イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    青柳の窓

    「手のひらを、貸してごらんよ」
     珥加理、漢字だとそう書くのだと彼はそう言った。指先で彼女の手のひらをなぞって字を書く彼は、どことなく楽しげだ。
    「にっかり青江、これが僕の号。君も変な名前だと思うだろう? だから、青江って呼んでくれればいいよ」
    「……青江」
    「そうそう。でも漢字も覚えていてくれると嬉しいなあ。一応、今日から君の旦那様の号だからねえ」
     まだ二十歳にも満たないその変な名前の青年が、今日から彼女の夫だった。



     芸事と仏門に明るい名家、青江。元を辿れば武家らしいが、今は武芸含め花や茶、さまざまなことで身を立てているものが多い家だ。この家の子はそれぞれ得意なものや印象に残った逸話を元に号を受けるらしく、その中で彼女の夫に当てられたものはずいぶんとインパクトのある名前だった。
     「にっかり青江」、今は家の計らいで帝国大学に通う学生の身。青江の本家筋の息子で、跡継ぎではないけれど、この若さで号をもらっている以上、ゆくゆくはそれなりの役目を負わされるだろうということが予測されるまだ若い青年だ。
     彼女の実家は、青江の一門ほどではないがそこそこの財力と権力を持つ貴族といったところだろうか。とにかくなぜだか名門の青江の家から縁談が持ちかけられて、急にその「にっかり青江」の嫁になった。正直青天の霹靂である。いつかは嫁に行くと思っていたが、まさかこんな名家に行かされるとは。しかも見合いから結婚までが随分ハイスピードだった。もうほぼ結果の決まった縁談だったらしい。まあそれ自体はそう珍しいことではないけれど、それでも驚きはした。そしてさらに彼女の度肝を抜いたのはこの夫本人である。
    「あ、青江さん、そろそろ朝ですから、起きましょうよ」
    「う……なんだい、まだ早いよ……僕は講義が午後からなんだよねえ」
     朝が弱い青江は呻きながら長い髪を乱し、枕に顔を埋める。ついでに彼女の腹に腕を回して引っ張ったので、起こそうと半身を起こしていた彼女は見事に再びベッドに転がった。ぎしりとスプリングが鳴る。彼女はあああと顔を覆いながら再び起き上がることを試みたが、青江の腕はやや女性的な容姿に反し結構がっしりとしていて彼女を離そうとしない。そしてもっと言えば、その腕は何も着ていなかった。
    「んっふふ、お疲れ様。式、肩が凝ったんじゃないかい?」
    「い、いえ」
    「おやおや、小さい体なのにお盛んだねえ」
     瞬く間に迎えた結婚式の夜、青江はそういって微笑んだ。青江の家はモダンなつくりの洋館である。もう夫婦だからと同じ部屋に彼女の荷物は運び込まれ、当然ながらベッドもひとつだった。窓辺に座った青江はにこやかに笑みを浮かべたまま、長い髪と白いレースのカーテンを風にそよがせていたが、正直彼女はそれどころではない。
     結婚式の夜、包み隠すことなく言えば要は初夜である。ベッドがひとつの時点でもう逃げ場はない。実は生まれてこの方ほぼ女性だけに囲まれて生きてきた彼女は、既にキャパシティを軽くオーバーしていた。夜に男性と二人きりで、しかもこれから一緒に眠らなくてはならないなんて。羞恥と緊張とそれからその他諸々の何かで死にそうだ。いやもう心が半分死んでいる。無理だ、耐えられない。
     パタンと青江は開け放っていた窓を閉めた。その外では柳が揺れている。一歩一歩確実に傍に歩み寄って、青江は彼女の正面に立った。
    「さて、今日から僕が君の旦那様で、君は僕の奥さんだよ。よろしくね」
    「は、はい、こちらこそ」
    「そう硬くならないで、僕たちこれからずっと一緒にいるんだよ?」
     くすくすと笑いながら、青江は小首を傾げてそっと彼女の肩に触れる。もう式用の豪奢なドレスやら何やらを脱いで薄いナイトドレス一枚だった彼女は、急に感じた青江のややひやりとした指に、派手に肩を揺らしてしまった。
     まずい、と思った。これから夜を共にするというのに、少し触れられただけでこんなにびくついてしまうなんて。彼女も流石に自分の反応が青江の気分を害するだろうものであることはわかっていた。だが震えは止まらないし、顔を上げて青江の方をまともに見ることもできない。
    「ご、ごめんなさ、わたし」
     俯いて何とか謝罪をしたとき、今度は青江が下から顔を覗き込んできた。ぱちりと金がかった緑の瞳と視線がかち合う。そして彼はにかっと笑った。
    「それっ」
    「えっ、あっわ、わああああああ!!」
     ぱっと青江は彼女を抱き上げたかと思うと、ひょいとそのままベッドに投げ出した。柔らかなマットレスの上で体が弾んだかと思えば、潔く服を脱ぎ捨てた青江がそのまま布団の中にもぐりこむ。早い、脱ぐのがとても早い。
    「さあ今日は疲れたし寝るとしようか」
    「ふっ、服っ! 青江さん、服っ!」
    「僕は寝るときに服を着ない派閥でねえ。君はどうなんだい?」
    「着ますよっ! 当たり前に着ますよ!」
     むしろそんな派閥初めて聞いた。そんなのあるのか。彼女が知らないだけで、世の中にはそういう人間もたくさんいるのだろうか。
    「ふうん、あと僕は冷え性なんだ。だから寒いと君に引っ付くかもしれないけれど、慣れておくれよ」
    「ひっ、ひっつ」
    「別に普通だろう? 僕たちは夫婦なんだから」
     腕を伸ばしてぱちりと明かりを消してしまうと、青江はそのままよいしょと掛け布団を肩まで被る。ついでに彼女にもぽんぽんと掛けてくれる。それから笑って「おやすみ」と目を閉じた。一応気になって、彼女はおずおずと口を開く。
    「……あの」
    「うん? 大丈夫だよ、何もしないから。僕は嫌がる女の子を抱く趣味はないんだ。はじめてみたいだしねえ、君」
