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    【Web再録】きのう、あなたの夢を見たよ

     最初から不思議な主だったけれど、三日月宗近にとってその少女はやはり、ただ一人の女の子にしか過ぎなかった。特に、たまの息抜きに縁側でお茶を飲んでいるときなんかはそう思えた。風に吹かれる背中の中ほどまでの黒髪を耳に掛けてやりながら、三日月はその横顔を見つめる。
    「夢、かい?」
    「ああそうだ、しばし眠る間、そなた夢は見るのか?」
    「……そうだなあ、僕は元々夢を見るほうじゃなかったから。でもたまに少しだけなら見るよ」
     いつもの特徴的な口調で答えながら、彼女は口の中にチョコレートを放り込んだ。執務室の前の縁側で、二人して座布団を持ち出し、のどかな日向に目を細める。暖かな風が、三日月の藍色の狩衣と彼女の紺のセーラー服を翻していった。今日はとても眠たくなってしまいそうな日和だ、彼女でなくとも。
    「そう言えば、平安時代は好きな人が夢に出てくるんだっけ? あれ? 好きに思われていたら夢に出るんだっけ?」
     ふいに彼女が声を上げる。夢、と言われて現世で受けた学校での授業を思い出したのだ。そう言えばそんな和歌があったなあ、程度だったけれど。それに対して三日月のほうは、「ふむ」と言って空を見上げる。確かにそんな歌があった。
    「うん? 相手が強く自分を思っていれば、夢で逢えると言われているなあ」
    「そっかあ、じゃあ、僕が一方的に考えてるだけじゃ駄目か」
    「……誰ぞに夢で逢いたいのか?」
     三日月がそう聞いたときには、彼女はもうその肩にもたれて眠りに落ちていた。三日月はそっと微笑み、自分も首を傾げて少女の小さな頭に自分のものを寄せる。まあしばらくしたら、きっとまた勝手にしゃきっと起きてくるのだから、放っておいてもいいだろう。
     廊下の奥から初期刀の歌仙兼定が歩いてくるのが見える。歌仙は審神者がまた転寝しているのを見て、やや眉を吊り上げて口を開きかけた。だが三日月が唇に人さし指を当ててそれを制したので、ふうと息を吐いて肩を落とす。歌仙は彼女が頻繁に寝てしまう理由を知らないのだから、審神者が仕事をサボっていると思っても仕方がない。
    「しばしゆっくり休め、主や。そなたの眠り、この俺が何人たりとも邪魔はさせん」
     遠くで鳥が鳴いている。穏やかでいい日和だなあと、三日月は呟いた。



    「これはどういうことだい」
     審神者はじっとりした目で管狐を睨んだ。これ見よがしに自身の右手を上げて、先程嵌められたそれをジャラジャラと鳴らす。金色の鎖がきらきらと輝いたが、今のそれは目障りでしかない。
    「見たままですが審神者様ぁっ!」
    「どう見ても手錠だね」
    「その通りですっ! 御名答!」
    「合っていてほしくなかったよ、雅じゃない」
     彼女の右腕には、腕時計よりは細いけれど、もう見るからに頑丈そうな腕輪がしっかり嵌っていた。それには細い金の鎖が繋がっている。そしてその先には審神者と同じように鎖を引っ張ったり、指に絡めたりしている一振の刀剣がいた。
     ガチャガチャと鎖をいじっている三日月宗近に、何か援護射撃を期待しても無駄そうだと判断した審神者は、一人こんのすけに詰め寄った。
    「僕は手錠をかけられるようなことをした覚えはないよ。お天道様に恥じない生き方をしてるつもりなんだけどな」
    「まあそうですねっ! 特に咎めるつもりで嵌めさせていただいたわけではございませんっ!」
    「じゃあ取ってくれないかな。きみ、すごい速さだったよ」
     本当に、目にもとまらぬ速さでそれは嵌められたのだ。
     そもそも、近侍であり初期刀である歌仙兼定ではなく、「三日月宗近を呼んで待機していてほしい」というこんのすけの指示を聞いたときに疑問を覚えるべきだった。何故か理由を問いただすべきだった。審神者はそれをしなかった自分が忌々しい。こんのすけが執務室に足を踏み入れて、まあ茶でも出してやるかと彼女がふいっとこんのすけから視線を逸らした瞬間、それはガチャリと彼女と三日月の腕に嵌められたのだ。
    「審神者様の霊力を維持するためでございますようっ! こんのすけは良かれと思って!」
    「どこがだいっ!」
     審神者はダンと音を立てて、拳を畳に叩きつけた。それは右手だったため、がちゃりとまた鎖が鳴る。
    「審神者様の霊力にはもう限界が来ておりますっ! これ以上食事で補うのは無理でしょう。ゆえに、神格も高く霊力の消費も激しい三日月様と距離を縮めておくことが、一番の節約になると考えましたっ! ですので審神者様と三日月様が傍にいやすいよう物理的に繋がせてもらいましたっ!」
    「物理技でなんとかするのはやめてくれないか! そもそもこれは不便すぎるっ! うまく身動きが取れないじゃないか」
     鎖の長さは、せいぜい一部屋の中を互いが動き回れるくらいの長さしかなかった。この距離しか離れられないのなら、トイレや入浴はどうすればいい。というか手錠で繋がれたこの状態が異質すぎる。他の刀剣たちに何と説明すればいいやらわかったものではない。
    「大丈夫ですよ審神者様あっ! こちらの手錠、政府の特注品となっておりますっ! 不可視化が可能っ! 一見すればお洒落な腕輪になるだけですっ! なんと便利っ!」
    「そういう問題じゃあないよね……政府はその技術をもっと別なところで使ってよ」
     げんなりと彼女は肩を落とした。だがこんのすけの言うことにも一理ある。彼女自身も、もう自分の霊力に限界値が来ていることはよくわかっていた。
     審神者としての適性検査を受けたとき、彼女には高い素養はあってもそれを活かすための霊力がないと診断された。わかりやすく言えば、器を満たすための酒は多くあっても、お猪口が小さい。だが素養が高い分だけ、彼女の本丸には多く刀剣が集った。今隣で鎖をいじっている三日月宗近もその一振である。彼は割と早い段階でこの本丸に来たため、ついこの間練度が上がりきった。
     しかし霊力の低い彼女に、それら全ての刀剣を維持させておくことは至難の業だったのである。これまで彼女はこんのすけの勧めもあり、多く食事を摂ることでそれを補ってきた。霊力とは一種の精神力であり、生命力だ。彼女が健康体でいることが、一番それを発揮できる条件である。だから審神者はその年頃の少女にしては、人一倍食べるようにしていたのだ。けれどこの頃酷く眠い。それが霊力不足のためであることは、なんとなしに察しがついていた……。
    「審神者様、三日月様と一定距離離れずにいることで、審神者様の霊力消費は僅かながら抑えられます、眠気もややましになるかとっ」
    「でも、だからってこれはないよ。ねえ、他に何かないの?」
     彼女が聞けば、こんのすけはにまーっとその隈取された瞳を細める。あ、これは嫌なことを言う表情だぞ。
    「でしたら審神者様、三日月様と肉体関係をお持ちになりますか?」
     さっと彼女の顔から血の気が引いた。なんてことを言うんだこの管狐。愛玩動物の顔をしたそいつは、目をくりくりと可愛らしく煌めかせながら言葉を続けた。
    「古くからある方法ですがねっ! 刀剣男士様と肉体関係を持っていただき、その神力の直接供給を行う方法ですねっ! まあ審神者様は処女でいらっしゃいますので、腕輪のほうが良いかと思いもがが」
    「それ以上はいいっ!」
     審神者は手でこんのすけの口を塞いだ。なんでそんなことまで知っているのだこんのすけ。というか曲がりなりにも成人男性である三日月の前で、そんなことを言うな。彼女は叫びたい気持ちでいっぱいだったが、それどころではない。確かにその方法とこれとでは手錠のほうがましである。だがしかし、この手錠で迷惑をこうむるのは審神者だけではない。彼女の危惧はそれだった。
     しかし。
    「俺は構わんぞ、主や」
    「……え?」
     ややぽかんとした顔で、審神者は三日月を見る。予想外すぎる答えだった。三日月は自分の左手を振って、その鎖をチャリチャリと鳴らす。
    「左腕だ、特に刀を振るうのに問題はない。それに俺はもう練度が上がりきっている。出陣の機会もそうないだろう?」
    「えっ、でも本当に? 三日月さん本当に事の重大さ分かってる? おじいさんだから適当なこと言ってるわけじゃないよね?」
    「はっはっは、確かに俺はじじいだがそこまで耄碌してはおらんぞ。わかっているとも、俺が傍にいなければ主の体に差し障りがあるのだろう? 大事な主のためだ、そのくらいこのじじいにも役に立たせておくれ。代わりに俺の世話をよろしく頼むぞ、主や」
     彼女は何度かぱちぱちと瞬きをしたのち、ぱっと顔を明るくする。心底安堵した表情だった。
    「……ありがとう、本当に助かるよ」
    「これからよろしくなあ、主や」
     三日月が差し出した右手を、彼女も取った。その腕でがちゃりと鎖が音を立てる。とりあえずこの鎖は極力不可視化して貰おう。きらりと輝く金のそれを見て、彼女はそう思った。
    「交渉成立ですねえ審神者様あっ! それでは本日より三日月宗近様とご一緒に生活をなさいますよう、どうぞよろしくお願いいたしますっ! それではこんのすけはこれにてっ!」
    「ちょっと待てこんのすけ! きみにはまだ言いたいことがあるっ!」
     ぴゃっと逃げ出したこんのすけを、彼女は慌てて立ち上がり追いかける。だがこんのすけは素早く執務室の襖をすり抜け、廊下に駆けだした。無論彼女もそれを追ったのだが、残念ながら三日月のほうが正座したままだったのである。
    「うわっ」
     右手首の鎖が、動かなかった三日月に引っ張られ、彼女はものの見事にすっ転ぶ。執務室中央に正座する三日月と、執務室から二歩程外へ出た審神者。どうやらこれが二人の離れられる最大の距離らしい。ガチャンと重厚な音を立てて、鎖は伸びきっていた。
    「ああまったくっ! 次にきたら覚えていなよこんのすけっ!」
    「はっはっは、まあそう急くな主や。どれ、俺がそちらへ行こう」
     ゆるゆる三日月は立ち上がる。ちゃりちゃりと金の鎖を引きずりながらやってきたその姿を見て、彼女は再び額に手をやったのだった。



    「近侍を変えるなら、一言くらい相談があっても良かったんじゃないのかい?
