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    【Web再録】月には生活能力がない  月は食事をとらない   月は寝室を使わない   月は名を持たない 後日談 月は愛を知らない

      月は食事をとらない


     ああまったく、また食べていない。どうせ寝食も忘れて仕事に耽っていたんだろう。キッチンで鍋の中身を見た彼女は、ため息をつきながら蓋を閉じる。温めるだけで食べられるようにと、ビーフシチューにしておいたのに。季節がらまだ傷んではいないだろうが、何日か分をまとめて作っておいただけに、消費が厳しそうだった。だが捨ててしまうには食材がもったいない。
     この広い1LDKの部屋の主はどうせリビングで作業をしているのだから、ここからでも届くだろうと彼女はシンクの前で声を張り上げた。
    「三日月さあん! 夕ご飯、温めて食べてくださいって昨日言いましたよねえっ!」
    「うん? ああ、あいすまぬ。昨日は眠っていなくてなあ」
     そうだろうと思いました、と内心で呟きながら、彼女はIHコンロの電源を入れた。この量を消費するには、彼女も食べなくてはならない。結局この家でいつも食事を取る羽目になっている。
     家政婦派遣会社からこの部屋への勤務を命じられてから早一ヶ月。彼女の仕事は山積みだった。



     ずいぶん大きなマンションに一人で住んでいるものだなあ、と彼女は最初に思った。不動産屋でその売値を見たならば、彼女はおそらく目を回してしまうだろう。そのタワーマンションの最上階に、今回の派遣先の部屋はある。ロビーのインターホンで、指定された部屋番号を押す。一応派遣会社からどんな人が住んでいるかなどは聞いていたが、顔や声まではわからない。今春からこの仕事を始めた彼女にとっては、その部屋が初仕事になる。やや緊張しながら、呼び出しボタンを押した。
     ポーンという軽やかな音がロビーに響く。しかし返答はない。もう一度押してみる。反応がない。彼女は首を傾げ、会社から手渡された資料を改めて見直した。その部屋の主は大抵部屋にいて、あまり外出はしないのだとか。では部屋番号を間違えたのだろうか? と確認するも、合っている。彼女は不安になりながら、もう一度初めからインターホンの操作をやり直した。
    『……うん? 俺の部屋に用か?』
     五度目でやっと返答があった。若干のんびりした様子の男性の声である。彼女はほっと息を吐き、気を取り直してスピーカーに話しかけた。
    「家政婦の派遣会社から来たものです」
    『ああ、そうか。今日来る手はずであったか。あいわかった、上がってきておくれ』
     今日来る手はずだったかって……と彼女は一抹の不安を覚える。語調といい、何やら随分のんびりとした、というかマイペースな人のようだった。ロビーの自動ドアが開錠され、開く。エレベーターに乗り、最上階のボタンを押した。急激に上昇するエレベーターに、耳の 奥がキインと痛み始める。
     このマンションには階ごとにもオートロックがあるらしかった。セキュリティがしっかりしたところだなあなんて思いながら、再びインターホンを鳴らす。今度はすぐに開錠されてドアが開いた。さて、遂に初仕事の相手との対面である。
     どきどきとしながら、彼女は一度胸を押さえた。動きやすいような服装で来ているし、家事全般は得意だ。きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、最後のインターホンを押した。
     ガチャリと鍵の開く音がして、最初に彼女の目に入ったのは特徴的な美しい二つの目である。切れ長で、長いまつげに縁取られていて、その瞳の中にはまるで三日月が浮かんでいるような光を宿している。一瞬息を呑んでしまうほどの、その双眸。
     ドアから顔を出したその男性は、小柄な彼女を上から見下ろし、そしてやや驚いたように目を少しだけ見開いた。それからやんわり微笑んで言う。
    「やあ、随分若い女子だな」
    「は、はじめまして! 今日付けでこちらに派遣されたものです。よろしくお願いします」
     彼女がぺこりと頭を下げれば、男性は頷いて部屋の中へと招き入れる。小さくおじゃましますと呟いて、彼女は足を踏み入れた。そして息を呑む。何だこの部屋は。しかし男性にとってその光景は普通らしく、顎に手を当てて首を傾げている。
    「ううむ、俺は男手がほしかったのだがな。何か手違いがあったらしい」
    「え、ああそうなんですか? 困りましたね……」
     派遣会社からは何も言われていない。しかし男性の様子を見れば、自分はお呼びでないことは確かだった。初仕事が派遣ミスとは笑えない。
     しかし彼女はそんなことよりもこの部屋の惨状のほうが気になった。
    「いや、それ以前になんですかこの部屋」
    「うん? 何かおかしいか?」
     おかしいなんてものではない。
     正直足の踏み場がなかった。ゴミが散乱しているとか、そういう汚さではない。しかし所狭しと何かの資料やら何やらが広げられていて、どこをどう移動したらいいのかわからない。彼女は青ざめて部屋を見渡す。黒のタートルネックセーターにすらりとしたベージュのチノパンを履いたその美しい男性に、あまりにそぐわない荒れた部屋だった。
     「立派な広めの1LDKも、こんな使い方をされては部屋が泣くぞ!」なんて本当は叫びだしたかったが、そうもいかない。
    「普段からこうなんですか」
    「まあ、そうさな。これが基本だ」
    「どこをどう歩いているんですか」
    「そのあたりにほれ、細く道が開いているだろう」
    「まさか寝室までこうじゃないですよね?」
    「寝室……は使っておらんからな、わからん」
     どうやらその男性は、作業をしているらしい窓辺の三人掛けソファでいつも眠っているようだ。背もたれに毛布が投げられている。身長の高い男性のようだが、納まっているのだろうか。それ以上にあんなところでずっと眠っていたら、体を壊しかねない。
     もしや、と思い彼女は慌ててキッチンを見に行った。案の定、使われている形跡はまるでない。IHコンロの上には埃がうっすらと被っている。辛うじて、電子ケトルにだけはお湯が入っている。しかし傍にあるのは一人暮らしの男性にありがちなカップヌードルなどではなく、紅茶や緑茶の茶葉とポットだけだ。まさか、これだけで生活しているのではあるまいな。血相を変えて、彼女は男性を振り返る。
    「あのっ、普段何食べてるんですか!」
    「うん? 仕事に集中している際はあまり食べぬからなあ。今はちょうどそのときだ、はっはっは。そういえば腹が減った」
    「そりゃあそうでしょうね!」
     慌てて冷蔵庫を開ける。当然だが空だった。一縷の望みを託して戸棚を開く。彼女はその場に拝み伏したくなった。パスタがある……!
     調味料はそろっていた。この際何でもいいからこの人に固形物を食べさせなければと考えた彼女は、戸棚からオリーブオイルやらブラックペパーやらを引っつかみ、コンロ同様に埃を被っていた鍋を取り出した。それをさっと簡単に洗って、布巾でIHコンロを拭いて、湯を沸かす。目にも止まらぬその勢いに、男性はただ後ろに突っ立って小さな背中を見つめ続けていた。上着も脱いでいなくて、初めて来た家のキッチンなのに、手際よく料理をしているその背中を。
    「お皿! お皿出してください!」
    「あいわかった」
     しばらく手もかけていなかった食器棚を開き、男性は彼女に皿を差し出す。彼女はそれを受け取ると、トングで器用に盛り付けた。まったく、調理器具も調味料もそろっているのに、欠片も使用された形跡がない。非常にもったいないことだ。本や資料の山を崩さないように彼女はそれをテーブルに運ぶ。ちなみにテーブルも色んなものが散乱して、場所を空けるのに苦労した。申し訳程度に片づけたそのテーブルに、出来立てのオイルパスタとフォークとスプーン、それから水を置く。男性はしげしげと湯気を上げるそれを見て、ソファに座る。彼女はやっと一息ついて上着を脱いだ。
    「食べても良いのか?」
    「はい、召し上がれ」
    「ふむ」
     生活能力が全くない人なのかと思っていたら、意外にも男性の食べる所作は美しかった。食欲がないわけではないらしい。むしろよく食べる方のようだ。一口咀嚼したら、男性は夢中でパスタを食べ始めた。鍋とフライパンを片付けるため、彼女はキッチンへ戻る。
     しかしそれにしても、彼は「男手が欲しい」と言っていた。派遣会社の上司からはそんなことを言われなかったが……と彼女は首を捻る。ともすれば事務所に報告がいくかもしれないなあ、なんて考える。初仕事が空振りに終わりそうなのは残念ではあった。それにさっきの男性は、随分美味しそうに彼女の料理を食べてくれたのだ。
     置きっぱなしだったケトルも濯ぎ、ポットも洗う。そうしていると、男性が食器類を持ってきてくれた。綺麗に食べきっている。にこにことしながら、彼は「馳走になった」と言う。
    「いやあ、あいすまんな。美味かったぞ、礼を言う」
    「いいえ、お粗末さまでした。それで、男手が欲しかったんでしたっけ」
    「ああ、そうさな」
    「事務所には私が言っておきます。そうしたら代わりの人が来ると思いますから。とりあえずこれ片づけるんで待っててくださいね」
     そう言って続きをしようとすれば、男性はキッチンに投げてあった彼女の上着を手に取った。それからハンガーを取り出し、この部屋で唯一まともに使われているらしい衣装掛けに吊る。
    「いいや、それには及ばぬ。今日からそなたに来てもらおう」
    「え? いいんですか?」
     ああ、と彼はにっこり笑った。
     左側だけやや長い前髪に、特徴的な切れ長の瞳。すらりとした体型の美しい人。何の仕事をしているのかはわからないけれど、随分手のかかりそうなことは見て取れる。
    「俺の名前は三日月宗近。よろしく頼む」
     そうして三日月は水の滴る彼女の手を取って、握った。


    「三日月さん、毎日言ってるじゃないですか。ご飯は毎日三回食べて、夜はベッドで寝るんですよ」
    「はっはっは、あいすまんなあ。今ちょうど仕事が佳境なのだ」
    「それでもちょっとくらい食べられるでしょう? まったくどういう体してるんですか」
     温めたビーフシチューを、三日月は嬉しそうに口に運ぶ。昨日の昼から絶食しているなら、何を食べても美味しいでしょうねと彼女は思った。
     彼女の派遣先の部屋に住む三日月宗近と言う男性は、非常に不思議な人だった。
     まず殆ど家から出ることはない。買い物もおつかいも、家政婦である彼女任せだった。彼が熱中して進めている「仕事」も部屋から出ずにできるものらしい。傍にある本や資料をめくり、何やら書いたりなんだりしているが、彼女にはさっぱりわからなかった。どうやら外に出るのはあまり好ましくないらしい。
     食べるのは好きだが、何かに集中していると疎かになる。二日や三日の間ならば、平気で紅茶とクッキーだけで過ごしてしまうような人だ。甘いものが好きで、冷蔵庫は空でも戸棚に甘味は常備されている。その割に体はがっしりしているのだ。あの体は全部お菓子でできているのではあるまいか。
     しかし食事を作っておいても、彼女が帰ってしまうと食べない。作り置いた夕食は、大抵彼女が三日月と一緒に昼食として食べてしまう。学習した彼女は、最近はしっかり三日月が夕食を食べるのを見届けてから帰宅することにしていた。残業にはなるが、まあ仕方がない。それよりも三日月が何も食べないほうが気になる。
     高級なタワーマンションの最上階。一人で住むには快適だろう高い天井の1LDK。しかしその持ち主はこんなにも生活能力がない。
     食べ終えた食器を片づける。派遣二日目、腕が千切れるんじゃないかと思いながら彼女は食材を買い込んできた。冷蔵庫はものの見事にもぬけの殻なのだから、最早何がいるのかもわからない。野菜、卵、牛乳。要りそうなものはすべて買ってきた。彼女が食材を買ってきたいと言えば、「好きに使うがよい」と三日月は自分の財布をひょいと差し出した。その中身の多さにも戦いたが、一応出会って二日目の他人にあっさりそれを渡してしまう三日月にも頭がくらくらとした。どこまでも浮世離れしている。
     部屋の中は、初日よりはやや片付いていた。本は棚に納まる量ではなく、仕方なしにとりあえず判型通りに並べる。紙でバラバラとした資料はクリップで留めて積み重ねた。それだけでだいぶ足の踏み場は増える。本当はもっとすっきりさせたいのだが、これ以上はどうしようもないのでそのままにした。寝室は本当に使われていなくて、ベッドしかないことにも二日目に気付いた。人間的な生活を送れるかと言えば疑問だが、ここは家政婦としては仕事のしがいのある部屋ではある。
    「三日月さん、今日のおやつは何にしますか」
    キッチンからそう問えば、デスクに向かっていた三日月は顔を上げて彼女の方を振り返る。どんなに集中していても、三日月は「おやつ」という言葉は聞き洩らさない。
    「何ならばできるのだ?」
    「昨日はホットケーキでしたからね、今日は違うのにしましょう。林檎があるんですけど、甘く煮たのでいいですかね。ヨーグルトでも添えますから」
    「おお、美味そうだ。そうしておくれ」
    「わかりました」
     暖かくなってきたから、冷蔵保存していた林檎を終わらせなければならない。余ったらジャムにでもしようと思っていたのだ。彼女は細かく林檎を切って、砂糖と一緒に鍋に入れる。シナモンも少しだけ混ぜた。ぐつぐつとそれを煮ながら、彼女は仕事をしている三日月の背中を眺めた。
     仕事をしているときは、三日月は一切周りを見ない。ただ一心不乱にデスクに向かって何かをしている。もっとしっかりしてほしいとは思うが、その一方であの集中した表情を見ると寝食を忘れるのも仕方がないかと納得してしまう。
     甘い匂いが部屋に漂い始めても、三日月はずっと作業をしていた。たまにぱらりと紙をめくる音が響く。本や紙に埋もれ、ほんの僅かな調度品しか持たないこの部屋の主。彼女にはまるで、三日月は別世界の人間だった。
     出来上がった林檎のコンポートをヨーグルトの上に盛り付け、ついでに蜂蜜もかける。まあちょうどよく糖分補給になるのではないだろうか。淹れた紅茶と一緒にそれをデスクの近くまで持っていく。そのとき、窓から光が差し込んだ。
     はっと彼女は息を呑む。三日月のデスクと、半分寝床になりつつあるソファは窓辺にあった。差し込んだ春の暖かな日差しに、三日月の艶やかな髪が反射する。外に余り出ないせいもあり、白い肌はまるでその光に溶けてしまいそうだった。あり得ないと分かりつつも、いつかこの人はこうして消えてしまうのではないかなんて考えてしまって。
     一歩後ずさった拍子に、カチャリと手にしていた食器が音を立てた。ちょうどよくペンを置いた三日月がそれに気がついて、ふいと彼女のほうに首を向ける。思わず彼女はどきりとしてしまった。
    「おお、すまんな。おやつか?」
    「あ……はい、そうです」
    「甘くてよい匂いがするなあ」
     ふふふと幸せそうに唇を緩め、三日月は彼女からヨーグルトの入ったガラス容器を受け取った。林檎を口の中に入れ、表情を蕩けさせる。そんな様子を見て、彼女はつい言ってしまった。
    「……散歩に、行きませんか? 三日月さん」
     三日月はぴたりとその動きを止める。それまで嬉しそうだった顔が、険しいそれに変わった。機嫌を損ねただろうなと言うことはわかったのだが、それでも彼女は言葉を止められなかった。だって、本当に三日月はここから離れて行ってしまいそうだったのだ。
    「そろそろ温かくなってきましたし、桜も咲きます。お弁当作りますよ、お花見なんてどうですか」
    「……いいや、花ならそなたが見てくると良い。どうだったかは後で聞かせておくれ」
    「でもたまには外に出ないと、病気になりますよ」
    「もう何年もこうしているが、病になぞかかったことがないが」
    「それでも」
     カン、と強い音を立ててガラス容器がデスクに叩きつけられた。彼女の肩がびくりと震える。
    「行かん」
     じっとあの、月の光を宿した瞳がデスクの一点を見つめていた。よく見ればガラスにはひびが入っている。もう何も言えなくなってしまった彼女は、踵を返して上着を掴み、そのまま部屋を後にした。
     そうしてそれから三日、事務所に担当を変えてくださいと言ったきり三日月の家には行かなかった。


