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    花の檻


     良縁だったとしても、売られたも同然だ。
     白い角隠しの下、ぼんやりと少女は自分の正面を見つめた。慌てて誂えられた白無垢は、彼女にはやや大きい。そんなものを着る年齢に、まだ少し満たなかったのだから仕方がないのだろう。大きいがためにずり落ちてきた角隠しがたくし上げられて、視界が開けた。だが相変わらずそこは、彼女の心中からかけ離れた宴会会場である。
    「白無垢は重くはないか」
     ゆったりとした声で問われる。隣で微笑んでいるのは、ほぼ面識のないままに夫になった男性だった。年齢は二〇も上で、もう三五になるとか言うその人。彼が夫だから結婚が嫌だというわけではないが、それでも受け入れる気にはなれない。優しい問いかけに、少女はただ頷いた。
     金屏風の前に、座っていたくなぞなかった。だからただ、半分角隠しに覆われた視界の正面を見つめている。それは纏っている花嫁衣装同様、白く濁ってその目に写った。



     名門華族、三条家の嫡男。年は二〇上の今年三五歳で、現在は帝国軍人として大佐の地位についている。女も見惚れるような美しい容貌の持ち主で、社交界でも注目の的。だがそれでいて浮いた噂一つなく、そこがまた好ましいとされた。
     少女が、結婚前に夫となる三日月宗近に知っていたことはそのくらいである。商家の出身で、まあ俗にいう成金ではあったけれど、少女の家と三日月とでは釣り合いが取れるはずもなかった。仮に、縁を結ぶとしても妾がせいぜいである。それをなぜか御正妻にと言われ、一五で早々に嫁に行く羽目になったのはどういうわけか。まあなんとなしに一八までにはどこぞへ嫁にやられるだろうなと予測はしていたものの、まだ師範女学校に進学するつもりだった少女には突然の輿入れは青天の霹靂だった。まさか高等女学校の途中でこんなことになるとは。
     体の痛みを堪えるために、彼女は掛布団を被りぎゅうっと目を閉じていた。腰も痛い、足の関節のあたりも痛い、もう熱でも出たのかと思うくらい、体の節々が痛い。
    「大事ないか」
     先に起きた三日月が、労わるようにして横になっている少女の頭を撫でる。誰のせいでこんな目に遭っていると思っているのだと、彼女はふいと顔を反らした。それでも三日月は大らかに笑って見せる。どうやらまるでダメージは受けていないらしい。
    「うんうん、体が痛むならば今日は一日寝所で休むといい。俺も今日は非番だ。ずっとそなたについていることができる。食事やら何やらはここに運ばせような」
     よっぽどいらぬ世話だと言ってやりたいが、それもまた癪だ。少女は三日月に背を向けたまま、無言で指先が白くなるほど布団を握りしめる。婚礼のとき、少しでも優しい人かもしれないと思ったことを死ぬほど後悔する。とんでもない、この男は狼だった。
     一通りの儀式が終わり、重たい白無垢を脱いで彼女はこれから夫婦の部屋になるのだという寝所に通された。無論彼女個人にも部屋は用意されるそうだが、その和室が寝室になるらしい。並んだ二つ枕に少女は血の気が引いた。まだまだ彼女は子どもである。確かに初潮は迎えていて、子どもは産める体だ。だが成熟しているかしてないかで言えば、答えは否。だが向こうもそれはわかっていると思っていた。婚礼のとき話しかけてくれた声はとても柔らかで優しかったし、突然結婚することになった少女の胸中だとか、まだまだ子どもで男女間のそういうことに疎いことを配慮してくれるものだと考えていた。
    「やあ、疲れただろう? 甘いものでも飲むか?」
     寝巻の単衣を着た三日月が寝所に現れ、少女は身を固くして警戒した。お互いもう一枚の布しか纏っていないのだ。そういうことになる可能性は大いにある。
     だが三日月はやんわりと微笑み、彼女に甘い砂糖水を飲ませてくれた。程よく冷えて、涼やかな甘さのそれはとても美味しくて、思わず彼女は顔を綻ばせる。案外この人は悪い人でもないのかもしれない。それに、年相応に自分を扱ってくれて、男女間のそういうことは待ってくれるかもしれない。彼女は不服な結婚ながらもそう考えて、とりあえず共に生活する分には支障がないよう、挨拶をするつもりで布団の上に指を付き、三日月に頭を下げた。
    「……ふつつかなものですが、どうぞよろしくお願いいたします。えっと……旦那様」
     何と呼べばいいのかわからなくてそう言った。すると三日月のほうは一瞬だけ、不思議な月の形に光を宿した瞳をまあるくして驚いた。それから嬉しそうに花の顔を蕩かせて、にこりと頷く。
    「ああ、こちらこそ末永く頼むぞ。俺達はもう夫婦なのだから、そなたも俺相手に隠し事や遠慮はいらん」
    「はい、ありがとうございます」
     もう嫁に来てしまったことは仕方がないのだから、せめてなんとか三日月とうまくやろうと思った。ここで居場所を作らなくては、彼女は今後生きていけなくなる。諦めてしまうにはまだ早い。だからと思っていたのに、一通り髪を梳いたり寝支度を整えたりして明かりを消した途端、あっさり三日月に頂かれた。
     もうその鮮やかさに、何があったのかあまり覚えていないレベルである。あれよあれよと言う間に単衣を脱がされ、初めての痛みを感じさせない程度に体を蕩かされ、気がついたら処女を失っていたのだ。こんな話があるか。「無理です、できません」と息も絶え絶えに腕を突っぱねた少女に、子どもをあやすようにして「大丈夫だ」「すぐに気持ちよくしてやろうな」と言い聞かせながら、体を開かされた。しかも翌日腰が痛すぎて起き上がれない程度には抱きつぶされた。せめて加減というものを知れ。
     そういうわけで彼女は昨日に輪をかけて不貞腐れて布団を引き被っているのだ。そんな態度にもかかわらず、三日月のほうは全くの無傷であるが。
    「んー、何か食べたいものはあるか? 大抵のものは作らせることができるだろう。そなた、家では朝何を食べていた?」
    「……いりません」
    「それはよくないなあ。まだ幼気な身だ、しっかり食わねば成長せんぞ」
     その幼気な体に昨晩何をしてくれたのだ、胸に手を当てて考えてみろとよっぽど言ってやりたかった。だが体を動かすたびに腰に鈍痛が走るのだからやっていられない。
     顔をしかめて気だるさに耐えていると、三日月がするりと再び布団の中に入り込んできて彼女の体に腕を回す。彼女はぎょっとして身を強張らせた。昨日あれだけしたのに、まだするつもりなのか。だがしかし三日月は温めるように彼女の腰を摩って、すりすりと背を向けている頭に頬を寄せているようである。ふふふなんて笑い声も聞こえた。
    「うんうん、俺の奥方は可愛らしいなあ。一等愛らしい当代一の嫁御だ」
     そう言って、三日月は嬉しそうに切りそろえてある少女の髪を撫でる。全く何を考えているのかわからない旦那様だ。彼女は三日月から離れることは諦めて、再度目を閉じる。上等な布団と、暖かい三日月の体温とで若干ながら体の痛みは軽減されて、昨夜あまり眠れなかったこともあり、少女はゆったりと眠りに落ちて行った。



