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    ロスト・アンド・ファウンドロスト・アンド・ファウンド


    Damnablyという副詞がある。ケンブリッジ英語辞典を引くと、「in a way that is very annoying」。イライラするほど、だとか、うんざりするほど、という意味だ。否定の意味を持つ、本来良い意味では使われない言葉だ。
     僕らが任務で組む時は大抵3つのパターンに分かれる。1.僕が彼の言うことを無視して無茶をするか、2.彼が僕に無茶を言うか、3.もしくはその両方が同時に起こるかだ。Qの妙な口癖は2つ目のときによく出てくる。例えば初めて組んだ時のように走り出したバスや飛行機に乗れと言ってくる時や、薄いコンクリートの壁を体当たりで壊せと言ってくる時や、3〜4メートルほど間隔の開いたビルに飛び移れと言ってくる時に、僕が文句を言うとQは激しいタイピングの音と共に必ずこう言う。

    Don't worry Bond, all is well. All is so perfectly, damnably well.

     「大丈夫、ボンド。上手くいきますよ。うんざりするほど完璧に上手くいきますから」。Qが僕以外のダブルオーに同じことを言っているかどうかは知らないが、Qがこれを唱える時はかなり多くの場合でことが上手くいく。それはもううんざりするほど、僕が装備を何処かへやってきた言い訳をする一部の隙もないほどに。

     任務が終わると、いつも本部に大体の帰投日時を連絡する。長い任務後はそれだけ長い休みがあるので自己申告制で、長すぎなければほとんど好きな時に帰ってくることができる。以前は数ヶ月から半年帰らない時もあったが、Qと会ってしばらくしてからはトランジットで寄り道をしたりせずにまっすぐロンドンに戻るようになった。
    ほとんどは。
     Qと同じフラットに住むようになってから初めて長く家を開けた時、帰りの飛行機を一本遅らせたことがある。確か2ヶ月も無かったと思うが、帰投日時のメールを送る前にこれだけ長い間離れたのが初めてだったことに気づいて、なぜだか一本分遅くなる時間に書き換えた。6時間空白ができた僕はシドニーをうろつきながら、このまま帰らなかったら、帰れなかったら、つまり僕だけがいなくなったら彼はどうするか、もしくは彼だけがいなくなったら僕はどうするかを考えた。今頃何しているんだろう。僕らは互いがいなくても生きていけるだろうか?
     ことの良し悪しは一旦別として、僕はおそらく彼がいないと危うい。今までもそうだった。誰かいないと危うかった。もしロンドンに戻ってなんらかの理由で彼がいなくなっていたら、僕はたぶん自分のために別の誰かを探すだろう。今まで数え切れないほどそうしてきたし、そういう性質が簡単に変えられないことは自分が一番よく分かっている。
     今までと違うのは、僕がこれを自覚したということで、それはおそらく僕よりも自立しているQのお陰だ。1人でいることが寂しい、寂しかったのだと僕に自覚させた。
     そう考えたところで一本送らせた飛行機の時間になり、そのままロンドンにまっすぐ帰った。Qはいつも通り「その発信器いくらかかったと思ってるんですか」と小言を言って、それから「おかえりなさい」ととても小さな声で言った。僕はいつも通り「ただいま」と言って、それからは任務に行く前に食事の作り置きをして、料理のレシピを冷蔵庫に貼っていくようになった。僕としては毎回少しずつ遺書を置いていっているつもりでいるのだが、もちろんQにこのことは言っていない。たぶんこれからも言わないだろう。
     一緒に住んでいるし、互いが互いの大事な存在であるという自覚もある。僕たちは意図的にこの関係に名前をつけずにいる。体に直接触れ合ったこともない。でもキスしたくないと言えば嘘になる。これもQに言ったことがない。


    ***


     シャーロックと暮らすのは本当に退屈しない。今日はもう何日もこもりっきりで、いつまで経ってもシーツおばけから進化しようとしない彼を叩き起こして食事へ引っ張っていった。外に連れ出すまでにかなりの激しいやりとりがあって、自分でもどうやったのかよく覚えていないけど、とにかくなんとか彼を室外に連れ出した僕は疲れ切っていた。レストランへ行ってもパプリカ相手に理詰めの文句を言うだけのシャーロックをわざわざ連れて行くなんて自分でも矛盾してると思うけど、とにかく今日はやり切った。そう思って帰宅したら、シャーロックのソファで胡座を掻いた彼の弟がシャーロックのラップトップを開いているところと出会ったのだ。本当に退屈しない。
     彼が勝手に221Bに入ってきていること自体には驚かない。彼は僕が来る前からここに入り浸っていたそうだし、僕に気を使って鍵を返そうとしたのを「持ってて」と言ったのは僕だ。今までも外から帰ってきたらカウチで寝ていたり、ハドソンさんとお茶をしている彼と出会ったことが何度もある。ハロー、クィントン。Qと呼ばなければいけないのは分かってるし別に誰も咎めないことだけど、未だに癖で本名を口にしてしまう。僕が声をかけると、彼はワンテンポ遅れてこちらを見て「ジョン」と小さな声で言った。
    「依頼があるなら座る椅子が違うぞ」
     遅れて部屋に入ってきて、マフラーとコートをカウチに放ったシャーロックが当たり前のように言った。
    「依頼? 依頼があるの?」
     僕は兄弟の間で何度か視線を往復させた。てっきり仕事帰りに寄ったんだと思ったけど。
    「依頼というか、相談というか」
    「僕のラップトップを返せ」
    「グーグルが開きたかっただけ。何も見てないよ」
    「どうだか。返せ」
    「見てないよ。あったとしても見たくないよ」
    「ボンドは任務か?」
    「明日帰ってくる」
    「そこは僕のソファだ。ラップトップを返せ」
     Qは大きくため息をつくと、ラップトップをサイドテーブルに置いて依頼人用の椅子に座った。シャーロックは鼻の頭にシワを寄せて、Qが足元に置いた荷物を跨いでソファに収まる。僕はなんとなく緊張感のある二人の様子を伺いながらシャーロックの向かい側に座った。
    「誕生日プレゼントは通勤鞄だったか」
    「なんでそういちいち言うかな」
    「シャーロック」
     シャーロックは「さあ。兄だから?」と茶化すように言うと、Qが置いたラップトップを開いて、ゆっくりと眉を潜めた。
    「………僕らは普通の学校に行っておくべきだったかもな」
     シャーロックはさらに数秒黙ってから僕にラップトップを渡して静かに言った。
    「ルーツ探しの授業のこと? 今もやってるのかな」
    「さあ」
     ようやく画面を見た僕は思わず「ワオ」と声を漏らした。
     グーグルの画像検索欄には「ロバート・フロビシャー」とタイプされていた。何かの楽譜の画像とレコードのジャケットの画像、そして同じ男性が写った全く同じ古い白黒写真が何枚も表示されている。呆気にとられて画面と彼を見比べていると、Qはコートのポケットから小さな紙を取り出して僕らに見せた。画像欄にあるのとは違う、でも同じ青年の写真だった。僕でもわかる。彼が「ロバート・フロビシャー」だ。
     Qに生き写しだった。
    「……さっき、ナショナル・ギャラリーにいたんだけど」

     Qによれば、写真を渡してきたのはおそらく70代ぐらいのお婆さんで、絵を見ていたところに隣に座って話しかけられたらしい。単刀直入に、「あなたに渡したいものがあるの」と。人違いかと思ってQはその場を動こうとしたが、手に写真を握らされ、驚いて女性を見ると、「あなたに関係があるかわからないけれど、でも他人とは思えなくて」と。女性には家族がおらず、自分が死ぬ前にこの写真を誰かに託したい(「繋げたい」と言っていたそうだ)と思い、Qを見つけたということだった。さらに、本当はまだ渡すものがあるのだが、今日はたまたま持ってきていないことを残念がっていたそうだ。来週の同じ時間に来てくれたら必ず渡すから、良かったら来て欲しい、その時にわけを話したいと。

    「写真の裏に名前が書いてあって、それで。作曲家だって。一曲しか残さないで早くに亡くなったみたい。これがすごく手の込んだ悪戯の可能性だってあるし、実際何度かそういうことがあったから正直あまり信じてはいないんだ。職場に行けば顔認証でこれが僕の隠し撮りの加工なのか他人の空似なのか正確にわかるだろうけど、僕はもう外部のものをMI6のサーバーに繋いで馬鹿を見るのはごめんだ。だからあなたたちの意見が聞きたい。誰だと思う?」
    「じゃあ、彼……その写真の彼は本当にいるのかどうかも怪しいわけか」
    「実在する」
     目を瞑ったままのシャーロックがまた鋭く割り込んだ。両手をこめかみに当てて目を瞑っている。
    「どこかで聞いた、いや、見た……どこかで……フロビシャー…………本当に作曲家か?」
    「グーグルはそう言ってる」
    「科学者ではない?」
    「科学者? どうして?」
    「さあ。残した曲はネットにあるか?」
    「ちょっといい?」
     Qは僕の横まできて屈むと、僕が持ったままだったラップトップを目にも止まらぬ速さで操作した。
     『クラウド・アトラス六重奏』は、やや悲しげな優しい曲だった。もし悪戯なら、そのためだけにこんな音楽を用意するとは思えない。全く別の作曲家の音楽である可能性の方が高いだろう。シャーロックは立ち上がってQから写真を受け取ると、注意深く観察しながら部屋の中をぐるぐると歩き回った。
    「1930年代、前半……英国人。上流階級だな。それにしては服が古い。家族と不仲だったか、戦争の後だ、没落してたか………」
     いつものように諸々を呟きながら動き回っていたが、シャーロックは写真を照明にかざしたとたん突然ピタリと動きを止め、それを裏返しにすると、「僕はなんて馬鹿なんだ」と呟いて寝室に突進して行ってしまった。残された僕とQは顔を見合わせて、慌てて彼の後を追っていった。
     シャーロックは寝室の本棚をすごい勢いでひっくり返していた。何を話しかけても無駄なのはよくわかっていたのでQと二人で無言で見守っていたら、やがて彼は本を一冊持って僕らの前に立った。
    「この本の献辞で見た。フロビシャーという名字はそう多くない。だから僕は科学者かと聞いたんだ」
     大分仕舞い込まれていたようで、古い本特有の匂いがつんと鼻をついた。表紙は深い緑色のハードカバーで、原子力に関する研究の専門書のようだ。本文の紙は黄色く褪色していた。著者は「ルーファス・シックススミス」。Qが受け取って表紙を開くと、「To R. Frobisher - Yours eternally(R.フロビシャーに捧ぐ——永遠に君のもの)」とある。シャーロックはこれを覚えていたというわけだ。
    「ルーファス・シックススミスは戦後30年間の原子力研究の第一人者だった。73年にアメリカのエネルギー産業の陰謀に巻き込まれて射殺される前の最後の著書だ。事件としては面白くもなんともないがシックススミスは有名な科学者だし———」
     シャーロックは早口に喋っていたが、Qの顔を見ると口をつぐんでゆっくりと続けた。
    「………献辞に書く人間の名前は限られてる。家族か親友か恋人だ」
     永遠に君のもの。Qは献辞の言葉をごく小さな声で呟いて、「R.フロビシャー」の名前を指でなぞった。
    「シックススミスは未婚のまま死んだ。写真を渡してきた女性はどちらかの関係者だろう。フロビシャーが若いうちに死んだのならシックススミスの方である可能性が高い。たまたま見かけて声をかけたわけではないのは明白だ————彼女は写真と何かを渡すためにお前を’探して’いたんだ。ナショナルギャラリーに来ることを知っていた、いや、」
    「……ナショナルギャラリーで僕を見たことがあるから、あそこで僕を待ってたんだ」
     いつ来るのかも分からないのに、これを渡すために。Qは献辞のページに目を落としたまま言った。
    「……僕なら家系図から始める。図書館に行けば何かわかるさ」
     もう何度も見ているというのに、僕はシャーロックが弟に対してこんなにも素直な愛情を持っていることに毎度驚いてしまう。




