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    できればあなたとは幸せになりたくない


     怖い、どうしよう、怖い。震える体を押さえこみながら、彼女は自分の肩を握り締めた。外では鈍い剣戟の音が響いている。それから普段の穏やかだった髭切のものとは、かけ離れた雄たけびも耳に届いた。彼女の、髭切の声。
    「ギエエアアアアッ」
     自分の刀剣が外で戦っているというのに、彼女はといえば長櫃の中に押し込められて震えていた。それもそのはず、だって彼女はまだ半人前の審神者見習いなのだ。正式に認められた審神者ではなく、もちろん実戦経験なんて一度もない、それなのに。
     指先が真っ白になるほど力を込めて、さらにぎゅっと目を閉じる。どうか、夢なら覚めてほしい。もう十分に、やれるだけのことはやったはずだ。
     けれど、そんなことをしても爪を立てた自分の肌が痛むばかりで、一向に現状はよくなっていきそうになかった。



     初めて見たとき、まるで陽だまりのような人だなと思ったのを覚えている。ただし人ではなく刀であったし、その印象は容姿のみに限ったものだったが。
    「源氏の重宝、髭切さ。僕が君を立派な審神者にするよ、一緒に頑張ろうね」
     にこりとして、髭切は彼女の右手を勝手に握る。彼女は若干頬を引きつらせながらそのとびきりの笑顔を見つめた。周囲の気温が二度くらいは上がりそうなほんわかとした表情だ。彼女は今まで図録でだけ目にしたことのある姿だが、実際に目の前にするとやはりとびぬけた美形な分やや緊張する。だがそれ以上に彼女が感じているのは悪寒だった。
    「あ、あの」
    「えーっと、あ、そうか、名前は聞けないんだよね。じゃあ、『主』。今日からよろしく頼むよ」
    「えっと」
     彼女がしどろもどろになっていると、後ろからぽんぽんと髭切の肩を誰かが叩いた。
    「これ、髭切の太刀。若い女子相手だ、自分の調子でばかり話してはならんぞ」
    「ありゃ、ごめんね。困った?」
     さらりと衣ずれの音を立てて姿を現したのは、天下五剣が一振三日月宗近。それにも彼女はひくりと喉を震わせた。この数分で希少度の高い太刀を二振も目の前にしている。それも、そのうちの一振とは今後しばらく生活を一緒にしなければいけないなんて。正直泣き出してしまいたいくらいだが、これもくじ運が悪かったとしか言いようがないのだろう。
     事の発端は一週間ほど前、突然呼び出された彼女はこの三日月宗近は引き合わされたのだ。
    「俺の名は三日月宗近。天下五剣で最も美しいともいうが、まあただのじじいだ。そう気を張ってくれるな」
    「はっ、はいいっ!」
     彼女は審神者養成学校に通うしがない見習いの一人。それが突然、最高希少度の天下五剣を前にしているのだ。緊張しないはずもない。しかし三日月はその仰々しい肩書きなんて嘘のように、親しみやすく大らかな笑顔でくつくつと肩を揺らした。彼女が初めて前にした刀剣男士は花が開くようなほんわかとした表情を浮かべてうんうんと頷く。
    「はっはっは、あまり話が長引いてはそなたの体が強張ってしまいそうだな。本題に移ろう。うむ、話は聞いているか?」
    「ざ、ざっとですが」
    「ならば早いな。この度、審神者養成学校に通う見習いたちの中から、早期の卒業を目指して政府所属の刀剣男士を一振、教育役としてつけることになった。未だ試験的な実施ゆえ、まずは一人ということになりそなたに白羽の矢が立った……ということだな。ここまではいいだろうか?」
    「……はい」
     先日、学校の教官からも受けた説明に彼女は頷いた。
     審神者という職は常に人員不足である。まずなりたくても素養がなくてはなれない。付喪神を幾柱もおろし、顕現を維持させるだけの霊力を必要とし、場合によっては一度に何振もの手入れをしなくてはならないときもある。それだけでも審神者になることのできる人材はかなりの少数に絞られてしまう。
     そして、なにより「審神者」は専門職であり戦闘職だ。こなさねばならないのは刀たちを振るうだけの兵法と正しい歴史の知識の取得、また敵の考えを読み、討伐するという最終目標の遂行だけではない。力を貸してくれた刀剣の付喪神たちに常に敬意を払い、彼らが快適なヒトの器での生活を保てるような本丸の運営、彼らの将として恥じることのないよう一人前になってからも日々努力は積まねばならない。
     それだけでもハードルはかなり高いうえ……死亡率も決して低くはないのだ。審神者とは、そういう職である。
     三日月は長い睫を伏せて、それまでずっと朗らかな笑みを浮かべていた顔に若干の影を落とした。
    「長い戦いだ。それをそなたのようなまだ幼い女子に託すことに、迷いがないわけではない……ならば俺たち自身が立派な審神者に育てよう。そう考え、俺たちは政府の申し出を受けた。今回そなたが選ばれたのも有体に言えばそういう経緯だ。だから安心していいぞ。俺たちはまこと、そなたを育てるつもりでいる。気を長くしてくれ」
    「承知して、おります。よろしくお願いいたします」
     自分でも硬いな、と思う程度の声が出て彼女はぎゅっと制服のスカートを握り締めた。視界の端にある三日月の指先もぴくりと動いたのがわかる。だがそれ以上何もできなくて、彼女は黙りこくった。
     ゆっくりと三日月の手が動き、こちらに伸ばされる。彼女は思わずびくりと肩を震わせてしまったが、手はそのまま彼女の頭の上にぽんぽんと二度温かく触れた。
    「困ったことがあればいつでも俺に言うといい。俺は教育係ではないが、監督役をすることになっている」
    「……はい」
     腹を決めたとは言い切れなかったが、それでも彼女は三日月の優しい声にそう返事をした。だから、やれるだけのことはもちろんするつもりでいたのだが……教育係が予想の範疇を大幅に超えていたのである。
    「ここが君の部屋? 思ったより広いんだねえ」
    「あっ、はい……とりあえずお荷物はあちらの、ベッドに置いていただければ」
    「わかったよ」
     白い上着を翻して、軽やかな足取りの髭切は手にしていた中くらいのサイズのダンボールを昨日運び込まれた新しいベッドの上に置いた。それからくるりと回って部屋の中を見渡す。金色の髪がふわふわと揺れた。
     審神者養成学校に通う生徒は、人数的に見ると普通の学校よりずっと少ない。だから寮の部屋もそれなりの広さが取れ、各部屋に簡易キッチンとバスやトイレが設備されたそれなりにいいものだった。おそらく審神者の男女比が女性の方がやや多いことも配慮されているのだろう。元から備え付けられた彼女用のベッドや家具、それに加えて暫く髭切が一緒に生活しても平気なようにベッドをもう一台運び込んだとしても余裕がある程度には広い。