    「やあきみが三日月御寵愛の奥方かい? 思ったより若いな、きみそういう趣味か」
     婚礼の翌日から、少女は三日月の友人にひっきりなしに会わせられた。今日は同じ華族、五条の御曹司である。普段和装の多い三日月に対して、五条の鶴丸国永はまっ白いスーツに身を包んでいる。
    「そういう趣味とは何だ?」
    「おいおい、世間じゃ噂だぞ。社交界の花形であるきみが、随分年下の奥方を迎えたってな。確かに若い。きみ、いくつだ?」
    「……今年、一五になります」
    「こりゃ驚いたなあ」
     本当は彼女も三日月の友人を伴ったお茶の時間などに付き合うのではなく、奥の部屋に引っ込んで本でも読んでいたい。けれど三日月がそれを許してくれないのである。どういうわけか三日月は家にいるときも外出するときも少女を傍に置きたがった。新婚初日にずっと寝所に引きこもってしまったせいもあり、三条の人々も「仲のよろしいこと」なんて微笑ましがってそれを止めやしないのだ。彼女の意志なんてまるで気にもされない。彼女からしてみても時代錯誤めと叫びたい気持ちで一杯であるが、この家は錯誤上等のそれはそれは御立派な旧家である。もう諦める他ない。
     やや渋く感じるお茶を飲みながら、茶菓子の練りきりに楊枝をさす。毎日綺麗な着物を着せられて、甘いお菓子を食べさせられて、彼女一人では外にも出られない。これでは人形と同じである。こうしている間も三日月はにこにことしながら「頬に菓子がついているぞ」なんて手拭いで拭いてくれる。
    「まあ、そういうわけだ。俺も身を固めたんでな、暫くはお前の遊びには付き合ってやれん。社交界に顔を出すようなことも少ないだろう。非番の日はこれの傍にいたいんでな。用があるときはお前が来い」
     ほけほけと笑いながら、三日月は彼女の肩を抱く。彼女は眉間に若干皺を寄せながら湯呑を空にした。そんな様に鶴丸は苦笑しつつ三条邸を後にする。玄関先まで見送りに出た二人は、鶴丸の乗った車が遠ざかるのをじっと待った。
     固い造りの三条の門。ここから足を踏み出すときには、いつも隣に三日月がいる。……ちなみに今もいる。ずっと肩に腕を回されていて、どこにも逃げないよう縛られているような気分だった。
     遠く消える車を見ながら、唐突に走ってそれを追いかけたくなった。自分はここから出られない。どこかへ行きたい。自分の好きなことをしたい。ここではない、どこかで。
    「どこへ行く」
     腕を掴まれて、ハッと我に返る。髪を揺らし、少女は振り返った。三日月がやんわりと微笑んだまま、彼女を見下ろしている。品のいい藍色の着物が風に吹かれて揺れた。紗綾柄の生地で作られたそれは、同じものを使って彼女にも一着仕立てられている。それを着ているとき、三日月は酷く嬉しそうに笑っていた。だが彼女はそれがどうにも落ち着かなくて、どうしたらいいかわからなくて、ただ俯くしかできなかった。
    「……どこにも、参りません」
     どこにも、行けません。
     腕を掴まれたまま、高い空を見上げる。やはりそれはどこか濁って見えた。
     邸に戻り、三日月の後について廊下を歩いていると、三日月は自室を通り過ぎた。普段からのんびりした人ではあるが、まさか自分の部屋を忘れたわけではあるまい。彼女は慌てて声をかける。
    「旦那様、お部屋を通り過ぎました」
    「ん? ああ、構わん。ちょっと行くところがあってな。ついておいで」
    「?」
     三日月は彼女の手を取ると、すたすたとどんどん廊下を進んでいく。途中異母兄弟の小狐丸とすれ違って、「おや兄上、義姉上を連れてどこへ」なんて聞かれたけれど、三日月ははっはっはといつものように笑ってそれを流した。三日月はいつも、どこか何を考えているのかわからない節がある。
     三条邸は広く、彼女も自室と寝所と三日月の部屋くらいしかまともに場所を覚えていない。三日月が向かっているのは、随分邸の奥まった場所のようだった。
    「旦那様? どちらへ」
    「なに、直に着く。おお、この扉だったか」
     邸の南側の廊下、その突き当りにある扉に三日月が手を掛ける。だがどうもしばらく開けられていないらしく、それはうまく開かなかった。何度かぐいぐいとそれを押すも、びくともしない。三日月は顎に手を当て「うーん」と頸を捻ったのち、終いには扉の下のほうをガツンと蹴り飛ばして開けた。
    「旦那様!?」
    「うむ、開いたぞ」
     開いたというより開けたである。思いの外、三日月は最終的には力技でなんとかする性格のようだ。驚いている少女を振り返り、三日月は笑顔でその手を再び引く。
     扉の向こうは、外に繋がっているようだった。そこには一つしか下駄がなかったため、三日月はそれを履くと彼女のことを抱き上げて表へ出る。邸の端ではあるが、南側に面しているためかとても暖かかった。
    「旦那様……ここはどこですか」
    「んー、俺が子どもの時分によくここから抜け出していた。家の者がうるさくてなあ、なかなか遊びにも行けなかった。習い事も多くてな」
    「……」
     少女を抱えあげたまま、三日月はそこを歩く。やや奥まっているが日当たりのいいところで立ち止まると、あたりを見渡した。そこは井戸もなく、ただ樹木が植えてあるだけで誰も来そうにない。
    「うむ、このあたりならばいいだろう」
    「何にです?」
    「そなたにここをやろう。好きに使うといい」
    「え?」
     抱き上げているため自分よりも視線の高くなった少女を見上げ、三日月は目を細める。
    「邸の外へは俺がいなくては出れんかもしれんが、ここへは好きに来るといい。そうさな、土も柔らかだ。花でも育てたらどうだ?」
     三日月は少女を膝に乗せて屈んだ。それから自分の手で土をやや掘り返し穴を作る。どうやらそこへ種を埋めろということらしい。少女は落ちないよう三日月の首にしがみつきながら、それを見た。
    「俺が帰るのを待つ間、退屈だろう? まあ俺も面倒な帝国軍人だ。給料分は仕事をせねばなるまい。だからその間、ここにいるといい。ここにいる間は誰もそなたの邪魔はせぬよう、家の者には言っておく」
     確かに、退屈には変わりがない。ずっと部屋にこもって本を読んでいる。その間たまに三日月の親戚である今剣や石切丸や岩融が顔を出してはくれるものの、すぐにどこかへ行ってしまうのだ。もっと話していってくれればいいのにとも彼女は思うのだけれど、実はそれは三日月が「俺の居ぬ間にあまり妻に近づかないように」なんて言い含めているせいだと彼女は知らない。
     手を伸ばし、柔らかな土に触れる。久方ぶりの感触だった。それに顔を綻ばせて少女は三日月を見る。
    「ありがとうございます、旦那様」
     嬉しそうな彼女の様子を見て、三日月もまた微笑んだ。



     南側の棟、突き当りの扉の外には赤い鼻緒のものと青い鼻緒のもの、二足の下駄が置かれた。それから少女は高価な着物に襷をかけ、日中は日がな庭いじりをするようになったのである。女中に見られると「若奥様!」なんて止められてしまうのでこっそりと。三日月はその後ろ姿を眺めているのが好きだった。
    「なあ、あの青い着物は気に入らなんだか?」
     庭石に腰掛けて、せっせと雑草を抜く少女に声をかける。日に焼けないよう帽子を被せられた少女は、振り返って三日月を見ると困ったように首を傾げた。
    「あれが一等高いので。土で汚れてしまいますから」
    「ふむ、俺はあれが一番気に入ってるんだが」
     せっかく自分の着物と揃いで作らせたのだから、もっと着てくれればいいのにと思う。汚れたらまた仕立て直せばいいだけだ。そんなことよりずっと、着古してくれた方が嬉しい。
    「俺の居ぬ間、変ったことはないか。そなたもここへ来てしばらく経つだろう、不便はないか?」
    「いいえ、特には」
    「そうか、よきかなよきかな。そう言えば近々ちと遠出をすることになってな」
    「遠出?」
     一応軍でも高い地位にいる三日月は、視察やら何やらでたまにこの帝都を離れることがある。ここ何か月かは新婚ということもあってその任は免除されていたのだが、そろそろ頃合だということで数日の間地方へ出ることになったのだ。
     本当はあまり行きたくない。というのも、妻である少女と打ち解けるまでにだいぶ時間がかかったのだ。今はあまり距離を取りたくない。
     婚礼の日は酷くふさぎ込んでいて、目も合わせてくれなかった。それでも「旦那様」と呼んでくれて頭を下げてくれたから嬉しくなってしまって、つい相手は年端もいかない少女とわかっていながらも抱いてしまった。そうしたら今度は拗ねられて、褥の中でも背を向けられてしまった。そんな新婚初日だったものだから、三日月はそれなりに頑張ったのだ。綺麗な着物を与え、彼女の実家の者から甘いものが好きだと聞いたから菓子を与え、何とか機嫌を直してもらえないものかと、もう少し仲良くできないものかと頑張った。
     それでも少女は頑なで、いつもどこかへ行きたそうだった。だから表へ出さなかったのだ。目を離すのが恐くて、口に出して嫌いと言われるのが恐くて、この庭を与えた。そうしてやっと、まともに話ができるようになったばかりなのだ。
     少女は手から土を払うと、立ち上がって三日月のほうに向きなおる。
    「どちらまで、いらっしゃるんですか?」
    「帝都からは少し離れることになるな。だが三日程で戻る。そう気にすることはない」
    「そうですか」
     素っ気なくそう返されて、三日月はやや肩を落とす。やはりあまり行きたくはない。この様子だと、妻は自分が視察に出ている間に自分をすっかり忘れていそうである。
     襷を取り、切りそろえらえれた髪を揺らして彼女はぺこりと頭を下げた。
    「行ってらっしゃいまし。御無事でお戻りになりますよう」
    「……うむ。戻ったときはきちんと出迎えておくれ」
     彼女が水をやった地面は、まだ種を出すこともなくただ湿っている。
    「それで臍を曲げているわけか」
     くつくつと隣の座席に座った鶴丸が肩を震わせる。鶴丸も三日月の視察にかこつけて地方へ遊びに行くのだという。三日月は口をとがらせて頬杖をつき、流れる景色を見つめていた。列車ではなく、車での移動にしたのは正解だった。こんな表情を見せていることを他に見られてはまた騒がれる。好きでこんな顔に生まれたわけではないのに。
    「顔や家のことは仕方がない、もう諦めろ」
    「……諦めてはいるさ」
    「そうか? 諦めきれないからあんな嫁を貰ったんだと思ったぞ」
    「……」
     鶴丸の指摘はあながち間違ってはいなかった。実際三日月は、話だけもらったときにはこの縁談を断るつもりでいたのである。
     元はといえばこの話は少女の実家の方から持ちかけられたものだった。確かにその家は成金で財力だけはあったものの、家柄で言えば三条とは比べ物にならない。断ろうと思えば簡単にそうできたものだ。だがたまたまその家の近くを通りかかって、振袖に袴の女学生姿の少女を見たとき、気が変わった。少女はどこまでも、自由だったのだ。
    「……だから閉じ込めたってんなら、酷な話だよなあ。あの子にとっちゃ、たまったもんじゃないぜ」
    「……ああ、そうさな」
     飛んでいた小鳥を手掴みで捕まえて、頑丈な檻に放り込んだ。見た目だけは良いが、酷く冷たくて、頑強な檻に。
     だがそうせざるを得なかった。そうしていなければ、もう三日月は息ができなかったのだ。
     三条の嫡男、美しい社交界の花形としてずっと遇されてきた。幼い頃からそう育てられてきたから、周りの子どもと遊んだことなど殆どない。そうしてそのまま成長してしまった。だから、その少女を見たときに覚えたものは羨望と、憎悪だ。
    「……庭をやった」
    「庭? きみのあの広い邸のか?」
    「ああ、南の端だが。好きにしていいと言ってある」
     閉じ込めておきたかった。かつての自分のように、家に縛っておきたかった。最初はそうするつもりだった。だが彼女は最初の日、砂糖水を飲んで笑ってくれたから。家が三条家と繋がりを持つために売り飛ばされて来たと言うのに、諦めずに自分の居場所を作ってここで生きていこうとしたから。
     逃げ出してほしくなかった。ここでどれだけのびやかに生きていくのか、見ていたかった。もしあの子がそうして生きていってくれたら、自分も家や、顔だけで物事を決められてきた人生から、自由になれる気がして。
    「……あれはあそこで花を植えていてな。まだ芽吹いてはおらんが」
    「へえ。健気なもんだな」
    「はっはっは、そうだろう?」
     三日月は密かに、あの種に願を掛けているのだ。もしもあれが芽吹くまで、少女が耐えられたら。きっと見事な花を咲かせてくれるだろうと。
     車に揺られながら、三日後あの少女はちゃんと自分を出迎えてくれるか三日月は考えた。「お迎えしますよ」と言った少女を思い出したものの、やっぱり不安になって、三日月は早く帰らねばならんと思ったのだった。