     小春日和、桜の花びらがひらひらと舞っている。薄く色づいたその花びらは、三日月の透き通った肌を思い起こさせた。今更そんなことを思い出しても仕方のないことである。だが彼女はそれを考えざるを得なかった。
     ご飯はちゃんと、食べているのだろうか。ソファではなく、ベッドで眠っているだろうか。部屋の資料や本は、キチンと片づけているのだろうか。
     一度、三日月が眠っているときに部屋に入ったことがある。オートロックがいくつもあり、インターホンで解錠するのが億劫だからと三日月は彼女に合鍵を渡していた。それを使って出勤した折、あの窓辺のソファで目を閉じている三日月を、彼女は一度だけ見たことがある。黒く艶やかな髪がさらさらと落ちて、長い睫毛がたまにそっと震えて。寝違えてしまいそうなそのソファで、彼は毛布にくるまって眠っていた。
     その寝顔を見たとき、なんとなく、この人は不器用な人なんだろうなと彼女は思った。寝食を忘れるほど、部屋が荒れるのも気にならないほど何かに集中しなければいけない理由が、きっとあるのだろうなと思った。そしてそれを守るために、三日月は部屋から出ないのだろうなとも……。
    「……勝手な想像だけど」
     ぼそりと呟き、彼女は桜の舞う道を重たい足取りで辿る。家政婦派遣の事務所から呼び出しを受けた彼女は、渋々そこへ向かっていた。お小言が待っているのは一目瞭然だ。一本「担当を変えて下さい」と言ったきり、三日出勤しなかった。三日月からも苦情が行っているだろうし、減給や下手すれば解雇も免れないかもしれない。とんだ初仕事だったなあとため息を吐く。
     予想通り、事務所についた彼女に言われた一言は「三日月の家に行け」というものだった。三日月は怒っていて、謝りに来いとでも言われているのかもしれない。もうどうにでもなれくらいの気持ちで、彼女はあのタワーマンションへ来た。そう言えば合鍵も返していない。これを返せという話かもしれなかった。
     初日よりもずっと緊張しながら、彼女は一つ一つオートロックを解除して行った。ロビーから、エレベーターを昇り最上階の入り口。それから最後に、部屋の玄関。時計を確認する。もしかしたらこの時間だから、三日月は眠っているかもしれない。そうしたら手紙でも残して、帰ろう。
     重厚な音を立て、部屋の鍵が開く。そっとドアノブを捻って、引いた。
     そして、初めて彼女が部屋に足を踏み入れた時のように、再び息を呑む。
     三日月が玄関に座り込んで、眠っていた。毛布を肩からかけて、壁にもたれかかり、三和土だけで彼女の部屋のトイレくらいはありそうな広さの玄関で、三日月は目を閉じている。彼女は驚いて後ずさってしまった。何故ここで。普段仕事のためにあの窓辺から離れない三日月が。眠るときでさえ、あのソファにいる三日月が、どうして。
    「み、かづき、さん」
     そっと屈みこみ、彼女はその肩を揺すった。今日は紺のブイネックシャツに、カーキのパンツだ。部屋に引きこもって、ずっと仕事をしているくせに、三日月はいつもいい匂いがする。
    「三日月さん、三日月さんってば」
    「うん……?」
     風邪を引きますよ、と声を掛ければ三日月はやっと目を開けてくれた。薄く開いた瞼から、あの瞳がきょろきょろと周りを見る。目の前に屈みこんでいる彼女の姿を捉えると、急速にその目は冴えて行った。どうやら目が覚めたらしい。
    「ああ……やっときたか、三日もどこに行っていた」
    「どこにって……私、ただの家政婦ですよ」
    「鍵を渡していたではないか」
    「そうですけど……」
     はあと安堵したように息を吐き、三日月は彼女の肩に頭をもたれかからせる。ずしりとした重みがのしかかってきて、ぐらつきそうになった彼女は、慌てて三日月の腕を掴んで体勢を整えた。そんなのはお構いなしに、三日月はぐりぐりと額を擦り付けてくる。まるで動物のマーキングだ。
     てっきり怒られると思っていた彼女は、やや拍子抜けした。少しだけ首を伸ばし、三日月の肩越しに彼女は廊下の奥を覗いた。だが思いの外散らかってはいないようである。ほっと胸をなでおろした。
     そのときくぅと小さな音が聞こえる。どうやら三日月の腹の音らしい。
    「……三日月さん、この三日何食べてました」
    「三日間、何も食べておらぬ」
    「何でですかもう……」
     もう呆れかえった声しか出ない。
     冷蔵庫の中は埋めておいた。置いておけば食べるかもしれないと、念のため即席麺なども常備するようにした。三日月お気に入りのクッキーも買ってあった。それなのに何故何も食べない。
     すると三日月がぼそりとその問いに答える。
    「そなたが、いなかった」
     小さな掠れた声。けれどとても単純で、明快な答え。
     なんて生活能力のない人だろう。彼女は呆れた。けれど同時に、なんて脆い人だろう、と愛おしく思った。
     彼女にもたれかかった体勢のまま、三日月は語り始める。
    「俺の仕事を、言うていなかったな。俺の仕事は、有り体に言えば幽霊作家だ」
    「ゆ……あ、ゴーストライターですか!?」
    「まあ、そうともいうな。何でもするぞ、本も書く、詩も書く。頼まれれば一通りの仕事をしてきた。俺の代わりに、親族に名前を借りている」
     そう言って、三日月はぽつぽつと何人か名前を挙げた。それは彼女にもわかるような作家の名前だったり、作詞家の名前だったり、はたまたデザイナーの名前だったりした。
     三日月宗近は非常に器用な人物である。生活能力はないが、通り一遍のことは平均以上に出来てしまう。それは幼い頃からそうだった。
     何をさせても秀でているとくれば、引く手あまたである。子どもの頃から、持てはやされて、すること全てに良い評価を受けてきた。しかし三日月宗近は美しすぎたのである。出る杭は打たれる、良い評価の裏にはいつも陰口が付きまとった。大したものもできないのに、容姿がいいから選ばれるんだなんて根拠のない噂まであった。そう言う醜い言葉を聞いているうち、三日月は人の好意や評価が信じられなくなってしまった。
     何もかも、自分の容姿のせいだと思って。
    「だからなあ……部屋にいることにしたのだ。俺の顔が見えないところで評価されたものなら、本当の俺が評価されたことになるだろう? だからここで、仕事だけをすることにしたのだ」
     三日月がここで守っていたのは、三日月宗近自身だったのだ。美しい自分から隠れることで、自分自身の大切なものを守っていた。正当な評価を得たくて、本当の自分を見てほしくて、この高いマンションを砦に、戦っていた。鬼気迫る表情で仕事にしがみついていたのは、そのせい。
    「だから俺は最初、男を頼んだのだ。女子は美しい男には弱いだろう?」
    「ふ、あはは、自分で言いますかそれ」
    「……仕方あるまい? だがそなたときたらなあ、俺には目もくれず部屋が汚いなどと」
     端麗なその顔には欠片も視線を投げかけずに、一目散に掃除と料理を始めたこの子ならば、きっと大丈夫だろうと。三日月は確信できた。だからここへ招き入れた。三日月たった一人のこの部屋に。
     三日月はやや頬を膨らませて、顔を上げる。彼女の顔を覗き込んで、乞うように手を握った。
    「食わずとも、生きていけた。寝食を忘れ、仕事に打ち込めば、皆本当の俺を見てくれる。だがそなたが俺に物を食わせ、部屋を片付け、人並みにしたのだぞ。どうしてくれる」
    「どうしてって……あはは、どうしてほしいですか」
    「そなたが片づけたせいで、資料の位置もわからぬ。この三日、仕事もできなんだ。一つ〆切を破ってしまったぞ」
    「あんな散らかった部屋じゃ進む仕事も進みませんって」
     くすくす笑っていれば、もう一度三日月の腹が鳴る。今度こそ声を上げて彼女は笑い、立ち上がった。冷蔵庫の中身は、彼女が一番よく知っている。
     さあご飯を食べよう。腹が減っては戦はできぬ。そうしたら、破った〆切をもう一度。


    「あーっ、もうだから! 夕飯は作っておいたじゃないですか!」
    「そなた昨日は異様に早く帰って行ったではないか。何故だ、日が暮れる前、俺が昼寝をしている間に帰ったな?」
     前日に作ったままになっているコロッケ。そろそろ季節がら一晩放っておかれると、翌日には食べられなくなる。彼女はレンジにそれを皿ごと放り込みながら、三日月の問いに答えた。
    「昨日から三日月さんの家以外にもう一軒派遣されることになったんですよ、夜間だけ。だからもう三日月さんの部屋を夕方には出ますよって事務所から通達があったじゃないですか、見てないんですか? って言うか知ってます? 元々私夜間はいるはずじゃないんですよこの家」
    「はて、なんだそれは」
    「せめて郵便受けまでは行きましょう? 外に出ろとは言いませんからせめて、ロビーには」
     少しずつだが、三日月は三食食べるようになってきた。まだ眠るのはソファの上で、噛り付くように仕事をしているけれど、食事だけは。彼女が見ていれば必ず食べる。だが目を離せばすぐこれだ。未だにソファで眠っているし、どこか浮世離れしている。しかしあの窓から光に照らされたとき、少しだけはっきりとその姿を写しだすようになった。
    「なんと、俺だけの家に来ているのではなかったか」
    「そりゃそうですよ、普通そういうものです。私は新人なので、今まではとりあえず三日月さんの家に集中するってことだったんですよ。もう慣れてきたので兼任です。だからちゃんとご飯食べてください」
    「ふむ……」
     三日月は考え込むように、顎に手を当てて首を傾げた。今日の三日月は作務衣姿だった。最近の三日月は、前のようなかっちりしたパンツやシャツではなく緩い服装をしていることが多い。どうも、一応彼女が来る日は気を遣って服を選んでいたらしい。そういうことするから女の子にキャーキャー言われるんじゃないですかね、なんて彼女は思ったのだが、言わないでおく。
     レンジがチンと音を立てたので、彼女はコロッケを取りに行った。付け合せにサラダと白米、それから味噌汁。昨日夕飯を抜いた分しっかり食べさせなくては。湯気を立てるそれらを持っていったとき、三日月は「閃いた!」とばかりに手を打った。
    「そなた、あの事務所を辞めよ」
    「……はい?」
     斜め上のぶっ飛んだその提案に、彼女は目を丸くする。何を言っているんだこの人は。
    「そうだ、そうするがよい。そもそも事務所を介しているから、面倒なことになるのだ。俺が直接そなたを雇えばよいのだろう?」
    「え? どういうことですかそれ」
    「事務所を辞め、俺が直接そなたを家政婦として雇おう。そうすれば他に行く必要はあるまいな? 俺の家で、俺の世話だけをしてくれるな?」
    「まあ、そうなりますけど」
     あの月夜の瞳を煌めかせ、三日月は名案だと言わんばかりにお盆を持っている彼女の手を包んだ。彼女とて、三日月が自分がいなければ食事もとらないことが気にならないわけではない。本当はベッドで眠ってほしいし、もう少し部屋も片づけてほしい。生活能力をつけろとは言わないから、せめて地に足をつけていてほしい。家政婦担当の兼任を言い渡されたとき、一番に思ったことは「あ、三日月さんの夕飯どうしよう」だった。
    「さ、今ここで事務所に電話するがよい。今日付けでやめよ」
    「今日っ!?」
    「ああそうだ、ほれ、電話だぞ」
     にこにこと笑いながら、三日月は彼女に電話の子機を差し出してくる。
     乗りかけた船だ、どうにでもなれと、彼女がそれを手に取るのはその五分後のお話。
       月は寝室を使わない


