トマトスープ、シーザーサラダ、出来合いのピザとワイン
「なあ、甘いものいるか?」
「君が欲しいようならどうぞ。何か食べたいものがあるの?」
「うん」
おれはナッツの蜂蜜漬けの瓶をカートに放り込んだ。アジラフェルはそれを手にとってしげしげと眺める。
「珍しいね、君が甘いものを欲しがるなんて」
「まあ、たまにはな。買い忘れは?」
「たぶんもうないと思うよ。あっちにも食料品店はあるだろうし」
アジラフェルはポケットからメモを取り出した。おれはそれを後ろから覗き込む。昨夜2人でやんや言いながら必要なものを書き出し、今朝早くからメモに沿ってあちこちを周り日用品を買い込み、道中カフェでサンドイッチを食べ、家具を手配し、家電を手配し、公園でアイスクリームを食べ、本屋に寄り、今は3つ目の食料品店にいるところだ。スタイリッシュなはずのおれのベントレーの後部座席はいまや荷物ですごいことになっていた。1926年におれのところにやってきたこいつは、まさか約100年後に2人分の洗剤やらシャンプーやらタオルやらを載せることになるとは夢にも思わなかっただろう。
「じゃ、これでやっとゴールだな。お疲れ様」
おれはアジラフェルに代わって食料品の入ったカートをレジに向かって押した。交代だ。
「ありがとう。早く帰って休もうか。どっちの家にする?」
おれは肩を竦めた。どっちの家にする、だってさ。
「……おまえのほうでいいよ。持っていく本がまだあるんだろ」
「そうだね」
アジラフェルはおれが押しているカートに左手を添えて、一緒に押してくれた。
***
コテージには明日の朝出発することになっていた。一緒に住むことを決めてから具体的に事を動かすのはそれなりに骨が折れたが、コテージを下見に行ったり、アジラフェルが持っていく本を選別をするのを手伝ったり、一緒に家具を選んだりするのは楽しかった。6000年付き合いがあってもまだまだお互いの知らないことはあるもので、アジラフェルはおれがきちんとパジャマを着て寝る事を知って驚いた(やつと一緒にいるときは着る機会がなかった)し、おれはアジラフェルがココアのほかに蜂蜜入りのホットミルクが好きなことを新しく知った。
ハルマゲドン未遂からそろそろ1年が経つ。残りの人生最初の夏がもうじき終わろうとしていた。おれとアジラフェルは、ことがひと段落してからお互いの家を行き来して生活していた。安全のためだ。ひょっとしたらそれぞれの職場からお咎めが来るかもしれないし、1人でいるところを狙われて聖水もしくは地獄の業火で襲われるかもしれないし、中身を入れ替えたことが後になってばれるかもしれないし……いつサタンが来るともわからないし……「死」だっていなくなったわけじゃないし……アダムのことも心配だし……そういえばウォーロックはどうしているんだろう……あとなんだったか。そういう理由を2人で夜通し頑張って並べ立てたあと、もうついに言い訳が思いつかなくなったおれたちは観念して、お互いが大事な存在であるということをようやく認め合ったのだった。互いの存在を賭けて守った関係のくせに、まったく長い道のりだった。
ちなみに、コテージでの暮らし方について、「人間らしく」というルールを設けたのはアジラフェルのほうだ。アダムが天使でも悪魔でもなく、人間として育っていたことにやつはいたく感動したらしかった。
***
アジラフェルには痛覚がないと知ったのはつい最近のことで、2人で『ベルリン・天使の詩』のVHSを観ていたときだった。
『ベルリン・天使の詩』は1987年の西ドイツの映画だ。「壁」が崩壊する直前のベルリンを舞台にした、人間になりたいと願う天使が主人公の物語だ。天使や悪魔をネタにした映画はごまんとあって、どれもこれもうちの天使さまと一緒に観てはああだこうだと文句を言ってきたが、これは2人ともなんとなく気に入っている一本だった。