     ひとしきり部屋の中を見回してから、髭切は彼女のほうに向き直った。琥珀色をしたビー玉のような瞳に直視され、思わずどきりとする。なんとなしに彼女は俯いた。
    「それで、君は学校に通うようになってからどのくらいなの?」
    「えっと、まだ一年になるかならないかくらいです」
    「そう、まだまだ新米なんだね。わかったよ。うんうん、僕と一緒に頑張っていこうね」
     ぽんぽんと髭切は彼女の頭を撫でた後に、再びひらりと上着を翻し荷物をしまいにベッドのほうへ戻っていった。十分に髭切が離れていってから、彼女はほっと息をつく。あの刀の前にいると、緊張してしまっていけない。
     源氏の重宝、髭切。同じく源氏の宝刀であった膝丸の兄弟刀であり、平安時代に打たれた古い刀剣である。入手方法は鍛刀、もしくは検非違使の撃破による奪取報酬。とはいえ鍛刀は運の要素が強いし、検非違使を討伐しても必ずしも手に入るというものではないため、源氏の双剣を迎えるのはそう容易いことではない。それに古い刀というものは一癖も二癖もあるもので、この髭切という刀もその例には漏れないと彼女は聞いている。
     これからどうなってしまうのだろう……と彼女はありきたりなことを思った。教官役というからには、てっきり初期刀とされる五振や他の面倒見のいいと評される刀を彼女は想像していたのだ。それがまさか、髭切。三日月は「そなたと相性のよい者を選んでいるゆえ、案ずるな」と言っていたが、本当なのだろうか。彼女が黙りこくって自分の手の辺りを見つめていると、穏やかな声が響いた。
    「大丈夫だよ」
    「え?」
     片付けをしていると思ったのに、顔を上げると髭切はいつの間にかベッドに腰掛け、こちらを見つめて柔和な笑みを浮かべていた。
    「僕と君、きっとうまくやっていけるよ。君はいい主になる」
    「……いい、主」
    「うん、そうだよ。さぁて、お腹が空いてしまったなあ」
     うーんと伸びをしながら髭切がそう言ったので、彼女はハッとして食事の準備に取り掛かった。今日からしばらく共同生活なのだ。無論食事も睡眠も、一緒である。



    「ねえ、おはよう。お腹が空いてしまったよ」
    「う……」
     ゆさゆさ、と誰かに揺さぶられて彼女は「うう」と顔を顰めた。一体誰だ、ここは自室のはずなのに自分以外に誰がいる。とにもかくにも自分を揺らす誰かの手から逃げようとして、彼女は寝返りと打とうとした。けれどその誰かの手は彼女の背中の下にさっと回ると、ひょいと軽く彼女を持ち上げて体を起こさせた。ふわりとなにやらいい匂いが鼻をくすぐる。日向のような香りだ。なんだろう、カーテンは閉めていたはずだが……。
    「おはよう、よく眠っていたね」
    「っうわあああ!」
     薄く目を開けると、至近距離で長い睫がぱちぱちと瞬かれた。琥珀色の瞳と視線がかち合い、彼女は叫び声をあげて後ずさろうとしたのだが、髭切によって背中に腕を回されておりそれはできない。
    「ひっ、髭切さ、どうして」
     髭切のベッドは、衝立を挟んで向こうのはず。なぜ朝起きたらこんな至近距離でこちらの顔を覗き込んでいる? なんで、どうして、というか今は何時だ。彼女の頭を音速で様々な疑問が飛び交っているというのに、髭切はにこにことしながら頷いた。
    「朝ごはんの時間だよ、主。今日は午後から授業だったね、それまで僕と一緒に過ごそう」
     ぐらぐらとする思考回路を立て直す。それからやっと、ああそういえばと現状を思い出した。いつまで経っても、自室に誰かいるというのには慣れない。そろっと髭切の腕から逃れながら、彼女はおはようございますと頭を下げた。
    「お、おはようございます……。朝ごはんですか、はい……。いつものでいいですか?」
    「うん、大人しく待っているよ」
     はぁーと溜息をつきながら彼女がベッドから降りると、髭切もそれに従った。スリッパを履き、カーディガンを羽織ってキッチンに立つ。よいしょと彼女が背伸びをするよりも先に、髭切が棚の上の食パンを取ってくれた。
    「これだよね」
    「はい、ありがとうございます」
     包みから三枚取って返すと、髭切はそれを元の位置に戻した。二枚をトースターに突っ込み、その間に湯を沸かす。欠伸をかみ殺しながらマグを二つ棚から出している間に、きゅうと髭切の腹が鳴って、彼女は思わずくすりと笑った。
     チンというベルの音とともに二枚のトーストが飛び出してくる。彼女はそれを皿に二枚とも乗せると、蜂蜜の瓶と一緒にテーブルの上に置いた。温かい茶も並べておく。
    「先に召し上がっていてください、私の分今から焼きますから」
    「うん、じゃあいただきます」
     手をしっかり合わせ、髭切は蜂蜜の瓶に手を伸ばす。一切の躊躇いもなしにどろっと多量の蜂蜜をトーストに掛け、それから齧り付く。いつもながら非常に良い食べっぷりだ。
     彼女が同じテーブルに就いて同じように手を合わせるころには、髭切のトーストは残り半分にまで減っていた。サクサクとそれを食べ始めると、こちらを見た髭切は口周りにパンくずを付けながら小首を傾げる。
    「毎朝思っていたんだけどね、君はそれで足りるの?」
    「え? あ、はい。これで昼まで十分です」
    「ふぅん……もう少し増やしたほうがいい気がするけどなあ。あ、ほら貸してごらん」
     髭切は彼女がそれに返事をする前に手からトーストを取り上げた。それから自分のもの同様に蜂蜜をたっぷり上にかけて「はい」と戻す。パンから垂れていきそうになったので、彼女は慌ててそれを口に運んだ。
    「むぐっ」
    「うんうん、しっかりお食べ。君はまだまだ先が長いんだから。きちんと大きくならなきゃね」
     トーストを頬張る彼女を見て髭切は満足げな笑みを浮かべると、自分も残っていたトーストを平らげた。口の中に広がる甘ったるい蜂蜜の味を飲み込みながら、彼女もまた曖昧に笑った。
     朝食を終えたらそれぞれ衝立の向こうで着替えをし、皿を片付ける。その日は授業が午後からなので、彼女は先程のテーブルにつき教科書とノートを広げた。髭切もまた戦装束を調えると、その正面に座る。
    「じゃあ今日も頑張ろうね」
    「はい、よろしくお願いします」
     彼女が頭を下げると、髭切はにこりとして自分もまた教科書のページをめくった。審神者育成学校の授業は変則的である。だから彼女は現在、空き時間こうして髭切の指導を受けることが義務付けられていた。
