた彼女が初めて言葉に一拍置いた。村雲は再び額を膝の上に戻す。
    「……どうして?」
    「俺みたいな二束三文の負け犬なんか、主は構ってくれなくていいんだ。……忙しいんだから、もう行っていいよ」
     心配してくれたのはわかっている。わかっているが、事実彼女はいつも誰かしらに囲まれて、執務に当たっていたり厨や畑を手伝っていることが殆どなのである。
     こんなところで、蹲っている自分のために割く時間は一秒だってないはずだ。
     村雲が俯いている間、彼女は何も言わなかった。ただ少しして、薄暗い部屋に畳の上を歩く音が響き、さっきまで膝頭の辺りに感じていた体温がなくなって、彼女は行ってしまったのだとわかった。
     自分であんな卑屈な言い方をしたくせに。心配してわざわざ声を掛けてくれたのに。きっと気分を害しただろう彼女のことを想像して、ぎゅっと村雲は鳩尾の辺りの衣服を握り締めた。お腹が痛い。
     しかし、その衣服が皴にもならないうちに、出て行った足音は駆け足で戻ってきた。それも、何か刺激臭と一緒に。なにこれ。鼻のいい村雲は慌てて顔を上げた。
    「あ、お待たせお待たせ。ちょっとだけ換気しようね」
     彼女は何か盆に載せ、ガタガタと音を立てて片手で半開きだった襖を開く。一気に部屋の中で停滞していた空気が外に出て、代わりに新しい風が吹き込んだ。
    「ぅえっ、何それぇ」
    「現世の薬、お腹痛いのにはよく効くんだよ。薬箱の中にストックがあって良かった」
     鼻を押さえる村雲をお構いなしに、彼女は再び村雲の正面に座り込み、盆の上に置いてあった薬瓶の蓋を捻る。臭いが一層酷くなった。瓶の隣にあった湯呑からは少し湯気が立ち上っているところを見ると、注がれているのは白湯らしい。薬瓶から転がり出た一錠の黒い丸薬と湯呑を村雲に手渡し、彼女は元気よく言う。
    「はい、飲んで」
    「えぇ、これを?」
    「あ、熱いのだめだった? でもお腹痛いなら水より白湯の方がいいと思うよ。さっき飲んだけどちょっとは温くなってたし」
    「いや、でも」
     確かに熱いものはそれほど得意ではないが、そんなことよりこの、不思議な臭いのする薬を飲めという要求の方に抵抗を感じる。ごみやらなにやらの悪臭とは違うのだが、鼻を突くような、そんなもの。鼻の利く村雲にはかなりしんどい代物だった。
     だが、しかし。これは彼女がわざわざ自分のために用意して取ってきてくれたものである。嫌な物言いをしたにもかかわらず、戻ってきて渡してくれた。それをまさか匂いがきついから飲めないと突っ返すわけにもいくまい。
     ひくっと喉が引き攣ったが、村雲は意を決して息を止め口の中に丸薬を放り込み、湯呑を煽って一気に白湯で押し流す。程よくそれが冷めていたのがせめてもの救いだった。
    「にっ、苦い」
     ほんの僅かしか丸薬は咥内になかったはずなのに、特有の舌に残る苦みがあった。それに村雲が顔を顰めていると、おかしそうに彼女は笑う。それから手早く彼女はお盆の上に薬瓶と湯呑を戻した。
    「きっとすぐよくなるよ。おやつ……はやめておいた方がいいだろうから、取っておくね。夕飯まで休んでて。また呼びに来るから」
    「あっ、主」
     腰を上げかけた彼女の服の裾を、村雲は咄嗟に掴む。
     ごめんなさいを、言わなければ。棘のある言い方をしたことを謝らなくては。
     けれどどう言葉にしたらいいのかわからずに、村雲は結局口を噤んでしまった。村雲が負け犬なのは事実で、そんな自分に時間を割くこともないと思っていることもそうだ。だから、でも。
    「……その薬ね」
    「え?」
     ぽんぽんと村雲の手の甲を、彼女が軽く叩く。それから穏やかな口調で言った。
    「その薬ね、吐くと、緑色になるから」
     急に、全く関係ないことを言われた村雲は、まずその言葉の意味を受け止めることができなかった。
     吐くと、緑に。
     何が、今飲んだ薬が。
    「……えっ、えっ? 緑っ?」
     村雲が素っ頓狂な声を上げると、彼女はあははと楽し気にして今度こそ立ち上がった。
    「だから気を付けてねー」
