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    藤の旅路

     さよなら姉さん、体を大事にね。姉さんならきっと幸せになれる。きっと、大丈夫よ。
     そう言って最愛の妹がお嫁に行ってしまったとき、彼女は愈々すべてを諦めた。幸せになんてなれるはずがない。結婚は自分を幸福にしてはくれないと、彼女はずっと前から知っている。妹だってそれをわかっていたはずだったのに、どうして彼女だけを置いて行ってしまったのだろう。
     自分も妹の嫁入りの翌々日には婚約者の家に行かなくてはならなかったのに、ろくすっぽ支度もせずに彼女は一人部屋の中でずっと考えていた。それでも否応なく女中が荷造りを進めていて、彼女が座りこんでいたところで何も状況は変わらないだろう。
     幸せなんて、一体どこにあるのだ。



     外からタイヤが砂利を踏む音が聞こえて、ああ今日も帰ってきたと彼女は頭を抱えた。あれが聞こえたらもうこの部屋に来るまで一呼吸あるかないかだろう。彼はものすごく足が速い。
     案の定、玄関の扉が開けられそれが閉まる音が耳に届くか否かのところで部屋がノックされた。速すぎる。官憲の制服姿の男は胸に手を当て、恭しく彼女に向かって頭を下げた。
    「失礼いたします。ただいま長谷部が戻りました、お加減はいかがでしょうか?」
     彼女は引き攣りかけた頬をなんとか笑顔の体に整え、長谷部に向ける。曲がりなりにも長谷部は彼女の婚約者だ。猫を被るだけの愛想と良識は彼女にもある。
    「おかえりなさい、長谷部さん。今日もお疲れ様でした」
    「本日も変わりなく。職務を全うしてまいりました」
     退勤後、いつも何処か得意げな様子の長谷部もいい加減見飽きたというものだ。それもそのはず、彼女が花嫁修業の名目で長谷部邸に来てからもう三か月ほどになる。こうして長谷部を出迎えるのを、彼女は三か月の間欠かさず毎日繰り返していた。
    「さ、夕飯にしましょう。ここに運ばせます」
    「はい、わかりました」
     長谷部は再び礼儀正しい所作で頭を下げると、部屋を出て行く。よく通る声で、女中に食事の支度をするよう言っているのが聞こえた。
     この結婚はもう、決まっていること。花嫁修業とはいってもお試しだからと両親は彼女を送り出したが、次に実家に戻るときは恐らく結婚式の直前だろうことはもう予想ができている。ここ長谷部邸で宛がわれたこの部屋は、彼女にとっては牢獄にも等しい。
     何故なら彼女は、これっぽっちも結婚など望んでいなかったからだ。
     彼女は三姉妹の真ん中、つまり次女であった。生まれは格式のある家柄だったが、子どもは娘ばかり。幸い分家だったのもあり、両親はそれぞれの娘を名家やこれからの世の中を生きていける男へ嫁にやって家を残すことを考えた。長女は、華族に嫁いで行った。そして彼女の妹である末娘は武家の元締めである源氏の惣領の妻になった。そして次女の彼女は官憲の出世頭、長谷部国重との見合いが決まったのである。
     そうして彼女は、見合いからほどなく長谷部邸に花嫁修業と称され送られた。
    「貴女がこちらへ来られてから、もう三か月ですね。住み心地はいかがですか? 何か不便などは」
     毎日毎日、よくもまあ似たようなことを確認するものだ。そう思ったが彼女はゆっくり首を振る。
    「いいえ、何も。大丈夫です。女中さんも親切にしてくれますし」
    「それはよかった。もし何か不便があればご随意に申し付けてください。この長谷部、何とかいたしましょう」
    「ありがとうございます」
     食事を摂りながら、長谷部が人のいい笑みで彼女にそう聞いた。それに彼女も愛想笑いを返しながら答える。その笑みの真意を、彼女は理解しているつもりだ。
     長谷部の家は一般階級から見れば裕福な家ではあるけれど、特段目立った家柄というわけではない。もっと言えば、彼女の家のほうが身分は高かった。
     だが、この長谷部国重という男の出世は異例中の異例だった。まだ若い年齢で何階級も続けて昇進し、エリートまっしぐらである。だがこれ以上を望むのなら、ある程度の身分という名の箔が必要なのだ。
     そういう意味で、長谷部にとっても彼女の家にとっても、この縁談は利点しかなかった。
     長谷部は出世のために「名家の娘とその実家」を手に入れ、彼女の家は「娘の嫁ぎ先とこれからの縁」を確保する。だから長谷部は無条件に彼女を大切にするし、彼女はそれを享受する他ない。
     彼女の意志とは、関係なしに。
    「明日は夜勤の日でしたね」
    「はい、日中は貴女と一緒にいられるかと。体調がよろしければ散歩などいかがですか?」
    「いいですね、そうしましょうか」
    「では、そのように。ゆっくりお休みください」
     夕食を終え、食後のお茶まで済ませると毎晩長谷部はそこで彼女の部屋を出る。そしてそれからは朝まで一切顔を出さない。当然寝室は別である。それは彼女がここに来た当初から全く変わらない。
     ほうと息を吐いて、彼女はベッドに仰向けの体勢で倒れ込んだ。その拍子に何度か咳をする。こほこほという乾いたそれは、無駄に部屋に響いた。ああ、疲れる。疲労感が毎日半端ではない。これが今後の人生毎日続くと言うのだから、地獄以外の何でもない。
     手を天井に伸ばしてみれば、良く手入れされた自分の爪と質のいい服が映る。それらは全て長谷部の指示によるものだ。目を閉じ、ただ願う。
     何もかも早く終わればいい。長谷部の茶番も、自分の芝居も、もう僻僻していると言うのに。
     どうせ、長谷部だって彼女のことを微塵も愛してなどいないのだから。



     女学校での講義を終え、ふらりと街の喫茶店を見た宗三左文字はおやと首を傾げた。友と呼ぶには癪なのだが、それなりに親しくしているやつが店内にいるのを認めたからである。それも、しかめ面はいつも通りなのだがその顔で眺めているものがなかなかに面白い。時間もあるし、からかうにもちょうどいいだろう。宗三はカランコロンとベルの音を立てて喫茶店の戸を開けると、長谷部の正面に勝手に座った。長谷部は一切宗三のほうを見ずに口を開く。
    「座っていいとは誰も言っていない」
    「席を空けておくのが悪いんですよ。あ、僕にも珈琲を一つ」
    「何の用だ。お前だって暇ではないだろう。家の用事なら正式に使いを寄越せ」
     宗三の分のティーカップが運ばれてきて、長谷部はばさりと手にしていた雑誌をテーブルの上に放った。宗三はさっとそれを取り、開く。この仕事の鬼みたいな知り合いが、珍しく旅行雑誌なんか捲っているのだから気になってここにきたのだ。
    「あなたが旅行に行くなんて、明日は槍でも降るんですか?」
    「馬鹿を言え。俺一人ではない」
    「……ああ、そういえば見合いをしたんでしたっけ。風の便りに聞いたような気がします」