     今回、特例措置として彼女に刀剣男士が一振つけられた目的は「早期から刀剣男士がどういうものか理解しておく」というものが主だ。やはりいきなり人ならざる付喪神に触れ、一緒に生活し、あまつさえ今まで馴染みもなかった戦闘に赴くというのは一般人にはハードルが高すぎる。いくら政府に養成する機関があるとはいえ、戦場はマニュアルなんてもの役に立たないことが殆どなのだ。ならばできうる限り、本来の本丸と似た環境を早期から整え、慣れておくべきという考えに基づくらしい。
     確かに、それは正しいかな。彼女はそう考えながらちらりと髭切を見た。髭切のほうは「ふむ」なんて言いながら教科書に目を通している。こうしているとヒトとほぼ変わらないのだが、髭切の本質が自分とはかけ離れていることを……この暫くの共同生活で彼女は少しずつ理解し始めていた。
    「問題は解けた?」
     髭切に問われ、彼女ははっとして顔を上げる。それから慌ててノートを髭切に差し出した。
    「あっ、はい、ここまで」
    「うん、じゃあ確認するね。少し待っていてくれるかな」
     今度は教科書の代わりにノートを手にとって、髭切は彼女の回答を確認し始めた。実はこの時間が一番緊張する。あのビー玉の瞳がじぃっと自分の答えを見ているときが。
    「うーん、違うね」
     ばさっとノートをテーブルに放って、髭切は笑った。ああまたかと彼女は肩を落とす。きちんと教科書はなぞっているはずなのだが、いつも髭切には合格をもらえない。
    「どこがだめだったんでしょう?」
    「そうだなあ、基本はできているんだけどね。君の成績をいくらか見たけど、十分優秀だし。勉強は得意なんだね、いい子いい子」
     穏やかな表情で髭切はよしよしと頭を撫でてきたけれど、明確な答えはくれない。これもいつものことだった。彼女はもやもやとした気持ちを抱えたまま視線を伏せる。髭切の言うとおり、彼女は養成学校で常に上位の成績を保っていた。現世の学校にいるときから、それなりに要領よく勉強は取れていたほうだ。だから今回の試験的な措置に自分が選ばれたのも、単純に成績が良いというのも理由にあるのだろうなと彼女は予想していた。
     しかし毎日髭切にはだめだしを食らっている。問題集にある陣形の問題や、不慮の事態に対する措置を答えるものを繰り返しているが、てんでだめなのだ。
    「せめてだめなところを教えていただけませんか? でないとその、どこを直したらいいのかもわからなくて」
     思い切ってそう尋ねると、髭切は「うーん」と首を捻る。この研修の目的が、彼女が一人前の審神者になることであるなら、まず欠点から知りたい。そうでなくばいつまで経ってもこれは終わらないのだ。
    「だめなところ、っていうわけじゃないんだよね。君がいけない訳じゃあないから」
    「じゃあどうして」
    「あ、わかったよ」
     ぱっと顔を輝かせて、髭切はポンと手を打った。
    え、何がだと彼女が聞くよりも先に、髭切は先ほど机の上に置いた教科書を手にとるとひょいとそれを宙に放り投げる。そして自身の柄に手をかけると、目にも留まらぬ速さで白刃を閃かせそれを一刀両断した。
     目の前をぱらぱらともはやただの紙になった教科書が舞っていく。彼女は口を開けたままそれらが床に散らばるのを見つめた。それに対してチンと軽やかな音を立て、髭切は刀を鞘に納める。
    「こんなのがあるからわからなくなっちゃうんだね。うんうん、今日からこれはなしにしよう」
    「えっ、ええっ?」
    「大丈夫、大丈夫。僕が教えるからね」
     ええ、嘘お。彼女が呆気にとられている間に、髭切はそのまま彼女の前にポンと先ほどの蜂蜜瓶を置いた。
    「はい、じゃあこの机が本丸。これが敵」
    「え?」
    「本丸の真ん中だよ。えーっと、この帳面を母屋にしようか。ここが手入れ部屋、鍛冶場、そしてここが君の部屋。今君がいるのはここ」
     髭切は彼女のノートを開くと、傍にあった筆記具で間取り図のようなものをざっと描いた。そしてそれを蜂蜜瓶の向こう側に置き、一室を指し示すと今度はそこに砂糖壺を乗せた。
    「数はそうだなあ、一部隊にしておくね。さあ、君はどうする?」
     にこりと笑って髭切はそう尋ねた。彼女は何を問われているのかわからず、ただ髭切が手を置いている蜂蜜瓶を眺める。どう、とは一体。
     すると髭切は瓶を持ち上げ、ノートの縁側に置いた。
    「君が悩んでいる間に、敵は母屋の縁側に来てしまったね。このままだとそのまま進入してしまうよ」
    「あ……」
     なるほど、そういうことか。彼女は髭切の為そうとしていることを理解し、慌ててテーブルの上を見直した。蜂蜜瓶の位置とノートの上に書かれた間取りとを確認する。
    「て、手入れ部屋へのルートを確保します。本丸に残った刀剣を迎撃に回して、私は手入れ部屋へ」
    「ふうん、じゃあこうかな」
     髭切は砂糖壺を最初置かれていた部屋から廊下へと移動させた。手入れ部屋のほうへ即座には行かせてくれないらしい。まあそれは仕方のないこと。彼女だって瞬間移動ができるわけではない。
     要は、将棋やチェスと同じである。それを髭切はこのテーブルの上で、ノートを本丸に模してするつもりなのだ。さしづめ髭切が動かしている蜂蜜瓶が敵部隊で、あの砂糖壺が彼女であろう。
    「じゃあ廊下に出て、君はどうする? 今、一人だけど」
    「えっと手入れ部屋に向かって……手入れの準備を整えます。負傷した刀剣が出次第、私はその手入れに回ります。隙を見て、鍛冶場も使えるようにしたいです」
     教科書に確か書いてあった。敵からの急襲を受けた場合、まず最初にしなければならないのは手入れ部屋の確保。刀剣男士が傷ついたときにすぐ体勢を立て直し再び迎撃できるように、である。それが定石でありマニュアルだ。だからそれで対応としては合っているはず。
     だがそう言った瞬間に、髭切は黒い手袋の嵌められた手で砂糖壺を押した。陶器で出来たそれはがしゃんと音を立ててあっけなく倒れ、蓋が外れて中から白く砂糖を吐き出す。じゃり、とそれを踏み固めるようにして蜂蜜瓶が置かれた。
    「はい、君の負けだよ」
    「え……?」
    「君の負け。それだと君が死んじゃって、おしまい」
     意味がわからず彼女は髭切を見上げた。だが髭切のほうは柔和な表情を崩すことなく、そのままでがたりと椅子から立ち上がる。それからパッパと砂糖をノートから落とす。ざらざらと白い粉末はテーブルの上に散らばっていった。
    「部屋から出た段階で君は一人だよって言ったよね」
