イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    初句四文字、字足らず


     週に二度、歌の会に通っている。なお、短歌俳句に興味はあまりない。
    「この辺りで、大丈夫です」
    「……そうですか、では失礼します。また、土曜に」
     五月雨さんがぺこりと頭を下げると、巻いていたストールが揺れた。律儀に毎回送ってくれなくてもいいのだけれど、あまり辞すのも感じが悪いかと思ってなんとなくいつも一緒に帰っている。
     ゆらりと足音も立てずに去っていく五月雨さんは、同じ歌の会に通っている、変わった人だ。



     国語は唯一の得意教科であったけれど、確かに私は文学部出身だけれど、国語ができる人間全員がその分野全体に明るいと思わないでほしい。文系だからと十把一絡げにするな。国語の中でも、専攻は細分化されるのだ。ちなみに私は近現代文学専攻で日本語学と古典文学は苦手だった。大学では学部必修の単位しかとっていないし、同じ近現代でも詩歌は別だ。
     どの学問でもそうであるように、リリックもメタファも専攻によって別言語になる。だから同じ日本語でも、文学部でも、私はあまりそれらに馴染みがない。
    「恩師の顔を立てると思って行ってくれませんか」
    「古今ちゃんがいけばいいと思う、専門だったんだし……」
     大学時代の友人からかかってきた電話に、私はやや困って返答した。
    「あなたのお住まいの地域の会なのですよ。私も行きたいのは山々ですが、都合がつきません。少し顔を出して、先生のお手伝いをしていただければ結構ですから」
    「でもなあ……本当にわからないんだよ」
    「その辺りはわたくしがうまく言っておきます、お願いします。歌仙もあなたならと言っているんですよ。今度また三人でお食事でもしましょう、わたくしたちで奢りますから」
     電話の相手は、学生時代同級生だった古今伝授である。仰々しい呼び名だが本名ではない。これは雅号である。私と古今ちゃん、そして歌仙は大学一年のときのオリエンテーションで横並びの席にいたのがきっかけで出会った友人だ。古今ちゃんと歌仙は詩歌専攻だったので、授業はたまにしか一緒にならなかったけれど、物腰が穏やかな古今ちゃんと人見知りでもよくこちらを気にかけてくれる歌仙は良い友人だった。
     そのつながりで、社会人になった今も時折連絡を取り合って顔を合わせていたのだが、今日の電話には困っている。なんでも、古今ちゃんと歌仙のゼミの教授のそのまたさらに知人の人が、自治体で開いている歌の会で手伝いを探しているらしい。それがたまたま私の住んでいる場所に近く、行ってやってくれないかということなのだ。
    「お仕事終わりの時間にちょっと、行って下さるだけで結構ですから。ご高齢の方も多く、自治体の公民館を借りているので、教室の支度をするのにも若い手が欲しいそうなんです。お願いします、ね、わたくしも歌仙も行けるときは顔を出しますから」
     本当に切羽詰まっているのか、古今ちゃんの声音を聞いていると居たたまれない気持ちになってくる。私ははあと溜息を吐いて、折れた。
    「……ごはん、焼肉ね」
    「ええ! ええ、もちろんです。何なら歌仙が料理して差し入れに持っていきます」
    「それで、場所と時間どこだっけ……」
     毎週木曜日と土曜日、木曜は夕方六時から八時まで、土曜は昼の二時から四時まで。公会堂の一室を借りているという歌の会。自由退出が可能で、出欠を取るわけでもなく、毎週何かを詠まねばならないわけでもなく、三月に一度くらいの頻度で歌会が開かれるので、その際は発表の場が設けられる。だがそれも全員が必ず参加しなければいけないわけではない。
     そのくらいやや緩い歌の会だった。古今ちゃんが言っていたように、顔を出すのは殆どが自治体の高齢の方々が主で、最初は身構えていた私のこともすんなり温かく受け入れてくれた。それは本当にありがたく思っている。
     だが、そんな中に唯一、同年代の男性が何故か一人だけ在籍して、しかも無遅刻無欠席で通ってきている人がいる。
    「こんばんは」
