ジェームズ・ボンドが「死んだ」日ジェームズ・ボンドが”死んだ”日
朝晩が冷え込むようになってきた秋の夕方だった。008の報告書を部下と二人がかりで解読し、新しく武器開発課に配属された課員のフォローをしながらMから頼まれたデータの解析を進めていたらあっという間に陽が落ちた。カフェテリアでテイクアウトしたサンドイッチを囓りながらUSBをスキャンしていると、目の前にスニッカーズが一つひょいと差し出される。
「食事しながら仕事すると精神的負荷がかなりかかるらしいよ」
片手にスニッカーズ、もう片方の手にコーヒーが入っているらしい紙のカップを持ったロイドだった。おとといウクライナから目当てのハードドライブを持ち帰ってきて、昼夜問わず解析にかけていたのがようやく終わりそうだから僕が呼び出したのだ。例によってぐるぐると伸びた髪を後ろにかきあげ、濃いブラウンのスーツを着ている。相変わらずネクタイは苦手らしくシャツのボタンは二つ開けられていた。
「008の報告書読むよりマシですよ」
「本人から話は聞けないの?」
「ダメなんです、帰投報告した途端休暇取ってオーストラリア行っちゃって。来月まで帰って来ない」
「オーストラリア?」
「サーフィンだって」
据わった目でそう返したらロイドは気の毒そうに笑って、スニッカーズの袋を開けてこちらに差し出す。僕は観念して休憩を取ることにした。
「あなたもサーフィンとかできるの?」
デスクの上になんとかスペースを作り、書類の上に置いていたサンドイッチの包みを真ん中に持ってきた。ロイドは「よろしい」と言ってその辺から椅子を一つ取ってくると、僕の向かい側に腰掛けた。
「サーフィンね。空軍にいたときに先輩に誘われて一度だけ行ったけど、上手くはできなかったな。そもそも泳ぐのがあんまり得意じゃなくて」
「『得意じゃない』って、つまり『オリンピックにはギリギリ出られない』みたいなことでしょ」
ロイドは僕の言葉に笑ってコーヒーを一口啜ると、「僕が得意なのは飛ぶことぐらいだ」と言った。
「もし今ここが襲撃を受けたとして、二分以内に君を連れて上にある飛行機で脱出して、追手が10機いても振り切れる。自慢できるのはこれしかないよ」
「僕が飛行機ダメなのも計算に入れてくださいね」
僕はそう言ってサンドイッチを一口齧って、付け合わせのポテトをロイドにひとつ差し出した。彼はワンテンポ遅れてそれを取る。
「君が……飛行機に乗れないのって何か理由があったんだっけ?」
僕は肩を竦めた。
「特にドラマチックな理由はありませんよ。強いて言うなら、子供の頃木登りして落ちたことがあるからかな」
ロイドはポテトを咀嚼しながら注意深くこちらを見て、僕が話し終わるのを聞いていた。彼がこういう顔をする時は、何かやりたいことがあるけど僕の気に障らないかを心配している時だ。この数年でずいぶん彼のことがわかってきた。橋の上で泣き出した僕の背中を摩ってくれたあの夜から、ロイドは僕に一番近しいところにいながら、しかし距離を保ったままでいてくれる。僕らは親しい友人だった。彼は気づいていないかもしれないが、僕にとってそれはある種かなり特別であることを意味する。
彼は慎重に口を開いて何かを言おうとしたが、ちょうど後ろの方からイヴがまっすぐこちらに向かってくるのが見えて僕はそちらに気を取られてしまった。つられてロイドも後ろを振り返る。
イヴは小走りで僕らのところへやってくると、口籠ってため息をついた。
***
独身の諜報員が亡くなった時、または亡くなったと当局が認識した時、公費で賄っているフラットは売り払って、私物は局が管轄するガレージに保管することになっている。故人の職業を知っている血縁者やその他の関係者がいれば物を選別して貰うこともあるが、僕はそのケースは見たことがなかった。
