恋、体調不良
マグカップぐらいいいかな、と思ったのだ。
MI6にスカウトされてヒラQ課員としてのほんのすこしの期間を経て、史上最年少でMから直々にQの称号を得た時はそれなりに嬉しかった。それなりにというか、結構、いや、かなり、すごく、嬉しかった。Mに才能を認知されているという自負や、自分の経歴が少々変わっているということ、ほかの課員から一目置かれていることも自覚していた。それでも嬉しかった。だって、今までのQは全員、ある一定以上の年齢の男性だったのだ。いや、自分も男性だし、社会的に男性の立場にあることはわかっているんだけど、女性から男性という確固たる性として見られた記憶はあまりなくて、僕自身もそれを望んでいなくて、とにかく、僕は今までのどのQともまったく違うのだという自覚があった。まるで老齢で飄々としていないとQにはなれないかのような空気さえQ課にはあったというのに、老齢でも飄々としてもいない、僕がQになったのだ。嬉しかった。
だから、マグカップぐらい買ってもいいかな、と思ったのだ。
MからQの称号を与えられたその時から、僕の名前はQになった。Qと、それ以外のいくつかの、当たり障りのない感じの偽名。複数ある名前の中で僕はQが一番のお気に入りだった。自分の力で手に入れた称号なのだ。ワイルド&ウルフのマグカップは、Qの名前を貰った帰り道にささやかなお祝いとして買った。Qの字の右下には数字の10、底にはトリプル・ワード・スコアと書かれた、オフホワイトの大きめのマグカップ。職場に持って行ったら、昨日まで同僚だった部下たちは僕のマグを見てみんな微笑んで、改めておめでとうと言ってくれた。白っぽい色をした僕のマグは汚れやすくて、紅茶を入れて放っておくとすぐ茶色い汚れがついたけど、僕が洗うのを忘れていると課員の誰かしらがいつもピカピカにしてくれた。全くいい人たちだと思う。
ある時はアールグレイ、ある時はココア、ある時はハーブティー。徹夜終わりに仮眠室で寝る前に飲んだ蜂蜜入りのミルクティー。職場を使って飲み会をした時に僕だけ仕事で抜けられなくて、酔っ払った部下に入れられたウイスキー。あとは水とか、ホットミルクとか、白湯とか。Q課を率いるようになってからわずか数ヶ月の間に、僕のマグカップはそれはもういろんな液体を入れられていた。たかがマグカップ、されどマグカップだ。ひょっとしたら、手製のラップトップ以外でこんなにモノに愛着が湧いたのは初めてかもしれない。テディベアのアロイシアスは別だ。彼はモノじゃないから。
***
「オーケー、聞きましょう。ワルサーから行きますか」
「ヘリのプロペラに弾き飛ばされた」
「予備のシグは?」
「ショベルカーで轢いた。すまん」
「カフス型カメラ」
「一番でかいやつを殴った時に飛んだ、多分」
「……発信機」
「知っての通りだ」
「……そうでした」
任務を達成して帰投するつもりが、迎えに行った別のエージェントと落ち合う前にもう一展開あり、カリブ海の底に沈められたのだった。「007、帰投する」の直後に銃声とともに通信が切れた時は流石に肝が冷えた。ほかのエージェントと一緒にいたのが不幸中の幸いですぐに通信は復活したが、できればもうあんな思いはしたくない。
正直、Q課にいつものスーツでやってきたボンドの姿を見てホッとした。無事とは聞いていたけど、現場のエージェントがいう「無事」はあまり信用にたるものではない。
スカイフォールの一件から数ヶ月が経っていた。Mの葬式が終わったあと、ボンドは短い休暇を取ったのちにエージェントの職務に復帰し、ナビ役に僕を指名した。なんとなくそんな予感がしていた僕は二つ返事で承諾し、こうして帰ってこない装備品に文句を言うこと4回目だ。
初めて渡したワルサーは大きめのトカゲに食べられ(控えめに言ってトカゲがかわいそうだ)、その次は川底に沈み、その次はグリップの部分だけ返ってきた。一番意味が分からなかったのは先月の「ミンサーで粉々にされた」で、ひき肉を作る機械をミンサーということをその時僕は初めて知った(「ミンサーってなんですか?」)。
「絶好調ですね。僕が取れるデータはケースについたあなたの指紋ぐらいだ」
「次は努力するよ」
「そのトーンだとトリガーかな、次返ってくるのは」
ボンドは青い目を細めて笑った。むかつく。