     宗三とこの長谷部とは腐れ縁が繋いだ「知人」である。友人ではない。師範学校から何かと一緒になり、結局大学を出るまで同じ学舎に通う羽目になった。宗三の友人といえば、虎徹の家の蜂須賀や武家青江のにっかり。それから兼定一門の歌仙なんていう、どちらかといえば華やかで趣味の似通ったものが殆どなのだが、この長谷部とはなんだかんだで顔を合わせることが多く、お互いに変なところで反りが合わない分遠慮がない。だが友というには何となく癪。そういう間柄なのだ。
     その長谷部が見合いをした、というのを宗三は社交界のどこかで聞いた。あの朴念仁が遂に結婚ねえなんて思った覚えもある。それから宗三は色々とバタバタしていたので、お相手のことはよく聞いていないし会ってもいない。だが宗三の知る長谷部は、仕事一直線の堅物なのだ。女性なんてものはその邪魔にしかならないと考えていた長谷部は、学生時代から浮いた噂ひとつない全く面白くない奴だった。それを覚えているだけに、よく見合いの話なんて受けたなとさえ思った。
     それが、ねえ。宗三はくつくつと肩を震わせて雑誌をめくる。
    「あの長谷部国重がまさか婚約者と旅行! あなたの仕事じゃあ長期の休みをもらうのだって骨が折れるでしょうに。それをわざわざ」
    「うるさい。俺にだって考えることくらいある。有給休暇は売り払えるほど溜まっているんだ、上官も両手を上げて喜ぶくらいだろう」
    「ふふ、面白いですねえ。人も変わるものだ」
     婚約者と旅行をするという指摘を否定しなかったあたり、きっとそれは事実なのだろう。この知人は堅物で面倒くさい性格をしてはいるが、宗三のこういったおちょくりにもくそ真面目なのがいいところでもあり、からかいどころでもある。
     珈琲に口をつけながら、宗三は答えてくれるかはわからないが一応聞いてみた。
    「で、お相手は? どちらのお嬢さんなんです?」
    「……上官の紹介で受けた見合いだ。俺に決定権はない」
    「ああ、あなた別に貴族の出というわけでもないですもんね。なるほど、今後出世するためにも妻で箔をつけるってとこですか」
    「おい、下種な物言いをするな」
     宗三はそこでおや、と眉を上げた。それは長谷部の反論がいささか予想外だったためである。
     長谷部は良くも悪くも真面目で、その割に汚れ仕事を嫌わない。命じられたことは機械のごとくこなす男だ。だから、ある意味で官憲は天職だった。こんな男が裏社会側にいたら、面倒で仕方がないからだ。理屈っぽく、目的に対し最速でたどり着けるようにありとあらゆるものを利用する。それが宗三の知る長谷部国重という男である。
     だからまあ、出世のために良家の娘を嫁にもらうというのは非常に合理的で、長谷部の性格上それを指摘されれば、あっさりそれを認めるのが当然だと宗三は思っていたのである。なぜならおそらくは、上官もそのつもりで長谷部に見合いを薦めたはずなのだ。
    「……どんな方なんです?」
     念のため、長谷部に聞いてみる。すると長谷部はいくらか迷ったように何度か咳払いをすると、最後には自分もティーカップに手をやって答えた。
    「俺には勿体ないほどのお方だ。ただ、体が弱くていらっしゃるからな。無理はさせまいと思っている」
     ……へえ。へえ。
     宗三は笑い出さないようにするのと、コーヒーカップを落とさないようにするので精一杯であった。そしてそれが本人にばれるとぶん殴られてしまうだろうから、隠し通すのにも必死だった。
     こともあろうにあの長谷部が。堅物で仕事魔の長谷部国重が。わずかに頬を染めながら、宗三の質問に答えたのだ。
     これは、もしかしてもしかすると、長谷部は婚約者に本気で惚れているのでは。
    「お、応援してますね」
     宗三はやや上ずった声でそう答えることしかできなかった。



     長谷部の仕事のサイクルは、不定期ではあるけれども基本的には週に二日の休み。それから日勤と夜勤が入り混じっている。日勤の日は、朝に長谷部は彼女の部屋にやってきて「行ってまいります」と頭を下げ、自宅に帰れば光の速さで再び部屋に来て「ただいま戻りました」と礼をする。夜勤ならばその逆だ。長谷部のいない間、彼女は特に何の制約があるわけでもないので好きに過ごす。ただし、体調を崩すこともあるので外に出るのは稀だけれど。加えて長谷部邸は彼女の実家ほど大きいわけではないものの、それなりの広さと使用人がいた。だから不便は殆どない。殆どないのだが。
    「別嬪さんじゃねえか。いいお嬢さんもらったなあ長谷部」
    「口の利き方に気をつけろ薬研藤四郎! 申し訳ありません、無礼はあとで圧し切りますので」
    「い、いえ」
     ひとつ、気になっていることはといえば。休みの日はしょっちゅう、長谷部の友人が邸に顔を出しに来ることだった。
     彼女が直接社交界に顔を出したことは数えるほどもないのだが、それでも噂に聞く長船の伊達男、それについてきた五条の御曹司。左文字の次男に、この間なんか粟田口の博多が貴族の日本号を伴ってやってきて白目を剥きかけた。そして今日はその博多の兄である薬研藤四郎。
     思いのほか、長谷部は顔が広いらしい。
     彼女が目を白黒とさせていると、華奢な割に精悍な雰囲気をした薬研藤四郎は気前のいい笑みを浮かべてごく自然に彼女の手を取った。
    「いや、古い馴染みが見合いをしたって言うんでなあ。気になって相手の花の顔を拝みに来ちまった。すまねえな、無礼を許してくれ」
    「いいえ、気にしておりません」
    「薬研! 気安く触るな!」
     雷のような長谷部の声に、薬研はにかっと笑いながら「悪い悪い」と繰り返し手を離す。けれどなんとなしに彼女はその手の甲を撫でた。久しぶりに、他人に触れたような気がしたのだ。
     思えば一度だって、長谷部は彼女に触れては来なかったので。
     薬研が何か摘まむものでもないかと言ったので、渋々ながら長谷部は一度部屋を出て行った。知らない人と二人にされた彼女はただ黙っている。するとそれまで足を組み豪快な居住まいだった薬研が、すっと背筋を伸ばした。
    「で、仕事の伝の紹介だって長谷部からは聞いてるんだが。実のところどうなんだ?」
     予想外の質問と、急に射すくめるような視線で見られて彼女は思わず萎縮する。じっと、長谷部と似たような色の藤の瞳が彼女をまっすぐ縫いとめていた。
    「……実のところ、とはどういう意味でしょうか」
    「あんたの家はどういうつもりで、あんたを長谷部に寄越したんだ?」
     ああ、なるほど。彼女はその視線と質問の意図を察した。そして、ここ最近忙しなく訪れた友人たちの意図も。彼女は小さいころから、体が弱く屋敷うちで色んな人間に取り囲まれていた。だから、人の感情の機微をそれとなく推し量るのはさほど苦手ではない。
     それにこれは、純粋に誰かを心配している顔だ。薬研は長谷部のために彼女を警戒しているのだ。
    「私の家は、子どもが女ばかりなので……私の将来を心配して、両親は長谷部さんとの縁談を組んだんだと思います」
     それは事実に違いない。彼女がそう答えれば、薬研はじっとこちらを見たあとにふっと肩の力を抜き、再び元の豪快な座り方に戻った。
    「……そうか。いや、すまなかった。詫びを言う。あんたを試すような真似をしちまった。なに、長谷部と俺と、共通の知り合いがいて。そいつがあんたを気にしてたもんだから。どんなもんかと思ったんだ。だが杞憂だったらしい」
