君が見えたり見えなくなったりする話
……透けてる!
にっかり青江は普段らしからぬ声を上げそうになった。いやだって、あれは反則だ。透けてる、透け透けだ。それも、向こうが見えている。濡れて下着が見えているとかなら、青江だっていつもの調子で教えてあげられたのに、あれは一体どうしたらいい。
紺色の、現世で着ていたらしいセーラー服。揺れるスカートよりも何よりも、彼女の透けている胴体のほうが気になる。
「……ねえ、君」
「わっ、青江、さん」
突然声をかけられた審神者は、案の定肩を跳ね上げて驚いていたが、それ以上にぎょっとしたのは青江のほうなので許してほしい。青江はできるだけ声が震えないように気をつけながら、それでも笑顔で彼女に言った。
「透けているよねえ……君の体のことだよ」
サッと審神者の顔から血の気がうせる。そして次の瞬間ぶわっとその瞳に水の膜が張った。
なんとなしに、以前から「僕は主に苦手にされているみたいだねえ」という意識はあった。この本丸の主は、ごく普通の女の子である。強いていうなれば少し泣き虫かもしれないが。
青江は一応、この本丸では初期刀の歌仙兼定、初鍛刀の小夜左文字に続いて三振目の刀だ。それにしてはどうもよそよそしいなと感じていた。声をかけるとびくついて、用件だけを聞いて逃げてしまうし、決して二人きりにはなろうとしない。本丸結成当初、審神者は必ず自分と対するときは、歌仙か小夜がいないと話すら満足にできなかった。
だからなんとなしに、苦手にされているのだと思っていた。歌仙には「その物言いを何とかしたらいいんじゃないのかい」とも言われたし、小夜にも「僕はにっかりさんはいい人だと思いますが」とフォローされたのだが、まあ仕方がない。青江は「好き嫌いはヒトそれぞれだよねえ」なんて、自分では納得していた、のだが。
「お願いですから黙っていてください青江さんん……」
ぼろぼろと泣きながらそう頼む審神者は、もう酷い透け具合だ。背後にある本の背表紙に箔押しされた題が読めてしまう。
青江はジャージのポケットからハンカチを取り出し、差し出したもののそれが現在透けている彼女に使えるものかどうか考えた。触れるんだろうかこれは。
「使うかい?」
「うっ、うう、ありがとうございます……」
しゃくりあげながら審神者は青江の差し出したハンカチを受け取り、頬を拭った後に豪快に鼻も啜った。あ、そこは結構遠慮がないんだねえ。
彼女の嗚咽が一段落つくのを待って、青江はふうと息をついた。内緒にするも何も、色々明らかにしなくてはならないことが多すぎる。
「とりあえず事の詳細を教えてもらってもいいかい。まず君はなんなのかな?」
「黙っててくれます……?」
「それは聞いてから考えるよ」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら彼女は頬を手の甲でこする。あーあ、そんなに擦ったら赤くなってしまうよ。
「……私、もう死んでいるんです、たぶん」
真っ赤になった頬と瞳で、彼女はそう呟いた。
審神者になる前、彼女はただの学生だったのだという。毎日学校に通い、両親と一軒家に住み、休みの日は友達と街に買い物に出たりする。そんなごく普通の、学生。けれど気がついたらここにいた。それも幽霊になってしまった状態で。
「それで今、ここにいます。だから何者なのかって聞かれたら私は幽霊なんじゃないかと……」
「ちょっと待ってくれないかい、今大切な部分が随分飛んだよ」
おしまいにしようとした審神者に、青江が待ったをかけた。仮に幽霊だったとして、何故死んだ。何故ここにいる。というか幽霊って審神者になれるものなのか。聞きたいことも、明らかにしなきゃならないことも多すぎる。
「そ、そうは言われても、わからないんです、私、覚えていないんです」
「覚えていない?」
「死んだときのこと、全然……たぶんいつもどおり家を出て、なんだか痛くて、でもふわふわしていて……。気がついたら、本丸にいたんです」
あわあわとしながら審神者は困ったように眉を下げた。泣き止んでからしばらく、ほんの少しだけその体は透明度を失くしている。先ほどまでくっきりと見えていた向こうの本も、今はぼんやり程度だ。
そのことに安堵しながらも、青江はまだ腑に落ちない。というか何故今まで気がつかなかったのだろう。そこまで考えて、はたと思い至った。
「……だから僕のこと避けてたのかい、君」
びくりと審神者の肩が震えた。