     こんのすけが逃げ去った午後、執務室に正座した状態で審神者は歌仙に説教されていた。事情があるとはいえ、ご尤もな話である。故に彼女は黙ってそれを聞いた。
    「弁解のしようもないよ、之定。ごめん、僕の落ち度だ」
    「何度も言い聞かせているけどね、その『僕』と言うのはやめなさい主。きみは女子だろう? 雅じゃないよ。……きみは特に気まぐれというわけじゃあない。近侍を変えたのには何か理由があるんだろう? それを初期刀の僕に言えないのかい?」
     ぐっと彼女は言葉を詰まらせる。それは、言えない。言いたくない。
     彼女の初期刀は歌仙兼定。手厳しいところもあるが知識も経験もある歌仙に、審神者はずっと教示を仰いできた。彼女にとって歌仙は、軍略から付喪神への接し方、日常生活の所作まで叩き込んでくれた、いわば師匠である。そんな彼を、彼女は親しみを込めていつも「之定」と呼んでいた。そのくらい、彼女は歌仙を信頼していたし、歌仙もそれに応えてきたつもりだったのだ。だからこそ、ずっと務めてきた近侍が急に三日月になったことに、歌仙が疑問を覚えたのも無理はない。
    「……ごめん之定」
     黙ってしまった審神者を見て、歌仙は藤色の髪を揺らして首を振る。完全に呆れかえっているその様子を見て、審神者の胸は酷く痛んだ。ちらりと審神者の様子を見て、三日月が口を開く。
    「すまんな、歌仙。俺が主に我侭を言ったのだ。なに、主はいつもおぬしと一緒におるだろう? このじじいのこともそろそろ構ってほしくてな。この間主に練度の上がりきった祝いに何かほしいものがあるかと聞かれ、近侍を願った。しばし俺にその座を譲ってはくれまいか」
     美しい笑みを浮かべた天下五剣に、歌仙は何も言えなかった。ちらりと何か言いたげに審神者の顔を一瞥し、はあと溜息をつく。
    「……僕は構わないよ、別に初期刀がずっと近侍を務めなければならないわけではないからね。主、三日月殿に迷惑をかけてはいけないよ。三日月殿、何か困ったことがあれば僕に言ってくれ。この子の不出来は育てた僕の不徳だ」
    「あいわかった、礼を言うぞ」
     さっと立ち上がった歌仙を見て、審神者は苦しげに眉を歪めた。そのまま歌仙は執務室を出て行く。あとには品のいい香の匂いだけが残された。
     三日月は襖を閉めてから、紺のセーラー服の背中に呼びかける。
    「歌仙にくらいは、事情を伝えても良かったのではないか? きっとあれは何か勘違いをしているぞ」
     そう言えば、彼女は黙って首を振った。
    「……之定はね、厳しいけど優しいから。本当のことを知ったら、怒るけどきっと僕のことを心配するに決まってる。だから黙っておいた方がいいんだ。嘘をつかせてごめんね、三日月さん。僕、誤魔化すの下手くそだから、助かったよ」
     はあ、と息を吐いて彼女は顔を上げた。それから右腕に嵌った腕輪をがちゃがちゃといじる。すると今まで姿を消していた金色の鎖がさらさらと現れた。三日月もまた、左腕を上げる。顎に手を当て、その面妖な鎖を見つめた。
    「本当にさ、これ技術の無駄遣いだよね。之定全然気がつかなかったじゃないか」
    「ほんになあ、俺も驚いたぞ」
     もう手錠で繋がれてしまったのだ、まずはどうするか決めなくては。彼女は三日月と向き合い、その鎖を引っ張った。
    「とりあえず、今後一緒に生活するうえで注意すべき点を、お互い確認しておくべきだと思うんだ。腹立たしいけど、こんのすけがこの手錠の説明書きを送ってきたから一緒に読もう」
    「うむ、そうだな。それがよい。すまんが主、読んでくれんか。俺は現代仮名はまだ苦手でな」
    「うん、構わないよ。ちょっと待ってね」
     彼女はざっとそれに目を通した。自分が理解してから、三日月に説明したほうがいいと判断したからである。
     まずその手錠は、政府が特別に作ったものであること。それが書いてあった。今までも審神者の霊力不足は前例のあることだったらしい。刀剣男士が遠くにあればあるほど、その顕現には霊力を使う。だから彼らを傍に置くことでその消費を抑え、できる限り燃費をよくすることが対症療法なんだとか。
    「えーと、鎖の長さはこれが僕の限度らしい。もし今後、例えば何かの弾みで僕の霊力が上がったりしたらこれは長くなるし、もっと頑張れば外せるようになるって」
    「ふむ、霊力とは伸びしろがあるものなのか?」
    「微妙かな。何か問題があって不安定になったり、一時的に落ちたりって話は聞いたことがあるけど、逆はあんまりないな」
     つまり、この手錠が外れるのは現段階では望み薄と言うことである。彼女はややげんなりとした。
    「……それから、さっきもしたけど鎖部分だけは不可視化が可能だそうだよ。見えないだけで物理的にはあるから、離れることはできないけど」
    「なるほど」
     彼女は立ち上がり、とりあえず鎖がぴんと張るところまで歩いてみた。三日月は現在、執務室の端に置かれた文机の前にいる。彼女がちょうど対角線上に立ったとき、鎖は伸びきった。やはり一室の中での移動が限界らしい。
    「これは……参ったな、本当にこれが限度か」
    「うん? 何か不都合があるか?」
    「大有りだろう、トイレ……は辛うじて平気だろうけど、お風呂はどうするんだい? この分だと寝るのも一緒になるよ。着替えも、全部だ。大問題だよ」
     ああ、と三日月は手を打った。彼女は額に手をやる。何でそこまで大らかでいられるのだ。ほけほけとして、この異常事態をまるで気にもしていないような笑みを、三日月は浮かべていた。
     古株とはいえ、彼女は三日月とそうコミュニケーションをとったことがなかった。三日月が先程言ったように、彼女は基本的に歌仙と一緒にいることが多かったのだ。審神者として歌仙に教えを請わねばならないことが山ほどあったし、それこそ霊力不足で頻繁に間食を摂っていたせいもある。そういうわけで、彼女と三日月とは最低限の会話くらいしかしたことがないのだ。したがって、彼女は三日月がどんな性格をしていて、どんなものが好きで、どんなものが苦手で……など何も知らない。
    「それより主や、こんのすけは食事がどうとか言っておったろう? 俺は主の体のことも何も知らん。教えてほしいのだが」
    「あ、ああそうだね、それも言わなきゃ。さっきから再三言ってはいるけど、僕は霊力が少ないんだ」
     食事で補填し、それも限界が来て眠気に襲われる。そう言った大まかなことを彼女は説明した。三日月はふむふむと頷きながらそれを聞く。一通り聞き終わったとき、ぱっと手を伸ばして三日月は彼女の腹の辺りにぺたりと触れた。それもセーラー服の上からではない、服の中に手を遠慮なしに突っ込み、直に触れてきたのだ。手錠を嵌められているせいか、今日の三日月はあの篭手やら何やらをつけていない。暖かく大きな手が彼女の肌に直接当たった。
    「ひっ!」
    「うん? そう食べている割に、主は細すぎやしまいか?」
    「な、何するんだいっ!」
     審神者は慌てて飛び退る。じゃらじゃらとあの鎖が喧しく鳴った。
    「年の割に、痩せすぎではないか? 俺の手で腹回りが掴めてしまいそうだったぞ」
    「いや、食べても食べてもすぐ霊力消費されちゃうから太らないってだけで……いやそうじゃないよ! 何するんだいきなりっ! 人の服の中に手を突っ込んで!」
    「これはすきんしっぷというやつではないのか? ヒトの子は好きだろう?」
     三日月は後ずさった彼女に再度手を伸ばして、ぺたぺたと腹や何やらに触れて回る。やめないかと引き剥がそうとしたが、彼女は残念ながらくすぐったがりだった。うっと言いながらも彼女が頬を緩めたのを見て、三日月はにやっと悪戯っぽい表情を浮かべた。それから一層、脇腹やら敏感な部分をその武骨な指で辿り始めた。
    「や、やめっ、あはは、勘弁して」
    「はっはっは、こそばゆいか?」
    「うっ、だからさあっ、あはははっ!」
    「いいぞいいぞ、もっと笑え」
    「んんっ、ねえっ、そうじゃなくてっ、ふふふ、違うってば!」
     べしっと彼女は三日月の形の良い頭を叩く。彼の髪につけている房飾りが揺れた。中腰のままの三日月を抱きつかせているような形で、立っている彼女はぜいぜいと息を荒くした。何てことだ、この刀剣マイペースにもほどがある。乱れた髪を耳に掛けながら、審神者は三日月の前に自分のほうの腕輪を示した。
    「ねえ、これ。ここに数字が出てるでしょう? これが僕に今どのくらいの余裕があるかって数字なの。これが十五より下になるとたぶん起きてられないと思う」
     三日月は彼女に抱きついたままで、その右手を掴み自分の目の前まで持っていく。しげしげとその数字を見つめた。
    「今は……八十五か?」