     にかっと若干申し訳なさそうな顔で笑う薬研には、本当にそれ以上の他意はなさそうだった。彼女もほうっと息を吐いた。急に張り詰めた空気に、いささか緊張したのだ。
    「いえ、私は幼いころから屋敷うちにおりまして、他のご令嬢方と違い社交界にもあまり出たことのないものですから。素性を気にされる薬研様の気持ちもわからなくはありません」
     この三か月ほど長谷部を見ていて、彼の生真面目さは嫌というほど伝わってきた。そんな彼だからこそ、変な女が寄り付いたのではないかと心配されたのだろう。彼女は一応当たり障りのない返答をしたつもりだったのだが、薬研のほうは肩を竦めて首を振る。さらりと黒い髪が揺れた。
    「いや、そうじゃなくてだな。あんたの素性って言うよりは、まあ、どっちかってえと長谷部のほうに問題があるんだが」
    「……長谷部さんが、何か?」
     おや、と彼女は首を傾げた。
     てっきり、彼女は薬研やその周りの友人は「出世頭の長谷部の財産目当てに彼女が嫁いできたのだと思っている」と考えたのだ。だから彼女がどんな人物なのか、代わる代わる様子を伺いにきたのだろうと。そしておそらく、その偵察の最後がこの薬研藤四郎のはず。だからこそ真っ向から彼女に問いただしてきたのだと彼女は思ったのだ。
     しかし、この様子では違うらしい。
    「あー、その様子だと聞いてねえんだな。なら俺からは言えない。すまねえな、お嬢さん」
     ひらっと薬研が手を振る。はぐらかすような真似ではなく、真正面から断られた。彼女がどうしたものかと考えているとき、長谷部が急いだ様子で手に茶菓子を持って帰ってくる。長谷部はぞんざいな様子で薬研に皿を渡し、彼女には対照的に恭しい動作でケーキを差し出す。
    「薬研、煎餅しかなかった、それで我慢しろ。女中が洋菓子を用意しておりましたので、貴女にはこちらを」
    「あ、ありがとうございます、長谷部さん」
     結局、薬研からそれ以上のことを聞き出すことはできなかった。その後も薬研は長谷部をからかったり、彼女に家族のことを聞いたりしたけれど、それは探るようなものではなく、他愛のないコミュニケーションの域を出ることはなかった。
     ひとしきり話した後、薬研は帰っていった。気のいい笑顔で「じゃあな」と手を差し出してきたので、彼女はごく自然にその手を握る。すると不意に耳元で低く囁かれた。
    「長谷部を頼んだぜ。何か困ったことがあればいつでも俺に言ってくれ」
    「え……」
     薬研はすぐに彼女から離れて、長谷部と彼女二人に笑いかける。
    「じゃあ、せっかくの休みに邪魔したな。長谷部はこれで案外嫉妬深いから気をつけろよ、お嬢さん」
    「薬研藤四郎!」
     軍門粟田口の子らしく、薬研は軽やかに馬に乗るとそのまま長谷部邸を出て行った。蹄が砂利を蹴る音が段々と遠ざかる。彼女がただそれを見ていると、長谷部がやや焦った表情で頭を下げた。
    「も、申し訳ありません。薬研といい、休みでゆっくりできるときに限って忙しなくなってしまい……」
    「いえ……構いませんよ。長谷部さんは顔が広くていらっしゃるんですね。どちらのお友達ですか?」
     軍門の粟田口ならば仕事繋がりかもしれないが、貴族の日本号や武家の左文字、五条は一体どういう知り合いなのだろうか。
     彼女は何気なくそう聞いたつもりだった。だがしかし、長谷部のほうがその言葉に硬直する。先程薬研の馬が簡単に蹴り飛ばした砂利が軋んだ音を立て、藤色の目がきゅっと細まる。
     しかしそれは一瞬のことで、彼女が瞬きをしたころには既にいつもの人のよさげな笑みを浮かべた長谷部に戻っていた。
    「仕事の関係ですよ。さ、もう部屋に戻りましょう。あいつが来ていたせいで今日もろくに出かけられませんでしたね、すみません」
     長谷部はさあと彼女を手で促した。彼女は黙ってそれに従ったのだけれど、出会って初めて、自分が婚約者に興味や疑問を持ったことを自覚せざるを得なかった。
     思えば彼女は、長谷部のことを何も知らないのだ。見合いのときに知った経歴以上のことを。どんな性格で、何が好きで、どういう風に生きてきたのか、そんなこと欠片も知らないし、わからないのだ。
     だがそれは何も語らない彼女も同様だと気付き、ただ口を閉じ開かれた玄関に戻る。
     必要ない。彼女は長谷部を愛さないし、長谷部も彼女も愛さないはずなのだから。これ以上の感情も、知識も、必要ないのだ。



    「なんなんだお前たちは! 代わる代わるにうちに来て!」
     長谷部がバアンと喫茶店のテーブルを叩く。しかしそれに臆することなく、向かいに座っている宗三と薬研はしれっとしてそれぞれに飲み物を口にしていた。
    「別に何でもありゃしませんよ。ちゃんと婚約のお祝いも持っていったじゃないですか。ご挨拶ですよ。ねえ薬研」
    「ま、それもあるな。長谷部と結婚するとなりゃあ、俺たちとだっていつ顔を合わせるかわからん。ならこっちから挨拶に行くのが筋ってもんだろう?」
     そりゃあそうかもしれないが。ぐっと押し黙り、長谷部は言葉を探した。だからといって、休日という休日を潰されては敵わないのだ。ただでさえ、長谷部自身は仕事が忙しくて婚約者との時間が満足に取れないというのに。
     彼女が長谷部の家に来てから、もう三ヶ月になる。しかし彼女が一向に通り一遍の態度を崩そうとしないことには、流石の長谷部も気づいていた。それを何とか打ち解けたりなんだりしたいというのに、この昔馴染みどもは悉く邪魔するのである。
     先日だって、久しぶりに彼女とゆっくりできそうだったのだ。それを、薬研藤四郎が急に来たものだから昼下がりを持っていかれた。それも、自分より薬研のほうがずっと彼女と話せていた。そりゃあ、気さくな薬研のほうがよっぽど話していて楽しいだろうが、面白くないものは面白くない。それに、本来ならあの日は散歩に行くはずだったのだ。
    「まあまあ、そう不貞腐れんなよ長谷部。思ったよりずっといいお嬢さんじゃねえか。安心したぜ」
    「当たり前だ! お前たちは一体何を心配してきたんだ、まったく……」
    「そりゃあ、あなたがご執心なんて聞いたら面白すぎて見に行かざるを得ないでしょう? それこそ当たり前ですよ、そんなこと」
     宗三の言に、今度こそ長谷部は黙らざるを得なかった。
     そう、長谷部は婚約者と仲良くなりたかった。できることならばすぐに。何故なら、それは一目惚れだったからだ。
     上官の紹介で見合いをすることになったとき、長谷部はそこまで乗り気ではなかった。出世するのに妻をもらうだなんて馬鹿げている。長谷部自身にそこまで結婚願望があったわけではないだけに、余計にそう思っていた。けれど、自分の身の上ではこれ以上の出世が臨めないことも長谷部は理解していた。だから結局見合いを受けた。見合いなんて言ったって、そういう事情の元なのだからどうせ結婚することになっているのは目に見えている。そう冷め切った気持ちで長谷部は待ち合わせ場所の料亭に向かったのだが。