手元にある備品のチェックリストに力を込めてバツ印を付けていく。端から端までバツ。むしろ綺麗なのが癪に触って、僕はリストの一番下に「ボンド」と書き足すと丸印を付けた。
「……どうしたんですか? 装備の報告は受けましたから、もう行っていいですよ。おかえりなさい、007」
話が終わってもボンドは僕の前から動かない。チェックリストが挟まったクリップボードを裏返しにして置いて彼の顔を覗き込んだら、青い目がこちらを見た。
「……ああ、すまん。ただいま、Q」
「流石のあなたも疲れたんでしょう。ゆっくり休んでください」
「いや、そうじゃなくてな」
「うん?」
ボンドはラップトップの横にあるマグカップを指差した。黒い、なんの変哲も無い、普通のマグカップ。
「変えたのか?」
「あー……」
ええっと、それを聞かれると、なんていうか困る。特にこの人に聞かれるのは。
「……よく人のマグカップなんか覚えてますね」
「……わかりやすくていいなと思ったんだ。大事そうにしてたし」
「ええ、まあ、名前を書く必要もありませんし」
「それもそうだけど、君の自己主張だろ、数少ない」
「………」
なんてこった。Qの指名を受けて浮かれて買ったことがバレてたか。
「数少ない、は余計です」
「割れたか何かしたのか? 残念だな」
「残念? あなたが?」
「ああ。僕だってなにかを残念に思うことはある」
ボンドは小さく肩をすくめて、間を埋めるように耳の裏を掻いた。僕の手の厚さの二倍はありそうだ。なにか言いたそうにしているので首を傾げて先を促したら、ボンドは僕のデスクに軽く腰掛けた。
「……その、君がQを襲名したことを自分で誇りに思ってるのが伝わってきて、可愛いなと思ったんだ」
僕は危うくボールペンを取り落としそうになった。何を言ってるんだこの人は。なんて?
「……可愛いというか、自分が昔ダブルオーに昇格した時のことを思い出した。君のように祝福されるようなことではないとは思うんだが、それでも妙な気持ちにはなったよ」
「妙な気持ちって?」
「そうだな、スーパーの値札に7があった時とか、7が際立って見える」
「……スーパーとか行くんですか、あなた」
「僕だって人間だ、Q」
僕は目の前の男をじっと見た。彼はどうやら、僕と距離を縮めようとしてくれているらしい。なぜだか分からないけど。そして、僕はどうやらそれがとても嬉しいらしかった。なに? 嬉しい?
意外ですね、ジェームズ・ボンドが人間だなんて。スーパーなんて生まれてこのかた行ったことない類の人かと思ってました。……いや、これでもいいけど、ちょっと意地悪過ぎだろう。類の「人」って言っちゃってるし。嬉しいと思ってる人間が言うことじゃない。もっと、こう、あるはずだ。ああ、動機がしてきた。僕、僕は嬉しいと思ってるのか、ボンドと距離が近づくことが。なんで動機? いや、わかってるくせに。なにを? だめだ、調子が狂う。
「Q? どうした?」
考えているうちに黙り込んでしまったらしく、今度はボンドがこちらを覗き込んできた。目、すごい青い。
「……すみません、ええと、なんて言おうかなと思って」
僕を覗き込んだボンドの目が可笑しそうに揺れた。
「僕がスーパーに行くのがそんなに意外だったか?」
「えっと、それはそうなんですけど、ちょっと待ってください、僕、こういう時なかなか言葉が……」
「ゆっくり考えろよ。僕は今日は暇だ」
大事なことなのにどうして身体がついていかないんだろう。電車酔いした時みたいに頭がぼーっとする。身体が熱い。
「……………やっぱりなんでもありません」
「ちょっと待て、頑張れ。なにが言いたかったんだ」
僕は深呼吸をした。
「……………割れちゃったんです、マグカップ」
「……そうか。残念だったな」
もう一回、深呼吸。
「はい。この前、あなたのナビをしてる時に。迎えのヘリに乗って銃撃を受けて、あなた通信吹っ飛ばしたでしょう」
「雲行きが怪しくなってきた」
ボンドがおどけたように言った。僕はなんとか口の両端を持ち上げた。
「それで、……それで、びっくりしちゃって、机から落としちゃって。通信を復活させようとして、ちょっと躍起になったんです。すぐ戻ったから良かったけど」
青い双眼がぱちぱちと瞬きをした。なんで、なんで僕はマグカップが割れた経緯をこんなに緊張しながら話しているんだ?