    「ああ、アラビア数字は読めるんだね。助かった。そうそう、だからちょっと余裕があるかな。少し眠いけど。五十切ったあたりからうつらうつらしてくると思うよ。にしても便利な代物だねこれ。ほら、離れて離れて。もう見てる必要ないでしょ」
     今度こそ彼女は三日月から離れた。じゃらじゃらと音を立てながら鎖を引きずり、文机の前に座る。すると腕の数は八十まで減った。なるほど、こんのすけの言っていた、刀剣男士は遠くにいればいるほど霊力を喰うというのは本当だったらしい。
    「眠れば少しは回復するのか?」
    「まあ、多少? 霊力って生命力らしいから。寝ることで生命活動を最小限にして残りを全部霊力に回すみたいなんだ。だから不意に寝ちゃうかもしれないけど、気にしないで。それからこの小瓶」
     彼女は文机の上にあった白い陶器の小瓶を示した。蓋を開けて、中を三日月に見せる。その中には一口サイズで個包装されたチョコレートが大量に入っていた。
    「これもこんのすけが持ってきた政府特注品。栄養を摂ることに特化してるチョコレート。まあ美味しいよ。僕はおなかが空いたり眠くなったら、とりあえずこれを口に入れる。霊力の補填ができるから。一応教えておくね」
    「ふむ、あいわかった。覚えておこう」
     まあこんなところで説明は終わりだろうか。ぱらぱらと彼女が説明書きを再びめくっていると、急に眠気が襲ってきた。とろとろと心地よく暖かい感覚が体を包む。ああまずいと彼女は例の腕輪を見た。数値は四十五。原因は何だろう。くらりと視界が歪み、文机に手を突いた。
    「主や? 大丈夫か」
     異変を察したらしい三日月が、背後から彼女の両肩を掴む。先程とはうってかわって、真剣な表情がぼやけ始めた世界に映った。何とか頷いて、閉じそうになる瞼をこじ開けた。時計を見れば、案の定と言った時間帯だった。
    「う、そうか出陣だ。今日は二部隊出るんだ」
    「主から離れるゆえか?」
    「そうみたい、ごめん、僕ちょっと寝る。駄目だ起きてられない、すぐ、起きる、から」
     ふらっと彼女はそのまま横に倒れた。なにかいい匂いに包まれたのはわかったけれど、それがなんなのかまではわからない。閉じていこうとする耳が、辛うじて「なるほど、厄介だな」と呟く低い声を捉えた。



     刀剣たちの前に出るときは鎖を不可視化して、二人のときだけ距離を測るために見えるようにしておく。とりあえず審神者と三日月はそれだけ決めておいた。やはり手錠で繋がれているというのは異質すぎる。他にどう説明したらいいやらわからないし、彼女は霊力不足を黙っておきたかった。
     食事は必然的に隣で食べなくてはならなくなる。廊下だって常に一緒に歩いていなければいけない。トイレはもう、どちらかが行くときはどちらかがその外で待機していなくてはならない。恥ずかしかろうとなんだろうと、鎖が足りないのだから仕方がない。問題は、入浴だった。
    「……流石に僕もお風呂には入りたい。これは由々しき事態だよ」
     やや死んだ瞳で彼女はそう呟いた。一応、彼女だって年頃の娘なのだ。厳しそうだから入浴はなしで、とはいかない。
     審神者の私室には一応、シャワーが備え付けてあった。しかしなんとなく、三日月を連れて私室に入るのは憚れる。三日月とて肉体は成年男性なのだ。夜間に部屋へ呼ぶのは慎みとか色々ある。しかしそんなことを言っている場合でもなさそうなのは一目瞭然だった。
    「三日月さん、あなたいつもお風呂はどうしてるの」
    「俺か? まあそうだな、童たちに手伝ってもらいながら入るぞ。俺一人ではこれを脱ぎ着するのに差し障りがあってな」
    「え、そこから? 僕は髪から洗うとか体から洗うとか、どのくらい入ってるとかそういうことが聞きたかったんだけど」
     まさか脱衣から問題があると思っていなかった審神者は、今日何度目かの頭を抱える動作を取った。三日月宗近は、こんな刀剣だったのか。自分が知らなかっただけか。彼女の驚きや戸惑いを余所に、三日月はなおも微笑んでいる。今度からもっと他の刀たちと話をしたりしよう……。彼女がそんな風に思っていると、三日月はぽんと手を打つ。
    「そうさな、今日からは主に手伝ってもらおう。なに、脱がせるだけだ問題はあるまい?」
    「大有りだよっ! 何でそうなるんだいっ!」
     だがお互いが入浴している際。どうやっても傍にいなくてはならないのは明白だった。とりあえず彼女は大浴場が空くまでと、夜が更けるのを待った。誰もいなくなってから、一緒に行って何とかするしかない。
     ほうほうと山鳩が鳴き、月も傾き始めたころ。彼女はやっと執務室から顔を出してきょろきょろとあたりを見渡した。一通り、皆入浴は済ませたようである。
    「こうなったら仕方がないよ、一緒に入るしかない」
     大浴場まで移動して、彼女は脱衣所にしっかり鍵を掛けて誰も入れないようにしてからそう言った。目はもう据わっている。
    「浴場の広さを考えれば、どちらかが外にいてどちらかが中でお風呂に入るって言うのは無理だ。鎖が足りない」
    「ふむ、してどうするのだ?」
    「どっちかが使ってる間はどっちかが目を塞いでおくしかないよ。もうとりあえず今日はそうしよう、疲れて頭が回らないんだ。他にいい案ある?」
     そう聞けば、三日月は黙って首を振った。はあとため息をつき、彼女はするすると自分のセーラー服から深紅のスカーフを抜き取る。
    「いいかい? ここで服を脱いでいる間は、これで目隠しをする。あと浴室の電気は消す。三日月さんは太刀だし、そうすればある程度視界は限られるでしょう?」
    「まあそうだな」
    「あと、これはもう当然なんだけど、最低限は自分でタオルとかで隠して。そこまでは流石に世話できないよ。じゃあ僕はこれで目を塞ぐから。その間にちゃっちゃと脱いで。そしたら声掛けて」
    「しかし主や、俺はこれが脱げん」
     そういえば、そうだった。膝から崩れ落ちそうになりながら、彼女は顔を覆う。三日月のほうはにこにことしたまま、自身の狩衣の袖を持って両手を広げていた。脱がせてくれというポーズのようだ。勘弁してくれだとか、適当に紐を解くなりなんなりして自分で何とかしてくれないかとか、色々言いたかったがもう頭が回らない。彼女は諦めてセーラー服の袖をまくった。
    「……わかったよ、ちょっと屈んで」
     その年頃の女性の平均的な身長しかない彼女には、三日月は大きすぎた。屈ませてとりあえず胸の防具を取り外す。ああまったく、何でこんな目に遭うのだ。
     防具を取り、髪飾りを外し、帯を解く。それだけで狩衣は脱げたので、後は内着である。やや顔を熱くしながら、彼女は三日月の胸元をくつろげてやり、袴の結び目を解いた。
    「……っ、もうこれでいいだろう! あとは脱ぐだけなんだから頼むよ、僕は目を塞ぐからっ!」
     そう言って彼女が自分の瞼をスカーフで覆ってしまえば、背後からくすくすと楽しげな笑い声がする。
    「ははは、あいわかった」
     いつも「世話されるのは好きだ」と言っているし、もしかして、今のはわざとだったのではあるまいか。そんな考えが彼女の脳裏をよぎった。しかし現状はそれを深く考えていられるほどの余裕はない。
     するするという衣擦れの音が、やや大きめに聞こえる。視界が塞がれているせいか、他の感覚が過敏になっているのだ。いたたまれない気持ちで彼女が硬直していると、大きな手がついとその手を取った。
    「終わったぞ、主や」
    「う、わかった。もうこの際こっちの服が濡れるのは仕方がないから、あなたのお風呂が終わるまで僕はこのままでいるよ」
    「あいわかった。ああ、待て主。それでは足が濡れる」
    「え? あ、ああそうだね」
     まさか紺色のセーラー服一揃いを脱ぐわけには行かないが、彼女はまだハイソックスを履いたままだった。確かにこのまま浴場へ移るわけには行かない。三日月はまず手を引いて、傍にあった椅子に彼女を座らせた。
    「ありがとう、今脱ぐから少し待ってて」
    「いいや、目を塞いでいて不便だろう? 俺が脱がせてやろうな、主」
     穏やかで、やんわりとした声で三日月が言ったので、思わず審神者は頷きそうになった。しかしすぐに我に返る。今何と言った。
    「えっ? 大丈夫だよっ」
     彼女は慌ててスカーフを取ろうと頭に手をやった。しかし、今それを取れば三日月のほうが全裸のはずである。それはまずい、酷くまずい。先程頼んでおいたから、腰にタオルくらいは巻いているかもしれないが、それでも目隠しをとることは躊躇される。