映画は中盤まで画面がずっとモノクロだが、主人公が人間になると同時に鮮やかなカラーになる。人間になった元天使はまず上から落ちてきた甲冑が頭に当たって目を覚まし、「色」を発見し、「寒さ」を発見し、やっと頭から血が出ていることに気づく。それまで画面の中の天使と自分を比べて「私の方がずいぶんと人間に近い肉体のようだ」と言っていたアジラフェルは、手に血がついた天使を見て「ああ、これだけは私が持っていないやつだね」と言ったのだ。
「は? これだけはって、なに、血が?」
「いいや、痛みのほう」
「えっ? 痛み……痛覚がないってことか?」
「うん。なりゆきで」
「なりゆき」
忘れがちだが、アジラフェルは神から炎の剣を託されるほどの「武闘派」の天使である。掛け値なしに、この天使さまはおれなんか一捻りで潰せるぐらいの力を持っている。戦闘要員の天使たちは「闘いの邪魔になる」ような痛覚は授けられず、アジラフェルは結局地上勤務になってもそのままなのだそうだ。田舎で星を引っ掻き回してたおれとは随分違う境遇だ。
「じゃ、じゃあお前、今まで痛みを感じたことがないのか?」
アジラフェルはマグカップを手に持ったままうーんと唸る。
「身体的なものはない……かな。痛いというより、衝撃を感じるだけなんだ。強く突き飛ばされるのを感じるのと一緒で……なんだい、君だって天使だっただろ?」
「おれはほら、戦う用に作られてないから……」
「そういうものかな」
アジラフェルは明日の天気の話でもするかのような調子だったが、おれはここ数百年でかなりの衝撃を受けていた。天界のやつらのあの妙な雰囲気、全員作り物でつるりとしている奇妙な人形のような上位天使の雰囲気は、ひょっとしたら痛みを知らないからなのかもしれない。
「だからお前、首が吹っ飛ぶミュージカルも舞台も平気な顔して観てたのか」
「ソンドハイムのことかい?」
「それもだけど、昔行ってたろ、パリの、ほら……」
「ああ! グラン・ギニョールか。ああいうのは作り物だからいいんだよね」
1920年代だったか、パリの小さな劇場、それも教会だった建物を劇場にした場所で、猟奇的な演目ばかりやっていた劇団があった。演目が悪魔的なら教会の跡地にだって行けるのではないかと思い、実際入れてしまったのでおれは1941年にあんなバカをしたのだ。後からわかったことだが、なんとこの天使さまは平気な顔をして通っていたらしい。まったく恐ろしいやつだ。
いや、そんなことはどうでもいい。グラン・ギニョールはおれだって観れることは観れた。問題は、例えば怒ったおれが胸ぐらを掴んで壁に叩きつけたときとか、ペイントボールが当たったときとか、昨日おれがふざけて頬をつねった時だって、彼は痛みを感じなかったということだ。きっと痛いだろうなと思って手を握りしめたときも、何も感じていなかったということだ。それなのに、この天使さまは、おれが包丁で手を切ったり、新しい靴を履いて靴擦れしたり、さっき冷蔵庫に足をちょっとぶつけたときだって、まるで自分のことのように心配して、おれのことを慈しむような手つきで撫でていたっていうのか。自分が感じられない痛みを感じているおれのことを、尊ぶような声色で呼んでいたっていうのか。
アジラフェルが突然ぎょっとした顔でおれを見た。
「ど、どうしたのクロウリー!」
「え?」
「どうして泣いてるの」
うわほんとだ、おれ泣いてるじゃん。今はサングラスをかけてないから丸見えだ。暖かい涙が頬をぼろぼろと通っていく。
「ごめんよ、もっと早く言えばよかったね」
「いや……そうじゃなくて」
アジラフェルはタータンチェックのハンカチでおれの顔を拭いた。観ていたはずの映画はすっかり話が進んで、妙なライブハウスのシーンが延々続いていた。
おれはハンカチを持ったアジラフェルの手をそうっと握った。アジラフェルはもう片方の手で優しくおれの頬を撫でた。
***
堕天した後に気づいたことだが、おれも天使だった頃は痛みに鈍感だった。心も体も。アジラフェルは痛みという感覚そのものがすっぽりと抜け落ちていて、だからこそどんな存在にも慈しみを持って接することができるのだという。確かに、痛みを知らなければどんな痛みも同じように見えるのかもしれない。おれは人里離れたところで星を引っ掻き回したり撒いたりしていたので、熱で火傷することこそあれど大きな怪我なんてしたことがなかった。