面白いことに、ボンドの私物がガレージに入れられるのは2回目だ。独身の諜報員が亡くなったら物はどうなるのか、僕に教えてくれたのもボンドだった。スカイフォールの一件が終わったころ、スコットランドからMの遺体とともに戻ってきたボンドは、高そうなスコッチを持って残業している僕のところにやってきた。夜中のラボでMに乾杯して、僕はほんの舐める程度しか飲めず、ほとんどボンドが瓶を空けてしまった。開口一番「君はどこに住んでるんだ?」と聞かれ、どういう質問なんだろうと思っていたら新しいフラットを探さなければならないということだったのだ。「どうせ公費ならチェルシーとかどうですか」と言ったのはそのときで、ボンドはその数日後に本当にチェルシーに住み始めた。
「独り者が死んだ時はみんなそうなるんだってさ。君は物が多そうだな」……勝手に死んだことにしないでくださいよ、と、確かその時はそう返したが、確かに僕ならガレージが3つくらいは必要だろう。
ガレージは前回死んだ時と同じ場所だそうだ。
味気ないかもしれないが、コードネーム007はこういう感じで欠番になった。彼がロンドンを出てから2年、連絡が取れなくなり、居場所もわからなくなって7か月。私物が保管されるのはガレージに物が仕舞われてから3年だ。それ以降を過ぎたら、ガレージの中身はそっくりそのまま処分され、ボンドの存在を示す物は本人以外におそらくこの世からほとんどなくなる。
おかしな偶然だが、ガレージはQ課の近くにある。地上まで登って少し歩けば、ボンドの物が仕舞われていくのを見届けることができるだろう。僕はイヴから「片付け」の日取りを聞くと、お礼を言って彼女を見送った。残りのサンドイッチとロイドから貰ったスニッカーズを食べながら、僕はデスクの中に2年近く仕舞いっぱなしになっている飛行機のポストカードのことを考えて、それから目の前で心配そうな顔をしている彼に「金曜日空いてます?」と声をかけた。
**
「寒いね。まだ10月なのに」
「そうですね。クリスマスはどうなっちゃうんだろう」
「綺麗な雪でも降ればまだマシだけど」
「ダメですよ、ロンドンの雪なんてほぼ泥水ですから。悲しい期待しないで」
僕が寒がりなのを知っているロイドは辛辣な物言いに笑い声を漏らした。10月14日のロンドンは、雨こそ降っていないが今にも雨が降りそうな、いつも通りの天気だった。
ガレージに私物が入った段ボールが入れられていくのを見ながら、これが多いのかどうかすら自分は知らないということをこっそり自覚した。僕はあの朝ボンドに鍵を渡して以来会っていなかった。ロンドンに残していったもう一台の車や、海軍時代のものらしきアーミーセーター。何年も前に先代のMのデスクに置いてあるのを見たことがある陶器のブルドッグ、などなど。彼がロンドンに戻らないつもりだろうことはなんとなく感じていたので、多分置いていけるものは全て置いていったんだろう。
「すみません、休みの日に朝から」
「いいんだ。呼んでくれて嬉しいよ」
車にシートがかけられるのを眺めながら呟いたら、ロイドは横で首を振った。
「……小さい頃の話なんですけど」
「うん」
「住んでた家によく来てた大きな野良犬がいて。よく遊んでたんだけど、ある時からぱたっといなくなっちゃって」
冷たい風が頬を撫でた。ロイドは足元を見ながら僕の話を聞いていた。
「待っても待っても来ないのを僕があんまり悲しむから、二番目の兄が野良犬のお墓を作ったんです。空っぽだけど、やらないよりは全然マシで、こうして区切りをつけるために人間は儀式をするんだって」
「……いいお兄さんだね」
「そうですね、僕には甘くて。……だからたぶん、これが、それなんです。自分だけではつけられない区切りをとりあえずつけてくれるから。返したいものもあるし」
「返したい物?」
「はい」
僕は胸ポケットから茶色い紙袋を取り出して、中身をロイドに見せた。
ほとんど全てをチェルシーのフラットに置いていって、アストン・マーチンでロンドンから鎖が切れたように飛び去った時、きっと身軽に感じたに違いない。今までのどんな時よりも身体が軽かったはずだ。スカイフォールの屋敷やオーペルハウザーやMI6でさえ、重りとなるものは全部全部振り切って、トルコの川底からあそこまで浮上を果たしたのだから。ほとんど全てを置いていったボンドが僕が復活させた車だけを持っていってくれたのは、正直ちょっと誇らしい気分だった。
