同期の源髭切君(新卒平社員)の話 同期の源髭切君は、入社当時からぴかいちで目立つ男だった。
「ねえ、印刷しておいたから、これ、目を通してもらってもいいかい?」
「え、ああ、うん、ありがとう」
「よろしく頼むよ」
にこりと源君が笑う。周囲の女性社員の視線が釘付けになるのがわかる。たぶん、彼女たちには正面にいるはずの俺は一切見えていないだろう。
まず、源君は抜群に顔立ちが整っていた。同じ人間なのか疑う。いや、そんなことを言うと源君はあははなんて笑った後に「大して君と変わらないよ」なんて返すのだが。そういうところで、また周囲の好感度が上がるのだが。
入社式のときから、源君は他の社員たちと一味も二味も違った。まず新入社員代表の挨拶で注目を掻っ攫った。意味のわからない美形が壇上に立った時点でかなり会場がざわついた。女性社員の色めき立ちかたは半端なかった。しかも、しかもだ。
源君はその時点で、左の薬指にきらきら光る指輪をしていたのである。
「源君って、院卒とかだっけ?」
偶然トイレで鉢合わせた源君に俺がそう聞けば、ハンカチを咥えて手を洗っていた源君はこちらを見る。きちんとアイロンのかかった、白いハンカチだった。
「ううん、違うけど。君と同い年だよ」
「そ、そっか」
「急にどうしたの? 僕ら同期だから、別に変なことじゃないよ」
ふふと源君は笑って先に出て行く。
いや、いやいやいや。変なことではないかもしれないが、気になることは大いにありすぎる。特にその指輪に関して。あれほど黄色い歓声を上げた女性社員たちも、流石に聞く勇気がなかったらしい。昨今結婚だのなんだの聞くのはセクハラにもなりかねないし。故に源君に関するあれこれは冬になった今も謎のままだった。
かといって、今のところ源君の周辺でそういったきな臭い出来事はなかった。何故なら源君は、異様にガードが固いのだ。
愛想はいい、よすぎるくらいに。人当たりがずば抜けて良く、加えてよく周りを見ているのか気遣いまでパーフェクトだった。だから男女問わず源君には皆良く話しかけたし、俺にはちょっと意地の悪い事務のあのおばさまだとか、ネチネチものを言う先輩の営業マンだとかも、源君の笑顔の前には無力だ。
けれど、決して自分に深入りはさせない。公と私の絶妙な境目で、源君は全てをシャットアウトする。
「お茶くらいどう? ちょっと息抜きに」
あ、まただ。トイレから戻った俺はそちらに目を向けた。同期の女の子達の中でも、少し派手な印象の子。指輪にはものともせず、積極的に源君の壁を崩そうと頑張っていた。そして周囲の女性社員は隙あらばとその様を見ていた。非常に怖い。
今日は丁度お昼時だし、お茶に誘っているらしい。よくやることだ。まあ源君が周囲の視線を一気に集めていってくれたおかげで、他の俺たちのような平凡な新入社員は余計な粉を掛けられることもなく、比較的平和に会社に馴染むことができていた。源君があのスマイルで周囲の毒気を抜くから変な僻みもない。つくづく隙のない男だ。
「うーん、でも今日、寒いから」
「大丈夫だよ、喫茶店直ぐそこだし。前に甘いもの好きって言ってなかった? ココア美味しいよ」
「んー」
……少し可哀想だな。俺は助け舟を出そうか迷った。こっちで先約があるとか適当なこと、言ってやろうか。でもそうするとあの女性社員たちからの火の粉がかかりそうな気もする。いくらか悩んでいると源君はやっぱり首を振った。
「ううん、ごめんね。やめにしておくよ」
「えー、どうして」
「不経済って、家で怒られちゃうんだ。飲み物なら持ってきているし、ココアなら家で頼めば淹れてもらえるから。ただでさえ今週残業が多くて怒られてるからねえ」
じゃあ、と引き止められていた源君は席に戻る。
いや、怒られるって誰に。誰にだ。誰がココアを淹れてくれるんだ。
たぶん、俺を含めこの場にいる全員がそう思ったが、追求できる空気ではない。そんな中源君だけが自分のデスクで、魔法瓶の水筒から注いだ温かそうなお茶を「美味しい」と満足げな笑顔で飲んでいた。
爆弾を落としたのは部長だった。
「源君、今時お手製のお弁当かね、珍しい」
気になっていた。皆ものすごく気になっていたことをそんなあっさり聞くのか部長!