    「恋! まさかあなたが一目ぼれだなんて!」
    「宗三左文字ィ!」
    「おい宗三やめてやれ、長谷部は真剣だぞ」
    「お前も顔が笑ってるんだよ薬研藤四郎!」
     げらげらと笑う宗三に苛立ち、長谷部は再度テーブルを叩いた。
     本当に、一目で恋に落ちてしまったのだ。仕方がないではないか。長谷部にだって予想外の出来事だったのだ。回避できるものなら教えてほしい。
     見合いの日、料亭の障子戸を開けて彼女と目が合った瞬間。世界がばらばらになってしまったのかと思うくらいの衝撃が胸を駆け抜けて、それから長谷部は生まれて初めて自分の出世に感謝した。上官が自分にこの縁談を持ちかけてくれた経緯の全てに感謝した。そうして彼女が花嫁修業と称して結婚より一足早く長谷部邸へとやってくることになり、何とかして距離を縮められないかと考えていたところにこれだ。昔馴染にこんなことがばれたらどうからかわれるかなんてわかっていたはず。だがなんというか、婚約者を自慢したかったというのもあり、こんな目に。
     ひとしきり笑って呼吸が落ち着いたらしい宗三が、目じりに指をやりながら息をつく。こいつ、笑いすぎて泣いていたのか。
    「はー、笑わせてもらいました。で、首尾はどうですか」
    「……お前に聞かせる話などない」
    「すまんすまん長谷部、いやこれでも俺たちだってお前のことを気にかけてるんだぜ。今日だって他に不動や燭台切が来たがったんだがな。騒がれるのは長谷部が嫌だろう?」
     薬研が一応のフォローを入れ、長谷部は腕組みをしたままため息をついた。まあそれはわかっているし、気持ちはありがたくいただこう。それに腹立たしいことに、長谷部一人では既に手詰まりのところまで来ている。大変癪だが宗三は女性の扱いに長けているし、薬研は薬研で竹を割ったような性格が相談には功を奏すことも多い。はあともうひとつ息をついてから、長谷部は口を開く。
    「……あの方がうちにいらしてから三ヶ月になるが、未だに打ち解けてはくれん。月並み程度の会話しか、俺とあの方の間にはない」
    「ふぅん、あなたの話が下手くそとか面白くないとか、そういうのではないんですか?」
    「違う! ……とは言い切れんが、そればかりではないような気がする」
     元々、長谷部は女性が得意なほうではない。だから最初は、彼女が打ち解けてくれないのも自分のせいなのだと思った。けれど三ヶ月も経てば、どうもそれだけではないような気もしてくる。よそよそしいとまでは言わないのだが、彼女との間には何か決定的な壁のようなものを感じるのだ。
     そしてそれは、長谷部個人に対するものではないような気もしている。
     ふむ、と薬研が顎に手を持っていった。宗三も何も言わないが思案するように視線を伏せる。
    「そうは言っても嫁入り前の娘だ。それに、だいぶ箱入りだったんだろ? 体が弱いんだったか」
    「そう聞いている。俺の家に来てからも、たまに熱を出すことがあった」
    「なら単純に恥らってるだけじゃないのか。姉妹だけだって言ってたしなあ、急に婚約者といわれてしっくりこないんじゃ」
     それはあるかもしれないが……と長谷部は口を閉ざした。確かに、彼女の家は娘ばかりなのだと聞いている。ともすれば男慣れしていないだけなのかもしれない。
     だがそこで、じっと黙っていた宗三が急に目を見開いた。
    「……あ」
    「宗三?」
     足を組みなおし、宗三が体を起こす。それから眉間にしわを寄せ、唇に美しい指を当てた。
    「あなたの婚約者の妹って、確か源氏の嫁じゃないですか?」
    「そうだが、だからなんだ」
     自分と彼女が見合いをするのとほぼ同じ頃、宗三の言うように彼女の妹は武家の元締め源氏に嫁に行くことが決まったのだ。見合いをすっ飛ばしての縁談で、確か彼女が長谷部の家に来るより早くに嫁いでいったはず。一応姉の婚約者として結婚の挨拶程度はしたので覚えている。
     宗三はじっと考え込むようにした。それから息をついて首を振る。
    「源氏の嫁の家……ですか、ちょっと調べますかね」
    「調べる、おい何をだ」
    「いえ、源氏には最近左文字も引っ掻き回されたばかりですから。ちょっと気になることがあって」
    「ああ……江雪殿の嫁御か」
     薬研がコーヒーカップに口をつけながら合点がいったように顔を上げる。それに関しては長谷部もよく知っていたから何も言わなかった。
     最近、左文字の当主が結婚したのだ。それも、源氏の血筋の娘と。……しかし本当は江雪には他に想う娘がいて、秘密裏に兄弟が手引きをし、兄のためその娘を囲として家に軟禁しているというのは左文字に親しいものしか知らないことである。そして、それがここ最近の左文字兄弟に影を落としているということも。
     白い陶器のカップを空にすると、宗三はさっと立ち上がった。彼は行動が早い。もう今すぐにでもそれを調べるために伝を辿るのだろう。
    「うまくいけばこちらにも奇貨になる話だ。調べる価値はあるってものです。あと長谷部」
    「なんだ」
    「あなた方二人に足りていないのは圧倒的に時間と会話だと僕は思いますよ」
    「……そんなのわかっている、だがこれからゆっくり」
    「これからゆっくりなんて胡坐を掻いていると、痛い目を見ます」
     ぴしゃりと宗三は言い放つ。長谷部は反論をしようと口を開きかけ……やめた。
     それは宗三の経験則だと、この場にいる誰もが知っていたからだ。幼いころから焦がれていた恋に破れ、あまつさえ自分でその少女の恋の後押しなんてした宗三の古傷を、今更抉る気にはなれない。
    「婚約者に黙っていること、あるでしょう長谷部」
    「……」
    「大事なことをひとつ、隠しているでしょう。……愛されたいなら、一度腹を割って正直に話したらいかがですか」
     薬研は何も言わなかった。長谷部も何も言えなかった。宗三は自身のぶんの勘定だけをテーブルの上に置いて、カラコロとベルを鳴らし喫茶店を出て行く。カツカツと革靴の音が遠ざかるのを聞いて、薬研は肩を竦めた。
    「……ま、一理あるな。宗三だってあれで長谷部のこと考えてんだ。聞いてやってくれや」
    「……わかっている」
    「お節介で一つ言うなら……あのお嬢さんとの時間をもっと取れってとこだな。じゃあまたな、長谷部」
     カラコロと再びベルが揺れた。
     そんなことは、わかっている。痛いほどに自覚している。それでも長谷部が指一本とて彼女に触れることができないのは、やはり、恋をしているからだった。



    「長く、休みが取れたのです。もし、体調がよろしければ……旅行にでも、行きませんか」
     まるで今にも死にそうな顔で長谷部が言ってきたのは、ある日の夕食時のことだった。その日長谷部は昼の勤務で、帰宅後いつものように光の速さで彼女の部屋まで来たわけだが、まずそのときからいささか様子がおかしかった。なんというか、そわそわしていたのである。
    「旅行、ですか?」
    「いえっ、その、もちろん予定があるのであれば、構わないのですが」