     かあっと顔が赤くなる。そのとおりだが、こうもあけすけに言葉にされると、どうも。
     目を閉じたまま青江は唇だけを緩めて、とんとんと彼女の肩を叩いた。まるで子供を寝かしつける親のような仕草だった。しかし確かに今日は疲れており、こうも柔らかな布団で、しかも服を着ていない青江の暖かな体温まであると眠たくなってくる。
    「髪、解かないと……結ったあとがつきますよ……」
     とろとろと重たくなってきた瞼を瞬かせながら、何とかそう声をかけるときらりと一瞬だけ彼の瞳が光った気がした。
    「いいよ、眠っている間に君の目に入ったら、大変だからね」
     低く、どこか飄々として歌うような青江の話し方は、緊張していた彼女の耳にゆっくりと染みわたるような心地よさだった。それでしっかり寝てしまい初夜を過ごしたので、彼女と青江との間にまだ身体的な夫婦関係はない。
    だが、まだ一向に彼女は青江が全裸で眠ることに慣れてはいなかった。というか無理だ、どうやったって無理だ。だから勢いをつけてしまわないと、彼女は今だに寝起きの青江と接することはできない。
    「っ青江さんっ! 今日は青江さんが講義に行く前に歌仙が来るんですっ! お忘れですかっ!」
     そういった瞬間、青江はぱっと目を見開いた。それからがばりと起き上がる。いきなり肌が晒されたものだからひえっと声を上げて彼女は視線をそらした。
    「それはいけない」
    「そ、そうですよ」
    「きちんとした格好をしていないと、何て言うかわからないからねえ。いきなり君が実家に戻されては大変だ。起きるよ」
    「そうしてください……」
     青江はベッドから離れるとその辺に適当に放ってあったシャツを羽織る。彼女もほっと一息ついて着替えを選んだ。念入りに、慎重に、一枚一枚彼女は服を見る。下手なものは着られない。そういう来客だ。髪も結い上げてまとめてしまう。そうして言ってあった時間通りに、歌仙兼定は青江邸の呼び鈴を鳴らした。
    「まずは結婚おめでとうだね。家を代表して祝福を申し上げる。美しい花嫁だったよ」
     上質な着物に身を包んだ歌仙が、品のいい笑みを浮かべてそう言った。彼女はそれに答えるように微笑んで頭を下げる。
    「ありがとう、歌仙。和泉守も元気にしている?」
    「ああ、君がいなくなって静かになったなんてやかましいけれど、あれは寂しいんだよ。また顔を見せておやり」
     芸の一門兼定は、彼女の親戚に当たる家だ。とはいえそこまで近い血筋でもないのだけれど、彼女の家と兼定の本家は地理的に近かったこともあり、そこの現当主名代歌仙兼定は彼女の兄貴分だった。女だらけの彼女の環境の中で、唯一といっていい親しい男性である。歌仙は彼女の長い髪を撫でて微笑む。
    「お嫁に行かれても、君と僕との関係は何も変わりやしないよ。幸い、青江と兼定とは関わりのない間柄というわけでもない。青江が何かしたら、すぐに僕に言いなさい」
    「おやおや、まるで僕が何かするみたいな言い方だねえ。君と僕も友達なのに、つれないなあ」
     んっふふと笑いながら、彼女の隣で青江が珈琲片手に足を組みなおす。むうっと歌仙は青江に視線をやって念を押した。
    「確かに君は僕の数少ない友人だけれどね、この子は僕の大切な妹なんだ。泣かせたら首を差し出してもらうから覚悟しておいてくれ」
    「それはシスコンってやつじゃないのかい、歌仙」
    「もう一度言ってごらんよ」
     やいのやいの言い合っている二人を、彼女は不思議な気持ちで見ていた。実は嫁に来てから初めて知ったのだが、歌仙の言うとおり二人は元々友人同士だったのだ。歌仙はこう見えて結構な人見知りで交友関係も狭いから、これには彼女もたいそう驚いた。聞けば彼女も出席していた社交界の集まりなんかでも、歌仙は頻繁に青江と顔を合わせていたらしいのだが、まったく覚えがない。てっきり自分は青江と見合いの席で初対面なのだと思っていたが、違ったらしい。
     周りが見えていなさすぎる。彼女は若干、自分にげんなりした。
    「とにかくっ、この子を辛い目に遭わせたら承知しないよ、いいね青江」
    「はいはい、心配性だねえ」
    「君も……きちんと連絡を寄越すんだよ。無理もいけないからね」
    「うん、……ありがとう、歌仙」
     ではね、と歌仙は彼女の手を握って青江の屋敷を後にする。遠ざかる車を、彼女はじっと見つめていた。
     歌仙兼定は、彼女の初恋である。



    「それで、首尾はいかがですか?」
     くすくすと笑いながら少女は青江に緑茶を差し出した。青江ははあと息をつきながらもそれを受け取って微笑む。
    「まずまずだよ。結婚まで取り付けたのはいいんだけどねえ、まだちょっと形勢不利かなあ」
    「まあ……、じゃあ頑張らないとですね」
     にこやかに笑うその表情からは、以前のような陰鬱さは感じられない。青江はそれに安堵した。引越しでばたついたようだったけれど、やはり本家を出たのは彼女にとっていいことだったらしい。
     最近石切丸とその許婚はやっと籍を入れて本家の邸を出、帝大から程近い場所に居を構えたのである。「小さい家だけれど、住みやすいよ。遊びにおいで」と石切丸に言われたから顔を出したが、なるほど確かに住みやすそうな陽射しのさすいい家だ。
    「頑張るのもいいけれど、後数回で私の講義は出席が危ういよ、青江」
     そんな和やかな空気に笑顔で割りいって来るのは正式に少女の夫となった石切丸である。石切丸は「私にもお茶をおくれ」なんていいながら、ごく自然に少女に寄り添った。幸せいっぱいという様子が微笑ましくもあり、現在の青江には目に毒でもあり。
     茶菓子に手を伸ばしながら、もうひとつ息をついた。
    「何が引っかかっているのかな」
     少女がお茶のお代わりを淹れにいったのを見計らって、石切丸は笑みを浮かべながら青江に問う。青江は肩を竦めて答えた。隠していたって仕方がないのだから、言ったほうが得策なのだ。