     カコーンと獅子脅しの音が鳴る。先程から少女は何も刺さっていない剣山と多量の生花を前ににらめっこをしていた。
     いかに金持ちの娘であっても、何度も言うが彼女の家は要は成金なのである。生粋のお嬢様でない分、必要な教養やらなにやらは持ち合わせていなかった。お花もお茶もできない。もっと言えば食事の作法も怪しい。それが何故こんなことになっているかといえば、邸の女中が「今日は三日月様がお戻りになる日ですから、お花でも生けては?」なんて言ってきたからである。そんなことはできないと辞したものの、三条の家に嫁に来たものが生け花もできないはずがないと押し切られたのである。
    「……とは言っても出来ないものは出来ないしなあ」
     それに、もっと言えば少女はこんな切られた花よりも野で咲くものの方が好きだ。だがここにはそんなものはない。切り落とされ、死んだ花しか。
     ため息を一つついて、彼女は落ちてきた着物の袖をまくった。今日はあの紗綾柄の藍の着物を着せられている。何でも三日月が戻る日は着せるようにと置いて行ったのだとか。高価なそれは酷く体を締めつけてきて苦しかった。
     手にしていた百合を放り投げ、諦める。やはり無理だ。自分が生けたところでまともなものは仕上がらない。ここはもっとうまい人に頼もう。そのほうが三日月も喜ぶに違いない。彼女は立ち上がり、他を探そうと部屋から出た。
    「先程お部屋を覗いたけれど、途方に暮れていてよ」
     広い邸を歩き回っていると、誰かの声が聞こえてきた。誰が、とは言っていなかったけれど、恐らく自分のことだろうなということはすぐにわかる。この邸で途方に暮れるのなんか、余所者のこの少女くらいなのだ。
    「あの方がいらしてから確かにお屋敷の家計は楽になったと言ってもねえ」
    「やはり由緒のあるお家ではないのだから、三日月様に釣り合うかと言えば……」
     そのあたりで、彼女は踵を返した。聞いていたって仕方がない。全て事実だ。
     思いの外傷ついてはいなかった。邸の内で自分がどう思われていたのかなんて知っている。自分が何故急に嫁にやられたのかだって、薄々気が付いていた。
     歴史ある華族だと言えど、今は金がなくては生きていけない世の中なのだ。元来貴族やら神職やらとして生きてきた華族の人間たちは、この時代で金を稼ぐ術を知らない。それが理由で途絶えた家もたくさんあると聞いた。三条はそれを避けるために、財力のある彼女の家の娘を嫁に、しかも正室に迎えて繋がりを持ったのだ。それがわからぬほど彼女は幼くない。
     ぽた、ぽたと外の方で雨だれの音がし始める。朝から雲行きが怪しいとは思っていたが、やはり降ってきたらしい。
     湿気でじっとりと重苦しく生暖かい空気が体にまとわりつく。苦しい、息ができない。ここでは、生きていけない。
     ばっと彼女は駆け出した。あの高価な藍色の着物が翻るのも気にせずに、一直線にあの南の扉へ走り出す。途中石切丸とすれ違った。「どこへ行くんだい?」と聞かれたけれど、答えずにただ走る。どこに向かっているかなんて、少女自身にもわからなかったのだから。
     勢いよく扉を開け、下駄も履かずに飛び出した。白い足袋に泥と雨水が沁みる。着物の裾にもそれらが跳ねた。ばしゃばしゃと水たまりを進みながら、高い塀に辿り着き、力いっぱいそれを叩く。漆喰の塀はびくともしない。
    「ここから出して」
     そんなこと言ったって仕方ないのはわかっている。だがもう限界だ。ここにはもういられない。
    「ここから出してよっ!」
    「……ここを出て、どこへ行くというんだ?」
     ゆったりとした声が背後から響いてきて、はっと振り返る。髪からいくらか雨粒が飛び散った。家に戻ってそのままこの庭へ来たのだろう。黒い外套姿の三日月が、軍帽から雨を滴らせて立っている。
    「出迎えてくれるんではなかったか?」
    「あ……」
     やんわりと微笑んだまま、三日月はブーツを鳴らして少女に近づく。足袋のままの少女は一歩後ずさって、壁に背をつけた。紗綾の着物はもうすっかり水を吸って重たくなっている。
    「そんなに濡れては風邪を引くぞ。こちらへおいで」
    「……そちらへはいけません」
    「うん? どうしてだ?」
    「わ、私は」
     今まで口に出すまいと思っていた言葉、でももう我慢できない。
    「私は、あなたの妻になんてなるべきじゃなかった……! 嫁になんて来たくありませんでした!」
     軍帽の下で、三日月があの瞳を見開く。それから何とも言えない表情で微笑むと、いつもの通り庭石に腰掛け足を組んで彼女を見つめる。
    「そうか。ではどうする、本当ならばどうしたかったのか言うてみよ」
    「ほ、本当は、もっと進学だってしたかった」
    「ふむ、そうさな。そなたの年では女学校も途中だろうな。成績もよかった」
     ぐぅと彼女は奥歯を噛む。自分の知らないところで、三日月が実家に連絡を取ってあれこれ聞いていたのは知っている。その行為自体は気に食わなかったが、三日月が自分に歩み寄ろうとしていると思っていたから黙っていたのだ。それをしれっと、成績がよかっただなんてどの口が言う。
    「勉強したいこともあったし、もっとやりたいことだって! それに行きたいところだってなんだってあります!」
    「んー、俺と一緒ではだめか?」
     三日月の問いに、彼女はぶんぶんと首を振った。
    「優しくしてくださって、……っとても、感謝しています。でも、もう無理です。ここでは生きていけません……。ここから出してください。私は、あなたの妻にはなれない」
     だって、もう息ができないのだ。邸の内では胸が苦しくて、身動きが取れない。顔を覆って、彼女は俯いた。苦しい、痛い、辛い。もうここにいたくはない。逃げ出してしまいたい。
    「……しかし、もうそなたは俺の妻だ。離縁は許さん。ここより他に行く場所なぞないぞ」
    「でも」
    「少し考え方を考えてみんか。そなたはもうここから出られん。ならばここで生きていく道を探せ」
     それが見つかったら苦労しない。顔を上げ、キッと少女は三日月を睨みつけた。だが三日月は立ち上がってにっこり笑うと、軍帽を脱いで彼女の頭に被せる。ぽたぽたと雨だれが滴って落ちた。もうすでにぐっしょりと濡れた黒い外套も、藍色の着物も色が変わりつつある。
    「この三条は大きな檻、一度入れば出ることは困難だ。だが、この檻は力のある檻。モノは使いようだぞ」
    「……どうしろと、言うんです」
    「なに、簡単だ。そなたはここに根付き、花を咲かせればよいだけのこと。三条の名を使って、できぬことなどない。考えろ、勉学は得意だろう」
     大きな手が、少女に向かって差し出される。美しい指先から滴が落ちていた。花の顔も笑みをたたえながら涙のように頬から雨が零れる。本当は恨めしい。この人が自分を娶らなければこんなことには、ならずに済んだ。だが今はこの手を取らねば生きていけない。
    「さあ、その種を芽吹かせろ。ここで美しく花開いて見せておくれ。俺がその手助けをしよう。賢く、三条の力を使え」
     かつての自分が、出来なかったことを。この少女ならばできると三日月は信じている。その為にここに連れてきた。
     目に強い光を宿した少女が、三日月の手を取る。それを見て三日月は瞳を和ませて微笑んだ。
    「ああやはり、そなたは当代一の嫁御だ」
     南の庭で三日月が与え、少女の植えた種は今やっと双葉の芽を出したばかりだ。



