イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    どしゃぶりQのモッズコートのフードにファーがつくと「冬が近いな」と気が付く。

    僕らが「芋虫」と呼んでいるそれは取り外しが出来るようになっている。なぜ芋虫なのかというと、一度出掛けにファーをつけようか迷って電気を消したリビングのローテーブルに放置して行ったことがあるからだ。ふたりで買い物をして帰ってきて、暗い部屋の中でそれを見たQは驚いてパスタソースの瓶が入った買い物袋を僕の足の上に落としたことがある。それ以来「芋虫」だ。短い秋が終わるまでクローゼットの中に放り込まれていたが、まだ10月だというのに気温が15度を切るようになってしまった今朝「芋虫」は久々に姿を現した。僕も本部で仕事があって今日は一緒に出勤したが、玄関に行くとフードが冬仕様になっていたので、「動かない方がいい、フードにものすごく大きな芋虫がついてる」と言ったらQは僕のマフラーを投げて寄越しながら「飼ってるんです。なかなか蛹にならなくて」と返した。「芋虫」は数多くあるこの家の人間にしか通じないジョークの一つだ。

    「芋虫」が登場したということは、つまりQの誕生日が近いか、もしくは既に過ぎているということでもある。新聞のオマケで貰った日めくりカレンダーが10月に入ったあたりから、毎朝玄関で急な任務が入らないよう祈りながらめくっていた。幸いにも先月2週間ほど韓国に行ったばかりだったので、余程の大ごとでなければ駆り出されることはないだろう。多分。去年は見事に10月を丸々エチオピアでの任務に充てなければならなくて、インカム越しに祝ったのちに帰投してすっかり秋も深まった頃ケーキを食べに行ったのだった。今年の僕の誕生日はQの方が忙しく、買い物から帰ってきたらカップケーキの箱を傍に置いた彼がソファで熟睡しているところに出会った。一つのカップケーキに蝋燭を5本無理やり刺して火をつけたQはそれなりに楽しそうだったが、あれは控えめに表現しても火事だったし、できれば今年はそれは避けたい。


    ***


    先週の日曜日、ソファで雑誌を開いていたボンドが「誕生日何が食べたい?」と声をかけた。床に座っていた僕はラジコンの船を修理する手を止めて数秒考えて、「なんでもいいんですか」と聞いた。
    「ああ。なんでも」
    ボンドは平然とした顔をしているが、内心では構えているに違いない。というのも、食事のリクエストを聞かれた僕の答えはいつも非常に抽象的で——これもこの家の人間にしか通じないジョークだ——解釈力が鍛えられるものだからだ。「チーズ」「魚」と具体的な時もあれば、「柔らかいもの」「硬いもの」という時もあるし、「赤いもの」という難題を出した時もあった(確かその時はパプリカに挽肉を詰めてドルマを作った)。
    どうしよう。「楽しいもの」とか「悲しいもの」とか、これまでにない難題にしてみようかな。「明るいもの」とか? 流石に意地悪だからやめようか。それより、今まで食べた中でよく覚えてるものとか。

    「……名前が思い出せないです」
    ボンドが首を傾げた。
    「えっと、魚とじゃがいものあれ」
    ボンドが腕を組んだ。
    「牛乳を入れてるやつ。白身魚の」
    ボンドはさらに脚を組んで、小さな声で呟いた。
    「カレン・スキンク?」
    「それ!」

    フィッシュアンドチップスを家で作ろうとして失敗した時、余ったジャガイモと鱈でボンドがすごいスピードで作ったスープだ。てっきり思いつきで作っているのかと思っていたがそれがやたらとおいしくて、後になってスコットランドの家庭料理だと教えてもらったのだった。子供の頃屋敷でよく出てきたのだそうだ。