     靴下くらい目を閉じていても脱げるから、と審神者がそう口に出す前に、三日月は彼女の右足に手を掛けていた。三日月は自分の膝の上にそれを乗せて、左手でふくらはぎのあたりを支え、右手で口ゴムに指を差し入れる。それから徐々にそれがずりおろされて、つま先から抜かれた。見えていないからか、余計にありありとその感触がわかった。右の足の裏に、三日月の肌が直接触れる。もう片方の足も同様にしてハイソックスが脱がされていった。ぺっとそれを傍に投げ捨てると、三日月は指でついとそのつま先や膝の辺りを撫でる。
    「はっはっは、小さく女子らしい、可愛らしい足だなあ」
    「かっ、勘弁してくれないかっ! 靴下くらい自分で脱げる!」
    「そうか? さあ、これで濡れる心配はあるまいな。念のためその着物は濡れんよう押さえておくといいぞ」
     三日月は再度彼女の手を取り、立たせて歩き出した。明日は絶対にもっといい入浴方法を考えてやると心に決めながら、彼女も膝丈のスカートを片手で押さえる。手を引かれるまま、彼女はぺたぺたと歩いて浴場へ入った。むっとした熱気が頬に当たる。
    「僕は適当なところに立っているから、体や頭を洗ってしまって。必要なときにまた呼んでよ」
    「あいわかった」
     彼女がぴちゃぴちゃと足元のお湯を弾いている間に、何やらざばざばという音がして三日月は体を流しているようだった。彼女がなかなかやりづらいなあと思っていると、浴場に「主や」とのんびりした声が反響する。
    「なに? 洗い終わった?」
    「いいや、髪が洗えん」
    「は?」
     今度こそ耳を疑った。髪? もしや洗えと言うのだろうか。
    「冗談やめてよ、僕は洗ってあげられないよ。第一、そんなことしたらびしょ濡れになる」
    「ふむ、駄目か? 普段は粟田口の子らがしてくれるんだが」
    「無理無理っ! まず目隠しを取らないといけないじゃないか」
     別にセーラー服なら洗い換えがある。けれど目隠しを取るのだけは無理だ。ここは風呂場だ、三日月は全裸だ。そんな恐ろしいことができるはずがない。
    「しかし主や? 俺は主のためにこうして共にいるんだが」
    「う、それはそうなんだけど」
    「俺の世話はよろしく頼んだはずだぞ?」
     それも、そうなのだが。審神者が立ち尽くしていると、くすくす愉快げに笑う声が響いた後、彼女の腕輪がぐいっと引っ張られた。
    「ひゃっ」
     つるりと足を滑らせて、彼女は浴室に思い切り尻餅を搗く。当然だがセーラー服はしっかり濡れて、その拍子に頭に巻いていたスカーフもずり落ちた。
    「ちょっと!」
    「はっはっは、いい眺めだぞ主」
     彼女の濡れたプリーツスカートが腿までめくれ上がり、セーラーも体に張り付いている。洗い場では三日月が膝にタオルを置き、頬杖をついて楽しげに笑っていた。
    「なにするんだ、今鎖を引っ張っただろうっ!」
    「さあ、どうだかなあ? さて主や、それならばもう濡れても構わんだろう? 髪を洗っておくれ」
    「まったく……あなたとんだ狸爺だね、僕の考えが間違っていたよ」
     ふふっと三日月は悪戯っぽく笑う。彼女は諦めて立ち上がり、びしょ濡れのままその手にシャンプーをワンプッシュ取った。わしわしと泡立ててから、三日月の細く絹のような髪にそれを通す。
    「しっかり目を閉じててよっ! そうじゃないと目に入ってしまうからねっ!」
    「あいわかった、頼んだぞ主や」
     痒いところはございませんかーなんて、悠長なことを言っている余裕はない。けれどわしゃわしゃと地肌を洗いながら、彼女は頭皮もマッサージしてやった。確かに、狸爺だけれど今は審神者のために不便も我慢してくれているのだ。ならばせめて粟田口のほうがよかったなんて思わせないことが、彼女にしてやれることである。
    「やあ、気持ちがいいなあ」
    「そうですか。しかしすごいね、美形は頭の形まで良くて髪まで綺麗なんだ」
    「いいぞいいぞ、触ってよし、褒めてよし」
    「……これ以上は遠慮しておくよ」
     ささっとトリートメントまでしてから、それを洗い流し、審神者は三日月から離れた。ずぶ濡れになったセーラー服が気持ち悪い。三日月が湯船に移動したので、彼女はその傍に体育座りをして目を細める三日月を見つめる。濁り湯なので、目隠しをしなくてもそこまで気にはならなかった。結局自分はびしょ濡れになったが、まあ三日月が気持ちよさそうだからいいと思うことにする。
    「主も共に入ってしまうといいぞ、それだけ濡れていればもうあまり変わりあるまい」
    「いやそんなことないよね? 三日月さんがしっかり温まったら、僕もお風呂使わせてもらうよ。悪いけど目隠し交代だからね」
    「あいわかった」
     審神者は今度は入れ替わりに、三日月に深紅のスカーフを巻きつける。もうここまで濡れてしまっていれば、脱衣所に行く方が面倒だった。浴室でそのままセーラー服やら何やらを脱ぎ、髪や体を洗う。手早くそれらを済ませると、彼女もまた湯船に浸かった。三日月は彼女に背中を向けて湯船の縁に凭れている。
    「はあ、やっとすっきりしたよ。ごめんね、不便をかけて」
    「いいや、ゆるりと温まるがよい。女子は体を冷やしてはならん」
    「ふふ、ありがとう」
     ふうと息を吐き、彼女は肩まで湯に沈めた。今日は随分と疲れた。そのせいか、刀剣たちが皆本丸にいる今もやや瞼が重い。ややうつらうつらとし始めたとき、三日月が不意に口を開いた。
    「主や」
    「ん? なんだい?」
    「今日一日どうであった?」
     三日月の問いに、彼女は苦笑を零す。どう、と言われても、一日で随分色んなことがありすぎてよく思い出せない。
    「そうだね、色々あって僕は少し疲れたよ」
    「はっはっは、そうさな。まあそうとも言える。だがどうだ? やっていけそうか? 俺はそれなりに楽しいぞ」
    「まあ、あなたが不便がないならそれが一番だよ。僕は協力してもらっている身だからね」
    「そう言えば主や、実は先程主が眠っている折、顔に落書きをさせてもらった。落ちたか?」
    「ええっ? あなたそういう性格だったのかいっ? 知らなかったよ!」
     彼女が素っ頓狂な声でそう言えば、スカーフで目元を覆われた三日月が唇を緩める。
    「やっと楽しげな声が聞けたなあ、主」
    「……え?」
     彼女が三日月のほうを振り返った。ほんの少し湯が揺れて、ぱしゃぱしゃと音を立てる。三日月は穏やかに笑みを浮かべたまま、言葉を続けた。
    「なに、今日一日傍近く主を見ていたが、何やら難しい顔をしていたり怒っていたりでなあ。そろそろ笑った顔が見たかったのだ。まあ、今は見えんがな」
     そう言われて、彼女も一日を振り返った。確かに、朝こんのすけに手錠をはめられてからずっとそうだったかもしれない。ふふ、と笑って、彼女は肩の力を抜く。どうやら三日月は三日月なりに、彼女の緊張を解そうとしてくれていたようだ。
    「……ありがとう、三日月さん。僕のこと気遣ってくれたんだね」
    「なに、大事な主のためだ。当然だぞ」
     神格が高いせいもあるだろうが、手錠の相手に三日月が選ばれたことはあながち間違いでもなかったのかもしれない。確かにマイペースだし、調子を崩されることも多いけれど三日月は年長者だった。きちんと審神者のことを思いやってくれている。
     今まで、彼女のことはずっと歌仙が面倒を見てくれていた。わからないことは教えてくれて、どう刀剣たちを導けばいいか、どう敵を倒していくべきか、常に支えてくれていた。その歌仙ではなく、三日月と一緒に生活しなければならなくなったことで、彼女は少なからず不安を覚えていたのである。だがそれは余計なものだったらしい。三日月は三日月なりに、きっと色々考えてくれている。
    「頑張るよ、僕。せっかくあなたが協力してくれているんだ、できることはなんでもする。本当にありがとう」
    「はっはっは、無理はならんぞ、主や。さて、そろそろあがるか。のぼせてしまうぞ」
    「ああ、そうだね。そうしよう」
     彼女がざばりと湯から上がったときである。お約束とも言うべきなのだろうか、するりと三日月の頭からスカーフが抜け落ちた。
    「おや」
     暗闇だったのがまだ幸いだが、彼女はばっちり三日月と目が合った。ちなみに彼女は湯ぶねに浸かっていたこともあり、タオルは縁に置きっぱなしである。……ということはつまり。
     きらりと三日月の瞳の中の月が煌いた。ついっとその光は彼女の首から下へ向けられる。
    「せ、せ、せめて目を逸らしてよっ!」
     しっかりこちらを見ていた三日月に向け、彼女は平手をお見舞いする。バチンと小気味良い音が浴場に響き、「あなや」なんていう声もタイルに反響していった。
