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    ニュートンのゆりかご/ペンデュラムウェーブニュートンのゆりかご

     部屋の真ん中にカウチが置いてある。デスクと本棚の間、床に敷いた緑色のラグのちょうど中心。派手すぎない赤で、青いチェック柄のブランケットをいつも一緒に置いている。ベッドに行くのが面倒だったり、昼寝したいと思った時に仰向けに寝転ぶと、天井に貼った大きな世界地図が見える。一枚だけじゃない。その辺の本屋で売っているヨーロッパが中心の世界地図や、子供向けのカラフルなイラスト入りのものや、この時代のものではない世界地図まで。つまり、世界の端が滝になっていたり鏡になっていたり壁になっていたり、ガラス張りの球体になっていたりするようなものだ。僕はそれをマスキングテープで天井に所狭しと、ラップトップやスーツケースのステッカーのように貼っていた。もうずいぶん長い間貼ってあるから、ひょっとしたら剥がそうとするとまずいことになるかもしれない。まあいいんだ、フラットを買ってからやったことだから。
     天井の真ん中には、つまりカウチに寝転んだ時にちょうど目に入る世界地図は、カウチの上からでも十分大陸の形が見えるほど大きい。アイスランドとか、ハワイとか、タスマニアとか、はっきり見える。それ以外にも、小さい頃次兄のお古の世界地図のジグソーパズルを貰って以来、地図にある国の名前と場所196カ国分を僕は全部正確に覚えていた。


     眠れない時は、天井の地図を見ながら国を一つずつ数えて、それぞれが同じ場所にあるのを確認しているとだんだん眠くなってくる。これでもダメなら円周率を数えると大抵眠れる。素数はダメだ。目が覚めるから。


     僕の部屋には無駄なものばかりある。遊びで作ったロボットやゲーム、車の模型、ボトルシップ、レゴで作った恐竜、船の模型、存在しない単語の単語帳、想像だけで書いた料理のレシピ、そして、飛行機の模型。無駄が許されない職場の反動なのか、小さい頃の遊びの延長線なのか、こっそり作った無駄なもので部屋を埋めるのが好きだった。僕は飛行機に乗るのが怖い。子供の頃は外で遊ぶのも嫌いだった。次兄が庭に飛び出して海賊ごっこをするのをよそに、僕はレゴで海賊船を作って遊んでいた。どこにも行かず一ヶ所に留まり続けている代わりに、部屋に詰め込んで一度も動かしたことがない模型やラジコンと天井に貼った世界地図を眺めて過ごした。大人になっても何一つ変わらなかったということだ。

     
     天井の世界地図がそれまでと違う風に見えることと、その原因に気づいたのはボンドと仕事をするようになってから3回目のことだった。その時すでに彼は狙撃用のライフルをビルと一緒に何処かへやり、ワルサーをトラクターに轢かれさせた前科があったので、僕は出発前にこれでもかと釘をさした。あなたのものじゃないんだから丁寧に扱ってくださいよ、ちなみにこれには経費がこれくらいかかってますから、あなた前回それをそっくりそのまま燃やしてきたんですからね……ボンドは装備にかかっている額を聞いて「へえ」とだけ漏らし、僕は危うく手が出そうになったが我慢して、彼をニュージーランドに送り出した。
     その夜、カウチに寝転がって世界地図を眺めて国を数えていたら、馬鹿みたいな話だがちっとも眠くならなかったのだ。ニュージーランドばかりが目立って見えて。ボンドがいる場所が妙にきらきら光って見えて。円周率を200桁数えてやっと眠れた。
     数日して戻ってきたボンドに装備の行方を聞いたら「ミンサーで粉々にされた」と返ってきて、呆れるやらミンサーがなんのことなのかわからないやらで僕はしばらくこのことを忘れていたが、今思い返すと確かに最初はあの時のニュージーランドだったのだ。