     予定なぞあるわけがない。彼女には友達がいるわけでもなく、長谷部邸ですることがあるはずもない。だからといって、長谷部と旅行になんて行く気になるわけでも、ないのだが。
    「……いいですよ、どこに行きましょう」
     けれどどうしたことか、彼女は気づいたらそう答えていた。
     というのも、そう答えねば長谷部はその場で死んでしまいそうな顔色をしていたからである。彼女が断りでもしたら、たちどころにどうにかなってしまいそうな。そんな顔だった。
    「よっ、よろしいのですか!?」
     ぱっとものすごい勢いで長谷部が顔を上げた。その勢いに気圧されて、彼女は椅子の上にも関わらず後ずさりそうになる。
    「え、ええ」
    「あっあの、では、行き先等含め、俺が! 俺が確実に企画いたしますので! ど、どこか行きたい場所は」
    「あ、えっと……げほっ、けほっ」
     あまりのことに驚いて、彼女は何度か噎せた。すると慌てて長谷部がテーブルの向こうからすっ飛んできて彼女に水を差し出す。
    「申し訳ありません! 急かすような真似を!」
    「いっ、いえ、大丈夫、大丈夫ですから。けほっ、げほっぅ、ぐっ」
     思いのほか大きく噎せ、ぐっと彼女は自分の胸元を押さえた。大丈夫、こういった咳き込みには小さいころから慣れている。彼女は元々、肺が弱いのだ。喘息も一通りやったし、風邪をこじらせれば簡単に高熱を出す。咳を押し殺してやや屈むと、じわりと暖かい手が背に触れた。
     その手は今まで彼女の背を擦ってくれた両親や妹のものよりずっと大きかったのだけれど、代わりにひどくぎこちない動きだった。長谷部の手はゆっくりと、彼女の息が楽になるように緩やかに背を撫でる。その体温に集中していると、段々呼吸が元に戻っていった。
    「だ、大丈夫、ですか?」
     顔を上げれば、やや緊張した表情の長谷部がこちらを見ている。彼女は二、三回短い息を吐くと、一度頷く。
    「もう、平気、です」
    「そうですか……よかった」
     安堵したように表情を緩めると、長谷部はそろそろとした動きで手を彼女の背から引いた。それがあまりにぎこちのないからくり人形のような動きだったので、彼女は思わずふ、と笑いを零してしまう。すると長谷部は瞬く間に慌て始めた。
    「な、なにか?」
    「い、いえ、だって、そんなに怖がらなくても」
     堪えきれずに彼女がくつくつと笑うと、長谷部は拍子抜けしたような顔になり、ほっとしたような、泣き出しそうな百面相をした。それから絞り出すような声で、小さく呟く。
    「俺にこうされるのは、嫌ではないかと、思いまして」
     思わず彼女の笑いが止まった。それから何ともいえない気持ちになる。
     確かに彼女に、長谷部に対して特別な感情を持とうとは思わない。けれど、長谷部個人を威嚇するつもりも、嫌な思いをさせるつもりもなかったのだ。だが間違いなく、長谷部がこうもびくつく理由はこれまでの彼女の態度にあったわけである。そのことに、わずかにだが彼女は申し訳なさを感じた。
    「……嫌だなんて思いませんよ」
     素直にそう言えば、長谷部は嬉しさと安心との織り交ざった、若干情けのない顔で「よかった」と呟いた。
     ……絆されるつもりはない。そのつもりは、ないのだけれど。彼女は少しだけ、これまでの自分の態度を反省した。
     長谷部の休暇は申し送りやらなにやらを済ませた一ヵ月後くらいになるらしく、それまでに長谷部は行き先や旅館を手配すると言っていた。再度聞かれた「どこに行きたいか」という問いに、彼女はやや考えた後、「空気の綺麗なところがいい」とだけ返した。
     彼女が長谷部邸で生きていくことは、もう揺るがない。ならば多少なりと、自分にとっても、長谷部にとっても、余計な負担をかけないようにしなくてはならないのだ。彼女にとってもこの結婚は望ましいものではなかったけれど、恐らく長谷部とて結婚をするつもりはなかったはずだ。こんがらがっているのは事情だけであり、長谷部個人に罪や問題はない。
     彼女が恨むべきなのは、今この泣き出しそうな顔をしている男ではないのだ。
     たとえ長谷部が彼女を出世のために大事にしているとしても、それは間違いなかった。



     すべては上々のはずだった。
     元より、長谷部はきっちりとした性格をしている。たとえば新聞紙だろうがなんだろうが、端と端が合っていなければ苛々とするほうだ。遅刻なんて以ての外だし、ざっくばらんな予定よりも一分刻みのスケジュールなんかのほうが性に合っている。
     だから旅行の企画やらなにやらは非常に得意なほうだった。調べ物をして、しっかりと余裕がある計画を立てて、旅館の予約や鉄道の切符を取って……。今までは仕事でそういうことをしていたのが、彼女を喜ばせるためだと思うと、長谷部は一つ一つ予定が成り立っていくのが楽しくて仕方がなかった。
    「貴女は、洋風と和風とどちらが好みですか?」
     泊まる旅館のことで参考程度にと聞いたとき、彼女はやや迷ってから少しだけ恥ずかしそうに笑った。
    「あ……実は、私一度も和風のおうちって使ったことがないんです」
    「そうだったんですか?」
    「長谷部さんには世間知らずだと思われるかもしれませんが……家がずっと西洋風で。そこから出たことも、なかったものですから」
     体が弱くて、あまり屋敷内から出たことがないのだと彼女はぎこちなく笑った。だったら余計に、使う旅館や料亭は出来るだけ和風のところにしようと長谷部は決めた。これまで、自分も仕事一直線で他のことはよくやってきやしなかった。そういうことを彼女と一つ一つ知っていけたら、どれだけ楽しいだろうと思った。
     だからもしも、この旅行がうまくいったら。時間をとって、しっかりと彼女と話をしよう。この間、咳き込む彼女の背中を恐る恐るなでた長谷部を、彼女は笑ってくれたのだ。旅行の相談をしても、きちんと答えてくれる。少しずつでも、彼女は歩み寄ればきっと応えてくれる。そのはずだ。
     そう思っていたのだが。
    「妹は! 長谷部さん、私の妹は、一体!」
    「落ち着いて、落ち着いてください。俺が、俺が様子を見てきますから! 興奮したらまた咳が出ます!」
     官憲という職場に、長谷部はまた感謝することになった。何故なら、彼女の妹が暴漢に刺されたという一報がどこよりも早く入ってきたからである。
     パニックになった婚約者を宥めすかし、長谷部は病院へ走った。公職の出世頭ともなれば、面会が難しくとも多少の無理をきかせることはできる。それに、今は長谷部も立場上被害者の姉の婚約者だ。
     奇しくもそれは、旅行に出発する一週間前のことだった。



     彼女には二人の姉妹がいた。優しく穏やかな姉が一人、自分とは正反対に丈夫で元気な妹が一人。彼女は三姉妹のうち真ん中だったこともあり、ある程度気ままに、体が弱いことも手伝って二人に構われながらここまで育ってきた。