おそらく俺を含めたフロアの全員がそう思った。と同時に、目をやらないだけで社員の意識がほぼ源君に集中した。隣のデスクの俺はちらりと横目で源君を見る。箸を持った源君はぱちぱちと瞬きを繰り返していた。
入社してからこっち、源君はずっとお弁当である。コンビニや仕出しのものじゃなく、お手製の二段弁当だった。サイズも結構大きい。源君は大食漢だ。
自作……いや、誰も突っ込めずにいる指輪の相手。誰も彼もがその弁当の作り主を予想したが、当の本人には聞けない。ただ毎日、源君が「いただきます」と手を合わせてぺろりと中身を空にし、「ごちそうさま」と社内の流しで洗うのを見るだけである。
それをそんなにあっさり明らかにするのか部長。俺はちょっとハラハラして、コンビニのおにぎりを食べる手が止まる。女性社員が耳を欹てている気配が怖い。
俺が一人で怯える中、スゥと髭切君は穏やかに息を吸った。
「はい、妻が毎日。頑張ってくれています」
にこりとした源君と対照的に、俺はヒッと息を呑む。
言ったよ、言っちゃったよ、はっきり。少なくとも隣にいた自分が聴き間違えることは絶対にないはずだ。
今、源君は確かに「妻」と言った。
俺は恐ろしくてフロアの女性社員を見ることが出来ない。
同期の源君は不思議な男だ。何がと具体的に言うことは難しい。けれど一言で表すあらば「不思議」なのである。
とびきり美形で、仕事もできる。よく人を見ているからフォローもうまい。しかも愛想も良くて、男女問わず隔てなく話したり接したり出来て。欠点を教えてほしい。運動が出来ないとか、実はものすごくいびきがひどいとか。
だが源君はとてもガードが固い。しっかりとした線引きをする。公と私の絶妙なラインを誰一人として越えさせてこないこないのだ。
だから俺も同期の上に隣のデスクにまで座っておいて、「君」づけである。それ以上は馴れ馴れしい気がした。
「ねえ、これ処理終わっているかい? もしまだなんだったら、資料取りに行くの一緒にするよ。僕のほうでも必要だから」
声を掛けられてハッとする。源君が隣で「おーい」と手を振っていた。
「あ、ごめん、うん、資料いるわ、行く」
「じゃあ行こうか」
すっくと源君が立ち上がる。この狭いデスクにあの長い足はどう納まっているのだ、わからない。
源君は資料室の鍵を指に引っ掛けて、すたすた廊下を進んだ。
「源君さ」
「ん?」
無言なのもなんだかと思ったので、声を掛ける。くるりと首を回し、源君は振り返った。琥珀に似た色の不思議な目がこちらに向くと男の俺もどきりとしてしまう。困る。
「いや、弁当もだけど、いつもきちんとしてるよなって。ワイシャツとか、ハンカチとか」
あえて「妻」には言及しないでおこう、するのは怖い。
すると源君は、ああと自分の襟元を引っ張る。
「僕はそうでもないんだけど、弟がね。ものすごく几帳面で。今家にいるから」
「弟? 源君、弟がいるんだ」
「うん、一つ下の。今年就職活動をするためにうちで預かっていて。頑張っていたよ、いつの間にか決まってたみたいだけど」
それはひどく珍しい源君の「家族」の話だった。俺は同期だが今の今まで源君に弟がいることさえ知らなかった。
「そうなんだ」
「君は? 兄弟とか、いるの?」
予想外に自分にも会話の矢印が向いたので、俺はやや驚きながら答えた。
「いや、いないし、大学で家出てからはあんまり」
「そうなのかい。家には顔を見せてあげたほうがいいよ、安心するだろうし。僕の弟なんて心配性が酷くて。弟が考えてるよりは、僕だってしっかりしてるつもりなんだけど」
ふふふ、と源君が笑う。それを見ておお、と俺は目を瞬いた。
源君はよく笑う人だったけれど、そのときの笑みはなんと言うか、今まで見た中で一番人間らしい源君の笑みだった。余所行きではない、楽しそうな顔。
一緒にいたのが女性社員じゃなくて良かったな源君。俺はそう思いながら、資料室で書類のファイルを抱えて戻った。
滅多に家族やプライベートな話をしない源君の弟については、できるだけ俺も黙っておこう。またキャアキャア騒がれては源君も可哀想だし。
……と俺は一人口を噤むはずだったのだが。
「源君弟がいるらしいね」
「几帳面で真面目だって」
「シャツがパリッとしてるのとか、お弁当とか、弟さんなんじゃない?」
狭い社内だ、廊下で話していたことなんて余裕で聞かれていたらしい。それにしたって、もう少しそっとしておいていてやればいいのにと俺は思った。
