青のような緑のような青のような緑のような
「ねえ、Qのボールペン買ってあげたのあなたでしょ」
Mの執務室に入ろうというときにイヴが声をかけた。僕はドアを押しかけた右手を一旦ポケットに仕舞うことにして、彼女の方を振り向いた。
「……ボールペン?」
「そう。水色のボールペン。クリップのところが金色のやつ」
「……恐るべき記憶力だな」
随分いいやつ買ってあげたじゃない、と面白がるような声で言うので、僕は笑って両手を小さく上げた。
「恐れ入ったよ。確かにあれを買ったのは僕だ」
「だって、あの子が200ポンドもするモンブランのボールペンなんて持つわけないじゃない。会議のメモだってタブレットで取ってるのに。知ってた?」
僕は笑いを堪えながら頷いた。
「知ってた。自分で字を書いたことがないんじゃないかと思えてくるよ。『ペン持ってるか』と聞くと電子ペン渡してくるんだぞ」
ついこの前起こったことを話したらイヴは声を上げて笑った。Qのデスクにある文房具といえば設計図を起こす時に使う鉛筆と消しゴムくらいで、水色のボールペンは僕の記憶が正しければ一月ほど前からそこにメンバー入りしたはずだ。HBの鉛筆の中に無造作にモンブランが混ざっているのはなかなか珍妙な光景だった。
「楽しそうでいいわねほんと」
「よくモンブランだって分かったな」
「Mが万年筆使うタイプの人じゃない? 文房具好きみたいで、それで知ったの。ねえ、Qはあれいくらなのか知ってて使ってるの?」
まさか。50ポンドのパーカーだって言ってあるよ。
***
イメージ通りで悔しいが、Q課の眼鏡率は8割を超える。私もそのうちの一人だし、私の隣の席に座っているショーンも眼鏡だし、私たちのデスクに蜂蜜を借りにきた課長も眼鏡をかけている。アールグレイに蜂蜜を入れるのは正直どうかと思うが言わないことにして、私とショーンは今日も「蜂蜜のボトルを絞る課長」というあまりお目にかかれない光景を眺めていた。
「ありがとうございます。いつも蜂蜜泥棒してごめんね」
「もともとショーンと共用するために大きいの買ったんで」
ボトルを受け取りながら私は肩を竦めた。業務上本来あまり接点がないはずの課長と関わりが持てるのなら、蜂蜜ぐらいお安い御用だ。コードネームQはやはりQ課のスターなのだから。
課長はそのまま自席に戻ろうとしたが、私の横にいるショーンを見て自分のポケットを探り始めた。
「汚れ落ちないでしょう」
ハンドタオルで眼鏡を拭いていたショーンは顔を上げて、水色の眼鏡拭きを差し出した課長を見ると苦笑いして受け取った。
「眼鏡拭き忘れちゃって。すいません」
「いいえ。蜂蜜のお礼です」
デスクに戻っていく課長を見送りながら、ショーンが呟いた。
「………課長の眼鏡拭き、トムフォードだった」
「うそ」
「ほんと」
「………トムフォードか………」
しばし二人とも押し黙った後、再びショーンが言った。
「でも007ってそういうタイプだよな、いかにも」
「どういうタイプ?」
ショーンは私にちら、と目配せをする。
「ああいう牽制の仕方っていうか、そういうのするタイプ」
「課長、トムフォードだって分かって使ってると思う?」
「思わない。だってポケットから直に出てきたんだぜ? トムフォードが。畳んでない状態で」
だよね。私は小さな声でそういうと、遠目にデスクに座った課長を見た。自分の眼鏡を拭いている。トムフォードで。
水色の眼鏡吹きってトムフォードにあんのかな。ショーンがもっと小さい声で言うので、私はため息まじりに唸るしかなかった。
***
「ねえ、キーライムパイって本当にまずいんですかね」
サンドイッチを見つめながら突然Qが言った。
「キーライムパイ?」
久しぶりにランチに誘ったら珍しく快諾してくれたので、二人で近くにあるカフェにいるところだった。俺はとっくにパニーニを食べ終えて、Qは一つ目のサンドイッチを平らげたところだった。Mの噂話や仕事の愚痴を一通り喋り終えてふと会話が途切れたところで、食べかけのサンドイッチを持ったQがポツリと呟いたのだった。