     家政婦の派遣会社に勤めたかと思ったら、あっさり一ヶ月と少しで退社した。わけがわからない。しかし別に、彼女は職を失って路頭に迷ったわけではなかった。むしろ、いぜんよりずっといい暮らしをしているといっても過言ではない。なぜなら、派遣先のタワーマンション最上階に住む男性が、事務所を介さず直接彼女を雇うことになったからである。
    「はいはいお仕事一旦休止です、お昼の時間です」
    「む、あと十分おくれ」
    「だめです。この間そう言って三時間待たされました。どうなってるんですか三日月さんの体内時計は」
     二人分の食事が載ったお盆片手に、彼女は容赦なく三日月のデスクに場所を作っていく。家政婦たる彼女が放っておけば、主人の三日月は仕事をしている間一切食事を取らない。根をつめ集中して作業をし、終わったかと思えばぱたりと座っていた三人がけのソファに横になって寝てしまう。そんな生活能力皆無な男性が、彼女の主人だった。おかげさまで部屋は仕事の資料である本や紙類で溢れかえり、キッチンは彼女が来るまで未使用。冷蔵庫はもぬけの殻なんて状態だった。まったく手のかかる主人である。
     そんな三日月の職業は、幽霊作家。所謂ゴーストライターである。たとえ家事能力がまるでなくとも、通り一遍のことは平均以上にできてしまう三日月の悩みは自分の美しさだった。実力では評価してもらえないその容姿のため、三日月はこの部屋に引きこもって、名前と姿を隠し、その仕事をしている。そうすれば、三日月は本当の自分を見てもらえる。正当な評価を得られる。そう考えて。
     しかしその半面で寝食を忘れて仕事をしてしまうので、彼女がここへ来たのだ。
    「はい、今日のメニューはご注文どおり純和食ですよ」
    「あな嬉や。いただこう」
     自分からは積極的に食事をとろうとしないくせに、三日月はよく食べるほうなのだ。一度食事を出せば、うまいうまいと言いながらどんどん平らげていく。すらりとしているからだのどこにそれが入るのか。いやそもそもこれまで三日間紅茶とクッキーだけなんて生活をざらに送っていたのに、どうしてそんなにいいスタイルが保てるのか。彼女の三日月に対する疑問は尽きない。
     今日もまた目の前で煮魚をぱくついている様を見ながら、彼女はどうしてこうなったのか考えた。以前は週に五日だった勤務も、七日毎日来なければいけなくなった理由を。



     他の家と家政婦を兼任するのなら、今すぐあの事務所をやめろ。そして自分の世話だけをしていてほしい。
     一見すればとんでもない三日月の要求を彼女が呑み、あのマンションの電話から直接退職の意を派遣会社に伝えたのはつい半月ほど前のことである。流石に「はいそうですか」とは辞められないだろうと、彼女は冗談半分でその連絡をした。そして当然だが上司はパニックになった。しかし翌日には「そういうことなら」とすんなり退職できたのである。社則的にも世間一般的にもありえない展開である。実はその裏に三日月の手回しがあったことを、彼女が知る日はおそらく来ない。
     そして退社しましたと三日月に報告に行けば、彼はニコニコとしてそれでは今日から毎日ここへ来れるなとのたまったのである。毎日って週七日ですかと問い返す隙すら与えない笑顔だった。彼女に何やら数枚の用紙を手渡しつつ、三日月は手早くその説明をしていく。
    「まあ一応そなたを雇うことになるわけだ、契約書は用意しておいた。署名と捺印を頼む。大したことは書いておらぬがな、せいぜい賃金くらいだ。それと諸々の税金やら社会保険やらについてはこちらに書いてあるゆえ、目を通しておいておくれ」
    「……意外にしっかりしてるんですね、三日月さん」
    「はっはっは、そうであろう? 褒めてよし」
     褒めているようで実はそうでもない台詞だったのだが、三日月は満足げに頷く。その日も紺色の作務衣を着ていた。もう完全に彼女の前でよそ行きの格好をする気はなくしたらしい。
     そうして彼女は三日月の家に毎日通うことになった。もう休みも平日も関係なく、とはいっても元から三日月の仕事にそんなものは存在していなかったのだが、ともかくいつもいつも彼女は三日月の部屋にいることになった。本当に自分の家にはただ眠りに帰っているようなものだ。しかし少し目を離せば三日月はまた、食事をとらなくなるのだから仕方がない。
     もうすっかり慣れっこになった三日月の衣服や下着を洗濯しながら、彼女はこきこきと首を鳴らした。最早恥じらいも何もない。
    「三日月さーん、今日のお夕飯何を食べたいですかー」
     ベランダにそれらを全部干してから、彼女はデスクの三日月に声をかける。しかしいつもの背中はそこになかった。代わりに僅かに上下する毛布が見える。審神者が洗面所を掃除したりしているうちに一仕事終わり、力尽きて眠ったらしい。彼女はソファの近くまで歩み寄って、それを背もたれから覗きこんだ。
     美しい顔に無防備な表情を浮かべ、静かに寝息を立てている。仕事が終わるといつもこうだ。糸が切れたように倒れ込み、眠ってしまう。しかもこうなるとしばらく起きない。これまでの分、半日以上は平気で目を覚まさないのだ。
     こうなれば夕飯は作ったところで、食べるような時間に起きてはくれないだろう。彼女はとりあえず、三日月のデスク周りに広がった資料を片付ける。本を閉じ、紙類をクリップに留め、出来るだけ音を立てないように足の踏み場を確保した。三日月が起きたらきっと今度は貪るように食事を摂るだろうから、出来るだけ多めに何か作っておかなくては。
     彼女は冷蔵庫の中身と相談し、米を炊いたりおかずを作ったり、忙しなく動き始める。三日月個人に雇われるようになってから、一応夜の8時くらいにここを出るようにしている。三日月が夕食を摂るのを確認し、その片づけをしてからだ。しかし今日は当の本人が眠っているから、少し早めに帰れるかも知れない。
    まあそう思っていたときが彼女にもあった。


     案の定三日月は夜の七時になっても目を覚まさなかった。食べるかどうかはわからないが、すぐに手を付けられる状態には食事を整え、彼女は帰り支度を始める。眠っている間に帰るとあとが面倒なのだが、せっかく眠っているところを起こすのも忍びない。そろりそろりとリビングの電気を消そうとしたとき、けたたましくデスクの上の電話が鳴り始めた。
    「ひゃっ」
     彼女が驚いて声を上げたのと同時に、三日月ががばりと起き上がる。そしてさっと受話器を取り上げた。仕事の連絡であることが多いので、三日月は電話の音には敏感なのである。
    「俺だが?」
     何やら面倒くさそうな気配がする。彼女は帰りますよーと言う動作をさりげなくとりながら、部屋を出ようとした。しかし三日月は子機を耳に当てたまま、つかつかと彼女に歩み寄り、しっかりその服の裾を掴む。三日月のほうに彼女を帰すつもりはまるでなかったらしい。
    「……その締め切りはまだ先だったろう、まだ手を付けておらんぞ。何故それを早う言わん。……わかった、仕方あるまい、明日までに何とかしよう」
     不穏な会話の後、三日月は通話を切る。今まで彼女の来ていたシャツの裾を掴んでいた手が、今度は襟首に回った。ずるずると引きずるようにして、彼女はキッチンに戻される。しかし夕食は準備した、ではなんだろう。三日月はとってもいい笑顔で彼女に向きなおる。
    「急で悪いのだがな、今日は泊まっておくれ」
    「……はい?」
     「残業代出るんですかね?」とか、「いや夕食あるじゃないですか」とか。方向違いに様々な考えが頭を過る。どうやら彼女の頭は「泊まり」という単語の意味を、別なことを考えることで忘れようとしているらしい。しかし三日月のほうはにこにことして盆に盛られた夕飯を手に取り、デスクへ戻っていく。パタパタと軽やかなスリッパの音を追いかけ、彼女は慌てて問いただした。
    「ちょ、ちょっと待ってください、泊りがけ? そんな業務は聞いてませんが!」
    「うん? 俺は契約書に明示したぞ、そういう日もあるとな」
    「えっ、嘘」
    「まことだが」
     デスクの中から、彼女が署名捺印した契約書が取り出される。ひったくるようにしてそれを確認してみれば、確かに書いてあった。しかし小さく、他の文章に埋もれるようにして。こんなの詐欺だ!
    「大したことは書いていないからそう確認しなくていいって言ったじゃないですか!」
    「はっはっは、いかんなあそなた。そう簡単に署名捺印などしてはならんよ。以後気をつけよ」
     愉快げに笑いながら、三日月は彼女の手からその契約書をするりと抜き取る。それから再びそれを大事そうに引出しにしまった。
     いやしかし、あれはずるい。賃金やら何やらの本当に、本当に隙間に「ただし仕事の関係上宿泊を伴う業務あり」と書いてあるのだ。あんなのちゃんと見ていたって見落とすに決まっている。やけに署名を急かしてきたのはこのためか! 彼女がすっかり脱力するのを余所に、三日月は夕食を食べ終えて仕事のスイッチを入れたらしい。きりっと表情を変え、デスクに向きなおった。
    「先程の連絡では、俺はこれから五日かけて終わらせる予定だった原稿を一晩で終わらせねばならんらしい」
    「……無理じゃないですかそれ」
    「まあ、給料分は仕事をせねばなるまい。そういうわけだ、夜食諸々、そなたに任せる。頼んだぞ」
     先程までの穏やかな笑顔とは異なり、凛々しい眼差しでそう言われて思わず彼女はどきりとした。元々三日月は大変な美形である。しかし一瞬のちにはいつもの一人では食事もとれない様子を思いだし、彼女はげんなりとした。いかに秀麗な顔をしていようと、彼女にとって三日月は生活能力のない困った主人に過ぎない。
     ため息を吐きながら、一度脱いだエプロンをまた被る。まったく、二度とろくに文面も読まずに契約なんて結ぶまい。もしもこの契約を更新する日が来たら、絶対に見直して抗議してやる。
     三日月の食器を片づけ終えて、彼女も簡単に食事を済ませた。五日分の仕事を終わらせるとならば、恐らく徹夜だろう。水分補給すら忘れかねない三日月のため、タンブラーにストローをさして準備しておく。デスクまで持っていくのは、仕事用の資料が汚れかねないのでやめた。
     簡単につまめるもの、つまめるもの……と考えながらとりあえずおにぎりを作る。甘いものならば、少しは喜んで食べるかもしれない。ホットケーキを焼き、簡単に果物や生クリームを挟んで楊枝に刺しておいた。冷やしておいて、あとで出すことにする。
     時計の針が、その頂点を回った頃。彼女はキッチンから顔を出し、デスクのほうを眺めた。三日月は甘い匂いにも反応せずに、ガリガリと仕事を片付けている。作業を始めてから大体五時間は経ったろうか。彼女はタンブラーを持ち、三日月の傍らに立った。
    「三日月さーん、お水飲みましょう」
    「……」
     反応がない。これは聞こえていないなと彼女は判断し、屈みこんで下から三日月を覗き込む。一心不乱に資料をめくって手を動かしているその様を見て、物は試しと彼女は三日月の口元にストローを持っていってみた。
     無言で、しかし美しい唇が、ぱくりとそれを咥える。それからちゃんと中に入っているアイスティーを飲み始めた。「あ、なんだタンブラーを手に取って、咥えるのが億劫だっただけ?」と彼女は呆れてしまった。三日月は仕事と比べ、その手間すら惜しんだらしい。
     仕方なしに彼女は冷蔵庫から先程のパンケーキもとってきて、次々に口の中に放り込んでやった。何も言わないで作業を続けてはいるが、もぐもぐと口は動く。最後にもう一度アイスティーを飲ませ、彼女はキッチンに戻った。
     まったく、寝食を忘れるにもほどがある。呆れると同時に、彼女は一抹の不安を覚えた。自分がいない夜間、徹夜をしているとき三日月は一人でああしているわけだ。あれなら昼間に電池の切れたように眠っている姿も納得がいく。
     それから彼女は大体一時間に一度、必ず三日月に水分を取らせることにした。ストローさえ口に近づければ、三日月はちゃんとそれを飲む。こちらを見もしないし、手を止めもしないけれど……。
     そこまでして、三日月は自分自身を見てもらいたいのかと、彼女はなんとなしに寂しくなった。美しい自分の姿をこのマンションの砦に隠し、自分の生み出した仕事だけを世に放って。決して自分の名前で評価されることはなくとも、それでも本当の自分を見てもらえたのだと三日月は喜ぶ。このデスクに噛り付き、傍を離れるのも嫌がってソファで眠って……。
    「……寂しくないですか」
     思わず彼女は呟いた。無論だが、三日月からの返事はない。集中しているのだ、恐らくその声は耳にさえ届かなかっただろうなと彼女は思った。
     しかしたまに、キッチンから作務衣の背中を見ていると、彼女は猛烈な寂寥感に苛まれるのだ。三日月は静かに作業をしているはずなのに、まるで大声で「自分を見てくれ」と叫んでいるかのような錯覚に陥る。
     時刻は午前三時、彼女はタンブラーを手にしながら、三日月のいる三人掛けのソファでうつらうつらと舟をこぎ始めた。水分補給をさせるため、さっきからずっと同じソファの端と端に座っていた。静かで、ただ三日月がペンを走らせたり紙をめくる音しかしなくて、こくりこくりと彼女の首が揺れる。いけない、タンブラーの中身を零してしまう。ああでも眠い、今日も早起きして三日月の家に来たのだ。眠気に襲われても仕方がない。
     遂に彼女の体がぐらつきそうになったとき、誰かがその手からタンブラーを取り上げ、肩に手を添えてその体をゆっくりと倒した。最早瞼は持ちあがらず、彼女はそのまま意識を手放す。遠く遠く、水の中にいるような聴覚の中、「今は、そうでもないなあ」と穏やかな声が聞こえた。


