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    ソルトビネガーボンドの帰投が遅れに遅れている。今まで僕が関わってきた彼の任務の最長記録は8ヶ月だった。今回はタイミングや情勢が悪く当初の予定より半年遅れ、あと2ヶ月で戻ってくるところだった。ところがつい昨日、会議から戻ると業務用の端末が鳴り、「もう半年遅れそうだ」とボンドから連絡がきた。まあ、ジャマイカの時は任務に出て早々音信不通になっていたから、連絡が来るだけいいだろう。
    来年の4月だ。ちょうどお昼時で騒がしくなり始めたQ課の片隅で、テキストを見た僕は頭の中でカレンダーをめくった。ボンドがイタリアに任務に出たのは4月のことだから、これで結局丸一年帰らないことになる。8ヶ月ジャマイカに行った時もそれはそれで大変だったが、そうか、1年か。
    「少し長丁場になるかも」とは、まあ、出発する前から聞いていた。ボンド以外に誰もそんなことは言っていなかったのだが、経験から「なんとなくそんな気がする」そうだ。そしてその予感は見事に当たったわけだ。伊達に長生きしてエージェントをやっているわけではないらしい。

    最後に会ったときは、装備を渡して「無傷で返してください」といつものやりとりをした後、ボンドの部屋兼僕らの寝室についてのことを話していた。帰ったら本棚を整理する、とか言ってたかな。彼はイメージに違わず古い映画が好きで、僕からしたら信じられないことにVHSでしか観られないような映画を何本も持っている。ずっと使っていたビデオデッキがダメになってしまったから、どこかで探してこないととも言ってたかも。僕は毎度同じように「絶対にダビングしましょう」というようなことを返した。確かその関係の話をしていたはずだ。
    ボンドか帰ってこない半年の間、僕はできるだけ部屋を掃除して、死なない程度に食事をし、読む人がいない紙の新聞を月2回の古紙回収の日に出し続けた。ボンドが「整理する」と言っていた本棚は僕にはわからないものばかりなので、触らずに半年、ホコリを払っているだけだ。



    デスクに戻って昼食を広げた。水のボトルと、スムージー、袋詰めされたサンドイッチ、ソルトビネガー味のチップス。



    ボンドはいつも任務に出る前に何日か分の食事を作り置きしていく。あと、僕でも作れそうなもののレシピを紙に書いて冷蔵庫に貼っていく。今回は僕のリクエストでマカロニチーズとローストビーフを作っていった。僕はそれをランチボックスに入れたり夜食にしたりして、そこそこの時間をかけて食べた。レシピのほうは、ソーセージと野菜のスープ。その前は確かグラタンだった。ボンドが家にいる間は彼がまめにサンドイッチを作って僕の鞄に入れていたが、ここ数ヶ月はテスコのミール・ディールのありとあらゆる組み合わせを試していた。
    ペットボトルの飲み物と、サンドイッチと、チップス。嫌いじゃない。お気に入りの組み合わせも出来た。帰ってきたらボンドに教えようと思ってモバイルにメモしてある。あと猫の写真とか、タナーの写真とか、その他彼がいない間に起きた面白いこと。しょうもないメモでモバイルのメモリがじわじわと減っていった。


    帰ってこなかったらどうしようかな。しょうもないメモを全部プリントアウトして、置いて行ったレシピと一緒にファイルか何かに入れて、本棚のものを全部出して、トムフォードのスーツの中に入れて、それで、それを棺の中に入れて、カフスボタンだけ貰って、埋めちゃおうかな。
    ジャマイカからなかなか帰ってこなかった時もぼんやりとこんなことを考えた。というか、本人には言ったことが無いが、ボンドが任務に出るとき、いつも僕は「これで彼が戻ってこなかったらどうしようかな」と考える。もしこのまま戻ってこなかった場合の、僕の生き方を考える。いつも。多分、ボンドの方も同じようなことを考えているだろう。お互い様だ。