「にっかり青江」は幽霊斬りの刀である。そりゃあ、怖いだろうねと青江は納得した。自分も斬られてしまうかもしれないと怯えたのだろう。奇しくも青江が斬ったのは幼子と若い女の霊だったのだから。
ごめんなさい、と彼女は肩を落とした。これからどうするか考え始めていた青江は、唇に手をやったままそちらに視線を送る。
「どうして謝るんだい?」
「だって、いい気持ちはしなかったですよね。理由もわからないで避けられていたんじゃ。だから、ごめんなさい……。怖かったんです、ばれてしまうのが」
「斬られると、思ったのかい?」
「いえ、ばれたら、気味悪いでしょうし。審神者を辞めさせられると思って。青江さんは幽霊に縁のある刀だから、歌仙や小夜ちゃんと違って、ごまかせるかわからなくて」
そっちかい、と青江は拍子抜けした。彼女は自分が斬られるとは思っていなかったらしい。斬られて祓われてしまうより、気味悪がられたり審神者を辞めさせられるほうが大事だったというのなら、変わった主だ。
しかし今ぽろりと彼女が言ったことから鑑みるに、審神者が幽霊であることは現状誰も知らないということだろう。歌仙や小夜はごまかせたというわけだ。しかし霊と縁深い自分はだめだった。そのあたりもよくわからない。しかしこれ以上追求しても、今は仕方なさそうだった。それに、今後どうするかを決めてからでなくては、そんなこと話し合っても仕方がない。
「それで? これからどうするんだい、君。幽霊ってことは、成仏しなきゃいけないんじゃないのかい」
「あ、でも私ここから出られないんです。建物の中から一歩も」
「出られないってどういうことだい」
「本丸の中の結界に自分が閉じ込められている状態でして。こんのすけが言うには、私は霊魂で不確かな存在だから、本丸みたいな守りの強固な一種の神域に入ってしまうと、もう出られないんだそうです」
あっけらかんと彼女は言ったが、それは結構な事態である。ここから出られないのに、どうやって成仏してあの世へ行くつもりなのだ。
「審神者として霊力を使っていれば、自然と守りをすり抜けて出られるようになるそうですよ。こんのすけが言うには」
「えっそれでいいのかい、君」
「え? だめですか?」
だってそれは、消滅であって成仏ではないのでは……。
青江は喉まででかかったその言葉を飲み込んだ。口にしたら、彼女はまた泣いてしまいそうな気がしたのだ。
こんのすけの言わんとしていることが、青江には理解できた。青江とて、ヒトと同じ見掛けをしていてもそうではない。「にっかり青江」という刀剣に宿った付喪神が、たまたま肉の器を持って顕現しているというだけのこと。その器がなくなる、つまりは破壊されてしまえば青江はたちまちに姿を保てなくなって、本霊に還るほかなくなる。
要は青江にとって刀剣破壊にあたるものが、彼女の霊力の消費だというのなら、その果てに待っているのはただの消滅だ。彼女には還るべき本霊があるわけでもなし、結界をすり抜ける状態になってなお、彼岸にたどり着くまでの力が残されているとも思えないし。
ともすれば、彼女を待つのは輪廻の理から外れた消滅だけである。
「青江さん?」
「……いや、何でもないよ」
やめておこう、今言うべきではない。とにもかくにもこれからどうするかだ。もし、彼女が今後もずっと霊力を使い続けていくのだとしたら、その先々のことも考えなくてはいけないが。
「それで? 君はこれからも審神者を続けたいのかな」
「できれば……そうしたいです。一度始めたことですから」
きゅっと彼女はもうすっかり透けてなんていない手で自分のスカートを掴んだ。なるほど、どうやら体が透けるのにも条件があるらしい。
青江はふうと息を吐くと右手を差し出した。審神者はまだ少し赤い瞳で瞬きをする。
「わかった。なら僕を傍に置くといいよ。君に寄ってくる他のあやかしを斬ってあげられるからねえ」
「えっ」
「どうしたんだい、呆けた顔をして」
審神者は青江が差し出した手を握ろうとしなかった。それどころか首を傾げて青江を見上げている。
「斬らないんですか?」
「僕は主は斬らないよ」
「黙っていてくれるんですか?」
「君が頑張ろうとしているのに、僕がそれを止める理由はないさ」
だって青江は、現在この少女の刀なのだから。主の意に添うように働くのが、青江の勤めである。その為に敵を斬るのだ。審神者の魂に惹かれてやってくるあやかしを斬り捨てることが、今後その働きの中に増えるだけで。