     カーテンの隙間に凝縮された太陽の光が、彼女の瞼を射抜いた。僅かに睫毛を震わせて、彼女は薄く目を開ける。肩と首が猛烈に痛い。いつ眠ったのだろうと、まだぼんやりした頭で考えた。横になった覚えはないが、彼女はきちんと体を倒している。眉間にしわを寄せながら、彼女は時計を見ようと腕を上げた。否、上げようとした。しかしそれはできない。腕が動かないのだ。
     腕だけではない、身動きが取れない。やっとその異常性に気付いた彼女の頭は、急速に覚醒していった。ぱちりと目を見開く。眩しさに慣れてきた視界が一番に映したのは、ベージュのリブニットと紺の作務衣だった。自分の足には、三日月の長いそれがしっかり絡みついている。上半身も腕でがんじがらめにされていた。そして身動きの取れない最大の理由は、彼女もまたあのソファに寝ていたことである。
    「――――っ!」
     驚きすぎて声は喉の奥で止まってしまった。彼女は渾身の力で腕を突っ張る。ごろりと三日月の体がソファからずり落ちた。しかし足はしっかり彼女に絡んでいたため、彼女もまたソファから落ちる。三日月を下敷きに、二人とも床に転がった。ガツンと派手な音を立てて頭を打ち付けた三日月が、流石に目を覚ます。
    「ぅんっ!?」
    「ぎゃっ」
     朝から何をやっているんだ自分は。そもそも今は朝なのか。今度こそ腕時計を確認する。時計の針は再び頂点をさしていた。昼、昼の一二時! 彼女は慌てて三日月のほうに向きなおり、作務衣の襟首を掴んで揺さぶる。
    「ちょ、ちょっと三日月さんっ! 一二時ですけど、締め切りはっ?」
    「う、うん? ああもうそれは、使いのものに手渡してある。案ずるでない」
     強かにぶつけたらしい後頭部を押えながら、三日月は上半身を起こした。動揺しすぎて三日月に馬乗りになっていることに、彼女はまるで気付いていないらしい。彼女の腰に腕を回し、欠伸をしながらもう片方の手で三日月は目をこする。締め切りを守ったということに安堵した彼女は、やっと自分の体勢に気付いたようだ。再びパニックになり、慌てて三日月から降りようとした。しかし存外力の強い三日月がしっかり体をホールドしていたので、中途半端に腰を浮かせた状態で動けなくなる。
    「あああ、すみません、私いつから寝てました?」
    「明け方ごろか? いつの間にか寝入ったようだったぞ」
    「うわすみません……三日月さんちゃんとお水とか飲んでました?」
     本当は、曲がりなりにも女性を抱えたまま寝ないでくださいとか、色々言うべきだったのだろう。しかし家政婦の性か、悲しいかな、一番に浮かんだのは三日月の寝食の心配である。そんな彼女の言を聞き、三日月はぱちくりと瞬きをした。それからいつものように愉快げに笑う。
    「はっはっは、最低限はな。だが腹が減った。昼餉をもらおうか」
    「あー、はい、今作ります。ちょっと待っててください」
     手早く昨夜の残り物などを温め、彼女は食事を準備した。二人して遅めの朝食兼昼食をとる。いただきますと手を合わせ、ひたすら口を動かした。
     それから食器を片づけ、風呂場に湯を溜める。寝違えたらしい首をこきこきと鳴らしながら、彼女は大きく伸びをした。「もうお風呂入れますよー」とリビングに向かって声を掛ければ、あのソファで新聞を読んでいた三日月が顔を上げて微笑む。立ち上がって洗面所にやってきた彼に、彼女はバスタオルと着替えを手渡した。
    「しっかり体温めてください。存外あのソファ、寝心地が悪いです」
    「はっはっは、慣れればそうでもないぞ」
    「立派なのがあるんですから、ベッドで寝てください」
     そう言えば、三日月はややバツが悪そうに後頭部をかいた。しかし先程ぶつけた箇所が痛むのか、ぴくりと眉を歪める。
    「……昨夜は寝室を使おうと思ったのだがな」
     おや、と彼女は顔を上げた。デスクに噛り付いて離れない三日月には珍しい。
    「そなたもおっただろう? あのような場で眠らせれば体を壊すやもしれん。しかし起こすのも忍びなくてな。あいすまん」
     それは、つまり。自分がいればまともな場所で眠ってくれるということだろうか。彼女がじっと三日月を見つめて
    考えていれば、やや申し訳なさそうにして三日月は視線を逸らす。
    「もうわかっておるかもしれんが、俺は急な仕事を断りはしない。昨夜のように夜を明かすこともあるだろう。だがそれでそなたに体を壊させるわけにはいかん。まあ、契約書は悪ふざけのようなものだ。気にせずともよい。本日からはきちんと定時に帰るのだぞ」
     ……狡い人。バスタオルや着替えを手に、風呂場へ入って行こうとした三日月の作務衣を、彼女は掴んだ。そんな風に言われて、昨夜あんな姿を見て、放っておけるわけがないではないか。
    「私がいれば、寝室使ってくれるんですね」
     ハッとした表情で、三日月は振り返る。それからゆっくりと頷く。まったく、縋るような目をして。三日月と彼女は随分年が離れているはずだが、これではどちらが年上だかわかったものではない。
     しかし仕方がない。気になった自分が悪いのだ。こうなったらとことん、この生活能力のない主人に付き合おうではないか。ふぅ、と息を吐いて彼女は三日月を見上げた。
    「二日に一度だけですよ」
     まるで雲間に陽の光が差し込んだ込んだように、三日月の顔が明るくなる。バスタオルと着替えを放り出し、何の躊躇もなく三日月は彼女に抱き着いた。最近気づいたのだが、三日月はスキンシップが多い。小柄な彼女の体を、三日月は子どもにするように抱き上げる。
    「そうかそうか! 昨日の甘味はうまかったぞ、夜食はあれがよいなあ!」
    「いやあのっ! まああのくらいならすぐ作れますけど! とりあえずいったん帰らせてください、着替えがないので! そうしたら戻ってきますから!」
     ついでに果物を買ってこよう。昨日使い切ってしまった。
     彼女を抱き上げたまま、三日月は上機嫌にくるくると回る。少し胸が高鳴るのは、目が回っているせいだろうかなんて考えながら、彼女は振り落とされないよう三日月の首に腕を回した。


       月は名を持たない


     息苦しさに、目を開ける。彼女胸の上に紺の作務衣を纏った腕が乗っていた。首だけ動かしてみれば、彼女の雇い主がすやすやと穏やかな寝息を立てている。どうやらいつも通り、三日月は糸が切れたように眠りに落ちたらしい。広いベッドなのだから、距離を取ってくれればいいものを。三日月は彼女の上に倒れ込むようにして眠っていた。おかげで寝返りの打てなかった彼女は、寝違えたのか首が若干痛い。
     三日月が目を覚ましてしまわないように、彼女はそっとその腕の下から抜け出る。朝食ができたころに、起こしに来ればいい。寝室の一角に置かれた箪笥から、彼女は自分の着替えを出した。こんなに大きなものはいらないのに、彼女が半分住み込みになった日に三日月が通販で買った箪笥だ。流石に三日月が眠っている場所で着替える勇気はないので、彼女は寝室から出る。この広いタワーマンションの最上階は、1LDK。寝室以外に部屋はない。洗面所に鍵をかけ、彼女は寝巻から動きやすい服装に着替えた。適当に髪もまとめて、顔を洗い身支度を整え、洗面所から出る。ドアを引けば、その前には三日月がぬぼっと立っていた。
    「うわっ」
    「……やはりここにいたか」
    「お、おはようございます三日月さん」
    「ああ、おはよう」
     ニコリと笑い、彼女と入れ違いに三日月は洗面所に入っていく。彼女が着替えたりなんだりしていたのはせいぜい十五分ほどの間だが、その間に三日月は目を覚ましてしまったらしい。どうにも三日月は、寝室では一人で眠っていられない。
    「朝ご飯、何にしますかー?」
    「うん? そうさなあ、今日は軽いもので構わんよ。あまり食欲がない」
    「はあ、昨日は何時に寝たんですか」
     ざばざばと顔を洗った音がする。二度寝をする気はないらしい。若干の沈黙の後、三日月はその問いをなかったことにして、シンクに移動してくる。それから彼女の背中にもたれかかり、IHコンロの上で作られるフレンチトーストを嬉しそうに眺めた。
    「やあ、美味そうだなあ」
    「ちょっと、私の質問無視しないでください。いつ寝たんですかって聞いてるんですよ」
    「うむ、甘くてよい匂いだ」
     都合の悪いことになると、しれっとして話を流してくるのだからなあと彼女は溜息をついた。焦がさないようにフレンチトーストをひっくり返す。その間も三日月は上機嫌に彼女の背中に張り付いていた。
    「重いんでちょっと離れてくれますか、ついでにお皿出してください」
    「あいわかった」
     彼女はこの家に半住み込み状態にある、一介の家政婦である。



     タワーマンションの最上階、その広い1LDKに住む美しい男性が彼女の雇い主だ。かつて彼女は、家政婦の派遣会社に勤めていた。その初仕事がこの家である。しかしこの家の主、三日月宗近ときたらてんで生活能力がなく、彼女が放っておけば食事はとらないし、仕事場にしているデスクに備え付けた三人掛けのソファで眠って平気な顔をしている。しかも部屋は仕事の資料や何やらで、壊滅的にとっ散らかっていた。
     そのどうしようもない主を気にかけてしまったが最後、彼女は現在その会社を辞めて、三日月に直接雇われている。この部屋専属の家政婦として、今は週の半分住み込んで世話をさせられている始末だ。
    「今日のご予定は?」
    「うん? まあいつも通りだな、ここで仕事だ」
    「でしょうね。じゃあ今日は七時には帰りますからね」
    「八時ではだめか? 急ぎの仕事があってな、夜食を頼みたいのだが」
     フォークでフレンチトーストをいじりながら、上目遣いでこちらを見てくる三日月を、彼女はじっとり睨む。八時とか言っているが、三日月は最近何かと理由をつけて彼女を残業させたがるのだ。
    「だめです、そう言って昨日も帰れませんでした。あと知ってますよ、三日月さん今殆ど〆切抱えていないでしょう」
    「む、何故知っている」
    「そりゃこれだけ始終一緒にいればわかりますよ!」
     三日月ときたら、彼女が見ていなければ食事も食べないし、寝室で眠ったりもしない。最近ほぼ二四時間で見張ってやっと、三食摂らせてベッドで寝かせて、人並みの生活をさせることに成功したのだ。おかげで最近の三日月は若干血色がいい。しかしその弊害として彼女は殆ど家に帰れなくなった。最初は二日に一度なら泊まり込みで業務に当たってもいいという約束だったのが、帰宅できる頻度がどんどん減りつつある。これは由々しき事態だ。
    「本当にだめか? 確かに急ぎの仕事はないが、腹は減るぞ」
    「ちゃんと毎日ご飯は作り置いてるじゃないですか。温めて食べてくださいね、また明日の朝に来ます。ちゃんと寝てくださいね」
    「ふむ」
     ややしゅんとした三日月に見送られ、彼女はそのマンションを出た。気がかりでないわけではないが、彼女とて流石に家にも帰りたい。とはいっても、着替えの半分ほどは三日月の家にあるのだが。
     マンションから彼女の家までは、徒歩で三〇分ほど。途中のスーパーに入り、食材を買う。しかし月の半分ほどしか家にいないため、以前より食材の消費は少ない。まあ適当でいいかと、籠の中に野菜を投げ込む。お菓子売り場で三日月が気に入っているクッキーを見つけて、それも一緒に入れた。会計を済ませて、再び帰途に就く。通りかかった本屋で、三日月が書いた本を見つけた。
     三日月の職業はゴーストライター。親族に名前を借りて、本を書いたり作詞をしたり、脚本を書いたり。頼まれれば何でもやる。そうして書いたらしい本の一冊である。どうやら今度映画化されるらしい。本の前に立った女子高生がキャッキャと騒いでいる。どんな人が書いているんだろうという声に、彼女は「生活力のない男の人ですよ」と心のうちで答えて、アパートに戻った。