     お盆を持って、笑った彼女は部屋を出て行く。暖気が逃げないように襖を閉めることも忘れなかった。微かにだが、薬の刺激臭はまだ少し残っている。
     安直な気持ちだと、村雲も自分でよくわかっている。けれどそれでも、村雲は、その日から……彼女のことがとても好きなのだ。
     いや、今日からは好き「だった」にしなくてはならない。村雲はとぼとぼと廊下を一振歩いていた。今は皆夕飯を食べている頃。だがやはり、食べる気がしなくて村雲は大広間から遠ざかっていた。
     朝食は抜いた、昼はいつもの半分以下。それなのにどうしてお腹が減らないのだろう。元々、食べる方ではないと言えばそうだけれど。
     でも、食事は主も一緒に食べる。
    俯いたままで村雲は足を進めた。当ては特にない。本当は、篭手切が大広間に行こうと誘ってくれたのだ。それを村雲は勇気が出なくて断った。あとで行くからと誤魔化した。だから部屋にいるわけにはいかないのだ。夕食を摂ったのかと聞かれて、食べていないと言えば皆心配する。
    とはいえこうして彷徨っていても、仕方がないのだが。
     足が重い。村雲は少し立ち止まったりしながら、大広間とできるだけ反対方向を目指した。執務室からも離れなければ。だが静かな場所にいると、考えたくないことをたくさん思い出してしまう。
    「後悔しませんか?」
     五月雨に、部屋を出る前にそう聞かれた。
    「私は、色恋のことはわかりません。しかし恋をして、幸せそうだった雲さんのことは知っています。私は一度出会った季語のことは忘れられません。雲さんも、そうではありませんか」
     ひたひたと靴下を履いた自分の足音が、ひんやりとした廊下に響く。冷えると若干背中がひりひりした。先程の豊前の景気づけだ。
    「でも気が変わっても、それはそれでいいからな。なんかあったら言えよ」
     気が、変わったら? 変わるって、一体何に。
    「気なんか、一回だって変わったことない……」
     足を止めて、小さく呟く。彼女を好きになってからずっと、一度だって。村雲は毎日彼女のことが好きだった。褒められれば嬉しくて、心配されていても幸せだった。
     それに、この本丸で村雲はまだまだ新刃の部類。更に言うならば名だたる面々が集うこの本丸では、村雲は二段も三段も劣る役立たずの負け犬……と村雲自身は思っている。そんな村雲に何ができる。何もできない。戦場で名を上げることなんて絶対に無理、細々と戦績を維持するのが精々だ。
     だから村雲は陰から彼女を見つめて、好きでいるだけでいいと思っていた。それだけで十分、満足なのだ。忙しくない時間帯を見計らって部屋に行って、少しでも傍にいさせてもらえれば。
     したがって、明日からも現状は何も変わらない。元々村雲は彼女に釣り合う立場などではなかった。気持ちを伝えられるような勇気もない、負け犬だった。それは自分が一番わかっていた。
     ああ、でも、本当に。
    「好きだったんだ……」
     本当に、ただ幸せな恋だった。傍にいるだけで、満たされていた。
     ほんの少しの間だけでいい、自分に向かって笑いかけてくれればそれだけで。無意識に尻尾を振ってしまうくらい。
     傍にいられることも、彼女の刀剣男士としてここにいることも明日からも変わらない。だが彼女を好きでいることを諦めなければならないというその一点だけで、こんなに苦しい。
    「お腹も痛くなってきた……」
     もう体調はめちゃくちゃだ。さっさと部屋に戻って、江の皆が帰ってくる前に布団に入っていてしまおうか。でもそれではきっと皆心配するだろう。一度も顔を見せないともなれば、彼女も変だと思うかも……。
    「雲さん!」
     そうしてあれこれ考えながら歩いていれば、突然ぎゅっと上着の背中を掴まれる。慌てて振り返ると、何故だか彼女がやや肩を揺らして立っていた。どうやら小走りで来たらしい。
     何故、どうして。ぎょっとして心臓が跳ね上がる。主は夕飯を食べている時間のはずだ。こんなところにいるのはおかしい。
    「うっ、えっ、主、なんで」
    「なんでって、朝も食べてないし昼も全然だったでしょ? お腹痛い? どこか具合悪い? 薬研に言ってあるから、体調悪いなら診てもらおう」
     なんで、そんなことまで知っているのだ。