    「はい……」
    「ならまず君がすべきことは、誰かを呼ぶこと。どんな刀剣でもいい、誰かを呼んで、自分の身を守ることだよ。だってそうじゃないと、君が一人で遡行軍に遭ったりしちゃったら、手のうちようがない。あっという間に、死んでしまうよ。審神者の君が死んでしまったら、僕たちにできることなんて何もないんだから」
     パン、とノートが髭切の手によって叩かれる。隙間に入り込んだ砂糖の最後の一粒がテーブルに落ちた。ばらばらになって床に散らばる教科書に彼女はちらりと目をやる。そんなこと、一言も書いていなかった。
     髭切はにこりと笑ってノートを閉じ、静かにそれをテーブルに置く。
    「ね、だからあんなものあっても仕方がないんだよ。だから僕がひとつずつ教えてあげる。君が立派な審神者になれるようにね」
     テーブルに散らばった砂糖が、一瞬だけ血飛沫に見えて彼女はただ黙りこくった。



    「はっはっは、そなたも苦労が耐えんなあ」
     おおらかな笑い声を上げて、三日月宗近はそう言った。彼女はげっそりした顔でそれに「はい」と返事をする。くつくつと肩を揺らしつつ、三日月が彼女に湯飲みを差し出す。彼女は有難くそれを受け取り、口を付けた。緑茶はほこほこと暖かい。
     髭切が彼女の指導役で、三日月はその監督役。そういう理由で、彼女は週に一度三日月に定期報告をするよう言われていた。彼女はその週どんなことを学んだか報告して問題があれば相談するし、それが重大だと三日月が判断すれば、政府のほうへ連絡が行く。だから彼女は三日月に例の髭切流指導を報告したのだ。すると三日月は愉快そうに笑い出した。彼女は全然、笑えない。
     ほうと彼女が一息つくと、三日月が瞳を緩めて彼女に尋ねる。
    「それで、あれには勝てそうか?」
    「いいえ……今のところ連敗続きです」
    「ふむ、まあ教科書をなぞっていてはそうやもしれん」
     首を傾げる三日月の言うとおり、教科書の通りに対応を重ねている彼女は現状惨敗を喫していた。手入れ部屋に向かうまでの過程、きちんと刀剣を呼び出してもどこかで先回りされ、判断を誤り、迎撃する前に負けている。
     それがなぜなのか、彼女はしっかりと理解していた。単純に、実戦経験がないからだ。本当は敵がどう動くのか、何が大切なのか、実際の戦場を知らないからだ。だがそればっかりは今の彼女がどうこうできる問題ではない。一つ一つ学ぶしか方法はない。途方もないが、それが確実である。しかしわかっていても流石に気が遠くなってしまいそうだった。
    「まあそう気を落とすな。そなたはよくやっている」
     穏やかな声で三日月は慰めてくれたけれど、彼女はしゅんと肩を落としたままだった。だって、申し訳がない。髭切の指導方法は確かに突拍子もないけれど、理に適っていた。何故そうなるのか、どうすればよかったのか、説明は適切だ。けれどそれに彼女のほうが応えられないだけで。
    「髭切さんがいつも優しく教えてくださるだけに、なんだか、情けなくなってしまって」
     彼女がそう言えば、三日月は微笑んでうんと一つ頷いた。
    「やる気があるのはいいことだ。今できぬことを理解しているのは、学ぶ上で何より大切なこと。いい子には褒美をやらねばならんな」
     よしよしと三日月は彼女の頭を撫でた。髭切といい三日月といい、頭を撫でて褒めるのが好きなのだろうか。彼女はこの指導を受け始めてから、自分の身長がやや磨り減ったような気さえする。
    「ご褒美、ですか?」
    「ああそうだ、努力するものを褒めて伸ばすのも年長者の務めだろう。努力するそなたにひとつ、俺が軍略を授けよう。あどばいす、というやつだな。耳を貸せ」
     言われるがままに彼女が耳を寄せると、ごにょごにょと三日月は一言二言囁く。えっそんな簡単なことでいいの? 彼女は三日月の花のかんばせを見つめ返したが、彼はにっこりとしたまま頷くだけである。
    「本当にですか……?」
    「俺は嘘はつかんさ」
    「うーん……」
    「はっはっは、まあ騙されたと思って次に試してみよ。きっとうまくいく」
     俄かには信じがたいが、まあ、うーん。彼女は首を傾げつつもそれを頭に留めおいた。やってみて駄目なら駄目でいいだろう。彼女にはもう他に手のうちようがないのだし、せっかくもらったアドバイスだ、無駄にはできない。
     だから彼女は半信半疑で三日月に「ありがとうございます」とお礼をいい、その日は面談を終えたのだった。



    「押入れに、隠れさせてください」
     彼女の言葉に、髭切はぱちぱちと目を瞬いた。だめだっただろうかと彼女は若干緊張する。ノートに描かれた本丸の間取りは簡易的なものだったが、彼女のいる部屋に押入れと思しき収納スペースはあった。だからそこを指差して、もう一度おずおずと切り出す。
    「ここ、なんですけど」
    「……いいよ」
     いちいち砂糖壺をひっくり返されたらたまらないので、今は彼女を表す駒として髭切は髪留めを使っていた。黒い手袋をした指がそれを掴んで、狭い押入れへと移動させる。
    「君くらいなら入れるはずだね。じゃあ君はここかな。それからどうするの?」
    「えっと……息を潜めて、敵に気配を悟られないように努めます」
     硝子玉の瞳が、じいっと彼女を見つめていた。様子を伺われていることを察して、彼女の鼓動はいつも以上に早くなった。髭切は敵として使っているクリップ六つのうち一つをその部屋の近くの廊下に移動させる。……敵が傍に来た。
    「さあ、どうする?」
     敵は一体。刀種まではわからないが、一定の練度を保っていれば刀剣男士で押さえることは可能。できうる限り迅速に対処すべし。教科書どおりの対応ならばそうなる。
     しかし彼女はもらったアドバイスを頭の中で反芻し、別な答えを出した。
    「通り過ぎるまで、そのままで。ただ、短刀を一振強制的に執務室に召喚させてください。私は刀剣男士へ指示をそこから出します」
     部屋は狭い。大振りの刀では満足に動けない。それに押入れの中は暗いだろう。夜目と小回りの利く短刀であれば、仮に見つかっても室内で応戦するのに最も適しているはず。
     どう、だろうか。彼女は恐る恐る髭切のほうを見た。マニュアルからは外れまくった対処である。誇り高き将であるべき審神者が押入れに隠れて指示を出すなど、刀剣男士たちは許してくれるものだろうか。
    「どうしてそうしようと思ったの?」
     髭切は微笑んでいた。だから彼女は正直に口を開く。
    「あの、実は三日月さんに相談して」