    「没だと?」
     彼女が床に散らばった資料をかき集めて整理していると、受話器を手にしていた三日月が突然声を上げた。大らかでゆったりしている彼にしては、やや珍しい声音である。
    「何故だ、没にされるにも理由はあるだろう。う……それは言われているとおりだが、しかし」
     苦い顔をした三日月が、ソファに座ったり立ったりする。最後には溜息をついて、はあと肩を落とした。ピッと通話を切ってしまってから、受話器をデスクに戻す。それから力なくソファに沈み込んだ。
    「どうかしたんですか?」
     没がどうだとか聞こえてはいたのだが、一応聞いてみる。三日月はソファの肘置きにもたれたまま、ちろりと彼女のほうを見た。彼女は片づける手を止め、姿勢を正して話を聞く体勢を整える。すると三日月はやっと口を開いた。
    「請け負った仕事が没にされたのだ」
    「没? 珍しいって言うか、初めてじゃないですか? それ」
    「ああ、俺の記憶にある限りでは初めてだな」
     三日月は何事も平均以上に出来てしまう器用な人物なので、コンペだろうがなんだろうが、仕事はもぎ取ってくる。本人にも自分の手掛けたものへの自負はあるらしく、やや得意げに「褒めてよし」と採用の通知を見せてくる日もある。まあ彼女には残念ながら三日月の仕事の内容はよくわからないため、適当に「おめでとうございます」と言って、せいぜい好きな料理を作ってやる程度のお祝いしかしないのだけれど。
     だがそんな三日月が自分で初めてだというくらいなのだから、没にされたというのはよっぽどのことなのだ。特に毎日デスクに噛り付いて作業をしているような仕事魔にとっては。
    「理由聞いてたじゃないですか、なんでだったんです? というか仕事ってなんだったんですか」
    「……俺の書いた小説が、今度映画になる」
    「ああ、見ましたよ。本屋で」
     そう言えば、やっと三日月はソファから体を起こす。やや嬉しそうに笑みを浮かべ、彼女のほうに身を乗り出した。
    「おお、そうか。どうだった?」
    「あ、すみません、読んではいません」
    そう言えば、三日月はむっとやや頬を膨らませる。それから傍らにあった文庫本を手に取って、ぐいぐいと彼女に押しつけた。
    「貸してやろう、読むがよい」
    「あー私あんまり本は」
    「今ならさいんもしてやろう、自慢するといい」
    「それ誰に自慢すればいいんですか」
     ゴーストライターのサインなんて、見せられるわけがない。だがまあそれを受けとり、彼女はぱらぱらと頁をめくった。
    「しっかり読んで、感想を聞かせるのだぞ」
    「はあ、まあ気が向けば。それで、仕事は何なんです」
    「要は番外編だ。映画化を機に文庫を新装するらしい。それに入れるのだとか」
    「なるほど、よくある話ですね」
    「その原稿を没にされた。今の俺の文章には足りんものがあると言われた」
     自分で口に出して、自分で落ち込んだらしい。三日月はまたソファに倒れる。だが残念ながら彼女には芸術関係のことはさっぱりなので、うまいアドバイスもできない。結局彼女は困って、せめてもと好きな菓子と緑茶を差し入れた。三日月はソファに横たわったまま、目を閉じている。しかし眠っているというわけではなさそうだ。
    「……晩御飯、何がいいですか? 好きなもの作ってあげますよ」
     流石に少し可哀想になり、そう声をかけた。しかし三日月はうっすらと瞳を開けただけで、すぐに彼女から目を逸らす。
    「いや……要らん。食欲がない」
     それから三日月は彼女に背を向けるようにしてソファにうずくまった。紺色の作務衣を着た広い背中をしばらく見つめ、上から毛布を掛けてやる。本当は寝るならばベッドに行くように言いたかったが、こんな時にそんな指摘をするのも野暮というものだろう。だからそれはやめにして、彼女は出来るだけ静かに家事を再開する。本当は今日は家に戻ろうと思っていたけれど、その晩は三日月の家にいた。
     しかし一晩中、三日月はただソファで横になっているだけだった。一人で寝室を使うのも気が引けて、彼女は自分も毛布を持ってきて絨毯に座り、ソファに寄り掛かる。一日くらいこうして眠っても特に問題はないだろう。
    「三日月さん、電気は消しちゃいますからね」
     返事はなかった。彼女はぱちぱちと電気を消してしまって、暗くなった部屋を見渡す。本や何やらがそこかしこにうずたかくビルのように積まれ、まるでここは夜の街のようだった。このデスク周りは、カーテンが開けられていることが多い。月の光が伸びて、白く本のビルを照らしていた。
     不意に彼女の頭に、大きな手が触れる。ぽんぽんと確かめるように何度か頭頂部を撫で、そこからついとそれは移動し、肩まで来た。どうやら暗い中で三日月の手が彼女を探しているようだ。
    「何ですか、まだ起きていますよ」
    「……そうか」
    「お腹が空きましたか」
    「いいや」
     三日月はソファの上、彼女はその下。伸びてきた手を、一応握ってやる。やはり初めての没は堪えたらしい。
    「少しは寝てくださいよ、電気も消しちゃったんですから、今夜は仕事はなしです」
    「ああ……わかっている」
    「朝になったらご飯、食べてもらいますからね」
     それには、返事がなかった。ただ三日月は彼女の手をしっかりと握り、眠ったようだった。この分だと手を離した瞬間に目を覚ましそうだ。そんな風に予測しながら、彼女もまた目を閉じる。
     やっぱりこの人は、脆い。明日は立ち直ってくれるといいのだが。やや気がかりを残しながら、青白い本のビルの影は伸びていく。


     三日月は彼女の心配通りになった。それから一切食事を摂らなくなったのである。参ったものだった。一応起き上がりはする、普通に本を読んでいたり、夜になれば風呂に入り、適当に時間をつぶしている。しかし仕事は手につかなくなってしまったらしい。白紙の状態の原稿用紙やレポート用紙、はたまたノートパソコンの画面などを見つめたまま、動かないでいることが増えた。
     好物の料理を作ったり、甘いものが好きな三日月のためにスイーツを用意したりもした。だが三日月は「食欲がない」と見もしない。口元に持っていっても、嫌々と首を振ってしまう。結局、緑茶と紅茶だけの彼女が来る前のとんでもない食生活に逆戻りしてしまった。
    「三日月さん、せっかく買った桃が駄目になりますよ。もう暑い時期なんですから」
    「……そなたが食べてよいぞ、腐らせるのは忍びない」
     はあ、と彼女はため息を吐いた。最近何を言ってもこれだ。最初の何日かはクッキーだけは食べてくれていた。だがここ数日三日月は本当に水分しか摂っていない。もう季節は夏なのだから、こんな生活を続けさせていたらすぐにばててしまう。何か食べさせなければとは思うのだけれど、当の本人があの調子なのだ。
     最近はあまり使われていないシンク拭きながら、彼女は頭を抱えた。参った、このままではあの生活力のない三日月は死んでしまう。
     そんな風に悩んでいると、今度はずしりと何かが背中にのしかかってきた。どうせ三日月である。
    「何ですか、やっとお腹が空きましたか」
    「いいや……そういうわけではないのだが」
    「お茶ですか」
    「違う」
     じゃあ何なのだ。ぽんぽんと自分にしなだれかかっている腕を叩く。三日月はなかなか上背がある。しかも男性なのだ。こうも寄りかかられては重くて敵わない。だが三日月はまるでマーキングをするように、ぐりぐりと彼女のうなじに額をこすりつけていた。
    そう言えば前にもこんなことがあったなと彼女は思い返す。あれは、春のころ。三日間彼女がこの家を明けて、戻らなかったときだ。
    「大の男が情けないですよ。三日月さんももういい年でしょう、そういえばおいくつでしたっけ?」
    「今年……そうだな、三七になる」
    「えっ!?」
     想定外の年齢が帰ってきたので、彼女は思わず三日月を振り落とす勢いでそちらを見た。
     三日月の容姿は、非常に整っている。まあそれは三日月にとって悩みの種にしかならないわけだが。だが年齢など感じさせない、浮世離れした美しさを持っているため、彼女はせいぜい三十路かそこらだろうと思っていたのだ。化け物か何かなのかこの人は、処女の生き血でも吸っているのか。
    「ちょっと四十路には見えないんですけど」
    「はっはっは、まあな、親族にもおまえは変わらんとよく言われる」
    「ええ、三七、ええ……? なら余計にいい年なんですからもっとしゃっきりしてくださいよ、それなら奥さんや子どもがいても不思議じゃないですよ」
     こんないいマンションに住んでいるのだし、三日月の稼ぎはそこそこいい。いつも渡される財布にはわけのわからない額が詰め込まれていたりする。だがまあ……外に出ないのが最大の難点だが。
    「構わんよ、俺は子どもは好きだが、女子は苦手だ。女子は顔のいい男には甘い」
    「意外にわかりませんよ、そんなこと言ってても、不意に家族とかそういうのがほしくなるかもしれません。家にいつも人がいて、暖かい食事を作ってくれて、お帰りなさいって言ってくれるっていうのは、存外いいものです」
    「暖かく美味い飯を作ってくれて、家にいてくれるだけならば、そなたで事足りる」
    「随分私に失礼ですね」
     どこまで自分に任せるつもりなのだと彼女は苦笑した。そんな、そこまで面倒見てはやれない。彼女は一介の家政婦に過ぎないのだ。
    「たかだか一回の没ですよ、そろそろ元気出してください。ね? 三日月さん」
    「わかってはいる……だが何も手につかん」
     ため息を吐いて、三日月は体を起こした。そのタイミングでマグカップを差し出してやれば、一応中に入っていた紅茶を飲み始める。物は試しとクッキーも渡したが、そちらは首を振って戻された。やはりだめだったか。
    「俺は……仕事をしている間しか、俺を保てん。評価を得て初めて、俺は俺を見てもらえたと実感できる。ゆえに没にされるというのは、なかなか堪える」
    「そうかもしれませんが」
     何やらそこで彼女はもやっとした。評価を得ているとはいえ、それは三日月の名ではないのだ。誰か他の人の名で、他の人が本来三日月が得るはずだった賞や賞賛の言葉をもらい、そうして三日月がこうして身を粉にして作り上げたものを手にしている。それがどうにも、もやもやとする。この人は、こんなにも仕事にかじりついているというのに。それは正当に評価されているうちに入るのだろうか。
    「一度駄目だったからって、三日月さん自身が否定されたわけじゃありませんよ。それに、実際評価を受けるのは三日月さんじゃなくて名前を貸しているほうじゃないですか」
    「それは、そうだが」
    「映画になったとしても、名前が載るのは三日月さんじゃないですし、文庫の作者になるのも三日月さんじゃないです。なのにどうしてたった一回の没でそんなに落ち込むんですか」
     そんなの、彼女だってわかっている。
     三日月はそれでしか自己確認ができないのだ。周りが信じられないのだ。自分の評価には必ず、自分の容姿がついて回る。他人の目に触れているのは美しい三日月宗近という男の顔だけ。中身ではない。本当の自分を見てほしくて、三日月はこんなところに引きこもっているのだ。美しさを見られるのが恐ろしくて、外に出られないのだ。そんなことは百も承知である。だが、一度気づいたもやもやからは彼女は目を逸らすことができなかった。
    「私は悔しいですけどねえっ! 本屋でどれだけ三日月さんが書いた文章が並んでいても、皆三日月さんのこと知らないんですから。本当はこんなに生活能力がなくて、一回没もらっただけでへし折れるような紙みたいな精神してて、それでも頑張って仕事してるって、他は知らないんですからねっ!」
    「……そなた」
    「本当は、本当はこんなに頑張ってるって、誰も知らないんですからね!」
     テレビで、三日月の手がけた仕事を見ることがある。本屋で、三日月があのデスクで書いていた文章を読むことがある。だがその名前は、三日月のものではない。無論、それは彼自身が選んだことだ。彼女が口を出せることではない。
     けれど彼女は何故だか悲しかった。悔しかった。それらを全て、この高いタワーマンションの最上階、一人の脆く、生活能力のないどうしようもない人が、寝食を削ってでも作ったのだと、誰も知らないことが。
     手にしていたマグカップを簡単に洗って水きり場におくと、彼女は三日月の腕をすり抜けてエプロンを脱いだ。くるくるとそれをまとめて鞄の中に突っ込み、そのままそれを手にする。
    「待て、どこへ行く」
    「帰ります。三日月さんがご飯食べないんじゃ、私ここにいても意味がありませんし。掃除は済ませました、お風呂もボタンを押すだけです。それじゃあ」
    「待っておくれ、明日にはまた来るのだろう?」
     それには答えないで、彼女は玄関で手早く靴をはき、ドアノブに手を掛けた。一応少しはためらってから、靴箱の上に掛けてあったそれを手に取り、三日月につきかえす。それを見て三日月はその月夜の双眸を見開いた。
    「いる意味がないのに、持っていても仕方ないですから」
     受け取ろうとしない三日月の掌に勝手にそれを押し付けて、彼女はその扉を出て行った。三日月が追いかけてこられないのを知っていながら、わざと早足で歩き、そのままマンションを出て行った。前にも、こうして部屋を出たことがある。だがそのときは、彼女は派遣の家政婦だった。会社から命令されれば三日月の元へ帰らねばならなかった。
     しかし今は違う。彼女の雇い主は三日月自身である。けれど会社の縛りがない。彼女があの家に通うのを辞めてしまえば、もう何の繋がりもない。
     彼女が三日月につきかえしたのは、預かっていた合鍵だった。
     ポケットで携帯電話が震え始める。見なくてもわかる、どうせ三日月だ。念のためと番号は伝えてあったのだから、掛けてくるのも当然である。だが出るつもりはない。彼女はマナーモードをバイブレータからサイレントに換え、携帯電話は放置した。
    「でも、悔しいじゃないですか……」
     わかっている、怒っているのは彼女のエゴなのだと。三日月は、例え匿名でも評価されることを喜んでいる。自分を見てもらえたと言っている。だが彼女は、それが嫌なのだ。皆があれは三日月が書いたものだ、作ったものだと言い、それを認めてくれなくては寂しい。名前のないあの三日月宗近は嫌だ。
     ため息を吐き、アパートに帰る。しまった、着替えを持って帰ってくればよかったと彼女は頭を抱えた。
     彼女は本当は、何故こんなに三日月のことがもどかしいのかも、よくわかっている。
     けれど三日月がその感情を望まないことも知っていた。だから鍵を返したのだ。
    「……あーあ、馬鹿だなあ」
     ぼそりと呟き、彼女はアパートのガスコンロのつまみを捻った。