    「恋敵が強くてねえ、なかなか」
    「おや、初恋の相手をまんまと妻に射止めたと聞いたけれど。違うのかい?」
    「僕からしてみればそうだけど、相手からしたらそうじゃないってことさ」
     青江と彼女が出会ったのは、もう随分昔のことだ。青江には今でも鮮明に思い出せることだが。けれどそのときから、彼女の恋する相手は自分ではなかった。それもよく、わかっている。
    「宗三君のことじゃないけどさ、ままならないよねえ。しかも相手が幸せならいいなんて宗三君みたいな優しいこと思えないんだよねえ、僕」
    「ふふ、私はそれでもいいと思うけれど……。ねえ、奥方はきっと青江のことをまだよく知らないんだよ」
    「僕のこと?」
    「ああ、そうだよ。だって認知もされていなかったんだろう?」
     笑顔で結構ぐさりと来ることを言う。だが石切丸はそう言うところが前からあったから、青江は何も言わない。だってそれは、間違っていないのだから。
    「もう籍も入れて、奥方は晴れて君の妻なんだから。あとは君を知ってもらって、好きになってもらえばいい。私と同じだと、思うけれどね」
     石切丸は竜胆の色をした瞳を和ませて、厨の奥にいる少女を見つめた。彼女もまた、最初は自分の意思と関係なしに連れてこられた許嫁。だが長い間を共に過ごすうちに、育つものは確かにあった。
     青江はじっと手にした空の湯呑を見つめる。
    「ほら、それに君は案外優しくて根は真面目だから。きっと奥方も好きになってくれるよ」
    「……励ましているようで全然そうじゃあないね。でも、ありがとう。知ってもらえるようにするよ、僕のこと」
     ごちそうさま、と空の湯呑を卓袱台に置いて青江は立ち上がった。石切丸夫妻に見送られながら、日当たりのいい小さな家を後にする。
     石切丸の助言は、大まかに正しいものだった。けれど、一つ間違っていることがある。
     青江は、優しくなんてない。少なくとも青江は自分をそうは思っていなかった。



     一緒に帝大に行こうと言いだしたのが、きっかけだった。柳の揺れる窓を開け放ち、青江は白い上着を彼女に投げかける。
    「て、帝大ですか?」
    「そうだよ、僕の通っているところ。僕と君とは年も近いし、最近は女学生も増えたから平気さ。さ、行こう」
    「えっ、えっと、な、なんでっ!」
     青江の家にいて何かをしているわけではないけれど、かといって知らない人だらけの帝大に放り込まれるのもそれはそれで怖い。しかし青江はそんな彼女の様子をてんで気にしないで、箪笥からモダンなワンピースを取り出して彼女に渡す。
    「今はこういうのが流行っているらしいから」
    「で、でも私、洋服は」
    「おやおや、着るのは苦手かな。僕が着せてあげるのもやぶさかじゃあないけど。どうする?」
    「そこは女中さんを呼んでください!」
     くすくすと笑っている青江を追い出して、彼女は女中にワンピースを着せてもらった。もうこうなればどうとでもなれだ。青江がついていてくれるのだから、何とかなるだろう。
     今まで彼女は家で和装をしていることが多くて、洋装はなんだか心許ないけれどどこか新鮮な気持ちだ。ボタンを上までしっかり留めて、一緒に出されたブーツを履く。早く早くと青江が手を引くので、彼女は慌ててそれに付き従った。
    「……おや、にっかり。どこへいくのですか」
    「ああ、数珠丸。帰ってきたんだね」
     玄関先で、長身で痩躯の男性が女中に荷物を預けている。青江と同じような長い髪のその人を、彼女は見たことがない。青江は彼女の手を引いて自分の隣に導くと、笑顔で紹介した。
    「数珠丸は式にいなかったから初対面だねえ。僕の奥さんだよ。僕の兄、青江の当主、号は数珠丸恒次」
    「おっ、お兄様、ですかっ?」
     色が白くふわふわとした髪を流したその人は、伏し目がちの穏やかな表情で、素っ頓狂な声を上げた彼女のほうを向いた。随分背が高いため、見下ろされるような形になって萎縮する。けれど青江が後ろから彼女の背を支えて、大丈夫大丈夫と繰り返していた。
    「ああ、あなたが……。御挨拶が遅れました。外遊に出ていまして、式にも間に合わず申し訳ありませんでした。にっかりの兄、数珠丸と申します。弟を末永く、よろしく申し上げます」
    「はっ、初めまして……!」
     青江とは随分雰囲気の違う兄だった。だが酷くとっつきにくそうな容姿とは異なり、ふわりとした笑みを浮かべてその人はこてんと首を傾げる。
    「ふふ、元気のいいお嬢さんのようですね。にっかり、またあとで話は聞きますから。大学へ行っていらっしゃい」
    「んっふふ、わかったよ数珠丸。夕食で会おうね。さ、行こうか」
     ひらりと数珠丸は白いグローブの嵌められた細い手を振って二人を見送る。青江は彼女の手を引いたまま迎えの車に乗り込み、運転手に「帝大まで」と告げた。
    「き、綺麗なお兄様ですね……」
     ふうと息を吐いて、彼女はやっとそう言った。すると青江は頬杖を突いてくすりと笑い、彼女の長い髪をくるくると指に巻きつけて遊ぶ。
    「おや、僕の奥さんは僕の兄さんの方が好みかな」
    「い、いやちが……っ一般論の話です!」
    「ふふ、わかるよ。でも数珠丸が綺麗なのは見かけだけだから。あれでいて力もとても強いんだ。僕は一度だって喧嘩に勝てたことがないよ」
    「ええっ?」
     あんな細い腕をして? 彼女は今しがた見た数珠丸の白魚のような手や、ぽきりと簡単に折れてしまいそうな足腰を思い返した。青江の、結構がっしりとした体格とは随分違うように思える。
     けれど青江の一門は元は武家。武芸百般を修めた名家だ。それも当然なのかもしれない。