    改ページ





     家の近くによく来る野良犬がいる。茶金色の毛をした雑種で、耳が垂れていて、中型犬くらいの大きさの犬。フラットの敷地によく入り込んでいて、うちのキッチンの窓の前に座っているのを見かけることがある。フラットの決まりでこれ以上動物を飼うことはできないけど、なんとなく顔見知りになっていた。僕とボンドの興味を引いたのは、うちにいる猫の片方がこの犬ととても仲がいいということだ。黒猫の方で、犬がやってくると音や匂いでわかるのか必ずキッチンにやってきて、出窓のスペースに座って犬と見つめ合っている。最初は自分の縄張りに入ってきたのが気に入らないのかと思っていたが、怒っている風でもないし、窓を開けると顔を出して鳴いたりしているので、どうやらそうではないらしいことが最近判明した。僕らは犬がやってくるたびに「ロミオとジュリエット」とか「スウィーニー・トッド」とか好き勝手に例えては2匹を見守っていた。


    ***


     翌朝起きたら、いつの間にか戻ってきていたボンドが隣で死んだように眠っていた(確認した。生きてる)。ニュージーランドから20時間以上かけて戻ってきたのだから当たり前だ。帰投時間は今日の昼間だったと思うけど、早く戻ってくることができたらしい。時計を見たら9時だった。土曜の朝9時。10月も後半になって朝晩がかなり冷えるようになった。部屋の空気が冷たくて、思わず手近にあった熱源に、つまりボンドの背中に身を寄せたら、彼は寝息と一緒に寝返りを打ってこちらを向いた。金色の睫毛が震えて3分の1ほど開き、またすぐ閉じてしまった。ボンドはずいぶん眠りが深くなった。寝室の外で猫の鳴き声が聞こえる。僕は枕でやや癖のついた彼の髪をちょっと撫でて、朝食を作りにベットから起き上がった。特に怪我はしていないらしい。よかった。

    「タナーがお菓子作り始めたんですよ」
     ポテトサラダのボウルを手に取りながら言ったら、コーヒーに口をつけようとしたボンドは笑い声を漏らした。
    「大ニュースだな。僕が知ってるタナーじゃない」
    「でしょ? 姪っ子と料理教室に行ってハマったんですって。スコーンくれたけど美味しかった」
    「彼は手先が器用だよな」
    「Q課時代も開発部でしたから」
    「昔から甘いものが好きなのは知ってたけど。ついに作るようになったか」
    「もう誰も止められませんね……あと、僕の話ですけど、ひょっとしたら作曲家の子孫かもしれないみたいなんですよ」
     ボンドは今しがた口にしようとしたオムレツのことをすっかり忘れてしまったようだった。

    **

     昨日の一部始終を、ボンドは所々頷きながら黙って聞いていた。僕が話し終えると、彼はロバートの写真を手に取って眺めながらまず「本当にそっくりだ」と呟いた。

    「じゃあ、フロビシャーとシックススミスは死に分かれた恋人同士なのか」
    「今のところは。で、写真をくれた人はたぶんどちらかの親族か何かで、僕にまだ渡すものがあると……シックススミスは事件に巻き込まれて亡くなりましたけど、フロビシャーの方がなんで死んだのかが調べても出てこなくて」
    「君が調べても?」
     僕はすっかりぬるくなった紅茶を見つめながら言った。
    「僕が調べても。たぶん、……隠されてるか何か、されてるんじゃないかと」
    「……ボーイフレンドがいたからか」
     シャーロックは、写真の彼が着ている服が「上流階級にしては古い」と言っていた。没落貴族だったか、もしくは家と不仲だったかと。1930年代、英国のそれなりの家柄の息子に同性の恋人がいたらどんな風当たりがあるか。想像しただけで苦しくなる。
    「きっと君のことを生まれ変わりだと思ったんだな」
     ボンドは腕を伸ばして、ちょうど僕の顔の横に写真を並べた。
    「もしその女性がどちらかの家族だったとして、ふたりの話を知っていたのなら、自分より後を生きている誰かにそれを伝えたいと思う気持ちもわかる」
    「僕は全く関係ないかもしれないのに?」
    「この写真を持ってるところに君が現れたら、そんなこと考える余裕はなくなるだろ」
     確かに。自分でそう言った声が驚くほど小さかった。
    「……ナショナルギャラリーに行ったんだな」
    少し間が開いてボンドが呟いた。
    「はい。……昨日は残業もなかったから、あなたもいなかったし、……予定もなかったし」
    「そうか」
    「あなたと会って以来初めて行きました」
    「僕もあれ以来行ってない」
    「そうですか」
     残業がなかったというのは本当だ。予定がなかったというのは嘘。帰り際009に食事に誘われたけど断った。ナショナルギャラリーに行ったのは、あそこでボンドと初めて会ってから昨日でちょうど5年経ったことをたまたま思い出したからだ。嘘だ。本当はずっと覚えていた。ボンドが覚えているかどうかは知らない。
    「………美術館でいきなり話しかけられる側の気持ちが分かったか?」
     ボンドが揶揄うように言って、僕は思わず笑った。
    「昇進したてで緊張してたんですよ」
    「君が名乗るのがもっと遅かったら僕は装備を貰いそびれてたな」
    「すいませんね若造で」
    「いいや。今後誰かに美術館で話しかけられるなら君以外はごめんだな」
     ボンドは喉の奥でくつくつと笑いながら言った。


    ***


     土曜は昼から雨が降り出した。僕は今回ナビを務めた課員に生き残った装備を返しにほんの一瞬本部に出勤し、Qは同じタイミングで大英図書館へ行った。家系図を遡ってみるらしい。午後早くに戻ってきた僕は、街に出てあれこれ買い出しを済ませて、家の掃除をしたりして過ごした。ここのところ二人とも忙しかったので、本棚やテレビボードの上に薄く積もった埃に猫の足跡がついていた。
     テレビボードには鍵がついていて、中にQが最近こつこつと作っているレゴの恐竜が入っている。この他にも自室に仕舞い込んである「街」があるらしい。雨の日や予定が突然潰れた暇な時、Qは小さなブロックを一心不乱に繋げて生き物を作り出していて、僕はそれを側から興味深く眺めていた。以前、テレビボードのスペースが段々なくなってきたのを見て「恐竜専用のケースがいるな」と言ったら、Qはなんでもないことのように「いずれ壊しちゃいますよ」と言った。「すごく嫌なことがあった日とか、悲しいことがあった日とかに全部。いつまでも増やし続けられないし、それに、モノは究極的に言えば壊れるためにあるようなもんです。持ち主によって寿命が違うけど」。
     その点で言うと僕はモノの死神だ。そう言ったらQはその時作っていた恐竜(アロサウルスだそうだ)を僕に渡した。
    「あげます。壊さないように取っておいて。僕があげたものを壊さないあなたが見たい」。Qは青い目をしたアロサウルスを僕にお辞儀させるように振った。僕はプラスチックの透明なケースを買ってきて、その中に恐竜を慎重に入れると寝室のサイドテーブルに飾った。半年経ったがまだ無事だ。


     夕方、夕飯の支度をしようとキッチンに立ったら出窓に黒い方の猫が座っていた。外を見ると案の定例の野良犬がやってきている。キッチンの前はちょうど軒下になっていて雨が凌げるらしい。気をつけながら窓を少し開けたら、黒猫は身を乗り出してにゃあと鳴いた。



    「ややこしい話をしますよ」

     Qは随分難しい顔をして帰ってきて、難しい顔をしながら夕食を食べて、難しい顔をしながら片付けを済ませると、バックパックから出した資料をローテーブルにあれこれ広げた。
    「僕の母方の曽祖父の、お兄さん? ……なんて呼ぶのかわからないんですけど、僕のひいお爺さんの3番目のお兄さんが、フロビシャー家に入婿してたみたいなんです。彼の奥さんがロバートのお父さんの4人きょうだいの一番下の妹に当たります」
    「……母方の遠縁の親戚ってことか」
     家系図の上から三毛猫をどかして言うと、Qは肩を竦めて「簡単にいうとそう」と言って、今度は戸惑った様子で続けた。
    「問題は、ロバートが家系図の中にいないことです」
     僕は眉を潜めた。嫌な予感がする。ソファに胡座を掻いて座ったQはさらに古い新聞記事のコピーを僕に渡した。エディンバラの地方紙の、かなり小さな記事がふたつ。ひとつは、ロバート・フロビシャーの死亡記事だった。拳銃自殺だったらしい。もう一つは、それより前の日付で、殺人未遂の事件の記事。エディンバラに住む作曲家が撃たれて怪我をし、犯人は依然逃走中。なんと、その犯人の名前がロバート・フロビシャーだった。ヴィヴィアン・エアズの作曲したスコアを盗み、彼を撃って逃げたと書いてある。
     腕の中から三毛猫がするりと抜けていった。Qは唇を噛んで、ゆっくりと首を振ると言った。少し声が震えている。
    「……家系図にいない原因の一つは多分これです。記事がこれしかないことも……」
    「君の言う通り揉み消されたんだな」
    「おそらく」
     僕はQの様子を伺いながら慎重に言った。
    「……記事の内容は本当だと思うか?」
    「……わかりません。本当だと考えることもできます」
     Qはとても小さな声で、でも、と呟くと一瞬口をつぐんだ。彼はため息をついて眼鏡を取ると、片手で顔を覆って弱々しい声で言った。

    「………シックススミスの著書を全部調べたんです。出版された博士論文から昨日シャーロックが僕に見せた最後の本まで、全部……全部、同じ献辞でした。亡くなるまでの40年の間に書いた本、全部」