「……びっくりしたのか、君が」
「………はい」
ああ、ばれてる、たぶん。なにを? だって、僕が銃声に慣れていることなんて彼は知っているのだ。スピーカーの向こうからさんざん流れてくるし、その音の発生源はほとんどこの男だ。備品のチェックリストに「マグカップ」を加えなければ。だってボンドが壊したのと同じことだ。
「………あの」
「うん」
ボンドは僕のデスクからぴょんと降りて、こちらに向き直った。
「………ちゃんと検診行きました?」
「ああ、さっき行ってきた」
「悪いところは?」
「特にない。無事だったよ。君から見ても無事なはずだ。本当だ、ピンピンしてるよ」
エージェントの言う無事は信用できません、というフレーズは僕の喉から出る前にボンドの声に押し込められて、僕は意味もなくゆっくりと頷くことしかできなかった。
「……そうですか」
ボンドはおもしろいものでも見るような目で僕を見ていた。僕は今日3回目の深呼吸をした。なんのために? なにを言うために?
「………………よかったです」
笑っていたボンドの顔がほんの一瞬固まって、彼はもう一度目をぱちぱちと瞬かせた。このひと、まつ毛まで金色なんだ。僕も何回か瞬きをした。よかったです? なんで? なにが?
「……Q」
「……はい」
「もう一回言ってくれるか」
「…………ちょっと待ってくださいね、呼吸を整えます」
「ああ」
「……………あなたが、」
「ああ」
「無事で、……」
ボンドは瞬きをしなかった。じっとこちらを見つめていた。口元がなんとなく緩んでいる。一方僕は、自分が言ったこと、いや、言おうとしていることに大層驚いていた。無事で……何? よかったです、みたいな? 無事でよかったです? えっ? 僕は今日何回深呼吸をしてるんだろう。いや、でも、しかし。驚いたことに、どうやら僕はそう思っているらしい。大きな怪我をしないでよかった。無事で良かった。ボンドが無事に帰ってきてくれて、そのうえ僕のマグカップが割れたことに気づいていた。僕はそれを嬉しいと、ほんとうに嬉しいと、そう思っているらしいのだ。というか、あれ? ずっとそう思っていた。発信機の行方を思い出したときに、かなり自然に考えていた。通信が切れて肝が冷えた、できればもう二度とあんな思いはしたくない。だって、それで取り乱してマグカップを割っちゃったんだから。だめだ、もう彼がどんな顔をしてるかなんて見る余裕がない。
顔がものすごく熱い。なにこれ?
「Q?」
「……無事で良かったです、ボンド。おかえりなさい」
「…………ただいま、Q」
なんで僕らはさっきと同じやり取りをしているんだろう。ボンドも同じことを考えていたのか目尻を下げていた。ああ、暑い。
***
その翌週、出勤したらデスクの上に小さめの箱が二つ置いてあった。首を傾げていた僕に早出していた課員が声をかけた。今朝早く、ボンドが任務に出る前に置いていったそうだ。めちゃくちゃ嫌な予感がする。嫌っていうか、嫌じゃないんだけど、なに、期待? ……期待? ……ええ? あぁ、また動悸だ。
箱は片方が緑色、もう片方は青かった。白いリボンが巻いてある。おそるおそる開けたら、緑色のほうは「J」、青いほうは「Q」だった。なにって、アルファベットがだ。マグの。Qの字の右下には10、Jには8。僕の方が2つ大きい。オフホワイトの、大きめのマグカップ。
僕はもう半ば震えながらため息をついて、2つのマグカップで左右の頬を挟んだ。自分が今バカみたいなことをしているのはわかってる。冷たくて気持ちいい。すると、Jのマグカップの底に張り付いていた紙がはらりと落ちる。画用紙のような厚い紙のメッセージカードだった。僕は初めてボンドの手書きの文字を見た。
「君のと一緒に置いておいてくれ。知っての通り僕はコーヒー党だ。今度豆を買いに行こう。 J 」
Q課に入り浸る気なんだろうか。入り浸って、この前みたいな無駄話をするつもりなんだろうか。僕と。一体どういうつもりなんだ? それで、なんで僕はこんなに嬉しいんだ? なんなの? ああ、顔が熱い。