    「数珠丸は仏門に明るくてね。今は当主としてそっちで身を立ててる。君も知っていると思うけど、青江はそれぞれが自分の得意なことを活かして生きていくから。だから号も、数珠なんだよ」
    「なるほど……。では頭のいいお兄様なんですね」
    「そうだね。お正月なんかは説法を聞かされたりするよ。途中で居眠りをすると容赦なく喝が飛んでくるから、君も注意するんだよ」
     笑いながら、青江はそう言った。それから続けざまに親戚の話を語って聞かせてくれる。
    「少し遠いんだけどね、仏門だけじゃなくて神職に行った人もいる。太郎さんにもしばらく会っていないなあ。式にも忙しくて来られなくてね。それから古備前、長船は血の繋がりはなくても同郷のよしみで親しい。そのうち一緒に挨拶に行こう。鶯丸さんはきっといいお茶を出してくれるよ」
     大学についてからは、様々な知人を紹介してくれた。もう帝大は卒業したものの、女学校で講師をしているため図書を借りに来るという武家左文字の次男坊、宗三左文字。華族の名門三条の本家筋でありながら、大学講師なんかしている石切丸。同じ弓道場に通っていたのだという軍門粟田口の兄弟に、それから、それから。
     青江は随分顔が広いのだなあと彼女は思った。今まで、彼女は女学校に家に、あと精々が歌仙と、かなり狭い世界で暮らしてきた。だから一日の内にかなり視界が開けた気がして、目を瞬かせる。
     そのうえ青江はこっそりと講義にも彼女を潜り込ませた。大きな教室だから大丈夫だなんて言って、二人並んで講堂に座る。とはいえそれまでの授業を受けていないし、彼女には教授の言うことなどちんぷんかんぷんだ。だがそれは隣から青江が「ここは先週言ったんだけれどね」とか「ここを読めばわかると思うよ」なんて小声で教えてくれた。
     帰りは歩いて帰るからと青江が運転手に伝えてあったので、彼女と青江は日が落ちかけた頃に帝大の門を出た。青江は疲れているなら乗り合いバスを使うと言ってくれたけれど、何となく彼女も歩きたい気持ちだったのでそれは断る。
    「んー、これで今日の講義は終わりだ。疲れていないかい、君」
    「いいえ、ちっとも」
     むしろどこか晴れやかな気分だ。知らないことをたくさん知って、たくさん学んで、多くの人に出会って。なんだか胸がどきどきして、高揚した心がぽかぽかとしている。
    「毎日、青江さんはこんな風に勉強して、お友達と過ごしているんですね。ふふ、私とても楽しいです」
    「……そうかい」
     青江が瞳を細めて微笑んだので、彼女は何となく気恥ずかしくなって俯いた。すると真っ直ぐにこちらに手を差し伸ばされる。手を繋ごうという動作なんだなと察して、彼女はおずおずとそれに触れた。やはりどこかひんやりとしている手が、ゆっくり確かめるように彼女の手を握って、それからしっかり掴みなおす。
    「ねえ、せっかくだからさ、ちょっと散歩をしようよ。それとも真っ直ぐ家に帰りたいかい?」
    「……いいですよ」
    「んっふふ、嬉しいなあ」
     青江と手を繋いで歩く。青江の来ているジャケットが、長い髪が、夕暮れの優しい風にはためいていた。時代が変わって随分モダンになった街並みは、道も石畳だ。青江のブーツと、彼女のブーツとが交互に音を立てる。車が傍を通って行って、青江が「おっと」と手を引いて彼女を道から遠ざけた。がたんごとんと路面電車が道をゆく。
    「今日、どうして大学に誘ってくれたんですか?」
    彼女が問えば、青江はくるりと振り返る。それからにこりと笑った。
    「君に、僕のことを知ってもらおうと思ってね」
    「青江さんのこと?」
    「うん。だって僕達、夫婦じゃないか。これから一緒に暮らして、生きていくんだから。僕のことを知って、好きになってもらわないと」
    「う、えっ?」
     あまりにストレートな物言いに、かあっと頬が熱くなる。青江は愉快そうに唇を緩めた。手を引かれて、再び歩き出す。
    「だからさ、僕のことで知りたいことがあれば何でも聞いてほしいなあ。だって僕達、夫婦なんだよ。末永く、仲良くしないとねえ」
    「は、はい……」
     長く揺れる髪を見つめているうち、彼女はふと疑問に思って口を開いた。そういえば、知りたいことが一つあるのだ。
    「あの、どうして『にっかり』、なんですか?」
     ぴくりと彼女の手を握っている指先が震えた。それからこちらを振り向いて、太めの眉をやや下げて首を捻る。
    「やっぱり気になるかい、それ」
    「ご、ごめんなさい、聞いてはいけないことでした?」
    「……いいや」
     はあ、と息を吐いて青江は立ち止まり、彼女の手を離して石の欄干に頬杖を突く。彼女も黙って隣に立った。夕日がきらきらと反射した川のほとりで、柳がゆらゆらと揺れている。それはちょうど、青江の部屋の窓から見える風景に似ていた。
    「数珠丸が家督を継ぐ前のことだよ、僕が号をもらったのは」
    「じゃあ、もう結構前ですか?」
    「そうだね。歌仙と友達になった少し後だったよ」
     ちょうど、時代の変わり目。青江の一門はこれからの時代を生きていくために模索している最中だった。武家は殆どが軍へと身の振り方を決めていた。だがそれだけでは生きていけないと青江の当時の当主は思ったらしい。だから武芸だけでなく、芸術に政治に、幅広く手を伸ばした。その最中に古くから続く家だから、顧問として新政府の部署立ち上げにも力を貸した。
     何がいけなかったかといえば、それがいけなかったのかもしれない。
    「有り体に言えば、当主が邪魔な連中がたくさんいたってことさ。でも青江の家は武家だった。だから、当主に刃を向ける輩はことごとく処分した。それだけのことなんだよ。……僕も、ね」
    「……」
    「あの窓から射殺したんだ」
     長い前髪に隠れた瞳が、赤い光を宿す。その視線は風に靡いた柳の葉の一つ一つを追っているようだった、