「んっふふ、まあ僕はいるだけで魔除けにはなるし。君の役には立つんじゃないかなあ」
「あ、青江さあん!」
てっきり笑って喜んでくれるかと思ったのに、彼女はぶわっとまたその瞳に涙を浮かべて泣き出した。その上がばりと抱き着かれ、体はすうっと透けはじめる。
「おやおや、積極的だねえ。笑顔が一番だよ」
「す、すみませ……ありがとうございますう……っ」
審神者がわんわん声を上げて泣くものだから、青江はやれやれと首を振ってもう一度ハンカチを差し出した。青江から離れた彼女は再びそれで豪快に頬を拭ってから、やっと青江の手を握る。思いの外しっかりとある感触にやや驚いて、青江はそれを握り返した。それほど温かくはない手だ。
とりあえず、自分は嫌われていなかったようだと青江は少しだけほっとした。
感知には個刃差があるようだ。歌仙や小夜はてんでダメである。審神者の異常性にはまるで気付きやしない。まあ二人とも、血なまぐさい逸話は持っていても、彼岸のモノには縁がないのだろう。
結成してそこまで時間が経っているわけではない彼女の本丸には、まだ神剣と呼ばれる刀がいない。だからどうだかはわからないけれど、今審神者が「幽霊」であるということに気付いているのは青江だけだった。他は欠片も察知していない。審神者曰く、それは本丸がやはり「現世とは違う場所」なのだからだそうだった。
「私もこんのすけの受け売りなんですけど、現世だとヒトならざる者はやっぱり異質で、霊体しか保てないそうなんです。でもここはそうじゃない。付喪神の住まう場所ですから。だから私もほぼ実体を保てるんです。霊力が弱まらない間は」
「へえ、だから僕らに触ったりなんだりできるってわけかい」
「まあ一応皆さんもヒトじゃないので。そのあたり同類なんですって」
なるほど、納得した。彼女も今はヒトではないのだから、ヒトでない刀剣男士は視認も接触もできる。ただ本質を見抜けるのは、青江のような彼岸に縁深いものだけということだ。
「でも一つ困ってるんですよね」
「何をだい?」
「政府の役人さん、私が見えないんです、たまに」
「ああ……」
審神者の管理を管轄する部署の役人は、少なからず審神者の素養を持ちえるヒトだと聞いた。だが審神者になるほどの力でもないので、たまにヒトならざる彼女を見失うというわけだ。
「こんのすけがどう政府に伝えているのかわかりませんが、お咎めがないと言うことは、私が審神者をしていることは黙認されているんだと思いますが」
「それはまた、厄介だねえ」
「政府とのやり取りは主にこんのすけがしてくれているので、支障はないんですけど申し訳なくはありますね」
しゅんと審神者が俯いたので、青江は「泣かない泣かない」とハンカチを出した。ついこの間近侍になってからずっと、青江は毎日それを持ち歩かなくてはなくなっている。
先日、それまでずっと近侍を務めていた歌仙に、これから練度を上げるのもかねて、青江にそれを変えたいと審神者は言いに行った。理由を追及されたら面倒だなと青江は思っていたのだけれど、案外すんなり歌仙はそれを受け入れた。
「おや、やっと青江と仲良くする気になったのかい主」
歌仙はむしろ微笑んで二人にそう言った。それに関しては審神者が若干気まずそうに視線を逸らす。
「僕は構わないよ。練度は全員が平均的に一定を保つべきだからね。むしろ君が苦手にしていた青江と仲良くしようと思えるようになったのなら僥倖さ」
嬉しそうな歌仙の様子に、ああそうかと青江は察する。歌仙は審神者の事情を知らないのだ。今まで何故、彼女が青江を避けていたのかを露ほども知らないし、知り得ない。なら仕方ないかなと、隣で言いよどむ審神者の肩をごく自然な動作で抱いた。誤魔化すにはこれが一番手っ取り早い。
「こういうわけなんだよねえ、僕達。よろしくね、歌仙」
「ぅえっ?」
ぎょっとした表情で審神者が顔を上げる。にいっと青江は唇の端を上げた。審神者同様、歌仙も目をぱちくりとさせる。青江はいつもの饒舌な調子で畳みかけた。
「主ったら照れ屋さんなんだよ。今までのは照れ隠しだったわけだねえ」
「おや、そうなのかい主」
「えっ、と……」
目を泳がせて審神者は青江を見た。青江はただ瞳を細めて視線を返す。きゅっと唇を引き絞った彼女は、意を決して頷いた。
「そ、そうです。そういうことなので……」
「それはそれは……おめでとう主。そういうことはもっと早く教えておくれよ。祝いをしそびれるところだったじゃないか」