     永遠に君のもの。思わず僕が言うと、彼は無言で頷いた。




    改ページ



     ネット上に情報がない以上、不本意だがアナログで頑張るしかない。手伝うことを申し入れてくれたボンドを連れて、日曜日も図書館に行ってふたりがかりで粘ってみたが、フロビシャーに関しては昨日見つけたこと以上のものは出てこず、シックススミスは科学関係の記事が無数にヒットしてしまいとても1日で目を通せる量ではなかった。ボンドは僕が出勤している間も続けて調べると言い張って僕は危うく絆されそうになったが、彼は任務明けで報告書を提出しなければならない。攻防の末、月曜の朝に僕はボンドを本部まで引っ張って出勤した。
     約束の金曜日になるまでに、レゴの恐竜が3体増えた。ボンドは何も言わなかった。そろそろテレビボードがいっぱいになる。部屋にしまってある「街」と合わせたら、それなりのジュラシック・パークができるだろう。金曜日に何が起こるかによっては全部壊してしまうかもしれないけど。
     このところ、あの犬が毎日うちのキッチンの前に来ている。昼間はどこかへ行っているらしいが、夕方になるといつの間にかうちにやってくる。示し合わせたように黒猫も出窓までやってきて、夜になっても離れようとしないので仕方なく出窓に小さいブランケットを敷いてやった。犬は背中を壁にくっつけるようにして寝ていた。

     段差のある壁越しに身を寄せ合っている二匹を見ながら「うちでも飼えたらよかったのに」と言ったら、ボンドは「前世で一緒にいたのかもな」と返した。


    ***


     金曜日、Qはなんとか仕事を調整して夕方には本部を出た。僕は土壇場で会議に呼び出されてしまい、連絡を無視してQについて行こうとしたが本人から猛反対されて本部に留まった。ナショナルギャラリーは金曜日だけ21時まで開いている。僕がタクシーを降りたのは閉館する20分前だった。
     そういえばQはギャラリーのどこで手紙を渡されたのか話さなかったが、10月のあの日に行ったのならどこなのかは明らかだった。前回、つまりQと初めて会った時は確か絵の前には長いベンチが置かれていたと思うが、今は大きな皮張りのソファに代わっている。閉館間際だからか、Qは彼の目ような緑色の部屋に一人でぽつんと座っていた。『戦艦テメレール号』の前に。

     僕は何も言わずに、あの時と逆側に座った。

    「……来なかった」
     しばらくしてQが呟いた。
    「………そうか」
     彼は溜息をついた。薄い身体から空気が全て抜けてしまうんじゃないかというほどの、とても大きな溜息だった。
    「……何かあったんでしょうか。それとも、本当にただの悪戯だったのかな」
     閉館10分前のアナウンスが流れた。Qはもう一度、今度は短いため息をついて、勢いよくソファから立ち上がった。大きく伸びをして僕の方を振り返る。

    「帰りましょう」

     僕はまだ粘ろうと言おうか迷ったが、結局頷いて右手を彼に差し出した。Qは疲れた顔で笑うと、僕の手を両手で掴んで引っ張り上げた。



     僕もボンドも昼から何も食べていない。ここから最短で食事を取るあらゆる方法を話しながらギャラリーの出口に向かって歩いていたら、後ろからかなり大きな足音が響いてくるのが聞こえた。驚いて振り返ると、女性が一人走ってくる。閉館が近いから走っているようにも見えるが、そうじゃない。僕らに向かって走ってきている。彼女は僕とボンドの前で立ち止まると、膝に手をついて息を切らしながら言った。
    「すみません、でも———私——どうしても———あの——————」
    「大丈夫ですか?」
     ボンドが彼女に声をかけた。鮮やかな赤いベレー帽を被った、小柄なブルネットの女性だった。呆気にとられていたら、彼女はボンドではなく僕の方を見て言った。
    「いきなりごめんなさい、あの、でも————先週のこの時間にもいらしてました?」



     本当に閉館の時間になってしまったので、僕らはショナルギャラリーを出てすぐ目の前にあるトラファルガー広場の噴水に腰掛けていた。彼女は手短に「メアリー」と名乗ると、ハンドバックから束になった封筒を取り出して僕に手渡した。
    「あなたが先週会ったお婆さんと、私ここ半年ほど毎日……ほとんど毎日会ってたんです、彼女がいつもあの部屋にいるから。それで、同じ話を何度も、あなたの話を何度も聞いていて」
     何通もの手紙。エジンバラのロバート・フロビシャーから、ケンブリッジのルーファス・シックススミスに宛てた手紙だ。
    「……彼女が誰なのかご存知ですか?」
     僕の左側に座っていたボンドが口を開いた。
    「メーガン。メーガン・シックススミス」
     メーガン。日曜にシックススミスの家系図を調べた時に見た名前だ。ハワイに住んでいることしか分からなかったので見落としていた。
    「彼女の伯父さんが持ってたものなの。ずいぶん若い時に作曲家の恋人から送られてきたもので」
    「……彼女、先週僕にこれを渡したんです」
     ロバート・フロビシャーの写真を見せると、彼女の顔が明るくなった。
    「写真をずっと持っててくれたのね。よかった」
    「ずいぶん調べたんです。写真の裏に名前が書いてあって、そこから……彼は僕の遠い親戚です」
    メアリーはハッと息を飲んだ。彼女は「それじゃ、やっぱり」と呟くと、今度ははっきりした声で「初めから説明するわ」と言った。
    「私の方から話しかけたんです。絵本の挿絵を書く仕事をしているんだけど、次に描くものの取材にしばらくここに通ってたの。メーガンがいつも同じ部屋にいるから、つい気になって、それで知り合ったんです。私が毎日来てる訳を話したら、彼女も話してくれて。人を探してるんだって。5年前にあの部屋でたまたま、亡くなった伯父さんの恋人にそっくりな人を見かけて、また会えないかと毎日来てたんですって。その写真を私に見せながら……彼女、お歳だったでしょ? 何度も何度も同じ話を聞いたからよく覚えてるの。別人なのは分かってるけど他人とは思えないって。家に招いてお茶したりして、ずいぶん仲良くなった、とてもいい人だから。先週、夜にうちを訪ねてきて……多分あなたに写真を渡したその足で来たのね。やっと見つけたって嬉しそうにして、それで」
     メアリーの声がか細くなっていく。
    「その場で倒れたの。急いで病院に連れて行って……彼女、一言も言わなかったんだけど、あちこち悪くしてたみたいで。せっかく約束したのに行けないなんてあんまりでしょ、それで私が今日来たんです。なのに色々あってずいぶん遅れてしまって……」
     彼女は青いスカートをギュッと握ると、僕を見てニッコリと笑った。
    「でも、すぐ分かったわ。あなたの顔を見てすぐに分かった。本当にそっくりだから」




    ***



     目が覚めたら朝の9時だった。土曜の朝9時。結露した窓から冷気が漂ってくるのが分かる。先週よりずっと寒い。もうすぐ冬になる。
     床に着いたときにいたはずのQが横にいなかったので起き上がって探したら、小さい方の寝室にあるシングルベッドに毛布の塊ができていた。彼が一人で住んでいた時の寝室で、今はほとんど使っていない。元は僕の部屋兼今の寝室の方が空き部屋だった。
     あんなに空腹だったのに、昨夜はそれどころではなくて結局何も食べずに寝てしまった。20時間ほど何も食べていないことを自覚したら途端に胃が音を立てた。
     30分ほどして、水色のスウェットに赤いガウンを引っ掛けたQが起きてきた。フライパンに入ったチーズ入りのスクランブルエッグを僕の肩越しに覗くと、彼は「お腹すいて死にそう」と呻いて背中に寄りかかってきた。僕もだよ。
     二人でかなりの量の朝食を食べながら猫たちにも餌をやって、Qがポストを見に行っている間紅茶とコーヒーを淹れた。
     メーガンは市内の病院に入院しているらしい。昨夜、メアリーは病院の住所が書かれたカードをQに渡して行った。手紙を読んで、会いに行ってあげてねと。彼女が手紙の内容を知っているのかどうかは結局聞かなかったので、僕らは知らない。
     マグカップを二つ持ってリビングへ行くと、それまでソファに寝転がっていた黒猫が突然起き上がって、鳴きながら部屋の外へ走って行った。あの犬が来たんだろうか。不思議に思っていたら玄関の方から大きな物音がして、顔を真っ白にしたQが飛び込んできた。



     外に走ろうとする黒猫を僕が抱えて抑えている間に、Qは行きつけの動物病院に電話をした。電話を切った彼は自室に走っていくと、コミックとDVDの入った段ボール箱をひっくり返して、着ているガウンを脱いでそこに入れると大きく深呼吸して言った。「移動させます」。彼に黒猫をパスして僕が箱の中にもう冷たくなっている犬を入れ、電話した病院へ連れて行き引き取って貰った。野良犬に特に外傷は無く、いつもキッチンから見ている姿と変わらなかった。元々体を悪くしていたのかもしれない。
     Qは行き帰りの車の中で一度も口を開かなかった。病院から帰って黒猫がキッチンの出窓に座っているのを見つけると、彼は何も言わずに僕に抱きついて、ぼろぼろ涙を流し始めた。僕はQを抱えてベッドに連れて行き、彼が泣き疲れて寝てしまうまで午後じゅう彼の頭をゆっくり撫でていた。


    ***


     日が沈んでから目を覚ました。手紙の束を持って寝室を出たら、ボンドはキッチンの椅子に座って、まだ出窓にいる黒猫を眺めていた。僕がやってきたのに気づくと、彼は立ち上がって僕を抱きしめたので、またちょっと泣いた。しばらくそうした後、ボンドは僕が驚くほど小さな声で「スープを作った」と呟いた。僕は「食べます」と言って、彼の背中に腕を回した。





     コーヒーと紅茶を淹れて、寝室から毛布とクッションをあるだけ持ってきて、キッチンの床に座った。黒猫は出窓にいる。僕はボンドに手紙を渡した。
    「読んで」
    「……僕が?」
    「日付の順になってます。あなたが読んで」
     ボンドはちょっと躊躇ったあと手紙を受け取って、ゆっくり声に出して読み始めた。「シックススミス、あんな風に君の元から離れた僕を許してくれ」……。
     90年近く前の手紙をボンドが読むのを、僕は膝を抱えて彼にもたれかかりながら黙って聞いていた。ロバート・フロビシャーは、確かにヴィヴィアン・エアズを撃っていたし、身を隠した先で自殺した。僕が図書館で見つけた小さな記事は、彼がヴィヴィアンのスコアを盗んだというところが違っていた。つまりスコアを完成させたのはロバートで、それを自分のものにしようとしたのはヴィヴィアンだった。彼が残した唯一の曲、『クラウド・アトラス六重奏』がそのスコアだったということだ。
     ロバートはかなり頻繁に、それこそヴィヴィアンを撃って警察から追われる身になってもシックススミスに手紙を書いていた。「シックススミス、僕は毎朝スコット記念塔に登っているんだ。頭が冴えるよ。君にも見せてあげられたらいいのに。大丈夫、全てうまく行く。うんざりするほど完璧にうまく行くよ」……。ボンドが思わず口をつぐんで、僕らは顔を見合わせた。’Don't worry, all is well. All is so perfectly, damnably well’. 僕が任務中よく言う口癖だった。おかしなこともあるものだ。間違いなく親戚だな。ボンドが呟いた。
     手紙はロバートが亡くなるおそらく直前まで続いていた。シックススミスはロバートを追ってエジンバラまで向かい、スコット記念塔にも行ったが間に合わなかったようだ。間に合わなかったというか、ロバートが間に合わせなかったのだ。記念塔でシックススミスの姿を見たが、彼は姿を隠していたらしい。
     最後の一通は、この1週間僕の頭から離れなかったあの献辞で締めくくられていた。「永遠に君のもの R.F.」。ロバート・フロビシャーはスコアを書き上げてから亡くなった。彼の書いた音楽が今も残っていることと、シックススミスが手紙を40年間大切に持っていたということ以外、彼が死んで以降のことを知る術は僕らにはなかった。