     二日間ほぼ鳴り通しだった携帯電話も、今日は静かだった。諦めたか、当初の予定通り男の家政夫でも雇ってくれたのだろう。ならまあ、着替えは適当に処分してもらうかと彼女は半分空になった自宅の箪笥を見る。しかし凝視したところで服が増えるわけでもないので、やめて引き出しを閉じた。
     しばらく家を空けていたせいで、食材が少ない。今日はそろそろ買い物に行かなくてはならなかった。
    「えーと、野菜と、果物……は別に」
     自分で呟いて苦笑する。果物は、単に三日月の好物だから買っていただけだ。自分ひとりになってしまえば特に必要はない。
     明確にその気持ちを認識する前に、忘れてしまうつもりだった。だからやや痛む胸は意図的に無視をする。覚えていたって仕方がない。向こうから望まれない想いなのだから、三日月を困らせる前になかったことにしてしまおう。
    「女子は苦手だ、顔のいい男には弱いだろう?」
     三日月は何度も繰り返しそう言っていた。まあ、確かに、一般的にはそうである。普通の女性はあんな美形が傍にいたらころっと好きになってしまうだろう。だが彼女はくすくすと笑った。三日月ときたら、顔だけならばあんなに非の打ち所がないのに、料理はできないしご飯は食べないし。寝るのはソファで、ベッドは埃を被っている。次の家政婦さんは、きちんと彼に食事を摂らせてくれるのだろうか?
     脆くて、でも誠実で、一度引き受けた仕事は決して手を抜かない。どうしようもなく、一人では生きていけない人だけれど、それでも優しい。野暮ったい冷えとりのリブニットの上に作務衣なんか着て、あんな格好さえしなければ本当に美形なのに。「あはは」と彼女は乾いた声で笑った。
     ご飯を、ちゃんと食べているだろうか。
     ベッドで眠っているだろうか。
     仕事はほどほどに、きちんと休みをとっているだろうか。
     ……気にかかって仕方がない。
     ポーンと高い音が部屋に響く。インターホンだった。彼女の家に来客は珍しい。小包か何かだろうか。のろのろと彼女は箪笥の前から立ち上がった。そうしている間にもう一度インターホンが鳴る。繰り返し五度ほど喧しく。随分せっかちな人だなと、彼女は薄い玄関の扉を開けた。残念ながら、彼女のアパートは家賃が安くて古い。三日月の家のようなカメラ付きインターホンなんてものはなかった。
    「はい、どちら様ですか」
     ドアの向こうに立っていたのは、ストールで顔の半分を覆った背の高い男性だった。品のいい藍色のサマーニットを着て、ベージュのチノパンをはいている。どうやら宅配便などではなさそうである。だがうつむいていてよく顔は見えない。
    「……どちら様です?」
     彼女はもう一度繰り返した。念のため、体はやや引き気味である。せめて覗き穴で確認すればよかったと思いながら、一歩後ずさった。するとふいっと手が伸びてきて、その男性は彼女の部屋の扉を掴む。
     不審者だ! そう思った彼女は慌てて扉を力いっぱい引き、閉めようとした。しかし相手の男性もなかなか力が強く、そうはさせまいとそこを開けて体を滑り込ませる。青ざめた彼女が逃げようとすれば、彼はすかさずその腹に腕を回して引っ張った。大声を上げようとすれば、口も手で覆われる。彼女は力の限りに暴れた。
    「俺だ、頼む、逃げないでおくれ」
    「え……?」
     聞きなれた声がしたので暴れるのをやめ、彼女は振り返った。男性の巻いていたストールが、顔からずり落ちる。三日月だった。彼女の安アパートの狭い玄関に、三日月宗近がいる。
    「え、三日月さん? え、ここ私の家ですけど?」
    「知っておるとも、契約書に住所があった」
    「あ、いやそうではなく」
     外、なのだ。三日月の家ではない。あのタワーマンションから、三日月が外へ出ている。
    「何でこんなところにいるんですか」
    「そなたがこないからではないか」
    「いやなんで、外に出てるんですか」
    「そなたがおらぬからではないか」
     そう言いつつも、三日月はずるずると崩れ落ちそうになった。あの秀麗で真珠のような肌が、いつも異常に透けそうな色になっている。端的に言えば、顔色が悪い。
    「ちょっと、三日月さん結局何も食べてないんですか?」
    「はっはっは……飲まず喰わずだ」
    「冗談でしょう!?」
     彼女は慌てて倒れかけた三日月の下から抜け出て、台所へ走ろうとした。しかし三日月がしっかりとその服の裾をつまんでいる。全く困ったものだ、本当にどうしようもない。
    「大丈夫ですよ、ここ私の家なんですから、ここからどこかに行ったりはしませんって」
    「うむ……」
    「何か作りますから、ちょっと離してください」
     三日月は玄関先でぱたりと動かなくなってしまった。彼女はコンロの火をつけ、昨晩の残りの味噌汁を温める。飲まず喰わずだったのならば、いきなり固形物を食べさせるのは良くない。本当はもっとまともなスープでも作ってやりたかったところだが、残念ながらそんな余裕はなさそうだ。
     茶碗にそれを入れて、彼女は三日月の傍に屈みこむ。突っ伏している体を揺さぶって、食べるよう促した。
    「三日月さん、三日月さんってば。飲んでください、お味噌汁ですよ」
    「うむ……」
    「ほら、早く」
     口元に味噌汁を差し出せば、やや虚ろな目がそれを見て、三日月は彼女の手ごと茶碗を包み込み、やっと唇をつけた。完全に栄養失調である。
     あんなタワーマンションに住んで、栄養失調だなんて馬鹿らしいにもほどがあった。せめてケータリングでもとればよかったのに。
    「ん……美味いな」
    「残り物で申し訳ないですけどね、とりあえずこれは食べきってくださいよ」
    「あいわかった……」
     えっちらおっちら一杯の味噌汁を食べ終え、三日月はそのまま無遠慮に彼女の膝に倒れ伏す。おかげで彼女は立ち上がれなくなった。茶碗を手にしたまま、仕方なしにその姿を見つめる。
     それにしてもなぜ、三日月はここまで来たのか。
    「三日月さん、なんでこんなところまで来たんです。外は嫌いでしょう?」
    「……家から出るまで、二日掛かった」
    「でしょうね」
     以前彼女が散歩に行こうともちかけたときは、手にしていた硝子容器にヒビを入れるくらいの勢いで拒絶したのだ。その三日月が自分から家を出て、かつ三十分近く歩いて彼女のアパートまで来たのだから、明日は槍でも降るかもしれない。
    「酷く……恐ろしかった。皆が俺を見ている気がした、顔を、見られている気がして」
    「そりゃまあ……美形ですからね、ストール如きじゃ隠せませんって」
    「それが嫌だったのだ、俺は。今までずっと」
     だから部屋から出なかった。名前を使わなかった。名を持たず、ふらふらと、まるで存在しない人間のようにただ仕事に打ち込んだ。
    「そなたの言うことも、わかる。確かにもしも、もしも本当に俺の名で心からの評価を得られればそんなに幸せなことはあるまい。俺はそんな日をずっと夢見て来たのだ。……だが叶わなかった。だから、あの部屋にいる。表面的な美しさではない、ただの俺を見てほしい」
     頭を彼女の膝に預けたまま、三日月は呟いた。
     悲しいほどに真っ直ぐな願いを、長い間持ち続けてきた。いつか、いつかと思いながら。だがそれが本当に叶わないと思い知る日が怖くて、玄関から動くことができなかった。もしも美しい顔で微笑んでいたとしても、本当に彼には悩みなど一つもないと、どうして言える。その花の顔の裏で苦しんでいないと、どうして思える。
    「もしも……もしも、美しいから評価されるのだと、俺にはそれしかないのだと、また言われたらどうしたらよいのだ」
     膝の上で蹲る三日月を見下ろしながら、彼女は肩を落とした。そのまま艶やかな髪を撫でる。
    「そうしたら……私が『どうしようもない人ですね』って、言ってあげますよ」
     三日月が彼女のズボンを握りしめる。やりたいようにさせておきながら、彼女も黙って三日月の頭を撫で続けていた。