「ご、ごめんなさい」
歌仙は瞳を和ませて彼女の頭を何度か撫で、「仲良くするんだよ」と言い置き、鼻歌交じりに去っていった。途中襷を取っていったから、厨にでも行くのかもしれない。あの様子では晩御飯が豪華になりそうだねえなんて、青江はその背中を見送った。
はあーっと隣で派手に息が吐かれる。かなりげっそりした表情で審神者が膝から崩れ落ちそうになっていた。おやおやと肩を抱いた腕に力を込めたが、同時にそこがうっすら透けていることにも気が付いた。
観察していて発見したのだが、どうにも審神者は体力や霊力を使うと透けるようなのだ。疲労も然りらしい。まあ要は泣くと透ける。それはもう著しく透ける。その姿が視認できるギリギリくらいになる。どうやら今は、歌仙を誤魔化すのに結構な精神力を使って疲れたようだった。
「大丈夫かい」
「青江さんがいきなり変なアドリブかますからですよ……」
「誤魔化すのにも、これから一緒にいるのにも、あれが一番丁度いいと思ったんだよ。いけなかったかい?」
「いけなくはないですが、その……」
ごにょごにょと審神者が言うのを見て、青江はにやあっとした笑みを浮かべる。
「ああ、もしかして他に想い人がいたのかなあ? なら悪いことをしたねえ、今なら歌仙に適当な言い訳もできるけど」
「ちっ、ちが! 違いますよ! ……もういいです」
しばらく黙ったのち、じわりと彼女の瞳に涙が浮かんだ。青江は再びポケットからハンカチを出す。
「今度は何が悲しいんだい」
「悲しいのでは、なくて……また嘘を、吐いてしまいました」
ぐす、と彼女は遠慮なく青江のハンカチで鼻まで拭く。まあそんなことは欠片も気にしないのだけれど、いつもながらそのあたり豪快だなと青江は思った。この間突然飛びついてきたの然り、どうも彼女は感情がどこかの臨界点を吹っ切れると、あまり細かいことに頓着しなくなるようだ。
「……君が吐いたんじゃないよ、僕が吐いたんだよ」
「でも、そう変わりません……。もうたくさん、隠し事をしてるのに」
ああ……ずっとこうして自分を責め続けていたのか。ぼろぼろと涙を零し続ける審神者を見つめながら、青江は思った。
審神者を続けるために歌仙や小夜を誤魔化し、青江にばれてしまわないように避け続けながら、この子は一体何度泣いたのだろう。本当のことを誰にも知られないようひだ隠しにしながら、毎日怯えて、それでも審神者としてあり続けようとして。悔やんで、泣いて、何度も。
「……興味深いねえ」
一体何が、彼女をそうさせているのか。そうまでしなくてはならない理由が、一体どこにあるというのか。
「何がです……?」
「いいや、何でもないさ。早く泣きやみなよ、君。他の子が見たら心配するだろう?」
「うう、はい……」
とまあ、近侍を交代する際にはそんなやり取りもあったのだが、現状青江は審神者の近侍、兼偽の恋人として傍にいる。主な仕事は近侍としてのあれやこれはもちろん、審神者の霊魂に惹かれてあやかしがやってこないか目を光らせておくことだ。
実に不用心だなと呆れざるを得なかったのだけれど、彼女は自分があやかしにとってどれほど美味しい餌なのか、今までまるで理解していなかったらしい。よく無事だったよねえと青江は溜息を吐いた。
霊力を持っているというだけでも十分な標的なのに、かつ彼女は今肉の器から離れた魂だけの状態。喰らおうと思えば一口で平らげてしまえるような、草食動物の赤子同然である。だがその点は、本丸の建物から出られないということが功を奏したようだ。誘い込まれることが少ないから、食べられる可能性も低くなる。
「いいね、とにかく僕からあまり離れないことだよ。それから暗がりにも行ってはいけない。あと必要以上に霊力を使うことも、だよ」
青江は再度念を押した。最近同じことをずっと繰り返しているような気がする。
「どうしてです?」
「……君が透け透けだと、僕も視認が難しいからだよ」
消滅のことは、まだ言えていない。
正直もっと楽な仕事だと思っていたのだが、考えが甘かったようだ。
「にっかりさん、大変なんです……最近、書庫に誰もいないのに足音がして」
うんうん。
「青江、大将って幽霊とかその類大丈夫だったか? 恋人のあんたならわかるよな? ちょっと見ておいて欲しい部屋があるんだが……」
なるほどねえ。
「お、女の人がすすり泣く声がするんですう……」
うんうん、それ全部主だよねえ!