    改ページ



     コンコンという音で目を覚ますと、トイレから戻ってきたらしいQが運転席の窓を叩いていた。窓を開けると、彼はマフラーに顔を埋めながら売店の方を指差した。
    「モンブラン味のアイス売ってる」
    「モンブランなのかアイスなのかどっちなんだそれは」
    「アイスです。僕の財布取って」
    「さっきの休憩所でもシュークリーム食ってたろ」
    「アイスはシュークリームじゃないじゃないですか」
    「……君のその論法はどうかと思うぞ」
    「あなたのコーヒーも買ってきます」
     仕方なく助手席にある財布を渡したら、Qは「次運転変わりますから」と言い残してモンブラン味のアイスに向かって歩いて行った。11月だぞ。

     月曜の朝起きたら、Qがベッドの上で猫を二匹抱えて僕のことをじっと見ていた。僕が目を覚ましたのに気づくと、彼は黒猫を撫でながら「水曜まで休みます」と言った。あまり無いことだ。そして、こうも言った。「スコット記念塔に行きませんか」。もちろん。
     ロンドンからエジンバラまで車で行くと、どんなに運が良くても7時間はかかる。着く頃にはすっかり夜になっているだろう。Qがモバイルで光のような速さで宿をブッキングし、そして、行きがけにメーガンのいる病院へ寄っていった。
     メーガンは市内にある総合病院に入院していた。Qは僕を病室に入るよう促したが、僕はそれを断って廊下で待っていた。彼は30分ほどして戻ってくると、何かを確かめるように頷いて「行きましょう」と呟いた。昨日よりも顔色が良くなっていて、僕は少し安心した。
     休憩所ごとに運転を代わりながらエジンバラへ向かった。二人でこんなに遠出するのは初めてかもしれない。ラジオを流したりQが持ってきたCDをかけたり、お喋りしたり黙ったりしながら少しずつ進んだ。出発してすぐ口数が少なかったQは段々と喋るようになり、レスターを過ぎる頃には子供の頃次兄と作った架空の言語を長兄に解読された話で僕を散々笑わせた。

    「君が作曲家の子孫だったとはな」
     モンブラン味のアイスは結局二人で食べている。信号待ちの間、食べかけのアイスをQに渡しながら言ったら彼は肩を竦めた。
    「でも繋がりありますよ。口癖はちょっとすごいと思うけど、シャーロックも作曲とかしますもん」
    「僕は小さい頃一瞬ピアノをやらされてたことがあった」
    「ほんとに? 僕はコーラスやってましたよ」
    「初耳だな。子供の頃?」
    「いえ、結構……高校出るぐらいまでやってました。16歳ぐらいかな」
     信号が青に変わって、Qはアイスが入っていたカップを手元にあるビニール袋に放りこんだ。
    「みんな『歌って』って言うんですよ。コーラスやってたって言うと」
    「……僕が君に『歌って』と言ったら君も僕に『ピアノ弾け』って言うだろ」
     Qはハンドルを回しながら声を上げて笑った。


    ***


     メーガンと僕は病室でたわいもないことを話していた。僕が工学や科学を仕事に使っていると話すと、彼女は「あなたも科学者なのね」と嬉しそうに言った。
    「作曲はできませんけど。でも真ん中の兄はよくヴァイオリンで曲を作ります。科学者でもあるから、彼が一番ふたりに似てるかも」
     メーガンは僕のことをじっと見つめた。
    「伯父は科学者だったけど、愛は存在すると信じてた。死を超えられる自然現象の一種だと考えていたの」
     証明されたわね。あなたがいてくれてよかった。彼女はそう言って僕の手を握った。



     11月始めのエディンバラの朝焼けを見に行った。予定していた時間より寝坊してしまった僕らは慌てて着替えて宿を出て、ボンドは寝癖のついた僕の頭にニット帽を被せた。早朝のエディンバラは空気がキンキンに冷え切っていて心が折れそうになったが、まだ暗いスコット記念塔の天辺にたどり着く頃には体が暖かくなっていた。
    「筋肉痛が怖い」
     息を切らして言ったらボンドが笑った。
    「ジョギングでもするか」
    「あなたのジョギングに自転車で並走するならいいですよ」
     汗冷えして風邪を引きそうだ。暑くてニット帽を脱いだ。
     陽が昇りだして、ものの数分で空が鮮やかな色になった。オレンジと青と紫と、夥しい数の色が混ざってゆっくりと街を照らしていく。
    「……ターナーのあの絵は、夕焼けと朝焼けどっちなんだろうな」
     左側からボンドの声がした。僕は前を見つめながら、さあ、とため息のような返事をした。考えたこともなかった。船ばかり見ていたから。
    「コルシカ島にも行くべきだと思います?」
    「……熱烈なファンみたいだな」
    「確かに。やっぱやめときます」
    「君が行きたいなら行く」
    「ううん、本当にいい。飛行機乗らなきゃいけないし」
    「じゃあこうしよう。任務でコルシカ島に行くことがあったらそこから君に電話をかけるよ」
    「それはいいかも。電話してどうするんですか?」
    「さあ。コルシカ島にいるよって君に言う」
    「そうですかって言いますね」
     ボンドはずっと前に向けていた視線を下に落として、小さな声で言った。電話じゃキスはできないから。僕は思わずボンドの方を見て、手すりに引っ掛けていた手を横にずらして、彼の手にくっつけて言った。戻ってくればいいでしょ、コルシカ島から。



     ボンドと一緒にいるようになってから、僕はひとりでいることがちょっとだけダメになったようなきらいがある。厳密に言えばひとりではない。猫がいる。本当にそれでよかったし、長い間そうして暮らしてきたのだから、これからもそうなんだろうと思っていた。
     でも、ボンドがいないと寂しい。ずっと寂しかったのかもしれない。ひょっとしたら、今も。それが普通の状態なのかもしれない。
     もし、この先ボンドだけがいなくなったら、もしくは僕だけがいなくなったら、僕らはどうするだろう。彼と出会って「寂しい」を覚えてしまった今、僕は別の誰かを探すかもしれない。多分彼もそうするだろう。とても寂しいけど、いつかは癒える。それでいい。


    ***


     エジンバラで半日観光して、すっかり夜になった頃ようやくロンドンに戻ってきた。Qはスコット記念塔の近くにある花屋で鉢植えの花を買って、車の中で抱えていた。背の高い小さな木に濃いピンク色の花がちらほら咲いている。ティー・ツリーと言うそうだ。これからもっと咲くらしい。
    ペットホテルから引き取ってきた猫を家に離すと、黒猫は一目散にキッチンへ走って行った。Qは僕に「手伝ってくれますか」と言うと、黒猫を追ってまっすぐキッチンへ行った。僕が黒猫をどかすと、彼は持っていた鉢植えを出窓に置いた。
    三毛猫の方がやってきてQの足に擦り寄った。Qは「ただいま」と呟いて抱き上げると、黒猫に手を伸ばして顎をくすぐった。
    「……ほかにいい人がいるよ、あの子に似た子が。この子も僕らもいるんだから」
    大丈夫。うまく行くよ。うんざりするほどうまく行く。Qはそう言って小さく鼻を啜った。
    「……この口癖、直したほうがいいですかね。また誰か死にそうな気がする」
    僕は三毛猫に手を伸ばして撫でながら言った。

    「大丈夫さ。少なくとも僕は生きてる」




    ***





     あまりにも忙しい休暇だった。気楽なドライブというわけでもなかったし、犬の死体は発見してしまうし、エジンバラは本当に寒かったし。嫌なことというわけではないけど、とても悲しかったし。出来合いの夕食を済ませて暖房の効いた部屋でお茶を飲んだタイミングで、僕はボンドに提案した。今しかないと思うんですよ。



    改ページ



     猫たちが入らないようにしっかり扉を閉めた。テレビボードの中の恐竜は13体。さらに僕が自室からありったけの「街」と、レゴで再現した色々な細々としたもの———車とか飛行機とか動物とか————を持ってきて、小さい方の寝室に所狭しと並べると、ボンドはその量に明らかに引いていたが、なかなかの風景になった。

    「本当にいいんだな?」
     スウェットの袖を捲ったボンドが言った。言葉とは裏腹に楽しそうな顔をしている。僕は得意げに返した。
    「何のために明日まで休み取ったと思ってるんですか? どう考えても今しかないでしょう」
    「片付けるのに1週間はかかるぞ」
    「来年になってもレゴが出てくるでしょうね」
    「猫は立ち入り禁止だ」
    「絶対にね。勢い余って壁とか壊さないでくださいよ」
    「僕を何だと思ってる?」
    「ダブルオーセブン。ジェームズ・ボンド。それ以外に何が? 僕の職業覚えてます?」

     僕はそう言いながらその辺にあったステゴサウルスと馬を手に取った。

    「また作ります。だから大丈夫」

     ステゴサウルスが綺麗な放物線を描いて、サイドテーブルに当たって砕けていった。恐竜も車も飛行機も動物もどんどん壊れていく。床が小さなブロックでいっぱいになった。壊れたパーツをまた壊して、破片を掬って落ち葉のように降らせた。カラフルな直方体と立方体と、変形のパーツが雨のように頭に当たる。けっこう痛い。でも楽しかった。
     いつだったか僕がボンドにあげた、寝室のサイドテーブルにいるアロサウルスのことは二人とも話さなかった。恐竜や飛行機を部屋に運ぶ間にあの恐竜はどうする、といくらでも言えたと思うのだが、僕もボンドも忘れたふりをしていた。実際あの後ブロックを片付けるのにかなりの時間がかかったし、その次の年になっても本当にあの部屋からいつまでもレゴが出てくる。猫の立ち入り禁止はまだ解けない。もう今後解けることはないかもしれない。
     でもアロサウルスはずっと無事だ。ずっと寝室にいる。明日のことはわからないけど、たぶん明日も。


    ロスト・アンド・ファウンド


    Damnablyという副詞がある。ケンブリッジ英語辞典を引くと、「in a way that is very annoying」。イライラするほど、だとか、うんざりするほど、という意味だ。否定の意味を持つ、本来良い意味では使われない言葉だ。
     僕らが任務で組む時は大抵3つのパターンに分かれる。1.僕が彼の言うことを無視して無茶をするか、2.彼が僕に無茶を言うか、3.もしくはその両方が同時に起こるかだ。Qの妙な口癖は2つ目のときによく出てくる。例えば初めて組んだ時のように走り出したバスや飛行機に乗れと言ってくる時や、薄いコンクリートの壁を体当たりで壊せと言ってくる時や、3〜4メートルほど間隔の開いたビルに飛び移れと言ってくる時に、僕が文句を言うとQは激しいタイピングの音と共に必ずこう言う。

    Don't worry Bond, all is well. All is so perfectly, damnably well.