     変に唇を引き絞ってしまう。この本丸に今何振の刀がいると思っている。それなのにどうして、その中のたった一振村雲の食事事情なんか把握しているんだ。他に気にすることなんて死ぬほどあるだろう。仕事だってあっただろう。それなのに。
    「な、なんで」
    「え?」
     普通にしなければと頭ではわかっているのに、顔が強張る。せめて涙をこぼすまいと唇をへの字に曲げたが、喉の奥が変に痙攣した。
    「なんで、優しくしてくれるの……」
     そんなの、決まっている。村雲が彼女の刀剣男士だからだ。
     そのおかげで村雲は彼女に大切にしてもらえるけれど、そのかわりに決して、自分の気持ちは届かない。
     視線を下に落としているせいで、村雲からは彼女の首から下しか見ることができなかった。一度、彼女が息を吸って吐いたのがわかる。こちらに手を伸ばしかけて、どうしようか迷ったようだったけれど、村雲の手を取った。
    「……そこまで歩ける? 少し話せるかな、雲さんが嫌じゃなければ」
     こんな時でも、話そうと言われると嬉しい。馬鹿、と村雲は自分で自分に言いたくなった。内番着で尻尾がなくてよかった。絶対にわかりやすく振っているはずだ。
     情けないやら苦しいやらめちゃくちゃになったままで村雲は一度だけ頷いた。頷いてはいけないのはわかっていた。
     でも、もうこれで諦める。これで諦めるからと自分に言い訳する。最後に、少し彼女と過ごしたい。
    「お茶は飲める?」
    「の、飲める」
    「温かい方がいいよね、ちょっと待ってて」
     彼女は自分の部屋まで村雲を連れてくると、座布団を示して自分は冷蔵庫を開けた。中から作り置きのお茶を取り出すと機械に入れて温め始める。
     大広間と執務室から離れようとした結果、彼女の私室の方に向かっていたらしい。村雲は今までそこに入ったことがなかったので、今度は緊張で落ち着かなくなってきた。執務室に二人でいるのとはわけが違う。ここは彼女が寝起きをしている部屋である。どうしよう、どうしたら変ではない。
    「私のマグカップでごめんね。はい」
    「あ、りがとう」
     村雲が一人で焦っている間に、彼女が戻ってきて器を渡してくれた。村雲が受け取ると、彼女はその向かいに腰を下ろす。
     いつも執務室にいるときは隣に座っていたので、真正面に彼女が来るのは久しぶりのことだった。じっとこちらを見られているのはそわそわする。村雲はひとまずもらったお茶を飲むことに集中した。
    「……何か聞いた?」
    「えっ?」
     一口二口器に口を付けていると、彼女から尋ねられる。何か聞いてしかない村雲は慌てて器をひっくり返しそうになった。おっと、と彼女が手を伸ばして支える。それから苦笑して言った。
    「いや、実は昨日、清光に過保護じゃないかって言われて」
    「……加州に?」
     どきりと心臓が跳ねる。それはきっと、村雲が厨で立ち聞きしていた会話だ。最後にあった彼女の衝撃の発言しか村雲は聞いていなかったのだけれど、どうやら事の発端はそれらしい。
    「具合が悪い子はできるだけ見ててあげたいから、過保護のつもりはないよって清光とは話してたんだけど。でもよくよく考えたら、厨でそんな話するものじゃなかったなって思って。時間的に誰か聞いててもおかしくなかったし」
    「う……えっと」
     村雲は嘘を吐こうと思えば吐ける方だった。得意とまでは言わないが、誤魔化そうとしたならばきっとそうできる。けれどそうしなかったのは、やはり彼女がどう思っているのか本当のところを聞きたい気持ちが勝ったからだった。
    「ごめん……最後まで聞いた」
     少し迷って、素直に白状する。
     彼女は器のお茶に口を付けてから、小さくそっかと答えた。
    「ごめんね」
     彼女から直接聞く謝罪の言葉は、やはりズンと大きく村雲の胸の辺りに刺さった。グッと奥歯を噛み締めて唇を引き絞る。先程から情けのないところは見られているけれど、ここで泣くのは流石にみっともなかった。
     ああ、本当に諦めなければいけない。彼女に直接こう言われたのだ。どうしようもない。……そっか、もう本当にだめなのか。先程までどこかで「それでも彼女に直接断られたわけではない」と昼に励まされた言葉に縋っていた。だがこれでは、どうにも言い逃れができない。