     とりあえず、その日二人は三日月の部屋から几帳を持ち出して執務室に置き、それの両側で眠ることにした。もう今度こそ疲れて死にそうになっている彼女の右手が引かれる。ついついと布の向こうから鎖を引っ張っている三日月が、「おやすみ主」と言っていた。半分眠りに落ちながら、彼女もまた「おやすみ三日月さん」と答えたのだった。




     やっとこさ常に三日月が一緒にいることに慣れ、要領よく入浴や就寝もこなせるようになった頃。審神者には、腕時計を確認する容量で手錠の数字を見る癖がついた。ちなみに今は六十、やや眠気が勝りつつある状況である。
    「ふあ、三日月さん、ちょっと休憩。眠くなってきた」
    「うん? あいわかった、ではそちらへ参ろう」
     執務室の向こう側で本に目を通していた三日月が、顔を上げて微笑んだ。眠いと言えば、三日月は傍へ来てくれる。そうすれば一か二ほどではあるけれど、僅かながらに数値は上昇するのである。ジャラジャラと鎖を鳴らしながら移動し、三日月が彼女のぴったり隣に正座する。なにやら良い香りがくゆった。審神者は小瓶からチョコレートを二つ取り出して、一つは自分の口の中に、一つは三日月の口に放り込む。最近知ったのだが、三日月はチョコレートの包み紙を開けるのが苦手らしい。
     口の中でゆっくりチョコレートを溶かしていたのだが、今日はあまり数値が上がらなかった。大抵、三日月に傍にいてもらって少しでもものを食べれば、眠気はましになるものである。
    「あれ……? おかしいな、まだ眠い」
    「どれ、見せてみよ」
     三日月は彼女の右手を取って手錠を眺めた。数値は五十八まで落ちている。
    「疲れてるのかな」
    「ふむ……今少し距離を詰めてみるか?」
    「え?」
     三日月はそういうと、ひょいっと彼女の両脇に腕を突っ込んで持ち上げ、そのまま彼女を自分の膝に乗せた。僅かにしか届いていなかった三日月の香が、今度はしっかりと彼女を包む。
    「何するんだい、いきなり」
    「隣で座るだけでだめならば、こうするしかあるまい?」
    「いやまあ、確かに物理的な距離は縮まってるけど」
     だが抵抗するほどの余力も彼女にはなかった。掴まれたままの右手首を見つめる。しかし数値は上がっていきそうになかった。首を傾げて、彼女は閉じそうになる瞼を必死に開けていた。
    「なんで、かなあ……」
    「眠るか? 主や」
    「でも、まだ今日はしなきゃいけないことがあって……」
     そうは言っても、もう半分目は閉じている。とろとろとしたまどろみに落ちていきそうになり、思わず彼女は背後の三日月にもたれた。三日月のほうも起こしてくれればいいものを、大きな手で彼女の瞼を覆い、腹に腕を回して寝かせようとしてくる。
    「無理をするでない、しばし休め」
    「で、も」
     ほんのり暖かい狩衣に包まれて、そのまま寝入りそうになったとき、襖がとんとんと叩かれた。
    「主、僕だ。歌仙だよ」
     目を見開き、勢いをつけてがばりと彼女は起き上がった。すっと襖が開き、中を覗いた歌仙が怪訝そうに眉間にしわを寄せる。三日月を近侍にしてから、彼女と歌仙との会話は随分減った。それもそのはず、彼女は物理的に三日月から離れられないのだ。
    そしてそれをいつも歌仙が不思議そうな目で見ていたことに、三日月は気づいていた。
    「どうしたんだい、主。三日月殿の膝になんか座って」
    「あっ、之定っ! いやちょっと」
    「はっはっは、すきんしっぷだぞ歌仙」
     彼女ではなく、三日月のほうがにこりと笑って答える。すると歌仙ははあと息をついて、それから審神者のほうに数枚書類を差し出した。
    「確認していたんだけどね、予算の記入間違っているよ」
    「えっ、本当かい?」
     慌てて三日月の膝から立ち上がり、彼女は歌仙から予算表を受け取る。ひらりと三日月の鼻先で、紺色のプリーツスカートが揺れた。鎖はきちんと不可視化してあり、彼女の腕にはただの腕輪が嵌っているようにしか見えなかった。
    「ああ、本当だ。これを記入したのはえっと……」
     審神者は苦い表情を浮かべた。あれも酷く眠たかった日のことだ。
    「あとこれと……これも。普段きみがしないようなミスばかりだ。どうしたんだい?」
    「あ……ごめん之定、僕少しボーっとしていて」
    「私、だよ主」
     やや厳しい視線を、歌仙は彼女に向ける。彼女は何も言えなくなって俯いた。三日月はただじっと、その頼りないセーラー服の背中を見つめる。
    「どうしたっていうんだい? 近侍を変えたとはいえしばらく経つ、それに防げる間違いばかりだ。これはあんまりだろう」
    「……」
    「そんな様子じゃ、三日月殿にも迷惑を掛けてしまう。もっとしっかりしなくてはだめだ。僕がずっと教えてきたことを忘れたのかい?」
     そこでふと、三日月は今まで何か引っかかっていたことが何だったのかに気がついた。それからふっと微笑んで立ち上がり、握り締められている彼女の手を引く。
    「やあ、すまんな歌仙。おそらく俺のほうが近侍の仕事に慣れておらんのだ。主のせいではない」
    「いや、三日月殿。この子は皆の主なんだ。もう少ししっかりしてもらわないと」
    「なあ、歌仙」
     歌仙の言葉をさえぎり、美しく、優しい笑みを浮かべたまま、三日月はそっと囁くように言った。
    「おぬしの話し方と、主の話し方はとよく似ているな」
     ハッとして彼女は顔を上げた。歌仙もまた、目をぱちくりとする。
    「どういうこ」
    「之定、ごめん。直しておく。それじゃあ」
     再び口を開きかけた歌仙から書類を全て奪い取ると、彼女はそのまま歌仙を執務室から追い出した。しっかりと襖を閉めてしまってから、彼女はそれに寄りかかる。
    「……どうして、気づいたの?」
    「なに、いつも気にはなっていた。そなた、ずっと歌仙の真似をしていたのだろう?」
     少女は、三日月のほうを振り返った。そこには、審神者などではなく、いつもの『僕』でもなく、ただどこかあどけなく、頼りないセーラー服姿の少女が立っていた。三日月はその顔を目を細めて眺める。
     ふっと笑って、少女は三日月の横を通り過ぎ、文机の前に座った。それから隣の座布団を叩いて、三日月にも座るように促す。引き出しを開けて、少女は何冊かノートを取り出した。
    「……昔ね、何をやっても人並み程度にしかできない子がいたんだよ。人並みって言うより、まあ人並み以下って言ってもあながち間違いじゃないんだけど」
     ぺらっと少女はノートを捲る。そこにはびっちりと書き込みがしてあった。達筆な筆の文字はおそらく歌仙、その横に小さく色々メモしてあったり、なんだりするのがきっと少女のものである。予算の計算方法であったり、兵法であったり、雑多に様々なことが書いてあった。
    「その子はね、急に歴史を守れとか敵と戦えなんて言われても、ピンとは来なかったんだよ。だってその子はずっと普通だったんだ。何にも褒められるようなこともなくて、特別なものは一つも持っていなかった。でも、そんな子にもついてきてくれる人が何人もいた。『私が主じゃないほうが良かった』って泣くその子に、きみじゃなきゃだめだって。その子がどんなにポンコツでも、それでも『主』だって慕ってくれる人が何人もいたんだ。だからね、その子は決めたんだよ。何があっても、自分を必要としてくれた彼らのためになることをしようって。そのために、彼らが求めてくれる自分でいようって」
     ふああと少女は一度欠伸をした。手錠を見れば、数値がどんどん下がっている。この分だと一度眠らなくては、回復は難しそうだ。
     その昔、ある少女が歌仙に言った。「あなたみたいになれたらいいのに」と。知識も力もある、歌仙のようになれたら、自分の元に集ってくれた刀たちに報いることができるだろうかと。すると歌仙はこう返した、「なら僕がきみの師匠になろう、僕の真似をするといい」と。
    「……その子はそれからどうしたのだ? どこへ行ってしまったのだ?」
     三日月が、文机に突っ伏した彼女に問う。顔にかかってきた髪の毛を耳にかけ、審神者はふっと微笑んだ。
    「さあ、知らない。僕は僕だから。ここにいる間、僕はずっと僕だから」
     そう、決めたのだ。だが三日月は柳眉を垂れて、眠たそうな少女の頬に触れた。繋がれた鎖が僅かに音を立てる。
    「それでは……その子は寂しかろう。誰も、覚えていてやらないのでは」
    「……じゃあ、あなたが覚えていてあげて」
     半分閉じかけた目を、彼女は三日月に向ける。月夜のゆったりとした三日月の瞳を見て、少女は安心したような表情を浮かべた。