青江はげんなりとした。まだ正体が彼女だと割れていないだけいいが、自分が知らなかっただけで本丸は刀たちの間ですっかり「幽霊屋敷扱い」されていたのだ。
「ねえ、君にお願いしたよねえ、僕。疲れるようなことしちゃダメだって」
「ご、ごめんなさいぃ……」
「ああ、それもだよ、笑顔が一番だよ、笑いなよ」
青江がいるだけで低級のあやかしは逃げていく。「にっかり青江」の銘は伊達ではないのだ。一刀の元にその類は全て斬り捨てられる。向こうだってそれは嫌だから、勝手に逃げていく。だから存外楽な仕事のはずだと青江は踏んでいた。
だが全然そんなことはなかったというのが実情である。確かにあやかしは寄ってこない。だが代わりに、彼女の秘密がばれないようにすることの方が大変なのだ。
「ほら……言ってごらんよ、恥ずかしがらずにさ。今日は僕に隠れて何をしていたんだい」
「う……ごめんなさい、刀装が、残り少なくなっていて」
「言っただろう? まだ本丸の刀剣も少ないんだから。あれでちょうどいいんだよ」
「でも、もし何かあったら。怪我でもしたら」
「大丈夫だよ。僕達は刀なんだ。戦っているんだから、ちょっとくらいの怪我は平気さ」
ぐすぐすと鼻を鳴らす審神者にハンカチを差し出す。ごめんなさいと言いながら彼女は頬を拭った。
「毎日、日課分だけでもきちんとこなしていれば大丈夫さ。鍛刀も、刀装もね。僕達がそんなにひどい怪我をして帰ってきたことがあるかい?」
「ないですう……」
「そうだろう? だからほら、ね? 約束しておくれよ」
「でも……」
うううと彼女は青江のハンカチで鼻を噛んだ。いやまあ、気にはしないが。心配性だねえと青江が呟けば、彼女はごめんなさいともうひとつ謝った。
「主、主ちょっといい? ちょっと出陣の日程で相談があって」
襖の向こうから小夜左文字の声がして、青江はびくりと肩を震わせた。まずい! 泣いているせいで審神者の体は半透明だ。霊に関する感知の低い小夜左文字に、今の彼女の姿がどう見えるかはわからないけれど、極力危ない橋は渡りたくない。
青江は咄嗟に自分の白装束を脱いで、頭から審神者に被せた。よし、見えない。
「主? どうかしたの……?」
「い、いいよ小夜君! 開けても平気さ」
スッと襖が開いた。編成表を手にした小夜左文字が、心配そうな表情を浮かべてこちらを覗きこんでくる。
「ごめんね、返事が遅れて」
「にっかりさん、ですか。いいですけど、主はどうしたんですか? 自分の服なんて着せて」
……そこまで考えていなかった。しかし今主は透けているから見せられないんだよねえとは言えないので、青江はただ微笑んで唇に人さし指を持っていく。
「内緒、だよ」
小夜はぱちぱちと目を瞬いた後、若干頬を染めてくしゃりと手にしていた編成表を握る。
「す、すみません。出直します。ごめんね主、また来るから」
よし、普段の自分の意味深な物言いが功を奏して、適当に誤解してくれたみたいだ。青江はほっと息を吐く。
「なんだか小夜ちゃんに誤解されたような……」
「いいじゃないか、一応恋人ってことになっているんだから。ああ、もう透けていないみたいだねえ」
青江は彼女の頭に掛かっていた白装束をずらして確認した。まるでフードのようにそれはするりと落ちる。もうすっかりいつもと変わりない様子の審神者の姿に、ほっと安堵した。うまくばれないで済んだようだ。
「君の泣き虫も、どうにかしないとねえ」
「ごめんなさい……」
「いいや、怒ってるわけじゃないよ。ただ、ばれてしまうからね。何か考えないと……」
うーんと首を捻る。そう、何か対策を打たなくてはならない。本丸が幽霊屋敷なのではと疑っている刀たちは、審神者が怖がらないようにと彼女には直接言わない。これは非常に助かる。彼らは近侍であり一応恋人ということになっている青江に相談しに来るわけだから、青江が「何でもなかったよ」と言いさえすればいいのだ。
だが問題は、先程のように誰かが来たときである。もし透けているところを見られてしまっては、どう誤魔化したらいいか流石の青江にもわからない。けれど彼女はそれを隠したがっているわけだし、そのままにしておくわけにも……。
「厚着……しても意味がないだもんねえ」
「そうですね……私が着ているものごと、透けてるんですもんね」
「ああ、でも僕が後からかけた白いものは、平気だったねえ……着物のことだよ」
咄嗟に被せたわけだが、透けることなく彼女の姿を完全に覆っていた。物は試しだ、とりあえず思いつくものは全てやってみよう。
「それ、あげるから試しに着ていてごらんよ、君」
「えっ? いいんですか?」
「構わないよ、服なら替えがあるからねえ」
幸い、青江と彼女とはひどい身長差がある訳でもない。白装束をきちんと着せれば、すっぽり審神者の体を覆ってくれるはず。これなら少し透けたとしても、あまり違和感は感じないのだろうか。
袖を通させて、立たせればやはり思った通りうまい具合に裾が審神者の膝下まである。当面はこれで様子を見よう。
「しばらくはこれを着てみてくれるかなあ。だめだったらまた考えるから。あとは少し、泣くのを我慢してくれるかい」
「う……はい、頑張ります。じゃあ私、ちょっと小夜ちゃんのところに行ってきます。何か用があったみたいだし」
審神者が白装束をゆらりとさせて出て行こうとしたので、青江はにいっと唇の端を上げて一応念押しする。
「小夜君が、顔を赤らめて君と話してもあまり動じちゃいけないよ。僕達は恋人ってことになってるんだから。多少の秘密ごとがあっても普通さ」
すると審神者もかあっと頬と耳を赤くさせてギュッと目を閉じた後に、「わかりました」と言って出て行った。くすくすと青江も笑う。全く、興味深い主だ。