だから驚いたのだ、硫黄のプールに突っ込んだときに感じた、まさに地獄のような凄まじい痛みに。
堕天するとは痛みを知ることだとその時初めて知った。全身が焼け爛れナイフで突き刺されるような感覚を経験してから、おれは痛みにいっとう敏感になった。誰かが痛がっているところを目にするのは嫌いだったし、自分が痛くなるのも嫌いだった。前者はどうやらおれだけみたいだが、後者に関しては悪魔はみんなそうだ。心も体も、何をどうしたらどれくらい痛いのかが分かっているから、おれたちは悪事を働けるのだ。堕天するとは傷つくことなのだ。その傷を抱えたまま生きていくということなのだ。
そうしてアジラフェルと出会って、おれはなにかを愛することがこんなにも痛みを伴うものだということを初めて知った。互いの立場にこだわって、天使だから悪魔だからとおれたちの関係になにかと理由をつけて冗談めいたものにするたび、おれの心はじわじわと痛みに蝕まれていった。自分でも気づかなかった。本当に笑って冗談にしていたつもりだったのに、実は全くもってそうではなかったのだ。おれたちが6000年付かず離れず付き合いがあったことは、おれにとってはとても冗談なんかじゃなくて、存在そのものを賭けて守りたいほど大事なものなのだ。世界中を天秤にかけても迷わずこちらを取るほどのものなのだ。それと同時に、これを壊さないでいられるなら、永遠に冗談のままこの痛みを引き受けようとも思っていた。一人の天使の存在がおれの心を残酷にも開かせて、居座って、そこから梃子でも動こうとしないことに、おれはずっとずっと苦しんできた。それでも、おれを6000年の間苦しめ嬲り続けた、息が苦しくなるようなこの痛みは、たぶん「愛」と呼んで間違いないのである。まったく残酷な世の中だ。
天使さまが痛みを感じないというのなら、そして天使さまがおれのことをなんらかの形で愛してくれているというのなら、アジラフェルが感じられない心の痛みも体の痛みも、おれがぜんぶまとめて引き受ける。この痛みはおれだけのものだ。愛する痛みを知っている悪魔は、きっと天地が創造されて以来おれだけに違いない。
***
「アジラフェル!水出してみろ!」
コテージの裏庭にある水道栓を捻っておれが叫ぶと、水が流れる音とともにoh thank god! と声が聞こえてきた。おい、水道栓捻ったのはおれだぞ。目の前にあるキッチンの窓ががらりと開く。
「お茶を淹れよう!休憩だ」
天使さまがニコニコしながら濡れた両手を見せてきたので、おれは水道栓を探して泥だらけになった手でハイタッチしてやった。
家具と家電をあらかた配置し、食器や服が入った段ボールもひとまず全部室内に入れたところでへとへとになったおれたちは水が通らなければお茶が飲めないことに気づいた。ソーホーとメイフェアとは大違いである。茶葉を仕舞った段ボールをなんとか2人で探し出し、おれが手を洗っている間にアジラフェルがお茶を淹れた。16時。
「また庭を作ろうかなと思ってるんだ」
紅茶に角砂糖を放り込みながらアジラフェルが言った。おれはお茶受けのクッキーを皿に出した。
「奇跡なしで?」
「うん。なんでもやってみたいって気持ちなんだ、今」
「そりゃよかったな」
クッキーを一口かじる。ココアのほろ苦い味がした。
「その……」
アジラフェルはマグカップを持ったままちょっと口ごもった。
「どうした?」
「君に花束を贈りたくて」
紅茶を飲もうとしたおれはマグカップと歯を衝突させてしまった。
「痛って!」
「だ、大丈夫?!」
アジラフェルは慌ててハンカチを出した。タータンで口元をぐいぐいと拭われる。おれはそれを必死に引きはがそうとして、ソファの上でちょっとした揉み合いが起こった。
「ちょ、ちょっと待て、なんだって急に」
ようやく天使さまを制止して言うと、彼はハンカチを握ったままおれのことを伺うような目で見た。