     失恋したのだなあとどこか冷静に村雲は思った。今日一日落ち込んでいて、涙も悲しみも底をついたらしい。あ、でもちょっと気になってることがある。いっそ平常心になった村雲は、するりと質問を口に出した。
    「俺の気持ち、わかってた?」
     加州にははっきりとばれていた。江のものもわかっていた。それで彼女が知らないということはあるまい。村雲の問いに、彼女はやや気まずそうに肩を竦める。
    「……私も流石に、人間やってて長いから。自分のことだから、そうなのかなあってくらいだけど」
    「そうだよね……」
     明日は畑当番を手伝おう。村雲は心に決めた。畑ならば必要な個所はどれだけ穴を掘っても叱られないはずだ。
    「ごめん、たぶん清光もそれ見かねたからそんなこと言い出して。私も雲さんが、もうちょっと具合よくなったらって思ってずっとそのままにしちゃってたし。大体皆そういう時期はあって、でもちょっと本丸に慣れたらある程度私の手を離れていくものだったから」
     彼女が焦って頭を下げたので、村雲も慌てて首を振る。別にそれは彼女が謝ることではない。
    「あ、主が悪いわけじゃないよ。心配、してくれたんだろうし」
     本音を言えば、気に掛けられているのが嬉しかったから、村雲もその可能性を見て見ぬふりして甘えていたのだ。村雲は彼女の刀剣男士で、彼女は審神者として村雲を構ってくれているとわかっていた。だからそれで満足するつもりだった。それだけで十分、村雲は幸せだったのだ。
    「……どうして、刀剣男士はだめなの?」
     ぽつりとどうしようもないことを聞く。往生際の悪いことだと村雲も理解していた。けれどきっと、この答えを直接彼女からもらわないことには踏ん切りがつかない。
     俯いたままちらりと向こうを伺う。彼女は特に気を悪くした風ではなかった。昼に松井が言っていたように、彼女は刀剣男士に対して等しく心を許しているし好意的に接しているように見える。だから刀自体が嫌いだというわけでは、ないと思うのだが。
    「言いたくなかったら、別に」
     無理に聞き出したいわけではない。村雲がそう言えば、彼女は首を振った。
    「ううん。何て言おうか考えてただけだから。大丈夫。理由を言わないのもおかしいし」
     一つ息を吐くと、彼女は持っていた器を倒れないように近くにあった机の上に置いた。それから静かに村雲に向き直る。
    「あのね、私、ここに来て九死に一生得ちゃったことあって」
    「うん……えっ?」
     あまりにも彼女があっけらかんと言ったものだから、最初村雲は何を言われたのか受け止め損ねた。彼女の顔を見つめても、にこにことしていて発言の内容の重さと表情が噛み合っていない。
    「えっ、きゅう、え?」
     九死に一生と言えば、命にかかわるような怪我を負ったと言うことだ。そんなの誰からも聞いたことがない。いつ、一体どうして。
    「お腹に傷跡残ってるよ、見る?」
     取り乱した村雲に悪戯っぽく笑って、彼女は服の裾に手を掛ける。村雲は更に混乱した。
    「えっ、お、お腹って」
    「あはは、冗談だよ、痕は本当に残ってるけど」
     くすくすとおかしそうに笑う彼女に、村雲は一気に脱力した。冗談、なんだ。真に受けて緊張した。
    「かっ、揶揄わないでよ……」
    「えー? 雲さんだってお腹見るかって聞いてきたことあるのにー」
     彼女は肩を揺らしながら膝を抱えた。村雲もなんだか緊張がほぐれて体勢を崩す。足が少し痺れた。背中の筋肉も強張っていたのかなんだか肩が重い。それからちょっとお腹が空いた。
    「まあ、何年も前のことだから。今はもうそのこと知らない刀剣の方が多いよ。知っててもわざわざ言わないでいてくれるし。運悪く襲撃に遭って、運悪く怪我をして、運良く助かった。それだけだから。本当にラッキーなことに、何の後遺症も残らなかったし、五体満足のままだし」
     そう言って彼女が手を握ったり開いたりするのを見て、村雲は安堵する。確かにそれは、幸運なことだ。普段会敵する時間遡行軍が彼女の前に現れるなんてことは、村雲は考えるだに恐ろしくてお腹が痛くなる。それにそこで死なれていたら、村雲は彼女に出会えなかった。