    「はっはっはっは、ふふ、だめだ堪えきれん」
    「笑い事じゃありませんっ!」
     布団の中、三日月はその引き締まった肉体を隠すことなく枕を抱えて笑っていた。隣で同じように肌を見せたままで憤慨しているのは、彼の幼な妻である。三日月はくつくつと肩を震わせながら、頬杖をついて少女のほうを見上げた。喉が渇いたとかで水を取るため半身を軽く起こしていた彼女は、今は三日月よりも目線が高い。
    「そもそも、三日月さんがいつも妙ちきりんなものを贈って寄越すのが悪いんですよ! 御自分の贈った着物との合わせとか考えなかったんですか?」
    「んー、すまんな。お洒落は苦手でな」
     すまんと言いつつも、三日月はまるで反省したりなんだりしている様子はない。その様子に少女は一層頬を膨らませた。
     事の発端は、確かに彼女の言うとおり三日月なのだ。三日月はどうも妻にものを贈るのが好きなようで、自分が美味いと思った菓子は即座に土産にするし、着物やら髪飾りやらひっきりなしに買っては彼女にやっている。そのひとつひとつは趣味のいいものなのだが、如何せん三日月にはそれらを組み合わせる能力がなかった。つまり、少女が贈られたものを身に纏うとどこかちぐはぐでおかしな様相になってしまうのである。
     最近三日月は彼女を伴って社交の場に出ることが多い。結果として少女はそのやや妙な出で立ちで三日月の横に妻として立つ羽目になっているのだ。
    「大体、どうしてあの柄にあの色を合わせようと思えるんです。おかしいでしょうどう考えても」
    「そうか? そなたに似合うと思ったんだが」
    「自分の贈ったものはちゃんと記憶して、せめて合わせられるようなものを考えてくださいって言ってるんですっ!」
     今夜、彼女はちょっとした華族の舞踏会に三日月とお呼ばれしていた。財力のある商家の出とはいえ、少女の実家は所謂成金である。生粋のお嬢様と比べれば教養やら何やらが足りない。だからそんな社交の場に出るときには、いつも三日月に引っ付いていることが多い。というか、三日月のほうが「余所へ行って愛想を振り撒く必要なぞないぞ」なんて傍から離さないようにしている。
     だが三日月が家の者が用意した軍服なり、質のいい和装なりタキシードなりを着ているときも、彼女は三日月に贈られた衣服を着ているのだ。おかげさまで「三条の若奥様はご趣味が……?」なんてあらぬことまで言われている。今日はあからさまに嫌味を言われたので、彼女はそれをすっぱり皮肉で返したのだ。それを閨で聞かされた三日月は、何故だがこうして愉快げに笑っている。解せない、元凶はあなたなんですよと少女は怒っているというのに。
    「あのですね、三日月さんが私に色々贈ってくれるのはありがたいことですけど。私が悪く言われるって言うのは下手すると三日月さんにまで響くんですからね。そういうところ考えてくれませんか」
    「ふ、ふふ、だがそなたは全てきちんと使ってくれるではないか」
     にまにまとして、三日月は少女を見つめる。それに彼女はうっと言葉を詰まらせた。腕を伸ばし、まだ華奢な少女の腰を引き寄せる。何も隔てるものがない分、体温が直接伝わって心地よい。引っ張られた少女は為す術もなくころんと布団に転がされた。
     使い勝手が悪い、嫌味を言われると文句を零しつつも、少女は三日月の贈ったものをちゃんと使う。紗綾柄の着物だけならばいいものの、それに合わせたらどうかと贈られた「正気ですか」と思わざるを得ないやけに月の模様の目立つ打掛だとか。足袋は普通白でしょう、どうしてあなたそんなに使い勝手の悪い色遣いを選ぶんですと言いたくなるような履物だとか。なんだかんだで、身に着けてはくれるのだ。
     くすくすと笑いながら、三日月はその背に鼻先を擦り付ける。まだ幼い身体は、どこか甘い匂いがするような気がした。
    「……でも、三日月さんが悪く言われるのは解せないので。今度からは少し考えてください」
    「うむ、あいわかった。次は共に選ぼう。それならば文句はあるまい」
     本当は、三日月は少女が低俗な嫌味に対してぴしゃりと言い返すところを見ていたのだ。「そちらさまがどう仰ったとしても、旦那様がくださったものですので」と事もなげに言い放った姿を。だからどうにも心の内が温かくて、嬉しい。
     唇を緩めながら、三日月は彼女に語りかける。
    「して、だいぶ三条に慣れてきたようだな」
    「慣れるというよりも、慣らされた、ですけど」
     元々利発な質だったのだろう。少女は飲み込みが非常に早かった。大きな三条の力をどう使えば自分にとって有利に働くか、三日月を見ていてすぐに学んだらしい。あの雨の日、三日月の手を取った彼女が一番にしたことは、ずぶ濡れの姿のままで三条現当主である、三日月の父親のところに泣きつきに行ったのだ。
    「自分は成金の娘で学がないことが恥ずかしゅうございます、このままでは旦那様に釣り合いません。女中にも陰口をたたかれておりますが、学がないのは事実なので言い返すことなどできるはずもありません。このまま三条様の恥になることはできません、どうぞ実家に戻してください」
    涙ながらの彼女の訴えに、三日月は後ろで笑いをかみ殺すので必死だった。堪えながら「俺も止めたがこれも言って聞かない、父上も考えてはもらえまいか」と助太刀した。彼女を実家に戻すことなどできるはずもない。何せこの時代で生きる術を持たない三条家のような華族は、彼女の実家からの支援がなければ瞬く間に破産してしまう。
     慌てふためいた当主は、「女に学などいらない」という時代の風潮を形にしたような男だったものの、結局彼女を女学校に復学させた。三日月の送り迎え付であれば、一定期間の間学校に通ってもいいという言質を取ったのである。三条の後ろ盾を得て学び舎に戻ったのだ、恐いことなど何もない。
    「ふふ、よきかなよきかな。俺は賢い女子は好きだ」
    「それは、どうもありがとうございます」
     既婚者になってしまったため以前のように振袖、とはいかないまでも留袖に袴姿で少女は学校へ行くことになった。無論三日月を伴わねば外には出られないけれど、それはもう今は仕方がない。そのあたりは彼女も諦めているようだった。
     三日月は何度か何も纏っていない彼女の背に軽く口づける。良家のお嬢様であれば、恐らく房事の後はすぐに夜着を着込んでいただろう。だがそのあたり、やはり彼女は庶民上がりの何も知らない少女なのである。三日月が何も言わなければ、そのままなのだ。それに男性経験もないまま、真っ白なままで三日月は彼女を捕まえてここへ連れてきたのだから当然である。比較対象がないのだから、三日月がすることが彼女にとってすべてなのだ。三日月が閨ごとの後何も着なれば、それが普通なのだと思ってそうする。身分柄はしたないことなのかもしれない。けれどそれがまた三日月には微笑ましく、心地よい。
    「……み、いえ、旦那様」
    「うん? なんだ?」
     打ち解けて話すようになってから、彼女は夫を「三日月さん」と呼んでいる。そうしてくれと三日月が頼んだからだ。それを敢えて「旦那様」と言うときは、大抵家がらみで何か話があるときだ。
    「旦那様は、子どもは欲しいですか」
     ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返す。それからああと納得した。三日月が少女の体にすり寄ったから、もう一度すると思ったのだろう。まあそれもやぶさかではない気分だったが、三日月は一応問い直す。
    「奥は俺の子はいらんか」
    「……旦那様の子だから、というわけではないですが」
     体を起こし、上から自分に背を向けている少女の顔を覗き込む。三条に来てから大変こまめに身の回りの世話をされるものだから、綺麗に切りそろえられた髪。その隙から覗く目はじっと正面だけを見つめていた。
    「……まあ、俺はいずれ跡目を継ぐ身。それにいい年だからな。俺はそこまで焦りはせんが、子は儲けねばなるまい」
     そのあたり、華族は商家の彼女の家よりも恐らくずっと厳しい。商家ならば、家の商いを継ぐために最悪養子縁組をしてでも家を繋いでいく。だが華族が継ぐべきは家の名、血だ。後継ぎは必ず、三条の血を引いていなくてはならない。ともすれば彼女は、近いうちに子どもを望まれることになる。
     体は未成熟と言えども、少女にはもう初潮が来ている。産もうと思えばいつでも子どもを得られる体なのだ。それに三日月が宿直ではない日は大抵こうして抱かれているのだから、いつそうなってもおかしくはない。三日月には避妊をする気はまるでなさそうだし、実際今まで一度もそうしたことはない。。
    「それは今でなくてはいけませんか?」
    「子は授かりものだからな、いつか決めるのは俺ではない」
    「そうですが」
     何が言いたいのかは、三日月だってわかる。彼女は今子どもが欲しくないのだ。女学校に復学したばかりだし、まだやりたいこともあるのだろう。もし子どもができれば、そうはいかない。華族の三条の家では乳母制度が生きているから、育児はそう忙しくはないだろうが、やらなければならないことは倍以上に増えるだろう。そうすれば彼女は本格的に三条家に縛られることになる。
     この檻の奥深くに、閉じ込められることになる。
    「悪いがこればかりはそなたの言うようにはしてやれん」
    「……わかっています」
    「こちらを向いておくれ、そのような顔をするでない」
     何とも言えない表情を浮かべている少女を腕の中に捕らえ、三日月は再度彼女を組み敷いた。賢い分だけ、彼女は三条家での自分の役目をよくわかっている。だから彼女は三日月のほうを真正面から見られなかった。
     三条家の後継ぎ三日月宗近の妻として、正室として嫁いできたからには、あとは子どもを産むだけなのだ。