     「大丈夫、ボンド。上手くいきますよ。うんざりするほど完璧に上手くいきますから」。Qが僕以外のダブルオーに同じことを言っているかどうかは知らないが、Qがこれを唱える時はかなり多くの場合でことが上手くいく。それはもううんざりするほど、僕が装備を何処かへやってきた言い訳をする一部の隙もないほどに。

     任務が終わると、いつも本部に大体の帰投日時を連絡する。長い任務後はそれだけ長い休みがあるので自己申告制で、長すぎなければほとんど好きな時に帰ってくることができる。以前は数ヶ月から半年帰らない時もあったが、Qと会ってしばらくしてからはトランジットで寄り道をしたりせずにまっすぐロンドンに戻るようになった。
    ほとんどは。
     Qと同じフラットに住むようになってから初めて長く家を開けた時、帰りの飛行機を一本遅らせたことがある。確か2ヶ月も無かったと思うが、帰投日時のメールを送る前にこれだけ長い間離れたのが初めてだったことに気づいて、なぜだか一本分遅くなる時間に書き換えた。6時間空白ができた僕はシドニーをうろつきながら、このまま帰らなかったら、帰れなかったら、つまり僕だけがいなくなったら彼はどうするか、もしくは彼だけがいなくなったら僕はどうするかを考えた。今頃何しているんだろう。僕らは互いがいなくても生きていけるだろうか?
     ことの良し悪しは一旦別として、僕はおそらく彼がいないと危うい。今までもそうだった。誰かいないと危うかった。もしロンドンに戻ってなんらかの理由で彼がいなくなっていたら、僕はたぶん自分のために別の誰かを探すだろう。今まで数え切れないほどそうしてきたし、そういう性質が簡単に変えられないことは自分が一番よく分かっている。
     今までと違うのは、僕がこれを自覚したということで、それはおそらく僕よりも自立しているQのお陰だ。1人でいることが寂しい、寂しかったのだと僕に自覚させた。
     そう考えたところで一本送らせた飛行機の時間になり、そのままロンドンにまっすぐ帰った。Qはいつも通り「その発信器いくらかかったと思ってるんですか」と小言を言って、それから「おかえりなさい」ととても小さな声で言った。僕はいつも通り「ただいま」と言って、それからは任務に行く前に食事の作り置きをして、料理のレシピを冷蔵庫に貼っていくようになった。僕としては毎回少しずつ遺書を置いていっているつもりでいるのだが、もちろんQにこのことは言っていない。たぶんこれからも言わないだろう。
     一緒に住んでいるし、互いが互いの大事な存在であるという自覚もある。僕たちは意図的にこの関係に名前をつけずにいる。体に直接触れ合ったこともない。でもキスしたくないと言えば嘘になる。これもQに言ったことがない。


    ***


     シャーロックと暮らすのは本当に退屈しない。今日はもう何日もこもりっきりで、いつまで経ってもシーツおばけから進化しようとしない彼を叩き起こして食事へ引っ張っていった。外に連れ出すまでにかなりの激しいやりとりがあって、自分でもどうやったのかよく覚えていないけど、とにかくなんとか彼を室外に連れ出した僕は疲れ切っていた。レストランへ行ってもパプリカ相手に理詰めの文句を言うだけのシャーロックをわざわざ連れて行くなんて自分でも矛盾してると思うけど、とにかく今日はやり切った。そう思って帰宅したら、シャーロックのソファで胡座を掻いた彼の弟がシャーロックのラップトップを開いているところと出会ったのだ。本当に退屈しない。
     彼が勝手に221Bに入ってきていること自体には驚かない。彼は僕が来る前からここに入り浸っていたそうだし、僕に気を使って鍵を返そうとしたのを「持ってて」と言ったのは僕だ。今までも外から帰ってきたらカウチで寝ていたり、ハドソンさんとお茶をしている彼と出会ったことが何度もある。ハロー、クィントン。Qと呼ばなければいけないのは分かってるし別に誰も咎めないことだけど、未だに癖で本名を口にしてしまう。僕が声をかけると、彼はワンテンポ遅れてこちらを見て「ジョン」と小さな声で言った。
    「依頼があるなら座る椅子が違うぞ」
     遅れて部屋に入ってきて、マフラーとコートをカウチに放ったシャーロックが当たり前のように言った。
    「依頼? 依頼があるの?」
     僕は兄弟の間で何度か視線を往復させた。てっきり仕事帰りに寄ったんだと思ったけど。
    「依頼というか、相談というか」
    「僕のラップトップを返せ」
    「グーグルが開きたかっただけ。何も見てないよ」
    「どうだか。返せ」
    「見てないよ。あったとしても見たくないよ」
    「ボンドは任務か?」
    「明日帰ってくる」
    「そこは僕のソファだ。ラップトップを返せ」
     Qは大きくため息をつくと、ラップトップをサイドテーブルに置いて依頼人用の椅子に座った。シャーロックは鼻の頭にシワを寄せて、Qが足元に置いた荷物を跨いでソファに収まる。僕はなんとなく緊張感のある二人の様子を伺いながらシャーロックの向かい側に座った。
    「誕生日プレゼントは通勤鞄だったか」
    「なんでそういちいち言うかな」
    「シャーロック」
     シャーロックは「さあ。兄だから?」と茶化すように言うと、Qが置いたラップトップを開いて、ゆっくりと眉を潜めた。
    「………僕らは普通の学校に行っておくべきだったかもな」
     シャーロックはさらに数秒黙ってから僕にラップトップを渡して静かに言った。
    「ルーツ探しの授業のこと? 今もやってるのかな」
    「さあ」
     ようやく画面を見た僕は思わず「ワオ」と声を漏らした。
     グーグルの画像検索欄には「ロバート・フロビシャー」とタイプされていた。何かの楽譜の画像とレコードのジャケットの画像、そして同じ男性が写った全く同じ古い白黒写真が何枚も表示されている。呆気にとられて画面と彼を見比べていると、Qはコートのポケットから小さな紙を取り出して僕らに見せた。画像欄にあるのとは違う、でも同じ青年の写真だった。僕でもわかる。彼が「ロバート・フロビシャー」だ。
     Qに生き写しだった。
    「……さっき、ナショナル・ギャラリーにいたんだけど」

     Qによれば、写真を渡してきたのはおそらく70代ぐらいのお婆さんで、絵を見ていたところに隣に座って話しかけられたらしい。単刀直入に、「あなたに渡したいものがあるの」と。人違いかと思ってQはその場を動こうとしたが、手に写真を握らされ、驚いて女性を見ると、「あなたに関係があるかわからないけれど、でも他人とは思えなくて」と。女性には家族がおらず、自分が死ぬ前にこの写真を誰かに託したい(「繋げたい」と言っていたそうだ)と思い、Qを見つけたということだった。さらに、本当はまだ渡すものがあるのだが、今日はたまたま持ってきていないことを残念がっていたそうだ。来週の同じ時間に来てくれたら必ず渡すから、良かったら来て欲しい、その時にわけを話したいと。

    「写真の裏に名前が書いてあって、それで。作曲家だって。一曲しか残さないで早くに亡くなったみたい。これがすごく手の込んだ悪戯の可能性だってあるし、実際何度かそういうことがあったから正直あまり信じてはいないんだ。職場に行けば顔認証でこれが僕の隠し撮りの加工なのか他人の空似なのか正確にわかるだろうけど、僕はもう外部のものをMI6のサーバーに繋いで馬鹿を見るのはごめんだ。だからあなたたちの意見が聞きたい。誰だと思う?」
    「じゃあ、彼……その写真の彼は本当にいるのかどうかも怪しいわけか」
    「実在する」
     目を瞑ったままのシャーロックがまた鋭く割り込んだ。両手をこめかみに当てて目を瞑っている。
    「どこかで聞いた、いや、見た……どこかで……フロビシャー…………本当に作曲家か?」
    「グーグルはそう言ってる」
    「科学者ではない?」
    「科学者? どうして?」
    「さあ。残した曲はネットにあるか?」
    「ちょっといい?」
     Qは僕の横まできて屈むと、僕が持ったままだったラップトップを目にも止まらぬ速さで操作した。
     『クラウド・アトラス六重奏』は、やや悲しげな優しい曲だった。もし悪戯なら、そのためだけにこんな音楽を用意するとは思えない。全く別の作曲家の音楽である可能性の方が高いだろう。シャーロックは立ち上がってQから写真を受け取ると、注意深く観察しながら部屋の中をぐるぐると歩き回った。
    「1930年代、前半……英国人。上流階級だな。それにしては服が古い。家族と不仲だったか、戦争の後だ、没落してたか………」
     いつものように諸々を呟きながら動き回っていたが、シャーロックは写真を照明にかざしたとたん突然ピタリと動きを止め、それを裏返しにすると、「僕はなんて馬鹿なんだ」と呟いて寝室に突進して行ってしまった。残された僕とQは顔を見合わせて、慌てて彼の後を追っていった。
     シャーロックは寝室の本棚をすごい勢いでひっくり返していた。何を話しかけても無駄なのはよくわかっていたのでQと二人で無言で見守っていたら、やがて彼は本を一冊持って僕らの前に立った。
    「この本の献辞で見た。フロビシャーという名字はそう多くない。だから僕は科学者かと聞いたんだ」
     大分仕舞い込まれていたようで、古い本特有の匂いがつんと鼻をついた。表紙は深い緑色のハードカバーで、原子力に関する研究の専門書のようだ。本文の紙は黄色く褪色していた。著者は「ルーファス・シックススミス」。Qが受け取って表紙を開くと、「To R. Frobisher - Yours eternally(R.フロビシャーに捧ぐ——永遠に君のもの)」とある。シャーロックはこれを覚えていたというわけだ。
    「ルーファス・シックススミスは戦後30年間の原子力研究の第一人者だった。73年にアメリカのエネルギー産業の陰謀に巻き込まれて射殺される前の最後の著書だ。事件としては面白くもなんともないがシックススミスは有名な科学者だし———」
     シャーロックは早口に喋っていたが、Qの顔を見ると口をつぐんでゆっくりと続けた。
    「………献辞に書く人間の名前は限られてる。家族か親友か恋人だ」
     永遠に君のもの。Qは献辞の言葉をごく小さな声で呟いて、「R.フロビシャー」の名前を指でなぞった。
    「シックススミスは未婚のまま死んだ。写真を渡してきた女性はどちらかの関係者だろう。フロビシャーが若いうちに死んだのならシックススミスの方である可能性が高い。たまたま見かけて声をかけたわけではないのは明白だ————彼女は写真と何かを渡すためにお前を’探して’いたんだ。ナショナルギャラリーに来ることを知っていた、いや、」
    「……ナショナルギャラリーで僕を見たことがあるから、あそこで僕を待ってたんだ」
     いつ来るのかも分からないのに、これを渡すために。Qは献辞のページに目を落としたまま言った。
    「……僕なら家系図から始める。図書館に行けば何かわかるさ」
     もう何度も見ているというのに、僕はシャーロックが弟に対してこんなにも素直な愛情を持っていることに毎度驚いてしまう。