    「こ、こんばんは」
     公会堂の前で五月雨さんに会って、私は思わずどもって返事をする。六時の歌の会に間に合わせようと思うと、木曜日はできるだけ残業をしないようにしなければならない。古今ちゃんたちの恩師の友人だという品のいい初老の男性である先生は、「気にしなくて大丈夫ですよ」と言ってくれたのだけれど、歌の会を始める前には部屋に座布団を用意したり筆記具を並べたり準備がいる。そういう手伝いをするために呼ばれているのだから、開始時間に遅れるのは気が引けるのだ。だからできるだけ仕事を早めに切り上げ、会が始まる前に来ているのだが、そうすると必ず五月雨さんとばったり出くわす。
    「いつもお早いですね」
     鞄を置いて、靴を脱ぎ、五月雨さんと畳の上に座布団を並べていると、低い声で話しかけられ、ぎくりとしながら私は答えた。
    「あ、はい、たまに残業が入ったりするんですけど……五月雨さんもいつも早いですよね」
    「私は時間に融通が利きますので。準備を手伝っていただけて、助かっています。ありがとうございます」
     丁寧にお礼を言われて、私は「いえいえ」なんて曖昧に答えながら会釈した。歌会に来るようになって一か月と少しくらいだが、いまだに五月雨さんといるとなんだか緊張する。
     五月雨さんは、変わった人だ。
     とても、物静かな人である。確かに、和歌や俳句が趣味ですと言われれば「そうなんでしょうね」と納得する風貌をしている。しかし、基本無表情だ。笑顔はもちろん、他の感情を表情に出しているところを見たことがない。ついでに私は五月雨さんがスーツを着て歌の会に来ているところを、一度も見たことがない。ちなみに今日は黒いハイネックのサマーニットにベージュのチノパンだ。そんな風だから何をしている人なのかも知らないし、正確な年齢も知らないが、先生が「同じくらいだね」と言ったので同年代なのだと思っている。それから物静かな容姿に反して、耳に結構な量のピアスが空いていて怖い。
     だが、べらぼうに歌が上手い。それだけは知っている。
    「さみちゃんのお歌はいつも綺麗ねえ」
     今日の会に顔を出したおばあちゃんが言うのに、五月雨さんは穏やかに「ありがとうございます」と返す。歌のことはさっぱりわからないし、五月雨さんの作品は短歌も俳句も文語調、つまり普段話している日本語と乖離しているので、私には辞書を引かねばわからない単語も飛び出してくるため、パっと意味は取れない。それでもおばあちゃんの言うよう綺麗な歌なのは、私にもわかる。
     響きが、美しいのだ。言葉の流れや、一つ一つの単語が洗練されている。細かい技法がわからない私でさえそう思うのだから、歌の会のおじいちゃんおばあちゃんや、先生が褒める気持ちはとてもよくわかる。
     大きくは同じマンションに住んでいるけれど別な棟に暮らしているような、五月雨さんはそういう人だと私は思う。同じ文系同士、たぶん話せばそれなりに会話も続くかもしれないが、如何せん微妙に、とっつきにくい。悪い人ではないと、わかるけれど。
    「今日もお疲れ様、助かりましたよ」
    「いえ、先生もお疲れ様でした。ありがとうございます」
     八時で会がお開きになり、私は来たとき同様に座布団を片付ける。五月雨さんも、細々とした筆記具や文机だのなんだのを元の位置に戻す。おじいちゃんおばあちゃんたちは大抵家からお迎えが来るので、最後は必然的に私と五月雨さんと先生の三人になるのだ。
    「あなたを古今伝授さんと歌仙さんから紹介してもらえて、本当に助かりました。五月雨君、時間も時間ですからちゃんと彼女を送ってあげてくださいね。それではまた土曜」
    「はい、先生。ありがとうございました」
     ぺこりと五月雨さんが先生に頭を下げる。やっぱり一緒に帰らなくてはいけないか……。私は心の内でやや溜息を吐く。歌の会の手伝いは、最初思っていたより苦ではない。相変わらず歌のことはわからないことが多く、一つも詠めていないけれど、おじいちゃんもおばあちゃんも、先生も優しい。
     けれど毎週二回、五月雨さんと帰るこの時間が、どうにも緊張する。