    「それで? すごすごと引き下がるタマですかあなた」
    「いや、全然」
     女学校の図書室。閲覧室の奥で彼女は長椅子に頬杖をついていた。そのもう片方の端に座っているのは、彼女の実家に少し縁のある左文字の次男坊である。彼は三条より規模はやや低いとはいえ由緒ある武家の出身である。だが家が仏門に造詣が深いこともあり、講師として学校に来ている。元々顔見知りだったので、彼女は時たまこうして図書室で空き時間を潰す宗三に以前から話相手をしてもらっていたのだ。結婚してから殆ど会うことはなかったけれど、こうして復学してからは再び前のように話をしている。
     ぺらりと手にしていた本を捲りつつ、宗三は足を組み直す。彼の兄で左文字の長男である江雪のほうは、よく和装でいることが多いのだが宗三のほうは洋服を気に入っているようで、いつもハイカラな出で立ちだった。三日月とは別な方向で、宗三もまた社交界の花である。
    「まあ、そのあたり仕方がないんじゃないですか? 相手はあの古風な三条ですよ。あなたが復学できただけ奇跡です」
    「それはわかってる」
    「社交界は大騒ぎでしたよ、あなたが御輿入れしたときは。知ってます?」
     そんなの知るはずがない。彼女は静かに首を振った。何せ彼女は突然の嫁入りの準備でそれどころではなかったのだ。だが自分の結婚が世間で随分騒がれたことだけは、耳にしている。
    「僕も、あなたの旦那様とは顔見知り程度ですからね。でも根掘り葉掘り聞かれたものですよ。あなたはどんな女性かとか」
    「どうせ適当なこと言ったんでしょう」
    「よくわかりましたね。ええ、そうですよ」
     はあと軽くため息を吐く。宗三は本当に口に容赦がない。しれっとして春色のウェーブした髪を肩から払い、宗三はぱたんと本を閉じる。静かで利用者もそう多くない図書室では、やけに大きくその音が響いた。
    「程よく足掻いたら、諦めなさい。もうあなたは結婚してしまったんです。これ以上どうにかなることではありません。ましてやあなたは女だ。子どもを産み、育てるなんて問題から逃げることは出来ないんです」
    「それもわかってる、けど」
    「それに、あまりあなたがそれから目を背けていれば、三条はいずれ別な手段を取ると思いますよ」
    「え?」
     彼女は顔を上げ、長椅子の端にいる宗三のほうを見る。宗三は本を手にすると立ち上がった。今日はすらりとして細身な彼の体型が映える三つ揃えのスーツである。
    「左文字も由緒ある武家のはしくれですからね、考えることくらいわかります」
    「考えることって?」
    「わかりませんか、僕の兄弟を見て。少し思い返して御覧なさい」
     そう言われ、彼女は彼の兄弟を思い出した。左文字の家には息子が三人。長男の江雪、次男の宗三、そして三男の小夜。将来はそれぞれが左文字の家を分担しうまく切り盛りしていくのだという。そこではたと気づいた。そう言えば、宗三の母親は。
    「……お妾さんを囲うってこと?」
    「まあ、有り体に言えばそうですね」
     宗三左文字は、長男と三男とは母親が違うのである。
     左文字は武家と仏門が結びついた家で、手を回さなくてはいけない家のものごとが多い。だから子どもが沢山必要だった。正室である奥方は江雪を産んでから少しの間体調を崩して、焦った当主は妾を迎えて宗三を産ませたのである。彼女は最初その話を聞いたとき、江雪と宗三の年の差を考えてそこまで慌てる年数でもあるまいに、と思ったのをよく覚えている。
     だが三条の家に入ってわかった。子を産まない期間がたかだか数年でも、危ぶまれるような家柄なのだ。規模なのだ。もし彼女が本当に三日月の子を産むことを拒否すれば、資金のために彼女を切り捨てることはなくとも、家のために別な女性を用意するだろう。
     おそらく、三日月の意志とは関係なしに。
    「あなたの旦那様もいい年です。家の規模も考えて、焦りは左文字の比ではありません。自分以外の女性を迎える旦那様を想像して、それを割りきれるかどうかを考えたらいかがですか。僕は、あなたはそこまで器用ではないと思いますよ」
    「……」
     思いもよらなかったことに、彼女は閉口する。けれど宗三の言うことにおかしな点は一つもない。無言で途方に暮れたような顔をしている少女を見て、宗三はやや同情するような表情を浮かべた。無理もない、彼女はまだ幼すぎるし、三条のような大きな家に嫁ぐには必要な知識がなかった。
     だから宗三は仕方なしに、きょろきょろと誰も見ていないことを確認してから、彼女の頭を撫でた。
    「……やりたいことをするのは、三日月殿が正式に当主になってからでもいいじゃないですか。そうしたらきっと、あなたは今以上に自由になりますよ。何せあなたに惚れ込んでいる旦那様が当主になるんですからね」
    「でも」
    「でももだってもありません。僕はそうした方がいいと思います。それに、きっと旦那様もあなたが後継ぎを産んだほうが喜びますよ。何せあの人だって、後継ぎ問題のしがらみの中で生きて来たんですから」
    「えっ?」
     その言葉に今度こそ彼女は大きな声を上げて驚いた。数少ない利用者たちが怪訝そうに二人を見たので、宗三はぎょっとして彼女の口を手で塞ぐ。
    「大きな声を上げないでくださいよ。その様子だと、あなたまさか知らなかったんですか」
    「んぐ、ん?」
    「ああそうか、あなた社交界の噂には疎かったですもんね……。三日月宗近は、最初からの御嫡男だったわけではないんですよ」
     宗三の言葉が、少女の頭にはうまく入ってこなかった。
     三日月が、最初から跡目なわけではなかった?
    「三日月宗近は、数多くいた三条の女たちの子どもの一人ですから」



     血に固執することは、思えば馬鹿な話である。血が繋がっていたからと言ってどうだというのか。脈々とそんなものを受け継いでいれば、確実に家が続くとでも言うのか。
     だが三日月の生まれた三条家は、その最たるものだったのだ。
     当主が正式な正室を迎えるのは、数多くいる子どもの中から後継ぎを決めた後である。要は先に跡目が決まり、そのあとに付随としてその母が正妻になるのだ。三条家は血に執着しすぎたあまり、子どもが育たない家になってしまった。だから当主は子を産める女を多く持ち、その中で一定の年齢まで育ち最も優秀なものが跡を継ぐ。そうして三日月は一介の三条の女が生んだ男の子から、次期当主の嫡男になった。家のしがらみというのは時に醜い。
     したがって、今回の三日月の結婚は例外中の例外だった。何せ金が必要だったのだ。血を求めるあまり、家が潰れたのでは本末転倒。だから外から女を入れた。そうして少女は三日月の妻になったのだ。
    「……お妾を、お迎えになるのですか」
     その晩いつも通り、妻の腰紐を解こうとした三日月はそう聞かれて手を止める。彼女は昨日にまして硬い表情で目を伏せていた。
    「藪から棒にどうした。それに俺にはもう妻がいる。何故妾を取る必要があるんだ?」
    「……宗三に、聞きました。その、旦那様の」
     宗三、という名を聞いてすぐに三日月は左文字の次男を思い出した。そう言えば、あの次男は少女の学校に出入りをしていたはずである。今まで女学校ということもあって、彼女の交友関係にまでは気を回していなかったが、今後はもう少し改めねばならんなと三日月は考えた。
    「そなたはもう俺の妻なのだから、他の男と二人きりになるようなことはあってはならんぞ」
    「話を逸らさないでください。私が今聞いてるのは」
    「妾のことだろう?」
     ぴくりと彼女の肩が震える。それから僅かに頷いた。
    「そなたが子を孕み、産んでくれれば迎える必要はない。そうだろう?」
    「そうですけど、でも」
    「まあ授かりものだがな、励んでいれば気にすることもなかろう。さ、では今宵も励むとしようか」
    「そうじゃありませんっ!」
     ぐいっと彼女が三日月の肩を押し返す。その指先はやはり震えていた。三日月はそれを見てとりながら、ふうと息を吐く。それからなんだ、と問い返した。
    「わ、私はまだ、子どもは、産めません」
    「いいや、産めるだろう。月の障りはきちんとある。医師も体は健康そのものだと言っていた」
    「そうじゃありません、産みたく、ないんです」
     まだ学びたいことがある、したいことがある。三条の力を幾分かうまく使えるようになった今、一度閉じかけた少女の世界は再び広がりを見せていた。そこでもしも懐妊なんてことになれば、どうなるかは目に見えている。それは三日月もよくわかっていた。
    「俺が頼んでも、だめか?」
    「……どうして、三条の家のこと、話してくれなかったんですか」
     あの異様な後継ぎの仕組みのことを言っているのだと、すぐに察する。三日月は黙って少女を見つめた。
    「私、お金のために嫁がされたんだと思ってました」
    「……」
    「でもそれだけじゃなかったってことですか? 自分以外にもたくさん奥さんがいて、その中から後継ぎを選んで、そういうことをするために私はここへ来たんですか?」
     掠れた声で少女が聞く。少女は知らないのだ。三日月の結婚は例外だったということを。そしてそれを望んだのは、他でもない三日月だということを。
     時代柄、多くの妾を囲うことは特に不自然ではない。だがそれを完全に割り切り、良しとできるだけの女性は世に何人いるのだろうか。恐らく両手で数えられるか否かというような程度ではなかろうか。一度は子を為した間柄ともなれば、粗雑に扱われれば哀しくもなる。しかもそんな家のために次から次へと子を産まされるのであれば、その心中は如何ほどか。三日月は自分の母を見た、この歪な屋敷の下に住まう多くの異母兄弟を見た。その中で選ばれた自分には、責任があるのだと思った。
     この三条の家を、続けるだけの重い責任が。
     けれどやはり心のどこかで、そんなこの家から逃れたかった。だから、どこまでも自由だった少女を捕まえて来たのだ。彼女を娶ったのは金のためでもある、家のためでもある。だがそれ以上に三日月宗近という一人の男が、僅かでもいいから、この家の何かを変えてくれることを願ったのだ。
    「……私、三日月さんには感謝しています」
    「……感謝?」
    「ここで生きるよう示してくれました。あの庭をくれました。何より、大切にしてくれていることをわかっています」
     息苦しくて耐え切れなくなった頃に、少女に与えたこの邸の庭。植えられた花はすくすくと芽を伸ばし、今は蕾をつけている。直に花を咲かせるだろう。
    「だから、三日月さんのために何かをしたいと、思ってはいます。大切にしてくれているのがわかっているから、家族にならきっとなれると思いました。でも、でも……っどうして、そんな大事なこと黙っていたんですかっ」
     黙って孕ませて、十月十日の間他の女を見繕い、また子どもを作るつもりだったのか。なら何のために自分はここにいるのだ。ただ家を継ぐためであればまだ理解できたものの、そんな、あらゆる尊厳を蔑ろにされるために嫁がされたのか。
     少女は憤っていたというよりも、それが悲しかった。理由はわからなかったけれど、自分が三日月にとっては数多くいるうちの一人にしかなり得ないのだと思ったら、なんだか胸が痛くて、前よりずっと苦しかった。
    「……話していたら、そなたは納得したか?」
    「それは」
    「理解し、子を産み、ここに留まったか?」
     それはきっと、できない。そんなこと考えただけでおかしくなってしまいそうだ。自分から檻の扉を閉じ、鍵を掛けろだなんて。彼女が言いよどんでいると、三日月は悲しそうに眉を下げた。
    「そうだろう? だから言わなんだ。三条の家がおかしいことなど、俺にだってわかっている。それを理解しろとは言えん」
    「でもっ、言ってくれれば、三日月さんのために考えられることはたくさんあった筈です!」
     三日月がハッと目を見開く。瞳の奥で、月が一度ふるりと震えた。ゆらゆらとしているそれは、どこか不安定で泣き出しそうな表情をたたえている。
    「頭では理解できなくても、私は三日月さんのために何かがしたいんです! だから、どうして、どうして何も言ってくれなかったんですか! ちゃんと話してください、何を考えていて、何が辛くて、何が楽しくて、何が悲しいのか、教えてください!」
     今度は少女のほうが三日月の夜着を掴んでいた。三日月は何度か手をその体の伸ばしかけて、躊躇する。指先が引き攣れたようになって、うまく動かない。
     真っ直ぐな瞳が三日月のほうを見ていた。無論その視線の中には戸惑いや、哀しさもある。だがそれでも三日月に対する想いは本当に実直で、純粋なものだと分かった。
     だからそれは、なくしてはならない。
     三日月は上げかけた手をおろし、少女の肩を押して距離を取る。
    「……そなたの気持ちはよく分かった」
    「じゃあ」
    「明日から少し、実家に帰るといい」
     少女が目を見開く。この時代、実家に帰れなんて夫の方から言われるのは離縁を言い渡されることに等しい。
    「そなたがそこまで言うのであれば、子は他の女子から迎えよう。なに、無理をすることはない」
    「三日月さんっ!」
    「この三条ではそれが普通のことなのだ。何もおかしくはあるまい。さ、今日はもうお休み。明日は家まで送るゆえ」
     何か言われる前に、三日月は少女に背を向けて横になった。今何か優しい言葉を掛けられれば、それに縋ってしまうのがわかる。では一緒にいてくれと、俺も共に自由にしてくれと、そう願ってしまう。
     三条の檻は、確かに強い檻。一度入れば出ることは難しい。けれど彼女は元はといえば余所者なのだ。三日月の方から外へ押し出してやれば、きっとまた飛んで行ける。こんな狭苦しく奇怪な場所ではなく、青く高い空へ。
     ここで死ぬのは、自分一人でいい。三日月は目を閉じた。少しでも彼女を抱き留めてしまわないように、追いすがってしまわないように、必死で自分の体を押えながら。