    「私のことは、あなたが覚えていて……。寂しくは、ないけど。それでも、もし三日月さんが覚えていてくれたら、嬉しいな……」
     すっとそのまま、彼女は眠りに落ちていった。三日月が手錠を確認してみれば、そこには随分低い数値が表示されている。霊力は精神力で生命力。やはり三日月を近侍にしてからこちら、歌仙とあまりいい関係でいられなかった上、今のような怒られ方をしてやや落ち込んだのだろう。その影響である。
     起こしてしまわないよう、三日月はゆっくり彼女の体に自身の腕を差し入れ、そのまま狩衣にもたれさせる。プリーツスカートから頼りなく細い足が投げ出されているのを見つめ、やや微笑んだ後、三日月は子どもをあやすようにして体を前後に揺らした。
    「はじめまして、三日月宗近さん。僕がこの本丸の審神者。一応これからあなたの主になる人間だよ」
     初めてこの本丸に顕現し、目を開けたとき。この少女はそう言って自分に手を差し出した。後ろに控えていた歌仙が、ついと彼女の襟首を引っ張ったのまで覚えている。
    「こら、いつも言っているだろう? 私、だよ」
    「いいじゃないか、こっちのほうが慣れているんだから。こっちは僕の初期刀で近侍の之定、歌仙兼定だよ。本丸のことは之定が一番良く知っている、わからないことは何でも聞いて」
     不思議な話し方をするヒトの子だなと、三日月は最初に思った。一応「僕」というのがその年頃の女性の一人称ではないと言うことを、三日月は知っていたのだ。
    「僕はきっと頼りないと思う。女だし、子どもだし。でも、それでも頑張るから。あなたが協力してくれる気持ちに応えられるよう、精一杯頑張るから。よろしく頼むよ」
     そう言って差し出された手を、三日月は自然と取っていた。その暖かく小さな手の持ち主に、惹かれたのだ。どんなヒトの子なのか、興味を持った。
     だがきっと、本当に傍にいたいと、もっとよく話をして見たいと思ったのは、初めて三日月が重傷で帰城した日のことがきっかけだった。別に審神者の指示が悪かったわけではなく、部隊編成が問題だったわけでもない。強いていうなれば、三日月のほうに刀としての自負があったのだ。このくらいなら進軍しても構うまいと、読み違えた。三日月宗近は自身の刀としての価値に関しては、ことに敏感である。それは彼に特に武勲はなく、美しさだけを評価され続けたことに起因しているのかもしれない。
    「あなたは全く馬鹿だねっ! 本当に、呆れてしまうよ! 帰っておいでと言ったじゃないかっ!」
     帰城した瞬間、三日月は彼女に頭をひっぱたかれた。それはもう綺麗に掌が額に入った。重傷なのもあいまって、そのとき三日月は歌仙とにっかり青江とに肩を貸されていたのに、彼女はそんなことお構いなしに叩いた。呆気にとられて三日月が何も言えなくなっていても、気にもしない。
    「夕食は手入れが終わるまで抜きだよ、食後のデザートはなし! 残念だったね、今日は堀川が腕によりを掛けたのに。さっさと手入れ部屋に来て!」
     容赦なく審神者は三日月を手入れ部屋に放り込むと、忙しなくセーラー服を揺らして手入れをしてくれた。そしてそれが終わればお説教である。狩衣を着た三日月を正座させて、彼女は自分だけ何か口にしながら怒っていた。今思えば、あれはきっと霊力が不足していたのだろう。
    「すまんな、主や。まだと俺がぬかったのだ。皆は悪くない」
    「知っているよ、そんなこと。僕は皆を叱ってなんかいないじゃないか。天下五剣が聞いて呆れる」
     酷い言われように、三日月は再び押し黙る。こんな扱いは打たれて以来初めてされた。
    「流石自分をじじいとか言っているだけあるよ。耄碌しているんじゃないのかい? 僕の指示が聞こえなかったのかい?」
    「……すまん」
     辛辣にぐちぐちと軽率だの、もっと自分の練度を理解したらどうだなど、ぐうの音も出ないがなかなかに耳に痛いことを言われ、三日月はすっかりしょげてしまった。当時は特に審神者と会話を持ったこともなかったし、実は自分は嫌われているのでは……? とさえ思った。だが一番最後に、ふうと息を吐いて、三日月の口の中になにやらどら焼きを突っ込みながら、彼女はこうも言ったのだ。
    「いいかい三日月宗近、よく覚えておいて。あなたはここにいる限り、僕の刀なんだ。天下五剣だろうが美しかろうが、……武勲がなかろうが関係ないよ。あなたはここに来たからには僕の刀、たった一人の僕の刀なんだ! 勝手にどこかで死ぬのなんて承知しないからね! じじいだからって早々に死なせたりしないよ!」
     どら焼きの中身は、餡の他に何か混ぜてあったらしい。しっとりしているようで、すっきりとした甘さもある。彼女は怒っているようで実は涙目になっていることに、三日月はそのときやっと気づいた。口を動かしながら何度かぱちぱちと瞬きをし、三日月が彼女を見つめていると、ふいっと視線は逸らされる。
    「……何でもいいから、帰ってきてよ。そうしたら僕が直す。何があっても直す、必ず。だからあなたは、生きて帰ってくることだけ考えて。いなくなったらとても、寂しいよ」
     少しだけ、鼻をすする音が聞こえた。
     モノであるこの身は、その役目を果たすことが第一だと、三日月は考えていた。その任の最中で折れることがあろうとも、それはもう定めなのだと。むしろ本分を果たしたのではないかとさえ、思っていた。
     けれど目の前の主は死ぬなと言う。「折れるな」ではない、「死ぬな」である。寂しいから、死ぬなと。おまえは自分の刀なのだと、たった一人の自分の刀なのだと……。
     それを聞いたとき、三日月は今まで顕現してどこか宙に浮いていたようなこのヒトの身が、やっと地に足をつけたような気がした。
    モノであったこの自分を一人の心ある刀剣男士にしたのは、紛うことなく血肉を与えしこの少女なのだと実感した。だからこの身はこの子のためにあろうと決めた。初期刀の歌仙ほどは役立てないかもしれない。けれど自分にできることがあるならば、何でもしてやろうと……。
    「……主や、このどら焼き、餡に何か混ざっておらんか?」
     そう声を掛ければ、彼女はぴくりと肩を震わせて反応する。急いで目元を拭い、彼女はセーラー服を揺らして振り返った。
    「生クリームだよ。混ぜれば甘さがすっきりするって堀川が」
    「ふむ、うまいなあ。して、堀川が作ったと言うことはこれは今宵のでざあとではないのか?」
     問えば、ふんと彼女は再びそっぽを向く。どうやら正解だったらしい。先程デザート抜きだと言ったのに。三日月はくすくすと笑いを漏らした。
    「次同じことをしたら本当に怒るからねっ! デザートどこじゃなくてご飯抜きだ!」
    「はっはっは、あいわかった」
    「笑いごとじゃないっ! しっかりしてよもう。……今日はお疲れ様。負傷はしたけど、三日月さんはやっぱり強い。僕の自慢の刀だよ」
     もう一つ、三日月の手にどら焼きを渡して、彼女は手入れ部屋から出て行った。最初の日に握った暖かな手が一瞬触れたとき、手入れされて問題のないはずの胸がどきりと高鳴った。
     地に足を着け、ことりと跳ねた三日月の心。それがいつしか恋慕と呼ばれる感情になった。だからまあ、現在のこの手錠生活は三日月にとって実は役得なのである。ふふふと笑って、三日月は腕の中で眠り続ける彼女の頭を撫でる。その表情はやや疲れたものだった。
     願わくはせめて、優しい夢を見ているように。欲を言えば自分がその中にいるように。強く思えば、相手の夢に現れることができるかもしれない。あわよくば、それがきっかけで彼女も自分を意識してくれるかもしれない。
    「うたた寝に、恋しき人を見てしより……とはいかんか」
     だからせめて、一緒に眠れば同じ夢が見られるかもしれない。三日月は壁にもたれ、自分も目を閉じた。腕の中の少女だけは絶対に離さないように、手錠をした手と手を繋いで、それから二人して眠りに落ちていった。




    「うわっ、僕また寝ていたかい?」
     藍色の狩衣の中で、審神者はがばりと起き上がる。確かに眠ってはいたが、大した時間ではない。三日月は微笑んで彼女のやや寝乱れた髪を撫でた。
    「やあおはよう主。確かに眠ってはいたが、少しの間だぞ」
    「ああもう、今日はしたい作業があったんだ。なのにまた寝ちゃった、困ったなあ」
     確かに、あの歌仙に怒られた日から審神者の霊力は随分不安定になっているようだった。今のように突然寝入ってしまうこともあるし、腕に表示されている数値も百まで上がることがなくなった。要は上限が下がったのかもしれないのだ。これは審神者にとっては非常事態である。ただでさえ不便な手錠生活なのに、手錠の鎖が短くなってしまうかもしれないのだ。
    「ごめんね、三日月さん。最近は殆ど離れないで一緒にいてくれてるのに」