     三人の姉妹は、よく自分たちが結婚する日のことを夢想した。彼女の家に、子どもは娘のみ。両親は彼女たちそれぞれを裕福な家に嫁がせるつもりでいた。彼女たちの両親が仲がいいのも手伝って、いずれ幸せな結婚をするのだと三姉妹はそれぞれに思っていた。
     それが幻想だったと彼女が気づくのは、姉が嫁に行き、変わり果てた姿で帰ってきたときだ。
    「姉さん、ああ、どうして、姉さん!」
     姉は、夫の執拗な虐めによって死んだ。
     優しく穏やかな姉がどうしてそうなってしまったのか、何でそんな目に遭わなくてはならなかったのか。彼女には終ぞわからなかった。けれど、ただひとつ思い知った。
     結婚は、彼女を幸せにはしてくれない。幸せなんて、そんなところにはないのだ。
     だから彼女は決めたのだ。自分は決して、結婚相手のことなど愛さない。愛し合って幸せになれるだなんて考えるのが悪いのだ。幻想を抱くから苦しくなる。恐ろしくなる。結婚相手が自分のことを愛してくれる可能性なんて、本心から大切にしてくれる可能性なんて、万に一つほどしかない。それゆえに、彼女は長谷部のことを知る努力をしなかった。自分のことをわかってもらおうとさえ思わなかった。
     係わり合いになれば、長く一緒にいる相手だ。余計な情で絆されてしまうかもしれない。そうすれば、傷つく理由が増えるだけだ。……愛してもらえずに。
     それなのに。
    「姉さん!」
     三日前に暴漢に腹を刺されたとは思えない元気で、妹は彼女に呼びかけた。相変わらず丈夫な妹だ。真っ白い病室の中で、顔色がいいのが目立つ。彼女は長谷部が持ってくれていた花を差し出しながら聞く。
    「……もう、大丈夫なの?」
    「ええ、先生もじっとして傷口がきちんと塞がるのを待つようにって仰って」
    「うんうん、とっても丈夫なお嫁さんだよね。流石僕の奥さんだよ」
     穏やかな声が彼女と妹の会話に割って入る。声同様容姿もふんわりとしたその男性は、源氏の惣領髭切、つまり妹の夫だ。キッと彼女は髭切を睨み付けた。
     そもそも、今回妹が暴漢に刺されたのは髭切を庇ってのことだったという。何故妹が、他人のためにそんな目に遭わなくてはならないのだ。全くもって理解できない。もう少しで死ぬところだったというのに。
     それなのに髭切ときたら、べたべたと妹にまとわりついている。妹は若干面倒くさそうに、腕を突っ張りそれを引き剥がそうとしていた。
    「旦那様、旦那様ったら。私は少し、姉さんとお話がしたいんです。あまりまとわりつかないでください」
    「おや、何故? 君は僕の奥さんなのに。せっかく目が覚めたんだよ、僕のことを一番に構うのが順当ではないの?」
    「後で構って差し上げますから。大体、まだ日も高いんですよ、お仕事なさってください。あまり膝丸さんにご迷惑をかけないよう」
    「大丈夫だよ、仕事ならちゃんとしているから」
    「嘘! だって日がな一日ここにいるじゃないですか!」
     なんて傲慢な男だろう。彼女は眉間に皺を寄せた。妹は、髭切の夫である以前に彼女のたった一人の妹だ。それを、まるで自分の所有物のように。
     だが最終的に髭切は妹に押し返され、彼女に付き添った長谷部に引っ張られて病室を出された。髭切はひらひらと手を振りながら、穏やかに笑う。
    「すぐに戻るからね。君もあまり無理はしないんだよ。じゃあ行こうか長万部君」
    「長谷部だ!」
     からからと音を立てて病室の戸が閉まり、二人の男性の足音が遠ざかる。それに彼女がほっと息をつくと、けほけほといくつか咳が出た。最近よく、こんな咳を繰り返している。妹が心配げに手を伸ばし、彼女の肩に触れた。
    「姉さん、大丈夫? また風邪を引いているの?」
    「大丈夫よ。それより、あなたのほうが心配だわ。結婚してからちっとも連絡をくれなくて」
    「ごめんなさい、私も慣れるのに時間がかかって」
     ずっと妹はどうしているだろうかと考えていた。自分が長谷部邸にいる間、妹は酷い目に遭っていないだろうかと。今でも、覚えているのだ。最後に見た姉からした、鉄錆の匂いを。自分の肩に置かれている、温かな妹の手に触れる。
    「ねえ、私と一緒に家に帰りましょう。そんな怪我をする家にあなたを置いてなんていられない。あなただって、そんな風に夫を庇う必要なんてなかったのよ」
    「……姉さん」
     そうだ、妹と一緒に家に帰ってしまえばいい。
     彼女はハッとした。何故そんな簡単なことに今まで気がつかなかったのか。
    「今回の怪我を理由に、離縁してしまえばいいわ。私だって、体のことを理由にすればいい」
    「姉さん」
    「大丈夫、これからの時代、女二人でだってきっと生きていける。結婚して幸せになれるだなんて、誰かと愛し合えるだなんて大間違いだって、あなただって知っているでしょう? だから一緒に」
    「姉さん!」
     妹が今度は両手で彼女の肩を掴んだ。起き上がった拍子に傷が痛んだのか、ぐっと顔を歪める。だがそれでも彼女の肩を離すことなく、首を振った。
    「だめ、私は帰れない」
    「……っどうして」
    「旦那様を置いて、私はもうどこにも行けない」
     真っ直ぐな目で、妹は首を振った。それから静かに彼女の肩から手に自分の手を滑らせて、そっとそれを握る。
    「私、旦那様のために、何が何でも元気になるって決めたの。旦那様はとても……脆くて、寂しがりな人だから。私が傍にいてあげないと。……ううん、私が傍にいたいの。旦那様の傍にいたいの」
    「……」
    「ごめんなさい、姉さん。一緒にいてあげられなくてごめんなさい。でも、私、きっと愛していると思うの。あの人のことを、愛していると思うのよ」
     だから、と妹は彼女の手を包んだ。妹の手は温かいのに、対照的に自分の指先が冷え切っていくのが彼女にはわかった。
     もう、何も言えやしない。
    「姉さんも……幸せになって。もうきっと、大丈夫。ね、上の姉さんだって、絶対にそう言う。姉さんは幸せになれる。少しだけ、素直になれば」
     そんなことを、今更言われたって。
     彼女が何も返事をできないでいると、再びからからと病室の戸が開いた。ふわりと白い上着が翻って、妹の傍に寄り添う。大して時間も経っていないというのに、髭切はもう帰ってきてしまったらしい。
    「ただいま、奥さん。寂しくなかった? どこも痛くはない?」
    「大丈夫ですってば……それにたかだか数分でしたよ。つめたっ」
    「おお、ごめんね。外は寒かったんだ」
    「手が冷え切っていますよ、旦那様」
     僅かに笑んで、妹は髭切の手を包んだ。すると髭切は嬉しそうに瞳を緩める。外の冷気で、彼女は再び咳き込んだ。
    「大丈夫ですか」
     するとふわりと今度は長谷部の上着が彼女に掛けられた。それから長谷部は以前のぎこちない動きなんかではなく、もっとスムーズに彼女の背を撫でた。それに小さく頷いて、彼女は立ちあがる。
    「……帰ります」
    「は、かしこまりました」
     彼女の言葉に、長谷部は頷きエスコートするようにして病室の戸を開けた。出て行こうとすると、待ってと背後から妹に声をかけられる。
