トーキングファウンテントーキングファウンテン
ブノワ・ブラン探偵事務所はコネチカットの都市部にある。市街地の外れのあたりにまるで気配を消したがっているような喫茶店が一軒あり、ドアに下がっている店名の斜め下に『ブノワ・ブラン探偵事務所 二階』とお世辞にも綺麗とは言えない字で書いてある。マジックペンか何かだろう。喫茶店のマスターは背の高い眼鏡の紳士で、僕が警察官だとわかると「二階にどうぞ」と言ってコーヒーを一杯サービスしてくれた。
ハーラン・スロンビーの一件が終わった後、ブランさんにはうちの署から感謝状が贈られることになった。しかし本人はわざわざこちらまでやってくるのが面倒だとかで、その連絡を受けた警部補はため息をつきながら「お前行ってこい」と僕に命じたというわけだ。
ハーランその人が亡くなった事件を仕事で扱うことになった時の興奮もすごいものがあったが(そもそも僕があの件に回されたのはスロンビー作品を隅から隅まで読んでいるからだ)、ブノワ・ブランまでもが現場に来ると知った時には背筋が震えた。しかも依頼人が匿名ときた。私立探偵は警察には雇われない以上、彼と関わることはまずないだろうと思っていたのに。早々に人生のラッキーを使い果たしたかもしれない。
コーヒーは酸味の少ないシンプルな味でとても美味しかったのだが、事務所のドアを開けた途端強烈なチョコレートの匂いで香ばしい香りは早々に消し飛んだ。それもそうだ、事務所の机にチョコレートの乗った皿があるとかいうレベルではない。二つあるデスクのうちの大きい方には、あれが乗っていた。あの、溶けたチョコレートがこう、滝みたいになってる、チョコレートフォンデュをやるあれ。あれがデスクの上に乗っている。見たところ部屋には誰もいなかったので僕はどうしたらいいか分からなくなって、今までこんな遅さで動いたことはないというスピードでゆっくりと一歩後ずさった。誰もいないのならここにいるのはよくない。マスターは案内してくれたけど、出口がここ以外にもあるんだろうか。
事務所の中は緑色のカーテンに深い赤色のカーペット、落ち着いた木製の家具が置いてあって、あのきちんとした身なりで葉巻を吸っているブランさんらしいと思った。壁に写真が何枚か額に入れて飾ってあり、窓際に『ルビンの壺』の絵が掛かっていた。
まさに、絵に描いたような名探偵の部屋だ。チョコレートの滝を除いて。
「警察の方ですか?」
チョコレートの滝が妙に柔らかい声のブリティッシュアクセントで喋ったのと、僕が驚きのあまりコーヒーを盛大にカーペットに零したのは完璧なほど同じタイミングだった。
「ワグナー君! 久しぶりじゃないか」
僕の背後から、ブランさんの朗らかな声だけがワンテンポ遅れてやってきた。
***
「別に禁煙ってわけじゃないんだが、ちょっと葉巻を吸いに外に出ててね。この建物で吸うのは僕だけだから」
「葉巻とチョコレートの匂いが混ざると地獄みたいになるんですよ」
「チーズもだな」
「チーズもですね」
「ひょっとしてこの前チーズ流してたのとそれは同じやつ?」
「ちゃんと洗いましたよ」
チョコレートの滝は、もとい、滝の向こう側にいたのはブランさんの助手だった。たまにタブロイド紙に取り上げられているのを見たことがある。いつも主役はブランさんだけど、たまに物好きな記者がその横にいる助手に注目することがあるのだ。大体いつも現場についてきていて、あれこれサポートをしているミスター・ワトソン。細身のブルネットの男で、写真でしか見たことがないから彼がイギリス人だとは知らなかった。
事務所の中央に据えられた皮張りのソファに彼ら二人と向かい合って座っていた。コーヒーは事務所にあるメーカーでブランさんの分と一緒に淹れ直され、並んで座っている彼は紅茶を片手に、さっき僕に向かって「どうぞ」と言って出したはずのクッキーを食べている。チョコレートの滝はまだデスクの上で甘い匂いを放っていた。
感謝状を渡したら、ブランさんは人のいい笑顔で「ありがとう」と言ってそのまま横にいる彼にスライドするように渡した。彼はクッキーを口に咥えたままハンカチの上からそれを受け取ると、滝がある方のデスクに持って行ってしまった。
「僕も警部補もあなたは感謝状なんていらないと思うって言ったんですけど、すみません」
「いいや、いいんだ。確かに僕もそう思ってはいるけど」
ブランさんはコーヒーのマグを手に取って肩を竦めると、デスクの大きな引き出しから額縁をいくつか引っ張り出している彼を見て言った。
「彼がいつもこういうものを欲しがるから」
「彼」は口をモゴモゴと動かしながら感謝状と額縁をあれこれ合わせている。僕は少し迷った後、自分でもよくわからないけどなぜか声を小さくしてブランさんに訊いた。
「……あの、彼はなんてお呼びすれば」
ブランさんの助手について取り上げたタブロイド記事はいくつかあるが、どれもこれも情報はまちまちで信じられたものではない。共通点は一つ、どの記事も彼がなんという名前なのかわからないと言っているところだ。
「お好きなようにどうぞ」
僕が全部言い終わらないうちに声が飛んできた。額縁はピンク色に決まったようだ。
「感謝状なんて飾るところないだろう」
「一昨年の誘拐事件で貰ったやつ仕舞います」
「まだ飾ってたのか?」
「毎日来てるのに気付いてないんですか? 悲しいなあ」
「興味がないとどうもね」
ブランさんは僕を済まなさそうな顔で見た。
「名前が原因でちょっとした事件に巻き込まれたことがあってね。僕以外に彼の名前を知っている人間はいないんだ」
***
ワグナー君は彼のことを「ワトソンさん」と呼ぶことにしたらしく、その後エリオット警部補やマルタの近況をひととおり話して帰って行った。皆何事もなく元気にやっているそうだ。
今度みんなで食事でも、というワグナー君を見送って二階に戻ってくると、彼はまたさっきと同じようにチョコレートの滝の向こう側に隠れていた。
「この前の件の子も含めて食事でもしようってさ。君もくるかい?」
「経費じゃ落ちませんよ」
チョコレートの滝がツンとした声で言った。
「わかってるよ。僕が奢るさ」
「行きます」
「そりゃいいや。それ僕にもくれるか?」
滝のすぐ横に置いてあった皿からマシュマロを取って齧った。人工甘味料の強烈な甘みがする。
「チョコかけないんですか?」
「甘すぎるから」
「だからいいのに」
「君にはね」
彼は肩を竦めて、何個目かの苺をチョコレートに浸した。僕はそれを眺めながら呟いた。
「……スロンビーの事件を僕はドーナツに例えたろ」
「輪が二重になってるドーナツでしょ」
「そう。後で思い出したんだが、あれは最後に会った君がドーナツを食ってたからそれに影響されたんだな」
苺を浸す手が一瞬止まった後、また動いて最早苺の形をしたチョコレートのようになったそれを口に放り込んだ。
「なんですかそれ。告白?」
「いいや、事実」
「僕がいない間に僕のことを思い出すのが?」
「いつも横にいるからとも言うな。今事件が入ったら僕はそれをチョコレートフォンデュに例えるだろう」
「告白でも事実でも遠回しすぎ」
「君の真似だよ」
似てるだろ? そこから先は口にマシュマロを詰め込まれて言えなかった。