     ボンドは驚くほど簡単に、でも慎重に、いつの間にか、僕の日常にするりと入り込んだ。僕が割ってしまったQのマグの新しいのと一緒に自分のJのマグを買ってきて、僕がそれを咎めずにQ課に置いておいたのをきっかけに、ボンドは何かと理由をつけて僕のところへ来てはコーヒーを飲んで行った。手土産にチョコレートやサンドイッチを持って、ついでに僕の紅茶も淹れて。僕はなかなか自分で認めなかったが、嬉しかった。自分が担当しない任務に彼が出ていく時は行き先を聞いて、家に帰って天井を眺めた。ロンドンとの距離を計算しているうちに眠ることができた。


     初めてボンドを僕の家に招いて部屋に入れたとき、彼はリビングやキッチンなんかとは全く違う僕の部屋を小さく口を開けて見渡した。僕はなかなか見られないジェームズ・ボンドの驚いた顔をじっくり眺めた。ボンドはボトルシップやラジコンを見ながら組み立て方なんかを僕に聞いた後、天井にびっしり貼られた世界地図が壁紙ではなく本物の地図であることに気づいて、小さな声で「地図だ」と言った。はい。地図です、と、僕は返そうとしたのだが、彼は重ねてこうも言った。「だから君は飛行機がいらないのか」。ボンドはその日、僕の部屋で想像だけの料理のレシピをみつけると、それを面白がってかなり忠実に実際に作ってくれた。忠実だったせいであまり美味しくはなかったけど、面白かった。
     
     
     その次の週は、今まで一度も飛ばしたことのないラジコンの飛行機を公園に飛ばしに行った。架空のレシピはアレンジしたらびっくりするほど美味しい料理に変わった。存在しない単語だけは本当になんの使い道もなかったが、たぶん僕らの間で暗号を使ってやりとりしなければいけない状況になったらこれが役に立つような気がする。それから、ロンドン・アイに乗った。ボンドがこの家にやってくるようになってから、僕が部屋の中にため込んでいた無駄なものたちが少しずつ外にこぼれるようになった。僕自身と一緒に。



    「ニュージーランドが光って見えたんですよ」
    「は?」
     明日の昼からボンドはシドニーに任務に出る。火曜日の夜、突然このことを思い出して、僕はデスクから振り返ってボンドに言った。カウチに仰向けに寝そべって本を読んでいる。
    「僕があなたのナビ初めてやった時ぐらいに、ニュージーランド行ってたでしょ。銃をミンサーで粉々にしてきた時の」
    「……ああ」
    「その日の夜にカウチで寝ようとしたら、ニュージーランドが気になって眠れなくて」
     ボンドは本を閉じて胸の上に置くと、僕に向けていた視線を天井に移して笑った。
    「嬉しいな」
    「あなたの行き先がどうしても気になるから、僕カウチで寝られなくなっちゃったんですよ」
    「君昨日ここで昼寝してたろ」
    「あなたもここで寝てたでしょ」
    「……なるほど」
     ボンドはぼんやりとそう呟くとカウチから起き上がった。
    「カウチで寝ることのほかに、僕のせいでできなくなったことはある?」
    「……気にしてるんですか?」
     ボンドはカウチの背もたれに腕を組んでもたれかかると、にや、と笑いながら僕を見た。
    「いいや。聞くといい気分になれそうだから」
     なんて趣味の悪い人だ。僕は笑って手に持っていたマグカップをデスクに置くと、いいですよ、と居直った。真逆のことを言ってやる。彼が僕の生活に入ってきてからできるようになったこと、広がったことを全部言ってやる。ジェームズ・ボンドの照れた顔を拝んでやろう。
     
     