    「姉さん、良くない咳だわ。……養生してね」
    「……ええ」
     一度だけ、振り返る。それからたった一つ、これだけは聞きたくて彼女は口を開いた。
    「ねえ、あなた今、幸せなのね?」
     その問いに、妹は自身の肩に添えられた髭切の手に自分のものを重ね、頷いた。それは一瞬たりとも悩んだり、考えたりすることのない様子だった。
    「幸せよ。姉さん、私幸せだわ」
     妹の笑みをじっと見つめてから、彼女は病室を出た。
     ヒュウとふく風は確かに冷たく、ただでさえ感覚がなくなりかけている指先が力も入れていないのに白く色が変わっていた。そこに息を吹きかけようとして、また咳き込む。
    「大丈夫ですか、車を待たせてありますからすぐに帰りましょう」
     長谷部が声を掛けるが、彼女は首を振った。歩きたい、今は車に乗って帰る気分などではないのだ。長谷部は口を開きかけたが、結局何も言わずに彼女の後を歩く。いつだってそうだ。長谷部が彼女の言うことに逆らったことなどない。
     だって、彼女は長谷部に無条件に大事にされているのだから。
     近頃はそれを、有難いと思いこそすれ煩わしく思うことなんてなかった。だがそれは今は腹立たしい。
    「妹御、思ったより元気そうでよかったですね」
     白々しいほどの明るさで、長谷部が話す。苦々しい気持ちで彼女はそれに返事をした。
    「……そうですね」
    「御夫婦仲もよろしい様子。……俺達もいずれ、ああなりたいですね」
     何を言うのだ、今更。あはは、と空笑いが出る。まさかそんなことを長谷部が言うとは。彼女が今どんな気持ちでいるかなど、知りもしないで。
    「無理よ」
     自分でも驚くほど低い声が出た。自然と足が止まる。振り返れば、長谷部が何を言われたのかわからないという顔でこちらを見つめていた。そりゃあそうだろう。だがしかし彼女のほうは笑いが止まらないままで長谷部に視線を投げる。
    「無理に決まっているじゃない。だって私、あなたのことを愛そうだなんて一つも思っていないんだもの」
    「……そんな」
    「あら嫌だ、気付いていなかったの?」
     彼女の笑いは冷えて乾いた空に、虚しい響きで広がっていく。
    「私はあなたのことを愛そうだなんて、はなから思っていなかったのよ! これっぽっちも! だって私、愛だとか恋だとか欠片も信じていないんだもの!」
    「……やめてください」
    「一度も言ったことがないし、この際だから教えておくわ。私の姉はね、嫁ぎ先で虐められて死んだの!」
     藤色の瞳が、一瞬だけ見開かれる。そんな些末なことさえおかしくなってしまって、彼女はそのまま喋りつづけた。
    「私達三姉妹は結婚に夢を見ていたわ。いつかきっと、誰かと愛し合って幸せになるって。でもそんなの嘘だって、私と妹はあのとき知ったのよ! 結婚して幸せになんてなれない、なれやしないのよ!」
    「……」
    「しばらくしてあの子は子どもを産むために源氏に嫁に行ったわ。そして私は、あなたの出世のために婚約者になった。そうでしょう? あなたは私を出世のために婚約者にした! だから無条件に私の言うことなんて聞いてたのよ!」
    「! どうして、それを」
     彼女が知らないとでも思ったのか、白々しい。唇を噛み締めて、彼女は長谷部を睨んだ。口惜しい、一瞬でも長谷部に気を許しそうになったことも、絆されて旅行の約束なんてしてしまったことも。
     ああそうだ、僅かにでも心地よいと思ってしまっていた! 長谷部と話をしながら旅行の準備をすることを。前よりも話すことを。咳き込んだとき、背中を撫でてくれる手を。
     悔しい、悲しい。堪えきれなくなった涙が一筋だけ零れる。そうだ、自分は本当は愛したかった。
     長谷部のことを、本当は愛したかったのだ。
     優しくされれば、嬉しくなる。真意はどうだろうと、長谷部は彼女にいつだって優しかった。思いやって、気遣ってくれていた。だがいつもその裏にある自分を大切にしてくれる理由がわかっているだけに、苛つき、悲しかった。
     愛したくて、悲しかったのだ。
    「馬鹿げてる……馬鹿げているわ。あなたを愛したって、幸せになんてなれないのよ。それなのに、私、馬鹿だわ。妹も行ってしまって、私だけ一人になってしまった」
     ぼろ、ぼろと涙が落ちる。地に膝を突けば、土は酷く冷たかった。げほ、ごほと噎せる。ざりざりと革靴が地面を擦る音が聞こえて、視界の端に上等なそれが写った。
    「……俺は本当は、長谷部の家の子ではありません」
    「え……」
     静かな声が頭上から降る。何かを諦めきったようで、またどこか怯えているような声だった。
    「養子なのです。宗三や、薬研は、元いた家の、知り合いです」
    「……」
    「可愛がられていた、はずでした。ですが、ある日突然、養子にやられて……長谷部の家に来ました。だから仕事に打ち込んだのです。俺自身の手で成果を得るために。そういう身の上もあって、俺は貴女と見合いをすることになった。だから貴女の言うことは、正しい」
     ああ、やっぱり。彼女はぐっと手を握りしめた。そういう理由で、長谷部は自分を大切にしていたのだと確証を得てしまった。
    「養子であったことは俺の中で長い間、蟠りでした。でもあの見合いの日、俺は初めてそれに感謝しました」
     ゆっくりと顔を上げる。長谷部が彼女を見下ろしていた。
    「貴女と、見合いができることになったすべてに、感謝しました」
    「……それって」
     僅かに震えている白い手袋をした手が、目の前に差し出される。
    「……出発は明後日です。今でも俺と、旅に出てもらえますか?」
     もう一度、夢を見てもいいのだろうか。彼女は感覚のなくなった指先を開いた。「素直になって」という妹の声が脳裏を過る。もし、今そうしていいのなら。
     彼女が手を伸ばしかけた瞬間、ぐっと胸の辺りが痛んだ。
    「っう、ぐ、げほっ、ごほっ」
    「大丈夫ですか!」
     抑え込んでいた分が堰を切ったように噎せ、長谷部に向けた手を彼女は再び口元にやる。最初は空咳だったそれに、ごぽりと何かが混ざった。
     彼女が吐きだしていたのは空気だけだったはずなのに、指の隙間から重たい真っ赤な液体が零れる。膝をついていた地面に、それは花のように広がっていった。
    「しっかりしてください! 立てますか!」
     ああ、これはもう、自業自得だ。
     長谷部が力任せに自分を抱き上げたのを感じ取りながら、そっと彼女は目を閉じた。



    「三姉妹ではありますが、一番上の姉が、嫁ぎ先で虐待されて死んでます。家ではタブーになって隠されているみたいですがね。世間一般向けには病死扱いです。その様子だと、もう知っているみたいですが」
     宗三がふうと息を吐きながら言った。渋い顔の薬研が腕を組み直す。
    「昔から弱かったのは肺。だから別に、あなたの家での不摂生が原因じゃない。向こうの家だってそう言ってきたんでしょう、長谷部」
    「……ああ」