    「女中だよ。笑っているのが見えた。暗殺者が女中だなんて、話としては出来すぎているよねえ。でも黙って見ているわけにもいかない。だから、射殺した。幸い僕は夜目が利いてね。数珠丸が刀を持って出るよりも、僕が部屋から仕留めたほうが早かったんだ。それだけのことさ」
     にっかり笑っていた女中を仕留めたから、「にっかり青江」なのだと。青江は締めくくった。武芸に秀でた家で、当主を守った一矢を放ったとなれば、それは立派な武勲だ。だから号をもらうに至った。一風変わったものだけれど、家では名誉の名なのである。
    「僕は後悔していないし、結果として家を守ったから、気にもしていないよ。でも、聞いていて気持ちのいい話じゃなかっただろう。ごめんね」
     普段から青江はよく喋る方だったけれど、立て板に水の勢いでいつも以上に矢継ぎ早に話していると彼女は気づいていた。つらつらと台本を読み上げているかのようだ。
    「だから僕の号は数珠丸みたいな、優しい名前じゃないんだ。でもさ、武芸にちなんだ名前をもらったのに、そこまで芽が出るわけじゃなくてねえ。僕は家のことは通り一遍出来るけど、器用貧乏ってやつさ。だから帝大にも通っているんだけど。まあ、君もいるし、食うに困らない程度には身を立てていくから安心し」
    「にっかりさん」
     静かに青江の肩を叩く。名前を呼べば、青江はぴくりと震えて言葉を止めた。
     ゆっくりゆっくり首を回して、彼女のほうを向く。正直、少女にはその話がピンと来ていなかった。なんだか物語を語って聞かされたような気さえした。だって、青江からはそんな血なまぐさい雰囲気はしなかったから。
     確かに、たまに不思議な物言いをするし、十分変わった人だと思う。未だに全裸で眠るのには慣れない。朝寒かったのか背中に張り付かれていたりすると飛び上がりそうになる。
     けれど、青江が自分のことを大切にしてくれているのは、とてもすんなり理解できる。
    「立派な、お名前ですね」
    「……」
    「にっかり青江さん。ええ、素敵なお名前です」
     そう、素敵な名前だ。口にするだけで、自然と笑顔になる。純粋に、そう思った。
     金がかった緑の瞳が見開かれる。案外長い睫毛がぱちぱちと瞬かれた。それから何度か唇を開いたり、閉じたりして……青江は視線を伏せてふいっとそっぽを向いた。
    「……変わってるよねえ、君」
    「ええ?」
    「変わっているよ」
     欄干からぱっと離れ、青江は再び彼女の手を取った。カツカツと石畳にブーツを鳴らしながら、ぼそりと呟く。
    「……でも僕も変わっているから……一緒にいるにはちょうどいいよ」
     ほんの少し、結われた髪から覗く耳が赤く染まっている。それを見て彼女はちょっとだけ嬉しくて、愉快な気持ちになって、青江を追いかけた。
    「青江さん、にっかり青江さん」
    「はいはい、繰り返さなくたって聞こえているよ」
     自分はうまくやって行けるかもしれない、このちょっと変わった夫と。
     そう、思った。



     首尾はうまくいっているはずだった。
     自分はまだ学生だし、彼女も若い。青江と結婚した以上、家での彼女の立場は「若奥様」あたりになるのだろうが、青江はまだ家で何か役目があるわけでもなく、したがって彼女は日中特にすることがあるわけでもない。だから青江はしょっちゅう彼女を連れて大学に行った。たまには石切丸の家に一緒に遊びに行ったりもした。距離は確実に縮まっているはずで、そもそももう結婚している時点で自分に分がある勝負だった。
     だが、呪いのような初恋にやはり勝てそうにない。
    「……婚約?」
     結婚してからも、半月に一度は必ず家の名代として歌仙は彼女の様子を見に来た。その度に青江は歌仙を「シスコン」とからかったのだけれど、内心穏やかではない。
     だが今日はそれだけではなくて、超弩級の爆弾を持ち込んできた。
    「うん、僕もそろそろいい年だ。名代からきちんとした家督を継がなくてはならないし。身を固めろと話があったからね。断る理由があるわけでもないから」
    「……そう、ね」
     明らかに動揺した様子の彼女に、青江もやや焦る。手にしていたティーカップを置いて、無理に話をまとめに掛かった。
    「そりゃあ、おめでとうだねえ、歌仙。でも人見知りの君がうまくやれるのかなあ」
    「それは言いっこなしだよ青江、僕だって見合い位きちんとこなせるさ」
     藤色の髪を揺らしてそう答える歌仙を、彼女は直視できていない。俯いて震えている手を、青江はテーブルの下で握った。ハッとして彼女は顔を上げる。
    「ええ、おめでとう、歌仙。素敵な人だといいね。歌仙の趣味に合った」
    「風流を理解してくれる人だといいけれどねえ。君の方がよっぽどそうかもしれないよ」
     ははは、なんて歌仙は笑った。青江は笑えそうになかった。
     歌仙はまた来るよと帰って行って、部屋には彼女と青江が取り残される。彼女は窓辺の椅子に座ったまま何も言わなかった。声を掛けようとして、何を言ったらいいかわからなくて、結局青江も「お茶をもらってくるよ」と部屋を出る。だがそこで今度は数珠丸に呼び止められて、いよいよ青江は白旗を上げざるを得なかった。



     白いレースのカーテンが引かれたその窓からは、青江の屋敷が一望できる。西洋風の作りだけれど、武家らしく端の方には道場だってきちんとあった。今は日が落ちてよく見えないが、あの道場で昔は数珠丸に稽古をつけてもらったこともあると青江は言っていた。
     彼女もそういうのには覚えがある。実家の、茶室。そこで茶道のお点前を教えてくれたのは歌仙だ。茶の道、お花、その手のことは全て歌仙が教えてくれた。
     親戚の、優しいお兄さん。それから……初恋の人。家同士が親しかったこともある、自分はいずれ、歌仙のお嫁さんになるのだと思っていた。そうなりたいと、思っていた。だから歌仙が好ましいと思うように、歌を学び茶を学び、大和撫子よろしく髪を伸ばした。