    「……よかった」
     ぽつりと呟けば、彼女は目を細めて微笑む。それからありがとうと返した。一息ついて、言葉を続ける。
    「でもそのときね、随分皆に謝られて」
    「謝る?」
     うんと一つ頷くと、彼女は顎を抱えた膝の上に乗せる。
    「皆ごめんって謝るの。知識がなくてちゃんと指示出せなかったこっちが悪いのにね。死ななくてよかったって、ベッドの傍で泣くの。……そのときね、私考えたんだ」
     じっと、村雲を通り越したどこか遠くを彼女の目が見つめた。
    「私は一番、強い主になりたい」
    「……強い、主?」
     村雲は思わず主の腕の辺りを見る。どう見積もっても村雲より細い。恐らく筋肉もない。健康的という点では問題ないのはわかるけれど、正直なところ、村雲の左手一本で捻じ伏せることができてしまう身体だ。
     すると村雲の視線に気が付いたのか、彼女は自分の二の腕のあたりを摩りながらちょっと体を引いた。
    「いや、物理的に無理なのは知ってるよ。そんなに見ないでも」
    「ごっ、ごめん、そんなつもりじゃ」
     焦って村雲が両手を振ると、彼女は唇を緩めた。どうやら揶揄っただけらしい。先程といい、以前の「吐くと緑」といい、どうにも彼女にはそういうところがあるようだ。
     空だねと言って彼女は村雲の器を取り上げると、立ち上がりまたお茶を注いで機械の中に入れる。機械が動く低い音が部屋に響いた。
    「私ね、皆のこと大好き」
     空気を震わせる稼働音と、やや橙色をした光に彼女の顔が照らされる。村雲はただそれを瞬きもせずに見つめていた。吐息ひとつ、一言もその言葉を聞き逃してはいけないと思った。
    「皆優しいし、私が的外れなこと言っても、失敗しても優しくしてくれるし、わからないことはちゃんと教えてくれる。頑張ったことはちゃんと、頑張ったって言ってくれる」
     そんなの当たり前だ。村雲はもちろん、この本丸にいる誰もが審神者である彼女が主としての任を果たしているのを知っている。
    「誰かがいなくなったら悲しいし、そうなってほしくない。それにここに呼んだのは私だから、ちゃんと、ここにいる皆のこと幸せにしたい。楽しく暮らして行けるようにしたい。それはここで主の私しかできない」
     あの人、頑固で。
     そう言っていた加州の言葉が村雲の頭を過る。きっともう、彼女が今から言うことは、誰が何と言っても曲げられたりしないのだろう。
    「戦えない私は、そういう風にしか皆に応えられない。そのために私は一番強くなりたい。皆が安心して戦って、ここで過ごせるように。だから他のことに、目を向けていられない。私は普通の人間だから、そんな余裕ない」
     チンと機械が止まって、彼女は扉を開けた。中から湯気の立ちのぼる器を取り出す。それから再び村雲の前に彼女は正座した。
    「でもね、大丈夫だよ」
    「え……?」
     器を差し出して、彼女は瞳を和ませる。
    「雲さんがここにいて落ち込んだり、辛いことがあったりしても。頼って大丈夫なくらいは、その分私が強くなるから」
     手を伸ばせば、彼女は村雲に器を持たせてくれる。
     あの日も、こうして湯呑を差し出してくれた。
    「だから大丈夫だからね」
     ことりと胸のあたりが温かくなる。今日一日、痛み続けていた場所。
    「……でも今私がそんなこと言ったって雲さんが気を遣うだけか。ごめんね」
    「い、や、その」
     温かな手が離れる。どうしよう。
     彼女の方は話を畳みに来たようで、少し考えこむようにして今後のことを言い始めた。
     もし、ここで彼女の言っていることを受け入れてしまったら。恐らく彼女の中で村雲の思いは、記憶として残りこそすれ、終わったことになってしまうだろう。村雲は彼女のことを諦めたことになってしまう。
     断られた以上、それは自然なことなのだけれど。
    「でも雲さんの主なのは変わらないから、もし困ったことがあれば、江の誰か伝いでも言ってくれればなんとか」
    「っじゃあ」