     労咳、と医者は長谷部の婚約者を診断した。労咳といえば、死病である。罹ったものは十中八九遅かれ早かれ死に至る不治の病。
    「婚約は破棄だって聞いたぜ」
    「まあ無理もありません、労咳に罹ったともなれば。むしろ肺が悪かったことを黙っていた件に関して謝られたのでは?」
    「……その通りだ」
     婚約者の実家は、長谷部にそれを謝罪し婚約は破棄するが、今後長谷部の後見役に回ることは約束してくれた。つまり、出世はこれで保証されたことになる。……だが。
     彼女は長谷部に手を伸ばしかけていた。愛するつもりはなかったと言いながら、それでも。自分を馬鹿だと言いながら、愛しても仕方がないと泣きながら。
     それなのに、長谷部は何も伝えられなかったのだ。
     貴女に愛されることが怖かったのだと。養子のときのように、ある日突然彼女を失うことが怖かった。だから触れられもせず、通り一遍のことしかできずにいた。臆病だったのだ。
     はあ、と溜息を吐いた宗三がペッと長谷部に向けて時刻表を投げる。それにはいくつか付箋が貼ってあった。薬研も懐から封筒を取り出し、長谷部に差し出す。
    「これは僕の独り言ですけど。彼女、サナトリウムに移るそうです」
    「サナトリウムだと?」
    「空気のいいところで静養ってやつですよ。それがね、明日発つとか。両親の付き添いも断ったらしく、一人で行くそうです」
     放られた時刻表を開くと、付箋の頁の帝都から離れた高原へ向かう列車に印がついている。その電車で、ここに向かうということだろう。
    「治療はいつまでかかるかわからん。治るかどうかもだ。サナトリウムは治療施設だって言っても、負担にならねえ場所で、その日が来るまで休ませるだけだとも聞く」
    「……」
    「それでも行くか、長谷部」
     ……行けば、出世どころではないだろう。これまで仕事一直線に生きてきた。それは、長谷部の求めた存在意義。働けば誰かに認めてもらえるという、自己肯定。それを放り出すことになる。
     だが、それでも。
     たった一人、病室の奥に連れて行かれた背中を思い出す。うつる病だからと、長谷部は同伴を許されなかった。籍も入っていない長谷部は彼女の他人で、二人で過ごした部屋から荷物が運び出されても、消毒の為すっかり綺麗にされてしまっても、彼女がこれからどうなるのか教えられることはなかった。
     ただほっそりとした背中が白い扉に消える直前に、ほんの僅かにこちらを振り返った視線を覚えているだけで。
    「僕らからの御祝儀です、持っていったらどうですか」
    「……ふん、余計なお世話だ」
     薬研が差し出した封筒を掴み、長谷部は立ち上がった。



     罰が当たったのだ。彼女はごほ、と一つ咳をする。今は口をマスクで覆っているため、手で押える必要はなかった。駅のホームは寒く、咳もまた白い。
     最後まで意地を張った。酷いことを言った。妹と違って、素直に自分の気持ちを認めなかった。それら全部の罰が当たったのだ。今更お前に幸せになる資格などないと、神様が言っているのだ。
     ごほ、げほと咳き込むとやはり胸が苦しい。これから彼女が向かうのは、帝都から離れた山の向こう。高原にあるサナトリウムである。両親は付き添ってくれると言ったが、それは辞した。いつ帰ってこられるかわからないし、そこには自分と同じ病の患者もたくさんいるのだ。うつったりしたらいけない。だから、一人で行く。両親は彼女だけの親ではない、嫁に行った末娘の親でもある。彼女の事情で、すべてを道連れにするわけにはいかなかった。それにこれは、彼女自身がつけなければいけないけじめなのだ。
     自分で招いた結果だ。人を愛することを恐れ、姉のようになることを恐れ、臆病に全てを突っぱねた自分の……。
    「大丈夫ですか」
     ハッとして目を見開く。背中には温かい手が添えられていた。声のした方に顔を向ければ、黒い外套を着た長谷部が立っている。
    「なん、で、ここに」
     そう問いかければ、長谷部は微笑み彼女を支えていない方の手を自分の胸にやって、恭しく頭を下げる。首に巻いている深い藤色の襟巻が鮮やかだった。
    「旅行に行くと約束をしていたでしょう」
    「何言ってるの……? 私は」
    「さ、列車が出てしまいます。乗りましょう、荷物は俺が持ちます」
     彼女は慌てて身を翻した。何を言っているのだこの男は。それに、うつってしまう。焦った拍子に咳が出て、彼女は慌ててマスクの上から口を押えた。
    「う、ぐ、どうしてここが」
    「内緒です」
    「だ、大体婚約は破棄したはずなのに!」
    「大声を出すとお体に障ります。さ、参りましょう」
    「仕事はどうするの!」
    「辞めました」
     にこりと笑って長谷部が答えたので、彼女は思わず脱力した。くらくらとしたところを長谷部がしっかり支える。それをやめるように言うだけの気力も驚きで一度に失われてしまった。
     辞めた? 仕事一直線だった長谷部が? 出世のために見合いした長谷部が?
    「とはいえ辞表を一方的に出して来ただけなので、俺も早いうちにここを経たないと面倒なことになります。行きましょう、俺は貴女を迎えに来たんですから」
     は、と掠れた息が漏れる。じわりと視界が滲んだ。
     つうと涙が滴って、マスクに染み込む。寒い外で、涙は酷く熱かった。長谷部がゆっくりと手を伸ばして、彼女のマスクを下にずらす。くぐもったものではなく、新鮮な空気が肺に沁み渡る。
    「馬鹿じゃ、ないの」
     馬鹿だ、大馬鹿だ。
     彼女はこのまま死ぬかもしれないのに。仕事も出世も彼女のために何もかも投げ出すなんて、馬鹿だ。
     だが長谷部は緩やかに微笑むと、微かに頷いた。
    「馬鹿よ、貴方、馬鹿だわ」
    「そうかもしれません」
    「私についてくるなんて、大馬鹿よ」
     これじゃ何のために、彼女と婚約したのかわからないじゃないか。何のために、彼女と長谷部は出会ったのか。
     火照った頬を大きな長谷部の手が包む。こんな状況なのに、長谷部は微笑んでいた。嬉しそうだった。
    「ええ、ですから、共に。共に地獄にでもどこにでも参りましょう。長谷部が一緒に参ります。その代わり俺を愛してください。俺は貴女に愛されたい」
     わんわんと泣き出した彼女を、長谷部が抱きしめる。黒い外套にじわりじわりと涙が染み込んだ。
     長い長い旅路を行くために、列車が汽笛を上げる。ぼうという大きなそれも、彼女には教会の鐘の音に聞こえた。
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    2022/11/28 17:42:07

    藤の旅路

    #へしさに #刀剣乱夢 #大正パロディ
    愛されたかった長谷部と愛したかった婚約者の話。

    以前pixivに掲載していたものの修正加筆版です。

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