     家の近くによく来る野良犬がいる。茶金色の毛をした雑種で、耳が垂れていて、中型犬くらいの大きさの犬。フラットの敷地によく入り込んでいて、うちのキッチンの窓の前に座っているのを見かけることがある。フラットの決まりでこれ以上動物を飼うことはできないけど、なんとなく顔見知りになっていた。僕とボンドの興味を引いたのは、うちにいる猫の片方がこの犬ととても仲がいいということだ。黒猫の方で、犬がやってくると音や匂いでわかるのか必ずキッチンにやってきて、出窓のスペースに座って犬と見つめ合っている。最初は自分の縄張りに入ってきたのが気に入らないのかと思っていたが、怒っている風でもないし、窓を開けると顔を出して鳴いたりしているので、どうやらそうではないらしいことが最近判明した。僕らは犬がやってくるたびに「ロミオとジュリエット」とか「スウィーニー・トッド」とか好き勝手に例えては2匹を見守っていた。


    ***


     翌朝起きたら、いつの間にか戻ってきていたボンドが隣で死んだように眠っていた(確認した。生きてる)。ニュージーランドから20時間以上かけて戻ってきたのだから当たり前だ。帰投時間は今日の昼間だったと思うけど、早く戻ってくることができたらしい。時計を見たら9時だった。土曜の朝9時。10月も後半になって朝晩がかなり冷えるようになった。部屋の空気が冷たくて、思わず手近にあった熱源に、つまりボンドの背中に身を寄せたら、彼は寝息と一緒に寝返りを打ってこちらを向いた。金色の睫毛が震えて3分の1ほど開き、またすぐ閉じてしまった。ボンドはずいぶん眠りが深くなった。寝室の外で猫の鳴き声が聞こえる。僕は枕でやや癖のついた彼の髪をちょっと撫でて、朝食を作りにベットから起き上がった。特に怪我はしていないらしい。よかった。

    「タナーがお菓子作り始めたんですよ」
     ポテトサラダのボウルを手に取りながら言ったら、コーヒーに口をつけようとしたボンドは笑い声を漏らした。
    「大ニュースだな。僕が知ってるタナーじゃない」
    「でしょ? 姪っ子と料理教室に行ってハマったんですって。スコーンくれたけど美味しかった」
    「彼は手先が器用だよな」
    「Q課時代も開発部でしたから」
    「昔から甘いものが好きなのは知ってたけど。ついに作るようになったか」
    「もう誰も止められませんね……あと、僕の話ですけど、ひょっとしたら作曲家の子孫かもしれないみたいなんですよ」
     ボンドは今しがた口にしようとしたオムレツのことをすっかり忘れてしまったようだった。

    **

     昨日の一部始終を、ボンドは所々頷きながら黙って聞いていた。僕が話し終えると、彼はロバートの写真を手に取って眺めながらまず「本当にそっくりだ」と呟いた。

    「じゃあ、フロビシャーとシックススミスは死に分かれた恋人同士なのか」
    「今のところは。で、写真をくれた人はたぶんどちらかの親族か何かで、僕にまだ渡すものがあると……シックススミスは事件に巻き込まれて亡くなりましたけど、フロビシャーの方がなんで死んだのかが調べても出てこなくて」
    「君が調べても?」
     僕はすっかりぬるくなった紅茶を見つめながら言った。
    「僕が調べても。たぶん、……隠されてるか何か、されてるんじゃないかと」
    「……ボーイフレンドがいたからか」
     シャーロックは、写真の彼が着ている服が「上流階級にしては古い」と言っていた。没落貴族だったか、もしくは家と不仲だったかと。1930年代、英国のそれなりの家柄の息子に同性の恋人がいたらどんな風当たりがあるか。想像しただけで苦しくなる。
    「きっと君のことを生まれ変わりだと思ったんだな」
     ボンドは腕を伸ばして、ちょうど僕の顔の横に写真を並べた。
    「もしその女性がどちらかの家族だったとして、ふたりの話を知っていたのなら、自分より後を生きている誰かにそれを伝えたいと思う気持ちもわかる」
    「僕は全く関係ないかもしれないのに?」
    「この写真を持ってるところに君が現れたら、そんなこと考える余裕はなくなるだろ」
     確かに。自分でそう言った声が驚くほど小さかった。
    「……ナショナルギャラリーに行ったんだな」
    少し間が開いてボンドが呟いた。
    「はい。……昨日は残業もなかったから、あなたもいなかったし、……予定もなかったし」
    「そうか」
    「あなたと会って以来初めて行きました」
    「僕もあれ以来行ってない」
    「そうですか」
     残業がなかったというのは本当だ。予定がなかったというのは嘘。帰り際009に食事に誘われたけど断った。ナショナルギャラリーに行ったのは、あそこでボンドと初めて会ってから昨日でちょうど5年経ったことをたまたま思い出したからだ。嘘だ。本当はずっと覚えていた。ボンドが覚えているかどうかは知らない。
    「………美術館でいきなり話しかけられる側の気持ちが分かったか?」
     ボンドが揶揄うように言って、僕は思わず笑った。
    「昇進したてで緊張してたんですよ」
    「君が名乗るのがもっと遅かったら僕は装備を貰いそびれてたな」
    「すいませんね若造で」
    「いいや。今後誰かに美術館で話しかけられるなら君以外はごめんだな」
     ボンドは喉の奥でくつくつと笑いながら言った。


    ***


     土曜は昼から雨が降り出した。僕は今回ナビを務めた課員に生き残った装備を返しにほんの一瞬本部に出勤し、Qは同じタイミングで大英図書館へ行った。家系図を遡ってみるらしい。午後早くに戻ってきた僕は、街に出てあれこれ買い出しを済ませて、家の掃除をしたりして過ごした。ここのところ二人とも忙しかったので、本棚やテレビボードの上に薄く積もった埃に猫の足跡がついていた。
     テレビボードには鍵がついていて、中にQが最近こつこつと作っているレゴの恐竜が入っている。この他にも自室に仕舞い込んである「街」があるらしい。雨の日や予定が突然潰れた暇な時、Qは小さなブロックを一心不乱に繋げて生き物を作り出していて、僕はそれを側から興味深く眺めていた。以前、テレビボードのスペースが段々なくなってきたのを見て「恐竜専用のケースがいるな」と言ったら、Qはなんでもないことのように「いずれ壊しちゃいますよ」と言った。「すごく嫌なことがあった日とか、悲しいことがあった日とかに全部。いつまでも増やし続けられないし、それに、モノは究極的に言えば壊れるためにあるようなもんです。持ち主によって寿命が違うけど」。
     その点で言うと僕はモノの死神だ。そう言ったらQはその時作っていた恐竜(アロサウルスだそうだ)を僕に渡した。
    「あげます。壊さないように取っておいて。僕があげたものを壊さないあなたが見たい」。Qは青い目をしたアロサウルスを僕にお辞儀させるように振った。僕はプラスチックの透明なケースを買ってきて、その中に恐竜を慎重に入れると寝室のサイドテーブルに飾った。半年経ったがまだ無事だ。


     夕方、夕飯の支度をしようとキッチンに立ったら出窓に黒い方の猫が座っていた。外を見ると案の定例の野良犬がやってきている。キッチンの前はちょうど軒下になっていて雨が凌げるらしい。気をつけながら窓を少し開けたら、黒猫は身を乗り出してにゃあと鳴いた。



    「ややこしい話をしますよ」

     Qは随分難しい顔をして帰ってきて、難しい顔をしながら夕食を食べて、難しい顔をしながら片付けを済ませると、バックパックから出した資料をローテーブルにあれこれ広げた。
    「僕の母方の曽祖父の、お兄さん? ……なんて呼ぶのかわからないんですけど、僕のひいお爺さんの3番目のお兄さんが、フロビシャー家に入婿してたみたいなんです。彼の奥さんがロバートのお父さんの4人きょうだいの一番下の妹に当たります」
    「……母方の遠縁の親戚ってことか」
     家系図の上から三毛猫をどかして言うと、Qは肩を竦めて「簡単にいうとそう」と言って、今度は戸惑った様子で続けた。
    「問題は、ロバートが家系図の中にいないことです」
     僕は眉を潜めた。嫌な予感がする。ソファに胡座を掻いて座ったQはさらに古い新聞記事のコピーを僕に渡した。エディンバラの地方紙の、かなり小さな記事がふたつ。ひとつは、ロバート・フロビシャーの死亡記事だった。拳銃自殺だったらしい。もう一つは、それより前の日付で、殺人未遂の事件の記事。エディンバラに住む作曲家が撃たれて怪我をし、犯人は依然逃走中。なんと、その犯人の名前がロバート・フロビシャーだった。ヴィヴィアン・エアズの作曲したスコアを盗み、彼を撃って逃げたと書いてある。
     腕の中から三毛猫がするりと抜けていった。Qは唇を噛んで、ゆっくりと首を振ると言った。少し声が震えている。
    「……家系図にいない原因の一つは多分これです。記事がこれしかないことも……」
    「君の言う通り揉み消されたんだな」
    「おそらく」
     僕はQの様子を伺いながら慎重に言った。
    「……記事の内容は本当だと思うか?」
    「……わかりません。本当だと考えることもできます」
     Qはとても小さな声で、でも、と呟くと一瞬口をつぐんだ。彼はため息をついて眼鏡を取ると、片手で顔を覆って弱々しい声で言った。

    「………シックススミスの著書を全部調べたんです。出版された博士論文から昨日シャーロックが僕に見せた最後の本まで、全部……全部、同じ献辞でした。亡くなるまでの40年の間に書いた本、全部」