「きみ、昔私に花束をくれたことがあったろ」
「…………………ドライフラワーのことか?」
300年以上前のことになる。アジラフェルがソーホーに古書店を開いたときに、チョコレート一箱とドライフラワーの花束を持ってお祝いに行ったことがあった。ほんとうは悪魔の奇跡で永遠に咲き続ける生花でも作って持って行こうかと思ったのだが、やりすぎかなと思ってドライフラワーにしたのだった。俺たちにとって、生花は瞬きをしている間に枯れてしまうからだ。
アジラフェルはハンカチを畳みながら言った。
「気づいてるかもしれないけどね、わたしはあれをずっと取っておいてるんだよ。こっちには持ってきてないけど、ソーホーの本屋の中に吊るしてあるんだ」
ああ、知ってるよ。ずっと知ってる。
「……それで、わたしもいつか君に花束を贈ろうと思っていたんだ。奇跡なしの生花で、ドライフラワーでもなくて、いや、きみのドライフラワーは本当に素敵なんだけど、つまり、わたしが上手く育てられればの話だけど、ほら庭があったら一年中花があるわけだから、枯れてしまっても取ってくればいいし、生花の花束を、きみに贈れるかなって……」
心臓をなにか大きな手に掴まれたような感じだった。おれだけが知っている痛みだった。愛と呼ばれているあれである。
アジラフェルはそこまで言うと、自分で納得したようにちょっと肩をすくめた。畳んだハンカチをテーブルに置いて、それからカップが衝突したおれの口元にそうっと触れた。
「本当に大丈夫かい? 痛かったでしょう」
身も蓋もなく言うが、本当に、この天使さまは奇跡のような存在だ。おれは勇気を振り絞った。
「…………痛かった」
「そうだろう、ゴツンって音がしたもの」
「すごい歯に響くな、これ」
「陶器だから」
奇跡なしで花を育てる方法は何の本に書いてあるんだろう。そういえば、2人で一生懸命選別した大量の本が入った段ボールはまだ玄関の前だ。早く入れないと日が暮れてしまうし、雨が降るかもしれないから、奇跡を使わないといけないだろう。「人間らしく」とルールを設けたこの天使さまを説得しなければ。本のためなら折れてくれるだろうけれど。
たぶん、恐らく、すべての悪魔の中でおれしか知らないだろうこの痛みは、今後永遠に消えることはない。天使さまはこれからもずっとおれの心の中に居座り続けるだろうし、そのポジションは何者にも譲られない。おれの心は永遠に嬲られて、痛めつけられて、めちゃくちゃに掻き回されてしまう。天使さまが痛みを感じない身体だと知ったときのおれの痛みも、慈しむような目で見られたときの痛みも、全部全部おれだけのものだ。そして、この先何度も何度も受けるだろうおれの痛みを癒すことができるのは、この天使さまだけだ。アジラフェルだけだ。
「悪魔も歯が折れたりするかな?」
天使さまがおれの口元に手をやったままなお心配そうに言うので、おれは笑ってその手をぎゅうと握った。痛いかな。痛くないかな。おれが手を強く握ったことが伝わればそれでいい。
「これくらい大丈夫だよ。なあ、そろそろ本を運ばないと日が暮れるぜ」
「ああ、そうだね。雨が降ったら大変だし」
「奇跡を使うか?」
「初日からルールを破りたくはないなあ……」
「転びでもしたら大変だろ」
「前にも言ったけど……」
「痛覚がないんだろ。おれにはあるんだよ。ついでに天使さまの分もおれが持ってるんだ」
「なんだいそれ、じゃあきみは2倍痛いってこと?」
「そう。アジラフェル、おまえが何も感じなくてもおれが痛いんだ。抱えた本の山が崩れでもしてみろ、抱えてたのが天使さまだったとしても痛いのはおれだぜ。どうだ? まだ自分で運びたいか? 転ぶかもしれないけど……」
アジラフェルは声を上げて笑って、わかった、わかったよ、わたしが負けた、と楽しげに言った。おれはちょっと得意な気持ちになった。これからもっとこういう気持ちになるのかなと思うと嬉しかった。6000年の間悩まされ続けた痛みとうまく付き合っていく方法を、ようやく見つけた気がした。本を運び入れたら夕飯だ。