    「近頃は暑くなり始めましたが、日が落ちるとそうでもありませんね」
     気を遣ってくれているのか、私が話題を見つけられずに黙っていても、帰り道はいつも五月雨さんが何か話してくれる。五月雨さんは夜空を見上げながら言ったので、私はそうですねと答えた。この辺りは住宅街で、夜になると静かだ。
    「あなたがいらっしゃるようになってから一月ほど経ちましたが、いかがですか。皆さんの歌を聞いていることが多いように思いますが。わからないことはありませんか」
     歌を詠んでいないことがばれている。私はやや気まずい心地になった。自由退出が可能で出入りも多く、私は手伝いに回っていることの方が多いのでそこまで気にされていないと思っていたのだが。
    「あっ、その、ごめんなさい。先生から聞いているかもしれませんが、私、文学部は文学部でも近現代文学の専攻で。短歌や俳句のことはそこまで詳しくないんです。通り一遍のことしかわからないので、詠んだりは、まだちょっと早いかなと思って……」
     短歌は五七五七七、三十一音。俳句は五七五、十七音。たったそれだけの言葉で自分の気持ちを表すのは、どうしても難しい。やってみれば、時間を掛ければ、少しずつは上達するかもしれないけれど、「ド」がつく素人の私はまだ、人前でそうして歌を詠むのは恥ずかしかった。
     元々、教室の手伝いとして呼ばれている。先生も無理に私に歌や俳句を詠ませようとはしない。だからこのままでも構わないかなと個人的には思っているのだけれど。しかし五月雨さんは立ち止まると少し考えて、ペンを取り持っていた手帖を開いた。
    「初夏の帰途、夜風に涼し烏龍茶」
    「え?」
     何か書きつけた手帖の頁をびりっと破り、五月雨さんは私に差し出す。罫線のない無地の一頁には流麗な文字で今五月雨さんが詠んだ句が綴られていた。
    「今の句は、意味が取れますか」
    「えっと」
     難しい言葉は特にない。少なくとも、辞書は引かなくて済む単語ばかりだ。けれどそんな、特に捻りもないような歌意で取ってもいいのだろうか。
    「初夏の夜の帰り道に飲む烏龍茶が冷たくて美味しい、くらいの意味でいいですか」
    「はい。その通りです。そのまま、詠みました。少し喉が渇きましたので」
     私が頁を持っている手を、五月雨さんが上から握る。
    「この程度で、いいのです」
    「……」
    「何か難しいことを詠んだり、知らない言葉や季語を選ぶ必要はありません。勿論新しい言葉や季語と出会うことは素晴らしいことですが。あなたが思ったことをそのまま、歌にすればいいのです。そのままで、お聞かせください」
     思ったことを、そのまま。そんなに簡単でいいのだろうか。
     五月雨さん、爪が紫色だ。私は不意にそんなことに気が付いた。綺麗に塗られている。自分でしているのか、少し気になった。
    「よろしければ、私と練習しませんか」
     気持ちのいい夜風に前髪を揺らしながら、五月雨さんが言う。身長の高い五月雨さんを見上げると、爪を同じように紫がかった瞳がこちらを見つめていた。
    「練習ですか?」
    「はい。私も何か、一句あなたに詠みます。その返事をして下されば、結構です。最初は五音と七音を守ることだけ、意識していればいいと思います」
     できるだろうか。けれどこの手伝いがいつまで務めるにせよ、短歌や句を詠まずにただそこにいるだけというのも味気ないような気は、確かにしていた。この一か月、週に二回、五月雨さんが欠かさず詠んでいた句を聞いている。自分が元居た畑とは違うのは確かだけれど、元々国語や文学が好きだった。社会に出てから暫く、それらとは遠ざかってしまっている。けれどもし、もう一度一週間のうち二回でも、好きだったものに触れられたら。
    「……拙いかも、しれませんが。それでもいいですか?」
     ほんの少しだけ、五月雨さんの瞳が柔らかくほころぶ。
    「勿論です。今日は暑かったので、家に着いたらお茶を飲んでください」
     そう言って、五月雨さんと別れる。