     器を握り締めて、村雲は言葉を絞り出す。緊張して酷くお腹が痛みだし、心臓もうるさい。
     けれどここで食い下がらなかったら、きっとこれからずっと後悔するだろう。
    「困ってる、から、助けてくれる……?」
     温かい飲み物を手にしているはずなのに、指先が冷えきっている。
    「もちろんいいよ。どうかした?」
     もう一度器を手で包んでから、村雲はそれを畳の上に置いた。
    「……俺のこと、好きになって」
     小さくて頼りない、情けない声だと自分でも思う。それでも口に出さずにはいられなかった。
     諦められない。そんなことできない。望み薄なのだと知っても、今の話を聞いてもなお、諦められる気がしない。
     視線を下げたままで、顔を上げることができない。彼女の唇が困ったように開いたり閉じたりするのが見えた。
    「……雲さんは、私のことどうして好きなの?」
    「え……?」
     予想外の質問が飛んできて、村雲は焦った。どうして。だって彼女は優しくて、村雲の主で、嫌いになる要素がない。それを説明すればいいのだろうか。
     しかし彼女は驚くほど冷静な声で続ける。
    「さっきも言ったけど、刀剣男士の皆は、程度は違っても雲さんみたいな時期はあるんだよ」
    「俺みたいな、って?」
    「『主の私』のことが、好きな時期」
     ゆっくり頭を持ち上げると、彼女は静かな瞳で村雲を見つめている。
    「勿論その気持ちは嬉しいよ。でもね、それは雛鳥の刷り込みみたいなものなんだよ。誰にでもあるの。段々ここの生活に慣れて、色んな仲のいい刀剣男士ができて、その体に慣れるうちに薄れる気持ちなの。それは悪いことじゃないし、ごくごく自然なことなんだよ」
    「刷り、込み」
    「……だからもしかしたら、雲さんは私のこと、『主だから』好きなのかもしれないよ」
     教え諭すように、彼女は繰り返す。叱っている風ではなく、ただそうなのだからと言い聞かせているようだった。
    「雲さんだって、前の主のことは好きだよね?」
    「それは」
    「悪人だって言っても、嫌いだなんて一言も言わなかったよ。大事にしてくれた相手なんだから、多かれ少なかれ、好きだって気持ちはあるんじゃないかな。それとね、同じなんだよ」
     唇が震える。彼女の言っていることに矛盾は一つもなかった。彼女は断ろうと無理を言っているわけではない。ただ理路整然と、村雲ではいけない理由を告げられているだけ。
    「嫌な言い方して、ごめんね。でも大事なことなんだよ。私が雲さんの主じゃなかったら、雲さんは私のこと好きになった?」
    「それは、でも」
     反論ができない。
     だってわからないのだ。村雲にとって、彼女はずっと「主」である。そうでなかった瞬間は一秒たりともなく、そうして出会って、これからもここでは「主」であり続ける。それ以上でもそれ以外でもない。ただ村雲の「主」なのだ。村雲だって、それで満足しようとさえしていた。
    「……でも」
     だったらどうして、この胸は痛むのだろう。この痛みに、何の意味がある。
     痛みは嘘を吐かないことを、村雲は知っている。ずっとずっと痛み続けたこの胸が、諦められないと言っている。
    「い、嫌だ。諦めない」
    「……雲さん」
     困って彼女が呟く。けれどきっと、彼女は村雲の主張を無碍にはしないだろう。真摯に刀剣男士に向き合うと決めている彼女だからこそ、諦められないと告げるのには意味がある。
    「だってずるい、主だって、主なの抜きにして自分のこと好きかって聞くくせに。俺を刀剣男士だからって断るのは、ずるい。俺が刀剣男士だからって、無理だって決めつけないで」
     屁理屈をこねて、子どもの駄々のようなことを言っているのはわかっていた。しかし彼女は初めて眉間に皺を寄せた。
    「……それは」
     彼女の両肩を掴んで縋る。やはりそれは村雲よりもずっと細く、少し力で押せば倒れてしまいそうだった。
    「……それとも、刀剣男士な上に、俺が負け犬だから」
    「違う!」
     焦って、けれどはっきりと彼女が首を振る。
    「違う、そんな風に思ってない。雲さんは負け犬なんかじゃないし、そんな理由で断るつもりじゃ」