    「どんな難題かと思ってたけど、カレン・スキンクか」
    ボンドは意外そうに笑ったあと、「固有名詞が出てきてよかった」と肩を竦めた。



    ***



    前回作った時は確か全部潰してしまったのだ、と、ジャガイモの皮を剥きながら思い出した。揚げるつもりだったので串切りにしていて、わざわざ全部小さくするくらいならと思ってQにマッシャーを持たせて潰して貰ったのだった。「網目からジャガイモが出てくるのが面白い」とか言って、随分滑らかにしてくれた。
    ジャガイモの芽を取りながらもう一つ思い出した。前回これを作った時はまだ別々の家に住んでいた。Qが「石が見たい」というので自然史博物館に行った帰りに、チップスでも食べながら歩こうとしたところで大雨が降ってきたものだから、そんな暇もなくたまたま近かった僕の家に帰ったのだ。チップスを食べ逃したことが二人ともなんとなく悔しくて、翌週作り方をよく見ずに自分たちで作ろうとしたらものの見事に失敗した。幸い犠牲になったのは最初の一片だけだったので、記憶の奥底にあるスープのレシピを思い出しながらリメイクしたというわけだ。
    燻製鱈をフライパンに入れて、牛乳を注いだ。二口目のコンロで玉ねぎとジャガイモを炒める。本当にあの時の雨はすごかった。頭から爪先まで全身ずぶ濡れになって、Qは眼鏡がほとんど役に立たず僕の腕にしがみついて歩いていた。確か地上を走る電車が止まって、地下鉄は人で溢れかえっていて、しかもその日は土曜日で、外は寒いし、猫達は一晩ぐらい留守番できるし……今考えると色々理由をつけたとしか思えないが、Qがチェルシーの僕の家に初めて泊まっていったのはその時だ。もう何年か前の話になる。


    だんだんと思い出してきた。そういえば、あの時ビショビショになったモッズコートにも「芋虫」がついていたっけ。風呂場に持っていったコートのファーの部分を絞ると雨水が出てきてQは笑っていた。僕の寝巻きのスウェットを貸して結局その日は夜中まで映画を見て、ソファで折り重なって寝てしまった。
    炒めた野菜と鱈を一緒にして牛乳で煮込む。ミルクの匂いに釣られたのか足元に猫が寄ってきた。僕がこの家にやってきた時より猫達も随分大きくなった。抱き上げるとどこまでも伸びて骨がないのかと思ってしまう。三毛猫の方は随分体が大きくて、両脚を縦に伸ばすと多分Qの半分くらいある。
    初めて泊まっていった次の日の朝、先に目が覚めた僕はQの体が随分冷えていることに気づくと慌てて寝室に運んで行って毛布で包んだ。Qは寝ぼけ眼のまま毛布を被ると猫のように丸くなってまた寝てしまって、そのまま2時間起きなかった。頭まですっぽり毛布を引き上げる時に焦点の定まらない目が一瞬こちらを見て、すぐに目蓋を閉じてしまった。

    その時に僕は、今まで死なずにいてよかった、と、漠然と思ったのだ。トルコで川に落ちて以来、初めて。ナショナルギャラリーで彼と会った時からずっとそう思っていたのかもしれない。ちょうど、底に沈んでいたものがそのとき水面に浮かび上がってきたように、今まで死なずにいたことがかなりの幸運のように思えた。

    Qは2時間経ってからひどい寝癖をつけて起きてきて、僕は30分かけてそれをドライヤーで直してやった。今は10分とかからない。昨日の雨が嘘のようにロンドンは晴れていて、二人で散歩に出かけた。ナショナルギャラリーの前にある大きな階段に座ってサンドイッチを食べながら、僕はQに聞いた。「僕たちは同じ家に住めると思うか?」僕より二段上に座っていたQはハムを口に押し込んだ。「うち、前から空いてる部屋ひとつありますよ」。




    はっと我に還ったら鍋がことことと音を立てていた。加えて外から雨の降る音がしている。時計を見たら19時を過ぎたところだった。何事もなければそろそろ帰ってくるはずだ。
    鍋に蓋をして、足元にいる猫を片手に一匹ずつ抱えて玄関に向かうと、なんと靴箱の上に折り畳み傘が置きっぱなしになっている。僕は両手の猫たちと顔を見合わせると彼らを床に離して、急いでバスルームへ行った。バスタオルを数枚掴んだところで玄関からやや慌ただしくドアの開く音がする。「ボンド! 助けて!」雨水から逃げ出した猫たちが走ってくるのを避ける。バスタオルを持って走ってきた僕を見て、ずぶ濡れになったQが声を上げて笑うので、僕はバスタオルを彼の頭に何枚も被せて言った。夕飯だ。
















    Zero_poptato Link Message Mute
    2022/09/12 0:07:55

    どしゃぶり

    Qくんのお誕生日にご飯を作るボンドさん #00Q

    more...
    作者が共有を許可していません Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    NG
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品