俺だって、家族や何やらのことを詮索されるのはいい気はしない。源君はあの人のいい笑みで全て流してしまうのかもしれないけれど。
というかそもそも、弁当はこの間はっきりと「妻」と言っていたじゃないか。現実逃避したくなる気持ちもわかるが。まだ源君は十分若いし……なんて考えてから、自分も同い年だと気づいた。
とにもかくにも、社内はこそこそと今度は源君の「弟」の話をしている。人気者は大変だなとちょっと同情した。そんな源君は周囲などまるで気にもしていないのか、粛々と自分の仕事を片付けている。それはもうにこやかに。……と思いきや、今日は珍しくデスクにスマホが出ていた。源君は滅多にそういうものを人目につく場所には置かないのだが。
フロアの入り口付近でコピー機に向かいながら、もうちょっと声とか掛けてやるべきだろうかと俺は考えた。思えば付き合いの飲み会なんかはあっても、源君は同期で特に誰かと親しかったりしないし……。
「あの」
「んっ、はい? すみません」
あれこれ考えているところに声を掛けられて、俺は慌てて振り返った。女の人が一人立っている。取引先だろうか。だが彼女はスーツやオフィス風の服装ではなかった。
「すみません、源の家内ですが」
「はっ?」
聞き間違いではないだろうか。いや、健診で聴力に問題はなかった。俺は慌てて周囲を見やる、誰にも聞かれていないだろうな。それからややこそこそと聞きなおした。
「み、源君の奥さん……?」
「はい、主人がいつもお世話に」
「あー、ごめんね。ありがとう、お弁当持ってきてくれたの?」
今度は別な意味でピャッと肩を跳ね上げる。振り返ると笑顔満面の源君がいた。
「源お前、馬鹿野郎っ!」
「え?」
せめてもっとさりげなく来い。俺は焦って源君を押し返したが、時既に遅し。フロア中の目がこちらを見ていた。
「いやあ、置いていっちゃってごめんよ」
「寝坊して慌てて出て行くから。買えばよかったのに」
「でも君がせっかく作ってくれたんだもの。寒くなかった? 次はもう少し温かい格好でおいでね。何もないなら夕方まで待ってる? そこの喫茶店ココア美味しいらしいよ」
「何もないけど、残業されるとなあ」
いや、よくないとわかりつつどうしてもまじまじとその女性を見てしまう。
源君がずば抜けた容姿なのに対して、奥さんは特に際立って美人というわけではなかった。いたって普通の人に見える。俺はやや拍子抜けした。なんだ、てっきりものすごい美人かと。
源君よりずっと小さいその人のマフラーを両手で直してやってから、源君は差し出されたお弁当の入った手提げを受け取る。それから奥さんのほうが軽くこちらに会釈した。
「お邪魔しました。それじゃあ」
「あ、はあ」
「僕ちょっとそこまで送ってくるね」
ひらっと源君は俺に手を振って、ごく自然な動作で奥さんの背に腕を回しフロアを出て行った。
一拍、二拍、やや置いてから場が騒然とする。そりゃあそうだ。
蜂の巣でも突いたような社内を尻目に、俺はちょっと窓辺に寄ってみる。あまり高くない階だから、見えるのではあるまいか。すると案の定、ビルから出てくる二人が見えた。
手を振る彼女の腕を掴んで、喫茶店を指差している源君。まさか本当に夕方まで待たせるつもりなのか。というかあれ、先日女性社員から誘われて不経済だからと断った店じゃないのか。根負けしたように、奥さんは喫茶店のほうに足を向ける。源君が嬉しげに笑っているのが見えた。
「……なあんだ」
思わず俺は呟いていた。なんだ、不思議だと思っていた源君も、普通の男じゃないか。
抜群に顔が良くて、新卒なのにぴかぴかの指輪を左の薬指に嵌めていたりするけれど。弟が大事だったり、奥さんが来ると喜ぶ、普通の男じゃないか。
「今日は平社員でも定時で上がったほうがいいんじゃないか? その書類俺でもできるし」
デスクに戻ってきて、いつも通り「いただきます」と手を合わせお弁当をぱくつき始めた源君に言う。ぱちぱちと長い睫毛を瞬いた源君は、黄色く柔らかそうな卵焼きを口元に運びながらにこりと笑った。
「君も今度うちに遊びに来たらいいよ。奥さん、料理が上手って訳じゃないけど」
「そうなのか?」
あ、でも毎日「頑張って」いるんだっけ。
そんなことを思いながら、俺は源君が早くも「ごちそうさまあ」と言うのを聞いた。