    「ああ、三日月宗近。彼に言われたの? 押入れから指示を出すようにって」
    「アドバイスをもらったんです。一番に身を隠してから、今まで髭切さんに言われたことを思い出せって。それで、最初に教わったことを思い出して」
     ゆったりとした三日月の声が脳裏によみがえる。
    「一番に、身を隠せ。それからどうしたらよいか今までを思い出せ。あれは必要でないことは言わん。逆を返せば、言ったことはすべて必要なことだということだ」
     三日月宗近が優しく言ったのは、そんなことだった。
     それでどうして髭切に勝てるようになるのかはさっぱりわからない。しかし他に打つ手もないのでそうするしかない。だからそうして敵から隠れたとき、髭切に一番に言われたことが頭をよぎったのだ。
    「審神者の君が死んでしまったら、僕たちにできることなんて何もないんだから」
     あれは、「死ぬな」と言っているような気がした。
     彼女には圧倒的に経験が足りていない。それゆえ下手に敵に接触してもどうしたら勝てるかなんて想像もつかないのだ。だったら隠れていたほうがいい。できうる限りの対処をして、応戦の準備だけしたら、彼女は敵との遭遇を避けるのが一番だ。そのほうが戦う刀剣男士の邪魔にもならず、彼女自身の生存率も上がる。
    「だからその、死んではいけないんだと、思って」
     おずおずとそう言えば、髭切はぱちぱちと長い睫を瞬いた。それからふっと唇を緩めると鋭い犬歯が覗く。
    「……ふふふ、いい子、いい子だね! うん、君はとってもいい子。合格、これは合格にしようね」
     あっははと朗らかで大きな声で髭切が笑い出したので、彼女は呆気にとられて顔を上げる。うんうん、と満足げに髭切は頷くと、ピンと手にしていたクリップを指で弾いた。
     ひらりとあの白い上着を翻すと、髭切は立ち上がって彼女の前まで来た。それから手を取って引っ張る。どうやらどこかへ連れて行こうとしているようだ。
    「おいで、見せたいものがあるから」
    「は、はい」
     髭切は彼女と手を繋いだまま、軽やかな足取りで部屋を出て廊下を進んだ。奥まった場所まで来ると、なにやら重そうな扉のノブをガチャガチャと捻る。どうやら鍵が掛かっているらしい。
    「あの、髭切さん? ここは? 鍵がかかってますよ」
    「うーん、まあいいか。よいしょ」
     彼女は尋ねたのだが、ガコンっとすごい音を立てて髭切は片手で力任せにそのノブを回転させた。思わずヒッと息を呑む。鍵ごと破壊したらしい。しかし髭切のほうはあまり気にもせずに扉を押して開けると、そのまま彼女をその中に連れて入った。
    「足元に気をつけてね。少しごちゃごちゃしてるんだ。転ぶと危ないよ」
    「……倉庫ですか? ここ」
     ごちゃごちゃしている、という髭切の言のとおり無秩序に散らばっているとは言えないまでも、そこは所狭しと長櫃やら漆の箱やらが積み重ねて仕舞われていた。天井まである高い棚にも色々ある。ただその状態を見るに、古かったり貴重な品であることはすぐにわかった。だからこそきっと、施錠してあったんだろうが……いいのだろうか?
     髭切は一番奥の棚まで来ると、立ち止まった。手はまだ繋がれたままだったので、彼女も同様にしてその棚を見上げる。そこには細長く、美しい箱が並べられている。赤い組紐で封をされているもの、紫色のもの、金のもの、もしかして、これは。
    「……刀剣?」
    「そう、よくわかったね。これは全部、刀剣。主を待つ刀たち。君たちは初まりの一振って呼んだりするのかな。でもそれ以外にも、たくさんあるよ」
     これがそうなのか、と彼女は何度か目を瞬き顔を上げる。初めての刀は政府から与えられるものなのだから、それが政府の施設内に保管されていることは何にも不思議ではない。
    ただ、実感がなかったのだ。自分の身近にそんなものがあるだなんて。
    「僕もね、ちょっと前までここにあったんだよね」
    「えっ?」
    「ここ、この倉庫。ここで、えーっと、そうそう、眠ってたっていうのが一番近いかな」
     そういえば……政府所属の刀剣男士だと三日月に髭切を紹介されたが、そもそも政府所属とはどういうことなのだろう。本来刀剣男士というのは、審神者に励起され本丸に属すもののはず。デリケートな話題かもしれないと彼女は切り出したのに、髭切のほうはあっさりとそれに答えた。
    「ああ、要はね、あぶれちゃったんだよ」
    「あぶれた、ですか?」
    「うん、主がいなくて政府にいる。僕は君が主って決まったから、ここから出て今はこうして、君の刀」
     きゅっと手を握られ、彼女は髭切のほうを見上げた。嬉しげに、髭切は琥珀色の瞳を和ませてこちらを見つめている。思わず彼女はどきりとした。
     ……髭切の、「主」。
     本当に、今の自分はそう呼ばれてもいい立場なのだろうか。
    「私は……まだ審神者じゃ、ありません。まだ半人前の見習いです」
    「そうだね。でも大丈夫だよ、僕が立派な審神者にするから」
    「それでも『主』なんですか?」
     そもそも、主とは、審神者と何が違う。その差が、彼女にはわからない。
     髭切があんなにも幸せそうに「主」と口にする意味が。
     うーん、と暫く考えてから髭切は口を開く。ふわふわの金色の髪が彼女に合わせて屈んだ髭切の動きに合わせて揺れた。
    「……僕たちモノはね、主がいないと何の意味もないんだ」
    「……意味」
    「だってモノなんだから。僕は振るってくれる『主』がいないと何も斬れない。在っても仕方がない。だから主のいないモノは、こうして眠っているしかないんだよ。政府所属の刀剣も、皆同じ。それらはそこに属しているだけ。命令はされてもそれは『主』じゃない。数ある刀に同じ命令を出して戦わせているだけ。僕たちを振るってくれる相手じゃない」
     だからね、と髭切は両手で彼女の手を取った。
    「僕らにとって『主』は審神者であることが第一条件じゃないんだよね。僕らを扱ってくれるか、振るってくれるかだよ。それで、最後は」
    「……最後は?」
     にこりと髭切は微笑んで体を起こす。髭切はいつも日向の匂いがしたが、少し埃っぽいような、そんな感じもした。そしてそれは、ここの空気にとても似ている。
    「折れちゃうだけだよ。形のあるモノだから。いつかは折れてしまう。でもそれは君たちの『死ぬ』とは違うから、安心して。壊れちゃうだけ、ただその役目を全うしただけさ。刀としての本懐だよ。だからね、僕たちのために前線に出て、あっさり死んじゃあだめだからね」