    ソルトビネガー味が思ったより酸っぱい。最近出た新しいフレーバーらしいけど、ビールと一緒じゃないとおいしくないかもしれない。



    一緒に住み始めてから初めてボンドが長い間家を開けた時のことを思い出した。ひと月ぐらいだったかな。元々一人で住むにはちょっと大きな家だったところにボンドがやってきたというのもあるけど、朝起きたら部屋が広く感じて、おまけに別にあの人はうるさいほど喋るわけでもないのに静かに感じて、それで、ちょっと怖かった。横に寝ていた猫たちにばかみたいにたくさん話しかけてしまった。間違えて紅茶と一緒にコーヒーまで淹れてしまって、勿体無くて無理やり飲んだ。
    運の悪いことにその日はちょうど休みで無駄に時間があったものだから、なにをするわけでもなく部屋の中をうろついて、この家にボンドがいないということがわかると、僕はそこから逃げるようにして外に出た。外に出て気づいたけどまだずいぶん早い時間で、通りにはほとんど人がいなかった。いつもミルクと紅茶を買っている小さな食料品店の前にあるベンチに座って、近所がゆっくり起きていくのを見た。冬だったから空気はキンキンに冷え切っていて、パジャマにコートを羽織ってマフラーを巻いただけの格好ではかなり寒かったのを覚えている。その時えらく久しぶりにタバコを吸った。



    スムージーの小さなボトルにはバナナとマンゴーの絵が描いてある。最近あまり使ってないけど、うちにはジューサーがある。果物を買ったくせに二人同時に急に仕事が増えて危うく全て無駄になりそうだった時にボンドが買ってきたものだ。



    ずいぶん長い間ベンチに座って、体を冷やしながら考え事をした。あーあ、一人じゃ生きていけなくなっちゃったな。ボンドはどう思ってるだろう。忙しくてそんなこと考える暇ないか。猫たちがいるから厳密に言えば一人ではないけど、まあ、そういうことじゃなくて。
    そんなことをぼんやりと、かなりの時間考えたあと、いよいよ町中が起き出して人通りが激しくなってきて、僕は勢いをつけてベンチから立ち上がって目の前のバス停まで走ると、手を上げてバスを止めてそのまま家に帰った。ボンドがもしこのまま戻ってこなかった場合の生き方を考え始めたのはこの時だ。当たり前だけど、007がいなくてもQ課とQは無くなるわけじゃない。仕事はたくさんある。僕も彼がいなくても大丈夫でいようと思った。バス停まで走ったら冷え切っていた体が少し暖かくなった。



    スムージーを飲み終わったところで昼休みが終わって、当番になっていた部下が両手に抱えた郵便物をそれぞれに配り出した。



    結局そのあとボンドはひと月ほどして帰ってきて、装備はどこかに放ってきて、でも、無事だった。僕はいつも通り「その銃と発信器いくらかかったと思ってるんですか」と文句を言って、そして「おかえりなさい」と言った。土曜の早朝に寂しくなって家から逃げ出したことは言わなかった。今も言っていない。これからも言わない。



    内外から送られてくる郵便物に目を通した。今でもどうしても紙でなければいけない事情というのはあって、サインとともに送り返さないといけない書類がいくつか送られてきた。MI5からの会議の議事録。長兄からのメモが入っている。新しい部品の注文書。これで全部だ。

    書類と書類の隙間から何かが床に落ちた。書類というには小さすぎて、メモというには大きすぎる。
    ポストカードだった。飛行機の写真のポストカード。右下に小さく印刷された文字を見るに、イタリアの機体らしい。裏を返したらきちんとここの住所が書かれている。メッセージは特になかった。




    「Q」
    顔を上げたら、モバイルを持ったタナーだった。息を切らしている。走ってきてくれたんだろうか。
    「さっきMに連絡が来たらしい。ボンドの帰投が遅れるそうだ」
    「はい。僕のところにも来ました。ローマからは動いていないみたいです。差し迫った危険があるわけではないかと」
    「ローマ?」
    「ええ。個人的に連絡が来ました。急に動くのはまだ危険と判断したんでしょう」
    「そうか」
    タナーはほっと息をついて、モバイルを内ポケットに仕舞った。
    「こんなに長引くとは思わなかったな」
    「ジャカルタが最長だと思ってたんですけどね。1年は確かに。誕生日来ちゃいますよ」
    「ボンドの? 4月生まれなのかボンドって」
    「4月13日ですよ。間に合うかな」
    「知らなかった」
    「僕もデータ見て知ったんですよ。自分じゃ言わないから」
    「Q」
    「はい」
    「大丈夫か?」

    彼はえらく心配そうに僕のことを見ていた。全くこの人は優しいんだから。僕はタナーを元気付けようと思って笑って言った。

    大丈夫。そのうち帰ってきますよ。
    Zero_poptato Link Message Mute
    2022/09/05 10:55:54

    ソルトビネガー

    帰投が遅れるボンドを待つQくん
    #00Q

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