    「起きてくださーい、三日月さん、朝ですよー!」
     ゆさゆさと紺の作務衣を揺らす。眠たそうに三日月がうっすらと瞳を開けた。シーツに手をつき、起き上がる。彼女のほうはといえば、もうそんな三日月はまるで見ないで洗濯物を箪笥にしまい始めていた。
    「朝はなんだ?」
    「御注文通り今日は和食です、早く顔を洗ってきてください」
    「あいわかった」
     朝は白米と味噌汁と他にはおかず一品だなんて、作る側からしてみれば一苦労である。昨晩の残り物で全て済ませてしまいたいところだが、そんなことをすれば三日月はすぐに手抜きだと文句を言い始める。ああまったく、手のかかる人だ。
     三日月がタオルで顔を拭きながら、シンクで盛り付けをする彼女の元へやってくる。すかさず彼女はその手にお盆を手渡した。デスクに持っていくくらいはしてほしい。
    「デスク、資料とかどかしておいてくださいね。それと布巾で拭いておいてください」
    「すまんが今ちょうど本を広げたところだ」
    「しおりでも挟んで閉じてください」
     有無を言わさずに彼女は三日月に朝食を手渡した。右手でそれを受けとり、三日月は左手も差し出す。どうやら彼女の分も持っていってくれるつもりだったらしいが、残念ながら彼女はもう朝食を済ませていた。
    「もう食べました」
    「む、なぜだ。食事は誰かと食べたほうが美味いと言うたのはそなたではなかったか」
    「三日月さんが起きてくるの遅いんですよ」
     そう言いながらシンクで果物を取り出す。三日月は食後のデザートもご所望なのだ。
     すると三日月はデスクから何か持ち出して、電子ケトルの横に置いた。どうやら書類のようである。何枚かの紙の他に、ペンも残して三日月はデスクへ戻っていった。
    「なんですか? これ」
    「うん? 俺と契約して三か月経ったろう? 試用期間が終わったのでな、本契約だ」
    「なるほど、やっぱり変なところきっちりしてますね三日月さん」
    「はっはっは、褒めてよし」
     だからあまりこれは褒めていないのだが。
     前回の失敗もあり、彼女はきちんとその数枚の紙に目を通した。一瞬だけ手を止め、三日月のほうに目をやる。ソファの向こうに見える広い背中は、こちらを見ていなかった。
    「三日月さん、これ署名捺印以外にも書類が要りますよ」
    「ああ、わかっておるぞ。用意してある」
    「日付とかも大事ですけど」
    「今日は大安吉日だ」
    「抜かりないですね」
    「もちろんだ」
     きちんと確認して、自分の名前を書き、エプロンから出した印鑑を押す。綺麗に折りたたみ、デスクの三日月の元へ持っていった。
    「これ、控えはいただけないですよね?」
    「俺もほしいくらいだがな、無理だろう」
    「そうですよね」
     三日月はそれを両手で受け取り、封筒にしまってデスクの上に置いた。三日月はもう朝食を食べ終えたらしい。入れ違いに空になった食器を下げながら、彼女はシンクへ戻った。三日月の方も、立ち上がって寝室に戻っていく。どうやら着替えを取りに行ったらしい。まあ、こればかりは彼女一人で行くわけにもいかないし、作務衣で出るわけにもいくまい。
     食器を片づけて、エプロンを取る。彼女も簡単にだが出かける支度をした。流石にこの動きやすい恰好で行くのは気が引ける。
    「書類を出しに行くがてら、散歩なんてどうですか? 外に出る練習にもなりますよ」
    「……この間のように、突然手を離して走っていくのではあるまいな」
    「あれはちょっと見たいものがあって走っただけですから」
    「あまりじじいを驚かせてくれるな、俺もいい年だ」
    「そうですね」
     そこで「あ、」と彼女は玄関先から茶封筒を取ってくる。朝郵便受けを確認しに行ったら届いていたのだ。渡すのを忘れていた。
    「刷り上がったみたいですよ、初めての没本」
    「何を言う、二度目の原稿は通ったぞ」
    「二度目で、ですけどね」
     封を切れば、中から新しい文庫本が滑り出てきた。ふふふと唇を緩め、三日月はそれをぱらぱらとめくる。それからその本を本棚の一番目立つところに納めた。彼女も目を細めてそれを見つめる。
     作務衣から余所行きのシャキッとしたワイシャツにパンツと、ちゃんとした格好に着替えた三日月が、玄関先で靴を履いていた彼女の手を取る。大きなそれはまだやはり震えていた。くすくすと声を上げながら、彼女は三日月にも靴を履くよう促す。
    「忘れ物はないですか、書類ちゃんと持ちましたか」
    「俺が忘れるわけないだろう?」
    「どうでしょう、三日月さんにはまるで生活能力がありませんからね」
    「それより外出して女子に話しかけられたらどうすれば良いのだ、あまり冷たい態度も可哀想だろう」
    「そんなこと言ってるからキャーキャー騒がれるんですよ」
     カーテンの開いたデスク脇の窓から、きらきらとした太陽の光が差し込む。本棚の、ど真ん中。表紙が見えるように置かれたその新刊。表紙には作者の欄に、『三日月宗近』と書かれていた。
    「ああそうだ、話しかけられんよう指輪でも買うか」
    「それがいいかもしれませんね、いくら美形でも既婚者に話しかける猛者はそうそういませんよ」
    「ならばついでだ、帰りに参ろう。そなたの指の大きさを知らんからなあ」
    「ええ、そうですねえ」



     後日談 月は愛を知らない


     最近、ちょっと悩んでいる。
     ぱきぽきと音を立てながら、背後で三日月が大きく伸びをした。
    「ぐ、ぬ、流石に二徹は堪える……俺もじじいだからな」
    「ふあ、お疲れ様でした……原稿、いつものとおり管理人さんに渡してきます」
    「ああ、頼んだぞ」
     欠伸をしながら、彼女は目をこすりつつ三日月の原稿の入った茶封筒を手に部屋を出た。管理人さんにそれを渡しておけば、きっと集荷に出してくれるはずだ。いつももっと余裕があるときは、彼女も郵便局までそれを持っていくが、今日は厳しい。寝ぼけ眼で「お願いします」なんてお願いしつつ、彼女はもうひとつ欠伸をした。
     近頃、三日月の仕事が多い。
     三日月は遂に名を明かし、姿を晒し、今まで親族に名だけを借りてゴーストライターよろしく身を隠していたことを発表した。彼女は三日月のことなどこれまでさっぱり知らなかったため酷く驚いたのだが、マンションに引きこもるまで三日月はそこそこ名が売れていたらしく、世間の反響はものすごかった。しばらくの間鳴り止まなかった電話に、彼女は若干嫌気がさしたくらいだ。
    そんなこんなで仕事量は加速度的に増えた。そして端麗な容姿も手伝って、雑誌の取材やテレビのコメンテーターなどの仕事依頼が当然舞い込んできたけれど、三日月はそのすべてを断った。「顔を隠していたとき同様、どうか自分の作品だけを見つめていてくれると嬉しい」と。
    「〆切……今日ので一段落だったはずだよね……」
     エレベーターの中で彼女はポツリと呟く。二つ三つ重なった仕事の納期のせいで、彼女と三日月は丁度二徹目に突入していた。流石に眠いし疲労も積み重なっている。まだ朝の早い時間だけれど、正直今日はもうあとは寝ていたい。
     へろへろになった体で玄関に辿り着き、リビングのドアを開ける。朝御飯……は用意できているが正直食欲がない。
    「届けてきましたよ、原稿」
     そう声をかければ、どうやら彼女が戻ってくるのを待っていたらしい三日月がソファから立ち上がる。とりあえず睡眠を優先したいのは三日月も同様だったらしい。正面に立った三日月の顔に酷い隈があるのを見て苦笑しつつ、一応聞いた。
    「せめてシャワー浴びます?」
    「いや……風呂に浸かっている間に寝てしまいそうな気さえする、遠慮しよう」
    「それは同感です」
     くたりと三日月が立ったまま彼女の肩に額を乗せる。上背のある三日月にそうされると、結構重い。ぽんぽんと背を叩いてやると、「うむ」と小さく返事が返ってきた。眠たい目を擦りながら、寝室の扉を開けて大きなベッドに倒れこむ。着替えくらいはしたかったけれど、お互いもう余裕がない。
    「おやすみなさい……」
    「うむ、おやすみ……」
     ものの数秒で隣からは寝息が聞こえてきた。彼女ももう目を開けていられなくなって、すぐにうつらうつらとし始める。
     これではいけないなあと、やはり少しは思った。
     最近、ちょっと悩んでいる。それは彼女ともども、三日月の生活が再び仕事でがたがたになりつつあることだった。


     遠くで何かが喧しく鳴っている。元々彼女は目覚めのよいほうなのだが、徹夜が堪えて苛々としながら目を開けた。部屋の中は薄暗く、とっぷりと日が暮れているのがわかる。今は何時だ。
     頭を振りながら時計を探しつつ、やっと彼女は音の正体に気がついた。電話だ。彼女の頭が覚醒したのと、三日月が隣で起き上がったのはほぼ同時だった。
    「もしもし」
     相変わらず、仕事関係のことは反応が早い。三日月は部屋から飛び出していくと、すぐに受話器を取り上げた。
     彼女は枕元に放り出されたスマホを手に取り、時間を見た。もう夕方だ。部屋の片づけをして、夕飯を出さなくては。怠くて重い体をなんとかして起き上がらせている間に、リビングから三日月の会話が漏れ聞こえてくる。
    「……なに? その原稿は今朝方送ったはずだ。俺が嘘など吐くものか」
     不穏な単語に、彼女はベッドを降りた。今朝の原稿といえば、彼女が管理人に預けたもののはず。三日月から預かって、寝ぼけ眼で下に届けに行ったものだ。
     デスクの傍では、三日月が険しい表情で受話器を耳に当てている。床にはいくつかの本と資料が散らばっていた。
    「わかった、とにかくそちらには届いておらんということだな。……いや、相変わらず俺の原稿は手書きだ。控えなぞない。心当たりを探すか何か考えよう。すまん、手間をかける」
     ピッと通話を終えると、三日月は受話器を戻した。それからふむといいつつ唇に手をやる。
    「どうかしたんですか」
    「いや……今朝そなたに預けた原稿が、編集部に届いておらんらしい」
    「えっ?」
     三日月はどさりとソファに座り込んで、マンションの高い天井を仰いだ。疲れた頭はなかなか事態を正確に把握できない。要は、書いた原稿がどこかへ行ってしまったということだろうか……?
    「そなたは知っているだろうが、俺の仕事は大半が手書きだ。控えはない。所在が分からんとなれば、もう一度書き直すか探すかだ。そなたが失くしたとは到底思えん、であれば管理人から集荷へ渡る際にどこかへ行ったか、集荷の最中で、ということになるが……」
    「ど、どうするんですかそれ」
     〆切は今日だった。きっと編集部でも大騒ぎになっているからこそ、三日月のところへ連絡が来たのだろう。
    「書き直せ、と言われれば出来んことはない。内容は覚えておる。再び書くだけだ」
    「いやでも……」
    「探すよりそちらの方がいいかもしれん。当てもないからなあ」
     はは、と乾いた笑いを零して三日月はこきこきと首を鳴らした。あれはもう仕事に入る構えである。
     彼女は辺りを見渡す。雑然とした部屋、ろくに用意もできなかった食事。ガタガタになりつつあるこの生活。これで再び三日月に仕事に没頭なんてさせたら、とんでもないことになる。それに、それに。
     彼女は傍にあった上着を引っ掴んだ。本当はこの部屋をまず何とかしたかったのだが、それどころではない。先にすることがある。
    「私、探してきます」
    「うんっ?」
     彼女がばたばたと外出の支度を始めたので、三日月はソファの背もたれから体を起こした。簡単に髪を結い直して、彼女はパッと水だけ一杯飲む。三日月用に鍋の中に残っていたクラムチャウダーを皿に一人分だけよそって、バケットと一緒にお盆に乗せた。
    「三日月さんはこれでも食べて待っていてください。ちゃちゃっと探してきますから」
    「いや、待て。書き直すことだってできるぞ」
    「何言ってんですか、二徹してまで書いたものでしょう?」
     そうだ、何より彼女はそれが気になっていた。三日月が心血を注いで作り上げたものを、彼女が集荷に出したことで紛失しただなんて気が気ではいられないのだ。
    「集荷で手違いがあったやもしれん。そなたがわざわざ行く必要など」
     彼女は簡単に髪を結い直して上着を羽織り、玄関先で鍵をポケットに入れる。三日月がそのあとを慌てたように追いかけてきた。まだ、外に出るのは得意ではないのだ。
    「念のためですから、平気です。じゃあ行ってきますから」
     何とも言えない表情の三日月を残し、ぱたんと玄関を閉める。きちんと鍵までかけてから、彼女はふうと息を吐いた。ほんの少しだけ、指先が冷えている気がする。
     まずはどこから当たったらいいだろう。とりあえず彼女は管理人室の扉を叩いた。もう夜だから、要るかどうかはわからなかったけれど、一応だ。
     するとほどなくして「はーい、どうしたのかな」という返事と共にガチャリとそこは開いた。大きな体躯だが穏やかな容貌の管理人さんが顔を出す。
    「あ、あの、すみません」
    「おや、君は。……どうしたんだい?」
     にこやかに笑って、彼は首を傾げる。若草色のニットの上に上着を着ているところを見ると、もう帰るところだったのだろう。それに申し訳なく思いながら、彼女は口を開いた。
    「すみません、今朝方私、茶封筒をお渡ししたと思うんですが」
    「ああ、覚えているよ。いつものように集荷に出したけれど。どうかしたのかな?」
    「な、何時くらいに出したんですか? 集荷の方、いつもの人でした?」
     彼女が慌てて聞いたので、管理人の男性は「えーっと」と言いながらのんびり管理人室の引出しをあける。ぱらぱらと台帳を捲り、日時を確認しているようだ。
    「昼過ぎに、いつものように来ていたようだねえ。ちゃんと署名ももらっているから、間違いないよ。集荷が、どうかしたのかな?」
     ……と、いうことは。三日月の原稿は一応無事にマンションからは出たということだ。どうせならここに残っていやしないかと思っていたのだが、残念ながらそうはうまく進まなかったらしい。彼女は額に手をやったけれど、そうしていても仕方がない。
     問題はここからである。集荷の後を追わねばならない。これは結構骨が折れるし、途方もないことだ。彼女は気を取り直して顔を上げて、管理人さんに頭を下げた。
    「いいえ、大丈夫です。すみません、帰るところを。お手数おかけました!」
     ぱっと踵を返してエントランスを出ようとすると、彼は台帳を戻しながらこちらに声をかけてくる。
    「ああっ、私に力になれることがあれば言ってほしいんだけどな!」
     ばたばたと足音を立てて出てきた管理人さんを振り返る。そう言えばいつも、どこか親身になってくれる優しい管理人さんだ。彼女はぺこりと頭を下げた。
    「大丈夫です、ありがとうございます!」
     ぱたぱたとマンションの外に駆け出る。スマホを取り出し、集荷してくれた配送業者の事務所は、どこが一番近いのか調べた。十中八九、一度そこに集められているはず。
    三日月のマンションから徒歩でそう時間のかからないだろう場所めざし、彼女は走り出した。向かい風が冷たく、跳ね上がった前髪に吹き付けていた。