     折れる、と彼女は小さく繰り返した。ずらりと並んだ刀の箱、そこで眠る刀剣たち。箱と箱の隙間に、彼女のつぶやきは吸い込まれて消える。
     握られたままの髭切の手は、暖かく柔らかい。だが何故だか彼女がその手を引けば、すっぱりと自分の指は切れてしまいそうな気がした。ここにいるのは、ヒトであってヒトではない。



     差し出された湯飲みに、今日は彼女は手をつけられずにいた。三日月は優しい眼差しのまま、じっと彼女の様子を見つめている。
    「それで、髭切には勝てたか?」
     低く穏やかな声で、はっとして顔を上げる。それから何度か彼女は首を縦に振った。
    「はいっ、あの、アドバイスありがとうございました。何とか一勝ってところです」
    「はっはっは、そうかそうか。長生きもしてみるものだ、こういうときに役に立つなあ。……にしては、浮かぬ顔だが」
     無理に笑顔を作るには少し、気落ちしすぎていて彼女は曖昧な表情で首を振ることしかできなかった。色々考えていて、あまり眠れていないのもある。
    「髭切が指導役では嫌か?」
     三日月が優しく問う。彼女は若草色をした緑茶の表面を眺めながら、それには首を振った。
    「……嫌という、わけじゃないんです。髭切さんが嫌なわけじゃ」
     確かにぶっ飛んでいる。こちらの予想の範疇を軽々超えてくるし、こんな指導をされるとも思ってみなかった。刀剣男士を事前教育に当たらせるのがそもそも初の試みとはいえ、おそらくは前代未聞であろう。
     けれど、その教え方に問題はない。元々穏やかな気性の刀のようで、彼女が何度失敗しても負けても、優しく諭すようにして対処を教えてくれる。最後にはにこにことして「今日も僕の主はよく頑張ったね」と笑ってくれる。
    しかし、何か別な違和感を感じるのだ。
    「教え方はびっくりするくらい、合理的で優しいんです。実戦経験がない半人前の私でもそれはわかります。ですがなんというか、その」
    「……そなたが生き残ることに特化しているんだろう?」
     その言葉にはっとして彼女は顔を上げた。胸のうちにあったもやもやが形をとる。そうだ、その通りだ。髭切の指導はすべて、彼女が生きてその窮地を潜り抜けることが目的とされているのだ。時間遡行軍の殲滅ではない。それよりもずっと、彼女の生存が優先されている気がする。だから手入れ部屋の確保を優先してはいけないのだ。先に、自分を守る刀剣を呼ぶことを一番初めに教えられたのだ。
     三日月はちらりと壁の時計を見た。一応相談時間は限られている。それを確認したのだろう。本来ならばもう直に終わりのはずだが、三日月は居住まいを正した。
    「そなたには話しておかねばならんだろうな。隠しておくのは不実だ。しばし時間をもらうが、いいか?」
    「はい」
     背筋を伸ばして、月夜の瞳と向き合う。静かに、三日月は切り出した。
    「政府所属の刀剣男士について、そなたはどこまで知っている?」
     この間髭切から説明を受けたばかりの話に彼女は閉口した。三日月もそのうちの一振のはず。面と向かって「主のいないあぶれた刀剣男士です」とは言えなかった。だが三日月のほうは声を上げて笑うと、手をひらひらと振る。
    「よいよい、その顔では髭切から説明を受けたんだろう。まあ要は、あれの言うとおり『はぐれ』ということになるな。主を持たぬモノ、政府所属とはいえモノとしては誰にも属さぬ刀剣だ、間違いではない。うむ、俺は以前各本丸へ配布されるはずだったんだが……なに、行く先だった本丸に既に俺がいてな、返されたというわけだ」
     返す、という言葉に彼女は勝手に傷ついていた。モノ、なのだ。扱いが。だがそれを敏感に悟ったのか、三日月はよしよしと彼女の頭を撫でる。
    「そう落ち込むな。モノにも縁はある。それに、俺も今は主のいる身だ」
    「えっ?」
    「はっはっはっ、そのうちそなたに話相手でも頼むやもしれん。前線で負傷したそなたくらいの年の女子でな、今は療養中だ。それで俺には時間があるゆえ、こうしてまだ政府の仕事を手伝っているというだけのこと。まあともかく、こういうことは縁だ。そなたと髭切の間も、それで繋がれている。だがなあ……」
     そこでひとつ、三日月は言葉を区切った。それから
    「あの髭切にとっては、主はそなたで二人目だ」
    「……え?」
    「とはいえ、あれも詳細は覚えていまい。記憶していても主は二人目、くらいのことだろう。忘れてしまったからなあ……仕方がない。だが二人目は二人目だ」
     何を言われているのか理解できない。
     しかし二人目、ということは自分の指導に当たる前にあの髭切は誰かの刀剣男士だったということだ。それが何故、今ここで、政府所属の刀剣としているのだろう。
     そんな当たり前の問いを三日月は理解しているようで、うんとひとつ頷いて答える。
    「あれの前の主はな、あれの目の前で死んだ」
    「死んだ……?」
    「不運にも襲撃に遭ってな、為す術がなかった。俺はそのとき救援に向かった刀剣だった。髭切も練度が低く、顕現したばかり。太刀打ちができなんだ。俺たちのような政府所属の刀剣男士は皆そうだ。何かしら、訳があってここに流れ着いた。主はなくとも、この力をヒトの子のために使いたいと願って。あれは本丸が解体されたとき、本霊には還らず残る道を選んだ。だがそのとき、俺はあやつと約束してしまってなあ」
     本霊には還らない。けれどすぐには力も貸せない。ここで、新しい主が来るのを待つ。だからそのときが来たら、約束してくれるかい、三日月宗近。今度はきっと――。
    「俺たちはモノ、鋼の身をもつ刀剣。けれどそなたたちはヒト、俺たちよりずっと脆い。瞬く間に死んでしまう。それを髭切は何よりもよくわかっている。だからそなたに、死なぬ道を示すことを選んだ。そなたのような若い女子が、『審神者の矜持』なんてもののために死なぬ道を。自分の命を一番に考えるように……。あれはモノに寄り過ぎている。そなたの切なさもまた、間違ってはおらん」
     ぽた、と彼女の目から涙が滴って落ちた。じわりと滲んだ瞳を伏せるが、それは止まらないで後から後からあふれて来る。嗚咽をかみ殺して体を縮こめる彼女を、三日月が肩を抱くようにしてとんとんと叩く。ただでさえ不確かな視界は藍色に染まった。
     温かい、体温のある手。髭切と同じ。このモノたちは確かに生きている。それなのに。
    「三日月宗近、僕の主を泣かせてどうしたの?」
     穏やかだけれどどこかぴんと張った声がして、彼女はぎくりとした。髭切だ。
     面談の時間を超過している、きっと心配してここまできたのだ。ふわりとあの日向の匂いが鼻を掠める。慌てて目を擦ってみれば、髭切は彼女を抱え上げていた。