     納得していたかといえば、まるで腑に落ちていない。だってある日突然、「来月には嫁に行くように」なんて言われたのだ。商家で、比較的気軽に結婚できる身分でももうちょっと段階を踏むはずだ。だから彼女は面食らった。来月ってなんだ。ちなみに三日月との初対面はそのときだった。父の隣に立派な軍服の男性が座っていて、部屋に呼び出された少女は何事かと思ったものだ。
    「俺がそなたの夫だ。来月からよろしく頼むぞ」
     その男性はにこりと微笑んで、ただ何度か瞬きを繰り返した少女に手を差し出した。嫁? 夫? 聞きなれない単語を理解しようと目を白黒させる彼女に向かって、三日月は少し膝を進めてその手を勝手に取った。いくつくらいの人なんだろうとか、そもそもどこの人なんだろうとか、色々思うことはあった。だがその人のその温かい手がどこか震えていたから、彼女は何も言えなかったのである。
     結婚を断れば、もしかしたらこの人は泣き出してしまうんじゃないかなんて、馬鹿なことを思って。結局頷くことしかできなかった。
     今思えば断れるような筋の話ではなかった。だがわざわざ一度家に来たのだから、きっと三日月は彼女の意思を確認しに来たのだろう。あのとき、もし少女が首を横に振っていたらどうするつもりだったのだろう。
     もしもそうしていたら、三日月はあの晩あんなに悲しそうな顔をすることはなかったのだろうか。……自分は、こんなに傷つくことはなかったのだろうか。
     久方ぶりの自分の布団にくるまって、少女は考えた。一人きりで眠るのは、非常に寒い。



    「はあ、それで嫁を実家に帰したって言うのかきみは。驚きだぜ」
    「……なんとでも言え」
    「いやあ、阿呆も阿呆だろう」
     三日月宗近が目に入れても痛くないというほど可愛がっていた嫁を実家に下がらせたと聞いて、鶴丸国永は三条邸を訪れていた。当の三日月はといえば、寝所に引きこもって周りに本を積み重ね、酷い有様である。いくら非番だからと言って、気を抜き過ぎだ。
     流石に寝巻からは着替えているけれど、かなり着崩した紗綾柄の着流しである。自分から嫁を実家に帰したくせに、これではまるで三行半を突き付けられたかのようだ。鶴丸は呆れ果てながら、足元に散らばった本を適当に退かして腰を下ろした。
    「社交界じゃまた噂になってるぞ。まあきみたちは普段から仲が良かったからな、不穏な噂じゃあないぜ。もしやご懐妊で早めの宿下がりなんじゃなんてところに話は落ち着いてる」
    「実のところはそれを嫌がられて帰らせたわけだがな」
    「……自分で言って自分で傷ついた顔をするのはやめてくれないか、きみ」
     三日月が酷く落ち込んでいることは明白だった。まず引きこもっているのが夫婦で使用していた寝所の時点で、未練たらたらなのがすぐに見て取れる。ならばぶすくれていないで、今すぐに少女の実家にでも行き、土下座でも何でもして取り返してきたらどうなんだとか鶴丸は思う。話を聞くに三日月の妻は情にもろいところがありそうだし、恐らくそこまですれば戻ってきてくれるだろう。だからそうしたらどうかと鶴丸は三日月に提案したのだが、彼は浮かない顔のまま首を振ったのである。
    「そうしたら、あの子はもう三条から出られん。そうなる前にここから逃がしてやりたい」
    「三日月、最初と言っていることが真逆だぞ」
     最初、三日月はあの少女を閉じ込めるために嫁に取ったはずだった。彼女がどこまでも自由で、未来が限りなく広がっていたことが憎らしくて。要は嫉妬したのである。自分のように家に縛られるでない、彼女の存在に。だがそれと同時に、そういう子であれば家の中を変えてくれるかもしれないと思ったのだ。だから彼女が諦めぬよう、庭をやり、三条で生きていく術を教え、そうしてやっていくつもりだった。
     けれど三条で生きていくということはつまり、あの歪なしきたりに彼女を組み込むということである。それは自由な少女の翼を完全に折ることに他ならない。
    「これらの本はな、あの子が読んでいたものだ。部屋よりもってこさせた」
     自分の周りにあるそれを指して、三日月が言う。うず高く積まれた本の山は、結構な量があった。優しい表情でそれらを指でなぞり、三日月は目を細める。
    「ほんの短い間しかここにおらなんだのに、随分な量だろう? 全て学問の本だ。きっと、まだ学びたいことが多くあるんだろう。店に連れて行く度に着物なんていいから本が欲しいと言うから、乞われるままに買ってやっていたが、ここまでとは思わなんだ」
     家に帰ったり、一緒に外出をする度に少女は目をキラキラとさせて「三日月さん、あの本が読みたいです」だの「この本が面白いと聞きました!」と強請ってきた。三日月は彼女に贈りものをするのが好きだったし、本は一等喜ばれたので、一冊一冊いつ買ってきたものかよく覚えている。学校の行き帰りに三日月の贈った着物を翻して、こっちこっちと本屋へ引っ張っていかれたことも。あのとき、気付いてやればよかったのだ。本当は、ずっとずっと外に出たかったのだと。もっと広い世界へ出たかったのだと。
     それを我慢して、諦めて、彼女はここにいてくれた。それを三条の暗闇を知られた今、どうして帰ってきてほしいと言える。この檻の中にいてほしいだなんて、三日月には頼めない。あの少女が楽しげに笑って学校へ行き、晴れやかな表情で庭で花を育てている様を知っているのに。
     静かな部屋の中、瞳を伏せて本の山を見つめている三日月を見て、鶴丸ははあと一つため息をついた。どうしてこの面倒な友人は手を伸ばそうとしないのだろう。少しでもそうしようとすればきっと、届くのに。声を掛ければおそらくは、少女は振り向いてくれる。
    「きみは不器用だな」
    「……人並み以上には、物ができるつもりだが?」
    「そうじゃない、自分の感情に不器用だって言ってるんだ。きみ、そういうときは一体なんて相手に言えばいいか知ってるか?」
     そう言えば三日月は怪訝そうな顔で鶴丸を見上げた。だから鶴丸はできるだけ優しく微笑んで、教えてやる。まあ仕方がない、この稀有な友人は特殊な環境で育ちすぎたがために、その言葉を心から言ったことも聞いたこともないのだろう。「助けて」のように相手の重荷になるでもない、「さよなら」ほど寂しいものでもない、ずっとずっと暖かな言葉を。
    「そういうときはな、たった一言『愛してる』って言えばいいのさ」
     鶴丸を見送り、持ち主のいなくなった庭に三日月は立ち尽くす。日当たりのいい、よく花の育つ場所をと考えたから、南側の一角を選んだのだ。それなのに、今はなんだかひんやりとしているような気がした。彼女の植えた種は、芽を出して蕾を膨らませている。世話をしてやるものは、いなくなったのに。
     黙って三日月はそれを見下ろしていた。あの子が復学をして、毎日忙しなく学校に行くようになってからも、彼女はこの庭だけは欠かさず手入れをしていたのだ。
     いっそ花など咲かぬよう摘み取ってしまいたい。もうあの子はいないのだから。世話をするものも、お前が花開いても喜ぶものはいない。なら咲かずともよい。一人でこんなものを眺めても、虚しいだけなのだ。
     胸のうちが焼き切れてしまいそうなほどに痛かった。苦しくて息ができない。この歪な邸の中で何年も生きてきたと言うのに、今は肺が熱くてたまらない。あの子がいれば、少しでも永らえられると思ったのだ。もしもあの子がここで生きていく道を見つけたら、そのときは自分もと。幼いころから届かなかったものに、手を伸ばして、伸ばして、それでも。可哀想だと思ったから、手放した。
     かなしい、かなしい。両手で顔を覆い、膝を折りそうになる。どうしてここは南なのに、こんなにじっとりとしているのだろう。はち切れそうになった息を吐き出すため、口を開いたそのときだった。
    「三日月さん」
     随分静かで落ち着いた声が背後から響く。三日月は指の隙間から地面を見つめた。それからゆっくりゆっくりと、振り返る。
     あの青い紗綾柄の着物に、女学校に行くときの袴をはいた少女がそこへ立っている。
    「……そなた、何故そこにいる」
    「何故って、三日月さんが迎えにきてくれないからですよ」
    「言っただろう、実家へ戻れと」
     つい先日、家の車で送り返したはずだった。車内でも彼女は何か言いたげで、でも三日月が黒い外套に軍服姿のまま外を見ていたから、諦めて俯いているようだった。
     言葉を聞けば、きっと「帰らないでくれ」と言ってしまいそうだったから。だからわざと足を組み、頑なな態度を取ったのに。冷たくすれば彼女も諦めるはずだ。あんな酷い勝手な男のところへ戻るのはやめようと思うはずだと、そう考えて。
    「一週間待ちました」
    「……」
    「電話も手紙も来なかったので、痺れを切らせて私のほうから参りました」
    「ここへ帰る理由はあるまい。そなたの家はあちらだ」
    「いいえ、私の家はこちらです。この三条です」
     彼女はそう答えると、地べたの上に正座した。海老染めの袴が土に汚れるのも厭わず、更に指までついて三日月を見上げる。そして。
    「三日月さん、私を三日月さんのお嫁様にしてください」
     そう言って、切りそろえられた髪を揺らし頭を下げたのである。