「キーライムパイ。食べたことあります? 甘いもの好きじゃないですか、タナー」
俺は自分の記憶にあるキーライムパイを一通り引っ張り出してみる。
「キーライムパイって、あのメレンゲがすごいやつだっけ?」
山盛りになったクリームの上に薄切りにしたライムが乗っている、爽やかな感じのお菓子だ、確か。夏が近くなると街で見かけるようになる。実際に食べたことはなかったのでとりあえずそう言ってみたのだが、Qは釈然としないといった顔をして唸った。
「メレンゲもすごいけど、切るとすごくないですか?」
「断面が?」
「ゼリーが」
「ゼリー?」
「ゼリー乗ってません? クリームの下に」
「……俺とお前のキーライムパイが食い違ってるな」
聞けば、Qの家の近くにある菓子屋がゼリーの乗ったキーライムパイを売り始めたのだそうだ。最近公開した映画に登場しているとかで、ネットでちょっとした流行になっているらしい。
「でも、映画に出てくるキーライムパイはまずいんですって。どんな味がするのってお店の人に聞いたら、買って試してみてよって言うから」
「商売上手だな」
「ええ、昔から。どうしようかなと思って」
「どうって、買ってみれば? ものは試しだろ」
「そうなんですけど、すごい色してるんですよ」
「ゼリーが?」
Qはその色を思い出したのかちょっと笑いながら頷いた。
「うん。なんか……海みたいな、青のような緑のような……グミベアー以来ですよあんな色の食べ物を見たのは」
俺は思わず声を上げて笑ったら、つられてQもふふふと笑った。
「見た目には綺麗そうだな。買って写真送ってくれよ」
うーん、やっぱり買ってみようかな。本当にまずかったらボンドに食べてもらいます。Qはそう呟くと再びサンドイッチに齧り付いた。
***
「ケーキ?」
帰宅したQが小さな白い箱を冷蔵庫に入れるのを見て、鍋を掻き回しながら聞いた。
Qはううん、と唸りながら僕の肩越しに鍋の中をちらと見る。今日はシチューである。
「どうでしょう、ケーキなのかなこれ」
「何を買ってきたんだ一体」
歯切れの悪い返事に笑い声が漏れた。
「いや、なんて言っていいのか分からなくて」
「食べ物だよな?」
「食べ物ですよ、安心してください」
シチューをほんの少し掬って口元に持っていくと、Qは慎重に息を吹きかけてぺろりと舐めて、おいしい、と呟いた。
シチューの皿と鍋、サラダのボウルが片付けられたダイニングテーブルにQが厳かに置いた白い箱の中には、ケーキの形をした見たことのない食べ物が一切れ入っていた。
「すごい色だな」
土台のクッキー生地の上に、青のような緑のような色をしたゼリーが乗っている。さらにその上に分厚いクリーム。味の想像がつかない。ケーキの形をした海のようだった。
「でしょ。キーライムパイです」
「……僕が知ってるキーライムパイとは違うな」
「やっぱり。タナーも同じこと言ってました。それに」
「それに?」
Qはこちらにぐっと身を乗り出すと、なぜかキーライムパイと僕の顔を交互に見た。
ペールグリーンの眼がじっと見つめてくる。
「並べて見るとだいぶ違いましたね。あなたの目はもっと色の薄い青だから」
事情を把握した僕はゆっくりと自分の顔が笑っていくのがわかった。
「どちらかというと君の目の色だろう」
「そうですか? この、上のほうけっこう青くありません?」
「上のほう以外は大分緑色してないか?」
「確かに………うちの兄の色が近いかも」
「食べるのか、それ?」
「食べなくちゃ、せっかく買ってきたんだから。おいしいかどうかはわかりません」
「……僕もこれを見たらきっと君に買っていっただろうから、文句を言うのはやめとくよ」
すぐ近くにあるペールグリーンがキュ、と細められた。今度はQがゆっくりと笑った。
「二人がかりなら一切れなんてすぐですよ」