     歌、返事。私は手元に残った手帖の一頁を見つめた。ひとまず、部屋に帰ったら烏龍茶を飲もう。飲めば、何か思いつくかもしれない。私は少し速足で、自分の部屋まで戻った。



     おにぎり、だと四音。おにぎりや、で何となく最後に持ってこようか。
     私は指折り文字数を数えながら、お昼ご飯に持ってきたおにぎりを食べる。今日は木曜日なので、歌の会があるのだが五月雨さんへの返事がまだできていなかった。今目玉クリップで留めてある土曜の帰りにもらった句が、その日五月雨さんが食べたらしい昼食のそうめんのことだったから、私も昼ごはんのことを詠もうと思ったのだがなかなか難しい。受け取った五月雨さんの句はそれなりに溜まって、こうしてクリップでまとめてある。
    「……口寂し、白黒だけのおにぎりや」
     具を入れればよかった、の反省を込めて。
    だがこれだと季語がない気がする。おにぎりは季語ではないのだろうか。ポケットからスマホを取り出して調べようとしたとき、タイミングよく着信の表示があった。
    「もしもし、歌仙?」
    「あ、すまないね。君、仕事中じゃないのかい」
    「ううん、今昼休み。どうかしたの?」
     デスクから立って、オフィスを出る。歌仙が電話をくれるのは珍しいことだった。歌仙の実家は茶道の家元をしている立派なおうちで、歌仙も大学を卒業してから家を継ぐために修行をしている。あちらも出先らしく、背後でがやがやと声がした。
    「さっき、仕事で古今伝授に会ってね。話を聞いたから。僕も紹介した身だ、どうしているか気になって」
    「ありがとう。まだまだ全然、歌を詠むどころじゃないんだけど。でもそれなりに楽しくやってるから大丈夫」
     ホッと電話越しでも歌仙が安堵の息を吐いたのがわかった。本当に、ずっと気にかけていてくれたようだ。
    「そうかい……。楽しいなら、何よりだよ。同じ文系とはいえ、君は歌とはまた別な分野だったからね。僕も君の言う白樺だの無頼だのは最初よくわからなかった。だから君もそうなんじゃないかと、少し気になっていたから」
    「あはは、そう言えばそうだったね。私と古今ちゃんと歌仙と、いつも微妙に話が噛みあわなくて」
     でも、今なら少し。文字数に合わせて折っていた自分の指を見る。五音と七音、最近は数える癖がついた。
    「次会うときは……歌も詠めるようになってるかもしれないよ」
     私が冗談めかして言えば、電話の向こうで歌仙が笑うのがわかった。遠くから若師匠と呼ぶ声が聞こえる。今行くと歌仙が答えた。
    「わかった。では次に会うときには僕も君の言う白樺派を読んでおくよ」
    「ありがとう、じゃあまた、あっ、歌仙、おにぎりっていつの季語だかわかる?」
    「おにぎり?」
     歌仙は「ん」と少し考え込んだけれどすぐに返事をくれた。
    「季語だとしたら秋じゃないのかい、少なくとも今の時期じゃない」
    「あー、そうなんだ。わかった、ありがとう。じゃあまたね」
    「ああ、また」
     電話を切って、私はデスクに戻った。
     そうか、おにぎりは秋の季語なのか。じゃあ別なものにしよう。私はまた指折り文字数を数える。
    「それで、最初に書いてあるおにぎりの句が別なものに変わったのですね」
     私が会社のメモ帳に書いた句を読みながら、五月雨さんが言った。六時少し前の時間帯なので、まだ私と五月雨さんしか公会堂には来ていない。そろそろ先生が来る頃だろう。座布団や筆記具を用意して、私と五月雨さんは並んで座りそれを待つ。
    「硝子窓、日傘の下に野球帽。いいですね。あなたは涼しい部屋にいて、外の夏を感じたのだとわかります」
     穏やかな声で五月雨さんが私の句を読み上げるので、少々気恥ずかしくなる。歌のやり取りをするおかげで、私と五月雨さんは以前よりずっと親しく話すようになった。
    「仕事中によそ見をしてたとも言うけど……」
    「季語を探していたのは余所見ではありません。歌詠みの性ですから」
     しれっと五月雨さんが言うので、私はつい笑ってしまった。あまり表情が変わらないから、もっととっつきにくい人だと思っていたのだけれど、案外お茶目なのである。俳句でかわす言葉も、普段の会話も、柔軟に返してくれる。