     少女の小さいころの夢は、とりあえず何でもいいから外へ出て好きなことをすることだった。あまりに漠然としているけれど、まあありがちな夢である。学問が好きだったし、少女の家は商家だった。商家では頭のよく快活な女は好かれる。特に父親は腕っ節一つで成り上がったような男だったから、跡継ぎ息子は他にいたのだが、自分の娘がそうして学ぶことは大いに応援した。だからこそ余計に、彼女は自分に突然振って沸いた縁談に困惑したのだ。
     いずれ嫁にはやられると思っていたけれど、何故今。しかもあんな旧家に。だがその家は金に困窮しかけていている格式高い華族様だと聞いてなんとなしに納得した。ああそうか、自分は売られたのだなと。成金の家柄に少しでも箔をつけるために、売り飛ばされたのだと。
    「そう浮かない顔はおやめなさい。不細工になりますよ」
    「元からそう綺麗な顔じゃあないよ」
     宗三のからかいに、綺麗な顔と口に出せば、自然と彼女の夫を思い出した。長い睫毛に縁取られた月夜の瞳、陶器のように白い肌。初めてその姿を見たときは、女の人なんじゃないかなんて思ったりもした。
     不思議な話だ。傍にいるときは、特に何も思わなかったのに。距離をとると急に、相手のことしか思い出せなくなってしまう。
    「いかがですか、久々のご実家は」
    「……変な感じ。少ししか離れていなかったのに、知らない家みたい」
    「ふふ、そうですか」
     彼女が家に戻されてから、宗三がよく遊びに来ていた。ここぞとばかりに実家に帰らされたことを何か言うのかと思いきや、そうではないらしい。毎日なんだかんだ本やお菓子を差し入れてくれていた。もしかしたら、宗三は宗三なりに少女を気遣っているのかもしれず、彼女はただ「ありがとう」と言っていた。
    「それで? 割り切れましたか?」
     少女の家が仕入れた舶来の紅茶に口を付けながら、宗三が問う。一瞬何のことか少女は考えたけれど、すぐにそれが妾のことを言っているのだと察した。開きかけていた本を閉じ、彼女は苦笑して首を振る。
    「よくわからない。どうするのが正解だったのか、結局私にはわからなかった」
     三日月の、力になりたいと思った。ここで彼が自分に暖かくしてくれた分、もしも困っているならば手助けをしたい。そうするのが、夫婦だと幼いながらも少女は考えた。結婚の形はあまり綺麗なものではなかったけれど、三日月はそれでも優しかった。少女が三条でも生きていけるように、手を伸ばしてくれた。だからその分、今度は自分が三日月を支えていきたいと思った。ゆっくりと少しずつ、そうして夫婦になりたいと。
     だが三条の歪な夫婦の仕組みを知って、なんだかわからなくなってしまったのだ。三日月が何を考えて自分と夫婦になったのか。暖かく接してくれていたのは、本当にお金と、数多くの子どもを得るためだけのものだったのだろうか。もしそうならば、自分はどうしたらいい。
     そんなことを考えていたら苦しくなって。でも離れていると余計に、胸の奥が重く痛む。こうしている間に三日月が本当に妾を迎えてしまったらと思えば思うほどに、体を折って泣き出してしまいそうだった。
     商家の家らしく、彼女の家は輸入品の多い和洋が入り混じったモダンな作りだった。今は温室のベンチで、宗三と二人お茶を飲んでいる。硝子の向こうでぴぃぴぃと可愛らしい声を上げつつ、小鳥が飛んでいった。それを彼女は目だけで追った。
    「そんなに苦しそうな顔をするなら、おやめなさい」
    「え?」
     ふうと息をつきながら、宗三がカップをテーブルに置く。今日の彼の出で立ちは、品のいい淡い色のスーツだった。春色の髪を払い、足を組みなおしながら宗三は少女のほうをじっと見つめる。
    「もういいじゃないですか。あなたは十分に頑張りました、これ以上何かする必要はありません」
    「頑張った……?」
    「そうですよ。あなた華族様の家なんで柄じゃなかったでしょう?」
     どこか哀れむような、そんな優しい瞳で宗三は彼女の髪を撫でた。今はもう、人目など気にしなくてもいい。だから何にも憚ることなく、ゆっくりと指で髪を梳いていく。
    「元々外遊びが好きで、元気な子だったじゃないですか。合わなかったんですよ、そう思えばいい」
    「……そう、なのかな」
    「ええ、それでいいんです。あなたは十分によくやりました。……だから、ねえ、うちへ来たらいいじゃないですか」
    「えっ?」
     思いもよらない言葉に、少女は驚いて頭を振りかぶり宗三に向き直る。宗三は珍しく本当に暖かい表情で、しかしやや焦ったそれでこちらを見ている。思わずうっとりとしてしまいそうな美しい憂いを秘めた顔に、少女はただ戸惑って目を伏せた。
    「三条の家に離縁されたともなれば、もう他に貰い手がないでしょう。僕がもらってあげてもいいですよ。その年で嫁にいけなくなるのも可哀想ですからね」
    「そ、宗三?」
    「左文字は武家です、華族の三条とは畑が違う。僕は次男でとやかく言う人間もいない。それに、兄上ともお小夜ともあなたは顔見知りだし、好かれている。丁度いいじゃあないですか」
     最後のほうは早口で宗三が告げた。彼女は目を白黒とさせる。確かに、左文字の家と彼女の家は縁深い。それもあって、あちらの三兄弟と彼女は随分前からの馴染みになる。だがまさかこんな突拍子もないことを、慎重でいい意味でも悪い意味でも計算高い宗三から切り出されると思わなかったのだ。
    「どうですか、僕で手を打ちませんか。次男ですが、まあうまい具合にやりますよ」
    「……どう、して急に」
    「急じゃありませんよ。……僕はずっと、あなたは僕にいただけるものだと思っていましたから」
     彼女は視線を伏せた。まあなんとなく、薄々そんな気はしていたのだ。だから一層のこと、三日月との縁談は青天の霹靂だった。
     宗三は、優しい。急な輿入れの時も憎まれ口を叩きながら祝いの花をくれた。女学校に戻ったときは、驚いてはいたものの「なんだ、元気じゃないですか」と少しだけ安堵していたのを知っている。そして今は、実家に戻された彼女を心配してくれている。
     きっと、大事にしてくれる。次男だから、後継ぎのこともそう急いで考えなくてもいいかもしれない。だが、それでもなお、彼女は。
    「ごめ、なさい、宗三、私」
     ぽたぽたと着ていた桜色の着物の膝に涙が零れた。段々と薄桃のそれが濃い色に変わる。ああこれは、あの雨の日と同じだ。ここで生きろと三日月が手を伸ばしてくれたあの日と。
    「うんうん、俺の奥方は可愛らしいなあ。一等愛らしい当代一の嫁御だ」
     そう言って笑った顔が、どうしても忘れられないのだ。
    「もし、私がここで諦めたら、三日月さんが、泣いちゃう気がして」
     そんなことないのは百も承知だ。彼女の記憶の中の三日月は、いつも穏やかに微笑んでいる。甘いものを食べる蕩けたような表情も、庭の花が芽を出したときのきらきらとした瞳も、皆覚えている。だがそれでもいつもどこか張り詰めて、苦しそうな人だった。
     だから今もしもここで自分が本当に諦めて、あの手を離してしまったら。あの雨の日に強く握った手を解いたら。何故だか三日月がどこかに行って、一人泣いてしまうような気がしたのだ。
    「絶対そんなことないのに、どうしてだかわからないけど、ねえ、宗三、だから」
    「……」
    「ごめんなさい……」
     ヒクリと喉を震わせて、実家に帰れと言われた日から初めて泣いた。体を折り曲げ、口を押え嗚咽を押える。
     何でもいいから、話をしてほしかった。三日月はいつも、微笑ながら彼女の話を聞いてくれたから。たまには三日月が何を考えているのか教えてほしかった。楽しいことばかりじゃなくていい、嬉しいことばかりじゃなくていい。哀しいことも苦しいことも全部行ってくれたら、それを丸ごと抱きしめてやりたかった。
     今ならわかる、妾を囲うかもしれないと聞いたときにあんなに悲しかった意味が。実家に帰れと言われて、やっと三条から出ることができたのに何故心が重苦しかったのか。こんなにも狂おしく、愛おしいこの気持ちの名前は。
    「いたっ」
     ぴしりと頭を弾かれる。滲む視界を上げると、呆れかえった顔をしている宗三が彼女を見ていた。
    「ああまったく、僕が一芝居打たないとそんなことにも気が付かないんですか」
    「宗三……?」
    「僕があなたなんかもらってあげるわけないでしょう。勘違いしましたか? 図々しいですね。さっさと旦那様の元へお帰りなさい。一週間も慣れない我慢をするからそんなことになるんです」
     ほらっと言うと、宗三はやや無理に彼女を温室のベンチから立ち上がらせた。それから顎を掴み、ぐいっと前を向かせる。
    「しゃんとなさい、前を向くんです。そんな泣き顔では三条の門前で追い返されますよ」
    「宗三」
    「ほら、早く行きなさい。僕が乗ってきた左文字の車を使って構いませんから。特別ですよ。でも涙で汚れた着物だけは何とかしていくんですね。みっともないです」
     一瞬だけ視線をめぐらせた後、少女は唇を真一文字に引締めて踵を返した。温室を出る間際、「ありがとう宗三!」と元気な声が聞こえてくる。宗三は少女が駆け抜けて行ったのを確認してから、ふうと息をついて再びベンチに座り込んだ。
     世話の焼ける夫婦ですね、と誰もいない温室で一人ごちる。やや冷めた紅茶に手を伸ばした。実に損な役回りだった。これはもう、次の舞踏会あたりで三日月宗近に出くわしたら、嫌味の一つでも言ってやらねば気が済まない。
    「ああまったく……とんだ初恋でした」
     本当に、一番不器用だったのは宗三に違いない。