     永遠に君のもの。思わず僕が言うと、彼は無言で頷いた。






     ネット上に情報がない以上、不本意だがアナログで頑張るしかない。手伝うことを申し入れてくれたボンドを連れて、日曜日も図書館に行ってふたりがかりで粘ってみたが、フロビシャーに関しては昨日見つけたこと以上のものは出てこず、シックススミスは科学関係の記事が無数にヒットしてしまいとても1日で目を通せる量ではなかった。ボンドは僕が出勤している間も続けて調べると言い張って僕は危うく絆されそうになったが、彼は任務明けで報告書を提出しなければならない。攻防の末、月曜の朝に僕はボンドを本部まで引っ張って出勤した。
     約束の金曜日になるまでに、レゴの恐竜が3体増えた。ボンドは何も言わなかった。そろそろテレビボードがいっぱいになる。部屋にしまってある「街」と合わせたら、それなりのジュラシック・パークができるだろう。金曜日に何が起こるかによっては全部壊してしまうかもしれないけど。
     このところ、あの犬が毎日うちのキッチンの前に来ている。昼間はどこかへ行っているらしいが、夕方になるといつの間にかうちにやってくる。示し合わせたように黒猫も出窓までやってきて、夜になっても離れようとしないので仕方なく出窓に小さいブランケットを敷いてやった。犬は背中を壁にくっつけるようにして寝ていた。

     段差のある壁越しに身を寄せ合っている二匹を見ながら「うちでも飼えたらよかったのに」と言ったら、ボンドは「前世で一緒にいたのかもな」と返した。


    ***


     金曜日、Qはなんとか仕事を調整して夕方には本部を出た。僕は土壇場で会議に呼び出されてしまい、連絡を無視してQについて行こうとしたが本人から猛反対されて本部に留まった。ナショナルギャラリーは金曜日だけ21時まで開いている。僕がタクシーを降りたのは閉館する20分前だった。
     そういえばQはギャラリーのどこで手紙を渡されたのか話さなかったが、10月のあの日に行ったのならどこなのかは明らかだった。前回、つまりQと初めて会った時は確か絵の前には長いベンチが置かれていたと思うが、今は大きな皮張りのソファに代わっている。閉館間際だからか、Qは彼の目ような緑色の部屋に一人でぽつんと座っていた。『戦艦テメレール号』の前に。

     僕は何も言わずに、あの時と逆側に座った。

    「……来なかった」
     しばらくしてQが呟いた。
    「………そうか」
     彼は溜息をついた。薄い身体から空気が全て抜けてしまうんじゃないかというほどの、とても大きな溜息だった。
    「……何かあったんでしょうか。それとも、本当にただの悪戯だったのかな」
     閉館10分前のアナウンスが流れた。Qはもう一度、今度は短いため息をついて、勢いよくソファから立ち上がった。大きく伸びをして僕の方を振り返る。

    「帰りましょう」

     僕はまだ粘ろうと言おうか迷ったが、結局頷いて右手を彼に差し出した。Qは疲れた顔で笑うと、僕の手を両手で掴んで引っ張り上げた。



     僕もボンドも昼から何も食べていない。ここから最短で食事を取るあらゆる方法を話しながらギャラリーの出口に向かって歩いていたら、後ろからかなり大きな足音が響いてくるのが聞こえた。驚いて振り返ると、女性が一人走ってくる。閉館が近いから走っているようにも見えるが、そうじゃない。僕らに向かって走ってきている。彼女は僕とボンドの前で立ち止まると、膝に手をついて息を切らしながら言った。
    「すみません、でも———私——どうしても———あの——————」
    「大丈夫ですか?」
     ボンドが彼女に声をかけた。鮮やかな赤いベレー帽を被った、小柄なブルネットの女性だった。呆気にとられていたら、彼女はボンドではなく僕の方を見て言った。
    「いきなりごめんなさい、あの、でも————先週のこの時間にもいらしてました?」



     本当に閉館の時間になってしまったので、僕らはショナルギャラリーを出てすぐ目の前にあるトラファルガー広場の噴水に腰掛けていた。彼女は手短に「メアリー」と名乗ると、ハンドバックから束になった封筒を取り出して僕に手渡した。
    「あなたが先週会ったお婆さんと、私ここ半年ほど毎日……ほとんど毎日会ってたんです、彼女がいつもあの部屋にいるから。それで、同じ話を何度も、あなたの話を何度も聞いていて」
     何通もの手紙。エジンバラのロバート・フロビシャーから、ケンブリッジのルーファス・シックススミスに宛てた手紙だ。
    「……彼女が誰なのかご存知ですか?」
     僕の左側に座っていたボンドが口を開いた。
    「メーガン。メーガン・シックススミス」
     メーガン。日曜にシックススミスの家系図を調べた時に見た名前だ。ハワイに住んでいることしか分からなかったので見落としていた。
    「彼女の伯父さんが持ってたものなの。ずいぶん若い時に作曲家の恋人から送られてきたもので」
    「……彼女、先週僕にこれを渡したんです」
     ロバート・フロビシャーの写真を見せると、彼女の顔が明るくなった。
    「写真をずっと持っててくれたのね。よかった」
    「ずいぶん調べたんです。写真の裏に名前が書いてあって、そこから……彼は僕の遠い親戚です」
    メアリーはハッと息を飲んだ。彼女は「それじゃ、やっぱり」と呟くと、今度ははっきりした声で「初めから説明するわ」と言った。
    「私の方から話しかけたんです。絵本の挿絵を書く仕事をしているんだけど、次に描くものの取材にしばらくここに通ってたの。メーガンがいつも同じ部屋にいるから、つい気になって、それで知り合ったんです。私が毎日来てる訳を話したら、彼女も話してくれて。人を探してるんだって。5年前にあの部屋でたまたま、亡くなった伯父さんの恋人にそっくりな人を見かけて、また会えないかと毎日来てたんですって。その写真を私に見せながら……彼女、お歳だったでしょ? 何度も何度も同じ話を聞いたからよく覚えてるの。別人なのは分かってるけど他人とは思えないって。家に招いてお茶したりして、ずいぶん仲良くなった、とてもいい人だから。先週、夜にうちを訪ねてきて……多分あなたに写真を渡したその足で来たのね。やっと見つけたって嬉しそうにして、それで」
     メアリーの声がか細くなっていく。
    「その場で倒れたの。急いで病院に連れて行って……彼女、一言も言わなかったんだけど、あちこち悪くしてたみたいで。せっかく約束したのに行けないなんてあんまりでしょ、それで私が今日来たんです。なのに色々あってずいぶん遅れてしまって……」
     彼女は青いスカートをギュッと握ると、僕を見てニッコリと笑った。
    「でも、すぐ分かったわ。あなたの顔を見てすぐに分かった。本当にそっくりだから」




    ***



     目が覚めたら朝の9時だった。土曜の朝9時。結露した窓から冷気が漂ってくるのが分かる。先週よりずっと寒い。もうすぐ冬になる。
     床に着いたときにいたはずのQが横にいなかったので起き上がって探したら、小さい方の寝室にあるシングルベッドに毛布の塊ができていた。彼が一人で住んでいた時の寝室で、今はほとんど使っていない。元は僕の部屋兼今の寝室の方が空き部屋だった。
     あんなに空腹だったのに、昨夜はそれどころではなくて結局何も食べずに寝てしまった。20時間ほど何も食べていないことを自覚したら途端に胃が音を立てた。
     30分ほどして、水色のスウェットに赤いガウンを引っ掛けたQが起きてきた。フライパンに入ったチーズ入りのスクランブルエッグを僕の肩越しに覗くと、彼は「お腹すいて死にそう」と呻いて背中に寄りかかってきた。僕もだよ。
     二人でかなりの量の朝食を食べながら猫たちにも餌をやって、Qがポストを見に行っている間紅茶とコーヒーを淹れた。
     メーガンは市内の病院に入院しているらしい。昨夜、メアリーは病院の住所が書かれたカードをQに渡して行った。手紙を読んで、会いに行ってあげてねと。彼女が手紙の内容を知っているのかどうかは結局聞かなかったので、僕らは知らない。
     マグカップを二つ持ってリビングへ行くと、それまでソファに寝転がっていた黒猫が突然起き上がって、鳴きながら部屋の外へ走って行った。あの犬が来たんだろうか。不思議に思っていたら玄関の方から大きな物音がして、顔を真っ白にしたQが飛び込んできた。



     外に走ろうとする黒猫を僕が抱えて抑えている間に、Qは行きつけの動物病院に電話をした。電話を切った彼は自室に走っていくと、コミックとDVDの入った段ボール箱をひっくり返して、着ているガウンを脱いでそこに入れると大きく深呼吸して言った。「移動させます」。彼に黒猫をパスして僕が箱の中にもう冷たくなっている犬を入れ、電話した病院へ連れて行き引き取って貰った。野良犬に特に外傷は無く、いつもキッチンから見ている姿と変わらなかった。元々体を悪くしていたのかもしれない。
     Qは行き帰りの車の中で一度も口を開かなかった。病院から帰って黒猫がキッチンの出窓に座っているのを見つけると、彼は何も言わずに僕に抱きついて、ぼろぼろ涙を流し始めた。僕はQを抱えてベッドに連れて行き、彼が泣き疲れて寝てしまうまで午後じゅう彼の頭をゆっくり撫でていた。


    ***


     日が沈んでから目を覚ました。手紙の束を持って寝室を出たら、ボンドはキッチンの椅子に座って、まだ出窓にいる黒猫を眺めていた。僕がやってきたのに気づくと、彼は立ち上がって僕を抱きしめたので、またちょっと泣いた。しばらくそうした後、ボンドは僕が驚くほど小さな声で「スープを作った」と呟いた。僕は「食べます」と言って、彼の背中に腕を回した。





     コーヒーと紅茶を淹れて、寝室から毛布とクッションをあるだけ持ってきて、キッチンの床に座った。黒猫は出窓にいる。僕はボンドに手紙を渡した。
    「読んで」
    「……僕が?」
    「日付の順になってます。あなたが読んで」
     ボンドはちょっと躊躇ったあと手紙を受け取って、ゆっくり声に出して読み始めた。「シックススミス、あんな風に君の元から離れた僕を許してくれ」……。
     90年近く前の手紙をボンドが読むのを、僕は膝を抱えて彼にもたれかかりながら黙って聞いていた。ロバート・フロビシャーは、確かにヴィヴィアン・エアズを撃っていたし、身を隠した先で自殺した。僕が図書館で見つけた小さな記事は、彼がヴィヴィアンのスコアを盗んだというところが違っていた。つまりスコアを完成させたのはロバートで、それを自分のものにしようとしたのはヴィヴィアンだった。彼が残した唯一の曲、『クラウド・アトラス六重奏』がそのスコアだったということだ。
     ロバートはかなり頻繁に、それこそヴィヴィアンを撃って警察から追われる身になってもシックススミスに手紙を書いていた。「シックススミス、僕は毎朝スコット記念塔に登っているんだ。頭が冴えるよ。君にも見せてあげられたらいいのに。大丈夫、全てうまく行く。うんざりするほど完璧にうまく行くよ」……。ボンドが思わず口をつぐんで、僕らは顔を見合わせた。’Don't worry, all is well. All is so perfectly, damnably well’. 僕が任務中よく言う口癖だった。おかしなこともあるものだ。間違いなく親戚だな。ボンドが呟いた。
     手紙はロバートが亡くなるおそらく直前まで続いていた。シックススミスはロバートを追ってエジンバラまで向かい、スコット記念塔にも行ったが間に合わなかったようだ。間に合わなかったというか、ロバートが間に合わせなかったのだ。記念塔でシックススミスの姿を見たが、彼は姿を隠していたらしい。
     最後の一通は、この1週間僕の頭から離れなかったあの献辞で締めくくられていた。「永遠に君のもの R.F.」。ロバート・フロビシャーはスコアを書き上げてから亡くなった。彼の書いた音楽が今も残っていることと、シックススミスが手紙を40年間大切に持っていたということ以外、彼が死んで以降のことを知る術は僕らにはなかった。