    「……髭切さん」
    「何か言われたの?」
     顔を覗き込んでそう問われ、彼女は何から言っていいやらただ視線を惑わせた。三日月のほうがふうと息をつき助け舟を出す。
    「髭切の太刀、言うただろう? この娘はまだ幼く年若いヒトの子。お前の調子で喋ってはわからぬこともある。随分悩んだようだぞ?」
    「ありゃ、そうなの? どうして?」
     よいしょと髭切は彼女を先ほどまで座っていた椅子に降ろした。柔らかに微笑んだ三日月は代わりに立ち上がる。
    「俺が席を外そう。しっかりと話すといい。それが互いのためだ」
     ガチャリと扉が閉まった。まだ三日月の淹れた緑茶の香りがする室内は、彼女と髭切のみになる。髭切は小首を傾げて屈みこんだ。
    「どうしたの? 何か三日月宗近に怒られた?」
    「……っ、違い、ます」
    「じゃあ政府かな? 大丈夫だよ、君なら立派な審神者になれ」
    「違いますっ!」
     半ば叫ぶようにしてそう言った。違う、そうじゃない、自分は。
    「私は審神者には、なれません……っ!」
     今まで、どこか審神者になることは他人事だった。勉強していても、どれだけ訓練をつんでも、それは教科書の上の出来事。自分のことではなかったのだ。
     刀剣男士のことを図鑑では知っていても、目にしたことなんてなかった。本当は暖かい体温があって、彼女と同じように食事をして、眠って。あまつさえ笑うだなんてこと知らなかった。教わった彼らは神様で、戦う武器で、強くて。自分と近しいものだなんて想像もしたことがなくて。
     でも今は、わかってしまった。
     彼らがどれほど純粋に、主と呼ぶ人間を慕うのか。生きていてほしいと願っているのか。自分たちはモノだからと、彼女たち人間と自分たちを分けて、度外視しているのか。
     その真っ直ぐさに、自分は答えられない。
     応えるだけの、覚悟が足りない。
    「大丈夫だよ。言ったじゃないか、僕が立派な審神者にするって」
    「ちが、違うんです、そうじゃない……っ怖い、怖いんです」
     泣きながら首を振る彼女の両手を髭切はやんわり掴んだ。その手の感触にも、もう何かを感じずにはいられない。
    「戦が怖いのかい? 戦うのは僕たちだから大丈夫だよ。君には怪我なんかさせないから」
    「でもっ、でも髭切さんは怪我するかもしれないじゃないですかっ!」
    「あはは、僕の怪我は平気だよ。だって僕は刀で」
    「違うっ!」
     違う、そうではない。刀じゃない。
     首を振って、彼女は髭切に手を掴まれたまま膝をつく。
     確かに、彼らはヒトではない。でも、モノでもない。もう、物言わぬ鋼ではないのだ。ヒトと同じ体を持ち、体温を持ち、脈を打ち、そして。
    「生きてるじゃ、ないですか……っ」
     彼女と同じように、生きている。
     そんな大きなもの、背負えない。恐ろしくて、できない。
    「ごめんなさい、私、審神者にはなれません、ごめんなさい……っ」
     泣きながら膝を折った彼女を、髭切は無言で見下ろしていた。きっとがっかりさせてしまっただろう。だから彼女はそちらを見ることもできなくて、そのまま涙をこぼし続ける。何かを言いかけたのか、髭切がスゥと息を吸ったとき、けたたましくスピーカーからサイレンが鳴り始めた。耳を劈くようなその音に彼女はびくりと肩を震わせる。何度か授業で聞かされた音だ。
    「……何? この音」
    「っ敵襲です、どうしよう」
     大変だ、何だってこんなときに。とにかく髭切を安全なところへ、と彼女が立ち上がるよりも先に髭切は彼女を一息に抱き上げた。「しっかり掴まっているんだよ」とだけ言うと、そのままどこかに向かって走り出す。
    「ひ、げきりさ、どこへっ」
    「安全なところだよ。舌を噛んじゃうから、少し黙っていてね」
     カッカッカッと革靴の音を立てて、髭切は一直線に廊下を駆け抜けていった。サイレンは絶え間なく鳴り響いていて、政府の建物の様々なところが騒がしくなっていく。そのうちガシャガシャという金属音が聞こえ始め、戦闘が始まったのだと彼女は悟った。
     ガコンと足でドアを開け、髭切はいつかの倉庫へ飛び込むとそのまま奥へ奥へと進んだ。そして彼女を片腕で抱き上げたまま大きな長櫃をひとつ棚から取り出し、髭切はそのまま彼女をその中に入れてしまう。大切なものをしまいこむかのように、そっと。
    「髭切さん!」
    「いい子、いい子。外が静かになるまでは、ここから出ちゃだめだよ。静かになったら、ここから出て、えーっと、指示は受けているよね、避難場所。とにかくそこに行って、他の子達と合流してね」
    「で、でも、髭切さんは? だめです、このまま戦ったりしちゃ、死んじゃう!」
     離れていこうとした髭切の手を掴んで彼女が聞けば、髭切は琥珀色の瞳を一瞬だけ見開いた。しかしすぐに笑って彼女の頭を撫でる。
    「あはは、うん、僕は大丈夫。平気だよ、だって僕は刀だからね」
    「だめです、戦闘なんて準備もしてません! 練度だって!」
     髭切は政府所属とはいえ、ずっと彼女の監督役として付き添っていてくれただけだ。刀剣男士としての練度は高いものではない。だが髭切はにこりとすると首を振る。
    「大丈夫、大丈夫」
     髭切は宥めるようにして彼女の髪を撫で続けた。しっかり掴んだはずの手がするりと解かれる。それから髭切はよいしょと再び長櫃の蓋を持ち上げた。閉じてしまうつもりなのだ。彼女一人をここに隠したまま、自分は戦いに行くつもりなのだ。
    「待って、髭切さん、待って!」
    「主を守るのはね、刀の僕の仕事なんだ。たとえ君が、審神者じゃなくても」
     薄暗い倉庫の中、微かに入ってくる光が髭切の金の髪に反射する。彼女から見れば逆光になるその姿は、やはりこの世のものとは思えないほど美しかったけれど、確かに自分と同じ形をしていた。
    「ねえ、一人前の審神者じゃなくても、確かに君は僕の『主』だったよ。ありがとう。それじゃあ、元気で、いい子でいてね」
     そんな、今生の別れのようなことを言わないで。
     しかし髭切は彼女がそう言う前に櫃に蓋をしてしまった。何か封のようなものをされる音と、ずりずりと再びその櫃を動かしてどこかに隠すような音と振動が伝わってくる。それからあの軽やかな靴音が遠ざかり、長櫃の中は暗闇と静寂に包まれた。
    「髭切さん……?」