     そのうちに「こんばんは」と先生が入ってきたので、私と五月雨さんは同じように「こんばんは」と返した。五月雨さんはすっと立ち上がると、先生に私のメモを見せる。
    「先生、彼女が詠んだ句です」
    「あっ、五月雨さん待って」
    「おや、あなたも句を読んだのですか」
     先生はしげしげとメモを読み始めたので、私はそれを取り上げるに取り上げられなかった。先生より上背のある五月雨さんは、体を屈め目を細めて一緒に見つめている。
    「まだ粗削りですが、良いと思いますよ」
    「ええ、私もそう思います。どんどん上達していますから、これから楽しみです」
    「きょ、恐縮です……」
     私が照れ臭いやら何やらで体を小さくしていると、先生はふふふと品よく微笑みぽんぽんと五月雨さんの背中を叩いた。
    「五月雨君に褒められるのは立派なことですよ。私の一番弟子ですから」
    「え、先生の弟子、だったんですか? 五月雨さん」
     てっきり、短歌と俳句が趣味でこの会に通っていると思っていたのだが。いや、この会に入って弟子になったのだろうか。しかし私が首を傾げたのを見て、先生はおやおやなんて五月雨さんを見る。
    「五月雨君、君、自分が歴とした俳人だと言わなかったのですか? 五月雨君は本も出している若手としては有望株の俳人ですよ」
    「……え?」
     にこにこしながら先生が五月雨さんを改めて紹介する。いや、先生も初対面のとき「同年代は五月雨君しかいませんからね」程度の説明しかしてくれなかったではないか。
     当の五月雨さんは五月雨さんできょとんとした風で首を傾げる。前髪がさらりと揺れて、やたらめったら耳に空いているピアスが覗いた。
    「言ったつもりでいました。お伝えしていませんでしたでしょうか」
    「き、聞いていませんですが!」
     恥ずかしい……! そんなプロ中のプロに自分の初心者丸出しの作品を読まれていたのだと思うと、顔から火が出そうだ。あわあわと口を開いたり閉じたりしながら、私は思わず一歩後ずさる。それを見た五月雨さんが何か言いかけて手を伸ばしたとき、がらりと公会堂の扉が開く音がした。
    「先生、さみちゃん、去年うちで漬けた梅ジュースができたのよお。ほら、あなたもあげるから飲んで。ここグラスあったかしらあ」
     近所に住むおばあちゃんだ。おばあちゃんは私にも手招きして、瓶に詰めたそれを出す。五月雨さんがサッとそちらに駆けよって、重い瓶を受け取った。私もグラスはあったかと部屋を出て探しに行く。
     梅ジュース、だと五音でちょうど歌に詠める。何となくすぐにそれを数えてしまって、私は苦笑した。



    「申し訳ありません、謝ります。本当に、言ったつもりでいました」
     帰り道、私のことを半歩後ろから追いかけるようにして五月雨さんが言う。何となく気まずく「今日もお疲れ様でした」と挨拶をしたのに、五月雨さんは律儀に私を送ってくれていた。
    「お、怒ってないです、別に」
    「ですが」
    「怒ってはない、ですけど」
     やはり少し驚いて、とても恥ずかしかった。本当は、自分が詠んだ句を誰かに見せるのも抵抗があったのだ。それが、プロの人相手だったのかと思うと今でも羞恥で死んでしまいそうになる。
    ちなみに先ほどお手洗いに席を立った時にスマホで調べたら、確かに五月雨さんは立派な俳人だった。通販サイトで著作が何冊か出てきて、驚きでちょっと跳ねた。
    「私に句を見られるのは、お嫌でしたか」
     ぽつりと、五月雨さんが問う。その声があまりに、寂寥感に溢れていたので私は思わず振り返った。五月雨さんは真っ直ぐこちらを見ている。そりゃあ、歌詠みを職業にしているならスーツなんて着る必要もないし、時間も融通が利くだろう。私はやっと納得する。
    「嫌じゃなかったですよ」
    「……」
    「そりゃあもっと早く言ってくださいよって、思いますけど……けど、私も聞かなかったですし、私は本当に、五月雨さんと句のやり取りをするのが楽しかったんです」