     コンコンという音で目を覚ますと、トイレから戻ってきたらしいQが運転席の窓を叩いていた。窓を開けると、彼はマフラーに顔を埋めながら売店の方を指差した。
    「モンブラン味のアイス売ってる」
    「モンブランなのかアイスなのかどっちなんだそれは」
    「アイスです。僕の財布取って」
    「さっきの休憩所でもシュークリーム食ってたろ」
    「アイスはシュークリームじゃないじゃないですか」
    「……君のその論法はどうかと思うぞ」
    「あなたのコーヒーも買ってきます」
     仕方なく助手席にある財布を渡したら、Qは「次運転変わりますから」と言い残してモンブラン味のアイスに向かって歩いて行った。11月だぞ。

     月曜の朝起きたら、Qがベッドの上で猫を二匹抱えて僕のことをじっと見ていた。僕が目を覚ましたのに気づくと、彼は黒猫を撫でながら「水曜まで休みます」と言った。あまり無いことだ。そして、こうも言った。「スコット記念塔に行きませんか」。もちろん。
     ロンドンからエジンバラまで車で行くと、どんなに運が良くても7時間はかかる。着く頃にはすっかり夜になっているだろう。Qがモバイルで光のような速さで宿をブッキングし、そして、行きがけにメーガンのいる病院へ寄っていった。
     メーガンは市内にある総合病院に入院していた。Qは僕を病室に入るよう促したが、僕はそれを断って廊下で待っていた。彼は30分ほどして戻ってくると、何かを確かめるように頷いて「行きましょう」と呟いた。昨日よりも顔色が良くなっていて、僕は少し安心した。
     休憩所ごとに運転を代わりながらエジンバラへ向かった。二人でこんなに遠出するのは初めてかもしれない。ラジオを流したりQが持ってきたCDをかけたり、お喋りしたり黙ったりしながら少しずつ進んだ。出発してすぐ口数が少なかったQは段々と喋るようになり、レスターを過ぎる頃には子供の頃次兄と作った架空の言語を長兄に解読された話で僕を散々笑わせた。

    「君が作曲家の子孫だったとはな」
     モンブラン味のアイスは結局二人で食べている。信号待ちの間、食べかけのアイスをQに渡しながら言ったら彼は肩を竦めた。
    「でも繋がりありますよ。口癖はちょっとすごいと思うけど、シャーロックも作曲とかしますもん」
    「僕は小さい頃一瞬ピアノをやらされてたことがあった」
    「ほんとに? 僕はコーラスやってましたよ」
    「初耳だな。子供の頃?」
    「いえ、結構……高校出るぐらいまでやってました。16歳ぐらいかな」
     信号が青に変わって、Qはアイスが入っていたカップを手元にあるビニール袋に放りこんだ。
    「みんな『歌って』って言うんですよ。コーラスやってたって言うと」
    「……僕が君に『歌って』と言ったら君も僕に『ピアノ弾け』って言うだろ」
     Qはハンドルを回しながら声を上げて笑った。


    ***


     メーガンと僕は病室でたわいもないことを話していた。僕が工学や科学を仕事に使っていると話すと、彼女は「あなたも科学者なのね」と嬉しそうに言った。
    「作曲はできませんけど。でも真ん中の兄はよくヴァイオリンで曲を作ります。科学者でもあるから、彼が一番ふたりに似てるかも」
     メーガンは僕のことをじっと見つめた。
    「伯父は科学者だったけど、愛は存在すると信じてた。死を超えられる自然現象の一種だと考えていたの」
     証明されたわね。あなたがいてくれてよかった。彼女はそう言って僕の手を握った。



     11月始めのエディンバラの朝焼けを見に行った。予定していた時間より寝坊してしまった僕らは慌てて着替えて宿を出て、ボンドは寝癖のついた僕の頭にニット帽を被せた。早朝のエディンバラは空気がキンキンに冷え切っていて心が折れそうになったが、まだ暗いスコット記念塔の天辺にたどり着く頃には体が暖かくなっていた。
    「筋肉痛が怖い」
     息を切らして言ったらボンドが笑った。
    「ジョギングでもするか」
    「あなたのジョギングに自転車で並走するならいいですよ」
     汗冷えして風邪を引きそうだ。暑くてニット帽を脱いだ。
     陽が昇りだして、ものの数分で空が鮮やかな色になった。オレンジと青と紫と、夥しい数の色が混ざってゆっくりと街を照らしていく。
    「……ターナーのあの絵は、夕焼けと朝焼けどっちなんだろうな」
     左側からボンドの声がした。僕は前を見つめながら、さあ、とため息のような返事をした。考えたこともなかった。船ばかり見ていたから。
    「コルシカ島にも行くべきだと思います?」
    「……熱烈なファンみたいだな」
    「確かに。やっぱやめときます」
    「君が行きたいなら行く」
    「ううん、本当にいい。飛行機乗らなきゃいけないし」
    「じゃあこうしよう。任務でコルシカ島に行くことがあったらそこから君に電話をかけるよ」
    「それはいいかも。電話してどうするんですか?」
    「さあ。コルシカ島にいるよって君に言う」
    「そうですかって言いますね」
     ボンドはずっと前に向けていた視線を下に落として、小さな声で言った。電話じゃキスはできないから。僕は思わずボンドの方を見て、手すりに引っ掛けていた手を横にずらして、彼の手にくっつけて言った。戻ってくればいいでしょ、コルシカ島から。



     ボンドと一緒にいるようになってから、僕はひとりでいることがちょっとだけダメになったようなきらいがある。厳密に言えばひとりではない。猫がいる。本当にそれでよかったし、長い間そうして暮らしてきたのだから、これからもそうなんだろうと思っていた。
     でも、ボンドがいないと寂しい。ずっと寂しかったのかもしれない。ひょっとしたら、今も。それが普通の状態なのかもしれない。
     もし、この先ボンドだけがいなくなったら、もしくは僕だけがいなくなったら、僕らはどうするだろう。彼と出会って「寂しい」を覚えてしまった今、僕は別の誰かを探すかもしれない。多分彼もそうするだろう。とても寂しいけど、いつかは癒える。それでいい。


    ***


     エジンバラで半日観光して、すっかり夜になった頃ようやくロンドンに戻ってきた。Qはスコット記念塔の近くにある花屋で鉢植えの花を買って、車の中で抱えていた。背の高い小さな木に濃いピンク色の花がちらほら咲いている。ティー・ツリーと言うそうだ。これからもっと咲くらしい。
    ペットホテルから引き取ってきた猫を家に離すと、黒猫は一目散にキッチンへ走って行った。Qは僕に「手伝ってくれますか」と言うと、黒猫を追ってまっすぐキッチンへ行った。僕が黒猫をどかすと、彼は持っていた鉢植えを出窓に置いた。
    三毛猫の方がやってきてQの足に擦り寄った。Qは「ただいま」と呟いて抱き上げると、黒猫に手を伸ばして顎をくすぐった。
    「……ほかにいい人がいるよ、あの子に似た子が。この子も僕らもいるんだから」
    大丈夫。うまく行くよ。うんざりするほどうまく行く。Qはそう言って小さく鼻を啜った。
    「……この口癖、直したほうがいいですかね。また誰か死にそうな気がする」
    僕は三毛猫に手を伸ばして撫でながら言った。

    「大丈夫さ。少なくとも僕は生きてる」




    ***





     あまりにも忙しい休暇だった。気楽なドライブというわけでもなかったし、犬の死体は発見してしまうし、エジンバラは本当に寒かったし。嫌なことというわけではないけど、とても悲しかったし。出来合いの夕食を済ませて暖房の効いた部屋でお茶を飲んだタイミングで、僕はボンドに提案した。今しかないと思うんですよ。





     猫たちが入らないようにしっかり扉を閉めた。テレビボードの中の恐竜は13体。さらに僕が自室からありったけの「街」と、レゴで再現した色々な細々としたもの———車とか飛行機とか動物とか————を持ってきて、小さい方の寝室に所狭しと並べると、ボンドはその量に明らかに引いていたが、なかなかの風景になった。

    「本当にいいんだな?」
     スウェットの袖を捲ったボンドが言った。言葉とは裏腹に楽しそうな顔をしている。僕は得意げに返した。
    「何のために明日まで休み取ったと思ってるんですか? どう考えても今しかないでしょう」
    「片付けるのに1週間はかかるぞ」
    「来年になってもレゴが出てくるでしょうね」
    「猫は立ち入り禁止だ」
    「絶対にね。勢い余って壁とか壊さないでくださいよ」
    「僕を何だと思ってる?」
    「ダブルオーセブン。ジェームズ・ボンド。それ以外に何が? 僕の職業覚えてます?」

     僕はそう言いながらその辺にあったステゴサウルスと馬を手に取った。

    「また作ります。だから大丈夫」

     ステゴサウルスが綺麗な放物線を描いて、サイドテーブルに当たって砕けていった。恐竜も車も飛行機も動物もどんどん壊れていく。床が小さなブロックでいっぱいになった。壊れたパーツをまた壊して、破片を掬って落ち葉のように降らせた。カラフルな直方体と立方体と、変形のパーツが雨のように頭に当たる。けっこう痛い。でも楽しかった。
     いつだったか僕がボンドにあげた、寝室のサイドテーブルにいるアロサウルスのことは二人とも話さなかった。恐竜や飛行機を部屋に運ぶ間にあの恐竜はどうする、といくらでも言えたと思うのだが、僕もボンドも忘れたふりをしていた。実際あの後ブロックを片付けるのにかなりの時間がかかったし、その次の年になっても本当にあの部屋からいつまでもレゴが出てくる。猫の立ち入り禁止はまだ解けない。もう今後解けることはないかもしれない。
     でもアロサウルスはずっと無事だ。ずっと寝室にいる。明日のことはわからないけど、たぶん明日も。






























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    2022/12/24 0:08:25

    ロスト・アンド・ファウンド

    ぼんどろっくでクラアトクロスオーバーというハードルの高い二次創作。フロビシャーくんがQくんの遠い親戚だったらという話です。が、時代設定はいじっていないのでフロビシャーくんは出てきません。とても長い。

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