    「ないなあ……」
     腕時計を見る。家を出てからもう夕に一時間は経過していた。だが原稿は見つかるそぶりを見せない。彼女は膝に手をついて息を整えた。
     あれから配送業者の事務所でドライバーに問い合わせてもらい、かつ他の事務所も回ってみた。しかしそれらしい茶封筒は未だ行方不明。途中何度か三日月からの電話があったのだけれど、走って移動していたために出られなかった。
     こんなことならきちんと自分で郵便局に持っていくんだった。そうしたら追跡番号だけでもつけられたのに。彼女は頭を振った。いくら二徹で疲れていたとはいえ、最後まできちんと原稿を届けるべきだったのだ。
    「もう少し、探そう」
     もしかしたら入れ違いに出版社に届いているかもしれない。望み薄だがそうだったらいいのになあなんて思いながら彼女はもう一度駆けだす。もう少し先に、配送業者の少し大きな集荷場所があるのだ。もしかしたらそこに滞っているのかもしれない。
     しかし途中書店で三日月の本のポスターが目に留まり、足の速度を落とす。そう言えばあれ、ついこの間書いていた原稿だ。タイトルに見覚えがある。
     はっはと荒い息を吐きながら、彼女はじっとそれを見つめた。大々的な煽り文句、目立つように配置されたタイトルに三日月の名前。宣伝材料に自分の写真は入れてくれるなと、編集部にきつく三日月が言い含めているので、あの姿はない。ただ発売日やら何やらの必要なことだけが記載されたポスター。
     これが、ずっと三日月の望んでいたものなのだ。
     容姿抜きの、実力だけの評価。三日月自身をぶつけた作品にただ向き合ってもらい、正当な評価を得ること。それをずっとずっと、三日月は望んでいた。それが今、本当に正しい形で叶っている。
    「……探さなきゃ」
     見つけなくては、三日月の原稿を。
     彼女は書店に背を向けた。今夜は風が強い。前に進みにくい。けれど行かなくては。
     走り出そうと、ぐっと足に力を入れたそのときだった。
    「こんなところにいたか! 探したぞ」
     ぐいと手首を掴まれて引かれる。ぎょっとして彼女は振り返った。ひょこりと頭頂部で跳ねる髪が視界に入る。
    「み、三日月さん?」
     どうやら彼女同様走ってここへ来たらしい三日月が、肩を揺らして腕を掴んでいる。相変わらずストールで顔の半分くらいまでを覆っていた。
     彼女を見つけたことに安堵したのか、ほっと息を吐きつつ、三日月はきょろきょろとあたりを見渡す。やはり人目は気になるらしい。
    「探したぞ、何故電話に出なんだ」
    「あ……ごめんなさい、走ってて気がつかなくて」
    「いや、構わんさ。さあ帰ろう、風が冷たい、体を壊してしまうぞ」
     三日月の足はそのままマンションへと戻ろうとしたので、彼女は慌てて尋ねた。そう言われて「はいそうですか」と帰れるような状況ではない。
    「ありました? 原稿!」
    「いや、先程聞いてみたがやはり届いておらんらしい」
    「じゃあ帰るどころじゃないですよ! この先にまだ配送業者があるので私行ってきます!」
     踵を返そうとすれば、三日月は首を振って両手で彼女のことを掴む。その拍子にストールがややずり落ちた。
    「いいや、これ以上はキリがない。一度戻ろう」
    「いやでも、探せばあるかもしれません。三日月さんは先に戻ってていいですから」
    「構わんと言っているだろう? 何をそんなに躍起になっている」
    「じゃあなんでそんなに普通なんですか!」
     思わず大声を上げてしまい、彼女はハッとして口を噤んだ。三日月がぱちくりと大きな瞳を瞬かせる。
     書店の前だったこともあり、周囲の人々がややざわつきながら彼女とストールで顔を覆った三日月をちらちら見ていた。じわりと視界が滲み、彼女は俯く。情けない、だが視線を集めるのは三日月が一番苦手なことのはず。なんとか注目されないようにしなければと、もうしっちゃかめっちゃかになった頭を振り絞ったとき、三日月の方からふわりとストールを顔に巻かれた。穏やかな声が頭上から降ってくる。
    「ここはちと、人が多いな。向こうへ行こう」
     ふんわりとストールからは三日月の匂いがする。彼女は手を引かれるまま、三日月としばらく歩いた。
     昼間は散歩する人々の多い街路樹も、日が暮れてからはそうでもない。そんなベンチの一つに腰掛け、ぽんぽんと三日月は隣を叩く。少し迷ったけれど、彼女は大人しくそこに座った。
    「……何をそんなに焦っている?」
     どこか愉快そうな声音で、三日月はそう尋ねてきた。何をそんなに楽しげなのだ。原稿も見つからないのに。
     だがそんな三日月の様子は、強張っていた彼女の肩の力を程よく抜いた。脱力してはあと息を吐く。この人はどこか、そういうところがあるのだ。
     とても、脆い人なのだけれど。生活能力はないし、放っておけばお茶だけで生きていこうとするし。それでも実直で、優しくて。一度請け負った仕事は絶対に手を抜いたりしないし、それを受け取ってもらえれば嬉しそうに笑う。そんな三日月の笑顔を見ると、食事を摂らなかったことを怒るより先に、とりあえず「お疲れ様でした」なんて言いたくなるのだ。
     だからこそ余計に、彼女は原稿を見つけたかった。
    「ごめんな、さい。原稿、見つけられなくて」
     やっとこさ彼女がそう呟けば、三日月は「うーん?」なんて首を捻りながら笑う。
    「そなたが失くしたわけではないだろう?」
    「でも、ちゃんと、出してれば。郵便局とか、手渡しで」
    「はっはっは、俺もそなたも徹夜明けで疲れていた。そうもうまくいくまい。忙しさに取り紛れ、仕方のないことだったのだ」
    「それがずっと……っ私、最近気になってたんです!」
     ぎゅっと上着を握りしめる。
     最近、ちょっと悩んでいた。三日月だけではなく、彼女の生活も共倒れになりつつあることに。
    「わ、私まで、一緒になって生活能力もなく、三日月さんの仕事に引きずられてたら、一体なんで一緒にいるのか、わからなくなってしまいます。部屋も散らかってるし、この二日まともに食事だって。私、何のためにいるのか……っ! 私には、それしか、ないのに」
     彼女が初めて三日月に出会ったとき、一介の家政婦だった。生活能力のない三日月に、食事をさせて寝室を使わせ、とにかく人並みの生活を送らせるための家政婦だった。最初は本当に手のかかる人で、その上性格は拗らせているし、なんて面倒なんだろうと思ったものだ。それでも放っておけなかったのは、傍でそれを見ていたいと思ったのは、彼女自身が、三日月に憧れていたから。
     就職活動をしなければならなくなったとき、彼女は正直どれもぴんと来なかった。人並みにリクルートスーツを着て、様々な企業を回ったし、説明会や面接だっていくらか行ったのだけれど。なんだかどれも他人事のようにしか考えられなくて、結局就職はしなかった。
     何となく生きていける程度に学生時代からのアルバイトを続け、僅かにあった貯金で生活をしていた。だがそれではやっぱり安定しない。だから、せめて自分のできることで仕事をするかと家政婦の派遣事務所に登録した。そうして高級タワーマンションの最上階を派遣先と与えられて、彼女は初めて、その人に出会った。
     彼女が持ち合わせなかったもの、憧れてはいても、見つからなかったものを持つ人。。生活や寝食を捨ててでも、何かにひたむきに、誠実に打ち込む眩しい人に。
    「それなのに、三日月さんの原稿をちゃんと渡すことまでできなくなったら、、私……っただ、足を引っ張っているだけです……っ!」
     もう、三日月は自分の望みを果たしたのだ。きっと、彼女が傍で支えてやらずとも、何だってできる。それなのに。
    「……そなた、そんな風に思っていたのか」
     低い三日月の声が、ぽつりと呟く。呆れられたって仕方がない。だって彼女は、今まで三日月を支えることで何となく自分のしたいことを補っていたのだ。生活能力のない三日月の傍にいることで、自分の存在意義を見出していた。そんな浅ましいことを聞いて、幻滅しなはずがない。
     ぽたぽたと手の甲に涙が垂れた。頬を滴るそれを拭おうとすると、ぽんぽんと大きな手で頭を撫でられる。
    「そなた、何か勘違いをしてはおらんか?」
    「え……?」
     静かな声に顔を上げれば、三日月は真っ直ぐに微笑んで彼女を見つめていた。月夜を浮かべた瞳が、やんわりと笑んでいる。
    「まあ確かに、俺が初めに雇ったのは家政婦だがなあ……この間俺がそなたに書かせた本契約書を忘れたか?」
     あ、と彼女は口を開く。
     署名捺印以外に、色々な書類が必要だったそれ。出す日も縁起のいい日でなくてはいけなかった、あの契約書。
    「今のそなたはただの家政婦ではないだろう?」
     ふふ、と笑いながら三日月は彼女の眦から涙を払う。それから三日月は楽しげに美しい指を一本伸ばした。
    「まあ確かに、そなたに出会って俺は様々なものを失くしたな。挙げればきりがない」
     ひとつ、と人さし指。
    「茶を淹れる程度の最低限の生活能力」
     ふたつ、と中指。
    「食事をしなくとも済んだ体」
     みっつ、と薬指。
    「寝室などなくてもよかった睡眠」
     よっつ、と小指。
    「片付けるはずだった衣服や荷物」
     いつつ、と親指。
    「それから、仮初の名」
     全て指を開き切って、三日月は愛おしそうに掌を撫でる。失くしたと言いながら、ひどく幸せそうで、嬉しげな顔。
    「それから極めつけは家政婦だな。ただ俺の生活を維持するだけの家政婦は失ってしまった」
     開いた手で彼女のそれを取って、三日月は包む。きゅっと暖かい感触だった。
    「だが代わりに、俺と共に生活をし、食事を摂り、寝室を使い、片づけをし、俺自身の名を呼んでくれる、愛おしい女子を得たと思うんだが……違うか?」
    「でも、私……何にも、出来ない……」
     そう言えば、三日月はゆっくりと首を振った。さらりと艶やかな黒髪が揺れる。
    「それは違うなあ。なにせ俺には生活能力がない。俺はその子がいてくれねば何もできん男なんだが……傍にはいてくれまいか?」
     じわりと再び視界が滲んでいく。もう流石に我慢が出来なくて、彼女は嗚咽を上げた。はっはっはなんて笑いながら、三日月がなんとなしに距離を詰めて寄り添う。
    「今から原稿を書きなおすとして……まあ夜通しの作業になるだろうなあ」
    「またですか……いい加減、ちゃんとご飯食べて寝てください」
    「む、先程俺に一人夕食を食わせておいて何を言う。何度も言うが食事は誰かと摂るから美味いと言ったのはそなただぞ」
     むうとむくれた三日月の顔を見て、くすくすと笑いがこみあげてくる。確かにそうだ、そう言った。
     少し落ち着き始めた呼吸を整えて、彼女は夜空を見上げる。風は強いけれど、その分雲がなくて星が綺麗だった。三日月の部屋の大きな窓からは、きっともっと美しくそれらが見えるのだろう。もうカーテンを閉め切っていることもないのだから。
     二人は手を繋いだままよいしょと立ち上がった。とりあえず帰って部屋を片付けて、仕切り直しである。
    「ところでよく私の居場所がわかりましたね、三日月さん」「うん? ああ、管理人が連絡をくれてな」
    「ああ、あの……管理人さんはよく私が三日月さんのとこにいるってわかりましたね。たまに原稿届けてるからですかね」
     だがそれも頻繁ではないのだがと首を傾げていると、三日月はにこりと笑った。
    「いや、あれは俺の弟でな。そなたの顔も名も、俺とどういう間柄なのかもよく知っている」
    「はあっ!? どういうことですかそれ!」
    「どういうこともなにも、あのマンションは俺の親族のものでな。まあ俺が隠れ住むにも都合が良かったということだ」
     大らかに笑いながら、三日月は一歩足を踏み出した。手はもう、震えてはいない。二人一緒だから、歩いていける。
     生活能力のない三日月と、生活能力しかない彼女と。二人いれば丁度いい。
    「夜通しの仕事に甘いものを頼みたいんだが」
    「いいですよ。その代わり終わったら即ちゃんとした食事を摂ってゆっくり寝てもらいますからね」
    「はっはっは、いいぞいいぞ。では共に帰るとしよう」
     二人で暮らす、あの部屋へ。

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    2023/03/07 17:23:29

    【Web再録】月には生活能力がない

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    #みかさに #刀剣乱夢 #現代パロディ
    生活能力のない三日月宗近と家政婦の話。

    2017年に発行したみかさに現パロ本です。
    素敵な表紙を描いてくださったとろひこ様、まことにありがとうございました。

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