     この短い日数の間に、何度、指折り文字数を数えただろう。何か心が揺れるものを見るたびに、右の指を、左の指を折り曲げて。五と七を数え続けた。
    帰り道に、五月雨さんが渡してくれる手帖の文字を追った。ふとした時にまとめてあるそれを見つめて、なんだか特別な、素敵なものを持っているような、きらきらした気持ちになった。
     私は間違いなく、五月雨さんと句を読んでいる間とても楽しかったのだ。
    「……私も楽しかったです。あなたの句を読むのは、とても」
     五月雨さんは無表情ながら、はっきりと言い切る。最初に俳句を詠んでくれたときのように、夜風が五月雨さんの髪を撫でた。
    「先生……あの方の言う通り、まだまだ粗削りですが。その分率直で、素直で。あなたの詠む季語は美しいものでしたから」
     それはお世辞や、ごまかしではないと私にもわかった。何故なら、五月雨さんは嘘をつかないからだ。
    五月雨さんの詠む句は、綺麗。歌に対して知識のない私でもわかる。それは五月雨さんが心に嘘をつかないからで、言葉を尽くして、自分の気持ちを正直に伝えるから。だから五月雨さんがそう言うのなら、決して嘘ではない。
    「……はい、だから、怒ってませんし、嫌でもありません」
     私がそう言うと、五月雨さんはぱちと一度瞬きをした。それから静かに口を開く。
    「はい……わかりました」
     再び私が歩き始めると、五月雨さんの足音も響き始めた。八時を過ぎた住宅街は人気が無く、声も他の音も何もかもよく聞こえる。暫くの間、私と五月雨さんはそのまま歩いた。帰り道はいつも五月雨さんが何か話してくれるものだから、こんなに静かなのは初めてかもしれない。
    「……あ」
    「どうかなさいましたか」
     小さく私が言ったのを聞き漏らさずに五月雨さんが聞く。まだ五月雨さんの半歩先を進みながら、どうしようか一拍だけ悩んでから言う。
    「今日の句をまだもらってません」
     まだ、今まで通り句のやり取りをしたいという意思表示。歌の会に来るのをやめるわけにはいかないし、そうしたくもない。だから。
    「この間みたいにぱっと五月雨さんが浮かんだ歌、何か聞きたいです」
     今、何を思うのだろう。五月雨さんは。
     どんなことを考えて、何を私に伝えようと思うのだろう。変わらず一歩一歩進みながら、私は五月雨さんの歌を待つ。静かな夜道では風が緩やかに吹きすぎる音しか聞こえない。だからきっと、五月雨さんの紡ぐ言葉を余さず聞き取れるだろう。
    「……好きで、す」
    「……え?」
     ぴた、と足が止まる。半歩後ろから聞こえていた足音も止まった。
     今なんて言った。短歌や俳句の七五調にしては随分短かったような。というか、たった四文字しかなかったような。とんでもないことを言われたような。
     いや、流石に気のせいだろう。ごめんなさい、よく聞こえませんでしたと言おう。そうして私が振り返ると、五月雨さんはいつもの無表情ではあるものの若干驚いたように目を開いて、なんと頬と耳を真っ赤にした状態で突っ立っていた。
    「……」
    「……」
     私と五月雨さんは暫くの間、無言で顔を見合わせた。そうして場が膠着しかけたとき、どこかの犬がワオンと遠く吠えるのが聞こえる。その瞬間、五月雨さんは踵を返して全力で走りだした。
    「あっ、えっ、五月雨さん! 五月雨さん!」
     あんなに動ける人だったのか、知らなかった。私が追いかける間もなく、五月雨さんの背中はあっという間に遠くに消える。
    「じ、字足らず」
     誰もいなくなった夜道で私が言えたのは、たったそれだけだった。
    micm1ckey Link Message Mute
    2022/08/31 20:43:25

    初句四文字、字足らず

    同じ歌の教室に通う五月雨江の話。現パロです。
    こちらもpixivからの再掲です。

    #刀剣乱夢 #現代パロディ #雨さに #さみさに

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品