     小さくそう呟き、長櫃の蓋に手を当てて彼女は外の様子を伺う。何も音がしない。聞こえるのは、彼女の呼吸と心臓の音だけだ。このまま何も起きないでいてほしい、どうかこのまま、ここには誰も来ないで。
     そう祈るような気持ちで蓋に縋っていたのに、とてつもない破壊音が響き彼女は息を呑んで今度はそこから離れる。甲高い金属音が響き始めた。敵襲だ、ここまで時間遡行軍がやってきたのだ。
     頭の中を高速で今まで勉強してきたことが駆け巡る。恐れてはならない、恐怖は隙を生む。その瞬間に、命は絶たれてしまう。長櫃の中で彼女は膝を抱えて蹲った。
     だが、怖い、怖い、怖い! そんなことを言ったって、怖いものは怖いとも。だって、普通にしていたかったのだ。それなのに、こんなところでこんな目に遭って。逃げられるものなら逃げたかった。逃げたかった、けれど。
    「主」
     嬉しそうな、笑みが頭を過ぎる。金色の、ふわふわの髪。笑ったとき僅かに覗く八重歯と、あのビー玉の瞳。なんだって、あんなに幸せそうな顔でこちらを見たのだ。
     ぐうと唸って彼女は一層小さく体を縮めた。何もできない、何もだ。審神者ではない自分には、何も。しかし彼女が動いた拍子にころころ、と同じ長櫃に入っていたらしい何かがぶつかってきた。それを見てとり、ぐっと彼女は唇を噛み締める。遅かれ早かれ、このままではきっと髭切は「折れて」しまうのだろう。自分たちのそれはヒトの「死」とは違う、ただ「壊れてしまう」だけだからと髭切は笑ったが……。
    「そんなの、わかんない……っ」
     口の中で血の味がした。きっと、唇が切れてしまったのだろう。しかし彼女はそのまま歯を食いしばり、思い切り長櫃の蓋を蹴り上げた。
     封を破るガコンという音とともに新鮮な空気が一気に櫃の中に流れ込み、視界も明るくなる。そして一番に感じ取ったのは血の匂いだ。しかしそれに怯んでいる場合ではない。彼女は長櫃の中のものを持てるだけ持って飛び出すと、金属音のするほうへ走り出す。
    「髭切さんっ!」
     震え、しっかり立てない膝を無理矢理動かす。いくつか角を曲がったとき、あの白い上着が翻った。
    「髭切さんっ!」
    「……君?」
     よかった、また折れていない。手を真っ直ぐと、髭切の方へ差し出した。
     金色の髪を揺らして振り返った髭切は、相手をしていた遡行軍を力任せに叩き斬ると、彼女が伸ばした手を掴んだ。それから手を握ったままで背に庇い、前方に注意を払ったまま眉根を寄せる。まだ、敵は殲滅しきったわけではない。
    「僕の教えたことを忘れてしまったの? こういうときは隠れてって」
    「嫌ですっ!」
     声を途中で遮り、彼女は髭切に手にしていたものを押し付けた。
    「……これ」
    「髭切さんは私に死ぬなって教えました、でも、その髭切さんが自分の命を大事にしないなら、私に教えたことはまるきり嘘じゃないですか!」
    「だから、僕は」
    「刀じゃありませんっ! 今の髭切さんは、ただの刀じゃないっ!」
     髭切は僅かに唇を開いたまま、琥珀色の瞳を彼女に向けた。
    「だから私に生きろって言うならっ、髭切さんも同じくらい幸せに、生きていなきゃそんなの嘘ですっ!」
    「……君」
    「よそ見してないでください、敵、来ますっ!」
     髭切にその金色の球体を押し付けたまま叫ぶ。長櫃に保管されていたのは刀装だった。太刀に装備できる刀装は完璧に覚えている。だからありったけを持ってきて、破壊されたら次を渡す。その為に、この手は離さない。彼女は初めて、自分から髭切の手を握り返した。
     ハッとして髭切は正面に向きなおる。獣の瞳で、犬歯を覗かせ髭切は低く呟いた。
    「盾兵、装備する」
     歪な叫び声をあげて上から叩きこまれた敵の刃を、ギィンと金属音が受け止めた。まだ練度が低いため、髭切は二つまでしか刀装を装備できない。けれど特上の盾兵が二つもあればそれで十分だ。ぐっと踏み込むと髭切は遡行軍の刀を弾き、その勢いのまま喉元を突いた。
    「ギィエアアアアアッ!」
     パキンと刀装が砕ける音がする度、彼女は手にしていた別なものを髭切に渡した。その為に決して手は離さずに、髭切が進み、飛び退る度に同じように駆け回る。
     隠れていることも、自分の生存率を上げる。しかし絶えず離れずにいることも然りだった。
     ジュッと黒い陽炎のような煙が上がり、最後の遡行軍が倉庫から消える。ハッハッと短い息を吐きだし、肩を揺らした髭切ともう指を解くことも忘れてしまった彼女が立ちつくし、それからぺたりと座りこんだ。
    「は、はあ、ねえ、君」
    「っ、う、うえ、うあああっ」
     こちらを振り返った髭切がぱちぱちと目を瞬いてその瞳を見開く。だがもう涙も嗚咽求めることが出来ず、彼女はわんわんと声を上げて泣いた。
    「こわ、怖かった……っ、怖かったああっ」
     もう二度とこんなこと嫌だ。思わず勢いで走り出してしまったけれど、やっぱり審神者にはなれそうにない。絶対に、絶対に無理だ。さっさと退学届を出してここを出て行こう。
     それに、こんな泣きわめく子どもが主なんて髭切も嫌なはず。そう思って遠慮なく大声でそうしていたのだけれど……不意に、体が宙に浮いた。
    「……え?」
    「あはは、決めた、決めたよ」
     血みどろで、笑顔満面の髭切が自分のことを抱き上げている。とりあえず彼女はそれだけ理解した。膝から抱えられているせいで、金色でふわふわの髪やきらきらとした瞳がよく見えた。
    「幸せに生きるなら、僕は君とがいい」
    「えっ?」
    「君が言ったんだよ? それにもう決めてしまったからね。僕は君と幸せになるよ」
     嘘、え、嘘でしょう。
     一気に涙が引っ込んで、彼女は今度は悲鳴を上げた。
    「それは嫌ああああああっ!」
    「あはは、だあめ。もう僕が決めてしまったんだから、ねえ主」
     笑いながら彼女の胸に頭を擦り付けてくるその刀は、やっぱり日向の匂いがした。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/02/17 15:27:06

    できればあなたとは幸せになりたくない

    人気作品アーカイブ入り (2023/02/20)

    #髭さに #刀剣乱夢 #女審神者
    審神者見習いと教育係の髭切の話。

    2018年にpixivに後悔していたものの再録です。
    多少の修正と加筆をしています。

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