審神者が執務室からいなくなったものだから、青江も一度そこから出た。資材や刀装の備蓄を確認しておきたい。審神者にはああ言ったけれど、あの子は確証がなければ再び同じように隠れてそれらを補充するだろう。石橋を叩きまくる性格なのだと言うことは、最近知った。だから念押しができるように、正確な数を青江が把握しておいた方がいい。だが倉庫には先に、歌仙兼定が来ていた。
「おや、歌仙」
「……ああ、青江かい」
くるりと振り返った歌仙は、青江同様に資材等のチェックに来ていたようだった。手には矢立てと紙が握られている。
「んっふふ、君も心配性だねえ」
「すまないね、近侍だったときの性分で。君を信頼していないわけじゃないんだが」
「わかっているよ。まあ僕もまだなりたての近侍だしね」
彼女とてベテランの審神者、というわけではないけれど、近侍はずっと歌仙だったのだから、青江もまた新米である。一番の古株である初期刀が気にするのも道理だった。
青江も屈んで資材の数を見ていると、ふと思い出したように歌仙が口を開く。
「あ……青江、先ほどお小夜が顔を真っ赤にして執務室から出て行くのが見えたよ。主と仲がいいのは好ましいけれどねえ、昼間から睦み合うなら場所を選ぶんだね。雅じゃないよ」
「……え、ああ」
自分でそう取り繕ったくせに、いまいち言われていることがぴんとこなくて、反応が遅れた。青江はにっかり笑って歌仙を振り仰ぐ。
「んっふふ、ごめんね。僕と主は仲良しだからさ」
「まったく、それにしてもどうやって打ち解けたんだい、あの子と。あんなに避けられていたのに」
ぐっと思わず青江は言葉を詰まらせた。まさか廊下で見かけて、声をかけようとしたら体が透けていたとは言えない。しかし黙っているのもおかしいので口を開き、ほろりと泣いていた審神者を思い出す。
「また嘘を、吐いてしまいました……」
……君じゃなくて、僕が吐くんだよ。だから泣く必要なんてないのに。だがそう言ったところできっと、彼女は泣くのだろう。
「……ちょっと、誤解が解けただけさ」
これならば、嘘ではないだろう。青江は彼女の秘密を知っただけ。それで一緒にいる理由ができただけ。そんな青江の返答に、歌仙は特に疑問を持たなかったようだ。ただ唇を緩める。
「……そうかい。まあ僕は君と主が恋仲でいることに目くじらを立てるつもりはないよ。政府がどうであろうとね」
ふふ、と笑みを零しながら歌仙はそう言って、手元の紙にいくつか数字を書きつけた。青江は存外それには驚いて彼を見上げる。
「おや、それは意外だねえ。てっきり歌仙はとやかく言うと思ったけど」
「僕は風雅を愛する文系名刀だよ。古来から歌は恋心から多く生まれてきたもの。僕がそれを厭う理由がないさ。……まあ、あまりにも過剰なものは元の主のことを考えてもよろしくはないんだけれど」
苦笑いをしながら、歌仙は次々に資材の数を記入しぱたりと手帖を閉じた。どうやらずっと前からそうして管理をしていたらしい。
「それに、あの子が審神者の仕事を放ったらかしにして色恋に現を抜かすとも思えないからね」
「どうしてだい?」
青江の問いに、歌仙は少しだけ口を噤んだ。迷うように唇を何度か開きかけて、閉じる。だが最後には笑みを浮かべて、長く一度瞬きをした。
「……ふふ、まあ話してしまってもいいか。君と主はそういう仲なわけだし。でも僕から聞いたって言わないでおくれ。きっとあの子は恥ずかしがるだろうから」
それは、審神者が着任した日のこと。歌仙は彼女に呼び覚まされた。第一印象は、ふわふわとした少女。なんだかホワンとして、何ともいえない地に足の着いていないような笑みを浮かべていた女の子。歌仙は正直不安だったのだという。こんなごく普通の女の子が、刀の自分を扱えるのかどうか。これから一軍を率いる将となれるかどうか。
こんのすけに促されて合戦場に出る歌仙を、少女は「行ってらっしゃい」なんて手を振って見送っていた。歌仙はぼんやりとした不安を抱えたまま出陣して、まあ練度も一だし目覚めたばかりだしで、真剣必殺を披露するにまで至り、かつ重傷を負って帰城した。すると、そこにはもうあの少女はいなかったのだと言う。
「僕が帰ったとき、僕を見送ったあの、ごく普通の、ふわふわと笑う女の子はもうどこにもいなかった。代わりにいたのは、瞳を兎のようにして僕にただ謝る泣き虫の女の子だけだった。『ごめんなさい、ごめんなさい』とだけ繰り返してね」
手入れはこんのすけがすぐに済ませてくれたから、歌仙はたちどころに以前の美しい姿を取り戻したけれど。少女はずっと歌仙の膝を濡らして泣くばかりだった。そして泣き止んだころには、少女は今の審神者になっていた。ふわふわ笑ったりなんてしない、泣き虫で、石橋を叩きまくる子に。ただ審神者でいることに全力を傾ける少女に。
「あの泣き上戸には手を焼くかもしれないけれど……ふふふ、少し大目に見てやっておくれ。あれで、泣いた後は立ち上がろうとしているんだよ」
「……立ち上がる、かい」
「そうさ。あの子は泣きながらでも主でいることを決して諦めないと、僕は知っている。だから青江とそういう仲になろうと、その責任を果たすことから目を背けないとわかっているさ。だからそうだ、せめて……青江はあの子は頑張っているだけのただの女の子だってことを、忘れないでやってくれるかい」
歌仙はそう言って笑った。
普通の、女の子。青江は倉庫を出て、廊下を歩きながら考える。青江には歌仙の言う「普通の女の子」がわからなかった。だがそれもそのはずなのだ。青江は刀なのだし。それに、おそらく「普通の女の子」は透けたりしないし、そもそも死んでいない。
ひらりと視界の端で白い布が揺れるのが見えた。そういえば先程審神者に白装束をやってから替えを取りに行っていない。そんなことに気が付いてからハッとそちらを見やる。つまり今のは審神者か!