     
    ペンデュラムウェーブ


     もともと滅多に家に人を招かないが、いつだったか部屋の中を見たイヴに「モノが少なすぎる」と呆れられたことがある。「テレビ台ぐらい買いなさいよ」「カーペットは?」とも。その時は適当に冗談を言ってかわしたが、僕はテレビ台やカーペットを買うことにまったく魅力や意味を見出せない人間なのだということは自分でよく知っていた。確かにソファに座ってみても位置が低いことはわかっていたが、しかし買ったところでどうなるというのだろう。テレビの位置が高くなり、ソファに座った時大体ちょうどいい場所に来るからといって、何がどうなるというのだろう。
     仕事柄家に帰ることが少ない。仕事が終わっても自分の家に帰りたくないとさえ思ったし、チェルシーのフラットに自分が定住しているという意識も薄かった。どうせまたすぐどこかに行くから家に居着いても仕方がないし、どうせいつか壊れるからモノをたくさん持っても仕方がない。同じ理由で冷蔵庫にあるのはほとんどアルコールだけだった。振る舞う相手がいなければ料理をしても仕方がないと思ったからだ。
     Qが初めて僕のフラットにやってきた時、彼はがらんとした部屋を見渡して「寒そう」と一言呟くと、一目散に本棚の前へ歩いて行って物色し始めた。紅茶とコーヒーを淹れながら「珍しいものがあったか?」と聞くと、Qは頷いて「信じられない」という顔で『望郷』のVHSを手に取っていた。VHSが珍しいのもそうだが、「テープを持ってるくせに再生機器を持っていないのが奇妙すぎ」だそうだ。
     翌週、Qはもう一度僕のフラットに大きなボストンバッグを持ってやってきた。猫でも連れてきたのかと思っていたら、中から出てきたのはなんとVHSデッキと工具とたくさんのコードで、彼はその場で中古品らしいそれの然るべきところをあっという間に修理して僕のテレビと接続してしまった。そしてコードを繋いだところで「あっ」と小さな声を上げ、今初めてそのことに気づいたという顔で僕を見てこう言った。

    「テレビ台ないじゃないですか」

     こうしてQは家主である僕よりもよっぽど簡単に、僕のフラットにテレビ台を導入して見せたというわけだ。
     


     Qが僕のフラットに来るようになってから、外にばらけがちだった生活が家の中に収まっていくようになった。すぐいなくなってダメにするからと思って避けていたテスコの青果売り場へ行った。歯ブラシをほとんど使い捨て状態にしないために専用のスタンドを買った。修理したデッキで映画を見て、家の中で眠った。ほとんど空だった僕のフラットは徐々にモノが増えていき、振る舞う相手ができたことでキッチンを使うようになった。自分の家に比べればモノが少ないのをいいことに、Qはうちに来るたびに本や何かしらのおもちゃを持ってきてはなんとなく置いて行った。倉庫だと思われていたのかもしれない。
     どうせまたすぐどこかに行くことも、どうせいつかモノが壊れることも変わらなかったが、どこかへ行ったら装備を返しにQのところに戻るのだし、壊れたモノは彼が直すのだということにしばらくしてから気づいた。どこかへ行っても何かを壊しても、壊さなくても、どちらにしろその先にQがいるのだ。僕を待っていていくれているのかどうかは別として、とりあえず戻ればそこにQがいるのだ。

     ばらけた生活がまとまって僕が少しずつ家の中にいるようになった代わりに、Qはそれまで自分の部屋と頭の中だけにあった世界を少しずつ外に出すようになった。あんなに立派なラジコンを作っているのに、外で飛ばしたことがないのは勿体無いと言って彼を連れ出したが、本当は外に出て楽しそうにするQを僕が見たいだけだった。
     行ってみたい国はないのかQに聞いたことがある。陸路で行ける場所なら誘えば一緒に行けるかと思ったからだ。Qは「そうですね」と言ってしばらく沈黙した後、「スコットランドかな」と呟いた。冗談なのか本気なのかなんとなく聞くのが憚られて、今でもどっちなのかわからない。