     はあと彼女はため息を吐きながらチョコレートを口に放り込む。しかし三日月はまだ彼女を膝に乗せたまま、微笑んで首を振った。彼からしてみれば、霊力の問題を置いておけばこれは僥倖に過ぎない。
    「いいや、構わんよ。それより今日の出陣予定を見直しておくがいい。そろそろ頃合だろう」
    「ああ、そうだね。そうする。もし僕が舟を漕ぎ始めたら、後ろから叩いていいからね、三日月さん」
     くつくつと三日月は肩を震わせて笑った。そんなこと、できるはずもないのに。
     その日の出陣部隊は一部隊ずつ、昼と夜に二回だった。霊力が低いと言えど、出陣任務は他の本丸同様こなしていかなくてはならない。審神者は石橋は叩きまくってから渡る性分なので、無理な合戦場へ刀剣たちを行かせたりはしないけれど、念には念を入れて部隊編成を確認していた。ぱらぱらと表をめくる手を、三日月はじっと見つめる。
     無論、三日月にも兵法の知識はあった。だが歌仙ほど幅広いものではないし、三日月の教えられる程度のことは彼女は既に知っている。だから近侍と言っても、三日月は本当に彼女の霊力のためだけに傍にいることが多い。
    「……うん、問題なさそうだね。昼は厚樫、夜は池田屋だ。最近槍の威力があがっているって政府の通達が気にはなるけど、それを見越した部隊を組んだ。きっと大丈夫だと思う、ねえ之定」
     さらっと、それは何の気なしに発せられた言葉だった。おそらくそうして確認するのが彼女にとっての習慣だったのだろう。むしろこれまで一度もそう呼びかけられなかったことが不思議なくらいだ。きっと、それは彼女が三日月相手に緊張していた証拠なのだが。
     三日月はピクリとその手を震わせる。彼女もハッとして振り返った。
    「ごめん……」
     彼女は何とも言えない表情で目を伏せる。三日月もフォローはしてやりたかったのだけれど、流石に曖昧に笑っているしかできなかった。
     「ねえ之定」という彼女の声は、受け流すにはあまりに優しすぎた。今まで、三日月とて何度もその名前を呼ばれてきた。「三日月さん」と、手錠をつけ始めたときよりずっと親しい声音で呼びかけてくれる。だが、今のものには敵わない。きっと毎日欠かさず口に出されてきた名前なのだ。そう言うことが自然で、日常だったのだ。
     かくっと審神者の体が揺らぐ。三日月が慌ててその右手を掴んで見れば、また数値が下がり始めていた。
     霊力は、精神力で生命力。数値が下がることが常習化すれば、その生命維持にも関わる。
    「主や、しばし休め。これ以上はそなたの体に良くない」
    「いや、仕事しないと……。ただでさえ、さっきまで寝てたんだ。しなきゃいけないことも、あるし、寝てるばっかりじゃ怒られてしまう」
     誰に、とは言わない。けれどきっと彼女はこれ以上誰かに失望されることを恐れているのだ。現に歌仙に叱られた日からこっち、ずっと不安定でいる。しかも今、三日月の名前まで呼び間違えた。
    「落ち着け、俺は怒りはしない。そなたは自己評価が低すぎるぞ?」
    「そうじゃなく、て。あなたが怒らなくても、僕は頑張らなきゃ、いけないんだ」
     三日月は審神者の、書類に伸びかけた手を押さえた。眠たいのだろうが、それでも抵抗するので三日月は後ろから彼女を抱きかかえて抑えこまねばならなかった。
    「主、俺はそなたの体の害になることをさせるわけにはいかん。仕事も何も、その身あってこそだぞ」
    「いやだ、離して。お願い、だから」
    「何をそこまで執着する。主、じじいの頼みだ、その身を一等大切にしておくれ」
    「あなたに何がわかるんだ!」
     審神者が叫び、三日月の膝から立ち上がった。限界まで遠ざかったため、二人の間で鎖が張り詰める。がちゃりとそれは歪な音を立てた。
    「三日月さんにはわかんないよ! そんなに強くて、綺麗で、立派なんだもの! ポンコツで、何にもできない僕の気持ちなんかわかるはずがないっ!」
     三日月は慌てて手錠の鎖を手繰った。無論、三日月のほうが力が強いのだ。審神者はあえなく引っ張られて、三日月に抱きとめられる。
    「主、俺は」
     手錠の数値は下がり続けている。遂に四十を切りはじめ、彼女の体からも徐々に力が抜けていっているのがわかった。眠たいのだろう、ぐらつきそうになっているのを、何とか三日月の狩衣を掴んで耐えている状態だ。
     そのとき文机の上にあった通信端末がピピピと甲高く音を鳴り始める。タイミングとしては、最悪だ。震える手で審神者が画面を叩けば、出陣中の部隊から通信が入っている。
    『主、聞こえるか?』
     今出陣している部隊の隊長は、歌仙のはず。だが聞こえてくる声は、歌仙のものではなく鶴丸だった。
    「鶴、どうして」
    『おい、大丈夫か。なんだか声が弱弱しいぜ。いや検非違使に出くわしたんだが、どうにも強くてな。帰還したいんだが、殿を務めた歌仙が戻らない。どうする』
    「之定がっ?」
     審神者が目を見開いた。歌仙の練度もまた、あがりきっている。しかし今回は例の強くなった槍の程度を見るために出陣させたのだ。確かに部隊の編成を鑑みれば、おそらく歌仙は自分から殿を言い出すだろう。
    『どうする主。俺たちが退却するとき既に、歌仙は負傷していた。部隊から離れた状態でも、俺たちは帰城できるもんなのかい?』
    「……できないことは、ないけれど」
     彼女は渋い表情を浮かべる。できないことはない。彼女と刀剣男士とは縁で結ばれている。その繋がりを辿ればおそらく、無理やりこちらに呼び戻すことはできるだろう。
     だがそれには膨大な体力と霊力を使うはずだ。ちらりと彼女は自身の手錠を見る。この数値では、厳しい。
    「鶴丸、お願いだ。もう少しでいいから、余裕のある隊員で之定を探して。僕もできることをするから」
    「待て、主」
     三日月が制止したが、彼女は一旦通信を切って小瓶の中からいくつもチョコレートを出し、一気に口に放り込む。しかしほんの一や二数値が回復したところで、何の意味もない。
    「回復もせんままに、無理をしてはならん」
    「放っておいて、お願いだ」
    「しかし……やはりだめだ。その様子では手入れすらできんだろう」
     指摘されたとおりだった。審神者は眠気で視界はぐらついているし、体もふらふらとしている。これ以上不安定な状態で霊力を使えば、やわなヒトの身などどうなるかわからない。
    「でも、だめだ。今頑張らなきゃ、之定が、死んで」
     ぐらりと体が揺らぐ。ピピー、と手錠が警告音を鳴らし始めた。三日月は焦って審神者を抱きとめる。
    「私は技量も何も、足りなくて。大したことできなくて。でも、あなたたちが、初めて私を必要としてくれた。だから、できることは全部したい。あなたたちのために、私ができることは、全部……っ」
     必要とされないことへの、恐怖感。それは三日月も良く知っている。刀という武器でありながら、武勲も何もなく美しいことのみを評価され続けた三日月宗近は、必要とされなくなることが、美しさだけを見られることが恐ろしい。
     ぎりぎりと彼女が三日月の狩衣を掴んでいる。その指先は、力がこもって真っ白く変わる。三日月はそれをじっと見つめ、目を閉じた。
    「それがそなたの願いか?」
    「うん……」
    「審神者としてだけではない、そなた自身もそう願うのだな?」
     彼女は霞む目を凝らし、顔を上げた。三日月が月を宿した真っ直ぐな瞳でそれを見下ろしている。ゆっくりと頷けば、三日月はそうかと呟く。
    「主、何を隠そう俺もぽんこつだ」
    「え……?」
    「天下五剣とは名ばかり。何の武勲もない。俺にあるのは、美しさだけだ。刀として誇れることは、何もない」
     天下五剣が一振り、名物中の名物。そしてその中で最も美しいと評された刀。三日月にとっては、それが全てである。だが果たしてそれは、刀として正しい姿なのだろうか。三日月はずっと、それを問い続けてきた。
    「だがそなたは俺に言った。ここに来たからには、俺はそなたのかけがえのないたった一振だと。自分の刀だと。ここにいる俺に意味を与えてくれたのだとしたら、それはそなたなのだぞ」
     三日月は優しく微笑んで、狩衣を握り締めている彼女の手を包んだ。
    「主も、俺にとってはかけがえのない主だ。他の誰がどう思おうと、俺は主が必要だぞ。だから頼む、その身を大切にしてほしい。だが主がそれでもそのように頑張りたいと言うのなら、俺もその想いに応えるとしよう」
     小瓶に手を伸ばし、三日月は中から数個チョコレートを掴み取る。片手で彼女を抱いているから、歯で包装を破り、口の中に放り込んだ。それからふっと唇を緩め、咥内でそれを溶かしながら彼女の頭を固定する。