     三日月は困惑したまま、頭を下げ続けている少女を見つめていた。何故ここにいるのかとか、どうやってきたのかとか、そもそもどうして帰ってきてしまったのかとか、疑問は尽きないが一番は今彼女が言い放った一言である。
    「……俺の、嫁に?」
    「そうです。私を、三日月さんのお嫁様にしてください」
     再び三日月を見上げた少女の瞳に、迷いはなかった。戸惑って、三日月のほうが視線をあちらこちらにやってしまう。何を言っているのだろうこの子は。
    「そなたは家へ戻されたのだぞ。何を言っている」
    「はい、そうです。だからもう一度お願いに参りました」
     三日月は思わず眉を顰めた。どんな思いで、自分が彼女を送り返したと思っている。少女のこれからを思って、ここに縛り付けるわけにはいかないと、やっとの思いで手を離したのに。だのに何故、易々と自分から戻ってきた。大した愚か者だ、どうかしている。
    「愚かな……三条がどのようにして後継ぎを決めるかわかったはずだ、それでもまだ俺の嫁になるというのか」
     震える声でもう一度問う。すると彼女は首を振って立ち上がった。袴についた土埃を払うこともなく、少女は三日月に詰め寄る。
    「いいえ、お妾は許しません。時代がどうだろうと、三条がどうだろうと、私以外の女性をお迎えになることは許しません」
    「そなた、なにを」
     ぎゅっと泣き出すのを我慢しているような目で、少女は三日月を射すくめる。必死なその表情に、三日月はもう押し黙るしかなかった。
    「五人だろうが十人だろうが百人だろうが、お妾さんの分も私が一人で子どもを産んでみせます。それなら問題はありませんね」
     呆気に取られて口が開いてしまった。三日月はそんな間抜けな顔をしたことなんて生まれてから一度もなかった。この娘は何を言っている。自分は幻聴でも聞いているのか。
    「な、そなた、自分が何を言っておるのかわかっているのかっ!」
    「わかっておりますっ!」
     少女が三日月の両手を取った。小さく細い手だが、しっかりと強くそれを掴んでいる。絶対に、離しはしないという確固たる意志に、三日月はついにくしゃりと顔を歪めた。
    「俺がどんな思いで、そなたの手を離したと思っているのだ……。ここから押し出し、外へ行けるよう、それを何故」
    「いいえ、外へ出るなら共に出ていただきます。私一人じゃありません、三日月さんも一緒です。絶対に離してなんてやりません。もうここまできたら、三日月さんには私を嫁にもらったことを心底後悔していただきます。私だって驚いたし、色々落ち込んだんですから、それで貸し借りなしにしましょう」
     スパッと彼女はそう言い切った。そんなことが許されるのか。そんな、全部三日月にとって都合のいい、夢みたいなこと。
     握った三日月の手を額につけて、彼女はぐりぐりとそれを擦り付けた。
    「……お慕いしております。どうか、家に戻すなんて寂しいこと言わないでください」
     ね、と彼女は顔を上げる。揺れる月の瞳が、ふるふると決壊するのを堪えていた。それが零れてしまう前に、少女は少し背伸びをして三日月の首に腕を回して広い背中を抱きしめる。はしたないと言われても構わない。だってもう、新しい時代が来たのだ。街には車が走り、振袖に袴にブーツ、軍服だってモダンな詰襟の洋服だ。だったらもう、古い檻は捨てて幸せにならなくては。もうこんな、冷たい棺は出なくては。
    「……愚か者め、この、阿呆」
     震えた声を耳元で聞いて、彼女は静かに目を閉じる。これでよかった、間違いない。
    「諦めて、私と一緒に幸せになってください。二人ならきっと、どこへでも行けますよ。これからは帝都を出るときも、いつでも連れて行ってくださいね。ここで、三日月さんと一緒に幸せになることが、私の新しい夢なんですから」
     骨が折れてしまいそうなほど、強い力で三日月は少女を抱き返す。それからやっと、小さな小さな涙声で三日月はその言葉を告げた。鶴丸から教わった、生まれて初めてのその暖かい言葉を。



    「三日月さん、早く起きてくださいよ、花が咲いたんですから!」
     せっかくの非番、せっかくの女学校の休日。三日月は今日は寝所から出るつもりがなかった。一日妻とのんびり、褥の中で過ごすつもりだったのである。だからその妻本人がさっさと起きだして着替え、三日月を揺り起こしているなんてことは想定外だ。
    「なんだ……? 今日は学校も休みだろう? 俺は宿直明けだ」
    「わかってますよそんなの、おかげさまでここ数日はゆっくり眠れました。腰も痛くないですし。もっと宿直番増やしたって構わないんですよ」
     それは聞き捨てならないセリフである。絶対に今晩は抱きつぶすと決意してから、三日月はやっと目を開けて起き上がった。少女のほうは既にあの紗綾柄の着物に襷を掛けている。
    「もうその寝巻に羽織でいいですから、早く立ち上がってください」
    「あいわかった、じじいを急かしてくれるな」
     少女に手を引かれ、広い広い三条邸の南端まで歩く。一つ欠伸をして、三日月は青い鼻緒の下駄をつっかけ庭へ降りた。一足先に彼女は赤い鼻緒の下駄で駆け出して行っている。三日月は「これこれ」なんて言いながら、そのあとを追いかけた。ぱっと切りそろえられた髪を翻し、少女は笑って振り返る。
    「ほら、三日月さん。見事に咲きましたよ」
    「うん? ……おお、ほんに。美しいなあ」
     白く小ぶりな花が、ちらほらとあちらこちらで開いている。可愛らしい植物だ。三日月は目を細め、それを見つめた。朝の光を浴び、その花は太陽を反射している。とても眩しい。
     彼女がしゃがみこんでそれを眺めているので、三日月も一緒になってその隣に屈んだ。ほんの少し距離を詰め、ぴったりと寄り添いながら。ふわりと彼女から日向の匂いがする。
    「三日月さん、この花知ってます?」
    「んー? 俺はこの類には疎くてな。何というんだ?」
     そう聞けば、嬉しそうに少女は顔を綻ばせた。小さな花に指を添え、にっこりと笑う。
    「これは、サンザシといいます。花言葉は」
     希望、新しい光。そして、「あなただけを愛します」。
     可愛らしいでしょう? ともう一度少女は微笑んだ。三日月は一瞬だけ目を見開いて、それから蕩けるような表情を浮かべる。そして「ふふふ」なんて笑みを零す少女を一息に抱き上げた。
    「うんうん、やはり俺の奥方は一等愛らしい。当代一の嫁御だ」
    「ああちょっと! 降ろしてください! 今日は他にやりたいことがあるんですよ、本屋さんにも行きたいですし、一緒に散歩でもしましょう?」
    「いいや、俺は今日は寝所から出ん予定でいてな。さあ戻ろうか、俺の可愛い奥や」
    「えっ、ちょっと勘弁してくださいよ、やっと腰が怠くなくなったのに!」
     彼女が抗議の声を上げると、三日月はにまーっと唇を緩めた。
    「んー、俺の子を五人だろうが十人だろうが、果ては百人だろうが産んでくれるというたのは誰だったか」
    「え、う、それは」
     はっはっはと、朝の輝かしい光の中に三日月の穏やかな声が響く。ぎゅうっと少女の体を抱きしめて、三日月はその顔を彼女の腹にこすり付けた。まるで幼い子どものような表情に、少女は力が抜けてしまう。はあまったく、これではどちらが子どもだかわかったものではない。
    「うむ、生まれ落ちたときからそなたと共に居られる俺の子にはちと妬けるな」
    「何馬鹿なこと言ってるんですか、いい年をして」
    「ふふ、いいや、本気だぞ」
     きっといつか赤子の抱かれる彼女の腕の中は、この世で一番心地のいい場所なのだろう。何せ彼女は三日月の手を取って、どこまでも幸せな場所へ連れて行ってくれるのだから。この邸はそんな優しい光に満ちた揺り籠だ。
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    2022/09/01 17:41:20

    花の檻

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    #刀剣乱夢 #みかさに #大正パロディ

    三条家跡取りの三日月に嫁入りした商家の娘の話。
    以前pixivに掲載していた大正パロです。

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