    「体が冷えるよ、窓を閉めてこっちにおいで」
     低い声が投げかけられる。いつの間にかそこに立っていた青江が、彼女の肩にストールを羽織らせる。
    「……ありがとう、ございます」
    「いいよ。……ねえ、一つお願いがあるんだけどいいかな」
    「はい、何でしょう」
     ふわりと夜風が入り込んできて青江の髪を揺らす。片手を窓に伸ばしながら、青江は何でもない様子でさらりと言った。
    「僕と離縁してくれないかなあ」
    「……ええっ?」
     思わずわが耳を疑った。何を言っているんだこの人は、いつもの冗談だろうか。そう思ったのだけれど、彼女からうかがえる青江の横顔は真剣そのものである。
    「えっ、離縁って、ええ? 何の冗談ですか」
    「僕はこういう冗談は好きじゃないんだ」
    「でも、そんな」
     ぱたんと窓が閉じる。金具で施錠して、青江は彼女を見下ろした。緩く結われた髪がはらはらと落ちて影を作る。彼女と眠るようになってから一度も、青江はそれを解いて寝ていたことはない。
    「実は欧州に行くことになってね」
    「欧州……海外へですか!?」
    「うん。留学ってやつだよ。ついでに勉強してきて、将来のために役立てようってわけさ。これからこの国はどんどん変わるからねえ、知識を付けないと。青江の家は変化しながら生き延びてきた一門だ。僕もその一任を担うってことだよ」
    「で、でもそれでどうして」
     立ち上がって青江に聞く。肩からストールが落ちそうになったので押さえた。何を言われているのかわからない。留学といえど、それは期間が決まっていることのはず。離縁にいたる理由がない。
    「だって君、いまだに洋服を着るの苦手だろう」
    「そんなの、慣れればいいことです」
    「髪だって今時長くてさ、そんなの向こうで一人じゃ手入れできないだろう」
    「それは青江さん言いっこなしですよ!」
    「それに」
     ひどく静かで、落ち着いた声で青江は言う。
    「僕が連れて行きたくたって、歌仙から、離れられないだろう……君」
     ハッとして二の句が継げなくなった。どこか自嘲気味だが、悲しそうな表情を浮かべて青江は微笑む。
    「僕は君を連れて行きたいけれど、君はそうできないじゃないか」
     だから、もういいんだよと……青江は呟いた。
     ……全部知っていたのだ。低い声と静かな眼差しがそう物語っている。
    「いつから……知って」
    「ん? 最初からさ。僕は最初から知っていたよ、君の気持ちなんか。知っていてお嫁さんにもらったんだから」
     彼女は自分の初恋が実らないことなど、わかっていた。歌仙は彼女を妹分としか思っていない。どんなに頑張ってもそれは変わらなかった。お嫁に行くことが決まったとき、歌仙は笑って「幸せにおなり」と言ったのだ。諦めるほかなかった。家の決めたことなのだ。苦しくてももう、そうするしかなくて。
     こんな想いを抱えたまま青江の妻になることが、どれほど不実なことかわかっていたつもりだった。だから隠そうと思った。青江は優しい。見合いの結婚だったとしても、自分を大切にしてくれた。その気持ちに応えなくては。それでも歌仙が半月に一度でも顔を見せてくれれば、彼女は嬉しくてたまらなかった。
     だが結果的に、それは青江をここまで深く傷つけてしまったのだ。
    「君が、自分を責める必要なんかないんだよ」
     穏やかな、新婚初夜のときと変わらない歌うような口ぶりで青江が言う。そんなことない、そんなわけない。
    「で、でも……ごめんなさい、そうじゃなくて」
    「いいや、謝るべきは僕のほうだよ。僕、知っていて君をお見合いの相手にお願いしたんだ。君が歌仙のお嫁さんになりたがっているのをわかっていて、自分の奥さんにしたんだ。君の家と僕の家じゃ、僕の家からの縁談なんて断れないからさ。ほら、僕そこまで優しくもないし」
     ふふ、と笑って青江は肩を竦めた。彼女が違うと首を振っても、違わないと譲らない。
    「君はなあんにも、悪くなんかないよ。まあほら、今離縁すると外聞が悪いし。僕が向こうに行ってしまって、一年ほど経ったら、でもいいかなあ? 僕が向こうが楽しくなってしまって、帰ってこられないからとかそんな理由ならちょうどいいだろう? ほとぼりが冷めたら、うまく歌仙のお嫁さんになれるように算段はつけておくからさ。そういうの得意なんだよ、僕」
    「っ、青江さん、待って」
    「そんなに泣かないでよ。笑顔が一番だよ」
     ぼろぼろと涙を零す彼女の頬を、笑いながら青江が拭う。それから恐る恐るといった様子で腕を伸ばし、そっと彼女を抱き寄せた。思えば今まで一度だって、青江に抱きしめられたことがなかったと彼女は気づく。いつだって手は繋いでいたけれど、それ以上の接触を青江が強いることはなかった。
    全部、彼女の気持ちを知っていたからなのだ。
    「ねえ、お願いがあるんだけどいいかなあ」
    「……なんでしょう」
    「贅沢は言わないし、何もしないから……今夜だけは、抱きしめて眠りたいんだよねえ、君のこと」
     本当にそれ以上のことをしないのだと、彼女はもうわかる。だからこくりと頷くと、青江は体をいったん離して「嬉しいなあ」と笑った。
     ベッドで向かい合って眠るのは、初めてのような気がする。だっていつも青江は全裸だったからだ。今もだが。
    「まあ、僕の一目惚れだったんだよねえ」
    「えっ、ええっ?」
    「んっふふ、笑わないでいてくれると嬉しいんだけどさ、君は覚えちゃいないみたいだし」
     聞けばそれは随分前だった。彼女もよく歌仙について家同士の集まりなんかには顔を出していたけれど、そのうちのどれか。てんで覚えちゃいない。彼女は歌仙しか見ていなかったのだから。