     安堵して、ちょっと泣きそうになったのを村雲は堪えた。彼女はいつも、村雲の卑屈を否定してくれる。否定してくれるのを分かっていて聞いた。
    「じゃあ、諦められない。嫌だ」
     もう一度、村雲は繰り返した。
     情けなくて、どうしようもない主張なのはわかっている。彼女の優しさとひたむきさにこれ以上ないほど付け込んでいることも。頑固なのだと加州も言っていた。ちょっとやさっとのことでは、きっと彼女は折れてくれないだろう。
     けれどそれでも、諦められない。目をぎゅっと瞑り、彼女の肩に額を載せた。
     だって、君のことが好きすぎるのだ。
    「逃げないで。お腹、痛くなるから」
     もう十分、本当は痛んでいるが。
     一度、二度と彼女が呼吸するのがわかった。いくらか身動きをした気配もあった。しかし村雲は動こうとはしなかった。
    「……それ、ずるい」
     ウッと村雲は体を強張らせた。狡いのはわかっている。きっぱり断られたのを、反則して延長戦を申し込んでいるのだ。それは自覚がある。けれど今更後にも引けないので、村雲はそのままでいた。すると彼女のほうが諦めたように深く息を吐く。
    「わかった、わかりました。ずるいなあ」
    「えっ」
     わかりました? ということは了承してくれたのだろうか。村雲が慌てて体を起こすと、彼女は呆れたような、まだ迷っているような表情で片眉を上げる。
    「わ、わかったって」
    「これだけ言って駄目ならわかったって言うしかないじゃない」
    「じゃあ」
     パッと気持ちが明るくなったのも束の間、彼女はにこっと歯を見せて笑った。
     瞬間、嫌な予感が村雲の胸を過ぎる。
    「だから私より、雲さんが強くなったら考える」
    「……え」
     私より、強く。
     無論これは物理的なことを言っているのではないだろう。サッと顔から血の気が引いたのがわかった。強くってなんだ。
    「えっ、えっ何それ! 強くって具体的に何!」
     ぎゅっと彼女の袖のあたりを握って聞いても、彼女はにこにこと笑っているままである。
    「雲さんが私より強くなったら、私も雲さんのこと好きかどうか考える。その頃にはきっと雲さんも私のこと主として好きなのかどうかわかるだろうし」
    「えっ、いや、そうなのかもしれないけど、でも強くって何をどうしたら」
    「今雲さん、私より強いって言える?」
     そんなの一目瞭然である。あわあわとして彼女に縋っている時点で答えは否だ。
    「じゃあ頑張ってね」
     頑張るって何を。いつもは見ると嬉しくなる彼女の笑顔なのに、今は頭が痛くなってきた。
     だが諦めないと言い出したのは村雲の方であり、諦められないのも事実で。もしかして先程よりも事態が悪化したのではないか?
     お代わりのお茶を一息に飲み干すと、おやすみを言って慌てて村雲は彼女の部屋を飛び出した。皆もう部屋に戻っているだろうか。戻っていてほしい、誰か助けて。
    「雨さぁん、篭手切、豊前、松井桑名、誰でもいいからぁ」
     ばたばたと、けれどここに来たときよりずっと軽い足取りで、自分の部屋に村雲は駆け戻った。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/01/29 16:34:29

    ①君のことが好きすぎる

    人気作品アーカイブ入り (2023/01/29)

    #刀剣乱夢 #雲さに #女審神者
    審神者に振られても諦められなかった村雲江の話。

    本日はイベントお疲れさまでした。
    会場や通販にて拙作をお手に取ってくださりまことにありがとうございます。
    新刊は2種とも会場、通販共に完売いたしました。

    ささやかですがお礼として昨年3月に発行し、完売いたしました雲さに本を再録いたします。
    素敵なカバーイラストを描いてくださったななど様、ありがとうございました。

    改めまして、本日はまことにありがとうございました。

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