    「一滴も零さず、飲み干すのだぞ」
     何を? と聞く間も与えずに三日月は彼女の唇を塞いだ。慌てて審神者が体を離そうとするも、しっかりと押さえられていて一ミリたりとも距離を取れない。
    「んっ、んんっ、ふぅ」
     どさりと二人の体が畳に倒れこむ。その衝撃に驚いたのか、緩んだ彼女の唇にぬるりとした三日月の舌が滑り込んだ。チョコレートがまとわりついていて、それは酷く甘い。三日月は審神者の両頬を押さえ、一切逃げられないようにしたままで、彼女の舌も絡めとり、深く深く口付けていった。
    「んぐっ、ふ、ぁっ」
    「……っはあ、零してはならんと言ったろう」
     とろりと唇の端から垂れた唾液を掬い、三日月はそのままもう一度キスを再開した。ちらりと彼女の手錠を流し見ながら。


     ピピピッと測定終了を告げる音が鳴る。こんのすけは審神者の腕から針を抜き、試験管に入った血液を眺めた。詳細は政府に帰ってからでなくばわからないが、簡易的にならば管狐は見極めることができる。
    「審神者様あっ! やはり故障などではないようです! 審神者様の霊力は上昇しております!」
    「嘘だろう!?」
     審神者は声を上げたが、こんのすけは首を振る。ぺしぺしとこんのすけはその手錠を叩いた。
    「表示されている数値で間違いありませんっ! 上限が倍に増えたとお考えになってよろしいかと!」
     現在、彼女の手錠には二百と表示されている。これまで、どれだけ間食を取ろうと、睡眠をとろうと百が限度だった。だから彼女は最初、故障したと思ったのである。だがそれは違ったらしい。
     呆然としている審神者の隣で、三日月がほけほけと笑う。
    「はっはっは、まあ俺が多少なりと肩代わりしているからな。それもそうだろう」
    「ああなるほど! そういうことでしたか!」
     物理的に傍にいるほかに、最初もう一つこんのすけが提示した方法がある。性行為だ。だが別に、必ずしもそうしなければいけないというわけではない。要は、何かしら体液を摂取すればいいというだけだ。しかしこんのすけはその辺を全てすっ飛ばし、肉体関係を持てと言ったのである。そのあたりはこんのすけにも、「男と女だし、嫌でも関係を持てばあわよくばそういうことになって、審神者の霊力が安定してくれないかなー」なんて、まあ薄ら暗い思惑があったりなかったり。
    「だったら一言そう言ってくれないか! 驚いたじゃないか!」
    「おや? 審神者様、それは性行為ではないとわかれば、三日月様と口付けなりなんなりしてくださったということですか?」
     こんのすけがにまーっとして投げかけた一言に、彼女はうっと言葉を詰まらせる。若干ながらその耳が赤く染まっているのを、三日月は見逃さなかった。
    「うん? 主や、何なら今からでもこの手枷を外し、そちらにしてもよいのだぞ?」
    「調子に乗るんじゃないっ! 確かにあのときは助かったけど、いくら眠気で朦朧としてたって、あなたがさりげなく僕の体に触ってたのなんかちゃんとわかってたんだからねっ!」
     そう、三日月はあのとき自分の唾液を口移しで審神者に渡すことで、回復を図ったのである。霊力が底をつきかけて、彼女の生命維持が最小限になりそうだと察した瞬間、三日月は強硬手段に出たのだ。そのおかげで審神者は霊力を急速に取り戻し、結果的に部隊に被害は出なかった。負傷していた歌仙も、すぐに彼女が手入れをした。
     まあそうして窮地を救ったのだから、多少体をまさぐったのは許容してもらえるだろうなんて。そんな甘い考えを抱いていたのだが、三日月はものの見事にそのあと動けるようになった彼女にひっぱたかれた。
    「前も言ったろう! 確かにスキンシップは大事だけどね、僕は女なの、不用意に服の中に手を突っ込まないで!」
     三日月はしれっとして明後日の方向を見る。うううと彼女は唸った。
    「全くあなたはどうかしてる、愚かだよ。愚か極まりないよ、こんな僕の霊力を肩代わりして、どうするっていうんだい」
     やや俯いて、審神者は呟いた。仮に、性行為ではないとわかっていても、彼女はきっとその手法はとらなかった。なぜならそれは、刀剣男士と審神者とが使役という繋がり以外の縁を持つことになるからだ。
    一度でも身体的な接触を持てば、二人の間にはパスが繋がってしまう。彼女のほうに不具合が出れば、それは三日月の負担として移っていくのだ。それを審神者としての研修で知っていたから、彼女は是としなかった。
    「言っただろう、僕はポンコツなんだ。足りないものばっかりだ。それが全部三日月さんに行くんだよ」
    「ああ、わかっているぞ」
    「……それでもいいのかい」
     審神者がセーラー服の裾を掴んでいるのを見ながら、三日月はその瞳を和ませた。それからその大きな狩衣の袖で彼女を包み、抱き寄せる。
    「言うたではないか、俺には主が必要なのだ。誰でもない、そなたがいい。不器用で、意地っ張りなところがあるがなあ。まあそこが可愛らしいではないか」
     一瞬だけ、審神者は眉を歪めて泣きだしそうな顔をした。三日月はそれに頬を寄せて髪を撫でる。小さくくぐもった声で、「調子に乗るんじゃないよ」と軽く胸の辺りが叩かれた。
    「それでは審神者様あっ! 今後とも三日月様とご一緒にいらっしゃいますようお願いいたしますっ! あっ、鎖の長さはやや伸ばしましたゆえっ!」
     くるっと一回転して、こんのすけは帰っていった。鼻をすすりながら審神者は顔を上げる。
    「ああそうか、霊力が上がったから鎖も伸びたんだね」
    「なんだ? 主や、残念か? 俺といたいのなら傍にいるぞ?」
    「だからさあ……あなたはすぐにそうやって」
     ぶつぶつと何とか言いながら、彼女は鎖を手繰った。これならとりあえず、ずっと一部屋で一緒にいる必要はなさそうである。がちゃりと音を立ててそれを落とし、審神者は立ち上がる。隣の部屋で、歌仙がまだ休んでいた。事情を全て話すわけにはいかないが、これからも教示を仰がせてほしいとは言いたい。
    「じゃあ、僕はちょっと之定と話をしてくるから。これなら隣の部屋にはいけそうだし。三日月さんは少し待っててよ、すぐ戻る。というか、戻らざるを得ないし」
    「はっはっは、あいわかった。待っていよう」
     ひらっとスカートを揺らして、彼女は執務室から出ようとした。襖を閉める寸前に、あたかも今思い出したかのように口を開く。
    「ねえ、そういえばさ。前に夢の話をしたじゃないか」
    「うん?」
     ちらりと彼女は三日月のほうを見つめる。
    「きのう、あなたの夢を見たよ」
     ぱちぱちと、三日月は何度かその長い睫毛に縁取られた瞳を瞬かせた。確かに、以前夢の話をした。平安時代では、自分を強く思っている相手が夢に出てくるのだと。そういう言い伝えがあると教えた記憶がある。
    「……そうか。まあ、そうだな。俺は主のことをいつも想っているぞ」
     やんわり微笑んでそう返せば、審神者はやや頬を赤くしてふいっと目を逸らす。どうせもう、三日月の気持ちはばれている。隠す必要もない。しかし彼女は首を振った。
    「それなんだけど、僕あの後ちゃんと調べたんだよ。そうしたらね、現代では、自分が好きな相手が夢に出てくるって言われてるんだって。強く想ってるから、頭が覚えていて、夢でも逢えるんだよ」
     それを聞き、三日月は思わず息を止めて風に揺れる彼女の髪や深紅のスカーフを見つめた。
    ということは、つまり。
    「……ねえ、きのう、私ね、あなたの夢を見たよ」
     すっとセーラー服が三日月の視界から消える。一拍遅れて、三日月は自分の手錠を引っ張った。廊下から「うわあっ」という声と、尻餅をついたような音が聞こえる。笑いながら立ち上がり、三日月は審神者を抱きしめるべく、襖を大きく開け放った。

    了 
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    2024/07/08 10:48:12

    【Web再録】きのう、あなたの夢を見たよ

    #みかさに #刀剣乱夢 #女審神者
    三日月といつも一緒(物理)な審神者の話。

    ATTENTION!
    ・オリジナルの女審神者がいます。
    ・独自の設定、解釈を含みます。
    ご注意ください。

    2016年に発行した本の再録です。
    恐ろしいことにこれが人生初めての同人誌でした。

    お手に取ってくださった皆様、ありがとうございました。

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