    「僕もまだ号をもらう前でねえ。数珠丸についていたんだけど。人見知りの歌仙がさ、なんだか可愛い子を連れてるから。気になってしまって。追いかけて、君が一人になったタイミングで声をかけたんだ」
    「……あっ! もしかしてあのときの女の子!」
     声にしてから「しまった」と手のひらで口を覆った。がくりと青江も頬杖から顎を落とす。いやだって、今までずっとあれは女の子だと思っていたのだ。
     肩ほどの髪を揺らして、「ねえ」と話しかけてきた不思議な目の子。まあ確かに服装は男でも女でも通用しそうなものだったが。「だあれ」なんて彼女が聞けば、「青江の」と答えた。
    「まだ名前をもらっていないんだ」
     そうその子は言ったので、彼女はうーんと考えた。青江といえば、歌仙から一人一人得意なものの名前をもらうのだと聞いていた。だからなんとなしに、幼い子特有の素直さで言った。「素敵なお名前をもらえるといいね」と。「名前がついたら、教えてね」と……。
    「だからとびきりいい名前をもらおうと思って頑張ったんだけどねえ、前にも言ったけれど僕は器用貧乏でさ。やっと号をもらっても、なかなか言いにいけなかった。それでも、忘れられなかったんだよ。でもそういうものだよね、初恋ってさ。だから僕も君が歌仙を忘れられないのもわかる」
     枕に顔を埋めて、青江は笑った。それから手を伸ばして、顔にかかっていた彼女の髪を払い、耳にかける。掌で頬をなぞられた。今日はいつもより少し暖かい、青江の手。
    「いい初恋だったなあ」
    「……青江さん」
    「おやすみ。ゆっくり休むんだよ」
     抱え込むように彼女を抱きしめて、青江は目を閉じた。「あたたかい」という呟きが耳元で聞こえる。
     ……ずるい人。何にも彼女に言わせてくれなかった。全部全部、自分のせいにしてしまった。どこが優しくないんだ、どこがひどいんだ。
     きっと、このまま彼女が何も言わなければ、青江は本当に欧州へと一人で行くのだろう。それで一年経って離縁できるように手はずを整えて、あまつさえ歌仙との仲を取り持つつもりでいるのだ。確かに、青江の言うような理由であればあまり外聞は悪くない。彼女の方に非はないということになるだろう。彼女は若いうちに夫の都合で離縁されたことになるし、外聞が悪いから身内の、結婚しても問題ない程度に血が離れている兼定の家にもらわれることも不可能ではない。
     不可能ではないと、彼女もわかるけれど。
     スゥスゥと穏やかな青江の呼吸が聞こえる。だがそれに反して彼女はふつふつと怒りが込み上げてきた。一体どういうつもりでそんなにゆっくり寝ている。そうして、翌日彼女は数珠丸の部屋をノックした。
    「……おや、どうされましたか。どうぞ」
     義兄に頼みたいことがある。



     ふわりふわりとレースのカーテンが揺れる。その向こうで柳の葉も同じ軌道を描いていた。青々としたその葉の隙から、青江はかつて女を射殺した。だからというわけではないと思うのだが、あれ以来青江はこの窓から外を眺め続けている。この窓の向こうに何があるというわけでもないが、にっかり笑った女の顔が忘れられなくて。
    「……失恋って存外辛いねえ、宗三君」
     かつて初恋の相手が三条に嫁に行ってしまった友人の名を呟いた。取り返すチャンスをみすみす見逃して、「あの子が笑っていればいいです」なんて心にもないことを言った友人を、青江は慰めたことがあった。理解はできないが、それも友人の選択だからと。本当は心がばらばらに砕けてしまいそうなくらい落ち込んでいたことを知っていたから、とりあえずご飯だけでもなんて。
     でも自分は、宗三ほど優しくなれないのを知っていた。だってそんな性格をしていないのだ。だからそろそろ縁談をと話を持ちかけられたとき、あの子の名前を出した。兼定の親戚だし、血筋的には問題ない。何もせずに諦めることになる前に、服の裾だけでも掴みたかった。それだけでもできたなら、ちょっとだけ頑張ってみよう。そう思った。
     だが結果的に、宗三と同じ道を辿ってしまったようだ。そして今なら、彼の気持ちがわかる。
     そうせざるを得なかったのだ。そうしなくてはいけなかったのだ。好きだから、笑っている顔が見たいから、自分のところには置いておけなかった。
     はあと息をついて窓辺に倒れこむ。欧州へ行かなくてはいけない日が近づきつつあるし、離縁してほしいといった日から彼女とは部屋を分けてもらったから一緒にも寝ていない。帝大にも、もう一緒には行かない。
    「……馬鹿だよねえ、僕」
     笑顔が一番だといっておきながら、しばらく笑えそうになかった。
     ふわふわとしたレースのカーテンと若干ちくちくする柳の葉が頬を撫でる。しかしさらさらとしたそれらがすれる音のほかに、聞きなれない足音が混じった。
    「ほんっっとうですよ!」
     はっと目を開けるのと、すぱんと勢いよく青江の頭が叩かれるのは同時だった。がばりと体を起こせば、窓の向こうには彼女が立っている。青江が以前選んだワンピースを着て、かなり怒っている様子だ。それに、ああ、何てことだ。あんぐりと青江の口が開く。
    「き、君、どうしたんだいその髪」
    「切ったんですよ! 見てわかんないんですか?」
     長く美しかった髪が、顎の辺りでばつんと切り揃えられている。似合っていないとはいわない、そんなことは決してない。けれどこれは、これは。
    「洋服だって、そりゃ、女中さんに教わりましたけど、自分で着ました。これで文句はあります? 私が、青江さんについていけない理由があります?」
    「い、いや僕が言ったのはそういうことではなく」
    「それからお義兄様にお願いして、私の分も出国許可をいただきました。これで文句はありませんね?」
     数珠丸! 青江は叫びだしそうになった。近頃どこか上機嫌そうだったのはこのせいか!