    「どうりで地下に篭っても平気な顔をしてるわけだな」
     初めてQの部屋を見に行った時、ボトルシップや様々な模型に囲まれた空間を一通り見せて貰い、僕は感想をそう呟いた。
    「外よりよっぽどおもしろいってわけか」
    「言い得て妙ですね。外出嫌いとインドアのどっちが先でこうなのか自分でもわからないんですけど」
    「子供の頃からそうだった?」
    「大概ね。でもこれに乗ってどこかへ行く想像はよくしてました」
     Qは手近にあった飛行機の模型を手に取ると、小さい子供がするように空中でゆっくりと動かした。
    「今はしてない?」
    「しなくなりました。仕事があるから」
     意味が分からなくて首を傾げたら、Qはさらにこう付け足した。
    「あなたはやったことないから分からないかもしれないけど、ナビしてる時は僕もそこに行ってるようなもんだから」

     
     Qが部屋の天井に世界地図をあんなに貼っているのは、自分のいる場所を確認するためなのではないかと僕は想像している。あのモノが多い部屋で彼が何がどこに置いてあるのかを正確に把握しているように、どの国がどこにあるのか、自分がその中にどこにいるのかをああしてしっかり了解しているから、地に足をつけて、Qは「そこ」にいることができるのだ。「そこ」とは、僕が戻ってくる場所でもある。彼は飛行機が嫌いだから乗りたくないと言っているが、僕個人としては、彼に飛行機は必要ないのだ。
     つまり、こんな想像を勝手にするほど、僕はいつしか彼のことを、僕が帰る墓所のことを、四六時中考えていたということだ。





     Qはただひとりで「いる」のが上手い。ロンドンに戻るたびに誰かを探していた僕よりもよっぽど上手い。長い間家を開けて、寂しがっているかと思って帰ると家中のスペースを使って大量のドミノを真剣な顔で並べていたりする。ただひとりでも楽しそうにしていたところに僕の場所を空けてくれるというので、文字通りQのフラットの空いている部屋に、僕はある日荷物を持って引っ越してきた。他人の気配がある家で暮らすのはおそらく数十年ぶりだったが、Qのフラットが僕の「そこ」になるのにそう時間はかからなかった。
     この前、彼が1週間ケンブリッジに出張して家を空けたことがあった。僕はQの気配がない家でどうやって1週間を乗り切ろうかかなり悩んだ結果、Qが食べられないことを悔しがるような食事を作っては写真に撮り、1週間毎日モバイルに送り続けたことがある。最後の方は料理することそれ自体が目的になり、後になってからおそらく人生で初めて自分のために食事を作ったということに気づいた。



    「ニュージーランドが光って見えたんですよ」
    「は?」
     シドニーに任務に出る前の晩、Qの自室のカウチで本を読んでいたら、突然デスクから振り返ったQがそう言った。
    「僕があなたのナビ初めてやった時ぐらいに、ニュージーランド行ってたでしょ。銃をミンサーで粉々にしてきた時の」
    「……ああ」
    「その日の夜にカウチで寝ようとしたら、ニュージーランドが気になって眠れなくて」
     ニュージランド。天井の世界地図に視線を移した。随分小さく見える。
    「嬉しいな」
    「あなたの行き先がどうしても気になるから、僕カウチで寝られなくなっちゃったんですよ」
    「君昨日ここで昼寝してたろ」
    「あなたもここで寝てたでしょ」
    「……なるほど」
    「カウチで寝ることのほかに、僕のせいでできなくなったことはある?」
    「……気にしてるんですか?」
    「いいや。聞くといい気分になれそうだから」
     僕は寝そべっていた体を起こして、カウチの背もたれに腕を組んでもたれかかってQを見た。何しろこっちは君が1週間いないだけで過ごし方に困るようになったのだ。彼にも何か不便があったら気分がいい。

     



    Zero_poptato Link Message Mute
    2022/11/23 1:02:34

    ニュートンのゆりかご/ペンデュラムウェーブ

    #00Q
    「内から外へ行くQくん、外から内へ行くボンドさん」みたいなテーマで書いたものですが、ちょっと消化不良です。2021年の初め頃に書いたもの。

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