「ま……っ! 何したんだい、君!」
青江は慌てふためいてその白装束をひっぱる。やっぱり着せておいて正解だった。今の審神者は、もうその布しか見えない。有り体に言えば廊下にふよふよと白装束が浮いているような状態だった。
どこが彼女の体なのだか、ざっくりとしかわからなかったので青江は装束を引っ張って、運よく傍にあった自室に連れ込む。「ぎゃっ」なんてあんまり可愛らしくない声も聞こえた。歌仙この子のどこが「普通の女の子」なんだい?
「ごめんよ、ど、どこだい君」
床に半分脱げかけたらしい白装束が見えるが、審神者の姿は酷く薄くて見づらい。僅かに視認できる紺の制服を頼りに、あの辺りが頭で、あの辺りが足で……なんてあたりを付けつつ、青江は恐る恐る手を伸ばす。若干ながらふにりとした感触に指先がぶつかった。
「ひゃっ」
「い、今のはどこだったんだい」
「くび、首ですっ」
「ああごめん、ということはこのあたりが顔かなあ……」
手に伝わる感覚も酷く頼りない。一体何をしたらこんなことになるのだ。資材は十分にあった。焦ることなんて何もないはずなのに。
「何をしたんだい、言ってごらんよ」
「ごめんなさい、その、短刀たちがお化けが出るって話しているのを聞いてしまって、守りを強めに」
「君ねえ……」
青江は顔を覆った。言っていいものかどうか悩んだが、言わないとどうしようもないので口を開く。
「あのねえ……短刀たちが話していたお化けって、君だよ、それ」
「ええっ?」
「よく考えてごらんよ。書庫に誰もいないのに足音がするだとか、女の啜り泣きが聞こえるとか言う、あれだろう?」
「はい、それです……あ、私だ!」
得心が言ったような声が目の前から聞こえてきて、青江は肩を落とす。同時にあああと言う若干落ち込んだような気の抜けた声と、鼻を啜る音がし始めた。
「泣いているのかい」
「ごめんなさい……少し考えればわかったはずなのに、私」
「言っただろう? 霊力をたくさん使うようなことをしちゃいけないって。君今殆ど見えやしないんだよ」
このあたりかなと手を伸ばせば、そこにいることはわかっても、感覚ももううっすらとしかない。あまり驚いたりなんだりはすることのない青江だけれど、正直肝が冷えた。
そしてそれと同時に、この子はこうして消えていくのだなと、思った。
「お化けと同居は嫌だろうなと、つい思ってしまって……。特に五虎退や秋田がおびえた声を出してたので、薬研も心配そうにしていて」
お化け本人が何を言っているんだ。青江は呆れたらいいのかわらったらいいのかもうわからなかったが、それでも落ち着いて説明する。
「それはね、君が怖がらないかあの子達は心配しているんだよ。もう言ってしまうけれど、皆僕にそのことは相談していたんだから。僕は霊の正体を知っていたから、気にしないように言っていたんだけど」
口々に、皆青江に聞きに来た。「主さんはお化けは平気ですか?」、「大将が怖がっているようなら何とかしてやってくれ。俺っちたちはよくても、大将はいけねえ」、なんて。
皆、自分たちが怖いから相談しにきたのではない。ひとえに主を思っているのだ。
「だから、君が無理してそんな風に透け透けになってしまったら……あの子達、余計に心配すると思うんだけどねえ」
そう言うと、また少しだけ鼻を啜る音が聞こえる。小さな声で「ごめんなさい」と呟く声も。怒っているわけじゃあ、ないんだけどなあ。青江は口を噤んだ。泣いているんだろうなとハンカチを出しかけて、今度は差し出す場所がどこだかわからなくなってしまう。透けている紺の制服を見る限り、きっと手は青江の割と近くにあるんだが。
啜り泣きに混じって、掠れた声が青江の部屋に響く。青江の部屋には、あまりものがない。だから余計にそれは室内で反響した。
「せっかく、青江さん、私のこと知っても色々気を遣って助けてくれてるのに。私やっぱり、何もできなくて、ごめんなさい……」
「……」
ぽたぽたと涙だけが畳に落ちる。青江はただじっとそれを見つめた。
「う、嘘まで青江さんに吐かせて、それなのに。もう、平気です……私、一人でも頑張れます。本当はもっとちゃんとしなきゃいけないって、わかってるんですけど、でもできなくて、ごめんなさい。これからまた、頑張りますから」
「……ねえ」
「本当です、頑張ります。だから、黙っていてください。きっと、私きっとここからいなくなる日までは、だから」