     青江が「奥さんは連れて行かないよ」と言ったとき、数珠丸はあの柳眉を下げて「いいのですか」と何度も念押しをした。
    「あなたはとても、あの子を好いているのでしょう、にっかり。あの子もそうではないのですか」
    「好き、かもしれないけど」
     だがそれは、違うのだ。青江の「好き」と、彼女の「好き」は種類が違う。青江は人一倍、自分に向けられている感情には聡いつもりだった。だから彼女がここに来てから少なからず自分に向けて好意を抱いてくれていることはわかっている。けれどそれは、歌仙に対するものと比べたらきっとあまりにちっぽけなものなのだ。
    「恋情ばかりが愛ではありません、わかりますね」
    「……好きでもどうしようもないことって、あるんだよ」
     諭すような数珠丸の言葉に小さく反論する。数珠丸の言うことも勿論わかる。
     けれどそれは、取り違えたらいけないものだ。彼女が選んでくれるまで、本当は青江は彼女の手を取ってはいけなかったのだ。
    「……私は、たまにあなたのそういう優しいところが、気掛かりです。幸せを、自分から手放しているようで」
     優しいものか。そんなことあるものか。ただ青江はとても怖かったのだ。無理に自分と一緒に連れてきて、本当に取り戻せなくなってしまうのが。永遠に、この子の気持ちが離れていくのが怖かった。
     優しいのではない、臆病だったのだ。ただ、それだけなのに。
    「自分で何もかも自己完結しないでください。私もご一緒します」
     きっぱりと目の前の彼女は言い切る。思えばこんな風に何かを主張する彼女を見たことなんて一度もない。
    「自分で何を言っているのかわかっているのかい、君。海の向こうだよ? 年単位でこっちには帰ってこられないんだよ? その間歌仙にだって会えないんだ。今までみたいに、会おうと思えばすぐ会える距離じゃないんだよ」
    「でも私は、青江さんの奥さんです!」
     震える青江の手を、窓越しに彼女が掴む。暖かい手だった。いつも自分の手はどこかひんやりとしているのだけれど、彼女と繋いでいる間はぽかぽかとして、とても心地よかったのを覚えている。
    「確かに私は、まだ歌仙のことが忘れられません。でも今の私は、青江さんの奥さんなんです。色んなところに連れて行ってくれて、いつだってこの手を握ってくれていた、青江さんの奥さんです。たくさん青江さんのこと知ってからそんなこと言うのはあんまりじゃないですか」
    「ご、ごめんよ、でも」
    「でももだってもありゃしませんよ! 大人しく連れて行ってください!」
     怒りがピークに達したのか、彼女はわんわん泣き始めた。窓の向こうに屈みこんで、青江の手を握り締めて嗚咽をあげている。今度は青江が立ち上がる番だった。
    「……ねえ、本気で言っているのかい? 僕と行けば、もう今度こそ歌仙とは一緒にいられなくなるよ」
    「……はい」
    「僕だってねえ、君は優しいって言うけれどそうじゃないんだ。臆病で、その割に欲張りなだけなんだよ。それでもやっとの思いで君から離れようっていうのに、一緒になんて来られてしまったら」
    「しまったら、なんですか」
     ぐすりと鼻を鳴らしながら、彼女が青江を見上げた。ああもう、可愛いなあ。はあとため息をついて青江は空いているほうの手で顔を覆った。
    「もう二度と、離してあげられなくなってしまうよ」
     涙でちょっとばかし濡れた指先が、青江の手に触れる。ゆっくりと顔からそれを引き剥がして、彼女は笑った。
    「望むところですよ」
    「……君ねえ」
    「さ、一緒に行きましょうね青江さん。欧州では、帝大で見せてくださった本みたいな街並みが広がっているんでしょう? 楽しみですねえ」
     あははと笑って、彼女が青江を窓辺から外へ引っ張った。落ちてしまうよといいながら、青江も思わず笑んでしまう。白いカーテンと柳の葉が揺れて、やがて二人で渡る海のような空に広がった。
    micm1ckey Link Message Mute
    2022/09/12 17:57:09

    青柳の窓

    人気作品アーカイブ入り (2022/09/13)

    #刀剣乱夢 #にかさに #大正パロディ
    初恋の女の子にすっかり忘れられていたにっかり青江の話。
    pixivに掲載していたなんちゃって大正パロディです。

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品