荷物が全部運び込まれてガレージのシャッターが閉まる前、僕は一瞬作業員に待ったをかけて、茶色い紙袋から飛行機のポストカードの束を取り出すと手近にあった段ボールの中に放り込んだ。だって、花をくべるわけにもいかないし。ロイドはそうしている僕のことを、穏やかなような悲しいような、なんとも言えない顔で見ていた。
「ポストカードをここに仕舞うのはいいアイデアだと思ったんですけど、もう今の時点でそううまくはいかないんだろうなって気がしてます」
シャッターが閉まるのを見届けながらそう呟いたら、ロイドは穏やかな声で言った。
「……それはそうだよ。無理矢理殺そうとしちゃダメだ」
「……それでもいいですか?」
ロイドは驚いたような顔で僕を見た。
手ぶらになった左手がロイドの右手に触れた。その日は10月だというのに本当に風が冷たかったから、僕は我慢できなくなって「手を繋いでもいいですか」と聞いたら、彼は僕の手をそっと、でもしっかりと握ってくれた。「僕も寒いと思ってた」と、そう言いながら。
すてきなやつ
そのまま二人で手を繋いで街を歩いた。金曜日だったが僕は有給を取っていて、ロイドはもともと休みの日だった。ガレージのある場所から川沿いに歩いてホワイトホールを通り抜け、セント・ジェームズ・パークに着くまで、僕らはずっとどうでもいいお喋りをしながら手を繋いで歩いた。
公園に着くと分厚い雲の隙間から少しずつ陽が漏れ出して、朝よりも大分ましな暖かさになってきた。手はもう冷たくなかったがそのまま繋いでおくことにして、空いていたベンチに座る。
「久しぶりにこの公園に来たよ。今度うちの犬も連れてこようかな」
飼い主の後をついて散歩する犬たちを眺めながらロイドが言った。去年から犬を飼い始めたらしく、何度か写真を見せてもらったことがある。生き物を飼うことは彼にとっては大きなステップアップだっただろう。自分の帰りを待つ存在を持とうと思ったわけなのだから。
「ラブラドールでしたっけ」
「そう。走るのが好きでさ」
「ペットがいると家に帰る理由になりません? 僕は猫がいるから毎日家に帰ろうって思う」
猫を理由に何度か彼の誘いを断ったことがあるからか、ロイドはくつくつと笑い声を漏らした。
「残念だけど、家を空ける間は人に預けてるんだ。戻って来れなかったらかわいそうだからね……でも、確かに、犬を引き取って家に戻ると帰ってきた感じはするかも」
「出来たじゃないですか、料理とチップス以外にルーチンが」
「……それは、君のおかげだ」
ロイドが僕を見た。晴れ間の陽に照らされて、ブラウンの髪が金色のようになっている。
あたたかい光の中を通る冷たい風に乗って、ロイドの「きみのことが好きだ」という音がやってきて、僕の額を撫でていった。きみのことが好きだ。だから、もうちょっとこうしていてもいいかな。陽の光が繋いだ手まで届いた。
僕は少しだけ手に力を込めて、ロイドを見つめ返した。彼にはきちんと言おうと思った。
「……僕は、ボンドと恋人同士だったわけじゃありませんでした」
「うん」
「すごく親しい友達ではありました。でも今思うと、たぶん、……僕にとってその二つは同じようなものなのかも。近しい人で、重要で、大事な人で、幸せになってほしいと思う……あなたが、『すてきな感情』と言ってくれたやつです」
ロイドは黙って頷いた。僕がボンドに対して持っていた、多分今も持っている大きな愛情のようなものを、最初にそう呼んだのは彼だった。
「どこから、どうして、誰に、その……『すてき』なやつを抱くのかは、僕にもまだわからないんですけど」
僕は陽の当たった手を見て、それからもう一度彼のことを見て言った。でも、僕もまだこうしていたいです。
ロイドの眉尻がきゅっと下がった。灰色がかった青緑の眼がちょっと潤んでいる。驚いて「泣かないでくださいよ」と言ったら、ロイドは食い気味に「無理だよ。ハグしてもいい?」と声を揺らして、僕が「どうぞ」と言い終わらないうちにこちらに飛び込んできた。
長い間ベンチに座りすぎていたからか、抱きしめたロイドの背中からは少し埃っぽい日向の匂いがして、僕はそれを深呼吸して吸い込んだ。確かに、これはすごく『すてき』なやつだ。