「ねえ、君さ」
青江は反射的に口を開いた。いつもいつも、気になっていたことがあるのだ。
「どうして、そんなに自分をできない子みたいに言うんだい?」
いつも二言目には、ごめんなさいと。謝ることなんて何もないのに。青江にはそれがわからなかった。
「僕は、君は頑張っているなあって思っているんだけど。そうじゃないのかい?」
「……」
「君は、君が思うほどできない子じゃないし、僕たちは君がいるから刀でいられるんだ。君がそんな風に言う必要は、どこにもないと思うんだけどなあ」
暫くの間、ただ部屋には引き攣れた呼吸の音がしていた。明かりもつけずに部屋に飛び込んだので、そこは段々と薄暗くなる。そんな中でなら、彼女の輪郭はぼんやりとだけ見えた。鼻の頭と、瞳を真っ赤にしたその顔。
青江はただ、彼女が答えるのを待った。一瞬のような、いやもっと長いような時間の後、消え入りそうな声で審神者は呟いた。
「自信が、ないんです……」
きゅっと着せてやった白装束がよれる。審神者がそれを握り締めたようだった。
「私、現世にいるとき、ただ生きている、だけだったんです。毎日何も考えずに学校に行って、友達と遊んで、帰って。だから死んで、ここに来て、歌仙が初めて怪我をするまで、何も考えやしなかった。こんのすけに言われていること、一つも理解できなかったけど、これまで通りなんとかなるってただそう思って」
なんだか地に足の着いていないような印象の、ふわふわとした、女の子。歌仙は初対面の彼女をそう言った。今の彼女を見れば、欠片も思わないことだ。現に青江は初めて目を開けたとき、そうは思わなかった。
初めて会ったとき自分の目の前に立っていたのは、口を真一文字に引き締めて、泣くまいと糸のように張り詰めていた女の子。震える手を青江に差し出していた子。
「皆が生きてるって、私はその責任を負わなきゃいけないんだって、実感さえなくて。歌仙がぼろぼろになって初めてそんなことに気がついて……怖くてたまらなかった……、っでも、放って逃げ出すのは違う、そんなのは生きてたころと何も変わらない、だから私、ちょっとの間かもしれなくても、せめて、せめてここにいる間だけは、皆の主でいたい……っ」
ぎゅうっと審神者が自分の手を握り締めたのがわかる。そんなに力をこめていたら、傷がついてしまいそうだ。
「ここにいる間だけでも頑張れたら、ただ生きていただけの私も、ちゃんと、胸を張れるんじゃないかって……しっかり生きてたって言えるんじゃないかって……。いや、もう、死んでるんですけど……」
「……自分でオチを作るのやめなよ、君」
震えている声に、突っ込みを入れる。青江はふう、と息をついた。何だ、そういうことだったのか。一度に疑問が解けた。
審神者であることに固執した理由。無理をしていることがわかっていて、泣きながらでも立ち上がるのは。
「生きている理由がほしかったんだねえ……君は」
正確には、「生きていた」なのかもしれないけれど。でも構わない。だって今彼女は幽霊だろうがなんだろうが、ここにいる青江の主だ。そして立ち上がろうとしている。なら、やはり青江がすることは一つだけだ。
「……うん、やっぱり僕を傍に置いてよ、主」
「で、でも、私、泣くのも直らないし」
「でももだってもないさ。僕がそうしたいんだから、それでいいんだよ」
いずれ消えてしまうのだとしても、彼女が青江の主であることに何の変わりがあるのだろう。青江は彼女のものだから、彼女にとって一番いいことをする。ただそれだけだ。
そうするべきだと、彼女にもらった青江の心は言っている。
「君が主であろうとするなら、僕は君の刀であろうとするだけってことだよ。それに、想いを通わせてからすぐに別れるんじゃあ、外聞も悪いし」
ね、とやっと見えた審神者の頬を指先でなぞって涙を払う。またぶわりとその瞳にそれが溢れだしたのを見て青江はくすくす笑った。
「あおえさぁん……」
「んっふふ、そんなに泣いたら目から溶けてしまうよ」
審神者は最初に秘密がばれた日のように、また青江に抱き着いてわんわん泣いた。青江も今度はやれやれと首を振ることはなく、彼女が自分にするようにその背に腕を回す。
彼女が消えていなくなってしまう日まで、こうして傍にいたい。彼女が審神者でいることを望む間は。青江はただ、そう思った。